グローバリゼーションの渦のなかの中国
村岡到
10月22日から24日、北京の社会科学院で「国際シンポジウム 21世紀の社会主義」が開催され、数カ国から約150人が参加した。日本からは、社会主義理論学会の山口勇氏、村岡到や日本科学者会議の碓井敏正氏など6人が参加。ロシア、インド、フランス、ギリシャ、ウクライナ、アメリカからも参加した。会議は、1日目と3日目が全体会で、2日目は4つの分科会――@20世紀の世界社会主義の歴史的経験と再検討、A21世紀社会主義への機会と挑戦、B現代資本主義の変貌とその社会主義への影響、C21世紀と社会主義中国。私は、第3分科会で「協議経済と生活カード制」を報告した。会議には60人の報告要旨が168頁の資料として配付され、同時通訳で行われた。
初めての中国訪問であり、ここでは、シンポジウムでの理論的な問題についてではなく、その印象についてだけ記したい(前者については近刊の『カオスとロゴス』第22号に別稿を掲載)。
上海、魯迅公園へ
また訪れることはないだろうと思ったので、招待された北京に行く前に上海にも立ち寄ることにして、10月18日、成田空港を出発した。帰国は26日で9日間の旅となった。
18日夕方、上海に着いた。白タクに気をつけるようにというガイドブックに従って、長い行列のあとにタクシーで都心のホテルに直行した。確かにすごくしつこく白タクの勧誘があった。タクシーは左ハンドルで、運転手席が厚いプラスチック板で、日本ではほとんど見ないほどがっちりガードされていたので、それだけの必要がある治安状態なのかと思った。空港から都心に入るまでの15キロの片道3車線の高速道路の両側が超高層のビルだらけで、驚かされた! もう一つ、ビルに掲げられている大きな広告が漢字であることは、気持ちを楽にしてくれる。書いてある文字が読めるというのは良いことだ。ただし、英語の進出も凄い(後述)。
翌日は雨で、出かけるときに使った傘を持参していたので助かった。ホテルはYWCA錦江青年会賓会館で、魯迅も泊まったことがあるという。上海の中心に位置している。朝、周辺を散歩してみた。密集したビルの間の道をバスと自転車が切れ目なく走っている。クラクションがひっきりなしに鳴っている。交通信号はあってなきががごとくで、歩行者が急ぎ足で往来している。煉瓦作りの古い家が土煙をあげながら無造作に解体され、建設ラッシュであることを示している。東京のファッションと変わらないディスプレーを施したビルが林立する道路を、ゴミ捨て場から拾ってきたのかと思うようなオンボロの自転車が忙しく行き交っている。エネルギーを感じさせる街であった。前日、食堂で夕食を食べていたら台湾人の大柄な男が日本語で話しかけてくれて、隣のその人の席に移動して彼が注文した料理にも箸を伸ばした。ホテルだからかどうかは分からないが、料理はどこでも非常にうまかった。野菜の味付けが手が込んでいてついたくさん食べてしまう。彼は電子製品の商売をしている人で、日本にも来たことがあるという。彼に翌日たづねるつもりにしていた魯迅公園への行き方を教えてもらった。
10時ころには晴れてきたので、教えられたバスに乗って魯迅公園へ。終点だったので楽だった。日本の公園にもあるように、観光客相手の出店が並んでいる。それほど大きな公園ではなく、特別の何かがあるわけでもない。後楽園の数分の1のゴーカートがあった。体操の器具がいくつもそろっていて、老人が使っていた。日本では見たことのないもので、簡単な仕組みで手足を動かすようにできている。公園のなかに魯迅記念館があるというので探したが、警備の人に2度きいても別な方向を教えられたのには呆れた。表示板に書いてある文字を指して聞いたのだから、何とも分からない話だった。でも、向こうから来た老人に聞いたら、今度は丁寧にうれしげな表情でバックしてくれて記念館の近くまで案内してくれた。「日本人・社会主義者」と紙に書いて示すと、喜んでくれた。
魯迅記念館は大きくはないが、きれいな建物で、魯迅ゆかりの記念品がたくさん陳列されていた。入場料は5元。戦前の日本の『改造』も展示されていた。魯迅と深い親交があった内山完造の小さな区画もあった。歴史を感じ、緊張した気持ちになった。魯迅の著作や研究書が壁面いっぱいに並んでいて、魯迅の広い影響を感じさせてくれた。参観者は日本人のグループ観光客だけで、一人だけ中国の青年がいた。声をかけたら、共産党員でもなく、社会主義者でもないが、魯迅は中国の偉大な文学者であり、深く心酔しているということだった。
帰りは、降りるバス停が終点というわけではないから少し緊張した。バスは先頭から金を払って乗り――物価のことは後で触れる――、中央から降りるのだが、必ず各バス停に止まるようでもないらしい。表示を指さして現在地を確認して間違わずに降りることができた(4年前にソウルに行ったときも、バスが道路の車道寄りではなく中央に止まったりするからバスに乗るのは大変だった)。乗ったバス停の一つ前が人民広場だったので、そこで下りて、散策した。
バスの中も喧噪で、何組かが大声で話している。座っていた私の隣で中年の女性が二人大きな声で話し始めた。しばらくして一人が前に座ったので、やれやれ相方は下りたのかと思ったら、もう一人は後ろに座っていて、中間の私にはまったくおかまいなしにまたおしゃべり再開。後ろの人と座席を替わってやった。街の中でもケンカしているのかと思うくらい大声で言い合っている。本当のケンカも多いらしいが。
夕方、ホテルの1階でコーヒーを飲んだら25元だった。9階の食堂はたっぷりの肉そばが5元。どういう価格体系なのであろう。コーヒーはまだ珍しいということかもしれない。上海の飛行場でも20元だった。1元は15円。バスは1元、マクドナルドのソフトクリームが2元だった。ホテルの裏の通りでは5元でおかずを5品選べる定食が5元。20元とか30元あれば、たらふく食べられるようである。それから、どこでも盛りがよい。とても一人では食べきれない量である。あとで、北京のホテルで相席した女性に聞いたら――この人は流暢な日本語を話すので驚いたが、通訳が職業で何度も訪日していた、日本は良い国だと言っていた――、中国では食事は食べきることは良くないことで、たくさん残りが出るほうが良いのだという。お客さんを招いたときなどは、山盛りの料理でもてなすことが美徳とされているだという。
夜は出歩かないで、テレビをつけた。テレビでは盛んに英語が幅をきかせている。ゴルフなどスポーツばかりのチャンネル、アメリカ映画ばかりやっているチャンネルもあった。テレビはすべて国営のCCTVで6つか7つあるのではないだろうか。
20日朝、上海の飛行場から北京へ。国内だから窓口は入管よりは楽であるが、それでも飛行機につきものもあの長い行列に耐えてのパスポートのチェックは、ハイジャックが後を絶たないから仕方ないが、気持ちのいいものではない。
ブズガーリンと期せずして再会
いよいよ北京。招待先との連絡がはっきりしていなかったし、建国門近くの社会科学院の場所は確認していたので、タクシーに乗る。北京には白タクの勧誘もなく、運転席のガードもないので、さすがに首都だからかと思った(だが、運転席のガードは上海と同じものも走っていた)。晴れていた。社会科学院には30分、50元で着いたが、何と日曜日なので入り口のドアは閉まっていた。これは困ったと思ったら、守衛の場所があり、若い人が立っていた。だが、言葉が通じない。私は中国語はニーハオしか知らないし、相手は英語は話せない。社会科学院からメールをくれていた人の名前と電話を紙に書いて伝えると、電話してくれて話が通じたらしい。しばらく待っていたら、小さな自動車から若い男女が降りて、私の名前を呼んだ。思わず握手して、車の中に。そこにアメリカ人が一人いて、紙片に私の名前が書いてある紙を拡げて見せてくれた。実は、若い男女が空港にこのアメリカ人――彼はパレスチナ人だがアメリカに帰化したアメリカ共産党員――と私とを迎えに行って、アメリカ人だけ見つけて、私を見つけられず困っていたのだという。行き違いはあったが、一件落着。
車のなかで、驚くべきニュース! どういう訳かそのアメリカ人が持っていた招待者一覧を見ていて、彼が「ブズガーリン」と声にした! えっとびっくりして紙片を見たら英語でブズガーリンと書いてあった。まさか! ここで会えるとは。その数行下に彼の妻のリュドミラさんの名前もあった(ここで初めて、日本人の参加者が5人だと分かった)。5年前の3月、私は田中雄三さんに連れられて、夜のモスクワを彼らの家を訪れた。そして4月にブズガーリンさんを日本に招待した。明日はブズガーリンに会えるかと思うと、涙がでてきた。人に会う前に涙したのは生まれて初めてである。感激が持続したまますぐ近くのホテルに到着。同じ並びの徒歩でも10分くらいの「北京市委員会会議中心」なる立派なホテルである。「中心」とはセンターの意味。二つもベッドがあるゆっくりした部屋だ。位置は首都のど真ん中で、天安門から2キロ東、建国門の近く。新築のビルだった。夕方、少し時間があったので、タクシーで天安門まで行く。わずか10元。何しろその規模の巨大さに圧倒された。天安門広場は先がどこか見えない感じである。モスクワの赤の広場よりもはるかに大きい。6時くらいに暗くなってきたが、帰りは歩いて30分だった。
翌日の昼、社会科学院で昼食。丸いテーブルの部屋で最初は一人で食べ初めていたら、インド人だという人につづいて、ブズガーリン夫妻が現れた。向こうもびっくりして再会を祝して固い握手。リュドミラさんが「あなたのことはよく憶えています。もういちどモスクワに来てください」と話しかけてきた。外国人が10人ほど集まり、碓井敏正さんが向かい側に座った。お名前は知っていたし、何かの会議で同席したことはあるようだが、会話するのは初めてであった。夕方もそこで食事、今度は大きな部屋で招待側のスタッフもたくさん出席していた。箸を進めていたら、山口勇さんが現れた。癌と闘病生活で出席の予定だったのに欠席すると聞いていたので驚いたが、知り合いの日本人が増えるのは心強いことであり、やぁやぁということになった。これで日本人参加者は6人に。埼玉大学の伊藤修さんと初めて出会った。どうやら、この日は予備の日で、会議は22日からのようである。事前に日程が配布されていないので、皆こまっていた。
民族文化博物館、天安門、廬溝橋で
22日からの会議の様子は別に書くことにして、24日の昼に会議は閉会のセレモニーで幕を閉じ、希望者が「民族文化博物館」に観光することになった。バス2台で北京の真北に位置する大きな施設まで。社会科学院のスタッフの女性がいろいろ説明してくれた。天気が快晴で、さまざまな民族の特徴ある住居、生活用品、民具などを見てまわる。日本で、私が子どもの頃に見たことがある農機具もいくつも展示してあった。大きな凧が青空とは形容しにくい晴れた空に高くいくつも舞っていた。どこかの民族の子どもが歌をうたってくれて、2本の竹の棒を地面すれすれに平行移動して閉じたり拡げたりしてその間に上手に足を踏み込む、音楽に合わせての動作に、観客も何人か参加して、失敗のたびにみな大笑いだった。ブズガーリンさんは素早い動作ではなかったが笑いを誘っていた。私も誘われたが遠慮した。
25日はもう一度、天安門に行って、今度は内まで入ってみた。往路で、この日は道路で沢山の人たちがバケツと雑巾を手に道路脇の鉄柵などを清掃していた。学生もいるし、成年の人もいるが、海軍の少年兵も整列して清掃している。天安門の前では、路上にくっついたガムなどを丁寧にはぎ取っている。指揮していた人に聞いたら、毎月1度、清掃日があるのだという。天安門は記憶している人も多いだろうが、毛沢東が若い顔で中央に配置され、左に「中華人民共和国万歳」、右に「世界人民団結万歳」と赤地に白抜きで大書されている。天安門に登るだけでも15元。折角なので登ってみた。目の前に天安門広場が拡がっている。そして数多くの人たちが集まっている。その広さに圧倒された。
清代の見せ物があるというので、入ってみたら、兵馬俑の実物が展示されていたが、案外ちいさなものであった。その隣には、拷問の様子を色鮮やかに筆で描いて展示してあった。凄いの一語である。首をはねる図、頭に釘を打ち付けている図などなど。人間は、数百年前にはここまで残虐な刑罰を科していた。そうしないと、社会の秩序――支配と言い換えても良い――を維持できなかったのであろう。そのことにも思いをめぐらしたが、なぜそれをここで展示しているのだろうと考えた。御茶の水の明治大学にも刑罰の展示館があるが、入ったことはなかった。世界の拷問の展示らしいが、一度見ておく必要を感じた。日本の歴史館などに類似のものはあるのだろうか。
その先に故宮があり、その壮大さは案内図を見ただけでも明白である。すでに中国に8日間過ごし、必ずまた訪れるであろうと考えるようになっていたこともあって、写真集だけ2冊買って、ホテルに地下鉄で戻ることにした。地下鉄は3元。建国門で下りて、社会科学院の前を通ってホテルへ。ホテルの前の「蒙古人」という名のレストランに入る。前の日に碓井さんからあそこは高そうに見えるけど安かったよと言われていた。蒙古だから羊の肉ばかりであった。店の人に北九州に行ったことがあるという男がいて、何を食べるか選ぶのが楽だった。串刺しが3元だった。餃子みたいなものなど合わせて41元。
夕方前に北京南西の郊外に位置する廬溝橋に行ってみた。タクシーで41元。ただ橋がかかっているだけであった。それでもそこを歩くのに20元。マルコポーロが一番美しい橋と言ったとかで、確かに両側の欄干に人の頭より大きめの座った獅子が3メートルおきくらいの間隔で据えられている。大きな石が敷かれている。この川にはすぐ近くにも沢山の橋がかかっている。橋の向こう側まで歩いてみたら、古物店が並んでいた。明治時代の日本の1円銀貨だとか、文革時代の赤い小さな毛沢東語録とか、古い時代の飾りものが並べられていた。違法なのであろうが、ここでは円を両替してくれた。1000円が60元であった。橋を戻ったら、村山富市首相も写真を撮ったという石碑があったので、そこにいた人に写真を撮ってもらった。
ところが、帰りが大変だった。タクシーは滅多に来ない所だったのである。日は暮れるし、やっと見つけたタクシーも方向が違うと断られる。少し心細くなったが、必死に頼んでようやく都心までOKしてもらう。ところがUターンできないところらしく、路上の警官とも言い争いしていたが、結局は廬溝橋の隣の橋を反対側までドライブ。運転手がUターンしようとしていることが分かったので心配はなかったが、料金は51元になった。いずれもメーター料金で走っている。空気が酷く悪く、帰りの運転手は何度も窓を開けてつばを路上に吐き捨てていた。平屋にくっついている煙突の先から真っ黒なすすを火掻き棒ではき捨てている女もいた。あのすすがそのまま空中に散逸されたのではたまったものではない。その一軒だけがそうしているわけではないであろうし、工場の排気はもっと酷いはずだから、付近の空気は劣悪なのであろう。
林立する超高層ビルと貧富の格差
北京の中心でも超高層のビルが林立するすぐ裏側には平屋の古い小さな家が密集していて、東京では見ることもできないリヤカーが野菜を運んでいる。いくつもの建物に「旅館」と看板に書かれているから、地方から北京に来た人が泊まる安宿なのであろう。野菜を道に並べて行商している夫婦?がいたので、写真を撮ってよいかと聞いたら、断られた。貧富の格差は歴然である。空気の悪さも実感できるほどであった。澄んだ青空はなくなったということである。また、犬や猫を一匹も見ることがなかった。前にモスクワに行ったときには犬を連れている人が多かったし、ブズガーリンさんの家には3匹も猫がいた。食べるものがなくなると、犬を飼わなくなると何かで読んだことがあるが、今の北京で食材が全体として不足しているとは思えない。
北京では国営のCCTVの1つのチャンネルが丸ごと英語だけで放映している。外国人向けということらしいが、バラエティー番組でも司会者が合間あいまに英語で話している。聞けば小学校での英語の授業も広がっているという。中国人の英語は上手だということは常識らしい。街中の広告でも英語は多用されている。広告ではないが、「拒絶家庭暴力」の文字と合わせて、「ストップ・ドメスティック・バイオレンス」と英語が使われている。この標語にもあるように、上海も北京もスローガンに満ちた街であった。法律や道徳を守れというようなものが多いように思えた。テレビドラマでも敏腕の女検事が悪党を裁判でやっつける場面が強調されていた。地下鉄などでは、「降りる人が先」と盛んにアナウンスしているという。われ先に降りる人がまだ多いからである。
それから、上海でも北京でもホテルの食堂や廊下に静かに音楽が流れていたが、日本の曲やポール・モーリアの曲もあり親しみを感じた。テレビの中国のドラマのなかでもエーデルワイスが使われていた。ジュディ・オングが何かの賞を取ったらしく、独演番組でたくさん日本語で歌っていた。
北京は、超高層のビルも林立しているが、道路の幅がすごく広く、道路とビルの間も花壇が配置されるなど空間がひろく、ゆっくりした印象を与える。歴史的に政治の中心であったから、歴史的な建造物も多い。自動車ラッシュであることは変わりないが、クラクションは滅多に聞こえないし、人々の歩き方が忙しくはない。清掃は行き届いている。
建国門の路上にパソコンの画面による街の案内が数メートルおきにいくつか設置してあるのにも驚いた。カーソルを動かすと、名所やその説明が自在に表示される。ケイタイ電話は東京ほどではないであろうが、最先端の流行品となっている。
上海にしても北京にしてもこの急速な経済発展、近代的な都市化は、土地が国有で、解体と新築が簡単に着手できることに因っている(私有財産制の日本では土地収用に多大な困難がある)。そこだけは「社会主義」の利点を活用していると言えるであろうが、経済成長だけが<社会主義>の目標であるはずはない。
北京最後の夜は、この8日間についてメモすることにした。
翌朝、少し時間があったので、近くを散歩していたら、兵士の募集を笛や太鼓の鳴り物入りで、年輩の女性が派手な赤い服を着て踊りながら宣伝していた。軍隊も一緒である。予定の時間よりも早く、社会科学院の人が来てくれて、空港まで送ってくれた。あのいやな出国手続きを経て、3時間で成田に無事に戻った。美人のスチュワーデスが、上海行きの人と同じで、向こうも憶えてくれていたのには驚いた(まさかハイジャック犯と疑われたからではないであろう)。隣の席の男と話したら、彼は中国人だが日本に帰化した人で、彼のおじいさんは大地主で中国革命によって土地をすべて奪われ、村を追放されたという。そのせいか、彼は、中国は経済的には発展しているが、「人間性は非常に遅れている」と言う。日本で消費されている農産物のいくつかは中国からの輸入のほうが多いのだと説明してくれた。「人間性」の言葉で意味しているのは、約束を守らないこと、自分のものではないものを平気で取る=奪うことである。彼によれば、共産党の勝利によって「強盗の論理」がはびこったということになる。
冒頭にも断ったように、理論的な問題は別稿に譲りたいが、広大な超高層のビル都市、膨大な人口の密集、この圧倒される現実は、人間存在の小ささを教えているようである。また、グローバリゼーションが開発した欲望に染まった都市の若い人、遅れた農村に住む少数民族、これらの多種多様な13億人の人間が一つの社会を形成していくことが超困難な課題であることを示している。今日の人間は、自由や平等を主張するまえに、社会を形成していくこと=<連帯>を学ぶ必要があるのでないであろうか。そうしないと、社会は存続できなくなるだろう。
(むらおか・いたる、『カオスとロゴス』編集長)
社会科学院への挨拶
貴重な体験に感謝
村岡到(日本)
この国際シンポジウムに招待していただき深く感謝しています。今回の初めての訪中は、私の人生にとってきわめて大きな意義をもつものとなった。広大な中国の一端にふれ、人間についての見方についても改めて考え直す契機となった。
私はこのシンポジウムに参加して、グローバリゼーションの嵐のなかで、中国の人たちが社会主義をどのようにして建設していくのかについて悩み、模索している様子が理解できた。このことが一番大きな収穫であった。私は、中国の現実をこの目で直接見るまでは、正直に言って、「社会主義市場経済」なるものについて根本的に否定的に評価していた。しかし、上海、北京の今日の現状を少しだが実感したことによって、この理論が提起される現実の条件についてもっと深く認識しなくてはいけないと反省させられた。
2日目の第3分科会での討論の最後に、「中国では社会主義とは何かがまだよく分かってはいない。同時に資本主義が何かについてはもっと分かっていない。なぜなら中国では資本主義は体験していないからだ」という発言があった。この発言はきわめて重要な反省を、私たち全員に迫るものだと思う。その前に発言した年輩の研究者が「資本主義から社会主義への変革は長い時間がかかる困難な過程である」と明らかにしたが、この認識はひろくこのシンポジウム参加者の共通の認識になりつつあると実感した。司会もされた報告者が「平和的移行」についてベルンシュタインを引いて強調していたことも印象的であった。インドからの参加者がすぐに、1973年のチリでの反革命についていかに考えるべきかと反論したが、確かにそこには大きな問題が残されている。この問題は、社会形成にとって法律が重要な役割を果たしていることをいかに考えるかという問題にも結びついている。
前日に日本人の研究者が「計画経済は悪くない、官僚的計画経済が悪い」と発言した。私がその考え方は誤りであり、「スターリン主義官僚は計画経済と命令を好むのであり、計画経済の考え方が官僚主義を生むのだ」と発言したことについて、休憩中に「良い計画経済は不可能である」と同意してくれた方がいた。私は、市場経済(資本主義)と計画経済(ソ連型社会主義)をともに越える道を探究しなくてはいけないと考えている。
5年前に私たちが日本に招待したロシアのアレクサンドル・ブズガーリンと期せずして再会できたことも望外の大きな喜びであった。また休憩中に、レーニンによって追放されたロシアの農学者ブルツクスを研究している研究者と出会えたことにも驚いた。私が提起した「協議経済と生活カード制」について、いくつかの好意的な反応が返ってきたことも嬉しかった。日本ではほとんど反響はないが、中国ではグローバリゼーションに抗していかにして社会主義を建設していくかが実践的な課題になっているからであろう。
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