村岡到:不審船事件が明らかにしたこと――国連海洋法条約に違反したのは日本だ

 「稲妻」第340号=2002年1月15日 掲載

 昨年12日22日、海上保安庁の巡視船が鹿児島県奄美大島沖の日本の排他的経済水域(EEZ)内で国籍不明の不審船を発見し、停船命令を発したが応じないため、威嚇射撃し(3回)、不審船が応戦しさらに逃走したため、中国のEEZ内で船体射撃し(4回)、不審船は沈没し、乗組員約15人が海中に沈み行方不明となった。不審船は朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)の船であると思われる。
 この事件について、小泉純一郎首相は翌日昼、「奇怪な行動だね。我が国の近海にこういう武装した不審船がうろちょろしているということは遺憾な状況だ。……法的な面、現実の対応の両面から対応を考える必要がある」と語り、不審船の沈没については「これは正当防衛でしょ」と答えた。小泉政府は不審船を北朝鮮のものと断定はしていないが、その可能性が高いと中谷元・防衛庁長官が即日、明らかにした。また、日本のEEZ内での武器使用の条件緩和を求める声も便乗的に起きている。
 他方、北朝鮮は27日になって、外務省スポークスマンが「日本当局者がなんの根拠もなく事件をわれわれと結び付ける世論を拡げているのは、わが共和国に対する重大な冒涜行為として絶対に許せない」と表明した。26日夜の平壌放送(在外同胞むけ)では「謀略だ」と非難したが、国内むけの朝鮮中央放送は報道していない。

 海洋についての基礎的認識
 
 小泉首相の言う「奇怪」の対象はいうまでもなく不審船であるが、海上保安庁の巡視船の行動も「奇怪」ではないのか。
 不安と緊張を高めたこの事件とその後のマスコミの報道について検証しよう。そのためにはまず基礎的知識を確認する必要がある。
 陸地における国境線は、緊迫しているインド・パキスタンの国境カシミールなどいくつかの紛争地域を除いては明確であるが、海上については長い間どこまでを各国の主権の範囲とするのか争われてきた。今日では「領海」は沿岸12カイリ=22キロとされ、その外は<公海>とされている。もう一つ、国連海洋法条約によって、沿岸200カイリ=370キロを越えない範囲で「排他的経済水域」を設定できることになっている。このEEZ内では天然資源や漁業資源などについて排他的に国の主権を行使できる。つまり、許可なしには他国は操業などはできない。EEZが重なる水域については当事国間で「暫定水域」(操業条件などを取り決める)や、「中間水域」(相手国の許可なしに操業可能)を協定する。日本も中国も国連海洋法条約を批准しており、「暫定水域」と「中間水域」を協定している。
 また、領海内で不審船の追跡が開始された場合には他国の領海に達するまでは追跡することが許されている。EEZ内でも同様であるが、この名称にも明らかなように、この場合には対象が不法な経済活動をしている船などに限定される。
 分かりやすく言えば、麻薬取引、情報収集、他国への不法な潜入のための行動などにしても、それが公海上で行われている限り、世界のどの国もそれらを規制したり禁圧したりすることはできない。領海内に入った時点で禁圧するのが国際法のやり方なのである。

 海保巡視船の国際法違反
 
 この基礎的認識に照らして判断すると、今回の不審船事件は、不審船の発見地点は奄美大島の北北西150キロのEEZ内である。日本の領海のはるかに外である。そして、停船命令や最初の威嚇射撃は日中の中間線(排他的経済水域の境界線)の日本側40キロであるが、2度目の船体射撃と不審船の沈没は中国のEEZ内である。日本政府の説明では、不審船は漁船を装っていたのに、漁網がないなどの理由で「不審船」と認定されたのであり、その判断の時点で「経済活動」はしていなかったと認識されたことになる。そうすると、EEZ内では経済活動だけが規制できるのだから、追跡することまではできないはずである。つまり、海上保安庁の巡視船は国際法を侵犯したというべきなのである。「奇怪」と「違法」とは意味は違うが、後に指摘するような小泉流会話法を真似れば(あまり真似ないほうがよいが)、巡視船も「奇怪な行動」と言える。
 したがって、中国共産党機関紙「人民日報」は27日、「海上武器使用は法理に欠ける」と題する記事を掲載した。韓国の「朝鮮日報」は25日の社説で「中国のEEZ内で船舶を撃沈した」点を指摘し、「周辺国の『懸念』は日本の国益にならない」と警告した(「朝日新聞」31日)。
 この事件について、まずはっきりさせなくてはならないポイントは、この点=海上保安庁の巡視船が国際法を侵犯して、不審船を沈没させてその乗組員を「殺した」点である。
 ところが、日本政府やマスコミでは、肝心のこの核心=どこで事態が生起したのかがごまかされている。小泉首相の場合には「我が国の近海」で事が進められる。憲法の「隙間」などと「常識」で法理をねじ曲げる手法である。「朝日新聞」の社説では「奄美大島沖」で済まされる(24日)。「近海」とか「沖」というのは日常語ではあっても国際法で通用する概念ではない。国家間の軍事行動を引き起こしかねない重大事態(だから社説で取り上げる)について井戸端会議の水準で処理してよいのか。
 事件翌日の報道では、朝日新聞の田岡俊次氏が「公海で追跡始め射撃 紛議になる可能性も」という見出しの記事で、上記の諸点を明確にした(正直に言えば、彼から教えられた)。その記事では冒頭から「沿岸から12カイリ以内の日本の領海内」と、領海の幅が明記されている。だが、それ以降の記事では丹念に読まないと、領海とEEZとの区別も事件発生の地点もあいまいにされている(29日には大きな地図が掲載されているが、そこには領海はおろかEEZも表示されていない。小泉流「我が国の近海」と言うわけだ。富士山の標高なら常識の範囲として表記するには及ばないだろうが、漁業関係者は別として、国民のどれだけがEEZやその幅やその意味を知っているだろうか。周知とは言えないだろう。全く説明がなかったというわけではないが、不十分であったことは明白である。
 前記の田岡記事の下にはテレビにもよく登場する軍事問題の解説者が3人コメントしているが、「法律の専門家ではないので、法的な妥当性については答えられない」と正直にコメントした江畑謙介氏はよいとして、あとの2人はどこで起きたかにはまったく頓着していない。こんなコメントは、事態をごまかす役割だけは果たすが、何の意味もない。
 また、前記の田岡記事の扱いについて気になる点がある。彼の肩書きがまったく表示されていないことである。彼は朝日新聞の編集委員ではないのか。田岡氏は30日には「記者は考える」コラムに「社会部」として登場する(この記事も真っ当なよい記事である)。私が読む第14版では「(田岡俊次 )」と氏名の次に1字分ブランクがあるが、何を意味しているのか。恐らく「氏」となっていたのではないか。「田岡俊次氏」だとあたかも朝日新聞とは関係ない人間を意味する。しかし、自社の記者に「氏」を付けるのはおかしいと後から気づいたのか。いずれにしても、なぜ「編集委員」の肩書きを外すのか。政府の意向に添わない記事については新聞社としてのかかわりを薄める配慮が働いたと見て間違いない。このような及び腰の翼賛報道の行く手に何が待っているのか、戦前の経験はここでも風化しつつある。それでもまだ田岡記事が掲載されたことをもって「まだまし」とすべきほどに後退した地点に私たちは立っているのだろうか。
 さらに、日本共産党がこの事件についてまったく役立たずである。報道は極端に小さく、領海外であることすら明記していない(23日、1面)。「主張」(他社の「社説」に当たる)でも取り上げないし、記者会見も開かない。「タブーなき新聞」と称することもあるが、世論に真っ向からは逆らわない姿勢がここでも大きな弱点になっていることだけを指摘しておかなければならない。

 北朝鮮の行動の問題性
 
 次に指摘しなくてはいけないポイントは、北朝鮮の行動の問題性である。1999年3月に能登半島沖で起きた不審船事件などに照らして、今回の不審船は北朝鮮のものであると判断するのが妥当である、と私たちは考える。こう言うと必ず、確たる証拠がないのにそこまで言うのは、日本政府の宣伝に乗るものだという反発が起きる。だが、私たちは、自分が是認したくない認識を証拠不十分を理由として否認する考え方は間違いだと考える(逆に、自分が肯定したい認識は多少論拠が曖昧でも主張することが多い)。はっきりした認識が迫られている時には、<個人としては>その時点で与えられている情報を基礎にして甲乙を判断することが正しい。そのうえで判断保留にすることもあり得る。誤解のないように断っておくが、<個人としては>と強調したように、これはあくまでも<個人の場合>である。国家や責任ある機関としての判断を下す場合には、徹底した証拠調べ=立証が不可欠である。仮に個人が誰かに対して「殺人犯だ」と主張しても、その誰かが刑罰を受けることはないが、裁判所が殺人犯だと認定すれば相応の刑罰が加えられる。政府や裁判官が絶対に言明してはいけないことでも、一市民として公然と態度表明することは大いにあり得る。そうでなければ、裁判所が最終判断を下すまで、市民は何も言えないことになる。
 不審船は北朝鮮のものという判断に立って考えると、北朝鮮は断固として「我が国の船舶を撃沈した日本の軍事行動は、国際法に違反している」と主張すべきである。だが、彼らが主張しているのは「日本当局者がなんの根拠もなく事件をわれわれと結び付ける世論を拡げている」ことにたいする非難にすぎない。「世論を拡げている」、しかも「なんの根拠もなく」と限定して。なぜ、このような表面上の強さ(「海賊行為」と表現)にもかかわらず、内容的にはきわめて弱い主張しかできないのか。
 その理由は明白である。もし、この船舶が北朝鮮の民間人の遊覧船であれば、断固として「我が国の船舶を撃沈した日本の軍事行動は、国際法に違反している」と主張できたであろう。だが、北朝鮮政府は「不審船」を自国のものと認めない。自分の行為だと主張しない――「しない」であって「できない」ではない――行為者は、自発的に当事者の資格を放棄することになるから、その主張を制限される(スポーツでもプレーヤーは抗議できるが、観客は抗議できない)。ここに、行為の主体を対外的に公表しない行為の根本的限界がある<注>。もちろん「行為の主体を対外的に公表しない行為」がそのゆえにすべて非難・断罪の対象となるわけではない。足ながおじさんの善行は賞賛に値いする。賞罰は行為の内実によって判断されるからである。
 私たちははっきりと、この種の北朝鮮の不透明な言動に対して批判を加える必要がある。国際緊張を緩和し友好関係をめざすのであれば、他国に疑念を起こさせ易い言動はすべきではない。
 先にあげた「朝鮮日報」の社説が冒頭で「もし日本の主張通り北朝鮮の工作船であるならば、まだ工作船を送っているのかと嘆かわしいばかりだ」と評しているのはその通りである。何かの事実や事情によって北朝鮮にシンパシーを抱くことはあり得るだろうが、そういう人に特に望みたいのはこの点の認識である。あるいは、小泉政権の不法に対する批判だけを強調して、例えば今回の場合で言えば北朝鮮の問題性には口をつぐむ傾向を許容していたのでは、その小泉批判の広がりを妨げるだけである。日本政府の国際法違反を明確に批判する世論を拡げるためにも、北朝鮮の行動の問題性を明確にする必要があるのである。
 紙数の都合で日本政府の危機管理の問題、武器使用緩和の動向については考察を省いた。
<注>あるいは、自分の行為ではないと主張しない行為者は、その行為ゆえに招いている自分への非難を甘受すべきである。9・11の特攻テロでのオサマ・ビンラディン氏の場合も同様である。なぜ彼は「自分は関係ない」と明言しないのか。明言するか否かは確かに彼の自由であるが、明言しないなら疑いが増すことは当然である。


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