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August 2001 Jun'ya Hirato 9342
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Sorry, Japanese only. 3MB. 写真多数あり。 <ツアーが企画されるまで> <社会運動の現場> <旅の準備> <バンコクへ(7月30日)> <到着> <ウボン=ラチャタニへ(7月31日)> <太鼓づくりコミュニティ訪問> <lab-lae community> <メコン川へ> <パクムンダムへ(8月1日)> <シュリントンダムの底に沈んだ村> <恐怖(?)のRachatani Asoke(8月2日)> <グッチュムへ> <地域通貨ロールプレイ(8月3日)> <薬草園> <ビアグッチュム、ある村びとの本音> <カルチュラル=ナイト(文化交流)> <有機農業、複合農業の実際(8月4日)> <沈みそうなムン川水上レストランにて> <タイの「市民社会」とは?(8月5日)> <バンコク夜の中華街、そしてナイトマーケット> <プログラム終了、そしてバンコク観光(8月6日)> <成田に関門あり(8月7日)> <後日談(マンペンライの地、またはクルンテープその後)> <ツアーが企画されるまで> 桜が散ってしばらくした頃だっただろうか。M藤さんがウォルデン=ベロー(M藤の運動仲間)から第三世界では珍しく地域通貨の取り組みをしているタイのビア=グッチュムを紹介する論文をもらっていて、そこを訪ねるツアーをPP研でやろうと会議で提案がなされた。早速現地で受け入れてくれるかメールするが、応答なし。しかも、新コーディネーターへの移行が想像以上に大変で、それどころではなかった。 ツアーの話しは流れて終わりと思っていた矢先、ラオ=キンチ(M藤の運動仲間)らがツアーを企画しており、その中にビア=グッチュムも含まれるとの情報を入手。これに便乗させてもらう形でツアーを組もうと決意。しかし、時すでに遅く、急いで案内ビラを刷るも申し込み締めきりまで1週間もない有り様。ツアーとしては成り立たないが、とりあえず視察旅行との名目で行くことになった。[目次へ戻る] <社会運動の現場> 案内ビラの題は、「エクスポジャー<社会運動の現場を歩く>タイ・地域通貨への取り組み」というもの。締めきり間もないこのビラを戦後研で配っていると、早速M井くんが反応した。「社会運動の現場っていうとすぐ海外なんだから。日本に、目の前に現場はないのか」と。これには全く深く同意するとこなんだな。「ピースボートに乗るな」が合言葉で、足元からの思考と行動をモットーにしてきた。すぐ世界と連帯してパレスチナへ行ってしまうのは全共闘世代で終わりにして欲しいし、教科書問題を旧「大東亜共栄圏」まで行って植民地支配のその後をこの目で見ないと語れないという切迫感があるのは辻元清美世代までだ。 もっともM藤さんのいいところは、勝手に世界へ宇宙へ思考が飛んでいってしまうところで、だからこそ他の人には見えない視点を持てるのだ。世界中に知り合いがいることによるネットワークは本当にすごい。もちろん日本政治のことを語ると隣のおっさんでも言いそうなことばかりなのは遺憾なんだが。 たしかに「現場」っておもしろい。震災後の神戸という現場を持つ私もこれは痛いほど分かる。しかし、現場で分かった気にならないこと、現場の高揚感は決して他者には伝わらないこと、現場を見たことを特権化しないこと。これらを必要以上に警戒することが求められる。PP研のいわゆる「事務局メンバー」で唯一地に足がついたまともな判断をできるのが、自分の背丈以上のことを絶対にしないA野さん(戦後研主宰者でもある)であることを思いおこしながら。[目次へ戻る] <旅の準備> ま、かように直前までツアーが行われるかも分からない状態だったため、準備らしい準備も全くできないままだった。とりあえず、ほとんど時間がないまま、ツアー募集前に紹介文を雑誌で紹介すべく翻訳する。いい機会なので翻訳させてもらったが、時間がなくかなりいいけげんなものに。M藤さんがもらってる文書は二つあり、一つはWatershed(工事中でコンテンツなし)にのったCUSOタイのジェフ=パウエルのもの(ここに引用されてるようだがサーバーダウンでつながらず)、もう一つは今回のツアーのお世話をずっとしてくれたワンロップさんの書いたThe facts of Bia Kud Chum。前者をメインに後者で重複していない部分を組み込んだ形にし、全く時間がない中、翻訳家のK地さんに直していただき、雑誌ではこのように紹介した。 さて、タイのガイドブックでも買うか。ちょうどPP研を辞めてやっと一息ついたところで、半年間本も新聞も読めない生活で鈍った感覚を取り戻すため、福田和也『ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法』(PHP研究所)なんてのが平積みになってたんで読む。お手軽本のようだが、彼が長年かけてあみ出した独自の勉強法が書かれていて結構参考になる。その中で、フランスのガリマールとイギリスのドーリング=キンダースレーのガイドブックは素晴らしく、日本のガイドブックのように買い物情報ばかりのっているんではなく、その地の文化や歴史、その地について書かれた文学作品などが多くのっているので、いつも海外に行く前に読む、と紹介されていた。そこで早速アマゾンでタイのものを検索。ガリマールは日本語で数年前に翻訳が出ていて、最後の在庫を買うことができ、D&Kも同時購入した。 ガリマールにはタイについての参考文献が3ページにわたってたくさんのっており、会議のおりS川さんにおすすめのものを選んでもらう。すると「岩波新書から出ている末廣さんのものが便利でいいんじゃない、タイって他のアジアの国とは違うんだなあってことがよく分かるよ」とのこと。他に、今村仁司の『タイで考える』という本も興味があったんで、前者を購入、後者を図書館で借りる。ところが読む暇もなく、当日に。で、飛行機の中で読むはめに陥るのであった。[目次へ戻る] <バンコクへ(7月30日)> 自宅からYCAT(横浜シティエアターミナル)までタクシーに乗ったんだが、「どこ行くの」ってな感じで運転手さんと会話がはずみ、タイの貧しい農村が自立しようとしてるとこを見に行くとかなんとか言っていると、運転手氏しんみりとして、「日本の自給率こんなんでいいのか、自給できない日本の未来は」などと農村出身の乗客との会話を持ち出しつつ語り出す。若いうちにはしっかりそういうのを見て、自分(運転手)のように先走って後悔するような人生送らないようにしてね、と言われてしまう。ちょうど参院選の翌日だったから規制緩和も話題になったが、タクシーは規制緩和で大変だと。このタクシー、横浜では珍しく(関西では普通)黒塗りなんで理由を聞いてみると、バブル崩壊でハイヤー需要が減り、葬式や公的行事でもタクシーが使われるようになり、黒塗りの方が需要多いとのこと。ただし汚れが目立ち、毎日の洗車が15分から1時間になって大変だとか。う〜ん、個人的には黄色やオレンジのタクシーが好きなんだが。 さて、とりあえず成田に着いたが、昨日蚊取り線香の必要性を言われたし、外務省の海外安全情報でも蚊を媒体にする病気が多いと警告されてるので、売店で蚊取り線香を買う。しかし、電池式のベープなんかも売ってるんだねえ、今は。ま、いずれにしろ外務省のページは概略をつかむには都合がいい。日本のODAも分かるし。 全体の旅費を軽減させるため、私だけはM藤さんのマイレージ無料券(ユナイテッド)で行くことになっており、現地集合。やはり一人なのは気楽。とはいえ、今まで欧米しか行ったことがなく、若干の不安もある。蚊は嫌いよ。 やはりバンコク行き(シアトル発成田経由)だとジャンボ機じゃないから室内も横幅が広すぎなくていいし(広いと奥の座席じゃ出るの大変)、ボーイング777と新しいんで全席にテレビもついてるし(通過経路を常にチェックできる)、なかなか快適じゃないですか。コーヒーはスターバックス。しかしこれがスターバックスかあ? 飛行機の中のスターバックスは薄くて香りのないただのコーヒー。乗務員には日本人もいて、機内放送は英語/日本語/タイ語。「サワディー」これだけですな、聞き取れたタイ語は。。。機内ではせっせと読書。おお、今沖縄上空を通っているよ。去年の夏は「民衆の安全保障」沖縄国際フォーラムに来てたなあ。1年は長いというか短いというか。。。[目次へ戻る] <到着> 飛行時間は6時間弱。時差は2時間しかなく、結構近い。さあ、着いた着いた。バンコクじゃ。タラップへ出ると、、、う〜ん、全く日本とおんなじ。これがアジアだよなあ。いや、沖縄では飛行機から出た瞬間、南国のムッとした香りが広がってきたんだが、こりゃ日本と地続きのような違和感がない感覚。海外来た気がしない。着いたのが夜9時だったのもあるが(関西来た方が違和感あるわ。エスカレーター乗り方の左右逆転や関西弁およびそのノリという点で)。とりあえずターミナルまでバスで行くが、バスは空港ならどこにでもある平べったいやつ。ネオプラン(オランダ)のバスだ。乗ってつり革つまかったはいいが、ビショビショにぬれてる。手すりも同じ。車内はガンガン冷房つけてて温度差で車内がビショビショなのよ。しかもつり革が固定されてなくて、揺れるたびに滑っていってしまう。う〜む。バス降りた途端メガネが曇って何も見えなくなったのは言うまでもない。なお、この地でも着いた途端に携帯をいじり出すのは同じ(かえって日本だとバイブにしてるから最近は目立たないのかもしれない)。だいたい機内で読んだ本でも1992年5月運動は「携帯電話をもった群衆」がやったとマスコミに取り上げられたって書いてあったし。これは日本よりかなり早い。日本では95年1月の阪神大震災時にはあんまり普及してなくて、関西でじわじわ普及しだし、97年頃ブレイクしたんだよね、たしか。92年なんて言ったら自動車電話という言葉しかなかったはず。やくざのベンツSクラスには必ず自動車電話のアンテナがついててそれがステータスで、偽の自動車電話アンテナつけるなんて行為もあった時代だ(懐かしい)。 機内でもらって書き込んでおいた入国審査票とパスポートを出し、税関はnothing to declareでスムーズに入国。変なタクシー業者につかまらないようとこないだまでバンコクに行ってたHひさんに聞いた通り、空港ロビー内にあるリムジンタクシーカウンターでタクシーを手配し、宿泊先へ。ロビーには二つタクシー業者があったようだが、手前にあるやつにした。料金は320バーツということで前払い。しばらく待っていると案内され、ついていくと何とメルセデスのミディアムクラス(1代前のW124)じゃないの。天井に「TAXI-METER」ってついてないけどいいのかな。あ、でもナンバー緑だからオッケーだ。これが高級タクシーで、ほとんどがトヨタカローラ(ニッサンのサニー「現地名マイクラ」もあり)の「TAXI-METER」車でナンバーが黄色。乗ってびっくり。右ハンドルなんですねえ。もちろんMT(メルセデスやBMWの右ハンドルMT車買うにはタイで買うのかいいかもしれん)。そっけないダイムラーの4気筒エンジンをガンガン回して突っ走るタクシー。空港目の前の広い通りにはソニーの大きな看板が。空港からバンコクまでは車で30分以上かかるんだが、宿泊場所は空港に近い。しかし、あちこちにハンプがある。ハンプというのは道に出っ張りをつけて、スピードを落とさせるしかけ。スピードを落とさないで通ると車がガッタンと大きくはねるんで手前で止まる寸前というくらいまでスピード落とさないといけない。こんなのは、歩車道分離を徹底させる先進国にあるもので、日本にもほとんどないのに、タイにはあるのかあ(ハンプの謎、最終日に解明)。途中から狭くて暗い道に入るが、そこには「らしい」屋台が出ている。 そうこうするうちに、宿泊先であるWe-Trainのゲストハウスに着いた。別名SASAKAWA HOUSEと呼ばれているらしく、玄関入ってすぐ左に懐かしい笹川良一の肖像画が飾ってある。さすがいろんな所に金出してますな。ここはエイズ患者や女性や子どものための駆け込み寺的な施設もやっているようで、宿泊施設もやっているということですな。フロントに聞いたらまだ仲間は帰ってきてなくて、1時間以上待たされるようだ。このツアー、中国のPCD(Pertnerships for community development)が主にやっていて、そのグループは前半日程を終了して今日のお昼からすでにタイでレクチャーを受けているし、日本組も何時間か先に来ていてチャオプラヤー川の水上レストランで行われてるWelcome dinnerに行っているのだ。とりあえず部屋に入ってみると、ちゃんとしたツインルームで、シャワーとトイレがついていて、トイレットペーパーもあるが、紙は流さずゴミ箱へと書いてある。お湯も出るし、クーラーも扇風機もある。もう閉まっていたが、1階にはインターネットルームもあるし、ワット=ポーの資格を持つ人によるタイ式マッサージルームもある。 とりあえずロビーに置いてある現地の英字紙バンコクポストを眺める。なじみのないニュースばかり。一応小泉さんの勝利はのってるな。おっ、日本語もニューズレターもあるな。IT関連を主としたビジネス情報だな。ニッポンのサラリーマンがんばってますな、あんまし現地の環境を破壊しないでね。といっても私が使ってるパソコンのACアダプターもタイ製だが。ゲストブックもあって、「『地球の歩き方』見て来たけど安くてすごくいい」なんて日本語のメッセージものっている。ロビーのソファーにはニホンネコが寝ており、ドアは開けっ放しだが、蚊は少なく、いても小さい。外ではスズムシがリンリン鳴っていて、涼しい夏の夜という感じですな。 おおっ、みんな帰ってきた帰ってきた。大勢元気のいいのが。広東語が飛び交う。中国や香港からきた30人ほどと日本人3人とやっと合流。もう遅いので、ルームメイトである神戸出身の日本人学生と部屋に入る。聞くと、タイ料理がおいしかったし、川を1周する動くレストランでなかなか良かったとのこと。いいな〜。しかし私の予測通り、早速日本人御一行様におかれましては成田で中規模のトラブルが発生しており(笑)、「巻き込まれなくて良かった」とも思う。資料がたくさん入った袋と名札をもらって部屋に戻る。[目次へ戻る] <ウボン=ラチャタニへ(7月31日)> 早朝に宿を出て、空港から東北部(イサン)のウボン=ラチャタニへ。朝食は機内食。着くと立派な二階建てバスにて早速移動。
まず最初は、Human Settlement Foundation(HSF.)を訪問。だだっ広い平原の中にポツンとある葉っぱでふかれた屋根の下の集会場に行くと、ここでもまた朝食が振る舞われる。二度目の朝食をとりつつお話を聞く。
ここはコミュニティの寄り合い場のようなもので、14のコミュニティの話し合いに使われるという。皆で集まって自らの状況をしっかり把握したうえで歌にして表現、それを「貧者」間で共有する。そして政策を学び、自己決定に基づいて、スラムに予算をつけさせるべく政府と闘う。住民と政府とNGOを結ぶ役割を果たしている。また、ここはゴミ集積所にもなっている。ゴミを集めてリサイクルすることで生計をたてている人が多いが、「ゴミ集め」も仕事としてプライドが持てるようにすること、そのためにゴミの引き取り額も上げるよう運動しているという。「社会的評価なし」→「収益も低い」という循環を断ち切るのだ! しかし、global southというけれどホントで、ロサンゼルスだろうが東京だろうがウボンだろうが、「貧民」は皆ゴミ集めをしているのだ。どこにも「南」はある。
一方、政府は開発プロジェクトでこのあたりに大きなデパート(カルフール?)をつくる計画をたてていて、こうした土地開発に反対している。 HSF.は1983年にスラムの貧困や公衆衛生などの問題に取り組むためにできたグループが発展したもので、1988年に設立され、今はバンコクの橋の下に住む人たち向けとウボン=ラチャタニのコミュニティ向けの2つのプロジェクトをかかえているそうな。[目次へ戻る] <太鼓づくりコミュニティ訪問> ここでいくつかの班に分かれ、HSF.がウボンで関わっているいくつかのコミュニティを実際の訪問することになる。屋台やゴミ集めなど皆インフォーマル=セクターで労働している人たちだ。われわれは、太鼓づくりをしているコミュニティを訪問した。
村長と最初のオーガナイザーの一人が主に話しをして、周りを若者が取り囲んだ。ここは人口335人の村で、伝統的に太鼓づくりをしていたが、皆まちに出てしまってなくなっていたのを、再建したという。ゴミ集めのリサイクルで収入を得て木を買い、それで太鼓をつくるという形で行われている。このあたりも政府のプロジェクト対象で、水供給公社の施設がすぐそばにあり、政府が強制退去させて団地に移住させようとしたという。もともとこの土地も王の所有物であって、村人の土地と定まっているわけでもなく、不安定な身分だ。そこでコミュニティが結束して(ここでは太鼓づくりを架け橋として)立ち向かっているという。高層住宅の団地では老人を始めとする弱者にとって住みにくいし、生活様式も変更せざるをえない。今までのように家畜を飼えないし、酒を飲んで楽しむ生活もできない。それに土を接していたい。木で火をおこせないし、いかの加工ができず仕事もなくなる。香港の人が「香港ではエレベーターがあるしガスを使う」と言うも、ここには適用できない話しである。しかし、これって神戸の復興公営住宅とそっくりだねえ。下町の長家に住んでたのが高層の住宅に移って、生活スタイルが違ってしまって困惑するという。
話しを聞いていると時々、戦闘機がゴーーッと上空を通る。ウボンはベトナム戦争時にたくさんここから飛び立ったという米軍基地があったところだと思い出す。 土地の契約関係だが、一旦土地の賃契約をすると、切れた時に自分で地代を払う必要がでてくるし、契約ないのに政府が住民を追い出す場合は政府が別の土地を探す必要が出る(契約してたら契約期限切れということで無条件で追い払われる)とのことで、契約はしていないという。また、1997年の新憲法で居住権も保障される方向なので、さらにスラムコミュニティのネットワークをつくってがんばっているという。また、特徴的なのが村全体が親戚関係であること。そして貯蓄グループを作ってお金をためて、村で仕事をする際の資本としているという。
最後に後ろの方にいた若者たちに質問する。「例えばあなたがたが香港に行けるとしたら行きたいか?」 村のお偉いさんはやけにこのコミュニティにこだわっているが、若者はバンコクへ、そして海外へ出たいのではないか、というのは、もっともな疑問である。始めのうちは「この暮らしが好き」と言っていた彼らだが、案の定、皆行きたいのだという。だが実際はお金がないから行けないのだった。
車へ戻る途中、村びとが自分たちでつくったというコンクリートの道を歩きながら会話。途中に一つだけ西洋風の豪華な家を発見。なんでもいかの加工で儲けて、貯蓄グループでせっせと貯蓄して建てたんだそうで、村の中でも「成功者」なんんだとか。
しばらく歩くと村びとが「ここまでがわれわれのつくった道でここからはミヤサワの道路」と言う。宮澤時代のODAですか。井戸もあって女性が洗濯をしているが、これもミヤサワ。う〜ん、ここでミヤサワを聞くとは思わなかった。[目次へ戻る] <lab-lae community> 車で次のコミュニティへ。ここでお昼を食べながら、現地の子どもたちの踊りを見る。タイ米ってこんなにおいしいの。数年前の米不足でタイ米輸入した時、あれはひどくて食べられないと思ったが、言われていた通り、タイ式に食べると本当においしい。いろいろおかずをかけて食べるんだが、食がどんどんすすんでしまう。果物も豊富だし。ステージの上で10歳以下と思われる子どもたちが音楽に合わせて踊る。男の子も女の子もスカートみたいなのをはいて、お化粧している。笑みも動きもいい。それに皆かわいい。ステージの横には大木があり、赤黄緑のひもがかけられている。坊さんの袈裟の役割を果たしていて、これがかけられている木は切れないのだそう。 ここでもコミュニティのお偉いさんのお話。森だったところに1962年に3組が越してきてコミュニティがつくられ、ミヤサワ、世銀、IMFなどいろんなお金が入り、保育園をつくり……といった具合。このあたりはどこもインドシナに開かれていたので、貿易狙いなどでいろいろ目を付けられていたため、外から金が入りやすいらしい。
[目次へ戻る] <メコン川へ> 朝5時にバンコクの宿泊先を出たのだから、ずいぶん1日が長く感じる。これでやっと今日の移動は終わり。宿泊先に向かう。すると突然大きな川が。これが東南アジア最大の川、メコン川である。対岸はラオス。
宿泊先は川まですぐのAraya Resort。コテージ風の建物が丘に並んでいてなかなかおしゃれ。荷物を置いてから、メコン川の水上レストランへ。誕生日の人にケーキが準備され、お返しに(?)彼女(ビッキー)はゴリラの小ばなしとパフォーマンス(「ロムソムソム、ロムソムソム」と胸をたたき「キィー、キィー」を辺りを見回す)。 夕食後にパクムンダムのビデオを見る。このビデオはPP研が購入してる(英語)し、このダムは無駄な開発として有名で結構取りあげられているようだが、調べるのは後にして、とりあえずその場の報告。水力発電ダムとして建設したが、設計ミスで本来の発電能力を発揮できず、魚がいなくなって、反対運動がおきた。補償金払うことを政府に約束させるが、実行されず、再度抗議。東北部全部、開発被害者全てが抗議し、ダムへの座り込みをしたりバンコクへ行ったりした。ここには有名なthe Assembly of the Poorも関わってくる。ダムには魚が通るはしご状の通路があるが、そこを遡上できない。反対運動は10年以上続いており、ダムの前に新しい村をつくって拠点としている。ついこないだ政権が変わって水門が開けられた。このダムを明日見に行くのである。もうあたりは暗い。早く帰って寝よ。しかし丘の一番上のコテージだったためかシャワーからは水しか出なかった。。。[目次へ戻る] <パクムンダムへ(8月1日)> 朝の5時半、宿泊先からすぐのメコン川よりエンジン付きの小さなボートでパクムンダムへ向かって出発。乗る際に、全員の分はないんで泳げない人だけライフジャケットをつけてくれ、と言われるが、多くの人はつけない。しかし、なぜか日本人は皆つけていて、死んでもしらんよと脅迫されて私もつけることとなった。こういうところがニッポン人なんだろうなあ。 川を上っていくと、川が分かれている。右に進路をとり、パクムンダムのあるムン川へ。つくりかけで途中までしかかかっていない立派なコンクリートの橋があるが、ダムができてそこが橋としても使われているので必要なくなり、工事途中でやめたままだとか。これも無駄な援助の一つか。軽快にボートは進むが、どうも足元を見ると、かなり水が下にたまってきているんだなあ、これが。小さいボートってこんなもんかしら、と思っていたら、突然隣のボートと急接近して止まった。実はこのボート、重過ぎるんであっちへ移って欲しい、と。川のまん中で移るのも怖いが、何人かが移る。
途中で、いきなり川岸にゴツン、ガガッーとぶつかってボートが止まった。何でもここで降りて、漁師の話しを聞くんだという。朝ボートに積み込んだ飲み物と焼きおにぎりを持って林の中を行く。早速庭先というか縁側というかゴザをひいた家の前で主人を囲む。飲み物は一人分ずつ小さな透明のビニール袋に入れられた暖っかいコーヒーかミロで、口がゴムできっちり縛られている。ここでは屋台でもこんなんに入れて飲み物売ってるのか普通だよ、と誰かが言う。タイ米の焼きおにぎりもおいしいね。軽食をとりながら話しを聞く。
このあたり一帯は国立公園に指定されてしまい、新しく家も建てられず、農地も拡大できず、住んでいる人が追い出されようとしていて困っている。そこで組織化して交渉し、最終的に土地の所有権保障と国立公園法廃止を目指しているという。
再びボートに戻り、さらに進むとついに見えてきた。あれがパクムンダむだ。ほら、水門が今は開いてるでしょ。つい4ヶ月前、政権が変わって開いたんだよ。調査のためだから2ヶ月後にはまた閉められるんだけど。ボートは水門をくぐり抜け、ぐるりと旋回した。心無しか、皆うれしそうだった。近くの岸に着けて降りる。上にあがったすぐの所にゴミ捨て場みたいなのがあった。土台の上に炭になったカスみたいなのが転がってる。なんとここはダム反対派のキャンプ地だったが、1年前に焼かれたんだという。
古びた小さな家が立ち並ぶ一角を通り過ぎると、急に視界が開け、広場のような場所に出た。ここが目指していた村(Mae Mun village)らしい。集会所には大勢の人が集まり、われわれを大歓迎で迎えてくれる。すすめられて上にあがらせていただく。すると次々に朝食が運ばれてきて、到底食べられない量が目の前に置かれる。朝からこんなに食べるの? ここでも村の人の話しが始まる。肥沃な土地だったのにダム建設で追われ、代替地は肥沃でなく、子どもはバンコクに出稼ぎに行かねばならぬ状況。商業用でなく自家用の食糧さえまかなえない。建設前は、魚がたくさんとれると言われ、サインしてしまった。やや、何やら歌い出した。プロテストソングだそう。さらに、周りを取り囲んでいる人が紹介されるが、皆もともとここに住んでいた人ではなく、ダム反対のためにここに集まってきた人たちだということで、しかもパクムンダムだけでなく、スリントンダムなど他のダム反対の人も来ているのだ。中年以上の女性が多いが、ここは反対のための臨時の村なので、うなずける。
朝食が終わって、食器を片付けようと立ち上がり、人々が移動し始める。と、ガボッと音がして、皆が騒ぎ出した。何かと思えば、木が腐ってて、足をのっけた途端に床が抜けたんですな。上にゴザが敷いてあるから腐ってるかどうか見えないんだけど、本人はさすがに驚いたらしい。まあ、こんなこともあるだよね。その後、班に分かれて、より詳しく話しを聞く。相互交流ということで、中国や日本のダムや農業事情も聞かれた。タイでは中国は共産主義だからダメだという宣伝が強くなされているらしく、中国人の生の話しには興味を持ったようだ。中国で反対運動する場合は、こんなふうにあからさまに反対するのではなく、役人にとりいったりしてうまい具合に話しを持っていくという高等テクニックが必要だと説明していたのは、おもしろかった。日本については、改めてどうなってるのか人に説明するほどの知識を持ち合わせておらず参ってしまった。だいたい農業も政府の保護が複雑でいろいろ変わったし、農協の実態もよく分からないし。ダム反対も、補償金が高く積まれて、別の場所に御殿を建てたかわりに、今までの仕事が続けられなくて金銭感覚もおかしくなって生活がメチャクチャに、ってな話しが多いでしょう。何の補償もないからと闘っているのとはずいぶん違う。最近になって無駄な公共事業に反対するという名目で田中康夫長野県知事の「脱ダム宣言」があったわけだが、タイに参考になるものはあるだろうか?
話しを聞いた後、あたりを散歩する。ダムの敷地への入口は立派で近代的。東京電力と書いてあってもおかしくない。すぐそこの村と対照的だ。また朝と同じ所へ戻ってお昼。麺類もあってなかなか食べやすい。たまに辛いものもあるが、注意してそれを避ければ大丈夫。ただ、赤いから辛そうだというような見方は間違いのもと。辛そうに見えなくてすごく辛いものもある。タイに来る前は、辛いのだめだと大変だと脅されていたけど、全く平気。単なる脅しに過ぎなかった。半日いた村ともお別れでバスに乗り込むが、村びとがバスの前に集まってまたしても拍手でお見送り。ダム反対をするまでは、こうやって自分たちの所に外国から大勢の人が訪れるなんて想像できなかったことで、誇りに思っている、と村びとが言っていたのを思い出した。
通貨危機以降、タイも不況で今や電力は大量に余っているという。だからダムはいらない。それは分かる。でもつくった時はたくさんいると思ってたんだろうねえ。とはいえ、このダムのだめさ加減を指摘するのに皆が使う比喩が、「このダムは小さなデパート1軒分の電力しか発電できないんだ」というもの。それが設計電力の40%? それじゃ仮に100%だったとしてもたいしたことないじゃん。どうもこのへんの説明ってピンと来ない。普通に聞いたら変な話し。設計と違ってたなんてこと強調する意味あるかい? この手の反対運動にはよくある疑問だ。しかし、バンコクまで行進して抗議しに行くというのは、神戸の被災者公的補償を思い起こさせるが、日本の場合たいてい神戸から永田町まで行進していったことにはほとんど意味はなくて、自治体官僚の根回しとかで政策は勝ち取られるというのが真相なんだよね。タイではそんなガッチリした官僚組織もないだろうし、王室や仏教もあって、いろいろと事情は違うんだろうけど。[目次へ戻る] <シュリントンダムの底に沈んだ村> バスはダムの上の橋を通って次なる目的地へ向かう。降りたら、広い湖が広がっている。しかし湖の中に木立が。なんとここは30年前のスリントンダム建設で沈んだ村で、川幅が広がって貯水地のようになってしまったんだという。近くで水田を耕していた村びともいたが、20年たってその水田もユーカリのプランテーションになってしまい、バンコクへ出て皆ゴミ集めをするようになったという。ここで闘争しているのは、昔森に入っていた元共産主義者。
再びバスに乗り込み、舗装されていない道を行く。右手にひょろっとした背の高いうす緑の葉をつけた木々が並んでいる。これが政府の方針ですすめられているユーカリ植林なのだ。なぜユーカリかというと、育つのがとても早いんだという。(ユカーリの写真あるんだが、パソコン壊れて買い替え。SCSI接続のスキャナー使えなくなったんで、もう新たに写真アップはできない。失礼)[目次へ戻る] <恐怖(?)のRachatani Asoke(8月2日)> おっ、雨だ。タイは今雨期だから大変だと覚悟して来たのに、全然雨が降らず、晴れてばかり。どうしたもんかと思っていたけど、やっと降った。バスの移動中でよかったわ。さて、途中でディスカッションと着替えの時間をとるとのことで、止まる。今までの反省点とこれからの希望を班ごとに出す。運営側が参加者の意見を聞いてすぐにそれを改善させようとするという態度には、いつも感心させられる。日本だとそういのはほとんどないけど、なんつーか英語圏では全く違うんだよね。それとこれから行くアソク=コミュニティはノースリーブやショートパンツが禁止なんで、長ズボンやちゃんとしたシャツに着替える。ディスカッションでは、ダム反対の立場からの意見ばかりで、推進側が何を考えているのか分からないとか、話しをするのは村の長老(歳とった男)ばかりなので、女性や若者の意見をもっと聞きたいとか、結構辛らつな意見も出た。 バスの中では早速班ごとのディスカッション報告がなされるが、なぜか途中でストップ。次の訪問地、アソクの説明が始まる。着替えをしたことからも分かるように、今度はなかなかすごいとこなのだ。運営側も心配は尽きないならしい。なんでもここはタイ主流仏教とは一線を画しており、政府からもよく思われていない自給自足指向のコミュニティなんだと。わ〜い。こりゃおもしろそうだ。こういうの好きなのよねー。原始共産制だ。コミューンだ。なんでも学者によっては、これこそ本当の自給自足型コミューンだ、と定義してる人もいるそうで、期待期待。今回のツアーで一番の目玉かもしれん。 訪問するだけの人にも5つの戒律(殺してはならない。かん淫してはならない。盗んではならない。偽証してはならない。酒を飲んではならない)は絶対に守ってもらう(もちろん煙草もダメ)。僧侶は実に227の戒律を守っているそうな。英語のパンフもつくっていて、「われわれのモットーは、戒律を守り、実用的な技術の向上を目指し、知恵ある者であろうとすることだ」と宣言する。学校も開いているが、世界中から生徒を集めており、授業料は無料。教室で学ぶというより、田んぼや精米所や庭など全てが教室で、コミュニティの成員全てが教師でもある。そうして知恵や経験を共有すること、それをBOON NIYOMというそうだ。消費主義に反対しており、つましく生活する。当然菜食。はだしが原則。靴をはくのは望ましくない。 夕方を過ぎ、だんだんあたりが暗くなり始めた頃、バスはアソク=コミュニティに到着した。夜は早く寝るのが習慣なのでうるさくしないようにと注意された。集会所に着くと、丁寧な所作の女性たちが生姜湯のようなものを一人一人に配った。あとで知ったが、これもこのコミュニティで生産しているものの一つ。われわれのお世話をしてくれる人の紹介があり、中に小さな男の子もいる(10歳以下か)。われわれのところはクーラーもなくて暑くて、快適なおもてなしができず申し訳ないが、すみません、なんて言われた後、その子たちが手作りと思われるうちわを配ってくれる。ほほえましい演出だ。外国から来た人たち、特に日本から来た人のことも意識して、夕食には焼そばを用意しました、と。う〜ん、厳しい感じを予想していたが、ずいぶん親切だなあ。自給というが、電気(蛍光灯)もついてるしなあ(電気メーターも日本のと全く同じで中で円盤が回ってる)。完全自給は不可能だけど、例えば日本で原発に反対するなら、東電と線を切りたいと思って、発電機を置くとか、石山修武の世田谷計画的な発想をしてもいいようなものだが、まあダムもいらないほど電力余ってるそうだからよしとするか。 夕食をおいしくいただいた後、食器を洗って片付けるのは当然セルフサービス。まずバケツがあって、そこにカスを捨てて、次に水をためた大きなたらいが5つあり、最初は大ざっぱに汚れを落とすたらい、2つ目は洗剤が入っているたらい、3つ目は洗剤を落とすたらい、4つ目は完全に洗剤のあわもとるたらい、最後は仕上げのたらい。それぞれにたわしがあって、順に洗っていく。これはなかなか水の節約にもなるし、合理的。最後に皿をたてかけてそのまま乾かせる台にのせて終わり。この方式、別の所でも行われていたから、タイではメジャーな洗い方なのかかもしれん。 夕食後、中国側の人たちは打ち合わせがあるというので、日本組は外に出てしばらく散歩。できたらはだしになってください、と言われはだしで外を歩く。すると、向こうから女性が2人歩いてくる。声をかけると、この度尼さんになるという人で、動機を聞く。このコミュニティに来る前は、ある程度豊かな暮らしをしていたが、人にお金を貸しても返してくれず、人を信頼できなくなっていた。けれどこのコミュニティに来たら、そんなことは小さなことで、もっと大事なことがあるということを教えられ、心が落ち着いた、と。それで尼にまでなる決意をしたのだと。なんだかねえ、イサン(東北地方)って貧困というイメージがあるけど、ここはわりと裕福な人たちが来る所だなあ。というか、この手の所ってたいてい学歴が高かったりお金があったりする人が集まるのが普通で、日本だってそうだもんね。
ここで明日の予定の発表。大変ですな、早く寝ないと。女性はホームステイ、男性はまちの学校に泊めていただくことに。若い僧が重い荷物を荷車に載せて運んでくれる。村の中央に唯一そびえ立つ鉄筋の4階だての建物。とはいえ、これもタイ式建築で、1階部分は柱だけで壁はなく、日陰の集会所となっている。部屋があるのは2階からで、間仕切りがないだだっ広い所に案内された。普段は小さな子どもが来る所らしく、ゴミをポイ捨てしちゃいけませんよ、ってな絵が描いてある看板が置いてある。隅に机があって、パソコンも1台あった。ゴザにちょっと綿入れたようなおりたたみのマットレスみたいなの(枕組み込み済み)があって、それを窓辺に並べ、蚊帳を吊って寝る。扇風機もあった。シャワーは4階にあるというので行くと、屋上で真っ暗。何も見えないし、部屋らしき場所もカギがかかってる。隣にいたタイ人のスタッフに聞くと、僧に聞いてくれて、1階の離れにあるシャワールーム(トイレと一緒)に案内される。もちろん水。隣の香港の人は、トイレのおそらく尻を洗う小さいシャワーだと思うんだが、それでシャワーの代わりにしていた。寝ようと毛布をかぶると、さっき荷物を運んでくれた若い僧が本を片手に何か言う。よく聞くと「おやすみなさい」と言っているではないか。ちゃんと日本語対訳会話辞典みたいなのを持ってきて、挨拶してまわるんだねえ。偉いわ。 ハッ、と目が覚めた。腕時計を見た瞬間、3時29分だった。うんっ、大丈夫か、と思って周囲を見ると全員寝ている。う〜ん、と考え込んでいると、カーンカーンカーンと鐘が鳴りはじめた。これがビッグベルだね。よしよし。トイレ行って顔洗ってふとん片付けて蚊帳しまって、ってしてるうちにまたあの若い僧が来て、「おはようございます」で片付け手伝ってくれ、お祈りの場所に案内してくれる。場所はこの建物の1階で、前に長椅子みたいな台があって、そこに僧が並んでおり、信者(というか村民?)は女性は右、男性は左に並んでひざまずいている。時々、頭を地面につけるように礼をする。経を前の僧がよみ、皆あとに続いて一緒によむので口まねする。何だかよく分からないが、とにかく周りのまねするだけ。経は同じ文句のくり返しばかりで、ほどなくして覚えられるほどだった(もう忘れたけど)。ほどなくすると、われわれ外から来たグループは別の場所でお話を聞くということで呼び出され、昨日の集会所に行く。そこには僧が二人おり、そのうちの一人がしゃべり続ける。ちゃんと自前の英語通訳がいるので安心。ここでは、どこの僧でも言いそうな一般的な説教とパンフにも書いてあるような話しで、特筆すべき内容なし。自給すること、セルフビルドの家。あとは、タイでは普通もっと明るい色の衣を身に着けているが、われわれは質素に茶色の衣をつけているとか、肉も食べないで健康的じゃないでしょうと言われるかもしれないが、私の体を見れば分かるようにやせ細ってなどいなくてゆったりしているとか(たしかにちょっと太め)そんな話しが記憶に残っている。 質問タイムも終えると、ジョギングである。と言っても最初は歩く。はだしだからね(と言ってもタイ人スタッフの大半は靴をはいている)。中年の元気のいい男(今にも「青春が全てだ〜」と言いかねないようなタイプ)が先導する。これは食べられる葉だよ、と言ってもいでくれる。途中でちょっと早足。細かい石ころもあるのでそれなりに痛い。ま、これは慣れればたいしたことないんだけど。途中には畑もあって作業している人もいる。この広大な土地は全て寄付によるものだという。寄付する人もいるんだよねえ。パンフに書いてあったんだが、寄付はこのコミュニティで7日以上過ごした人からじゃないと受け取らないだって。ちゃんと理解した人からでないともらわない。それはそれでいいんじゃないの。ずっと進むと視界がひらけて、大きな川が見える。ここでさっきの男が指示して、皆で大声出させたり、皆で組んでやる体操みたいなのをしたりする。 やっと散歩が終わって大きな木のそばでひと休みしていると、トラックがやって来て、これから村びとの活動を見に行くという。一応長椅子もある荷台に乗り込み、精米所へ。精米所は責任者がおらずちゃんと見せてもらえなかったが、ここの米は有機無農薬なので人気が高いという。自給する分はとって、残りを欲しいという人が多いので、外にも売っているという。しかも決して値づけは高くせず、どちらかと言えば安いくらいだ。儲けはいらないし、オウムのパソコンじゃないが、人件費はゼロなんだし(おお、労働価値説崩壊の世よ)。次にシャンプー生産の所。畑でとれたハーブを原料にシャンプーをつくっている。ただ全ての原材料を自給しているわけではなく、外から買っている原料もあるという。容器に詰める作業をしているところだったが、中心になってやっているのは小さな男の子。これは授業の一環だという。他にもハーブの薬をつくっている所、肥料をつくっている所などを見学。ハーブを煮詰めている大鍋を見ていたが、非常に手際よく、すぐにできるものらしい。 やっと戻ってきて、偉い坊さんの説教の前に自由時間。ちょうど村の女性たちが食事に準備をしているので様子を見学。やはり男女分業は結構きちんとあるな。燃料は一つくらいは薪を使う釜もあるが、ほとんどはプロパンガスのコンロだな。やはり自給といっても厳密ではなく、現実性のあるバランスのとれた形でやっている。ただ、食べ物自体は完全自給であろう。つくるのも共同で、各家庭でつくるのではないらしい。柏木博の『家事の政治学』を思い起こさせる共同キッチンである。もっともタイというのは屋台が多くて安いので、外食が多いらしいので、ここだけではないのかもしれないが。柏木が言う、各家庭にキッチンがあってそこで食事をつくるというひな形こそが近代であって、それが近代国民国家の土台となっているとの指摘(だったと思う)は、こういうのを見ると味わい深いものがある。震災での避難所の共同キッチンくらいしか日本の生活では想像力が及ばないのだが。 さて、朝お祈りをやった所で偉い坊さんの説教が始まる。おお、肌にもつやがありますな。いかにもという感じのなまぐさ坊主というほどではないけれど、一応大物らしい堂々としたところがある。中央の台の上に立派な椅子があり、マイクがたてられている。これがPAで流れる。なんとスピーカーはJBL。ビデオカメラもあって、遠くの人にも坊さんの表情がよく見えるよう、JVCのテレビに大きく映される。まずはこのコミュニティの5つの戒律の説明があり、またかいなという感じで聞いている(これも当然自前の英語通訳が訳してくれている)。で、なんでもここは共産主義と民主主義の良いところだけを取り入れているとかいう、いかにものインチキくさい説明だが、まあ誤解があっても分かりやすく説明するにはそれがいいのかもしれない。英語の通訳がうまく訳しきれなかったり途中で忘れたりすると、この坊さんは英語が分かるのか、ニヤニヤと笑って通訳に何やら話しかける。と、坊さんに向かって携帯電話を持った男がツカツカと近付いてきた。今は説教中よ、と断ると思いきや、坊さん、みんなが見守る目の前で姿勢も変えずにベラベラ携帯でしゃべり始めた。それがなかなか終わらず、呆然。早速このコミュニティの人はどんな表情しているかチェックするが、たいして驚いた様子もなく、静かに待っているという感じ。子どもは飽き飽きしている子もいたが。そしてテレビ画面を見てみたら、なんとそれは坊さんだけを映しているのではなく、客席にもパーンしてあちこちを映している。ずっと後ろにあるソファーでわれわれのグループから来た何人かがすっかりくつろいで居眠りしているのも映っているではないか。こりゃ大笑いだ。こういう現実に含めて、この説教かもしれん。しかし、まだ終わらんのか。もう15分はたったぞ。ああ、やっと終わった。なになに。今日はなんかの会合があって、その相談だという(もう忘れたけど、ここの事業と関係あるものだった)。ああ、もう昼食の時間とっくに過ぎてるのに。周りじゃ女性たちが暖かい食事を準備して待ってるよ。だいたい昨日の夕食からまだ何も食べてないんだから。でも、話しは続く。とにかくここのmerit systemというのが素晴らしいんだと。自由市場に任せるなんてことをしてはだめなんだと。う〜ん、まあ言うことは分かる。はいはい。男女の役割分業みたいなことを質問してた人もいたが、そういう質問に対してはだめ。一般的な答えしか返ってこない。哲学的な話しは全くだめで、実践あるのみという感じの所。実践あるのみだと、もっとみずぼらしい質素過ぎるのが気持ち悪いって感じになるけど、それもなく、ほどほどに腹黒そう。ホント、ちょうどいいバランスだと思うよ。 ああ、やっと昼食。1時過ぎですわ。ここでは1日1食が普通なんで別にちょっと遅れてもどうということはないんでしょう。まあここを見てて安心するのは、宗教施設にありがちな、閉鎖的な空気がなく、信者の顔が輝き過ぎていたり、逆に無表情だったりということもなく、いたって普通であること。こうやって外部の人も受け入れているわけだし、バランスよくやっている。悪くないんじゃないでしょうかね。コミューンとしてはよくできている。日本社会から落伍したら、ここのコミュニティで過ごすことも可能だな。 別れ際には、いつも中国側は、代表者が美しい切り絵をお礼として渡しているのだが、今回も僧に渡そうとする。いつもの若い女性が僧に近寄る。途端、「ブーーーーーーーッ」とブーイング。そう、タイでは女性が僧に触れるのはタブーで、触れられたら今までの修行が無になるのだ。昨日は頭に手を置いていた人が、「タイではそれはタブー」と注意されていたが、頭は神聖だからいじるのはだめなんですな。子どもの頭なでるなんてのもいかんらしいし。しかし、切り絵のプレゼントというのはいいよな。中国らしいものだし、本当にきれいだし、何と言ってもかさばらないから、持ってくのにも便利。日本だったら、小さい巻き物の絵か書なんてのが便利でいいかな。たぶん原宿の外国人向けの大きいショップかなんかで売ってるんじゃないかな。これからは行く前にチェックしよう。 出発前に普通の家を見てまわったが、このあたりの農村と比べて少しきれいめの家が多いのはたしか。庭には必ず食べられるものが植わっているね。汚めの家もボロボロとは程遠くて、水準高いわ。バスが出る時には、あの若い僧が別れを惜しむかのように笑顔で見送ってくれる。しかしバスはすぐストップ。この村の製品を売るショップでお買い物時間が設定されてる。ここはこの村の何でも屋で生活用品も普通に売っているが、ハーブ関連の製品が多い。ここで豆乳飲んだけどマルサン豆乳(懐かしい)よりおいしかったよ。[目次へ戻る] <グッチュムへ> バスが出発すると、また雨。運がいいねえ。全然雨に降られないよ。期待したコミューン幻想の興味はある意味、拍子抜けという感じに終わったけれど、ほどよい感じには好感。さあ、次はメインであるはずのグッチュムだ。バスですっかり疲れて半分眠ってしまう。そうこうしているうちに、やけにバスがゆっくり走り、しかも大きく揺れる。おお、これはおそらくグッチュム(Kudchum district)に近付いているのではないか。こんな巨大な二階建てバスが通るような道ではございませんよ。通るのもギリギリで、路肩に落ちないか心配。もちろん舗装されてないから、大きく揺れる。重心高いし倒れないか不安だわ。道ばたの子どももこんなバス見るのは珍しいらしく、驚いたような目つきで見つめている。始めて、「タイの貧しい農村」という感じの道を通ってるなあ。自分で旅行に来たらこんなとこ絶対来ないだろうから、こういうツアーも意味があると言えばある。 自前でつくったのが自慢の精米所(Ban Sok)が見えてくると、どうもアジア人っぽい集団が手をふっている。この地域通貨だけを見るというグループがここで合流するのだ。10人ほどだが、全員アジア各国の違う国から来ている。簡単に紹介した後、早速村長とプロジェクトの代表が来て、概説を始める。このあたりは特に貧しい地域で、比較的恵まれた人が教育を受けて、プログラムに取り組んでいるとのこと。そして協同組合の店をつくるなど、様々な取り組みをしている。一つの地域からいくつものプロジェクトがあちこちに伸びていっている(これも黒板の図があるが、スキャナー使えないので無理よ)。
次に精米所を案内される。精米所の人には、あちこちでグッチュムについて紹介されていろいろ書かれているけど、そこで報告されていることと実際はずいぶん違うよ、といきなり言われてしまう。ここもただの村なんだと。けれど自立しようとした。ところが自立することはこの国では違法なの? 最初の精米所は1000バーツを村びとで集めてつくり成功したので、今度はタイ政府が新しい精米所建設のお金を貸してくれて、10年ローンで返済するという。また、精米所では有機米だけでなく普通の米も精米している。有機米は需要があるのに、供給は一番少ない状態。普通の米を精米した後に有機米を精米する時には、機械を全部洗浄し、しかも最初の一定量は有機米としては出荷しないなど、かなり厳格にやっているそうだ。 地域通貨について詳しくは明日なのだが、中国で地域通貨に詳しいせんせが中国人民軍が発行していた地域通貨の話しなど、長い地域通貨の歴史をしゃべり出す。グッチュムでも利子をつけられるのか、税金なしで大丈夫かなど、いろいろ議論されたらしい。ただ、さきほども言ったように、貯蓄グループ(タイにはこれが多いな、なぜこういうのが必要かもっと調べないとな。農協が金融機関やってるののミニ版みたいな理解でいいのかな?)、村民銀行、学習活動などの他、社会保障基金、HIV、ドラッグ中毒者対策など様々なことをやっているので、地域通貨の詳しいことはこの日にはあまり話されなかった。 バスは待っている間、いつもオーバーヒート対策のため、2つあるエンジンルームを全開にして、時に水をかけてもいる。そんなバスに戻って、またも悪路を行き、途中から大きな舗装路に出る。タイ側のスタッフはこれだけの大きいグループの面倒見るんだから大変だろうが、携帯電話でいつも連絡をとりあっている。今回は、これから行く予定のホテルで手違いにより夕食が準備されてないとのことで、あちこち交渉して二転三転した結果、別のホテルのレストランで食事することとなった。それもすぐには準備されないし、中国側はまたミーティングがあるというので、しばらく日本人グループは時間をつぶす。非常に立派な近代的ホテルで、ショートパンツで入るのがはばかられてしまう。フロントにはロンドン時間を示す時計まであるが、フロントに英語をしゃべれる人はいなかった。ちょっと外に出るが、外国人だとすぐ分かるらしく町の人にじろじろ見られていると、さかんに同行者が主張していた。 ようやく準備ができてレストランに入ると、テーブルごとの個室で、中華のように回転するテーブルがある。VIPルームとか冗談のように書いてあるが、レストラン内部はうるさいのでちょうどいい。人数の関係もあって、タイ側のスタッフと日本人がこの部屋に入った。おいしそうな肉もあって豪華な料理だが、タイ人通訳が深刻な顔をして聞く。肉は大丈夫か、と。宗教的なこともあって、これは非常にセンシティブな問題だと。間髪入れず、こちら側の通訳担当(?)A山曰く、われわれはmeat eaterよ、と。なんか笑ってしまいますな。 やっとホテルに着いたのは、もうすっかり暗くなった頃だった。バスがホテルの敷地に入ろうとするが、タイの電線は低いので、ひっかけそうで不安。結局道ばたに止めた。部屋は3階あたりだったと思うが、非常に重くて巨大なスーツケースを持ってきたルームメイトは、うんうん言っている。エレベーターはないんですな。初日に、高層住宅のエレベーター話しがあったのを思い出したけど、やはりこんな立派な鉄筋でもエレベーターがないのはわりと普通なのかな。[目次へ戻る] <地域通貨ロールプレイ(8月3日)> ホテルの朝食は始めてコンチネンタルブレックファースト(タイ式もある)で、久々に牛乳やパンを口にする。やはりいいね(笑) タイのもおいしいけどさ。 今日はグッチュムでも昨日とは違う村(Ban Santhisuk)に行って、地域通貨のお勉強。CUSOタイのTシャツ着た女性が説明を始める。この村は20年前につくられ、人口160人、大半が農民だ(しかし最近できた村が多いな。ここが急速に発展し変化していっているタイを実感させる。今村仁司の本に80年代のタイはまさに近代への包摂されていく過程にあったと紹介されているが、それを示しているのだろうか)。活動としては、外部からの搾取を減らすための協同組合のお店、自分たちの収入源を得るために主婦グループがある。子どもは30人ほど。平均年収は1万バーツで、米のほか、家畜などから得るものもある。 コミュニティ全体に話しを移すと、グッチュムのナソ地区には11の村があるが、コミュニティ開発事業としては、精米所(87の村が参加)、主婦グループ(織物、シャンプー、豆乳、スナックをつくる)、薬草(15の村が参加)、地域通貨(5の村が参加)、有機米を精米所に売る農民グループ(14の村が参加)があり、それぞれ違った広がりをみせている。
そしてメインのロールプレイの説明へと入る。ラウンド1とラウンド2に分け、1ではバーツのみ、2ではビアとバーツの組み合わせでやる。3人ほどのグループに分け、服屋、野菜農家、米農家、弁当屋、薬草の医者、労働者、織物師、漁師、内職、果物農家、メカニック、商店(ここまでがコミュニティの構成員)、金貸し、アウトサイダー(これらがよそ者)、とそれぞれ役割を与える。それぞれのグループが5つの買い物をしなければならないというのが基本ルールで、各グループによって、現在の所持金や在庫、売りものの値段などが決められていて、それに従う。米農家などは始めからかなりの借金があって、金貸しから借りないと買い物ができない。また、米農家や漁師は商店にしか売れず、直接消費者に売ることはできない。結果を見ると、米農家は借金がふくらみ、コミュニティ全体でのお金も減っている。外部は金貸しもアウトサイダーもお金を増やしており、コミュニティから流出していることが分かる。 次にビアも使うラウンド2だ。ここではビアをビアバンクから無利子で一定額借りられることになっており、値段の設定もビアいくらとバーツいくらの組み合わせでも買えるというものが増えている。また、商店を通さなくても農家から直接買えるようになっている。この結果をみると、米農家の借金は減り、今までまったく客が来なかった薬草の医者が繁盛したりで、ビアも合わせれば、コミュニティのお金は増えたのである。そして外部への流出もほとんどなくなった。実際やってみると、本当の生活現実とは違うと分かっていても、感動してしまう。詳しい結果や分析、また議論内容などは、当日使った表を写真に撮ってあるほか、ノートもとってあるので、知りたい人は問い合わせていただいてもよい(ここで表つくるのはしんどいので)。とは言ましたが、実はこのロールプレイ、ここでも見られますのでどうぞ。 かようにつまらなくだらだらと報告したが、実はこのゲーム、皆すごくのっていて、笑いと興奮の渦だったんですな。参加型のものというのがいかに威力を持っているか、よく分かる。もっとも日本人だけだとしらけることも多いようで、ここはファシリテーターの実力も問われるところなんだが、今回の場合、ゲームも何度もやって改良を重ねたものであるうえに、のりやすい活発な中国人が多かったのも成功した理由だろう。
ロールプレイ終了後、昼食をとるが、まん中の小屋でビアグッチュム紙幣とビアグッチュムTシャツの販売が行われる。Tシャツはすぐに売り切れ(PP研現コーディネーターが購入したので、頼めば着てきてくれるだろう)、紙幣もよく売れていた。こうして稼ぐのも、コミュニティのため。紙幣は私も買ったしPP研も買ったけれど、1,5,10ビア札、20,50ビア札ともにWEB上で鮮明な画像を見られますのでどうぞ。やはりこの絵がいいでしょう。まさに生活の日々を感じさせる風景ですよ。[目次へ戻る] <薬草園> 次は薬草園(Ban Ta-Lad)である。まず薬草園隣の寺院でグッチュムのコミュニティ活動に深く関わっている僧の話しを聞く。この僧は、1990年に福岡正信にインスパイアされてself reliant groupをつくろうとするが、91年には「赤」と見られて弾圧をつけるが、リーダーをつくってNGOとともに対抗した。その後、カナダやオランダからNGOの人が来て、いろいろfacilitateされ、僧は最初乗り気ではなかったが、コミュニティビシネスの必要性も感じ、ビアグッチュムについても紙幣にサインをした(紙幣の左下にサインしてあるのが上記のWEBの写真で分かる)。僧がサインすることで、ビアグッチュムの価値自体も高まったという。 その後、薬草園で説明を受ける。いろいろな薬草を育てていて、実際にタイ政府の機関の認証を正式に受けて薬品として出せるよう研究し製造している。中には、日本の研究者が薬草を持って帰って効能を調査し、日本で特許をとってしまったために、ここが原産で研究していたものなのに、ここで製造できなくなってしまったものもあるという。ここでも、実際に薬を売っており、買った人も多いが、タバコをやめられる薬というのはここでは売ってなくてバンコクに行かねば買えないというので、買い物は控えた(私は吸わないが、やめて欲しい人が周囲に多くいる)。[目次へ戻る] <ビアグッチュム、ある村びとの本音> バスで再び精米所がある場所まで戻る。先のエバリュエーションで、運営側に、お偉方や推進側の話しばかり聞くのでは物足りないと言ったわけだが、早速フィードバックがあり、お偉方を含めてディスカッションするグループと通訳と一緒に村の普通の人の家を訪ねて、直接お話を聞くグループと分かれることになった。もちろん私は後者に参加。 村人直撃班も多いので、一つ目の家からはあふれてしまい、われわれはさらに奥まで行き、タイ人通訳が目をつけた家に入っていく。もうあたりはすっかり暗い。お話聞いてもいいですか、と通訳が交渉し、いいとなると、あがって部屋の外のベランダみたいな所に皆車座に座る。始めは、おばあさんが応対する。4人家族で、おばあさん自身は65歳でだんなは20年前に死んでいる。子どもは5人いるが、皆バラバラになっており、バンコクでタクシー運転手していたり、外国に働きに出ていったりしている。義理の息子が一緒に住んでおり、この家の主な収入源は農業。2エーカーの土地で米をつくっている。また家畜も飼っている。精米所のメンバーになっている。稼ぎ手が一人しかいないので収入は充分ではなく、水も不足しているという。有機農業をしているとのこと。 ここで働き盛りという感じの男が帰ってきた。おばあさんは、引き止めたがさっさと家の中に入ってしまった。何でも見たいテレビがあるんだと。男は逆にこちら側に質問してきた。なぜ発展した国から発展していないところに勉強に来るのかと。中国にも貧しい農村があって、そこを何とかするために学ぶことがあるといった説明を中国の人がする。続いてさっきと同じようなことを聞くが、さっきのおばあさんとは違うことを言う。さっきのおばあさんはよく分かってなくてテキトーなことを言っていたのだろうか。地域活動のメンバーになっているということは一切ないという。それどころかかなり批判的なのだ。そうなれば、やはりここで聞きたいのはビアグッチュムのことである。これが始まった時は興味を持って勉強したが、法律違反だし、意外に使えないので、批判的であり、様々なコミュニティの活動にも距離をとっている。実際にコミュニティの活動をしているのも、村のごく一部の人だと強調し、ビアが使えない理由としては、コミュニティの外のものも買わねばならないのに、そういう場合はビアを使えないし、ビアを使えるものでも、ビアとバーツの組み合わせなので、ちょうどそれを買いたい分だけのバーツがなかったり逆にビアが足りなかったりということがあって、使いにくい。しかも、結局のところ、あれは単なるバーターシステムに過ぎないというのが、積極的に使う気にならない理由だ。今だって隣近所と鳥と米とを交換しているし、10年前などはバーツにも組み込まれていなくて、バーターシステムが普通だった。それと全く同じだから、法律違反だとまで言われてわざわざやる意味は全くない。今はほとんど使われてなくて、30〜50世帯のメンバーの中だけで使われているだけだ。5〜6の村がビアに参加しているが、各村で4〜5世帯が参加しているというごくごく小さなものだというのが現実(この村の人口は選挙権のない子どもも除いて600人だが、実際には外に働きに出ていってしまっていて今いるのは400人)。今取り組んでいるのは、米の生産コストを少しでも下げたいということで、化学肥料の使用をおさえる努力をしているという。早速誰かが、精米所のグループが使っている有機肥料のことを聞いたが、答えて曰く、あそこの肥料は質が悪くてだめだという。 彼自身、コミュニティの活動は注視しているし、よく勉強もしているが、そのうえでこれほど批判的なのだし(精米所があるコミュニティの拠点までは歩いて5分もしない場所に住んでるわけだが)、実際に活動に参加しているのは限られた部分。これは日本でもどこでもそうだけど、実際には一般的な反応ってこんなもんなんだよね。それって当たり前のことだけど、うっかり勘違いしてしまう危険があるよね。こういう村人がマジョリティだということを全く無視してこうした取り組みを見てしまうやり方には、やはり疑問を差しはさんでおきたい。そういう意味で、この訪問はとっても良かった。 ああ、しかしPP研のシンポジウムで私がスタッフだった時に試みた地域通貨PPの説明した時のM井くんの言葉を強く思い出すなあ。PPをやろうと思った理由はいたって単純。地域通貨みたいなオルタナティブってイメージのものが好きな所だけど、口先ばっかの所でもあるから、自分が唯一の専従スタッフの時にさっさと勝手にやっちゃえばいいんだよな、というのが一つ。1PPを当時の雑誌1冊分の600円とし、アワーのように1時間のボランティア労働につき1PPとし、手伝ってくれた人にあげることにした。PP研発行物購入、イベント入場料、および会費と購読料に使える。これを是非ともやるべきだと思う強い動機があって、それはPP研だけじゃないが、この手の運動の血を引くNGOの人の使い方があまりにもひどく、口先で人権人権と言いながら、人権感覚のかけらもないボランティアの使い方をしていることに、何としても対抗したかったというものだ。学生運動通ってそのままここまで来てしまった人はもう時代に殉じちゃってるからどうしようもないけど、新しい時代のチョー無責任ボランティアたる「震災ボランティア」経験者の私がスタッフとしている以上、ボランティアの使い捨ては許さん。去年の沖縄フォーラムで人の使い方のあまりのひどさとそれを指摘されても何とも思わない鈍感さに恐れをなしていたから、どうしてもこの程度はする必要があった。で、たいしたことではないけど、手伝ってもらう人たちも、なるべくここに来たことがプラスになるような働き方をしてもらうよう配置を工夫したし、興味があって欲しかった本や雑誌もお金をけちって今まで買えなかったのを思う存分買ってもらったし、概ね好評だったわけ。ところが、ここからが本題だが、同じく手伝ってくれたM井くんは、それって単なる現物支給でしょ、と一言笑みを浮かべながら言ったんだよね。まさにその通りなんだよ。村人の彼が、それって単なるバーターのことでしょ、と言う。この言葉とすごくオーバーラップして何とも言えぬ気持ちで暗い中、彼の仕草と表情を見つめていたのだった。 なお、帰り際に中をちょっとのぞいたのだが、立派な冷蔵庫が鎮座していて、奥の部屋からはずっとテレビの音と笑い声が聞こえていた。[目次へ戻る] <カルチュラル=ナイト(文化交流)> さて、すっかり真っ暗になった舗装されていない道を戻り、精米所に戻る。夕食後、米の倉庫で村民とともにみんなで出し物をして交流する企画だ。昨日バスの中で知らされて、日本人グループも相談し、滝廉太郎の「花」(春のうららの隅田川、登り下りの舟人が……)を歌うことに。この手のツアーではこういう文化交流は必ずといっていいほどあるらしく、A山さんが、前は「森のくまさん」を振り付きでやったなどといろいろアイディアを出したが、歌詞を覚えていて皆が知っているものじゃないと急にはできないんで、これに決まるまでにもしばらく時間がかかった。でも、小学校とういのはすごいもので、そこでの教育によって全員が共通に知っている曲があるんだねえ、とA山さんは言う。う〜ん、たしかに恐ろしい。そんなもんで「日本人というアイデンティティ」が無意識のうちに形成されるのかもなあ。日の丸君が代もそのラインだよなあ。と感傷にふける間もなく、練習。と、しかしこの歌って混成合唱の曲なのね。知らなかった。声低いんだから、下の方歌ってくれと言われるけど、下の節知らないよ。これ、普通の学校なら絶対やってるから(日本人なら)知ってて当然らしいんだが、私は知らない。だいたいこの歌だって学校で教わって知った曲でもないと思うし。キリスト教系の学校行ってたからさ、賛美歌ばっかで君が代だって、小学校卒業する直前の最後の音楽の授業で、君が代全然知らないんじゃ外に出た時恥ずかしいから一応教えとくわ、って一度教わっただけだもんねえ。最近公立学校も少子化で教育内容がよくなってると思っていたけど、やはり公立学校の教育って強力だなあ。まあ、日本人共通の教養というのが保持されているというのは悪くはないことだと思うけど(昔だったら歌舞伎とかね)、それが公教育の場でやられるべきことなのか、どうなのだろうか。家庭や地域でそれができないのなら、そうした共通の教養なんてのはもう幻想なんだから、さっさと諦めた方がいいのかもしれない。西洋ならやはりキリスト教なり聖書の教養が必要だったりするんだろうが、日本はそういう宗教もないし、夏目漱石は全員読んで共通了解なんてのも崩れだしてるだろうし、それはそれでいいんじゃないかな。 まあ、そんなこんなで、上を歌わせてもらうことにして解決。練習もそこそこに、本番が始まった。まずはタイの踊りから。音楽に合わせて伝統の衣装に身を包んだ中学生くらいの女の子が静かに踊る。途中から男も出てきて、女性に手紙渡す踊りもあり、なかなかのもの。中国系の人たちはもうすごい。事前準備も万端。大きな紙に墨で歌詞を書いてあって、それを皆で大合唱。迫力あり過ぎ。初日のたいこづくりのコミュニティで購入したたいこも使うし。日本の番がきたので、音楽(ピアノと歌)の先生んちの子らしく、思いっきり歌う。実は練習の時に下は知らないとかいろいろ言ってたんで心配されてたらしいんだが、そりゃうちは仕事でやってるんだから、発表会の本番なんてのはどうにでもなるし、素人は派手に歌えば勝ちってのはよく知ってるから大丈夫よ(笑) ということで、無事終え、今度は地域通貨だけ参加の多国籍グループ。これは一つの歌をそれぞれが母語で歌うというなかなか感動的なものだった。 その後、まだ歌い足りない人(?)が次々に出てくる。多国籍グループの中の一人(男)が、皆さんもよく知っている曲ですからご一緒に、タイタニックです、と言って歌い始めた。いやあ、それって自分のとこの文化じゃないじゃん。カラオケ大会じゃないんだからさあ、と思ったけど、案の定誰も一緒に歌わない。彼は一人でセリーヌ=ディオンを歌い続ける。しかし、聞きながら思ったけど、ハリウッド文化は世界に浸透していて、そうしたグローバリゼーションの中に生きているということを実感し認めるという意味では、たしかに極めて文化的な事象だよなあ。 あれだけ歌っても足りない中国人がまた歌い始めるが、がまんできない女性が勝手に歌に合わせて踊りだしてしまう。そしたら、そっちの方が目立っちゃって、肝心の歌ってる本人はすっかり陰の存在に(笑) すごいよね、このおばさんどこでも踊り出しちゃうから。その後、タイの踊りをみんなで一緒に輪になって、盆踊りのように踊る。タイの踊りは、手の平を交互に表に裏に入れ替えながら踊るのが基本らしく、足のステップと合わせるのがやや難しいが、慣れると結構いい感じ。小さい頃に盆踊りフリークだった感覚が戻ってきて、すっかり踊りほうけてしまった。こんなのは本当に久しぶりだなあ。かなり夜も遅いのだが、近所の小さな子も含めて見物客も多い。これはハレの日なのだろうか。[目次へ戻る] <有機農業、複合農業の実際(8月4日)> このへん読んでる人はつらいかもしれない。だって写真が全然ないから。実はこのへんを撮った写真のフィルムをどこかで紛失しちゃったんで1本分ないの。すみません。さて、この日は、有名な複合農業を見に行く。まずは村(Kudhin village)の倉庫前でお話を聞く。有機農業は、政府とNGOと機関と村人の協力によってなし得るもの。動機は何と言ってもコストダウンで、それをどうすれば成し遂げられるかを考えた時、化学肥料を減らすということに行き着いた。倉庫の壁に赤い字でモットーが書いてある。過去に戻り、父の時代を思い起こせ、ということが書いてあるという。「父の時代」には負債をかかえることなく生活ができていた、その頃に戻れ、ということなのだ。ずっと米のみのモノカルチャーできたが、今は牛や鳥など動物も飼い、複合農業に切り替え、負債解消を目指している。 歴史をおさらいするおt、まず始め、40年ほど前に化学肥料の投入がされ出し、もっと収量を増やそうということが化学肥料の増大につながり、それがコストの上昇にもつながっていった、という経過をたどることになる。自然と村人が協調していたはずが、すっかり分断されてしまったのだ。問題解決のために、グループを形成し、意見交換をするようになったという。 では実際の現場を見に行こうということで、いつも通り班に分かれて行動。われわれは歩いていける所にある農家へ行った。
<田んぼの全体図> *等幅フォントでご覧ください。 *点線はあぜ道。 *池は魚もとれるし、乾季の灌漑用にもなる。 | | ------------------------------------------- | | | | | || | | | | | || | | |池(小)| | || | | 犬 | ○ | | || | | 小屋 | 魚 |池(大)| || | |---|-|----| |○ | || | | 鶏 | |魚 | || | | 豚 |池(中)| | || | | 牛 | ○| | || | | | 魚| | || | | | | | || | |-------------------------------------------- | |-------------------------------------------- *幅を広げたあぜ道に以下を植える。 (野菜、バナナ、レモングラス、ジンジャー、 サトウキビ、小屋づくりの材木用と薪用の木) *他にも道という道に何かが植わっていて 食べられるものばかり。 *小屋はセルフビルド。(柱のみ外から買ったコンクリ) *小屋増築中。家畜の世話もいるので住めるように。 *豚9頭、牛2頭、鶏、犬は小屋周辺にいる。 農家の主人は、ビアグッチュムのTシャツを着て出迎える。1997年までは米のみを栽培にしており、その時は年に4000kgの収穫があり、28000バーツの売り上げになった。しかし、肥料や殺虫剤のための出費も多く、手取りとしては年8000バーツほど(労働費含まず)であり、借金がかさんでいった。また環境にもよくなかった。生産方法を変えようと思っていた時、NGOとともにミーティングに参加する機会を得、自給できるような生産法に変えようと決意した。それは作物を多様化することであった。上の図を見れば分かるように、以前はギリギリ通れればいいだけのあぜ道しかなかったが、それを広げて、野菜、果物、ハーブ、サトウキビなどを植えるほか、燃料や家の建築用の木まで植えてしまうのだ。家畜もたくさん飼い、その糞が肥料にもなる。人口池もつくって魚を飼えるし、乾季の灌漑用にも使える。まだ始めて3年ほどなのだが、借金が200000バーツから150000バーツに減ったという。なぜ持続的農業が必要かというと、それによって食糧が増え、より自活でき、食糧安全保障にもなるからだ。だが、実際にはNGOも政府も知恵はくれても金銭的サポートは一切なく不安で、事実最初は収量が減ったという。そこを耐えて乗り切り、3年後の今は収量も増えたし、土や水や環境も良くなっている。また、殺虫剤は薬草を使うようにしている(それもあぜ道に植えている)。 話しを聞き終えると、またさっきの倉庫まで戻って昼食をとり、村人(運営側もちゃんと対応したらしく、今度は女性も半分くらいいる)とともに再度ディスカッション。この村では9〜10世帯がビアグッチュムに参加しているが、貧しい家は参加していない。理由は、そのよさが理解できないことと、法に違反しているのではないかという不安があることだという。ではそもそも「貧しい」というのはどういう状態のことを言うのか。自前の農地を持っておらず、定まった住居もなく、日雇い労働をしているのが、貧しいということの定義だそうだ。 何はともあれ、あまりに借金を多く抱えてしまっているというのが最大の問題だから、それを解決しなければ何も始まらないということ。「父の時代」の夢を思い起こし、自活していこうとする決意。それがここの村にはあるのだという。[目次へ戻る] <沈みそうなムン川水上レストランにて> 村を後にして、ひたすらバスは走り続ける。途中、急に冷房がとまり、しばらくしてバスも止まった。皆汗だくになってバスを降り、水などを買い求める。目の前の民家のトイレには待ち行列ができる。このバス、後ろの大きなエンジンの他に左前にも小さなエンジンをのせているが、前のエンジンは冷房などの発電用らしく、そちらの燃料が切れたようで、道ばたにある店から小さなガラスのチューブに入ったガソリンを全て買い、流し込んでいる。また、オーバーヒートぎみらしく、エンジンフードも全開にして冷ましている。外はまた雨が降ってきた。そんなこんなで、予定よりずいぶん遅れたため、先にホテルにチェックインするはずだったが、その前に直接夕食場所であるムン川の水上レストランへ行くことになった。 それなりの強さで降る雨の中、バスを降りると、ホントに小さな豚をクルクル回しながら焼いている。このあたりの名物だそうで、小さければ小さいほどやわらかくておいしいそうだ。傘をさして、ゾロゾロと水上レストランに向かって木の細い橋を渡っていく。すると前の方が何やら騒がしい。一遍にたくさんの人が橋にのったので、沈んで足元がすっかり水に浸かってしまっている。ありゃありゃ。少しずつ間をあけながら行かないとだめよ。う〜ん、今までの水上レストランとは全然違う。小さくて手をのばすとすぐ川の水を触れるし、いくつもの小部屋(というか舟)が繋がって沖までのびているという構造。今回も、タイのスタッフと一緒の部屋。ここは泳げるというアナウンスもあったが、雨の中、泥のような色をした川に早速中国グループの活発な何人かが飛び込んだ。泥の色が濃くて全く下が見えないが、かなり深いそうだ。泳いでいる人もすぐにあがってこようとするが、何せ小さい舟(レストラン)の1室にあがろうとするのだから、片一方に重みをかけるとずぶずぶ舟ごと沈んでしまう。上がるにも一苦労。そうでなくても重さのバランスを考えてそれぞれが座らないと斜めに傾いて危険。タイのスタッフによると、ここは観光用ではなく、地元の人しか知らない、地元の人のレジャーのためのレストランだという。なるほど、よく理解できる。早速さっきの小豚の丸焼きが出てくる。カリカリしててとてもおいしい。そっちに料理余ってるかい、と一人がこっちに来たが、通路の橋を舟(小部屋)の間にはまってドブッと足が川に沈んでしまった。あらあ、痛そう。通路にはアリがいっぱいいて、料理を食べているうちにアリの行列が料理にも来てしまう。夕日がきれいということだが、あいにくの天気。でも向こうの空が赤く染まっているのは見えて、なかなか。でもすぐにまた天候が悪化して、中にまで雨が吹き込んでくる。早速レストランの人が幕をはりに来る。 タイ人スタッフと一緒なのでインフォーマルな形で、今回のツアーについて、良かった点や悪かった点の指摘や意見、感想を求められた。皆、それなりに満足しているけれど、やはり駆け足になってしまうこと、先駆的活動をしている中心部の人の意見ばかりで一般人の顔が見えないことなどが不満だと言うと、それは仕方がないという。学者はちゃんと調べようと思ったら3年はいないといけないし、この期間では表面だけをさらっと見るだけにしかならない。それは全くその通り。当然のことだ。これだけの短い期間でこんなにたくさんのものを見られたのだから、このうえなき幸せと感謝せねばならない。それに普通の人の意見も聞きたいという希望にすぐこたえて、グッチュムでそういう機会を設けてくれたことにも感謝した。 若い私のルームメートはタイ式トイレにどうしてもなじめないなど、カルチャーショックについて語った。特に紙がないのが困るという。まあ、若い子は田舎のポットン便所では絶対にできなくて、ずっと我慢するというし、そういうのだよなあ。一方、東京に行ったことのあるタイ人スタッフは、何もしないでもセンサーで自動的に水が流れるトイレにカルチャーショックを受けたそうな。その彼女、日本の銭湯が大好きで、あんな気持ちいいもんはないと言う。それは全くそうだよねえ。う〜ん、去年ハンガリーの公衆温泉に入れなかったのは何とも残念のきわみじゃ。今度はタイ人通訳が、ある人の極限まで少ない紙で尻をふける方法というのを紹介する。目の前にあった紙のナプキンを1枚とり、それを4分の1に切って、これだけで足りるんだという。まず指で表から裏から尻をふき、最後にその指を小さな紙でふきとる。以上。みんな大笑いだが、カルチャーショックのルームメイトは、そんなのかえって嫌だと騒ぎ出す(笑) (なお、これとそっくりの尻のふき方を、長いこと経済制裁を受けているキューバ人がテレビで紹介していた) ルームメイトの彼は、何でも地域通貨をテーマに大学院で勉強したいということで今回のツアーに参加しているというが、それを聞いて、タイのスタッフが、LETSで有名なマイケル=リントンが今日本のどっかの地域通貨立ち上げのために日本に滞在しているでしょう、と言う。へえ、そうなんだ。いったいどこだろう? 次にタイ人から、タイにあふれる日本語をいろいろと紹介される。ポケモン、おいしい、一番、ミツビシなど。「おいしい」というのは日本料理屋の名前だそうだ。また、タイ語の「キレイ」というのは「醜い」という意味なんだそうだ。バンコクの寺院で、日本人が「キレイ、キレイ」を連発し、タイの人は非常に困惑してるそうな(笑) すっかりこの部屋だけ笑いの渦の中にある。さらに「チョコムスモノガタリ」というのがあるだろうと言われるが、これは何だ? 物語りは分かるが前半が分からない。さんざん考えたが分からず、石鹸の名前だと聞いてやっと分かった、「植物物語」って石鹸ですわ。こっちでも売ってるのねえ。悪天候の中、すっかり盛り上がって、食事を終え、真っ暗な中を帰る。 さっき、宿泊先がどこも良い所ですね、と言ったら、今日泊まる所はもっとすごい所だ、と言うんで、早くゆっくりしたい気持ちでバスに乗り込む。ウボン=ラチャタニのダウンタウンは、日本の地方都市と変わらない風景である。ところどころにセブンイレブンもある。日系の車のディーラーも多い。すると隣でA山さんが「テスコだーー」と声をあげ、誰も反応しないので、「あっ、それって誰も知らないわね」と説明を始めてくれる。PP研経由でこれを見てる人は、A山さんのエセックス便りの初回を思い出して欲しい。もっとも下の階級の人が食べる安いトマト缶を食べている彼女だが、それはここテスコで売っているんだそう。イギリスのそういうスーパで、それがここにもあると。それからインターネットカフェもけっこうあるね。夜遅くまで明かりがついて、結構客もいるよ。そうこうしているうちにネバダグランドホテルに到着。おお、これは。東京でもこれはかなりの高級ホテル。やはりエレベーターがある。窓のついたエレベータから中庭のプールが見える。階段のところは吹き抜けに。部屋に入ると、始めて、バスタブ付きの風呂がある。それも結構大きい。久しぶりにゆっくりしよう。 でもその前に、周辺を散歩しようとの約束があるので、グループになって行く。途中あちこちの玄関前のカメが置いてあって蓮があるので何かと思うと、ウボンというのは蓮のことなんだって。ケンタッキーもマクドナルドもある。セブンイレブンの中にはミスタードーナツのコーナーもあった。タイに来て、宿泊先にティッシュが置いてあるのを一度として見なかったので、テッシュがあるかと思って見てみたら、結構高いけどちゃんと売ってるね。日本のスナック菓子も多いわ。夜でも屋台があって、いろんな食べ物や果物を売っている。ルームメイトはドリアンドリアンと騒いでいたが、時期がちょっと遅くて終わっているので売っていない。 ホテルは映画館やディスコも隣接している大きな所なのだが、一部の人がディスコで踊りたいと言うので、見物がてら付いていってみる。入口に辿り着くまでにバイクバイクの連続。奥には何百台にもなりそうにバイクがとめられている。若者は車は高いからバイクに乗る人が多いのだろう。中に入ると、暗いしうるさ過ぎて会話もできない。また、踊るところではなく、中央にステージがあってロックバンドのようなのが歌っており、周りにテーブルと椅子が並んでいて、ビールでも飲む、というつくりになっている。たしかに若者しかないが、カップルというのはあまりおらず(だて会話もできない)、男どうし、女どうしというのが多い。ビールだけ飲んで(タイではビールに氷を入れるのが普通)しばらくして退散。久しぶりの風呂にゆっくり浸かる。[目次へ戻る] <タイの市民社会とは?(8月5日)>
翌日は、ホテルの立派な会議室に先生をお呼びして、タイの市民社会について討論(立派というが、もっと大きな会議室もあって、そこでは別の会議をやっていた)。「市民社会」という言葉が出てくるのはここが始めてだ。 まず、この地域での市民社会の活動について、HSF.の人より説明がある。ウボンはもともと平和な社会だった。20年前は、この地域、中でもカンボジアやラオスとの国境付近で共産主義者が強かった。一方、アジアではNIESで四つのドラゴンなどと言われ、工業化で発展した国に続けとばかり、政府は産業政策を押し進めた。タイは80%が農民であり、しかも貧しかった。自然資源を巡り人びとの間で争いがあり、仕方なくバンコクへ移住して労働者にならざるをえない状況がうまれた。 パクムンダムについて言えば、橋ができるということで、15年前は皆が賛成したが、ダムができあがると洪水がおき、ダム建設に対する闘いが始まるのだ。政府が約束したのは、パクムンダムの建設(実際には多くの問題を抱えていた)の他に、国際空港の建設があった。これはわれわれも使ったウボンラチャタニ国際空港であるが、実際には国際線はなく、バンコクとの間に1日2便が運行しているだけである。また、中国とタイのジョイントベンチャーで紙パルプ用のユーカリプランテーションを行うが、もともと農地であった所をつぶしてユーカリを植えていた。そんな中、ダム建設その他に反対する人びとのネットワークができ、ウボンには20のネットワークができた。そして政府に請願を行うのである。地域の森林、最高の綿を生産する織物産業、農業などを守るほか、子どものケアや農工具への支援など、請願は多項目にわたった。政府も地域を重視するようになり、相互扶助を促進させるべく100万バーツの資金を出すなどした。 再びダムの話しに戻ると、6月から9月の間、水門を開けることになっているが、その後はまだ決まっていない。日本の秋篠宮(?)もパクムンダムの見学に来たことがあるという。このダム、水門を閉めると雨季には洪水になり、乾季にはそもそも水がないという無用の長物だということ。そして重要なのは、パクムンダムと同様、つまり無用の長物の施設はタイ中にあるということ。そういう背景から、元共産主義者が市民活動家となり、運動をリードしているのだという。 ここで、タイの市民社会は、西洋型の市民社会とは異なるタイの知恵に基づくものだと説明される(気付いたのは、タイ語の説明でもcivil societyの部分だけは英語を使っていること。やはりタイ語に「市民社会」に相当する語はないのではないだろうか)。ではタイ独特のものは何なのかというと、具体的には金が中心ではなく相互扶助の伝統を元に助け合いながらともに働く協同精神があること。また、農民の間に相互扶助をコーディネートするネットワークがあること。この二つが大きい違いだという。それに、ネットワークといっても、それは政府の側の教育機関や保健関係のネットワークの他、人びとのお年寄りを助けるためのネットワークなどがあるのは当然として、タイならではの僧のネットワークの存在も見逃せない大きなものなのである。これらすべtえのネットワークが結びついて有機的に連動した、それはすごいものである。だが、そうした市民社会を形成する障害になるものとして、知恵やコンセプトがいまだ政府から出たものばかりで、政府に頼りきりになっているという問題があり、どうしても政府の「開発」メカニズムに収斂してしまいがちになる難点がある。ここで重要なのは、人びとの力である。東北部でこれまでわれわれが見てきたように、政府の正義がそのまま人びとにとっても正しいとされているのが現状。つまり地域の人びとに意思決定の権利が与えられていないのだ。パクムンダムの抗議運動では、まさにその部分に最大の焦点が当てられていることを理解せねばならないのだ。 そんなおり、新しい憲法(1997年憲法)ができた。ここでは人びとの権力が一番大事だとされており、人びともそれを理解してきている。そんな中、貯蓄運動などを通して相互扶助のメカニズムがうまく機能している強力なコミュニティもあって、そういう所では上記で触れた政府の100万バーツをうまく使えている(これはタイの全てのコミュニティに配分されたという)。特にタイ南部では、貯蓄グループがうまくいっている例があるという。とはいえ、まだ政府は人びとが力を持っていないし能力もないと思っている。ここでももし、人びとに自前の知恵があったならば、どんなにすごい潜在能力がそこにうまれ、活発な活動ができるだろうか。もっとも、政府主導の活動は失敗するだろうから、これからの人びとの活動がみものとなるだろう。 最大の問題は、自由貿易や多国籍企業がもたらす影響に対抗する、周縁化された人びとのビジネス、すなわちコミュニティビジネスの潜在能力を発掘すること。地域の文化が、グロバライゼーションを背景とする消費主義によって破壊されてしまったが、それを復興すること(もちろん全ての村に電気が通り、科学技術の恩恵も行き渡っているという側面もあるのだが)。市民社会というもの自体に明確な理想像なり目的があるのではない。自分たちの地域が危険にさらされており、協調して守るため行動していかねばならないということなのである。 ああ、疲れた〜。コーヒーとお菓子がホテルマンから配られてるんで、ちょっと一息。甘いものは、こういう時、効くよねえ。さてさて、次はウボン大学の先生で、パクムンダムの研究を政府やEGAT(ダムを管理している電力公社)から資金を得てやっている人のお話。この当局から莫大な資金を得てやっている研究は、32人の研究者の共同プロジェクトで、学際的に行っているという。地域のエコロジーの問題、政治経済的側面、NGOのパワー、そういった複数の観点から、いかに貧困にあえぐムン川流域を開発していくか、貧困を克服するプランをつくるかということを最終目標に据えていくもの。具体的には、魚という資源がパクムンダムによってなくなってしまったこと、10代の若者がバンコクへ流出すること、貧困層と中間層の結びつきによる市民社会構築などが研究されている。研究で常に気をつけていることは、家族が分断され学校も通えない現状の中で、何が正しくて何が適切なのかを考えること。とはいえ、当局から金が出ている政治的プロジェクトだろうと言われてしまう。研究者としてはニュートラルでありたい。しかし、ニュートラルであるとはいったいどういうことなのか。そもそもニュートラルであるなんてことはありうるのだろうか。そんな疑問が常に頭をよぎる。それでも、研究で最も重要なのは、市民社会が重要な役割を果たせるのか、であることは明確なのだという。何度も言っている7000の村に出された100万バーツの政府の資金プロジェクトだが、これを使っていかに地域独自のビジネスをおこすかということ。これも良いことばかりではなく、これだけの資金を貧乏な村がどうやって返していくのかということ。このあたりが今、一番の問題となっていることらしい。 タイの市民社会の特徴は、中間層が上と下の層をつなぐ役割を果たしていて、貧者に合わせて連帯していくことろにあるという。だが、どうやって市民社会概念を具体化するかについては、ここにいる3人の講師全てが皆違う意見を持っていて、非常に難しい問題である。だいたい、タイの上層部にいるビジネスマンに「あなたは市民か」と聞けばイエスと答え、中間層に聞くとイエスもノーもありうる。一方草の根でがんばっている底辺層に聞けばノーと答えるんである。学者が「市民、市民」と言ってても空しいもんだ。市民社会というのはかように矛盾をかかえているし、それは言説の政治性によって簡単に変化するものでもある。タイ社会は対立が明確化されないこともあり、非常に難しい。 ふむふむ。なかなか学者の世界らしいお話が続きましたな。どこでもアカデミズムと現場の関係ってこんなもんだよなあ。さてお昼だお昼。1階のレストランに降りて食べてると、前のステージで女性が歌を歌っている。どうも聞いたことあるようなメロディーだな。と思ったら、「昂」を歌ってるじゃない。ありゃ日本語だよ。お、今度は「上を向いて歩こう」だ。中国人もsukiyaki songと言って日本人のところに来る。ちゃんとそういうカラオケや楽譜が用意されてて練習もしてるんですな。日本人ビジネスマンも、商談のためにこのホテルを訪れるんだろうか。この時、台湾でやはりダム反対運動をやっている参加者の女性から、そこの絵はがきセットをもらった。これが、清流で遊ぶ子どもたちの絵や祭り(美濃黄蝶祭)のポスターなどなかなか良いものばかり。一つ、ムンクの叫びよりもっと強烈な黒い絵があった。これには「水庫是美濃人民永遠的悪夢」と書かれている。しかし、こんな絵葉書をつくるのはとってもいいことだよね。神戸空港反対運動では見かけなかった。上等なおしゃれな紙にきれいな絵。こんなものをつくれるかどうかってとこにも運動の質というものが見えてくるよね。吉野川可動堰の時は、これに近い文化度の高い運動が展開されたと聞いているから、やはり運動間で学び合うことは重要なんだろうな。でも運動中枢部にそれを理解する人がいなければ無理というのも事実なんだけどね。共産党が金出してる運動なら、頭ガチガチの共産党幹部の言うなりになるしか道はないんだから(神戸空港の住民投票失敗後の運動を想定して言ってる)。昼食後、ホテルのプールでちょっとひと泳ぎしてから、また会議室へ戻る。 午後も先生のお話が続くが、今度はタイの王室の歴史から始まる、本で読めば分かるような話しばかりが続き、疲れですっかり眠くなってしまい、半分以上ボーッとしてる。これでも岩波新書1冊とガリマール読んであるから。D&Kの歴史著述もなかなかまとまってたし。もう一度だれるといくらコーヒー飲んでも甘いお菓子食べてもだめ。ああっうぅ〜。しかし、どうも私は根本的に疑問があるな。だってさ、コミュニティ(地域)が強いということは、その成員個人は抑圧されるわけでしょう。一方、市民社会とは独立した個人のアソシエーションというイメージが普通であって、強いコミュニティとは相容れない概念のはず。そのへんどうなんだろう。まあ、つじつまが合うように解釈するならば、タイでは独立した個人というより相互扶助がベースとなっていて、相互扶助によって支えられている独立したコミュニティのアソシエーションというイメージになるんだろうか。そこで個人はオミットされるわけだが、一つのコミュニティが共通の目的を持っていると仮定すれば、一応成り立つ話ではある。あと、やはりタイの場合、政府や自治体行政の他、軍部、王室、僧、NGOと多様なガバナンスのレベルがあり、簡単に西洋的概念に端を発する市民社会に当てはめること自体、無理があるんじゃないか。とはいえ、今までいろいろ見てきたけど、最初に言ったように、「市民社会」という言葉はここで始めて出てきた言葉。ダム反対村の人は誰一人として「われわれは市民である」とか「市民社会をつくっている」とは言わなかった。学者が「市民社会」という言葉でそれをまとめたいならどうぞお好きに、と言えるし、タイ独自の市民社会概念をつくるなら、それはそれでおもしろいかもしれない(ただしそれはもはや「市民社会」と呼べるものではないとも思うが)。そんなことをゴチョゴチョ最後の質問タイムに考えていたが、時間もなければバリバリ英語で簡潔に意見する能力も今のところないのでとりあえず優秀な中国香港勢の質問を聞いていると、香港の優秀なベジタリアンの彼(PCDのスタッフだそうだ、いつも孤独を好むかっこいい人)が聞いてくれたよ。西洋概念の市民社会で捉えていることへの違和感を。しかし、これは非常に難しい問題だし、結局時間もなくて誰も答え(られ)ないまま終わってしまった。 さて、時間的にはここでウボンでのショッピングタイムと予定表には書いてあるが、時間を大幅にオーバーしており、まだプログラム全体のエバリュエーションができていない。今後の予定をどうするかでややしばらくすったもんだが続き、結局いくつかの班に分かれて今回のプログラム全体のエバリュエーションをし、それを後で集まって報告しあうことにし、ショッピングはキャンセルされた(ウボンは最上のコットンを生産しておりバンコクで売られる一流コットン製品は皆ウボン産)。昨日散歩したからもういいしね。 数人のグループで意見を出し合ったが、だいたい共通しているのは、博物館のツアーみたいに次つぎに見せられているだけという感じが最初から最後までつきまとったこと。しかし、メインストリームではないカウンターフォースの動きを中心に見ていくという点ではよくできたツアーだった。短期間なので仕方ないにしても、悪代官(政府)と正義の農民という二元主義でしかイシューを捉えらなかったのは残念、といったところ。これらはだいたい皆共通して持っている感想だね。 最後の報告では、もうすっかり皆興奮してだか疲れてだか知らないけどマンダリンでしゃべくり出して、おいおい日本人とタイ人は蚊帳の外よ。そういう時すぐに自主的に英語に訳し始めてくれる中国人がいるのはさすが。その人の周りに輪ができる。そして、終わる間際に、タイのスタッフへのお礼を代表者が述べる。タイのスタッフもこれだけ大人数のツアーをオーガナイズしたのは始めてで大変だったが、それぞれ学びあえる所が大きかったと感謝しあい、ホテルを後にし、ウボンラチャタニ国際空港へと向かう。ショッピング時間がとれなかったかわりに、タイのスタッフが空港内にある地元の人がやっていて質が良くて安いコットンのお店を紹介してっくれ、皆そこで品定めして買い物。私も買い物袋とカセットテープを購入。このカセット、聞いてみたらLab-lae communityで子どもたちが踊っていたとの同じ曲が入ってた。ついでに他のお店で象の刺繍がしてあるかわいい筆入れを買う。こんなかわいい象の絵が入ってるのって他ではなかなか見られないよね。 飛行機の座席前ポケットに入っている機内誌の表紙にはイメルダ夫人をちょっと上品にしたようなご婦人の写真が大写しになっている。これがタイのお妃らしい。かわいい象と言えば、有名な機内誌の広告にあるタイシルクで一番有名なジム=トンプソンのネクタイもいいよなあ。象の柄のこんな品のいいネクタイ、なかなかないよ。エルメスの動物柄のよりいいかも。1時間の短いフライトだが、機内食も食べ、岩波新書も読み返す。あらっ、よくよく見たら、サンティ=アソクなんて有名でちゃんと紹介されてるじゃない。今村仁司のにもアソクのってるよ。アソクの人とちょっと違うなあ。茶色の衣しか着ることを許されていないなんて書いてあるけど、アソクではあえて茶色を着ていると言ってたなあ。うむ。しかし、こうやって書いてあるけど、実際行ってみてると、たった1ページのこの叙述も味わい深く読めるなあ。ちょっとうれしい。別に1日いただけで何が分かったわけでもないが、少なくともこの本の著述もかなりいい加減だということだけは分かる。[目次へ戻る] <バンコク夜の中華街、そしてナイトマーケット> いやあ、ホントに久しぶりだあ。懐かしい。バンコクの空港。1週間前ここに降り立ったんだよなあ。一人なぜか感激ひとしお。荷物をターンテーブルで待っていると、後ろの窓の向こうで手を降っている人が。ああ、M藤さんだあ。隣にいるのはシャプラニールのO橋さんかな。M藤さん、ユニクロの紫のシャツという若々しい装いでお迎えよ〜。荷物を受け取ってロビーに出ると中国勢の何人もが、Mutoooo!ってなもんで抱き合って話してる。ところがわれわれはこの遅いのに、これからチャイナタウンへ行くことにしていて、バスもチャーターされてる。挨拶や報告もそこそこに二階だてバスに乗り込み出発。バスの中ではキャーキャー言いつつ、それぞれの個人情報暴露大会。といっても年齢とか子どもがいるとか離婚してるとか、そういうことばっかだけど。「若い頃は誰でも失敗するのよ」と子持ちであることをさっき驚かれたばかりの離婚経験者が笑いながら言うと、香港の利発そうな子が「私絶対結婚なんかしないもん」と応える。そうこうするうちに高速道路を快適に飛ばしたバスはチャイナタウンに到着。自由時間は1時間半ほどで、夜中の12時にバスまで戻ることに。 降りた途端、ただならぬ雰囲気。路上生活者が道路にはたくさんおり、暗くて狭い道路を歩くが、タイのスタッフが「スリに注意して」とピリピリしながら警戒する。もう閉まっているが、銀行や金行がある。金行は金を売る店らしい。廃虚のようになっているお店はこないだ強盗が入ったところで、今は空家になっているとか。明るい賑やかな方向に行くと、あちこち屋台だらけ。この遅いのにどこも客がたくさんいて、食事をしている。途中、中華料理屋の前で中国人グループが、「さあ、食事しよう」と入っていくが、さっきも食べたばっかでしょう、よく食べるね、ってなもんで、満腹の人は別行動でさらに先に進む。
そしたら、ついにありましたよ。ドリアン。売り物としては、すでに切ってある中身がパック詰めされており、1パック200バーツほどで売っている。ドリアンと叫び続けていたルームメイトが当然ながら買う。ここはタイのスタッフも同行しているので、値切って150バーツに。買ってパックの値札シールを見ると、二重になってる。はがしてみると250と書いてある(笑) 観光客向けに少しでもぼろうとしてるんだよ、と説明される。その香りは、フランスのガイドブック、ガリマール曰く「腐ったタマネギかかたくなったチーズ」にたとえられるというが、たしかに臭う。鼻を近付けると、何とも言えず。ただ耐えられないようなものではない。購入者がまず食べるが、一口で「ダメッェー」。どれどれ、はあたしかに果物らしい果汁は全くなくモコモコしていて、感触は変だが、まあとくに食べたくはないけど、食べろと言われれば食べられる程度だな。冷えて皮もふやけたまずい春巻食べるようなもんだ。しかし、他の人はほとんど全員、全く受け付けないという。へえ、珍しいこともあるもんだ。私ほど好き嫌いが激しい人もいないと思うんだが。もっともギリシャのレストランで日本人が誰も手をつけなかったオリーブオイルべったりのサラダを一人おいしく食べてた私だから、単に私個人の趣向が違うだけかもしれん。とはいえ、香港の一人はドリアン大好きだそうで、最初はちょっと抵抗があったけど、どんどん好きになったと。彼女はタイにしばらくホームステイしたこともあって、タイ語もちょっぴり分かる。けど、その彼女も、部屋に持ち帰ったら、ルームメイトがみんな怒って大変だったとさ。それほど臭うんである。 こうして賑わうチャイナタウンを歩いていると、突然大雨が降ってきた。スコールである。しかし、皆とくに驚く様子もなく、平然としている。とりあえず屋台のテントの下で雨宿りをする。10分もしないうちに小雨となり、再び進む。もう1周してしまった。食事したわけじゃないから、時間も余っている。そこでタイのスタッフが、ナイトマーケットに案内してくれるという。何番のバスをここで待っていればいい、と言う。こんな遅くまでバスがあるのには驚くが、たしかにバスが結構来る。夜11時過ぎでもバスがこんなに頻繁に走ってるんだねえ。しかし、目的のバスは来ない。時間がないのでタクシーに乗ることになり、スタッフがトゥクトゥクを止める。やはりタイ式は手を斜下に下げて止めるんだな。いやあ、トゥクトゥクは乗れないと思ってたけど、こんな所で乗れるなんて、わあ良かった。狭い三輪車の後ろに無理やり5人が乗り込みスタート。いやあ、風が快適ぃー。乾いたエンジン音がなんともいい。こんな気持ちいい乗り物はないぞ。楽しい楽しい。基本的にはバイクだね。右グリップのスロットルでエンジン回転が上がる。しかしこのエンジン何なんだろう。こんなエギゾーストノート聞いたことないなあ。途中、タイのスタッフが「フラワーマーケット」と叫ぶので見ると、夜中なのにランを始めとする生花が所狭しと大量に並んでいる。わああ、すごい。このへんの人って、家の中も花でいっぱいなのかなあ。
そして目的地に到着。衣類のマーケットだ。皆、100〜300バーツという感じで、偽ブランド商品含め、普通のカジュアル衣料を何でも売ってる。同じような店がえんえんと続き、客も多い。なんというにぎわいだ。途中、チャオプラヤー川まで来て、反対側を通って引き返す。途中、A山さんが、これ探してたの〜と言って、タイ風のズボンを買う。700円くらいかな。もう時間は11時50分。急いでトゥクトゥクをつかまえてバスまで戻る。ジャスト12時。帰りはさすがに疲れて静かなバス。寝ているうちにWE-TRAINに戻った。[目次へ戻る] <プログラム終了、そしてバンコク観光(8月6日)> 最終日、朝食の時間になっても誰も降りて来ない。ロビーにあるバンコクポストも古いやつ。う〜む。一応、TVS(タイボランティアサービス)、つまりわれわれ用の朝食が準備されるテーブルはあるんだが、朝食らしきものはほとんどのっていない。ややしばらくすると何人かおりてきて、そこにあるものをとりあえずかじっている。ずいぶんたって、やっと少しタイ式の朝食が出てきた。隣のアメリカ人らしい若者グループは、ちゃんと注文してたらしく、コンチネンタルブレックファーストだった。 やはり相当皆疲れてるな。でも最終日のミーティングがこれから行われる。用意されたコーヒーを流し込むが、疲れはとれない。テーマは、これからのタイ/中国/香港/日本の協力体制。帰って何ができるかってこと。研究情報交換や提言、そして運動。コミュニティを組織すること。そんな抽象論は出るが、実際に何を語ればいいのか分からず、ここでもまた話し合いの進め方にまつわる議論で紛糾。またしても班に分かれて話し合いを持ち、それをあとで報告しあうことに。まあ、われわれはもう今まで言い尽くしたんで特にないけど、参加者は研究者だったり運動家だったりNGOのメンバーだったりするので、これから自分の立場からこの体験を受け止めつつ役立つものは役立てていこう、というような話しにならざるをえない。つまりは、自分のこと、自分が今いる位置を語るしかないのである。再び皆が集まるが、この体験を共有するWebsiteをつくろうという提案をする人もいた(つくったのかな?)。あとは各自、連絡先の交換など行い、中国組は空港へと去っていく。日本組以外は今日の飛行機でたつのだ。といっても、中国組は香港に着いてからまだ会合が続くらしいが。
お別れ前に近くの人たちと一緒に記念写真。上の写真、左から四番目の方の青いズボンが、昨日のナイトマーケットで買ったもの。さて、これから日本組は、M藤さんの案内でPP研と関係の深いNGOであるフォーカスへタクシーで向かう。目的地はフォーカスのあるチュラロンコン大学隣の東急が入っている巨大ショッピングセンター。巨大というのはどれくらい巨大かというと、幕張の展示場くらい巨大。一度入ったらどこがどこだか分からなくなるような感じ。上の階に行って、お昼を済ませる。屋台と同じで、材料がたくさん並んでいて、これとこれ、と言うとそれをすぐ和えて調理してくれる。安いが、量もほどほど。やはりタイでは一般の人も外食が多く、こうした屋台で1日に5回といったペースでちょこちょこ食事をとることが多いそうだ。なかなかいいね。外食もここまで安ければ、共同キッチンとして機能するし、仕事の合間にちょっと食べてひと休みなんて、ゆったりしていていいじゃない。東急で売っているものは、日本と変わらないもので、値段も日本と変わらない。しかし、東急を出て、つながっている巨大ショッピングセンターに入ると、ありとあらゆる店が入っていて、安いものも多い。ひと昔前の秋葉原の裏道に入った怪しい店みたいのもたくさんある。M藤さんはスーツケースが壊れたら世界で一番安いここで必ず買うという。 出口がどこだかよく分からないが、なんとかエレベーターを見つけて1階におり、チュラロンコン大学を目指す。大学はすぐ分かったが、これがまた広い。なかなか目指すフォーカスには着かない。夕方にタイ在住の久世さんという方と会う約束をしている場所をまずチェックし、さらに進む。あら、キャンパスを出てしまった。バス停には高校生らしき人もいる。タイがいいのは高校生の制服も半ズボンなところだな。日本も見習って欲しい。日本の夏も暑いんだからさ。ああ、またしても雨が降ってきた。ずぶぬれになりつつも、やっとめざす建物についた。エレベーターであがった古びた建物の1室にフォーカスはあった。
中に案内され、コーヒーがふるまわれる。早速M藤さんが日本の状況を報告する。やはり小泉政権の「聖域なき構造改革」や教科書問題(つくる会)に話しは自然と集中する。すると、インドにも似たような教科書問題はあるという。またタイだって、社会の教科書に民主化運動なんて1行も書いていない、と。そういうふうに言えば、多くの国にそういうことはいくらでもあるわな。いろいろと話しは尽きないが、バンコクの観光もしたいので、ルームメイトと二人、途中で抜け出し、まずは王宮へと向かう。王宮は閉まるのが早いのだ。 時間がないので、タクシーを拾って王宮までいくらか聞く。もう間に合わないなどと行って行きたがらないが、どうしても行くというと、200バーツだと行って了解した。道はそれなりに混んでおり、ゆっくりとしか進まない。運転手は盛んに王宮は間に合わないし、道も混んでいるから、別の所を回れと言う。しかし、ルームメイトはどうしても見たいし、閉まってても門の前までは行くと言うので、行ってもらうことにした。ただ、王宮に行って、ワット=ポーやワット=アルンも見るのなら、王宮ではタクシーはみんな嫌がって客をとらないからすぐには戻れないよ、と言われる。どうせなら、待っててあけて全部回ってあげるよ、と交渉してくる。それじゃあお金が、と言うと、待ってる時間は金をとらないという。ま、いっか。雑談してると、この人のいとこは、名古屋に住んでいて日本にも親しみがあると言うし、悪そうな人ではないし、一応英語でコミュニケーションできるので、時間もないことだし、任せることにした。しかも彼の妹はチュラの学生だそうで、チュラの前から乗ったわれわれをちょうどチュラへの留学生と勘違いしてくれてすごくよく思ってくれている。たぶん大丈夫だろう。 王宮はまだ入れて、時間過ぎてもあまり気にせず営業している。ワット=プラケオのエメラルド=ブッダは有名だが、はるか高い所に小さくあって、こんなもんなのかあ。ただ天井から壁からあらゆる所に絵が描いてあって、それぞれ意味がありそうだ。う〜む、予習が足りんな。駆け足で博物館まで見て、タクシーに戻り、ワット=ポーへ。ここは最古の寺であると同時に最古の学校だった所で、トラディショナル=タイ=マッサージの本拠でもある。入口には日本語をしゃべれる有料ガイドもいて親切だが、時間がないので、まずはめあての涅槃仏を見る。しかし、建物の中いっぱいに金のブッダが寝転がってる様は何とも言えぬ。ただ、ちょうど修復工事中でただでも狭い建物内が足場用の柱だらけで全体像が拝めない。壁のあちこちに日本語でスリが狙ってるよ、ってな注意書きがしてある。英語のもあるが、日本語の方が多い。お約束通りブッタの足の裏も見て、マッサージの場所へ。二つ窓口があるが、どちらも大混雑。30分待ちだというが、待つことにして、30分の一番短いコースを予約。 マッサージはどんなものか、非常に期待するねえ。私は幼い頃からとてつもなく才能のある指圧師にずっとかかってたんだが、その指圧師も二、三年前についに完全に隠居してしまった。おかげで、私は自分一人でもなんとか自律神経をコントロールできるようにはなっているのだが、やはり信頼できるものを見つけておきたい気持ちは強くある。この手のものには一家言あるのだ。やっと順番が呼ばれて入ると、実にたくさんの人(外国人が多い)がマッサージを受けている。少し若めの男が私の担当だった。まずうつぶせに寝かせられ、足の裏を押し始める。それなりに強く押す。足の指一本一本をそれぞれボリッというまで引っ張ってほぐす。その後、ひざ下までを持ち上げてすねを押していく。かなりくすぐったい感触。しかし気持ちいい。ももまで進んで足が終わると、今度は座って、背骨である。背骨に沿って両ひざを当てて両腕を持ってボキッボキッというまで引っ張る。これは指圧でいつも最初にやるもので、全く同じ。次にあおむけになって。う〜ん、だんだん眠くなってきた〜。ということで気持ちよくなってこの先、忘れてしまった、失礼。でも、だいたい指圧とほとんど変わることはなく、足を念入りにやる所だけが違うという感じだ。説明書を読んでも、インドのヨガと中国の指圧を合わせたようなものらしいし、なかなか悪くないね。時間がある時はもっと長いコースをやってみたい。30分だから疲れがドバッと出てくることはないけど、体が軽くなった。ここはマッサージスクールもあるんで習ってもいいな。7000バーツで1日6時間のコースを5日間。それで基本がおさえられて、さらに老人や麻痺患者向けのコースももう5日間かければ習える。検討しておこう。ええ、お問い合わせはE-mailでWatPoTTM@netscape.netまで。 わあ、もう時間がな〜い。約束の時間に間に合わない。ワット=アルンは三島由紀夫にも出てくるし、行きたいけどもうだめ。タクシーでチュラまで戻るが、やはり渋滞。ここでまた運転手と雑談。このタクシーはトヨタカローラだが、トヨタって日本だとどんなイメージかと聞いてくる。品質はとってもいいんじゃない、などと言うと、ホンダはどうだと聞く。たしかにユニークな会社ではあるよね、と言う。すると、こっちじゃトヨタは安物で、ホンダは高くて買えないけど憧れだという。やっぱそのイメージってアメリカでの日本車のイメージとつながってるし、日本でもイメージ戦略は同じだよなあ。まったくホンダってのは戦略がうまい。ぼくは今の日本車ではマツダが好きなんだが、それは楽しめるスポーツカーをつくってるからだよねえ、と言うと、スポーツカーなんて高すぎて全く無理だという。そうだろうねえ。走ってるの見ないもん。あたりはすっかり暗くなったが、やっとチュラに着く。しかし広いから約束の場所に着くまで守衛に聞きつつグルグル回って一苦労。やっと目的地に到着。いくらかなあ、はっきり彼は言わなかったしなあ。彼もしばし考え、マッサージなんかでかなり待ったし、ということで一人600バーツを提示してきた。二人なので1200バーツ。これ3600円ほど。3時間半以上占有してこのお値段は、日本の基準からしたら非常に安い。もちろんこちらではそうではないのだが。特にわれわれがまわった農村では大変なお金だが。こりゃ、こっちで生活するのって、食事代も含め、本当に安くつくよなあ。落ちこぼれ日本人が住み着くのも理解できるわ。とまあ、着いたは着いたけど、結局大遅刻で、会えずじまい。話しは聞きたかったけどしかたない。後で聞いたら5分か10分の差だったらしい。残念だが、それより何よりもう疲れた。 さてどうしようか。ジム=トンプソンに行きたいって言うし、私も広告見てネクタイかハンカチでも買いたいと思ってたから、ここからは近いらしいが、探すのも大変なんで、トゥクトゥクで行こう。と言っても門の外に出るまでも大変。やっとのこと外に出て、拾う。やあ良かった。昨日、タイの人と一緒に乗っておいたから、スムーズに拾って乗ることができる。最初の人は英語がだめだったが、後から来た人とは通じて、100バーツということで乗る。ああ、やっぱりトゥクトゥクはいい。もしかして触媒ついてないからこんないい音するのかなあ、なんて想像しながら束の間のドライブを楽しむ。ジム=トンプソンショップ前に到着。なんか今まで行った所とは全てが違う。高級店だ。立派な西洋風の建築で、金色の立派な扉には警備員がおり、ドアの開け閉めをしている。中に入ると明るい木目のインテリアの中、あらゆるシルク製品が並んでいる。3階まであって、大型のカーテンまである。中からはいかにもという感じの日本語をしゃべるワガママ日本人オヤジの声が聞こえてくる。う〜ん、ついに「日本人観光客」の領域に入ってきたか。2階に食事もできる喫茶があったので、そこで夕食をとってひと休みし、ゆっくり店内を見てまわる。おめあてのネクタイとハンカチの他、小さな象のぬいぐるみを買った。昔っからぬいぐるみ好きなの(笑) 閉店時間の夜9時までいて、さあ、We-Trainにタクシーで帰るしかないな。しかし、D&Kを読むに、タイのタクシードライバーはメジャーな場所しか知らないというから、空港の方にあるとんでもなく遠いWe-Trainなんて知らないだろうな。近くに大きなホテルでもあればそこで呼ぶけど、どうしようかと思うが、ここの人に頼んでみるか。ちょうど別のニッポンサラリーマンもタクシーを頼んでる。早速、英語で住所が書いてあるツアーの予定表を見せて、店の人に交渉。あなたタイ語はしゃべれる、と聞くので、全くだめよと言うと、住所をタイ語で書いてくれて、タクシーが来たら運転手に説明もしてくれるという。やはり遠いから説明しないと分からないのだ。ああ、良かった。さすが高級店だ。タクシーは想像と違って裏玄関に来た。高速道路代を別に払うことなども教わり(40バーツ)、乗り込む。タクシーが出ると、辺りは日本語の看板だらけ。ラーメンから日本式銭湯まで何でもござれ。ああ、これはいわゆるあれだな。歓楽街だな。一時期大きな社会問題とまでなった買春ツアーの目的地なんじゃないだろうか。怪し気なマサージ店(日本語看板)が並ぶ。う〜ん、やはりこういう所があるんだなあ。 タクシーは快調に高速を飛ばし、空港のあるドムヤンまで来る。しかし、高速降りてからが分からない。途中でとめて人に聞いても分からず、われわれももちろん分からない。あちこち迷うが、やっと分かってWe-Trainの看板が見える所まで来た。しかし、入口が分からず、行き過ぎてしまう。ハンプがあちこちにある真っ暗な道をタクシーは行きつ戻りつする。しかし、このへんはえらい高級住宅地だなあ。すごい立派な家ばかりだ。しかもその一画の入口には守衛がいるよ。アメリカと同じで、金持ちが住むディストリクトはちゃんと決まっていて、堅い警備してんだあ。守衛に聞くと、やっと分かったようだ。ここ入口が分かりにくいんだよな。やっと到着。相当迷ったけど、メーターは300バーツにもいっていなかった。しかしあの高級住宅街は何だろう。気になって、We-TrainのWEBから落とした地図を見て分かった。あそこは空軍のフラットですわ。やはり軍隊がある国(というかほとんどの国はあるけど)は違うよ。どおりでこのへんだけたくさんハンプもあるわけだ。軍人、しかも空軍はエリートなんだろうなあ。御殿みたいな家に住んでさ。あの守衛も軍人だったのかもしれん。ふうっ。 翌日、一人朝5時前に起き、行きと同様、一人空港へ向かい、ユナイテッドで帰る。なぜかこういう時、ちゃんと自然に目が覚めてしまうんだなあ。ぐっすり寝ているルームメートに気がつかれないようそっと出て、タクシーで空港へ。メーター車で130バーツほどだったから、いかに行きのリムジンタクシーが高かったか分かる。日本で言うとハイヤーと同じだね。空港でおみやげも買うし、一応バーツはそれなりに残してある。チェックインも済ませて中に入ると、なあんとここで空港使用料をとるんだとさあ。成田でも関空でもないのにさあ。しかも500バーツ! 高い。日本とあまり変わらん料金。たしかに空港は改装中だしねえ。前にいたアメリカ人なんてバーツ使っちゃってて500もなくてあせってたよ。頼んでドルで払ってた。無事中に入るとどこにでもあるような免税店もあるが、タイ独特のものを売る店もある。まず目にとまったのランの生花を売る店である。こんなの普通ないよなあ。でもこんなの買ったら成田の検疫で大変だろうから、日本の基準からしたら立派できれいですごく安いけどやめとこう。そのかわり、日本では全く見つからないカトレアのブローチを買っておこう。うちはカトレアと関係する職業やってるんで。その他、タイのお菓子やスナックを買って搭乗。お菓子は1000円くらいするから完全に観光客価格だね。 帰りの機内で前ポケットにあるショピング誌をめくっていたら、会話のコツが全て分かるConversation Powerなんてのの広告がのってて、 読むことと聞くことに関してはかなり障害が少なくなったが、全くしゃべれない英語力を再び実感させられたために欲しくなってしまう。ESLのCD-ROM教材もいいが、こっちは安いし、どうも日本だとインチキ雑誌にのってそうな能力倍増とかいう教材みたいなもんだが、アメリカってこの手の自己啓発ものはすごくあるわけだし、一度どんなものか見てみたいな。帰ったら注文してみよう。[目次へ戻る] <成田に関門あり(8月7日)> う〜ん、やはり帰りは早く感じるかなあ。もう成田に着いてからの説明がビデオで始まるよ。しかしいつもとちょっと違うなあ。検疫の手続きが必要で、書類も書かないといけない。成田では、検疫は書類を出すだけいいが、荷物検査が厳しい。まず、ターンテーブルで預けた荷物を待っていると誰よりも先に麻薬犬がお出ましで、ターンテーブルの荷物の周辺をうろうろくんくんし続ける。荷物を受け取ってからも関門があり、気のよさそうなおじさんだが、何しにどこに行ったのか根掘り葉掘り聞く。なんじゃあこりゃ。観光ですと最初は言うが、あまりにもいろいろ聞くので、実はこんな感じで農村をグループでまわって云々と話すと、さらに突っ込んで聞いてくる。こりゃおもしろおかしく報告するしかないと思い、バンコクのゲストハウスは笹川良一だし、農村の川にはミヤサワODAの橋よ。けど向こうでどれだけ役立ってんだか、とか何とかいろいろ言って、全く笹川も宮沢も好かんやつじゃな、なんてとこで話しを合わせてなんとかなるが、服しか入ってないと申告した大きいバックこそ開けなかったものの、デイバックの方はチャックというチャックを全部あけて、細かくチェックし、何か向こうでもらったものはないかと何度も聞かれ、やっと解放された。とはいえ、ちゃんと黄色い「貴方の健康のために」という紙を渡され、気付かないうちに危険な感染症にかかったかもしれないから21日以内に発熱などがあったらこの紙を持って医者に行けと指示される。ヨーロッパ旅行とは大違い。やはり麻薬が簡単に入手できる(とされる)バンコク、おそるべしである(もっとも現地でつかまればそれどころじゃなく大変らしいけど)。[目次へ戻る] <後日談(マンペンライの地、またはクルンテープその後)> 帰った翌日、PP研事務所に立ち寄り、最終日の久世さんとのお話がどうだったか聞いたら、なかなかおもしろそうな話しだったらしいじゃないの。だいたい私と同年代だし。で、特に興味を引くのが、末廣さんの本の件で、近代化路線を認め、タイの民主主義の可能性を認めていないという怒りをM藤さんと共有しているらしい。へえ、そうなんだ。この本は旅行前にS川さんに紹介されたように、タイって他のアジアとは違う特徴があるんだなあってことがコンパクトに紹介されててなかなかいいんだけど、「タイ 開発と民主主義」という題名の通り、まさにタイの開発と民主主義に焦点を当てていて、つまるところ、開発も民主主義もタイ式のものがあって、いわゆる「民主主義」とは違うんだよ、ってことを主張している本なんだよね。 特に最後の方を見ると、彼の主張がよく出ている。今後の開発体制と民主化の新しい局面の紹介として二つ例を挙げている部分で、一つは、従来の開発体制=経済拡大の路線を維持しつつ、政治経済の運営方式を変えるというもの。すなわち、軍人は政治に口出しせず軍の仕事を、官僚はテクノクラートとしてきちんと機能すること、経営は政治家ではなく有能な経営者の仕事とすることを目指すというのだ。そして以下引用するのは、より大事と思われるNGOの役割について。「ひとつは、従来の開発体制そのもに対する批判で、NGOの運動がその代表的存在といえよう。(改行)彼らは『住民参加型の民主主義と持続可能な成長』を主張する。つまり、生産力主義や消費拡大主義、あるいは利益追求型の経済開発路線を放棄することで、開発体制と民主化のディレンマを克服しようとする。(改行)代わりに、NGOグループなどが掲げる道は、タイの仏法(タンマ)や伝統にもとづく開発とコミュニティ・レベルでの政治への住民参加の拡大である。ここで注目すべきは、(中略)あくまで地域社会レベルの問題として議論されている点である。つまり、国民国家ではなく地域住民社会が、彼らの関心の対象であった。(改行)もっともこうした動きが、その意図やこころざしは別にして、今後急速に広がるとは考えにくい。(中略)アグリビジネスが主導する地方開発、例えば養殖エビ田の凄まじい拡大を、『もうひとつの開発の道』や環境保護運動が有効に阻止するのは、むずかしいと思うからである。(改行)むしろ、NGOグループの今後の役割は、従来の開発体制に代わる新しい経済社会発展の担い手としてではなく、『人権』や『生存権』を擁護する市民団体としての役割ではないかと思う。環境保護、ダム建設反対、児童労働の摘発、エイズ問題などで彼らが果たしている役割は、その意味できわめて重要である。」(221-222頁) これを読むと、たしかにそもそもが、近代化止むなしの前提で書いているし、NGOのオルタナティブとしての役割を否定している。しかも、この後、以上二つの道に従来の「タイ式民主主義」にとって代わるだけの力も政治的基盤もまだない、としているのだ。まあ、この本は1993年に出た本だし、何だけど、他の人が書けばもっと違っていたものになったそうだ。例えば、92年5月運動の評価も、一般には都市中間層(新中間層)の出現と一体となってされ、携帯電話を持った群集の運動とされるわけで、末廣さんの本もどちらかというとそれに近いのだが、「運動」に近い立場の人の評価は異なり、中間層はごく一部で、実際はもっと貧しい底辺の生活困窮層が不満をぶつけたものだったんだということを強調する(岡本和之、スリチャイ・ワンゲーオ他「特集タイ社会の20年くり返される『血の水曜日』」『月刊オルタ』1996.10)。 ま、私はどちらが正しいか判断できないけれど、気持ちは分かる気がする。特に、この後、貧民連合(サマッチャー・コンチョン)という成功例(?)が出てくるし。貧民連合というのは、本当に希望の星らしいのだ。例えば今年平凡社ライブラリーから出た花崎皋平の『「増補」アイデンティティと共生の哲学』にテッサ・モーリス=スズキがよせている解説を見てみよう。「花崎は、(中略)ポスト冷戦世界への日本の『貢献』が、実際的には、主として環境を破壊するような巨大投資プロジェクトから成り立っている点を渇破した。ここには、アジアのオルタナティブな政治の創造にかかわる大きな貢献がある。『水俣宣言』----花崎皋平がその中心となって起草した----において『ピープルズ・プラン21世紀』運動が言葉にした『希望』というヴィジョンは、一九八九年以後、アジアの多くの地域の社会運動の哲学において重要な役割を果たしつづけており、ひとつだけ例を挙げるなら、タイ貧民会議 the Assembly of the Poor のような団体によって展開され、実践されている。」(476頁)ほらね。パクムンダムの反対村をやっているのがまさにこの貧民連合であるし、今やタイ最大の住民運動ネットワークであり、開発被害を受けていることを貧民と定義し、闘っているんだそうだ。このへんは、「オルタ」の2000年11月号にものってるし、その中の久世さんの文章は彼のページで見られるし、その他ネット上でもいろいろ拾えると思うんで、興味ある人は調べてちょうだい。ところで、インパクションの2000年9月号にのった久世さんの文章読んでたら、タイ語にも市民という言葉(ポンラムアン)があるらしい。citizenとして、と書いてあるけど、一体どういう概念なんだろう? いやあ、しかし大変だ。初日にもらった雑誌や本もちゃんと目を通してないのに。「Thai Development Newsletter」っていう立派な雑誌のバックナンバーを3冊もらったんだけど、これはもう廃刊になってるのね。最終号が2000年の8月に出ていて、表紙には貧民連合の写真がのって、題はなんとPeople's Plan。これもダムや貧民連合のことがたくさん英語でのってるんだが、もともといろんな所のニュースを集めて編集したもので、量があって読むのも一苦労。で、なぜこれが廃刊になったかというと、ネットで拾えるようになったからもう存在意義もないでしょう、ってことで、バンコクポストやネーションといったマスコミやNGOのサイトを紹介している。フォーカスでもらったブックレットもダムなど今回のツアーとかかわり合うものがいくつものってるんだが、これもフォーカスでサイトからpdfでダウンロードできる。 まったくいい時代になったもんだ。ネットでだいたいかたがつく。チュラ大ってどんな感じか、タイ生活ってどんな感じか、ちょっと2チャンネルに行ってみたならば、ちゃんとスレッドあるし(笑) でもここんとこの2チャンネルの存続危機によってちゃんと読めなくなってしまった。現地の生の情報はこういう所から仕入れないとね。興味ある人は2チャンネルの海外生活板を探してくださいな。ということで、ネットを使ったお勉強は永遠に終わらないのであった。そうそう、帰りの飛行機の中で見つけた英語のCD-ROM教材もAmazonから行けるオークションで落としたよ。う〜む、先はまだまだ長い。 ところで、ネットでタイを何となく検索してると、これが当たり前だがものすごく多いのよ。中でも、クルンテープなんてのがあって、何かと思ってみれば、タイ式マッサージ(古式マッサージでない)の店だったりする。そうでなけりゃ、バンコクの正式名称(クルンテープから始まるとんでもなく長い名称)書いて自慢してる観光報告のページとか。そういうのが多い。まあ、このページもそんなのの一つかもしれんが、バンコクの意味は誰も知らなかったなあ。バンはまちとかむらとかいう意味らしいが、コクがオリーブみたいなものだという報告はあるが、実際にどういうもんだか分からないらしい。これはタイの人にでも今度聞いてみよう。 まあ、ネットでもこんな感じだから、一般の日本の人のタイの印象ってもっとすごいのよね。近所の子どもたちのスポーツクラブにタイのお菓子をおみやげに持ってったのよ。そしたら、そこのお母さまがたが即座に返した言葉がこれよ。「タイ? 女買いに行ったの〜?」 あちゃー、何じゃこりゃ。そうならないためにNGOでがんばってるのに何考えてんだ、彼女らは、と思い、とっさに「逆です」と応えた。もちろん売買春構造から抜け出すための試みを共有するツアーに行ってきたんだという意味で逆だと言ったわけだけどさ、「えっ、逆? じゃ男買ったの〜?」だって。これは冗談じゃないというか、でもこれが一般のタイのイメージなのよねえ。改めて認識させられた、ニッポンに帰ってきてしまったことを思い知らされた一瞬だったと言えよう。まあ、マンペンライ、マンペンライ。しかし、タイでもマンペンライ気質がだいぶ薄れてみたと言うしなあ。ああ、どうなることやら。。。それではまた「天使の都」でお会いしましょう。 [目次へ戻る] |