村岡到:7中総の討論の低レベル 2003.7.2
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6月30日に「赤旗」は第7回中央委員会総会での不破哲三議長の「発言」と「結語」を公表した。綱領改定案についての検討はすでに明らかにした(「日本共産党の綱領改定の課題は何か」。以下「前稿」と略)が、発言は「質問・意見に答える」とタイトルされており、7中総の様子をうかがうことができる。「報告」や改定案には書かれていない部分もあり、少し検討してみよう。
発言は改定案の章ごとに、中央委員から出された質問・意見に答えている。本稿では私たちの関心に合わせて検討する。論理的展開にはならないが、事の性質上ゆるしてもらうほかはない。
「前稿」で、私たちは「民主的改革」と「民主主義革命」の区別や「社会主義革命」とは言わないことを問題にした。この問題については、「『社会主義的改革』といって、『社会主義革命』と言わない理由はなにか」という質問が出され、不破は、「国の権力が一つの勢力から別個の勢力に移るのが革命だ」と説明し、「社会主義的改革」の場合にはさまざまなケースが想定されるから「『革命』という言葉は使いませんでした」と答えた。「別個の勢力に移る」ことによって何が変わるのかには関心がうすいようである。
だが、「民主連合政府が『社会主義をめざす権力』に成長・発展するという場合」があったにせよ、前者は「資本主義の枠内」の「勢力」なのであり、後者は「社会主義をめざす」勢力であり、何が変わるのかをしっかり考えれば十分に「別個の勢力に移る」と考えてもよいし、考えるべきである。上田建二郎少年が不破哲三党員に成長した場合なら、別人になったとは言わないだろうが、事は政治・経済体制の変革なのであり、「資本主義の枠内」か、この枠の突破なのかについてこそ明確にすべきであろう。革命と政権交代とはどう違うのか。
従来の「民主主義革命と社会主義革命との関連について」は質問が出され、不破は「社会主義革命への転化の角度からの特徴づけをなくした」と答えた。「連続革命論的な誤解を残すような表現は、すべて取り除き」とまで強調している。確かにこの二つの過程は「自動的な過程などではない」とは言えるし、言わなければならない。だが、同時に両者をまったく切断するのも正しくない。その関連を状況に応じて探究することこそが必要であり、難問なのである。不破はやたらに「主権者である国民の判断」を強調しているが、その国民の判断に積極的に働きかけるところにこそ、共産党の役割があるのではないか。もし、この役割を過小評価するのであれば、前段の過程(共産党のいう民主主義革命)における党の闘いは位置づかないはずである。「民主主義革命」は強調してもよいが、「社会主義的改革」は強調してはいけないとは一貫性がない。
私が「前稿」で問題にした「社会主義・共産主義」と「社会主義」の不揃いについては、質問が出て、不破は「だいたい過渡期にかかわる状況を表現するときには、『社会主義』という言葉が選ばれています」と答えた。不破は「……過渡期の段階がある、この点についてのマルクスの指摘は、現在でも、基本的には妥当するものだと思います」とも説明している。だが、そもそも、改定案には「過渡期」というきわめて重要な概念は、現綱領と同様、一度も使われてはいない(トロツキズムが「社会主義への過渡期」を強調したことへの反発であろう。もう20年も前に、上田耕一郎の著作に「過度期」なる誤植があったことを指摘したことがあった)。ここにも「社会主義・共産主義」論のあいまいさ、不十分さが露呈している。
なお、「生存の自由」を含む「三つの自由」を書き入れてほしいという意見にたいして、不破はそれは「わが党独自のもので、世間の常識になっているわけではありません」と答えた。そうなると、「社会主義・共産主義」なる、どう考えても「わが党独自のもの」、いや不破独自のものがなぜわざわざ必要なのか。自分でもこの言葉は「文章が不必要に煩雑になる」と心配しているではないか。ついでながら、「生存の自由」を「わが党独自のもの」だと自覚したのは当然だが、ならば憲法にも明記したある「生存権」と書かないのはなぜか。
不破は、未来社会について、「社会のルールが自覚的、意識的にまもられる時代がくる」と説明している。なぜここで法や法律について一言も触れないのか。法と法律はよほど禁句らしい。なお、これまで、前衛党論においては「国家と党」との相違を強調していたことを思い出すと、この可能性について「その一つの実例として日本共産党という“社会”をあ」げているのは一面的であろう。
「統一戦線を構成すべき勢力」に関して、「宗教者」も入れるべきではという意見にたいして、不破は「宗教者の場合には……共通の利益をもった集団かというと、そういうことはないのです」と答えた。だが、そうなると、「知識人」はどうなのか。この問題は、「労働者」と「勤労市民」の違い(現綱領には「勤労者」もある)という問題にもつながる。民主政=民主主義の主体として<市民>を定立することができないから生じている無理の一つである。
「前稿」で明記しなかったが、「大衆的前衛党」なる61年綱領いらいの用語を、前大会での規約改定にしたがって、改定案でも削除した。そのこととも関連するのであろうが、綱領の最後の部分で「党は、……これらの人びとを納得をつうじて社会主義社会へみちびくように努力する」となっていたのを、「社会の多数の人びとの納得と支持を基礎に、社会主義的改革の道を進むように努力する」と変更した。「みちびく」がきつすぎる表現であることをようやく自覚したからであろう。
「第二次世界大戦におけるソ連の役割をどう見るか」については、中見出しに立てて、「“光と影”の両面がある」と初めて認識して、「スターリンの領土拡張主義」などを指摘しているが、これらはトロツキーいらいのトロツキズムの見解のほうがこの点では妥当であったことにようやく気がついたと言える。
結語では、「未来社会論の創造的な開拓」の大見出しが踊り、自らが「開拓者」であることをくりかえし強調している。9年前の部分的改定の際には、さかんに「われわれは、未来社会の青写真づくりをこととするものではない」とか、「未来社会の設計図をほしがる青写真待望論者」を揶揄していた(122頁。123頁)が、今回は逆になっている。都合のよい時だけ、引き合いにだされたのではマルクスも苦笑するだろう。
それはともかく、ここで不破はとんでもない失言を犯してしまった。「前稿」でも問題にした例の「労働に応じた分配」をめぐる説明で、不破は次のように語った。
「これまでのように、社会主義になったら生産物を『労働におうじてうけとる』ことになるといった社会像だとしたら、未来社会も、現状とあまり違わないなと思う人が、多いかもしれません。多くの人は、資本主義社会での賃金とは「労働におうじてうけとる」ものだと考えているからであります。これは、分配論の角度からの社会主義・共産主義社会論では、未来社会の真価を的確に語ることはできない、ということです」。
これはまたあまりに酷いのではないか。「資本主義社会での賃金とは『労働におうじてうけとる』ものだ」って!! マルクスが、これが資本主義国で最大の共産党のトップリーダーの言葉だと聞いたら、卒倒するだろう。「労働」と「労働力」とを区別するのは、『賃労働と資本』にエンゲルスが加えた修正として、マルクス主義の初歩の初歩である。近年、労働現場では「成果主義」賃金の導入が労働者を締め上げているが、不破もそれにいかれてしまったのか。確かに、「多くの人は……考えている」ということで、不破自身の認識だとは書いてないが、そういう多くの人の認識=誤解を解くところに社会科学の意味はあるのではなかったのか。その誤解をそのまま前提にして、未来社会を説くこととは! 分配論に焦点を当てても、私たちのように、資本制経済の基軸をなす「労働力の商品化」を揚棄して、<生活カード制>を実現すると展望すれば、十分に<社会主義経済=協議経済>の特徴・真価は説けるのである。
不破がうっかりではあろうが、これほどのドジを犯したのは、資本制経済を認識する際に「労働力の商品化」という、「価値法則」と並ぶ、宇野経済学が強調した核心を、理解することなく反発しつづけていることの反映なのである。
なお、不破は、「発達した資本主義国での民主主義革命の路線」が国際的にも先駆的であったと強調しているが、先進国でありながら、「対米従属」性を強く残しているという、日本資本主義の特徴という客観的情勢が存在していたからこそ、この路線が生み出されたことについても明記しておくべきであろう。同じような国がたくさんあったのに、他の国の共産党は気づかずに日本共産党だけが利口だったということではない。
この他にも、「統一戦線」に「戦」の字が入っているのを削除してはなどという低水準の質問――不破は「歳末商戦」と言われていると答え、合わせて3度しかない「笑い」の一つとなった――などがあったようだが、紹介するまでもない。
以上から分かるように、7中総では、私たちが「前稿」で重要だと指摘した「労働者階級の権力」の削除問題や、「市場経済」問題はまったく問題にならなかったようである。少なくとも不破は言及していない。天皇制については、一昨年の国会での皇太子の子ども誕生の際の国会での「賀詞決議」について質問が出て、経過を答えているが、肝心の「君主制」認識や「君主制の廃止」削除については問題にしない。
まったく低水準と評す以外にない。不破は、結語の最後に「どれだけ積極的な討議がおこなわれるか」が大切だと力説し、「胸おどるロマンをもって、その活動に取り組んでいただきたい」と結びの言葉を発したが、拍手さえ起きないありさまである。積年の理論的能力の枯渇は予想以上に進行しているのであろう。共産党に活力が不足しているのであれば、社会主義をめざす私たちこそが積極的に対話と論争を展開しなければならない。
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