村岡到 アレックス・カリニコス『アンチ資本主義宣言』(こぶし書房)2005.5.28
反資本主義めぐる論議の活性化を
「稲妻」第359号 2005年3月10日
初めて聞く著者であるが、アレックス・カリニコスは著者略歴によると、1950年にジンバブエで生まれ、オックスフォード大学で学び、ヨーク大学の教授であり、同時にイギリス社会主義労働者党(SWP)の党員でもある。訳者あとがきでは「SWPの中心的理論家」と紹介されている(SWPについては、「ソ連邦=国家資本主義」論のトニー・クリフが有名である)
近年、日本でもようやく話題になりはじめた世界社会フォーラム(WSF)とその周辺でどのような議論が展開されているのかを才気煥発な筆致で分類し紹介している点で、とても勉強になった。私は、この方面の動向については暗いのでそこに登場する論者のほとんどは名前も知らないくらいだから、手短かに要約することすらできないが、例えば『<帝国>』で有名となったマイケル・ハートとアントニオ・ネグリの見解がどのような運動潮流に根ざし、数多くの議論のなかでいかなる位置を占めるものなのか、などについて理解できた。
本書を通読して、何よりも強く感じたのは、<反資本主義>を明確にしたこの種の著作が欧米では活発に出版され議論になっていること、日本との落差が大きいことである。2年前のイラク反戦運動でもその結集が1桁違うこと、今年のWSF5でも日本からの参加者が非常に少なかったことを痛感させられているが、運動の場だけでなく、理論面でも日本は大きく立ち遅れている。どうしたらこの閉塞した状況を突破できるのか、妙案はないので、まずは本書を紹介することで、訳者の渡辺雅男も望んでいる「運動の活性化」と「論争よ、起これ」の一助にしたい。
社会主義志向では共通
カリニコスは、WTO閣僚会議に対して数万人の抗議行動が展開された、1999年11月のシアトルでの国際的行動を、<反グローバリズム運動>の狼煙となったと位置づけ、2001年にブラジルのポルトアレグレで創始されたWSFをその主要な舞台・運動と見る。01年の9・11テロによる打撃・後退をくぐりぬけて、反グローバリズム運動は力強く全世界で前進していると、カリニコスは評価する。<多様性>を大きな特徴とするこの運動のなかの諸潮流を、カリニコスは「反動的な反資本主義」「ブルジョア的な反資本主義」「ローカリスト反資本主義」「改良主義的な反資本主義」「オートノミスト反資本主義」「社会主義的な反資本主義」に分類する。
カリニコスの立場は、「社会主義的な反資本主義」である。資本主義の根本的変革、社会主義革命こそが現代の課題であるとカリニコスは主張する。「一般に、社会主義的な計画化は時代遅れの考え方と思われている。とはいえ、われわれにはそれがどうしても必要なのである」(166頁)。まず、この基本的な立場で、私はカリニコスと同じであり、この点での彼の、他の潮流――市場社会主義派まで含めて――への評価に同意できる。さらに、「民主的な計画経済」(175頁)を望むのであれば、ソ連邦の経済について「計画経済」と表現するよりは、一度だけ使っている「官僚的な指令経済」(169頁)と明確にしたほうがよい。カリニコスはクリフの説は踏襲していない。私は、社会主義の経済は<協議経済>としたほうがよいと、その内容と合わせて提起している。パット・デヴァインが「話し合いによる調整を行なう自治的な社会」(172頁)と提起しているという。
もう一つ、<多様性>を基軸にすえている点でも、私はカリニコスの考え方を支持する。そのゆえに、前記の諸潮流の分析は他者なで切り的ではなく、それらの長所からは栄養分を汲み取る姿勢が貫かれている。この思考の柔軟性は、例えばWSFの次の事情についての評価にも現れている。ポルトアレグレでのWSF開催は、同市の市長を握った労働者党の協力を大きな支えにしていたのであるが、「労働者党によって選挙目的で利用されてきたことは、どんなに単純な外部観察者の目にも明らかである」としたうえで、「反資本主義のフォーラムが選挙目当ての政治家によって利用されることよりも、もっと重要なのは、運動そのものの内部に独自のイデオロギー的・政治的な諸傾向が存在していることである」(142頁)とカリニコスは評価する。ただ、カリニコスがなお依拠しようとしているマルクスには<多様性>の視点は欠如していることに、彼は気づいていない。なぜ、「多様性についての覚え書き」の節にマルクスは登場しないのか。引用できる原典がないのだ。
さらに、私がこの間、提起している社会主義の構想と重なる部分があるので、先に紹介しておこう。カリニコスは、「過渡期のプログラム」(179頁〜)で、「第三世界の債務の即時帳消し」「トービン税の導入」などとともに「普遍的なベーシック・インカム制度」(181頁)を提起している。「基礎的所得」とでも訳せるのであろうが、これは、アンドレ・ゴルツの「生涯所得保障」や私が提起している<生活カード制>と類似している。最近、藤岡惇も「市民所得保障制度」に触れている(『グローバリゼーションと戦争』231頁)。だが、カリニコスの場合にはそれほど深く考えられているわけではない。カリニコスは、この「考え方は、資本の独裁から労働者を解放する助けになりうるという点で魅力的である」(182頁)とだけ説明しているが、単なる「助け」に止まっていて、その原理的根拠や意義は不明である。私は、<生活カード制>を、生存権を根拠にして立案し、「労働力の商品化」の揚棄形態と意義づけている。
いくつかの相違と難点
他方、いくつかの点では、私はカリニコスに異論がある。
もっとも中心にある問題は、マルクスとマルクス主義の評価についてである。端的に言えば、マルクスは経済(学)に偏重していたのではないか。別言すれば法学的考察の欠如である。
例証しよう。カリニコスは「資本主義は何よりもまず一つの経済システム、マルクスが言う生産様式である」(43頁)とする。それでは、政治や文化はどこに位置づくのであろうか。カリニコスは、第1章の最後の節(「要約」は除いて)を「ここまでの議論では、資本主義を……ただ経済システムとしてだけ考えてきた」と書きだしている。私は、次は政治とか法(律)の話へと展開されるのかと思ったが、「だが、9・11以降、このような見方はまったく不十分であることが明白になった」と続くので、なぜ「9・11以降」なのかといぶかしく目を進めると、「現在のシステムは経済的であると同時に地政学的であり」と続いていた。なるほど、それなら「9・11以降」ということになるのであろうが、ここにもカリニコスの思考が経済だけに局限されていて、けっして政治システムや法(律)の問題に向かわないことが示されている。
カリニコスは、「国際法」(90頁)や「法的な力」(121頁)に触れているが、積極的な論述ではない。
法学的考察が弱い、もっと言えば欠如していることと関連していると考えられるが、カリニコスは<非暴力>について明確にしていない。カリニコスは、9・11テロに関説して「航空機の乗客と乗組員、サラリーマンや消防士の大量殺人を正当な戦術とみなす秘密のネットワークと、開かれた民主的な自己組織化と平和な抗議活動をつねに確約している運動とを同等と見なしている」(31頁)と書いている。「同等と見なしている」のはカリニコスではなく、あるジャーナリストの主張を「見下げ果てた駄文」と酷評して、このように要約したのであり、カリニコスは9・11テロに憧憬したり支持する傾向とは一線を画しているようである。だが、ここには「非暴力」の文字はないし、「平和な抗議活動をつねに確約している運動」という形容句の形になっている。文章表現上の些末な問題を取り上げていると思う人もいるだろうが、そうではない。人は大切な命題については、他人の言葉を裏返しに利用したり、形容句に忍び込ませる書き方はしない。「内ゲバ」が起きることを理解すらできないヨーロッパと日本では、暴力についての認識にも差はあるのであろうが、暴力革命や武装闘争の問題はマルクス主義にとって些末な話題だったわけではなく、明確な認識が求められているはずである。私は、<則法革命>を主張している。
次に、社会主義がめざすべき価値について問題にしよう。カリニコスは、「4つの価値」として「正義、効率、民主主義、持続可能性」をあげ(147頁、154頁)、それぞれについて説明している。ここに「自由」があげられていないことについては、私は同意するが、なぜ、<平等>がないのか。もちろんカリニコスは「平等」を無視しているわけではない。「正義の平等主義的な原理」(148頁)(155頁)という形で取り上げ、ロールズ、ドゥオーキン、センなどの見解を検討している。彼らは「彼らの原理がある種の資本主義と両立可能であり、必要であると信じている」(148頁)と、カリニコスは批判している。センの「平等論」のあいまいさについては、私もすでに批判しているし、同意できる。私は「<平等>こそ社会主義正義論の核心」で、<平等>の意義を明確にしたが、正義の一部としてではなく、さらに前面に据えるべきである。カリニコスは、当然にも「圧倒的な不平等の世界」(80頁)や「不平等な分配」(132頁)を問題にしており、「平等主義的な社会」(174頁)とも書いている。これだと、「4つの価値」のさらに上位に「平等」があるようにも読める。
環境問題とマルクス(主義)の関係についても、説得的とは思えない。カリニコスは「マルクス主義の創始者が自然に対してもっと微妙な態度を撮っていた」(67頁)として、エンゲルスを引用しているが、なぜここでもう一人の創始者は引用されないのか。また、「環境破壊」に関連して「ソ連の支配者は……多義的なマルクス主義の遺産から……断片を選び出してきた」と批判しているが、少なくても彼らに有利な「断片」がマルクス(主義)のなかに存在していたと、カリニコスは口を滑らしていることになる。だから、この文章を改行するさいに、カリニコスは「いずれにしても」(69頁)という接続詞を使うことになる。農業については、より根本的に位置づけ直す必要がある。
なお、カリニコスは、「スターリニスト体制」(118頁)や「スターリン主義社会」(161頁)と書いているが、その定義は定かではない。私は、経済と政治を明別して、「指令経済」と「党主政」として明らかにしている。「革命的マルクス主義」(35頁)なるものも何の説明もなく1度登場する。
このように、いくつかの異論もあるが、本書は、<もう一つの社会は可能である>を旗印に反グローバリズム運動として台頭している国際的な新しい動向のなかで、その理論的土壌を豊かにするために、広く読まれるべき問題提起の書である。カリニコスが書いているように、「社会主義者は、自らの世界観がこの〔WSFなどの〕新しい運動にとって意味あるということを示さなくてはならない」(120頁)のである。
参考文献 村岡到著
『協議型社会主義の模索』
『連帯社会主義への政治理論』
『生存権・平等・エコロジー』
『不破哲三との対話』
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