村岡到綱領のどこを改定すべきなのか
  ――日本共産党がぶつかっている壁     2003,5,27

 及び腰の綱領改定
 日本共産党は、5月24、25両日に開催した第6回中央委員会総会で党綱領の改定を次の党大会でおこなうことを正式に確認した。すでに3年前の第22回党大会の直前から不破哲三委員長(当時)は「朝日新聞」で「綱領見直しは党中枢の共通認識である」と語っていたが、党の正規の確認は為されていなかった。
 ところが、「赤旗」での6中総の発表を見ると、わざわざ綱領の改定に注意が向かないように気配りしているようである。
 25日の「朝日新聞」には「共産党綱領改定へ 11月の大会で」という見出しで報道された。そこには「6月の第7回中央委員会総会に改定案を示し」と書いてある。ところが、「赤旗」をひろげてみても、どこにも綱領の改定については書かれていない。「綱領」という文字がない。第23回党大会の開催を11月にすることは1面の報道に書かれてはいるが、「第6回中央委員会総会への幹部会報告の骨子」なるまとめを読んでも、11項目が中見出しふうに大きく表示されているなかで、「党大会にむけた政治日程の提案」の項目には本文がそこだけ空白になっている。
 翌26日の「赤旗」でも、1面の報道には綱領の改定についてはまったく触れていない。2面に書記局の「第6回中央委員会総会について」という定例のまとめが掲載され、そこでは「綱領改定案は6月の第7回中央委員会総会で……決定し」と書かれているが、他にはどこにも書いてない(参院選の候補者についてや不破議長の発言は大きな見出しで別記事でも扱っている)。党員は「朝日新聞」より1日遅れて知らされることになった(CS通信受信者は除く)。
 21世紀初めての綱領の改定であり、本来ならば、特筆大書してその意義と期待を明確に打ち出し宣伝すべき重大な事柄であるにもかかわらず、この控えめの、なるべく印象に残ってほしくないかの扱いは何を意味しているのか。このまったくの及び腰は、十分な自信をもって綱領の改定に取り組んでいないことの現れである。私たちはもう20年も前から共産党が理論的に枯渇しつつあることを指摘しつづけてきた(この数年間、目立った理論書は不破議長の著作などごく限られたものしか発行されていない)。
 この低調さは、後退した地方選挙の総括でも同じで、志位和夫委員長の、「赤旗」では5面にも及ぶ長大な「報告」と「結語」(「赤旗」5月27日)にたいして、ただ1度の笑いも拍手も起きなかったことにも示されている。発言で会議が盛り上がった箇所には(拍手)と挿入するのが習慣なのに、それがない。「赤旗」読者数について「大きな痛手だった」と強調せざるをえないほど大きく後退している現実(前大会で発表した197万人からどれだけ減ったのかは明示していない)に直面して、笑う余裕はないのであろう。
 ともかく綱領改定案は6月の7中総で発表されることになった。これまでは、私にしても共産党の文書が発表された後に論評してきたが、今回は先回りして、日本共産党の綱領のどこを改定すべきなのかについていくつかの論点を提起する。
 本論に入るまえにやはり確認しておこう。
 日本共産党を批判する場合、私たちは共産党が日本の社会と政治のなかで占めている位置について大きくは肯定的に評価することを出発点に据えている。いつも確認しているので、今回は簡略にするが、すでに解党してしまった社会党や衰退している新左翼諸党派と対比すれば、共産党が一進一退はあるものの基本的な骨格を保持して、憲法改悪や有事法制などの政治の反動化(社会の軍事化でもある)に反対して国会において自公政権と対決する野党として活動していることは評価に値する。4月の地方選挙においても共産党が立候補しなければ、無投票選挙になる選挙区も少なくない。農村部での党員首長の相次ぐ誕生や自治体議員の活躍と前進は、過疎化に悩む地方の再建と地方自治にとって展望を与えるものである。
 大衆的政治闘争の現状については別にきちんと総括しなければならないが、この2、3年の運動の特徴として、共産党系といわゆる市民派との共同行動が実現し積み重ねられてきたことは重要な成果である(私たちは1980年から「社共新左翼の共同行動」を提起してきた)。この点で、5月23日の有事法制反対集会・デモが、この間の大きな共同行動の主軸をなしている陸海空港湾20労組などが主催した明治公園3万人、と旧総評系の平和フォーラム主催の日比谷野音3000人という形で分裂し、共産党系が前者のブロックに合流したことは特筆すべきである。60年代の反戦運動では、逆に共産党系が少数でかつ市民運動とは離れていた(かつては独自でも数万のデモを実現した新左翼は今や独自では3桁しか集められず、「非暴力」を前提的に確認する共同集会に合流する以外に開かれた活動の場はない)。

 日本の政治体制は何か
 共産党が綱領において何よりも明確にすべきは、今日の日本の政治体制がいかなるものなのかについての基本認識である。周知のように綱領では「日本を基本的に支配しているのは、アメリカ帝国主義と、それに従属的に同盟している日本の独占資本である」となっている。これが「二つの敵」論と呼び慣わされてきた共産党の基本認識である(1961年の綱領確定の時には「二つの敵」と明記してあった)。ところが、第22回党大会の「決議」の第1章で、突然「戦前の天皇主権の政治体制はあらためられ、国民主権の民主的な政治体制がつくられた」と言い出した。これは氷炭あい反する認識である。この問題については、私は直ちに着目して論評を加えたが、いずれを綱領上の認識にするのか、二つに一つの選択しかありえない。
 この認識と連動して当然ながら「アメリカ帝国主義と日本独占資本の支配に反対する新しい民主主義革命」を削除する必要が生じる。すでに「国民主権の民主的な政治体制」が実現したと認識するからである(私は「国民主権」より「主権在民」が適切だと注意したが、最近は後者になった)。先の「決議」ではいつになく「社会主義への展望」が明記されたのであるが、この方向と質をさらに明確にする必要がある。
 この基本認識の系として、綱領には登場しない「市民」を定位する必要が生じる。民主主義=民主政の主体は「市民」だからである。「市民」用語は「赤旗」ではすっかり定着しているが、綱領では「勤労市民」しか許容していない。同質の問題であるが、「生存権」も明記すべきである。「綱領」で使われている「生存の自由」などというセクト的な用語は「赤旗」でもすでに死語になっている。これは5年前から私が指摘してきたことである。

 日本資本主義の経済情勢について
 第二の問題は、日本資本主義の経済情勢についての分析である。この問題は、私自身にとっても弱点なので多くを論評することはできないが、6中総の報告でもいかにも手薄である。確かに、「経済と暮らし」の項目で「リストラ反対」などに言及してはいるが、世界経済のグローバリゼーションのなかで日本資本主義がいかなる問題に直面しているのか、ほとんど分析がない。「グローバリゼーション」の言葉さえ出てこない。
 労働法制の改悪をはじめとする労働者の雇用と労働条件の問題について、明確な認識を明らかにしなければならない。賃金闘争の新しい構築が課題である。資本制経済の持続的な成長を可能だと考え、願望する基本的立場の有効性が問われている。地球温暖化問題についてまったく言及できないのは、この根本的立場の誤りゆえなのである。ゼロ成長、マイナス成長でも、労働時間短縮とライフスタイルの根本的転換によって、より平等な社会の在り方を追求することが求められているのである。
 また、綱領では農業についての位置づけも不十分である。私は昨年ようやく農業の重要性に気づき、農業を<保護産業>として確立する必要があると提起した。
 なお、昨年から不破が使い出した「資本主義市場経済」なる用語はどうするのだろうか。この共産党にとっての新語は、「社会主義市場経済」を容認するための伏線なのであるが、迷路への糸口にしかならない。
 なお、本稿では「社会主義」の諸問題や国際情勢についても省略したが、6中総冒頭のイラク戦争についての分析と北コリアについての主張については、私は基本的に支持する。ただし、北コリアの独裁者に「理性的外交」を説得するためには、日本の革命運動の遅れによって南北朝鮮国民に助力できていないことへの、私たちの反省が不可欠の条件になるだろう。

 時代の変化に見合う柔軟な組織論を
 組織論について言えば、情報技術の発達と生活信条の在り方の変化――生涯を賭けて一途に一つの目標のために生きる生き方は、必要かつ尊いとはいえ今や狭い範囲でしか可能ではなく、かつ許容されないように、社会は多様性を拡大する方向へと変化した――に見合う柔軟な組織論が求められている。レーニン時代に有効であった、『何をなすべきか』に典型的な組織論が21世紀の先進国日本で通用するはずはない。ホームページが日常生活の一部になった今日では、党員である議員を硬い規約で縛ることは不適切であるばかりか、できる相談ではない。なお未発達であったとしても、ホームページへの質問にすぐ答えられなければ、信頼を失うことになる。
 したがって「民主集中制」が根本的に見直されるべきであるが、そこまで踏み込めないとしてもせめて「循環型民主集中制」――言語矛盾ではあるが、根本的転換の前にはこの種の工夫はまま生じる――までは進むことはできるであろう。事実、最近は中央委員会総会を党の事務所でCS通信によって聞いて、意見を上げ、それを翌日の総会での討論に活かしている。スターリン型の密室政治からは想像もつかない変化が、情報技術の発達を基礎に実現している(誤解はないだろうが、私は党のすべての会議を公開にすべきとは考えていない)。近年は、大会にむけての討論誌の発行も一程度は保障されるようになっている。活用する一般党員の質的・量的レベルアップこそが課題である。すでに党内から要求が発せられているように、やがては「赤旗」に討論欄が常設されるのが望ましい。
 ところで、志位は、「結語」の結びで「5中総決定を読んだ同志が3割程度」という中央委員の発言を引用している。「3割程度」という低さも大いに注意を引くが、そんなことよりもここで志位が「読了」なる独特の党内用語を使わなかったことのほうが意味がある。すでに志位は「報告」のなかでは「決定を読んだ」か否かはまったく問題にしていない。数年前なら、「読了」率を細かにあげて叱咤したものである。同日の「赤旗」には「読了」なる文字が見出しになっているが、正確に言うと「視聴・読了」となっている。今や、読むよりもビデオを聞く党員が少なくないようになってしまった。党員の質がすでにこのように変化している。だからいわゆる『80年党史』が発行されても、それを読む党員は極端に少ないのが現状である。
 いますぐ実現することではないが、やがては決定文書を熟読することを当然の生き方とする<党員>の組織と、「赤旗」を講読しその時どきに活動に参加するだけの人間によるゆるやかな組織とに分化する必要があるであろう。ついでながら、4月の地方選挙後に、また「脱政党」が歴史の傾向であると強調する論調が目立つようになっているが、日本の政治の混迷を打破するためには、まともな政党こそが必要であり、強く求められているのである。
 以上に大急ぎに論評したにすぎなないが、共産党の綱領改定を契機にして、日本における社会主義をめざす運動のなかで理論的関心が高まり、討論が活性化することを、私は希望する。その活性化のなかにこそ、社会主義への道が切り開かれてゆくからである。

村岡到「日本共産党はどこへ行くのか」『連帯社会主義への政治理論』参照。

TOPへ戻る