村岡到:二〇〇三年綱領改定案の検討2003.7.14
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一応完成しました。当初予定していた「第三節・この四〇年の内外の情勢の激変」は、別稿にすることにしました。既発表の部分もかなり補正しました。
ぜひともご意見、批判を寄せてください。党内でも党外でも論争的状況を作り出せないとしたら、何とも残念なことです。
はじめに――不破哲三の課題
一 六一年綱領の骨格
二 四回の部分改定の要点
三 〇三年綱領改定の四つの主要点
四 憲法認識の前進と限界
A 改定案における憲法認識の変更
B 六七年「四・二九論文」いらいの認識の深化
五 社会主義論の不明確さ
むすび――共通の認識、共通の課題
付論 不破はマルクス批判に踏み出すか?
別論 低レベルの七中総の討論
はじめに――不破哲三の課題
日本共産党は、ようやく綱領改定に着手した。六月二一日から二三日に開催した第七回中央委員会総会で「日本共産党綱領(案)」を決定して公表した。
周知のように現綱領は、一九六一年の第八回党大会で決定されたもので、その後四回にわたる部分的な改定はあったが、基本的骨格は最初のときから大きくは変わっていない。それなりに手を加えた九四年の第二〇回党大会での改定では、九一年末に起きたソ連邦の崩壊を受けて、七七年から唱えていた「社会主義生成期」論を放棄し、ソ連邦に「覇権主義と官僚主義・専制主義」なる正確さに欠けるレッテルを貼ることになった。
今度の改定は、二一世紀に入って初めてでもあり、戦後の共産党を隔絶したトップの座を占めて指導してきた宮本顕治が現役を引退して、代わりに不破哲三が議長となっていわば不破カラーを打ち出すという意味でも党内外から関心を引いている。
七中総では、七三歳の不破が三時間近い提案をおこない、中央委員から出された質問・意見に自ら答え、「結語」も不破がおこない、それらは「赤旗」で総計九面分にもなった(改定案は別に三面分)。そのすべてが七中総で採択された(規約から言えば、その読了が義務づけられたことになる)。文字どおり不破の独壇場である。不破は、この綱領改定にどのような思いを抱き、何を課題として意識しているのであろうか。
ロシア革命の五年後一九二二年に創立された日本共産党は、コミンテルン日本支部として位置づけられていた。一九六〇年の安保闘争を経て、共産党は日本の政治の一角に位置を占めるまでに成長し、盛衰はあるにせよ今日では国会に衆参四〇人の議員を有し、地方議会では約四二〇〇人の議員が活動している。九一年のソ連邦崩壊後に、ヨーロッパ諸国の共産党がすべて衰微しているのと対照的に、また国内では社会党が解体し、新左翼諸党派が衰退しているなかで、日本共産党はその基本的骨格を保持している。自民党単独政権の時代が終わり、連合の時代となり、首班指名や法案採決にさいして、共産党がキャスティングボードを握る局面もあるだろう。
戦後すでに六〇年近くなるが、六一年の綱領確定以後、九〇年代前半までは、一九〇八年生まれで敗戦まで獄中一二年の辛酸を耐えた宮本が共産党を主導した。七〇年の第一一回党大会で新設の書記局長に弱冠四〇歳で抜擢された不破は、いらい一貫して宮本を支える理論的柱として活動してきた。不破は、党内闘争の修羅場で反対派の矢面に立つこともなく、何かの大衆運動で指導的采配を振るったこともない。第八回党大会への過程で構造改革派に組みすることなく、宮本に与した最初の選択以外には、政治的岐路と決断はなかったと言ってよいであろう。その意味でいわば徹底した主流派の理論家であった。その彼が、ようやく宮本から「解放」されて名実ともに共産党のトップに立ったのが、一九九七年の第二一回党大会であった。議長空席での不破委員長の誕生である(二〇〇〇年の第二二回党大会で議長に)。
一九九一年のソ連邦崩壊に直面して「腰を抜かすな」と号令を発した点では、さすがに「自主独立」を金看板にしてきた百戦錬磨の闘将たりえた宮本も、その意味を歴史的理論的に説き明かすには年齢を重ねすぎていた。その役割は不破が果たすほかにない。一九八二年に遅ればせながら『スターリンと大国主義』までは切開していた不破は、九四年にも依然としてレーニン信奉者であった(『人類史の視野で現代を考える』二一四頁)が、議長就任後に初めてレーニンを俎上にのせて研究を開始し(『レーニンと「資本論」』全七巻)、二〇〇〇年正月に「赤旗」紙上で「レーニンはどこで道を踏み誤ったのか」とセンセーショナルに問題を提起した。一言でいえば<レーニン主義からの脱却>である。コミンテルン日本支部として誕生した共産党が宮本の「自主独立」路線を経て、最後的にコミンテルン世界からそのへその緒を切る過程と理解できる。
他方では、日本社会もまた、敗戦後半世紀を経て大きく変貌した。経済的にはアメリカにつぐ第二位の大国に成り上がったが、その政治は国際舞台ではアメリカに追随するだけであり、国内では依然として金権腐敗に浸っている。溢れる享楽手段のなかで、読書の習慣はすたれ、東大生の愛読書が少年漫画雑誌となっている。生きることの実感が希薄となり、希望や夢に向かってのひたむきな努力は軽視され蔑視されている。ただ閉塞感だけが強められ、刹那的衝動に駆られた犯罪が頻発している。白けた青年世代は政治から身を引いている。かつて七三年には共産党の青年組織である民青は二〇万人を誇ったが、いまや二万三千人に激減してしまった。もし、共産党が日本の未来を切り開く政党たり得るとしたら、「コミンテルン」という言葉さえ知らない読書離れの茶髪の青年にもその声は響かなくてはならない。
この政治文化の激変のなかで、二一世紀の共産党は志位和夫委員長のもとで活動することになっている。東大での学生運動の経験しかない志位は、不破よりも若い三五歳で、一九九〇年の第一九回党大会で書記局長に抜擢された。志位が最初にやったことは、マスコミへの登場にさいして不破の口調をまねることであった。物まねの素人が人気を博しているから、口調をまねることは楽なのかもしれないが、政治家ならば問題は内容にあることはいうまでもない。だが、志位にはマルクス主義――科学的社会主義の理論的基礎と探究の蓄積がきわめて薄い。志位だけではなく、共産党全体の理論的能力が枯渇しつつある。
したがって、不破はこの志位に、戦前以来の伝統を体内に深く刻印している共産党――党の高齢化が進んでいる――のアイデンティティーを保持しながら、しかもコミンテルン世界から脱却するという二重の課題を成し遂げるための指針を伝授しなければならない。それが、今回の綱領改定の最奥の課題なのである(共産党が日本の政治においてどのような位置を占めているかについては前章で明らかにした。不破哲三のこの半世紀の歩みについては、第T部のはじめで概観した)。
本稿は、次のように構成されている。
第一節では、一九六一年に第八回党大会で決定された綱領の骨格を明らかにする。
第二節では、その後、四回ほどこされた部分改定の要点を明らかにする。
第三節では、今回の綱領改定案の主要点を明らかにする。
第四節では、その主要点の核心である憲法認識の変化について検討する。ここではあわせて、一九六七年の「四・二九論文」いらいのこの問題での共産党の認識の変化を跡づける。
第五節では、もう一つの主要点である、新しく打ち出した社会主義論について検討する。
むすびでは、私たちも含めて、日本において社会主義をめざす人間にとっての共通認識と共通の課題がどこにあるのかを確認する。
本論に進む前に、綱領という文書の性格から不可避に生じる制約について知っておく必要がある。一般的に人間の認識は、一歩いっぽしか進まない。個人の場合には時にひらめきや飛躍もあるが、綱領は政党の組織的規模での基本的な共通認識を表したものであるがゆえに、その政党の歴史的な形成過程からさまざまな拘束と制限を受ける。生まれたばかりの小さな組織なら認識の変更は簡単に実現するが、長い歴史を背負っている大きな組織であれば、事は簡単には運ばない。小型車なら急カーブも切れるが、二〇両も後続する貨物列車では急カーブを切ろうとすると事故を引き起こす。したがって、大きな政党の綱領については、とくにその党の歴史的形成過程の特徴、背負っている性格についてしっかり理解しなくてはならない。そういう理解を欠いて、外在的に批判しても積極的な意味はない。私は、一九七八年に第四インター日本支部に所属していた時に<日本共産党への内在的批判と対話>を提起したが、内在的とはそういう意味である。ここでもその姿勢を貫きたいと心している。
一 六一年綱領の基本的骨格
日本共産党は、一九六一年に開催した第八回党大会において綱領を決定した。三年前の第七回党大会からもちこしたもので、激しい論争が展開され、綱領反対派は除名されたうえで、第八回党大会が開催され、これ以降、共産党はこの綱領のもとで活動することになった。この大会を主導したのが、宮本顕治であった。本稿では、一九五〇年の分裂、五五年の六全協での統一の回復、などの経過はいっさい省いて、決定された綱領の中身だけを書かれてある順に整理する。
綱領は、冒頭で「日本共産党は、……十月社会主義大革命の影響のもとに……一九二二年七月一五日、日本労働者階級の前衛によって創立された」と書き出し、「ブルジョア民主主義革命を遂行し、これを社会主義革命に発展転化させて、社会主義日本の建設にすすむという方針のもとにたたかってきた」と明らかにし、同時に「マルクス・レーニン主義とプロレタリア国際主義にもとづいて、日本人民解放のためにたたかってきた」と確認した。
次に、「第二次世界大戦における日独伊侵略ブロックの敗北、ソ連を中心とする反ファシスト連合国と世界民主勢力の勝利は、日本人民の解放のための内外の諸条件を大きくかえた」として、戦後に移る。ここで、憲法が出てくるが、改行するわけでもなく、制定年を記入することもしないで、「現行憲法は……一面では平和的民主的諸条項をもっているが、他面では天皇の地位についての条項など……反動的なものをのこしている」と評価した。
そして、「一九五一年」の「サンフランシスコ『平和』条約」などを説明したうえで、この綱領の核心をなす周知の一句を確認した。
現在、日本を基本的に支配しているのは、アメリカ帝国主義と、それに従属的に同盟している日本の独占資本である。わが国は、高度に発達した資本主義国でありながら、アメリカ帝国主義になかば占領された事実上の従属国となっている。
さらに、「戦前の絶対主義的天皇制は、……大きな打撃をうけた。アメリカ帝国主義は、……天皇の地位を法制的にはブルジョア君主制の一種とした」とやや不確かに表現した(「天皇の地位」が「ブルジョア君主制の一種」とは? しかもその主語は「アメリカ帝国主義」である)。
「日本独占資本主義」についての説明のなかでは「世界資本主義の全般的危機」が分析の基調とされた。
「第二次世界大戦後、国際情勢は根本的にかわった」として、「社会主義世界体制」とか「ソ連を先頭とする社会主義陣営」を積極的に評価し、「国際情勢の発展方向は……大きなはげましとなっている」と結論する。
そのうえで、「日本の当面する革命は、アメリカ帝国主義と日本の独占資本の支配――二つの敵に反対するあたらしい民主主義革命、人民の民主主義革命である」と確認した。これが「二つの敵」論である。
以上の基本的認識にふまえて、次に「行動綱領の基本」として、さまざまな課題を列記した。「自衛隊の解散」「同一労働同一賃金」「最低賃金制と週四〇時間労働」「農業協同組合の民主化」「未解放部落」問題などがあげられ、「独占資本にたいする人民的統制」「独占資本の国有化とその民主的管理」もあげてある。
それらの闘いのために「民族民主統一戦線をつくりあげる」と提起し、再び「マルクス・レーニン主義とプロレタリア国際主義の思想」を強調し、「強大な大衆的前衛党を建設すること」を課題とした。
そして、「国会を反動支配の道具から人民に奉仕する道具にかえ、革命の条件をさらに有利にする」とした。「民族民主統一戦線政府の樹立」をめざし、さらにそれが「革命の政府」になり、「君主制を廃止」すると展望した。「わが国の当面の革命はそれ自体社会主義的変革への移行の基礎をきりひらく任務をもつものであり……連続的に社会主義革命に発展する必然性をもっている」と明らかにした。
最後に、「社会主義の建設」について、「労働者階級の権力、すなわちプロレタリアート独裁の確立、生産手段の社会化、生産力の豊かな発展をもたらす社会主義的な計画経済」の三つをあげた。そして、「社会主義社会は共産主義社会の第一段階である」と確認し、「労働におうじて報酬をうける」と「必要におうじて生産物をうけとる」を段階区分の指標とした。さらに「国家権力そのものが不必要になる共産主義社会、真に平等で自由な人間関係の社会が生まれる」と遠望した。
私の当面の問題意識が情勢分析にはないので、その点については手薄な整理になっているが、以上が六一年綱領の要旨であり、骨格である。
この綱領は、基本的には「国際共産主義運動」――この言葉も死語となっているが――の定説にしたがったものである。特に情勢分析の基調は定説のままであった。対米従属の強調と(「民主主義革命」が)「連続的に社会主義革命に発展する」の繰り返しは、当時の綱領反対派が「日本帝国主義」復活と「社会主義革命」だけを強調していたこととの関係から生じたことである。また、「国会を人民に奉仕する道具にかえ」の部分が、武装闘争や暴力革命などの言葉を排除しながら挿入されたところに、重要な特徴があった。五〇年代の徳田(球一)派による軍事闘争の試みとその破産への反省が働いたからである。
この綱領の確定によって、共産党は六〇年安保闘争後の六〇年代の闘いを展開し、党勢――党員と「赤旗」読者などを拡大してゆくことになった。一九六〇年に党員四万人・「赤旗」読者一〇万人、国会議員は衆院三人・参院一人だったが、一九七三年には三〇数万人・二八〇万人、三八人・一〇人に飛躍した。その実績と共産党をとりまく状況の変化によって、綱領の改定が必要となった。
二 四回の部分改定の要点
日本共産党は、この六一年綱領を四回部分的に改定してきた。第一回は一九七三年の第一二回党大会、第二回は一九七六年の第一三回党大会、第三回は一九八五年の第一七回党大会、第四回は一九九四年の第二〇回党大会、においてである。
第一回と第二回の改定については、第三回の改定にさいして次のように説明してあるので、それを引用すれば足りる。
第一回の改定では、@「ソ連を先頭とする」という字句の削除、A「国会を反動支配の道具から人民に奉仕する道具にかえ」という命題中の「道具」という用語を「機関」にかえる、B綱領のなかの「独裁」という訳語を「執権」とする――の三点の改正をおこなった。
第2回の改定では、@「執権」という用語の綱領からの削除、A科学的社会主義、共産主義の学説について、マルクス・レーニン主義という呼称をやめる――の二点の改正であった。――以上引用。113頁。
これらは文字どおり字句だけの改定であり、内実としてはほとんど何も変化していないと言ってよい。ただ、その後の経過から振り返ると、期せずしてこれらの諸点に、いわば喉に刺さったトゲがどこにあったのかが示唆されることになっていた。
第三回は一九八五年の第一七回党大会においてである。最大のポイントは「資本主義の全般的危機」用語の削除である。もう一つは、ソ連邦への「覇権主義の偏向」なる批判を開始したことである。一九七七年に発案した「社会主義生成期」論によって、ソ連邦への批判を強調してきたことを、この言葉は使わずに綱領にも反映させた。
また、日本資本主義の「帝国主義的軍国主義的復活のみち」を、「帝国主義、軍国主義復活・強化の道」と変更した。
「社会主義世界体制」や「社会主義陣営」の用語を捨て、逆に「社会主義からのさまざまの逸脱にもとづく否定的現実」を指摘することになり、具体的事例はあげないままに「覇権主義の偏向が表面化した」と表現した。しかし、同時に「社会主義の復元力の発揮をのぞみつつ」と期待を表明した。
行動綱領では、「地球環境保全」や「少数民族というべきアイヌの生活と権利の保障」を追記した。また、直前に起きた日航ジャンボ機の事故によって、「航空事故」についてまで取り入れることになった。
言葉を変えていえば、一九八五年には「プロレタリア国際主義」「二つの敵」「君主制の廃止」「大衆的前衛党」などは依然として変更されずに正しいものとして継承・主張されていたのである。
第四回は一九九四年の第二〇回党大会においてである。言うまでもなく九一年末のソ連邦の崩壊に直面したことによって必要になったからである。そのゆえに前の三回に比べると改定は大幅なものになっている。
四回目の改定の最大のポイントは、崩壊したソ連邦の評価をめぐるもので、前回の改定での「覇権主義の偏向」をさらに一段と強め「覇権主義と官僚主義・専制主義」とか「社会帝国主義」なるレッテルを貼るにいたった。
綱領にそって主要な変更点を確認しよう。
まず冒頭から「十月社会主義大革命」が「ロシア十月社会主義革命」に微調整され、「プロレタリア国際主義」を外してしまった(後のもう一カ所も)。
戦後の情勢についての部分では、憲法については、形容句に「主権在民の立場にたった」と加えたり、「天皇制は絶対主義的な性格を失ったが、ブルジョア君主制の一種として温存され」と文章を整えた(前記のように乱れていた)。また、敗戦直後に共産党が提起した「人民共和国憲法草案」について「発表した」と位置をあげた。
戦後の日本については、「一九九四年に強行された小選挙区制の導入」を加えるなど情勢の変化を取り入れた。
世界情勢については、六一年綱領いらいの「中国革命の偉大な勝利」や前回新しく用いた「社会主義の復元力」は削除された。他方では、第二次世界大戦でのソ連の役割については「数かずの重大な誤りにもかかわらず、正当に評価されるべきである」と評価した。
さらに、「社会主義をめざす国ぐに」なる新しい用語を主語にしたうえで、「ソ連」について、前記のように「覇権主義と官僚主義・専制主義」とか「社会帝国主義」と批判することになった。そして、「ソ連覇権主義という巨悪の解体は……世界の革命運動の健全な発展への新しい可能性をひらいたものである」と総括した。
「当面する革命」については、「二つの敵」という言葉だけを削除した。
「行動綱領」の部分でも、いくつか追加した。
「万国の労働者団結せよ」なる常套句の引用に代えて、もう一つのスローガン「万国の労働者と被抑圧民族団結せよ」を取り入れた。
「憲法改悪に反対し、憲法の平和的民主的条項の完全実施を要求してたたかう」を追加した。
一九七六年の『自由と民主主義の宣言』で打ち出した「三つの自由」――「生存の自由」などを追加した(「三つの自由」とは書いていない)。
最後の長期的展望については、「社会主義の目標」に関連して、「労働者階級の権力の確立」など従来の三つの要件に加えて、「計画経済と市場経済の結合など弾力的で効率的な経済運営、社会主義的民主主義の発揚」を追加した。
以上のような改定をとおして、共産党は、ソ連邦崩壊後の思想的反動状況に抗して態勢を立て直そうとしたのである。一言でいえば、コミンテルン世界からの脱却の過程、主体的に表現すれば<苦闘>と評価することができる。だが、それがどの程度に本格的で時の試練に耐えるものなのかについては、歴史という教師が冷厳に教えてくれることになる。これらの改定のうちで世紀を超えて有効性を保ち、認識の拠点として継承されるのはどのくらいあるのであろうか。
いよいよ、今回の改定案の検討に移ろう。
三 〇三年綱領改定の四つの主要点
今年は、先の九四年の改定からさらに九年が経過し、二一世紀も三年目を迎えた。一九八二年の第一六回党大会で野坂参三に代わって議長の座に就いた宮本は、九四年の第二〇回党大会では欠席してもなお議長に選出されたが、九七年の第二一回党大会で名誉議長となり、現役を引退した。こうして、今回の綱領改定は、不破議長の主導のもとに、病の床にある宮本(九四歳)とは一切のコンタクトなしに準備されることになった。
七中総で、不破議長は、三時間近くの「改定案についての提案報告」をおこない、三日間の討議のすえ改定案は決定された。
改定案は、以下の五つの章から構成されている。
一 戦前の日本社会と日本共産党
二 現在の日本社会の特質
三 世界情勢――二〇世紀から二一世紀へ
四 民主主義革命と民主連合政府
五 社会主義・共産主義の社会をめざして
(以下便宜的に〔一〕〔二〕とだけ表示することにする)。
ここでは逐条的に紹介するのではなく、いくつかの特徴点を明らかにする。簡単なコメントは加えるが、検討については節を改めておこなう。改定案の特徴は以下の四点に整理される。
@憲法の意義の明確化、Aアメリカ帝国主義批判・対米従属批判、B民主的改革の強調、C社会主義・共産主義の強調、である。
@憲法の意義の明確化
改定案の最大の核心的論点は、憲法の意義の明確化である。〔二〕の冒頭は「第二次世界大戦後の日本では、いくつかの大きな変化が起こった」と定言し、その「第二は、日本の政治制度における、天皇絶対の専制政治から、主権在民を原則とする民主政治への変化である」と明確にした(『日本共産党の八〇年』では「最大の政治的変化」とされている)。つづけて「この変化を代表〔別の言葉がよい〕したのは、一九四七年に制定された現行憲法である」とする。したがって当然にもこれまでの四回にわたる綱領改定でも手をつけることがなかった「日本を基本的に支配しているのは」という現綱領の核心をなす考え方とテーゼ(「二つの敵」論)を撤回することになった。同じことの別の表現でもあるが、「ブルジョア君主制」は削除され、したがって「君主制の廃止」もなくなった。
そして、「この変化によって、……国会を通じて……変革の道を進む」ことが可能になったと連続して確認することになった。
だから〔四〕では、「民主主義革命」について「日本国民の利益を代表する勢力の手に国の権力を移す」と説明されることになった。〔五〕では「社会主義をめざす権力」という言葉は残ったが、従来はこれを「労働者階級の権力」と表現していたのであり、その「労働者階級の権力」を削除した。
また、憲法認識を一新したことによって、国連と国連憲章についてもその意義を明確にして強調できることになった。現綱領は国連と国連憲章にはまったく言及していない。補足的にいえば、憲法については成立年を記すようになったのだから、ここでもそれらの成立年を明示したほうがよい。また、〔四〕で「非同盟諸国首脳会議に参加する」とはっきりさせた。ここでも「党や市民による自主的外交の積極的展開」に言及したほうがよい(この数年の共産党議員団による諸国への訪問や各種NGOの活動は目を見張るものがあるからである)。
なお、「民主的改革」と「民主主義革命」の区別について、不破は、記者の質問に答えて、「民主的改革というのは行われる中身の特徴づけで、その中身を実行するための権力の移行を革命と呼んでいる」と説明した(「赤旗」六月二四日)。確かにそう区別することはできるであろうが、これなら単に「政権移行」のほうが分かりやすいし、「民主的改革の実現」と言えばよい。「資本主義の枠内で可能な」と限定しているのだから、その意味でも「革命」と表現するのは不適切である。政権移動の内実が経済システムの根本的変革である場合を「革命」というのが普通であろう。それに、仮に不破の説明に従うとすると、「社会主義的改革」に対応する「社会主義革命」も必要になるはずであるが、ではなぜ〔五〕には「社会主義革命」は出てこないのか。「資本主義の枠」を突破するほうをなぜ「革命」とは言わないのか。
Aアメリカ帝国主義批判・対米従属批判
第二は、「アメリカ帝国主義批判・対米従属批判」である。この点は、一九六〇年代から共産党がもっとも得意とする領域であり(その頂点は、六〇年代前半の「アメリカ帝国主義の各個撃破論」である)、一時は「帝国主義」用語を後ろに引っ込める傾向もあったが、二〇〇一年の九・一一特攻テロ後の世界情勢の展開によって再びその意味を変更しながら、「独占資本主義」と「帝国主義」とを切り離したうえで、批判用語として強調することになった。この点は、現下の資本制経済のグローバリゼーションをどのように解明するかという問題として、左翼に共通に問われている課題につながっている。また、なお「日本帝国主義」とは認めないで「対米従属的な国家独占資本主義」としているが、この点は上田耕一郎副委員長が使ったことがある「従属帝国主義」のほうがよい。この領域については、私は不得手なので、誰かがもっとましな認識を示すであろう。
B民主的改革の強調
第三は、「民主的改革」の強調である。〔四〕は「民主主義革命」が見出しになっているが、不思議なことに本文ではこの言葉は一度つかわれているだけで、ほとんどの場合には「民主的改革」とか「民主主義的変革」が多用されている。二二日の「赤旗」一面トップの見出しも「民主的改革」と大きく打ち出されている。これまでは「ブルジョア君主制」と認識していたからこそ「民主主義革命」が必要であったのであり、前者の認識を改変したのだから当然ながら、「民主主義革命」も不要になるはずなのである。そうなっていないのは、大きな変化が生じる場合の不徹底の見本にすぎない。
この内実として、憲法の天皇条項について「民主主義および平等の原則と両立するものではな」いという認識を示している。ただこの一文が「……立場に立つ」と静態的に結ばれているのは誤解を招く一因となる。たとえ「前衛党」は返上したとしても、単に「……立場に立つ」だけでなく、その方向を目指して活動することが、革新政党には求められるはずである(「天皇条項」よりも「象徴天皇制」がよい)。
また、自衛隊については、「軍縮の措置」と「憲法第九条の完全実施(自衛隊の解消)に向かっての前進をはかる」としている。前記の天皇条項での「立場に立つ」よりも実践的である。この考え方は、一九九八年に始まり、前大会で方針にしていた「自衛隊の活用」論を取り下げたものであり、先に見たアメリカ帝国主義認識の前面化と対応している(「朝日新聞」は「天皇制・自衛隊を当面容認」と大きな見出しで報道しているが、ミスリードである(六月二二日))。
この〔四〕の初めで「異なる価値観をもった諸文明間の対話と共存の関係の確立に力を尽くす」と確認している点は、大きな前進である。
C「社会主義・共産主義」の強調
第四は、「社会主義・共産主義」の強調である。改定案は、従来の「社会主義社会は共産主義社会の第一段階である」を放棄し、この二つの区別を取り払ってまったく新しく「社会主義・共産主義」なる用語を発明した。
まず、この章の立て方が積極的である。資本制社会を超える未来を展望しようとしているからである。内容としては、第一に「生産手段の社会化」に焦点を当てた。これは大きな前進である。だが、二つ目にあげている「市場経済」については、説明がまったく不十分である。
また「国定の哲学」の否定については、すでに一九七六年の『自由と民主主義の宣言』前後から明示・強調しているが、この認識は近年になって私が強調するようになったグスタフ・ラートブルフの認識――「社会主義はある特定の世界観に結びつくものではない」への着目と共通するものである。
また、ソ連邦などについての認識については相も変わらず九四年の綱領改定時の「覇権主義と官僚主義・専制主義」で済ませている。
この章は全体として弱点が目につくが、それは節を改めて検討することにしよう。
改定案は簡略にされたので、折角、八五年の部分的改定で視野に入ることになったアイヌ民族の問題が抜けたり、「地球環境問題」には重ねて言及しているのに、焦眉の課題である地球温暖化問題は依然として取り上げられていない(不破は報告では一言だけ触れた)。その理由は、「物質的生産力の新たな飛躍的な発展」をなお依然として基調としているからである。日本の官僚制度の構造的問題点や腐敗についても甘い。また〔3〕では、総じてロシア革命の位置を下げている。「社会主義をめざす国」という、九四年に「社会主義生成期」論のお蔵入りの代わりに新しく打ち出した言葉も消えて、今度は「資本主義から離脱した国」に変えられた。しかも、ここでは中国もキューバもベトナムも登場しない。
四 憲法認識の前進と限界
A 改定案における憲法認識の変更
前節で確認したように、改定案における憲法認識の変更は、決定的で画期的である。変革の対象である日本の政治システムについて、「ブルジョア君主制」認識をやめて「主権在民を原則とする民主政治」だと変更したからである。「日本を基本的に支配しているのは」という現綱領の核心をなす問題の立て方をやめ、「この変化によって、……国会を通じて……変革の道を進むという道すじが、制度面で準備されることになった」と明らかにした。不破は言葉にはしないが、別言すれば、政治的には支配階級は存在しないということである。報告では、「政治的支配と経済的支配とは、実態も違えば、それを打破する方法も違います」と説明している。「政治的支配」よりも<(政治的)統治>のほうがよいだろう。
このまったく新しい認識によって、〔四〕の「民主主義革命」においては「日本国民の利益を代表する勢力の手に国の権力を移す」とされ、〔五〕の「社会主義・共産主義」では「労働者階級の権力」という、これまたマルクス(・レーニン)主義――日本共産党の言葉では「科学的社会主義」の根幹をなす核心的用語を放棄することになった。
すでに私が明確にしてきたように、「ブルジョアジー独裁」と「暴力革命」と「プロレタリアート独裁」とは三位一体の不可分の認識であって、共産党はようやくこの三つの基本的概念を卒業することになったのである。これはきわめて重要な前進である。世間の常識からすれば何を今さらということになるであろうが、社会は均質ではなく、多様であり、そこここでジャルゴンが幅を効かせている。事実、この共産党の動向を「改良主義への転落」と非難する声もまだ残っている。
だが、なお依然として不明確な部分も残されている。
その一つは、肝心の「主権在民を原則とする民主政治」という表現にある。ここは正しくは「法の前での万人の平等な権理と主権在民とを原理とする民主政」とすべきである(「民主政」に違和感があるなら慣用の「民主主義」でもよいが)。なぜ、不破は「民主主義」を避けたのであろうか。今では死語となった「ブルジョア民主主義」という慣れ親しんだ言葉を連想させることを嫌ったのであろう。
「法の前での万人の平等な権理」と書かなかったのは、社会認識における法(律)の諸問題を真正面から捉えようとはしないからである。改定案にも法や法律は一度も登場しあい。直接には、不破自身がこの数年間、そこから脱却しようともがいているレーニンになお呪縛されているからである。レーニンは、不破が『レーニンと「資本論」』で引用しているように、「法の前での万人の平等な権理」を悪し様に否定していた。改定案では〔一〕の初めの「半封建的な地主制度」について、原案にはなかった「解説的な形容句」を付記したが、同じように、どこかで「法の前での万人の平等な権理」という近代民主政の核心を表わす言葉を付け加えるべきであろう。
もう一つは、依然として<市民>を定立することを避けている。「勤労市民」は三回でてくるが、「市民」は登場しない。だが、一九七三年の「民主連合政府綱領」いらい「市民道徳」と言い始め、三年前に改定した規約では「市民道徳」と明記されているのであり、近年は「赤旗」では「市民」は多用されているではないか。長いあいだ、共産党は「市民」や「市民主義」を否定的に悪し様に非難してきた、その名残である(「生存の自由」は廃棄したが、なお<生存権>を使わないのも不破の限界である)。
さらに重要なことは、この重大な認識の変更について真正面から明らかにすることを避けている。事の重要性に見合って、従来の認識には限界があり、錯誤もあったと明確にすべきである。前記のくだりで「天皇は『国政に関する権能を有しない』ことなどの制限条項が明記された」と書いているが、現憲法は一度も改正されていないからこれは一九四七年に「明記され」ていた。この五六年間、共産党はそこを見ようとしなかったにすぎない。なぜ、そのような視野狭窄に陥っていたのかを直視し、反省することが必要がある。彼らがそうしないのであれば、外側にいる私たちが代わってその作業を果たさなくてはならない。
B 六七年「四・二九論文」いらいの認識の深化
ここで、歴史をさかのぼることになるが、憲法認識、別の視点から言えば、「革命の形態」の問題について、共産党はどのように認識していたのか、あるいはどのようにその認識を変更、深化してきたのかについて、明らかにする。そこを明らかにしないと、今回の綱領改定の意味が明確にならないからである。内在的に認識し批判するとは、批判対象自身の認識の変化についても、その意味を理解することを不可欠の内実とするからである。 六一年綱領確定前については省略し、六〇年代後半から跡づけてみよう。
一九六六年、アメリカ帝国主義によるベトナム戦争が激化するなかで、日本共産党は、「ベトナム支援の国際統一戦線」の形成を提起し、その一環として、宮本を団長とする代表団をベトナムに派遣した。代表団は、その足で中国を訪問し、劉少奇、ケ小平らの党代表団と会談した。『日本共産党の八十年』によれば、「会談のなかで、中国側が革命運動の唯一の道として武装闘争を絶対化する態度をとったのにたいし、宮本団長は、極左冒険主義の誤りは絶対にくりかえさないと、きっぱり表明し」た。一八九頁。中国側の申し出によって「共同コミュニケ」が作成されたが、上海にいた毛沢東との会談で、その内容の「抜本的な書きかえ」を要求され、共産党は拒否した。こうして、「共同コミュニケ」はまぼろしと化した(この同じ日に、文化大革命が発動された)。「鉄砲から政権が生まれる」と信じている毛は、武装闘争を強調し、「ソ連修正主義」への批判に同調することを求めたが、宮本はこれらの主張をきびしく退けた。その後、この中国共産党による干渉は、日本のなかのいわゆる中国派の呼応もあり、エスカレートしていった。共産党のいう「毛沢東一派の覇権主義的干渉と蛮行」である。
翌六七年、共産党は、評論員論文「極左日和見主義者の中傷と挑発」を発表した。この論文は、B五判百頁余の長大なもので、三年後の第一一回党大会で副委員長となる岡正芳が執筆したと言われ、発表の日付から「四・二九論文」として重要な位置を占め、大きな役割を果たした。『日本共産党の七十年』では次のように高く評価されている。この論文は、「毛沢東一派の覇権主義的干渉と蛮行」に対する反撃であり、「高度に発達した資本主義国日本での議会活動の役割を否定するかれらの反議会主義や中国式『人民戦争』論を日本に機械的に導入しようとする極左冒険主義の挑発的くわだてをするどく暴露し、党綱領の見地を擁護してたたかった。この論文は革命の平和的合法的発展とマルクス、エンゲルスの態度、レーニンと議会での多数の獲得の問題、反ファッショ統一戦線政府の歴史的経験などから革命の移行形態についての豊富な教訓をひきだし、党綱領と国会の問題などをふかく解明するなど科学的社会主義の国家と革命にたいする理論を創造的に発展させたものとして、今日的、先駆的意義をもつ文献であった」。
この評価だけ読むと、「革命の平和的合法的発展」の道だけを探究した論文であるかに理解するほかないが、実はこの論文は「ブルジョア民主主義」への批判を基調として、「平和移行必然論」と「暴力革命唯一論」を両方批判する形をとっており、五八年の第七回党大会で宮本が強調した「敵の出方論」(『日本革命の展望』三一五頁)を踏襲するものであった。だから、読み方によっては「暴力革命」を容認するものとしても理解可能なものであった。「いうまでもなく、あらゆる政治権力の真の所在は、軍隊、警察などの暴力装置を中心にした執行機関をだれがにぎっているかにある」と確認し、「政府」と「革命権力」との区別を明確にしていた。
そして、「四・二九論文」では、憲法については「国会」の位置づけに関してだけ関心を示しているにすぎなかった。「言論、集会、結社の自由」には触れているが、「基本的人権」にすら言及していない。憲法第九条も眼中にない。
その意味で歴史的限界は帯びていたにせよ、「四・二九論文」は「革命の平和的合法的発展」の道を探究したことは明らかであった。
この問題での出発点をなすものであるがゆえに、この論文についてだけは内容を紹介したが、その後の経過はごく簡単に確認するだけにする。
共産党は、この「革命の平和的合法的発展」の道を一九七〇年の第一一回党大会で「人民的な議会主義」として打ち出し、「今日の日本の政治制度のもとでは、国会の多数を基礎にして、民主的政府を合法的に樹立できる可能性がある」と明言した。さらに、この大会で書記局長に抜擢された不破がこの年末に論文集『人民的議会主義』を著わして、彼の評価を高めることにもなった。だが、この論文集では、「議会制民主主義の基本的な精神は、主権在民……という見地であります」四〇頁という程度の認識であり、不破は「社会主義日本では『……プロレタリアート独裁』が樹立されなければならないと考えてい」一七四頁たし、「敵の出方論」を繰り返していた。一七五頁。
七二年の総選挙で共産党は一四議席から三八議席に飛躍し、翌年の第一二回党大会で「民主連合政府綱領」を発表した。だが、この段階では、憲法についての評価は、六一年綱領の枠内であった。「民主連合政府は……憲法改悪に反対し、現憲法の諸条項を厳格にまもる」と明らかにしながら、つづけて「現行憲法を日本社会の未来永劫にわたって不変のものとすることは、日本の将来を現在の資本主義体制の若干の改革の範囲内にとどめることであり、……天皇制の永続を肯定するなど、きわめて不徹底な立場をとることである」と釘を刺した。一四八頁。同時に、「わが党の『敵の出方論』への無責任な攻撃」を問題として批判を加え、「敵の出方論」の正しさを強調していた。一四七頁
共産党が憲法についての認識を変えたのは、七三年からの約二年におよぶ公明党との憲法論争の過程においてであった。七四年に宮本は、記者会見で「憲法五原則」を強調した。宮本は、「@国民主権と国家主権、A恒久平和、B基本的人権、C議会制民主主義、D地方自治、を憲法五原則と定式化し、これが日本社会の将来の進歩・発展のなかで、いっそう充実、徹底させられるべきことをあきらかにしました」と、『日本共産党の八十年』に記述されている(なぜか、三倍もの分量のある『日本共産党の七十年』には宮本記者会見は出てこない)。
この新しい認識は、七六年の第一三回臨時党大会での綱領の部分改定――すでに見た「プロレタリアート執権」の削除――と『自由と民主主義の宣言』の採択として結実し、宣伝されることになった。
以上に簡単に跡づけた経過をふりかえると、次の三点を理解することができる。@マルクス主義の教義がもっている拘束力がいかに強固であるか、Aにもかかわらず、経験を通して認識は変化すること、Bそれにしても共産党の認識の速度は鈍重であること、この三つである。そして、@とBの例証はさらに残されている。
共産党が綱領に「憲法改悪に反対し、憲法の平和的民主的条項の完全実施を要求してたたかう」と明記するのは、はるか二〇年後の九四年の第二〇回党大会まで待たねばならなかった。そして、「四・二九論文」で確認していた「あらゆる政治権力の真の所在は、軍隊、警察などの暴力装置を中心にした執行機関をだれがにぎっているかにある」という認識を黙示的にせよ放棄するのは、先に見た今回の綱領改定案が初めてである。また、「敵の出方」論については、不破は二〇〇〇年の正月にも「ほぼ同じことを、マルクス、エンゲルスは主張していた」と語っていた(『レーニンと「資本論」』第五巻、四二二頁)し、改定案でも忘れたフリをして済ませている。
戦後、共産党は、度重なる度はずれな、ソ連邦と中国による干渉に抗して「自主独立」の道を切り開いてきた。その一つの内実として、マルクス・レーニン主義の世界においては常識=定説となっていた「階級闘争」(「プロレタリアート独裁」の承認に無限に接近した意味での)や「暴力革命」の呪縛から脱却するという課題があった。共産党はそのために、苦闘を重ねてきたのである。渦中から離れて眺めれば、なぜそんなことにもっと早く気づかなかったのかということになるが、コミンテルン日本支部として誕生した共産党には、局外者にはすぐには理解できない事情と制約があったのである。
この事情と制約によって、共産党はソ連邦と中国による不当な干渉を「スターリン主義批判」として展開することを避けてきた(あるいはできなかった)。それゆえに、<スターリン主義批判>の一点において正当性と存在理由を有して、新左翼が一九五六年のハンガリー事件を発端にして登場することになった(共産党がハンガリー事件にたいする評価の誤りを公認したのは何と一九八二年であった。しかも「自己の過去の誤りをすすんで是正する誠実さをしめすもの」と強弁した『日本共産党の七十年』二六五頁)。だが、新左翼は、共産党が必死になって探究していた、この新しい課題に気づくことなく、レーニン主義へと回帰することによって<スターリン主義批判>が貫徹できると考えてしまった。言葉を正確に使えば錯覚したのである。実は<スターリン主義批判>はレーニン主義の切開、さらにはマルクスとマルクス主義の批判的検討・超克へとその歩を進めなくてはならなかった。不破哲三は、レーニン主義の切開までは前進したが、その先で悩んでいるようである。そのことを顕わにしたのが、彼らの社会主義論の混迷である。次節で検討しよう。
五 社会主義論の不明確さ
すでに確認したように、綱領改定案の〔五〕は「社会主義・共産主義の社会をめざして」と立てられている。この部分は、共産党が独自色を打ち出すために強調することになったものであり、その意図については、私たちははっきりと支持する。そのことは、すでに三年前の第二二回党大会についての論評でもはっきりさせておいた要点である。私は、前大会についての論評で「社会主義をいつになく明確に強調した」と注意を喚起し、そこに「<連帯社会主義>をめざす私たちとの共通の土俵、接点がある」と確認しておいた(『連帯社会主義への政治理論』二四八頁)。逆に、ここにまだ「社会主義・共産主義」と書いてあるから、共産党は変わらないとか、衣の下に鎧が隠されているなどと反発するむきもあるようである(「読売新聞」や政治学者の五十嵐仁など)が、それらはいわば反共的雑音にすぎない。
確かにその意図はよいのであるが、〔五〕は、その前の〔一〕から〔四〕が平易に書かれていて読みやすい――文章の成熟は認識の深化の現れであることが多い――ことに比べてきわめて難渋な内容となっている。恐らく、党員にとっても、彼が理論にいくらかでもこだわる真面目な党員であればあるほど難解であろう。これまでの共産党の社会主義論と切断されているし、裏腹な関係ではその曖昧さが尾を引いているからである。
共産党は、これまで「社会主義論」としては、一九七七年に提起した「社会主義生成期」論と、翌年に提起した「四つの基準」論を唱えていた。「社会主義生成期」論は、九一年末のソ連邦の崩壊の試練に耐えられずに、九四年の第二〇回党大会でお蔵入りとなった。その時、新しく登場したのは、ソ連邦についての「覇権主義と官僚主義・専制主義」なる新しいレッテルであった。そして綱領を改定して最後の(七)での「社会主義」についての説明で、従来の「労働者階級の権力の獲得」「生産手段の社会化」「社会主義的計画経済」に新しく「計画経済と市場経済の結合」「社会主義的民主主義の発揚」を加えてこの五つをキーワードにした。
ところが、今度の改定案では、「覇権主義と官僚主義・専制主義」は踏襲されているが、この二つの理論だけでなく、「社会主義」についての前記の五つのキーワードの内から、「生産手段の社会化」だけはそのまま踏襲したが、「労働者階級の権力の獲得」「社会主義的計画経済」「社会主義的民主主義の発揚」の三つは全く姿を消してしまい、「計画経済と市場経済の結合」は「計画性と市場経済との結合」に書き換えられてしまった。さらに六一年綱領いらいの「社会主義社会は共産主義社会の第一段階である」という定説も、「労働におうじてうけとる」という定説も消えた(後述)。
したがって、これまで現綱領を正しいと信じていた党員は、それらのほとんどをチャラにしろと言われたことになる。それでも、ただ素晴らしいという党員の感想を「赤旗」は集めているが、そういう党員はほとんど何も理解してはいないのであろう。
そのうえで、「社会主義・共産主義」なる新しい用語を使い出すことになった。これはすぐには理解しにくいが、まったく新しい一つの言葉ということになっている。七中総コミュニケでは「社会主義・共産主義社会」なる新語も使われている。
内容の検討に移るまえにいわば形式的にも問題がある。これまで「社会主義」と表現していた文脈では「社会主義・共産主義」なる用語で取り替えることになったのであるが、なお一貫性を欠いている。七中総の審議をとおして、原案では「社会主義の日本の経済生活」となっていた部分に「・共産主義」を追加したが、それでもまだ「社会主義」だけが残された部分が数カ所ある。
〔3〕の結びには「帝国主義・資本主義を乗り越え、社会主義に前進することは」と書いてある(なお、ついでながら、この述語が「大局的には歴史の不可避的な発展方向である」となっていることも注意に値する。「歴史的必然性」と書いていないからである)。この部分は章が違うからという言い訳が可能なのかも知れないが、問題の〔五〕にも「社会主義への前進の方向を支持するすべての党派や人びとと協力する」と書いてある。これには、そこは共産党外の人びとについての話だという説明が成立するかも分からない。だが、その前には「社会主義をめざす権力がつくられる」と書いてあり、その後では「日本における社会主義への道は」が主語になっている。その少し先には「市場経済を通じて社会主義に進むことは」が主語になっている。さらにこの章では「社会主義的変革」が四回も出てくる(「社会主義的改革」が一回)が、なぜ「社会主義・共産主義的変革」ではないのか。
これらの不統一・混乱は、一般的に四文字熟語で表記されている慣用の二つの言葉を中黒点で結んで一つの言葉だと造語することに無理があることを示している。「急行」と「特急」を合わせて「急行・特急」と言われても何のことか分からない。
不破は報告で、未来社会について、「この社会の呼称ですが、わが党は、日本共産党として、共産主義社会をめざす立場を名乗っており、理論は科学的社会主義であって、社会主義をかかげていますから、どちらか一つをはずして、呼称を一つにするわけにはいかないのです」と説明した。
これはまったく本末転倒の錯誤した議論である。人類の未来をいかに表現するかという大問題よりも、日本共産党という名の組織が存在していることがより重要だというのである。私は、人類が当面している未来社会については<社会主義社会>とし、党名を<社会主義党>にすることが解決策だと考える。その<社会主義社会>の次の発展段階を「共産主義」としてもよいだろうが、それこそ不破お得意の「青写真は描かない」説を取ればよい。
次に内容の検討に移ろう。
不破は報告では、これまで「社会主義」と「共産主義」については、生産物の分配の仕方を基準に区別していたが、それを止めたと説明している。周知のように、これまでも「社会主義」と「共産主義」という二つの言葉をどのように関連づけて理解すべきなのかについては、多様な解釈を生み出していた。マルクスの場合には関連して定かに論じることはなく、両方の言葉を時に応じて使っていた。関連づけて論じたのはレーニンである。レーニンは『国家と革命』で「共産主義の第一段階(普通にはこれが社会主義と呼ばれている)」と明らかにした。うまい具合にマルクスが『ゴータ綱領批判』で「労働に応じた分配」と「必要に応じた分配」とを対句として読みとることができるような一文を書いていたので、それを活用して、「社会主義:労働に応じた分配」、「共産主義:必要に応じた分配」と区別することが、それいこう通説となった。だから、この説明が現綱領にそのまま書かれていた。
この新しい「社会主義・共産主義」は、「生産手段の社会化」と「市場経済」の二つの言葉を軸にして説明されている。
「生産手段の社会化」については、まず最初に「社会主義的変革の中心は……生産手段の社会化である」と明確にしたうえで、「生産手段の社会化は」と四回も説明している。その内実として「協同組合」が一度も出てこないのは、これまでの共産党の「社会主義論」と比べても腑に落ちないし、さらにその内実を深めて解明しなくてはならないが、それはともかく、叙述の仕方も内容も同意できる。報告では、『資本論』を引用して「結合した生産者」「結合的生産様式」をドイツ語(アソツィールテ)の併記なしに引用して説明している。アソシエーション論への接近である。ただここで「計画経済」と書いていないことも注意を要する(「計画経済」ではなくて、「生産手段の社会化」をこそ明確にすべきだと、私たちはこの数年間いっかんして主張してきた)。
ところが、「市場経済」のほうはどうか。「生産手段の社会化」についての叙述を踏襲すれば、「社会主義的変革のもう一つの中心は……市場経済である」とでもはっきりさせるべきである。ところが、そうではなくて、突然「市場経済を通じて社会主義に進むことは」が主語の一部になっている。しかも分量のうえでも八分の一ときわめて少なく、「市場経済は」とは一度も説明していない。報告でも「生産手段の社会化」は中見出しに二度も立てて説明しているが、「市場経済」は見出しに昇格されることなく、「中国やベトナム」が例示されているにすぎない。
「通じて」だけでは、「社会主義」になると「市場経済」はなくなると理解するほうが自然であろう(さなぎを通じて蝶になるが、蝶になるとさなぎは残らない)が、「計画性と市場経済とを結合させた弾力的で効率的な経済運営」と説明されているから、「市場経済」は「社会主義」でも生き残るらしい。なお、この部分は一九九四年の綱領改定によって「社会主義的計画経済が必要である」としたうえで「計画経済と市場経済の結合など弾力的で効率的な経済運営」と書き加えた部分に当たっている。ここでは「計画経済」の代わりに「計画性」と書き換えられてしまった。
こうして「計画経済」は、共産党の新しい「社会主義・共産主義」の経済から放遂されてしまった(「計画経済」の不使用自体は、社会主義経済を<協議経済>として構想している私が六年前から主張していたことでもあり、一歩前進である)。報告では「なお〔注意!〕、『計画経済』を……」と数行つけたしているが、いかにも不自然である。そして、不整合に導入した「市場経済」については説明不足となっている。したがって、「生産手段の社会化」と「市場経済」との関係はどうなっているのか、当然にも何の説明もない。
さらに一筆すれば、「市場経済を通じた社会主義」なるものを強調しはじめた不破は、同時に「資本主義市場経済」なる言葉も使い始めたのであるが、この「資本主義市場経済」用語は改定案には登場しない。報告では一度だけ「日本の場合には、いま資本主義的市場経済のなかで生活している」と言っている。「資本主義」と「市場経済」とはどういう関係にあるのか。また「社会主義市場経済」は使われていない。
なぜ、このように混乱した説明に陥っているのか。その根本的理由は、ソ連邦の経済についての分析を欠落させているからである。先に「覇権主義と官僚主義・専制主義」なる長たらしいレッテルを紹介したが、ここにある三つの言葉はいずれも、外交関係か政治制度の領域での用語であって、経済システムは何かには答えていない(それまでは「計画経済」としていた)。だから、綱領改定案では「市場経済」についてのくだりに「『統制経済』は……否定される」と書き加えてあるが、なぜ「統制経済」にカッコが付いているのかも不明だし、それがソ連邦経済についての規定だと明示されているわけでもない。
また、「社会主義的民主主義の発揚」を削除しただけなので、社会主義社会の政治システムはどのようなものかについて全く欠落することになった。
つまり、一七年間でお蔵入りするほど賞味期限の短い「社会主義生成期」論を「目からうろこが落ちる」(上田耕一郎副委員長)と絶賛するほどだった、社会主義論をめぐる積年の弱点が何度目かは分からないがまたも露呈してしまったのである。
このように根本的な弱点に満ちているとはいえ、共産党が<社会主義>を主張することによって、二一世紀を展望しようと努力していることは、大いに評価すべきであり、この共通の土俵のうえで、私たちは、<社会主義>への展望をさらに深化させなくてはならないのである。
むすび――共通の認識、共通の課題
以上のように、私は、今回の綱領改定案にたいして六一年綱領にさかのぼって検討した。私自身は共産党に一度も党籍を置いたことがなく、六〇年安保闘争いらい長く新左翼世界で活動してきたがゆえに、意図せざる見落としもあるかも知れない。逆に、トロツキズムの洗礼を早く受けていたがゆえによく見えるところもあるはずである。人間は誰にせよ、大小深浅は別にして部分的真理を分有しているにすぎない。諸困難、諸課題が累積している、この二一世紀の日本と世界の現実を前に、互いの認識を持ち寄り、深めあい、この窮境からの脱出路がどこにあるのかを探りだす努力だけが、その連帯の志向性だけが、私たちには強く求められている。
本論で引いた三六年前の「四・二九論文」には「反革命挑発者の徒党であるトロツキスト」などという罵倒のレッテルが使われていた。今では「トロツキスト」も死語になったが、いつまでもそんなレベルに止まっていてよいはずはない。互いに相手を社会主義を目指す人間と認知しあったうえで、対話すべきはないだろうか。
本稿をむすぶにあたって、改めて日本共産党と私たちとのあいだにはどのような共通認識が形成されており、何が共通の課題なのかをはっきりさせたい。互いの相違を主張・批判することは、前者にふまえ、後者を追求するなかでだけ、積極的な意味をもつ。
私たちと共産党とのあいだには大きく言って次の三点で共通の立場・認識に到達している。周知のように言葉づかいにはズレがあるが、より広い世間の普通の意識からすれば敵対するほどの相違ではない。用語の相違はより正確さが求められレベルで論争すればよい。
@現実の日本社会を資本制社会として捉え、その限界を克服・変革しなくてはならないと考えている。天皇制についても優先順位の問題は残るが、廃絶しなくてはならないと考えている。
Aその変革にさいして、法や法律を重視して、法(律)に則って行動することが必要であり、有効であると考えている。その根拠は、日本の政治システムが、本質的には法の前での万人の平等と主権在民を基礎とする民主政=民主主義だからである。
Bそして、その変革の方向を社会主義として展望している。一言でいえば<社会主義革命>を志向している。
これらの大きな意味での共通の立場・認識のうえで、より本質的に事柄を表現したり、より具体的に情勢を把握したり、課題を設定するにさいして、主要には方向ではなくテンポや強調点において相違がある。
共産党の現綱領で言う「行動綱領」にあたる当面する諸課題については、決定的に異なるものはない。大きな課題を列記すれば、改憲阻止、社会の軍事化反対、労働者の権理の拡大、地球温暖化など環境破壊の阻止、社会の多様性・寛容さの拡大などが喫緊の共通課題である。私たちはとくに、地方自治を創造する市民の活動や、労働者と労働組合の闘いを重点的に刷新・強化する必要があると考えている。
近年、私たちは<社会主義的オルタナティブ>とか<社会主義へのオルタナティブ>などと書いているが、共産党の言葉でいえば「民主連合政府」ということになる。私たちの場合には、社会主義への志向性をより強調する。現実の過渡的改革が自動的に社会主義へと連動すると考えるのは間違いであるが、逆に連続性を拒否することも誤りである。
当面する情勢の分析は、綱領ではなく大会決議の課題であり、私自身がなおこの点は専門的に研究したことがないので、本稿でも弱点となっているが、アメリカ帝国主義の一極支配、資本制経済のグローバリゼーション、現代世界の変容について、分析を深めなくてはならない。日本社会の崩壊現象の進展――閉塞感の深化、若者の無気力、犯罪の多発などにたいして危機感をもって解明しなければならない。
社会主義像については、ソ連邦などの歴史的解明とあわせて、安易に市場経済を認める方向にではなく、あくまでも資本制経済を克服し、平等を希求する方向で探究する必要がある。私たちは、それを<協議経済>と展望している。社会主義の政治システムは、資本制社会のそれ=民主政と本質的には同じであると考えている。法治の重視と言い換えてもよい。
さて、法学者の大江泰一郎は、最近かいた「社会変革と法」の冒頭で、ソ連邦の崩壊に関連して「社会主義は死して……『法治国家』概念という皮を残したことになる」と確認している。法(律)の諸問題の重要性に注意を喚起したかったこともあって、大江の論文から引いたのであるが、ゴルバチョフが残したもう一つのスローガンがある。「社会主義へ討論の文化を!」が、それである。そして、私たちが一貫して高く掲げているのが、この<社会主義へ討論の文化を!>である。
六一年の第八回党大会でも宮本は「敵の出方論」を強調した(『日本革命の展望』二一三頁)
不破はマルクス批判に踏み出すか?
不破哲三議長は、二〇〇三年六月二一日の第七回中央委員会総会で綱領改定案を提案する報告のなかで、「未来社会」についての部分で次のように語った。
なお、つけくわえて言えば、マルクスがのべた共産主義社会での分配論にも、単純には絶対化するわけにはゆかない問題点があるように、思います。
マルクスは、共産主義社会の低い段階では、生産物の量に制限があるから、なんらかの分配の基準がいる、それには、「労働におうじて」の分配という方式がとられるのが普通だろう、しかし、この方式では、いろいろな実態的な不公平が避けられない、こういう調子で議論をすすめます。
そこから、この不公平を乗り越えて、各人が必要なだけの生産物を自由に受け取れるようになるためには、「協同的富のすべての源泉」から、生産物が「いっそうあふれるほど湧き出るように」なることが必要だ、生産がそこまで豊かに発展することが、高度な共産主義社会にすすむ条件の一つになる、こういう議論が、二段階論の重要な柱の一つになっています。
しかし、すべての源泉からあふれるほどに生産物が湧き出るから、「必要におうじた」分配が可能になる、ということは、人間の欲望の総計を超えるような生産の発展を想定し、そのことを、共産主義の高度な段階の条件にする、ということです。はたして、そのような段階がありうるか、人間社会のそういう方向での発展を想定することが、未来社会論なのだろうか、ここには、私たちが考えざるをえない問題があります。
すでに、一九世紀に生きた人びとの日常生活と現代人の日常生活をくらべるなら、生活の必要な物資の総量の違いには、ケタ違いの格差があります。しかも、人間の欲望は、今後の社会的な発展、科学や技術の発展とともに、想像を超える急成長をとげることが予想されます。その時に、簡単に、人間の欲望を超えて「あふれるほど」の生産、あるいはありあまるほどの生産を、未来社会の条件として安易に想定することは、それ自体が、未来社会論に新しい矛盾を持ち込むことになりかねません。――以上引用
見てのとおりきわめて慎重な言い回しではあるが、とにかくマルクスの未来社会論、なかんずく生産力の発展論について、大きな問題があると、不破は指摘した。不破は、一九98年に連載を開始して、同年から3年かけて刊行した全7巻の『レーニンと「資本論」』いらい、レーニンへの批判を強調しているが、マルクスに対してはほとんど批判を口にしたことがなかった。だが、今、ようやく不破はマルクス批判に踏み出したかのようである。
ところで、三年前に「赤旗」で、「レーニンはどこで道を踏み誤ったのか」などと刺激的な大見出しで、不破が正月からけたたましくレーニンを批判したものだから、
朝日新聞社の『アエラ』がびっくりして「不破氏の今どきレーニン批判」なる記事を書いたことがあった。取材を受けた私は、レーニンを厳しく批判する「この路線を徹底させるなら、マルクスについても、どこが間違っていたか評価しなければならなくなる。自分たちの過去の発言が、誤りだったと認める必要もある」とコメントした。このコメントの後ろで、不破は「科学の目から、マルクスが言ったことでも、今の時点で間違っていることは遠慮なく批判します」と答えた。答えたと言っても、もちろんこのやりとりは記事を書いた記者(森川愛彦)が構成したもので、直接の応答が成立したわけではないが、いわば間接的には対話したことになる。それから、いくら待ってもマルクスへの批判的言及は聞こえてこなかったのであるが、ついに、不破もマルクスへの批判を口にしたわけである。『アエラ』(2000.1.31号)
これだけのことであれば、わざわざ一文をものすることもないのであるが、ここで不破がようやく取り上げている問題については、私はすでに二四年前に、そこには大きな問題があることを明らかにしていた。私は「ソ連邦論の理論的前提と課題」と題する論文を、当時所属していた第4インターの機関紙「世界革命」に発表した(最初の著作である『スターリン主義批判の現段階』一九八〇年に収録)。「われわれに問われているのは<人間と自然>のあり方なのだ……。ただ生産力が増大すれば万事解決するというわけではない。これまで、この点と関連させて問題とされてはいないようであるが、マルクスは『ドイツ・イデオロギー』で周知のように、生産の四つの契機の一つに<欲望>をあげていた。となると、人間の「豊かさ」の充足は絶対にありえなりないことにはならないのか。生産の増大にともなって欲望もまた増大するからである。この点からも、核心的問題は生産の量でなく、質であるという視点を、われわれは改めて理解しなげればならないのでないだろうか」。この一句を私は、『社会主義とは何か』(一九九〇年)でも引用した。
さらに一九94年に私は、「『労働に応じた分配』の陥穽」で、この通説を根本的に批判した。さらに、社会主義経済計算論争をフォローするなかで、オーストリアのクルト・ロートシルトが「成長と生産および消費の不断の拡大とは、社会主義の究極目標ではない」(『社会主義・資本主義と経済成長』)と明らかにしていたことを知った。
この問題は、マルクス主義の限界の急所をなしているのではないか。ともかく、不破がここまで気づいたことは大きな前進である。ここまで認識したのであれば、改定案になお記されている「物質的生産力の新たな飛躍的な発展」も問い直す必要がある。
マルクスの『ゴータ綱領批判』での「分配」問題の理解については、さらにもう一つの問題があるのだが、不破の関心はそこには向かないようである。不破は、生産関係こそ重要という方向にのみ話を展開しているが、そのことを前提したうえで、「分配」問題も独自に重要であることを認識しなければならない。一九二〇年にミーゼスが提起した「社会主義経済計算論争」はそのことを教えていたのである。この点は、この間、しつこく主張しているので、ここでは繰り返さない(村岡到編『原典・社会主義経済計算論争』)。
さらにもう一つの問題は、不破が「協同的富」と訳している、富に付けられている形容句の意味という問題があるが、この点も前に論じたことがあるので、ここでは指摘だけに留める。
このように、一度、マルクスにも問題はなかったのかと鋭角的に問題を立てることができれば、私たちははるかに遠くまで反省を深め、マルクス主義を超えてすすむことが、社会主義を目指すものにとっての焦眉の課題であることが理解できるであろう。
不破が今度の綱領改定案で新しく提起している重要な問題なので、「労働者階級の権力」問題についても触れておこう。「労働者階級の権力」は従来、マルクス主義の根本教義であり、共産党の綱領でも「社会主義」の核心として位置づけられていた。
不破は、報告のなかでこの用語を捨てたことを明らかにしたが、そのことはマルクスとはどのように関係しているのであろうか。周知のように、「労働者階級の権力」を強調したのは、「プロレタリアート独裁の承認」こそがマルクス主義者の試金石だと主張したレーニンである。だが、マルクスにも類似の認識はなかったのであろうか。言うまでもなく『共産党宣言』には「労働者革命の第一歩は、プロレタリア階級を支配階級にまで高めることである」という有名な一句が書かれていた。レーニンは『国家と革命』でこのマルクスを引用したうえで「労働者階級の権力」を強調したのである。
したがって、不破が「労働者階級の権力」を捨てたということは、『共産党宣言』いらいのマルクスとマルクス主義の根本的教義を放棄したことを意味するはずなのである。
『共産党宣言』にはこんな一句もあった。「近代の国家権力は、全ブルジョア階級の共同事務を処理する委員会にすぎない」。また曰く「法律、道徳、宗教は、プロレタリアートにとっては、背後にブルジョアの利益を隠しもったブルジョア的偏見である」。これらのいわば階級的認識もその当否が根本的に問われている。このように考えたマルクスは、もっぱら経済分析にのみ傾斜して、法(律)の諸問題を真正面から考察することができなかったのではないか。そして、不破もまた三時間にも及ぶ報告のなかで一度も法や法律について触れようとはしなかったのである。
私自身について言えば、2年前から<則法革命>を提起してきたが、「労働者階級の権力」に問題があったことについては、ようやく今春になって気づき反省し改めた(『希望のオルタナティブ』所収の拙論)。
さらに一歩、だが決定的な一歩を進める必要がある。今や、マルクス主義を超えて社会主義を基礎づけることが課題なのである。もともと、「社会主義はある特定の世界観に結びつくものではない」(グスタフ・ラートブルフ)のである。
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