エコロジー・農業・社会主義

「稲妻」第343号 2002年8月10日 掲載

                             村岡到
 「暑いわねー、地球温暖化なの?」――こんな会話が猛暑の夏に電車のなかで飛び交っている。1868年にドイツの動物学者ヘッケルが造語した「エコロジー」もすっかり日常語になり、ゴミの分別収集も当たり前である。とはいえ地球温暖化防止のための京都議定書の目標達成はなお進んでいない。ぐだぐだと理論だけに熱中しないで、今は実践の時である、という声にも一理ある。しかし、その実践をよりいっそう促し、また確かな方向を探るためにはやはり理論もまた必要だし大切だと、私は考える。とくに、これまでの理論に大きな欠落があったと気づいた場合には、問題提起して、広く検討することが重要な課題になるだろう。
 この小論では、2つの問題を提起したい。@環境問題は<農業問題>でもある、A環境問題は<平等と社会主義>を志向する――この二つである。

 環境問題は<農業問題>

 環境問題に関心を持つ人は、<農業問題>にも理解を示すほうであろう。しかし、せいぜい重なるところがあるくらいの認識に留まっているのではないであろうか。小さな論文だから広く例証する余裕はないが、例えば、次第に活動が定着しつつある緑の運動における二つの代表的な文書を対比すると、残念ながら<農業問題>認識での後退すら起きている。2001年4月にオーストラリア・キャンベラにおける第1回グローバル・グリーンズ世界会議において採択された「グローバル・グリーンズ憲章」(世界緑の憲章)と1990年に発表された「ヨーロッパにおける緑のオルタナティブのために」のことである。後者では「北半球の住民に化学物質や合成物質がつまっている一連の製品を消費させ、南半球の住民の一部を飢えさせている政策に、今すぐけりをつけなくてはならない」として、<農業問題>を強調しているが、前者には「農業」については断片的な叙述しかない。だが、私は<農業問題>の重要性をしっかり認識することこそが、環境問題の理解を深め、運動に広がりをもたらすと考える。
 今や、日本の農業は全般的に衰退の一途である。農家戸数は、1960年の約606万戸から2000年には312万戸へと半減し、主食用穀物の自給率は60年の89%から2000年の59%に、飼料自給率は63%から25%に急減している。グローバリゼーションの時代だから、農産物も安い外国から輸入すれば何も問題はないと思う「呑気な」人にとっては、この数字はほとんど意味がないであろうが、社会の存続にとって<農業>はきわめて大きな重要な位置を占めることを理解した人間にとっては、まことに由々しき事態、戦慄すら覚える数字と言える。<農業>がこのように衰退・破壊されるということは、村落や自然が破壊されることを同時に意味しているからである。事実、過疎の村が切実に悲鳴をあげている。この農村と農業の悲惨な現実を、私たちは直視する必要がある。
 環境問題を取り上げることと、この農村と農業の悲惨な現実を直視することとは、相互に外在的な2つの別個の問題を股を裂かれる思いで両睨みするというものではない。逆に内的関連が深く存在する。環境破壊は、別言すれば自然破壊である。そして、<農業>は自然=母なる大地を基礎にして営まれる、生命有機体の生産を本質とする、人間の営為である。だから、自然を保護するとは、実は農業を保護することと一体なのである。
 <農業問題>を重視すると、私たちは、<森の思想>の大切さに気づくことができる。<森の思想>とは、独特の日本学で思想的な位置を築いている梅原猛氏が提起している考え方である。梅原は、「21世紀の3つの危機」として「核戦争の危機、環境破壊の危機、精神崩壊の危機」をあげ、「環境破壊の危機」について警鐘を鳴らしている。梅原は、「農耕牧畜文明の成立と同時に生じた人間中心の考え方、それを根本的に批判しないかぎり、文明の再生はありえないと考えている」。さらに、「『山川草木悉皆成仏』という大乗仏教の真理」こそが、この「環境破壊の危機」に対抗できる思想だと提起する。「森の文明ともいうべき縄文文化が日本文化の基層を形成している」としたうえで、その「精神的特徴」として、まず「平等志向」を取り出している。
 仏教に帰依することが必要であるという点については、態度を保留するが、「人間と自然との共存」を方向指示している点は、全面的に共感できる。
 もう一つ、<農業問題>を重視すると、私たちは、マルクスとマルクス主義の限界にも気づくことができる。日本では戦前から敗戦後1950年代に、マルクス主義経済学のなかで<農業問題>が、日本資本主義の発達をいかに把握するかの主要な論点としてかまびすしく論議されたこともあったが、今日、改めてマルクスとマルクス主義のなかで<農業問題>がどのように捉えられてきたかと反省すると、残念ながら真正面から重要なものとしては位置づけられていなかった(この欠落が、実はソ連邦崩壊の最深の根拠の一つとなったのである)。大内力が指摘しているように、19世紀末までマルクス主義では、「農民」は蔑視され、「農業労働者」が革命の主体あるいは同盟軍と認識されていた。詳述の余裕はないが、1966年に刊行された『資本論辞典』(青木書店)には何と「農業」という項目はない。さすがに、宇野弘蔵は半世紀も前に、「農業と工業との対立は、資本主義にとっては解決し得ない難問をなしている」と書き、「社会主義は農業と工業との結合を主張する」と明らかにしていた。私たちは、この基本的立場から、経済学の原理論に<農業>を位置づけ、「実際上は決して農業問題を解決し得る力はなかった」資本制経済を打破してゆかなくてはならない。人間の食糧を主要に生産する<農業>は社会の基軸的土台なのである。

 平等と社会主義

 私がもう一つ強調したいことは、環境問題は<平等と社会主義>を志向せざるをえないという問題である。不平等が蔓延して、<平等>よりは「自由」が圧倒的に叫ばれ、「社会主義」は今や死語になっていると言ってもよいほどだが、そうではない。
 すでに小杉修二氏が強調している論点であるが、地球温暖化防止のためには<平等主義>を貫く必要がある。「みんなが持つと害悪が生じるような財は、誰も持つべきではないという原則」を、小杉氏は提起した。地球温暖化防止という、大きくはあるが個別の課題についてだけではなく、この原則は環境問題全般において貫かれるべきである。この問題については、スペイン人でバルセロナ自治大学教授のホワン・マルチネス=アリエ(1988年に設立された国際エコロジー経済学会の5名からなる理事会のメンバー)の『エコロジー経済学』が、深く学ばれるべきである。なぜなら、地球温暖化問題で問われている課題は、アリエの「エコロジー経済学」によれば、「非更新性資源の枯渇」や「将来の世代への責任」を経済にどのように組み込むかという問題だからである。これらの「外部性」をどのように<評価>するのか、という問題である。そして、「枯渇性資源の最適な世代間配分という問題は、伝統的経済理論の基本法則に反して、道徳的価値に関する問題と不可分である」(271頁)。だから、「経済学者は将来を価値評価する倫理に関する社会学者にならなければならない」(288頁)。さらに、「価値評価する倫理」を問題にすることは、<平等>の問題に突き当たる。
 アリエは一貫して<平等>を主張する。「平等主義的エコロジスムは、理性に訴えることに基礎をおくものであ」(37頁)る。そして「エコロジー的アプローチをとると、分配に関する平等原理の議論に至らざるをえなくなる」(247頁)。さらに、「普遍的で平等主義的でエコロジー的なユートピア思想は、世界中の貧しい人々にとって一つの『適正なイデオロギー』なのである。……これは、『エコロジー的ネオ・ナロード主義』と呼ぶことのできるイデオロギーであって、人間エコロジーの合理的・経験主義的研究の伝統の中に多くの支持を見いだすことができるものである」(44頁)。アリエは「増補・改訂新版への序文にかえて」では、「私は、第三世界の平等主義的エコロジスムを『エコロジー的ナロード主義』と呼んでいるが、それはまた『エコロジー的社会主義』とも呼ばれてきた」(B頁)と書き、「ドイツの緑の党および第三世界の多くの学者や活動家のように、国際的平等を支持するに至る人々もいる」(F頁)と評価している。アリエは「政治的エピローグ」で、「平等主義的なエコロジスムの根強い流れが存在することを強調する」(391頁)。そして、「社会的な基盤をもった実際的な運動として成長しているという兆し」を「アンデス地域」(404頁)に見いだしている。
 私は、今春に執筆した「<平等>こそ社会主義正義論の核心」で、タイトルにも明示したように、<平等>こそが社会主義が追求し実現すべき核心的な方向であることを、<社会主義と法(律)>という問題意識に立脚して明らかにした。エコロジストの先駆者が同じように<平等>に重点を置いてエコロジー問題を説いていることは、私たちの<社会主義志向>が広く受容される可能性を示している。というよりは、アリエ自身が「エコロジー的社会主義」に方向を見いだしているのである。
 アリエの「エコロジー経済学」のもう一つの特徴=長所は、問題を経済学的に深く探究している点である。別に言えば、<経済計算>の問題として提起している。日本では振り返る研究者はごく少ない「社会主義経済計算論争」(1920年代から国際的に広く論争が展開された)についても取り上げている。
 アリエは、「市場か中央計画のいずれかに基礎を置いて経済学的な原理的説明を行いながら、しかもエコロジー的な副作用や不確実性を考慮することは不可能である。……ここから、経済の政治的問題化ということが重要になる。換言すれば、経済と人間のエコロジーを政治に埋め込むというのが、私の結論である」(IIE頁)と書いている。「政治に埋め込む」は、恐らくポラニーの周知の「経済を社会に埋め込む」を念頭に置いたものであろう。「中央計画」は「計画経済」のほうが正確である。
 ところが、アリエはこのすぐ前で、他方では、「政策決定の基礎を経済学よりもエコロジー的合理性に置こうとする試みは確かに失敗する。現実においては、代替的な成果や費用への価値の割り当てを要する取り決めが必要なのであるが、エコロジーにはそうした評価体系を提供することができないからである」とも書いている。
 「市場」も「計画経済」も「エコロジー的合理性」も役に立たないというのでは、一体どうやって「経済の政治的問題化」を図ったり、「換言すれば、経済と人間のエコロジーを政治に埋め込む」ことができるのであろうか。私は、前二者に頼らないという結論には賛成であり、すでにいわば第三の道として<協議経済>――これが社会主義経済の内実である――を提起してきたが、そのなかに「エコロジー的合理性」を組み込むことこそが、<母なる大地>の保全すら危うくなっている人類の袋小路からの脱出路だと考える。
<注>
1)「グローバル・グリーンズ憲章」(訳:今本秀爾)。この宣言では、現代社会を<資本制社会>あるいは<資本制経済>として明確に認識することを回避し、したがって<資本制経済の克服>という方向を明示していない。その全体的評価については、拙文「『グローバル・グリーンズ憲章』の検討」『QUEST』第20号=2002年7月、オルタ・フォーラムQ、参照。
2)「ヨーロッパにおける緑のオルタナティブのために」(訳:江口喚)「全労活ニュース」1991年の号外。
3)堀込純一「日本農業の全般的衰退とサバイバル競争」『QUEST』第19号=2002年5月、参照。
4)梅原猛『森の思想が地球を救う』講談社、1995年、138頁、162頁、158頁以下。
5)Z・メドヴェージェフ『ソヴィエト農業』北大図書刊行会、1995年、参照。
6)大内力編『マルクス・エンゲルス農業論集』の「解説」岩波文庫、1973年。
7)宇野弘蔵「世界経済論の方法と目標」1950年、著作集、岩波書店、第9巻、352頁。
8)宇野弘蔵『農業問題序論』1947年、著作集第8巻、20頁。
9)逆に、宇野の弟子でもあった玉野井芳郎は、<農業>を原理論から捨象することが正しいと考えている。『エコノミーとエコロジー』みすず書房、1978年、15頁。
10)白井朗「農業・農民と社会主義」『QUEST』第19号、参照。
11)小杉修二「平等主義を否定して温暖化防止は可能か」『カオスとロゴス』第10号=1998年、ロゴス社。
12)ホワン・マルチネス=アリエ『エコロジー経済学』新評論、1999年。以下、()内の頁は本書から。詳細な紹介は別原稿参照。
13)村岡到「<平等>こそ社会主義正義論の核心」『カオスとロゴス』第21号、ロゴス社。
14)村岡到『連帯社会主義への政治理論』五月書房、2001年、参照。
15)村岡到編『原典・社会主義経済計算論争』ロゴス社、1996年、参照。
16)村岡到『協議型社会主義の模索』社会評論社、1999年。
☆村岡到「<自然><農業>と<社会主義>」『カオスとロゴス』第22号=2002年10月、掲載予定、参照。
 文中の注番号は省略。

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