村岡到:9・11特攻テロ:「報復」ではなく<反省>を――「イスラエルの無法」容認の巨大な代償
「稲妻」第338号=2001年10月1日 掲載
2001年9月11日、この日は、1945年8月6日以上に深刻な意味を人類の歴史に刻印することになるだろう。アメリカ経済の象徴といえるニューヨークの世界貿易センターと、アメリカ軍事の中枢ペンタゴン(国防総省)が、ハイジャックした旅客機を激突させる特攻テロによって攻撃された。110階420メートルのツインビルは完全に倒壊し、死者は数千人に及ぶだろう。瓦礫を片づけるだけでも数ヶ月を要する。
信じがたい特攻テロの映像は、リアルタイムで全世界で放映され、強烈な印象でかつてない巨大な衝撃を与えた。アメリカは即日、「連邦非常態勢」に入った。全米で飛行機の離発着が禁止され(飛行機は広大な国土をもつアメリカの輸送手段の主軸であり1日6000便が経済の動脈となっている)、世界の投資資金の3分の2を扱う金融市場は封鎖され、プロ野球も試合を中止し、全米は機能麻痺状態にたたき込まれた。1941年の「パールハーバー以来だ」と叫ばれ、ブッシュ大統領は、翌日には「これはテロを超えた戦争行為だ」と声明し、軍事的報復の準備に着手した。
これだけ巨大な出来事であれば、その影響もその意味も簡単に解き明かすことはできない。直撃されたアメリカ経済、ひいては世界経済はいかなる打撃を受けたのか。世界同時不況が進行するなかで、そのマイナスの影響は計り知れないと言える。軍事行動というレベルでは国家対国家という枠を超えた「新しい戦争」の意味を考えなくてはならない。また、この惨劇を直接にあるいは映像で間接的に体験した人間の記憶と精神にどのような心理的トラウマを残すことになるのか、回答を用意している者はいない。この世がかくも不安定ではかないものであると知ったからには、もはや真面目に生きる意味はないと思うようになった少年も少なくないかも知れない。あるいは、何かの課題に打ち込んで生きる意味を見いだしている人間にとって、たじろいでその意味を問い返す契機になる場合もあるであろう。地球の最後を予感することはないが、さまざまに深刻な問題を投げかけたことは疑いない。「日本人救出の数」だけを過大に報道するマスコミの質の低さは目にあまるものがある。
他方、小泉政権は、アメリカの軍事的報復に呼応して、自衛隊の海外派遣を強行しようとしている(この危険な動向については左翼的世界では強調されているので、ここでは取り上げない)。最貧国のアフガニスタンは、平均寿命が45歳、今年の干ばつで50万人の餓死者が予測されている。内陸の山岳に位置するアフガニスタンへの軍事的報復は、イスラム世界を敵にまわし、アメリカが敗退したベトナム戦争の再現となるであろう。
大量殺戮反対を共通の道徳に
第二次大戦末期の日本軍の特攻隊を想起させる自爆テロ、しかも奪った旅客機を爆弾代わりに活用する、この行動はこれまでのハイジャックをはるかに超える質を示した(国際テロ事件は昨年、世界で423件発生し、1196人が死傷している)。人間の生命をここまで軽んじる思考が、政治的目的に結びついて実行にまで転化すると、現代社会は防衛できないことを衝撃的に明らかにした。ミサイル防衛だのエシュロンだのでも対抗できない。アメリカが先頭に立って開発した電子技術がテロ・ネットワークに活用され破壊力と化した。幸いにして今回は原発への攻撃はなかったようであるが、原発にたいして同様な特攻テロが敢行されれば、原爆が投下されたのとまったく同様の惨劇を招くことは明らかである。また、ナノテクノロジーの開発(殺人手段の簡便化)や生物兵器の危険性も増大している。現代の文明は、自らが創り出してきた巨大な可能性と背中合わせに人類の存在そのものを危機にさらしている。したがって、科学技術の飛躍的な発展に見合う社会の道徳的向上を急務としている。国際的テロ組織を想定しなくても、都市の水源になっているダムに猛毒を投棄すれば、地獄絵が現出する。すでに私たちは、1995年にオウム真理教によるサリン事件を経験している。
私たちは、このサリン事件の直後に「<社会の存続>と『結社の自由』」と題する論文を提起した。「大量殺戮手段の開発」の主体は従来は国家であったが、「この条件が突破された」ことに注意を喚起し、「この重大な変化は、その社会にまったく新しい道徳的基準が必要であることを提起している」と明らかにした。その内実は「大量殺戮手段を開発・製造することを主張したり実行する組織は、憲法第21条の『結社の自由』の埒外にあるものとして『禁圧』する」というものである(拙著『社会主義へのオルタナティブ』ロゴス社、参照)。サリン事件がテーマだったので、憲法を引いたが、国際法としても適用可能である。旅客機はもちろんテロリストが製造したわけではないが、旅客機を大量殺戮の手段に活用したのはテロリストである。したがって、今回の行為もこの新しい道徳的基準に照らして、断じて許すことができない。
だが、テロを許さないことは、テロリストへの軍事的報復を意味するのか。そうではない! 軍事的報復は新たなテロを誘発するだけである。このことを理解するのは難しいことではない。この悪循環には多くの人びとが気づいている。
アメリカでは星条旗の洪水のなかで「愛国心」がかき立てられ、ブッシュによる軍事的報復への支持が優勢ではあるが、他方では「武力行使には犯行責任者の解明が必要である」とする世論も81%となっている。アメリカ・緑の党の代表は「無差別殺戮に反対」だと表明してデモ行進した。人気歌手マドンナは、14日にロサンゼルスで1万8000人の聴衆にむかって「暴力は新たな暴力を生み出すだけです」と語りかけた。
佐渡龍己氏は、「怒りはテロリズムを助長する源である」と指摘し、組織から「離脱したテロリストが逃げ込める『逃れの町』制度を作ること」を提案しているが、きわめて重要である(「朝日新聞」9月16日、「私の視点」)。
Vサインで歓喜する少年
私たちは、「テロは許されない」を共通の道徳にしなければならない。しかし、そのためにこそ、なぜテロが起きるのかを考えなくてはならない。何事によらず、何か事件が発生すると、誰だってまず誰が起こしたのか、を問題にする。同時に、なぜ起きたのか、その背景は何か、を考える。ところが、今回の特攻テロについては、誰がについては「オサマ・ビンラディン氏らのテロリストではないか」と推測・宣伝されているが、<背景は何か>についてはほとんど語らない。「どんな理由があろうとも」(「テロは許されない」)という形で、思考は遮断されてしまう。テロの背景を考えることは、テロを容認することになるなどという阿呆としか言いようがない発言をくりかえすニュース・キャスターもいる。
その背景の一端は、断片的ながらすぐにテレビの映像となった。エルサレムでは、特攻テロの直後に、街頭で快哉を叫ぶデモが起き、10歳位の少年がVサインで歓喜している。彼の友達や両親はイスラエルの銃弾に倒れたのかもしれない。そこでは失業者は5割をこえ、1日2ドルの生活を強制されている。この1年間にパレスチナ人は600人もイスラエルによって殺害されている。イスラエルの侵略とこの貧困を基礎に、少なくない青年が、それも高い教育を受けた青年ほど「ジハード=聖戦」にわが身を捧げる殉教の道を選択している。彼らは希望もなく出口を塞がれ、天国での神の慈悲だけが救いだと信じている。馬鹿な錯覚だとせせら笑うことによっては、この現実をなくすことはできない。ましてや爆撃によって彼らの生命と生活を奪うことは、彼らの絶望と「確信」を増殖するだけである。パレスチナ問題について、これまで正面から認識してこなかった私には、この問題について語る用意はないが、私のこのような怠慢も含めて、この機会にパレスチナ問題やイスラム文化について認識を深める努力をしなければならない。イスラエルによる度重なる国連決議を無視した侵略を放置していることの代償はかくも巨大だということである。
焦点の人ビンラディン氏の皮肉な軌跡も再思三考に値する。55の国家・地域の軍事組織を結ぶ国際イスラム戦線を統率する彼は、1979年のソ連邦によるアフガニスタン侵攻に反撃するゲリラに身を投じ、アメリカの援助を受けて育成されたのに、10年前の湾岸戦争において、アメリカ軍が聖地メッカのあるサウジアラビアに駐留しつづけることを契機にして反アメリカ帝国主義へと転身した。アフガニスタンはソ連邦によってもアメリカによっても支配することはできず、今やイスラム原理主義のタリバンが実効支配している。
この特攻テロの背景には、<イスラム文化・宗教と世界>という大きな問題が根深く存在している。キリスト教世界とは異なる生活と価値観をいかに理解するかという問題である。キリスト教世界における「正義」だけでは推し量れない問題を理解する必要がある。
「自由」よりも<平等>を
ブッシュをはじめすべてのマスコミは「自由と民主主義を守れ」と叫ぶ。そこに欠落しているのは<平等>である。私たちは、たったいま、5割の失業者と1日2ドルの生活の極貧状態を知り、同時に都会の利便を最高に享受する「豊かな生活」を知っている。ここにある巨大な落差を放置しておいてよいのだろうか。<平等>の視点はそこに目が向くことを教えてくれるが、「自由と民主主義」の強調はむしろ目を塞ぐ作用を果たしている。
周知のように1789年のフランス大革命の標語は「自由・平等・友愛」であった。<平等>はどこへ行ったのか。いうまでもなく<平等>とは何か、と問えばどんな賢人もすぐには答えられない。そんな曖昧なものは意味がないと捨てる者に、重ねて問う。では「自由」とは何かなら明確な答を用意しているのか。いずれも難問であるにもかかわらず、「自由」はかまびすしく発せられ、<平等>は嫌われていることに気づくなら、私たちは一歩だけ真理に近づくことになる。<平等>論については、いずれ真正面からテーマにして解明したいと考えているが、結論だけ示すと、<生産手段の私的所有>という<不平等>の根源を問題にすることを避けなければいけないとする制動こそが、<平等>を回避する最奥の根拠なのである。そんなことを考えると、あの「社会主義」に接近してしまうと恐れて(正確には誤解して)、あるいは恐れ(誤解)させられているからである。いかなるイデオロギーからも自由に思考し、<平等を志向する>私たちは、<生産手段の私的所有>を揚棄するとはいかなることなのかを歴史の経験に照らして深く探究することこそが、なお依然として人類の課題だと考えている。そして、私たちは何一つ新しく気づいていないというわけではない。<所有から占有へ>が21世紀以降の人類が進む道であり、このレベルで<社会主義>を特徴づけるなら<生産手段の連帯占有>の実現と表現することができる(拙著『協議型社会主義の模索』社会評論社、参照)。
共産党の主張の意義と限界
日本共産党は、事件の1週間後に、不破哲三議長と志位和夫委員長による各国政府への書簡を発表した。その趣旨は、「テロ根絶のためには、軍事力による報復でなく、法にもとづく裁きを」というこの書簡の標題が明示している。後に指摘する1点が見事に欠落していることだけが弱点ではあるが、その主張は基本的に正しく、私たちも支持する。事件翌日に開催された国連安保理事会での決議1368を引用し、国際的諸協定や1988年のパンアメリカン機爆破・墜落事件の事例――「リビア政府が容疑者とされた2人の人物の引き渡しに応じ」た――も引きながら、「国連憲章と国際法にもとづ」く対応の必要性を強調している。市民運動のなかでは「報復ではなく、平和的解決を」と主張されているが、国際問題の「平和的解決」のもっとも主要な形態は「国連憲章と国際法にもとづ」く対応に他ならない。後者に言及しないで、ただ「平和的解決を」と主張するのは空論にすぎない。「純粋法学」の創始者ハンス・ケルゼンが明確にしているように、「法というものは、平和を促進するための秩序である」。法(律)に嫌悪感をいだきながら、平和を創造することはできない。
なお、<則法革命>を主張している私たちにとって関心をひくのは、この書簡が「法にもとづく裁判による犯罪の処罰は、人類の生み出した英知の一つです」と明確にしている点である。恐らく、共産党の文献のなかでこの点が明言されたのは初めてであろう。「法律は支配階級の意志を貫く道具である」と考えてきたマルクス主義の主要な教条を放棄することを意味する。法や法律や裁判についての、これまでの共産党の理解がどのようなものだったのか、その認識を変更するのか、明確にしなければならない。
共産党の書簡で欠落している1点とは何か。今回のテロの背景にまったく触れないことである。私たちは、Vサインで歓喜する少年の存在=イスラム問題を直視することが不可欠であると強調したが、共産党はまさにこの現実を直視することを避けている。
怒りと悲しみを超えて、人間が立ち戻るべきは、人間と郷土への愛であり、他の集団や異邦や異文化との平等を志向することこそが、社会を防衛し、自由と可能性を享受する条件なのである。「報復」ではなく、<反省>を!
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