村岡到 レオ・パニッチ サム・ギンディン『アメリカ帝国主義とはなにか』 (こぶし書房) 2005.5.28
帝国主義の統治構造の解明を
「稲妻」第360号 2005年5月1日
私は、本書が問題にしている領域については疎いので、適切な論評を書く自信はないのであるが、新しく学んだこともあり、気になることもあるので、案内もかねて一筆したい。
本書の筆者レオ・パニッチは、訳者の渡辺雅男によれば、カナダのヨーク大学の政治学科の教授であり、サム・ギンディンはカナダ自動車労組に長く勤めたあと、同大学に就任している。本書は、イギリスの新左翼系の年誌『ソシアリスト・レジスター2004』の「新たな帝国主義の挑戦」特集として掲載された論文である。
まず、学んだことをいくつかあげておこう。
私の不勉強のせいかも知れないが、アメリカ帝国主義の支配層がかくも開け拡げに自らの意図を隠すことなく公言していることに驚いた。「序論」の冒頭に示されているが、1999年3月の『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』の表紙は、「星条旗柄の巨大な握り拳を描き、その背後に次のような文句を配した」という。「いま世界は求めている――グローバリゼーションの前進のために、超大国であるアメリカは超大国として振る舞うことを恐れてはならない」と。「その4年後〔2001年の9・11を跨いで〕の2003年1月、……同誌」は、「現在ある世界秩序を強調すること、しかもそれをアメリカの利益に沿った形で強制することを意味する」と書いている論文を掲載した。
もちろんさまざまな論文が発表されているだろうし、全体の論調のなかでどのような位置を占めているものなのか吟味は必要なのであろうが、本書全体の印象からして、偏った引用ではなくて、典型をピックアップしたものだと納得できる。現下のイラク戦争・イラク占領を直視すれば、驚くには当たらないのであろうが、それにしてもあけすけな主張である。
二つ目は、レーニンの帝国主義論の限界・誤りについての指摘である。著者たちによれば、「ホブソンからレーニンにいたるまでの帝国主義の古典的理論は、資本主義の発展段階論と危機論とを基礎にしていた」。だが、「これは根本的な間違いであ」る。左翼のなかで「帝国主義」と言えば、レーニンの帝国主義論を思い出し、それをベースに考えるのが長いあいだ習わしであったから、この批判は重要な問題提起である。
この批判の理論的=方法論的根拠の一つとされているのが、経済(学)への還元主義に対する批判である。その深度をどこまで掘り下げるのかについては後述のように注文があるが、「資本主義の軌跡を抽象的な経済法則のたんなる派生物と見なすような仕方で歴史を理論化してはならない」という注意には賛同できる。
他にも学ぶことは少なくなかったが、納得できないところもあった。
著者たちは、アメリカ帝国主義の支配を強調するために、「帝国主義内部の対立」について過小評価しているのではないであろうか。イラク戦争をめぐる、アメリカとフランスやドイツの対立について、「アラウィ傀儡政権を承認する2004年春の国連決議」を例証にして、「対立が復活したのではない」としているが、例証としては不十分ではないか。「この〔アメリカとフランスなどとの〕緊張と、経済的な『対立関係』とはほとんど関連性がない」と言うが、社会的・歴史的対立関係とも「ほとんど関連性がない」のか。ここでは経済的対立だけが、本書のトーンとは逆に肥大化されている。また、「ヨーロッパ統合の進展も、帝国主義間の対立という理論が現代に当てはまらない理由である」と言うが、この拡大EUとアメリカ帝国主義との対立を人びとは問題にしているのである。
著者たちは、「帝国主義内部の対立の可能性や、それがもたらす矛盾」〔A〕と「各国における労働者階級と大衆の力をいかに発展させるか」という問題〔B〕を、二者択一的・対立的に捉えているようであるが、〔B〕にとっても〔A〕は無視できない重要な要素なのである。〔A〕を認識することは、何も「穏やかな帝国主義」への期待や願望に陥ることを意味しないのである。
そもそも「帝国主義」という言葉の意味を明確にする必要があるのではないか。強調されているわりには不明確である。本書ではどのように説かれているのか。
最初に「帝国主義の概念」と書いてあるところには、「感情的な特質や人を駆り立てる力をもつ点でとくに重要な概念である」とされている。これは概念規定ではない。
次に「帝国主義」の「定義」が出てくるのは、「ギャラハーとロビンソンは、帝国主義を『膨張しつつある経済に新たな地域を統合するに際して採用されるさまざまな政治的機能』と定義した」という、他人からの引用である。この引用は、「帝国主義の再検討」と題する章の後半にあり、この章の冒頭には「資本主義には拡張と国際化へと向かう構造的な特質がある」と断言されている。
その他の論述は、前記のように、レーニン帝国主義論の限界・誤りへの批判であって、積極的な展開ではない。
もう一つ問題にすべきことがある。この断言にすぐつづいて、「これはマルクスが『共産党宣言』のなかで将来の見通しとして述べたことであるが、現代を驚くほど正確にとらえている」と書いてある〔A〕。マルクスが大好きな人は、ここでもマルクスの凄さを再確認するのであろうが、著者たちは、しきりに「国家論を経由して」こそ「帝国主義」は理解できると主張している。渡辺は「訳者あとがき」で『資本論』の構成プランを示してもいるが、言うまでもなく『資本論』は『共産党宣言』よりも20年もあとの作品である。〔A〕であるならば、『資本論』は不要であろう。逆に『資本論』の方法論が必要だと言うのなら、「驚くほど正確」とは言えないはずである。
私は、著者たちが<経済(学)への還元主義>を批判することには同意できるが、それは単に国家論を付加すること、あるいは媒介するというに止まらないと考える。そもそもそこで媒介が必要とされる国家論の内実は何であり、いかにして媒介するのか。本書では一度だけ「アメリカ国家の司法形態」に言及しているが、法学的考察が欠如している。
ないものねだりをしているのではない。私には、この欠落が次のような著者たちの今後の見通しの空論性と結びついていると思えるからである。著者たちは、終章で今後「下からのはるかに激烈な階級闘争を引き起こすだろう」と楽観的に展望している。残念ながら、現代の資本制社会は、統治機構を幾重にも張り巡らし複雑に利害を拡散させることによって、闘いの主体を形成することを困難にしている。私には、著者たちのこの楽観的な展望は、まさにレーニン型の「危機論」に通底するものに思えるのだが、どうであろうか? 私には歴史的・法学的分析の欠如と、アメリカ帝国主義とEUとの違いの軽視とは深く関連しているように考えられる。
現代世界がどのように動いているのかという大きな主題と合わせて、闘いの主体がいかにして形成されるのか、あるいはするのかという大問題を二つながらに解明しなくてはならない。
さらに、著者たちの専門外なのであろうが、ソ連邦などを「共産主義の崩壊」と捉え、中国については「どのような種類のブルジョアジーが登場してくるか」という分析視角に、私は与することはできない。
本書は、十分に問題提起しており、論議が活性化することを強く望む。
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