レーニンとオーストリア社会主義
村岡 到
上島武・村岡到編『レーニン 革命ロシアの光と陰』社会評論社 近刊 に収録したものである。
はじめに
人間はこれまでも、そしてこれからも、誰か抜群に能力を備え、高い認識を示し、あるいは実践した個人の名前を表示することによって、歴史的な出来事や知識を表現し伝達するほかないのかも知れない。ワシントンと言えばアメリカ合州国の建国を、ルソーと言えばフランス啓蒙思想を想起する。だからロシア革命はレーニンによって表象されてきた。今日でも、ラテンアメリカではゲバラが解放のシンボルとされて、幾種類ものTシャツが愛好されている。シンボルは認識を簡便にするためには有効でもある。だが、同時に、それらの人物が偶像化される危険も背負うことになる。神格化された「英雄」が、その陰に隠されていた愚行や誤謬を暴かれ、その権威が地に堕ちる例は、英雄の数だけあると言っても過言ではない。歴史的人物の評伝や自伝は興味深くもあり有益な教訓にも満ちてはいるが、いかに傑物といえども、だれか個人の業績を「正しく」理解する努力は、誤解を放置して錯覚を重ねることに比べればマシではあるが、より大切なことは、その個人によって表象されているその当時の歴史から何を学ぶのかにこそある。マルクスやレーニンを正確に理解することよりも、社会主義に向かって、確かになった認識の拠点が何なのかを明らかにしなくてはならないのである。マルクスなら今日の現実をどう見るかなどと設問する者もいるが、そんな愚問はやめてくれと、マルクスは呆れるだろう。
なぜ、なお社会主義なのかについては、本稿の直接のテーマではないから省略するほかない。かつてある研究者が、社会主義への過渡期について「理念像」と現実との「試行錯誤のプロセスのなかで、理念自身を豊富化してゆく」過程だと説いたことがある。この論者が今日、この視点を貫いているかどうかにかかわりなく、私自身は、なおこの視点から歴史に学びたいと考えている。E・H・カーが明らかにしたように、「歴史は過去と未来との対話」だとすれば、その「未来は社会主義」なのである。社会主義社会は既存・既知ではなく、未知・未存であり、手繰り寄せるべきユートピアなのである。
私が「現代世界の課題とレーニン」と題する11月シンポジウムのプレ研究会の報告のために選んだテーマは「レーニンとオーストリア社会主義」である。私にしてもこのテーマはごく最近になって問題意識としたにすぎない(後述するように、「オーストリア社会主義」という用語自体が慣用ではない)。そこで、本題に入る前に、ソ連邦崩壊いらいの私の思索の歩みを簡略に振り返ってみたい。
私は、1991年夏にソ連邦でのクーデターの直後に「社会主義再生への反省」なる短文を書き、「朝日新聞」の「論壇」に掲載された。「これまでの社会主義の思想と理論のどこに見落としがあったのかを再検討することこそが、社会主義の再生の道だと、私は考える」――これがその結論である。
翌年に「レーニンの『社会主義』の限界」を書き、『経済評論』に掲載された。この論文ではレーニンが「価値法則」について明確な理解を欠いていたことを明らかにした。このころ初めて知った『資本論の誤訳』(1966年)とその著者広西元信に学んで、アソシエーションの重要性に気づき「アソーシャリズム」(アソシエーションとソーシャリズムの合成語)などという造語も発したこともあったが、ソ連邦における価値価格論争や国際的に展開された社会主義経済計算論争をおさらいすることを通して、社会主義経済について再考した。アソシエーション論者は経済を正面から問題にしないが、私はソ連邦の経済がいかなるものであったのかを明らかにし、どこに錯誤の理論的根拠があったのかを探究した。
従来は社会主義と言えば誰もが条件反射的に「計画経済」と思っていた、その「計画経済」用語をマルクスもレーニンもただの1度も書いていないことに気づき、『資本論』フランス語版の語句――「協議した計画によって」にヒントを得て<協議経済>なる新しい構想を明らかにした。この新しい構想の基軸に据えたのが、これまで社会主義経済の原則とされていた「労働に応じた分配」に代わる、アントン・メンガーが強調した<生存権>である。協議経済における分配システムは、賃労働制に代わる<生活カード制>であるが、これは、宇野弘蔵が『資本論』の核心であるとして強調した「労働力の商品化」とその「廃絶」の具体的形態である。
こうして、社会主義の経済システムについて一定の結論を得たあとに、私は1999年末に尾高朝雄に出会った。1947年に著わされた『法の窮極に在るもの』(有斐閣)から啓示を受け、<社会主義と法(律)>という問題意識に到達した。レーニンのみならず、マルクスの社会主義理解にも大きな欠落と弱点があることがはっきりした。唯物史観の問題点を切開し、社会主義正義論の核心に<平等>を据えるべきことが明確になった。そして、民主政の下においては暴力行使を排して<則法革命>を追求しなくてはならない。唯物史観に代わる<複合史観>の探究が次の課題である。近代以降の社会は、経済・政治・文化を明別し、その各々について独自に分析し、それらの相互関係を重層的に解明しなければならない。私は、この視座から、ソ連邦は経済システムとしては<指令経済>、政治システムとしては<党主政>と規定することを提起している。
その尾高が1930年前後にハンス・ケルゼンに師事して法学を学んだのがオーストリアであった。気がつけば、アントン・メンガーはウィーン大学の学長でもあった。社会主義経済計算論争はミーゼスによって口火を切られ、最初に反論したのはカール・ポラニーであった(ポラニーは経済人類学者に分類されているが、彼の娘は父親を「社会主義者」として尊敬している)。ウィーンこそこの論争の舞台であり、社会主義をめぐる知的坩堝を形成していた。精神分析を創唱したフロイトも、尾高が高く評価するグスタフ・ラートブルフもそこにいた(1907年から第一次世界大戦までトロツキーはウィーンに亡命し、バウアーらとも親交しウィーン「プラウダ」を発行していた)。かれらの業績に遅々としてではあるが触れるなかで、私は、<オーストリア社会主義>に光を当てることを通して、マルクスやマルクス主義やレーニンやレーニン主義に限定されることなく、社会主義をより広く深い歴史的苦闘と努力のなかから救いだし、再生させ、創造する一助にすることができるのではないかと、考えるようになった。
なぜ、いまレーニンなのか?
1991年末のソ連邦の崩壊は、全世界的に左翼運動の崩壊・退潮を招いた。解体した「正統派」の共産党も少なくなく、その正統派をスターリン主義として断罪してきた新左翼潮流も各国で衰退している。運動圏だけでなく、理論的にも衰退は著しい。「社会主義の敗北」が大宣伝され、新左翼運動の同伴者や進歩的とか民主的とかと形容されてきた研究者なども方途を見失い、意気消沈して声をあげない。せいぜい「資本主義の民主化」で満足していて、「社会主義」はすっかり禁句になってしまった。むしろ、日本共産党の不破哲三議長のほうが遠くに彼岸化した形とはいえ「社会主義」について以前よりは触れるようになった。
ソ連邦崩壊後、私の脳裡に終始一貫して据えられている問題意識は、次の発言である。「なぜ小さなものが大きく見えたのか?」。どんな凸レンズが作用していたのか。これだけでは何のことか分かるのは、この発言の主だけだろうから、説明が必要である。この発言は、大江泰一郎が1991年に東大社研が主催したシンポジウムで発したもので、発言の流れは、和田春樹が「マルクス主義のユートピア」は水準が低いと報告したことを受けて、批判的に発言した。和田発言の「マルクス主義」をレーニンに置き換えても、和田もそうしないでくれとは言わないであろう。
一般に人間の認識は、次のように深化してゆく。
A 問題がどこにあるのかを探り当てる。何が問題かが明らかになる。
B その問題についての解答Xが提起される。
C Xではなく、Yこそ正解だと提起される。
D XもYも不正解で、その中間Zこそ正解だと提起される。
Dについては、フィヒテの次の箴言が残されている。「誤った命題は、普通、同じように誤った反対命題によって押しのけられる。後になってはじめて、人はその中間に存するところの真理を発見する」。戦前に尾高が自著の扉に引いていた。
さらに内容的に立ち入って考えると、同時に次のようにも展開される。
T Xは誤りだ。その根拠は○○である。――この認識過程も前記のように深化してゆくが、この段階は、Xは誤りだと気づいた点では一歩前進には違いないが、なお大きな欠落を残している。なぜ、それまでXが正しいと思われていたのかについて考察していないからである。それでは、Xを正しいと考えている人を納得させることは不十分にしかできない。つまり、認識はさらに次の段階へと深化しなければならない。
U Xが正しいと思われていたのは何故かを明らかにする。
歴史と経験に学ぶとはそういうことなのである。そして、私たちは、社会を根本的に変革するためには歴史と経験に学ぶことが不可欠だと確信している。
問題の所在が明確になるだけでも大変な苦労を経ているのが普通であるが、マスコミの流行などではそこはバイパスして、ただZらしきものをその位置が不明なまま、その「新しさ」ゆえにもてはやされていることが圧倒的に多い。なぜそこに批判対象が存在しているのかについて全く考えることなく、批判対象をただ闇雲に罵倒する雑文すら少なくない。Uの問題意識などかけらもない。XだYだと抽象的思考はイヤだという人は、Xに日本共産党を、Yに新左翼を入れてもらえば、少しは具体的イメージが湧くかもしれない。かつ新左翼はなべてTのレベルに止まっていた。
大江に直接たしかめたわけではないが、「なぜ小さなものが大きく見えたのか?」という発言は、このような深化した解明をめざすべきであるという提起だったに違いない(このことについては、前記の「レーニンの『社会主義』の限界」で言及した)。
軽信と忘却がならわしとなっている思想的風土のなかでは、レーニンやロシア革命について振り返ることすら珍しくも貴重なものとなっている。日本には、なお「偉大なレーニン」を三唱する傾向もないわけではないが、逆に後知恵かつ浅知恵によってその不十分さ、誤りを指摘し断罪する傾向もある。11月シンポジウムでの梶川伸一による、農業・農民問題におけるレーニンの欠落・誤謬についての本格的解明がそうであるように、隠された真実を発掘することは大抵の場合、大きな努力を必要とする。そのことに敬意を払うことは大切であるが、ここでももっとも困難で重要な課題は、なぜそれだけの大きな欠陥や誤謬をかかえながら、ロシア革命やレーニンが20世紀全体に大きな影響を与えることになったのかという問いである。歪んだ凸レンズから解放されて実像とその意義を明らかにしなければならない。
レーニンは何よりも卓抜な実践家であり、政治家であった。その特質は、前衛党を主導力とする歴史の変革にあった。スターリン時代いらい、「偉大な理論家」とも讃えられてきたが、決してそうではない。「革命的理論なくしては革命的運動もありえない」と強調したのは他ならないレーニンであり、彼は政治家としては類い稀なほどさまざまな領域の理論を備えていた――著名な政治家のなかで、レーニンほど理論的著作を残した例は稀であろう――とは言えるが、「偉大な理論家」とまでは評すべきではない。偉大とその一歩手前との分岐点がどこか、温度計の零度目盛りのように表示することはできないが、哲学にせよ、経済学にせよ、レーニンのそれらに対しては、政治家としての抜群の能力と実績を脇に置いて、優れた理論の一つとして検討し、学ぶほうがよい。そのレーニンの全体像の解明に迫るために、私たちは11月シンポジウムを企画した。私の報告やこの論文は、レーニンを糸口にして、レーニンの対極に位置づけられるであろうオーストリア社会主義を浮かび上がらせることを課題としたものである。
なぜ、オーストリア社会主義なのか?
すでに前述のように「これまでの社会主義の思想と理論の見落とし」に触れたが、言うまでもなく、浅学な私が見落としている問題は数しれず、分かっていると思っていることはわずかである。その見落としのかなり重要な一つがオーストリア社会主義だと、私は気づいた。以下の論述で明らかにするが、オーストリア社会主義はレーニンの社会主義論に鋭角的に対立しながらも、いやそのゆえにこそ、社会主義を貫く貴重な理論的業績だったのである。
<オーストリア社会主義>という問題意識までは到達していなかったが、社会主義像の刷新をめざす過程で、私にとって決定的な転機となったのは、前記のアントン・メンガー(近代経済学者カール・メンガーの1歳下の弟)の生存権論であった。A・メンガーの『労働全収益権史論』にたいしては、エンゲルスが直ちに「法学社会主義」として非難を浴びせ葬り去ろうとしたが、逆にワイマール憲法に活かされ、日本でも大正時代に森戸辰男が翻訳し、敗戦後に彼が社会党の国会議員となり、憲法第25条に書き込まれることになった。次に、尾高をとおして学んだのがグスタフ・ラートブルフである。ラートブルフは、政治的確信犯が無罪を主張する権理を最初に明確にした。彼らはともにオーストリアの著名な法学者である。さらに、オットー・バウアーが立っていた。
ここで、「オーストリア・マルクス主義」とはしないで、<オーストリア社会主義>と表現する意味について説明しておこう。「オーストリア・マルクス主義」という用語は、アメリカの社会主義者ルイス・ボーディンが第一次大戦前に使い出したが、この枠取りでは、A・メンガーやラートブルフが視野から抜け落ちる。その前提には、社会主義よりもマルクスやマルクス主義が優位にあると思う錯覚がある。あるいはマルクス主義以外には社会主義は説けないと錯覚している。だから、民族問題が浮上するなかでオーストリア・マルクス主義に着目する論者もいるが、彼らの視野はけっして法学には向かない。別言すれば、<オーストリア社会主義>と統括することによって、エンゲルスが「法学社会主義」として切り捨てた潮流からも学ぶことができ、「マルクス主義的社会主義」の弱点である法学的考察の欠如あるいは弱点を克服する拠点を確保できることになる。マルクスは、「社会あるところ法あり」という法学の出発点に据えられている認識に反発し、あるいは無理解だったのである。今日なお有効性を保持している、資本制経済への批判を鋭く明らかにしたマルクスが、法(律)について軽視していたことは、人類にとって大きな不幸であった。前者が高く評価されたがゆえに、後者の弱点まで引きずることになってしまったからである。「マルクス主義法学」も存在したが、「マルクス主義経済学」のほうが優越するものとされていた。その一例として、1960年代に刊行された『講座・マルクス主義』全12巻(日本評論社)には法学が欠落していた。
すでに、私は5年前に「オーストリアの社会主義理論の意義」を書いたが、ここではバウアーに焦点をあてて再説する。
オットー・バウアーの軌跡と業績
オットー・バウアーについては、ユリウス・ブラウンタールが『オットー・バウアー作品選集』(1961年)のなかで「一生涯像」を書いている。この部分が、上条勇によって訳出され『社会主義への第三の道――オットー・バウアーとオーストロ・マルクス主義』として刊行されている。ブラウンタールは本書によると、バウアーより10歳年下で、14歳で社会主義運動に参加し、バウアーの熱烈な支持者かつ協力者となり、ジャーナリストとして活躍。非合法活動、獄中体験をくぐり、イギリスに渡り、コミンテルン(第3インター)と対抗した社会主義インターナショナルの書記も務めた。「一生涯像」ではバウアーの伝記と思想が簡潔に描かれているので、もっぱら本書によって、まずバウアーの軌跡を辿っておこう(この節では頁数を表示)。
バウアーは、1881年にウィーンで生まれた。父はブルジョア富裕層に属するユダヤ人であった。亡命を経て、パリで1938年に没した。ついでながら、レーニンは1870〜1924年、ユダヤ人のトロツキーは1879〜1940年である。多民族国家であったハプスブルク帝国の首都ウィーンは、ヨーロッパの中心に位置する、歴史的にも古くから文化が栄えた都市で、1920年代には光輝くコスモポリスとして、学芸や思想のメッカだった。つぶさに振り返る余裕はないが、世界史に名を残したその道の達人、思想家が多産され、きら星のごとくに活動していた。ウエーバー、ポラニー、シュンペーター、ケルゼン、シュッツ、フロイトなどがすぐにあげられる。それほど音楽に親しんでいない人でも、時代は遡るがベートーベンやモーツァルトの名は知っているだろう。
幼少時から聡明だったバウアーは、14歳のころマルクスと出会う。そこで、「父の富裕の源泉が父の工場の職工たちの労働にある」(40頁)ことに気づく。貧しい級友と楽に進学できる自分との落差。後年、バウアー自身が、これらの「体験こそが自分を社会主義に導いた」(40頁)と語っている。
多感な青年期に、父の希望でウィーン大学法学部に入学したバウアーは、20世紀初めの数年間、哲学者マックス・アドラー、経済学者ルドルフ・ヒルファディング、法学者カール・レンナーらのサークルに暖かく向かい入れられ、自らの理論と思想を深めていった。カウツキーが編集する『ノイェ・ツァイト』誌に、1904年に掲載された「マルクスの経済恐慌論」が最初の論文となった。23歳の作品である。カウツキーは、バウアーの印象について「私は若きマルクスを思わずにはいられない」(49頁)と語ったという。
バウアーは、1907年の国政選挙で大きく躍進したオーストリア社会民主党の議員団書記局に、同年秋から務めることになった。14年に第二次世界大戦が勃発し、バウアーも兵役につき、14年11月にロシア軍の捕虜となり、17年9月に復員した。
1918年10月にオーストリア革命によってオーストリア共和国が誕生した。その渦中に社会民主党の創立者ヴィクトル・アドラーが死去し、彼に厚い信頼を受けていたバウアーは彼の後をついで外務大臣に就任した(19年7月まで)。19年2月の選挙で社会民主党は41%の得票を得て、キリスト教社会党と連立政権を組んだ。バウアーは、同年に議会が設置した「社会化委員会」の委員長にも就き、同時に2代目の党首となり、20年から34年まで国会議員を務め、同党の心臓かつ頭脳として活躍する。
バウアーの人生を彩る夫婦の愛についても紹介しておこう。バウアーは、1904年に10歳ほど年上のヘレーネに出会う。彼女は経済学を専攻していて、すでに結婚していた。バウアーは求婚し、内面的葛藤を経て彼女は離婚し、14年に二人は結婚する。バウアーは14年末に、「ロシアの捕虜収容所からのはじめての手紙のなかで、『……きっとぼくたちは古い熱烈な愛の生活をふたたび取り戻すことだろう!』と書いている」(60頁)。ブラウンタールは「互いに強く刺激しあう、稀有なほど実り豊かな結婚であった」(61頁)と評している。
1933年1月のヒトラーによる政権樹立は、バウアーの予言どおり、オーストリアでも社会民主党の壊滅をもたらした。34年2月にバウアーが指導したゼネストと蜂起が決行されたが、失敗する。社会民主党は禁圧され、その直後、バウアーはチェコスロバキアに亡命し、非合法の党活動に献身した。さらに38年にパリに移住したが、2カ月後の7月に愛するヘレーネに見守られながら死の床についた。
バウアーの理論的業績についてはすぐ後で整理するが、レーニンとボリシェヴィキに対して「専制的社会主義」として仮借ない批判を加えながらも、スターリンによる「粛清」が伝えられた後の1937年にもなおバウアーは「われわれは、ソ連邦における社会主義を信ずる。現にあるソ連邦ではなく、未来のソ連邦を信ずる」(201頁)と表明した。この表明が充全なものであったかどうかは検討を要するであろうが、反共主義との違いは明白であり、まさに社会主義への確信を貫いて、バウアーはその生涯を全うしたのである。
次にバウアーの理論的業績についてその項目だけ確認しておく。
バウアーは、1907年に『民族問題と社会民主主義』を著わした。訳注によると、マルクス主義のなかで「民族の概念を初めて本格的に考察したのはバウアーであった」(53頁)。太田仁樹の近作によれば、「バウアーによる民族性原理と民族運動に対する高い評価は、マルクス主義思想史において、際だったものである。バウアーは本書で、帝国主義の本質を民族抑圧と結びつけて論じた」。
翌1908年には「プロレタリアートと宗教」を発表した。バウアーは、党による反宗教宣伝の必要はないと主張し、社会主義的宣伝との分離が必要であると論じた。
1919年に小冊子『社会主義への道――社会化の実践』を刊行する。この小冊子については後で少し説明する。
1920年に『ボリシェヴィズムか社会民主主義か』を著わし、レーニンとボリシェヴィキを「専制的社会主義」として仮借なく批判した。
1921年に「農業政策の指導原理」を発表し、26年に『社会民主主義的農業政策』を著わした。ボリシェヴィキの農業政策と根本的に異なるもので、「農民の収奪を考えるのは愚か者だけだ」(123頁)と主張した。
1923年に『オーストリア革命』を著わす。
1926年、社会民主党のリンツ大会。バウアーは新しい綱領を提起し、代議員の大きな歓声のなかで、党大会を指導した。リンツ綱領は、民主政に依拠して則法的に政権を獲得する路線を打ち出した。
小冊子『社会主義への道――社会化の実践』
バウアーは、1919年に「社会主義への道――社会化の実践」と題する連続論文を発表し、すぐに全10節の小冊子として刊行された。この小冊子は、「ヨーロッパのほとんどすべての言葉に翻訳された」。バウアーは、そのタイトルにも明示してあるように、「社会主義への道」を<社会化の実践>として明らかにした。いまでは死語に近い扱いを受けているが、かつては社会主義と言えば誰でも「計画経済」と答えていたが、この言葉は、私が1997年に「『計画経済』の設定は誤り」で明らかにしたように、マルクスはおろかレーニンさえ一度も使っていなかったのであり、当時は社会主義と言えば「社会化」と答えるのが慣わしであった。1920年代に「計画経済」の語が流布するまで、<社会化>こそ社会主義をイメージするキーワードだったのである。だから、オーストリアでもドイツでも「社会化委員会」が組織された。前記のように、オーストリアの社会化委員会の委員長に就任したのはバウアーであった(ドイツではカウツキーが委員長)。
さらに、知るべきは、バウアーは何に対抗してこの小冊子を書いたのかである。革命家が著作や論文を執筆するのは大抵の場合には、批判すべき重要な対抗者が影響力をもって存在している時である。バウアーの論敵は誰だったのか。この小冊子が刊行される1年前に、ウエーバーが『社会主義』を著わしていた。正確には、ウエーバーは台頭するロシア革命とレーニンを念頭に、1918年6月にウィーンでオーストリア将校団を前に講演した。その講演が著作となった。前年10月のロシア革命は全世界に巨大な衝撃を与えていたからである。続いて19年、ウエーバーは『天職としての政治』を著わした。ウエーバーは、社会主義はかならず官僚主義化すると批判を加えた。『社会主義』の訳者浜島朗によれば、「1920年4月に第二次社会化委員会が発足するにさいし、民主党から委員を委嘱されたときに、社会化委員を固辞するばかりか、民主党を脱党し、政治生活から完全に離脱し」たのである。『社会主義への道』は、なぜかウエーバーの名前は出てこないが、このウエーバーを鋭角的に批判するものでもあった。
バウアーは、この小冊子で「政治革命」と「社会革命」を峻別し、それぞれの主要な課題が異なると指摘し、「社会革命は建設的組織的な労働の事業」〔1〕であることを強調する(〔
〕は節を表示)。この立場から、「大工業の社会化」〔2〕、「工業の組織化」〔3〕を説き、工場を基礎とする「労働者委員会」の組織化が必要だと主張する〔4〕。この主張は、政治的な議院と生産を組織する生産院とを提起するD・H・コールの理論と通底する。さらに、大土地所有についても社会化するが、その方法は、収奪ではなく、「徴収」つまり買い取るべきであるとする。その財源は「所有者全体からの累進財産税から支払われる」と担保している〔5〕。そして、「農民経営の社会化」〔6〕、「住宅用地と家政の社会化」〔7〕、「銀行の社会化」〔8〕を明らかにする。「収奪者の収奪」〔9〕では、「収奪は資本家および地主の所有の残酷な没収という形式で行うことはできないし、行われてはならない」と説く。最後の「社会化の諸前提」〔10〕では、「平和と労働はわれわれの任務の外的な前提であり、内的前提は広範な勤労人民大衆が社会変革を願望することである」と明らかにする。
さらに、「われわれは、一握りの少数者による全人民の支配を意味する官僚的社会主義を欲しない。われわれは、民主的な社会主義を、言い換えれば全人民の経済的自治を欲する」と明確にする。これは、レーニンとロシア革命の現実にたいする厳しい批判を意味するものである。
第5節と第9節での「徴収」方式は、マルクスが『共産党宣言』で主張した「生産関係への専制的干渉」とは異なる道でもあった。「専制的干渉」だけではその具体的形態が何かは分からないが、『資本論』での有名な「収奪者の収奪」と合わせて考えれば、資本家の所有する生産手段を無償で没収すると思うほうが自然であろう。バウアー自身が第9節を「収奪者の収奪」としているところから見ても、どの程度に意識していたかは不明であるが、バウアーの「徴収」方式は、マルクスの見通しとは異なっていたのである。
バウアーは、小冊子を「社会主義が破局的なカタストローフの結果としてではなく、目標を意識した労働者の収穫として到来するように、われわれは残らず働こう!」と結んでいる。私たちも、戦争や破局を逆転するという危機待望型の革命論ではなく、徹底して主体の成熟に依拠する革命をめざさなくてはならないし、この道こそが労働者・農民・市民の多数派を形成する正道なのである。
「戦争を内乱へ」をスローガンにして、ロシア革命を領導し、その最高指導者の位置についたレーニンは、この小冊子をどのように受け止めたのであろうか。ブラウンタールは何も言及していない。多忙きわまりない難局のなかとはいえ、ドイツ語に堪能なレーニンにとっては読む気になればいとも楽に読めたであろう。だが、レーニンは「第9節〔収奪者の収奪〕の1、2カ所を一見」しただけで「読むのをやめ」、しかも「博識な馬鹿者」と罵倒した。何とも不誠実な対応である(トロツキーもどこかでバウアーに同様の評価を下していたと記憶する)。
ところで、レーニンはかつてはバウアーを高く評価していたこともあった。先にバウアーがマルクス主義者のなかではいち早く「帝国主義の本質を民族抑圧と結びつけて論じた」ことを、太田から学んだが、続けて太田が明らかにしているように、遅ればせながらその論点の重要性に気づいたレーニンは、素直にバウアーを評価し賞賛した。だが、いまや権力の座に着いたレーニンは、ボリシェヴィズムを批判するバウアーを許せなくなっていた。ルネサンスも民主政も経験していないロシアで活動していたレーニンは、民主政の意義を理解できなかったのである。
日本でも世界でもレーニンが「馬鹿者」と蔑んだものを読むのは習わしではない。しかもドイツではワイマール共和国はすぐに崩壊し、オーストリア社会民主党も壊滅してしまった。だから、レーニンとロシア革命を正統と理解して人生を送る研究者や活動家のなかでは、バウアーを顧みるものはいなくなってしまった。
それでも、この小冊子は、日本では敗戦直後の1946年に日高明三(東大法学部卒業)が翻訳していた。しかし、研究者のなかでもこの日高訳本については全く無視されている(上条も、『アルフレート・シュッツのウィーン』(新評論、1995年)の著者森元孝も原典には論及しているが、訳本には触れていない)。私は幸いにも社会主義経済計算論争をフォローしていた際に、ある大学院生からその存在を教えられ、入手できた。
社会主義とイデオロギーおよび愛
私は、前記の「オーストリアの社会主義理論の意義」でオーストリア社会主義理論の特徴を5つ――@平和の重視、A法律の重視、B歴史の必然性への批判、C民主政の重視、D革命の漸進性――あげた。ACDを一語で表現すれば<則法革命>となる。それらを再説するスペースはないが、その後に得た知見も加えて、それらに貫かれている核心として、<社会主義とイデオロギーとの切断・分離>について説明したい。
バウアーは、1908年の「プロレタリアートと宗教」では、「宗教は私事である」と明らかにし、「われわれは神と世界に関する教説をめぐってではなく、社会的および政治的な制度のために闘うのだから、政党として反宗教的プロパガンダを必要とはしない」と明確にした。「宗教を党の事柄にしてはならない」のである。逆に、レーニンは1905年末に「社会主義と宗教」と題する短文で「われわれは、宗教が国家にたいしては私事であるように要求するものであるが、われわれ自身の党にたいしてはわれわれは宗教を私事と考えることはけっしてできない」と主張していた。バウアーがこのレーニン論文を読んだかどうかは不明であるが、両者の主張は鋭角的に対立していたのである。バウアーは、25年のウィーン党大会では「世界観の問題は、党の問題ではない」と答えた。
27年に執筆した『社会民主党、宗教、そして教会』では――ブラウンタールの要約を借りれば――バウアーは「マルクス主義的な社会主義は、いかなる哲学的世界観にも基づかない。それは、世界の本質を解釈しようと試みる哲学ではない」と論じた。ブラウンタールは、この少し前で「バウアーはマルクス主義を哲学体系と結びつけることに反対」したとも書いている(ブラウンタールにとっては、「マルクス主義」と「社会主義」とは同一視されている)。
かつてスターリンは「弁証法的唯物論はマルクス・レーニン党の世界観である」と強調した。「弁証法的唯物論」と唯物史観との関係は何かなどという議論に付き合っている余裕はないが、ここでは、長いあいだマルクス主義陣営では、前衛党と唯物史観が一体不離のものとして考えられていたことを確認するだけでよい。マルクス主義を肯定的に通過したことがある人は、そう思っている。逆に、その理解を前提にして、だから社会主義はいやだと離反したり非難する人も少なくない。いずれにしても、社会主義・マルクス主義・唯物史観の3者は不離一体と思われており、この神話を批判する例は少ない。だから、この3者をどのように関連づけて理解するかは大いに意味がある問題なのである。
ところで、エンゲルスによって賞賛され期待されていた、ドイツのヴェルナー・ゾンバルト――彼もウィーンでも活躍した――は、マルクス主義を抜けた後に著わした『ドイツ社会主義』で、187種類の「○○社会主義」を数え上げていた。このことは「社会主義」がイデオロギー的に単一のものではなく、きわめて広範な要素と結合可能であることを示している。187種類の中には「サンジカリズム社会主義」「キリスト教社会主義」「愛情社会主義」などがある。
実は、バウアーと同じことを、後年、ラートブルフが主張していた。ラートブルフは『社会主義の文化理論』の「あとがき」(1949年)で「社会主義は或る特定の世界観に結びつくものではない」と書いた。恐らくこの二人以外にも同様な認識を表明した人間はいるのであろうが、その探究は専門家にまかせることにして、ここでは、「社会主義を哲学体系」あるいは「特定の世界観」と切り離すことがいかに重大な認識であるかについてだけ注意を喚起しておきたい。前衛党の問題や宗教の問題を考える場合に、この点は核心をなす要点である。
これまでマルクス主義陣営では、「宗教は阿片である」とみるマルクスに影響されて、宗教を蔑視・無視し、あるいは敵対してきた。ロシア革命における宗教の深刻な問題については、広岡正久が『ソヴィエト政治と宗教――呪縛された社会主義』で先駆的に明らかにしていた。近年、上島武はレーニンの宗教理解の誤りを指摘している。革命直後に教育人民委員(文部大臣に相当。29年まで在職)になったA・ルナチャルスキーが説いた「建神主義」では「科学と宗教の結合」が主張されていたが、「建神主義」はレーニンによって性急に批判された。だが、人間の心の問題を重視すること自体が排斥されるべきではない。社会や世界の変革と調和する形で、心の問題を探究することが必要なのである。ヨーロッパでは第二次世界大戦中にレジスタンスが展開されたが、そこでの有名な合言葉の一つは「神を信じる者も信じない者も」であった。無神論者と信仰者も、連帯し共同することは可能なのである。単なる差し迫る政治的必要性というレベルにおいてではなく、根底的な意味において、両者の協力が可能なのであり、切実に必要でもある。
そして、宗教への寛容な立場を確立するためには、宗教で強調されている<愛>の問題をしっかりと認識することが大切である。
マルクス主義の周辺で愛の問題を大きく取り上げたのはエーリッヒ・フロムである。フロムはドイツ人であるが、彼が強く影響を受けたフロイドはオーストリア人であり、ドイツとオーストリアとは重なり合っている部分が多いから、ここでフロムに登場してもらってもそれほど場違いではない。
フロムは、マルクスが「疎外された労働」のなかに一筆した愛に関説した章句――「人間を人間とみなし、世界にたいする人間の関係を人間的な関係とみなせば、愛は愛とだけ、信頼は信頼とだけしか交換できない。……」――に光を当てながら、愛の重要性を強調した。フロムは愛について何冊もの著作を著わしている。『愛するということ』では「愛の原理」について次のように説いている(この節では頁数を表示)。
「愛の能動的要素」は「配慮、責任、尊敬、知である」(48頁)。
「愛とは、愛する者〔相手〕の生命と成長を積極的に気にかけることである。この積極的な配慮のないところに愛はない」(49頁)。
「誰かを愛するとき、私はその人と一体感を味わうが、あくまでありのままのその人と一体化するのであって、その人を私の自由になるような一個の対象にするわけではない」(51頁)。
「愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない」(190頁)。
人間は多様性に満ちているから、愛が生活で占める位置もその内実もさまざまであるが、これらの説明は熟読玩味すべきであり、おおむね同意できる。
私は、このフロムの考え方をさらに徹底させれば、実はフロムが依拠しようとした「疎外された労働」の前記の文章やマルクスに限界があることに気づくはずだと考えるが、そのことは別論したので、ここでは、愛を基軸に据えることによって、「疎外された労働」の対極をなす、その克服・揚棄形態は<愛ある労働>として展望できることだけを指摘しておきたい。
話は、地球の裏側に飛ぶが、キューバの英雄エルネスト・チェ・ゲバラは1962年に、「若い共産主義者の任務」と題する、青年むけの演説で「この教育法では、労働は、資本主義世界における強制的性格を喪失し、快い社会的義務となり、喜びをもっておこなわれ、最も兄弟的な同志愛のなかで、すべての人を元気づけ、高める人間的ふれあいのなかで、革命の歌に包まれておこなわれるのだ」と説いていた。一言で表現すれば<愛ある労働>である。「疎外された労働」を観念的に繰り返し、初期マルクスに憧憬することではなく、それを揚棄する労働のあり方は何なのかを積極的に提示することのほうがはるかに大切なのである。
法(律)を重んじるバウアーを高く評価した本稿で突然にも武装闘争を徹頭徹尾つらぬいたゲバラにワープすることに、奇異の念を感じて当然である。だが、両者の相違の背景を次のように理解すれば、疑念は解ける。そこには、軍事独裁と民主政という政治システムにおける決定的相違が存在していた。この相違の意味――別言すれば民主政の意義について深く捉えることができなかったがゆえに、これまでは両者を包摂して理解する回路が閉ざされていた。ゲバラが命を賭けて貫いた闘争への、先進国での共感は、武装闘争への憧れや真似事としてではなく、軍事独裁下での闘いへの連帯・則法革命の推進として方向づけられるべきだった。革命の手段の相違は、歴史的状況・段階の相違としてあったのであり、戦術は具体的状況に適合しなければならない。だが、両者は、彼らの社会主義理解の核心に官僚主義への徹底した批判や愛の重視を据えていた点で通底していたのである。
こうして、オーストリア社会主義に着目し、そこから学ぶことを通して、私たちは、平和を志向・創造することの重要性を理解し、民主政の意義を深く把握し、則法革命の展望に到達することができる。そして、社会主義とイデオロギーとの切断・分離という視点を明確にすることによって、私たちは逆に、社会主義と宗教や愛を調和的に結合することが可能となる。このように展望することができれば、マルクスやレーニンの限界を超えて社会主義の味方を宗教者のなかにも、市井の愛ある善意の人びとのなかにも広く求めることができるのである。
<注>
1)岩田昌征『現代社会主義・形成と崩壊の論理』日本評論社、1993年、12頁。
2)E・H・カー『歴史とは何か』岩波書店、1961年、184頁。
3)村岡到『協議型社会主義の模索』社会評論社、1999年、17頁。
4)村岡到『協議型社会主義の模索』122頁。
5)村岡到「『価値価格論争』は何を意味していたのか」。村岡到など編『ソ連崩壊と新しい社会主義像』時潮社、1996年、参照。
6)村岡到編『原典 社会主義経済計算論争』ロゴス社、1996年、参照。
7)村岡到「ソ連邦経済の特徴と本質」『協議型社会主義の模索』参照。
8)村岡到「<協議経済>の構想」『協議型社会主義の模索』など。
9)村岡到「唯物史観の根本的検討」『連帯社会主義への政治理論』五月書房、2001年、参照。村岡到「平等こそ社会主義正義論の核心」『生存権・平等・エコロジー』白順社、2003年、参照。
10)村岡到「<則法革命>こそ活路」『連帯社会主義への政治理論』参照。
11)村岡到「『社会』の規定と党主政」『カオスとロゴス』第23号=2003年6月。「資本主義」は<資本制民主政>、「社会主義」は<協議制民主政>、そしてソ連邦は<指令制党主政>と表現すると、社会主義では民主政は継続・発展し、経済システムだけが変革対象であることが明示できる。
12)カール・ポラニー『人間の経済T』岩波書店、1980年、19頁。
13)アイザック・ドイッチャー『武装せる予言者トロツキー』新潮社、1964年、「7 無風帯」参照。「トロツキーを……ほとんどすべてのオーストリア派マルクス主義の指導者たちに紹介したのは、ヒルファーディングであった」207頁。トロツキーは「かれらにたいしてそれほどきびしい態度はとらず、彼らの友情に満足していた」206頁。
14)不破哲三『レーニンと「資本論」』全7巻(新日本出版社、1998年〜2001年)。近年、ようやく不破は「レーニン離れ」を強調するようになった。この著作への批判は、村岡到『不破哲三との対話』社会評論社、2003年、参照。
15)大江泰一郎発言。東大社研『社会科学研究』第43巻第1号、94〜96頁、7頁。
16)尾高朝雄『実定法秩序論』岩波書店、1942年。
17)レーニン「なにをなすべきか」全集、大月書店、第5巻389頁。他方で、レーニンは「ねぇ君、理論は灰色で、緑なのは黄金なす生命の樹だ」と言い放って批判者をねじ伏せることもあった。このシェクスピアの名文句を、レーニンは一九一七年の「四月の再武装」の際に活用した。このことについては、渡辺寛が『レーニンの農業理論』(御茶の水書房、一九六三年)で「社会科学にたいする退廃的な考えを導入するものと言わなければならない」と批判した(一七二頁)。
18)エンゲルス「法学社会主義」全集、大月書店、第21巻。執筆者は未確定だが、エンゲルスとされてきた。
19)村岡到『連帯社会主義への政治理論』収録。
20)ユリウス・ブラウンタール『社会主義への第三の道――オットー・バウアーとオーストロ・マルクス主義』梓出版社、1990年。
21)太田仁樹「バウアー『民族問題と社会民主主義』の論理」『岡山大学経済学会雑誌』第35巻第3号=2003年12月、204頁。
22)オットー・バウアー『社会主義への道――社会化の実践』アカギ書房、1946年。『カオスとロゴス』第15号=1999年10月、第16号=2000年2月、に収録。小冊子ゆえ引用頁省略。なお、「社会化」について、湯浅赳夫は、それを否定する立場からではあるが、歴史的経過を明らかにしている(湯浅赳夫『「経営参加」に対する労働運動の原則的立場』国鉄動力車労組教育センター、1978年)。
23)マックス・ウエーバー『社会主義』講談社、1980年、124頁。
24)この問題については、大江泰一郎による村岡到への批判(「社会主義と法のあいだ」『カオスとロゴス』第25号=2004年6月)と、それへの反論(「社会主義と『生産関係への専制的干渉』」『カオスとロゴス』第26号=2004年12月)参照。中国革命においてすら、1956年の「私営企業の社会主義改造」において「生産手段を適正な価格で評価し、元の資本家に10年間、その5%の固定した配当を保証」する「買取り方式で行なわれた」(小島晋治・丸山松幸『中国近現代史』岩波新書、212頁)。なお、「ドイツの哲学者フィヒテは、1793年に匿名で執筆した『フランス革命論』(法政大学出版局)において、特権階級の廃止を主張するとともに、革命後にその打倒した特権階級に労働能力を身につけさせるために、その期間については彼らの生活を保障する必要があると提起した(228頁)」(『生存権・平等・エコロジー』224頁)。
25)この問題については、森岡真史「ロシア革命における『収奪者の収奪』」『カオスとロゴス』第20号=2001年10月、参照。
26)レーニン 1920年「政論家の覚書」全集第30巻、368〜369頁。
27)レーニン 1916年「自決に関する討論の総括」全集第22巻。
28)バウアー「プロレタリアートと宗教」。島崎隆・島崎史崇訳から。『カオスとロゴス』第27号に掲載予定。
29)レーニン 1905年「社会主義と宗教」全集第10巻、71頁。
30)ユリウス・ブラウンタール『社会主義への第三の道』127頁
31)ユリウス・ブラウンタール『社会主義への第三の道』129頁。
32)梅本克己『マルクス主義における思想と科学』三一書房、1964年、344頁から重引。梅本は、この引用に続けて「というスターリンの言葉は正しい」と書いている。日本共産党を離党し、当時としては先駆的に「スターリン主義」に批判を加え、その故に新左翼に好まれた梅本すらこう考えていたのである。
33)ヴェルナー・ゾンバルト『ドイツ社会主義』三省堂、1936年、77〜83頁。
34)グスタフ・ラートブルフ『社会主義の文化理論』みすず書房、1953年、132頁。
35)広岡正久『ソヴィエト政治と宗教――呪縛された社会主義』未来社、1998年、17頁。ルナチャルスキーは、マルクスをこのように理解した。私は、今度はじめて「建神主義」なる言葉を知った。広岡はソ連邦を「全体主義体制」とする立場に立っているが、本書はきわめて重要な問題を史実に基づいて解明している。本書については、村岡到「社会主義と宗教、ロシアでの経験――広岡正久『ソヴィエト政治と宗教』に学ぶ」「稲妻」第360号=2005年5月、参照。
36)上島武「ロシア革命と宗教」『QUEST』第33号=2004年9月、参照。
37)エーリッヒ・フロム『愛するということ』紀伊國屋書店、1991年。
38)「<愛>と連帯社会主義――マルクスとフロムを超えて」『カオスとロゴス』第26号=2004年12月、参照。
39)エルネスト・チェ・ゲバラ『国境を超える革命』インパクト出版会、1982年、61頁。ゲバラは「真の革命家は深い愛情に導かれているものだ」と「断言する」229頁。
<追記>
11月シンポジウムで特別報告をした、武漢大学の梅栄政の見解について言及しておきたい。武漢大学の3人の研究者を招待するきっかけは、私にあったからである。2002年に北京で開催された国際シンポジウム「現代世界と社会主義」に招待されて出席・報告したさいにその分科会の司会をしたのが梅で、その機縁で、私は04年に武漢大学に招待され講義した。彼の報告は「偉大なレーニン」から始まるもので、メインの梶川伸一報告での農業・農民問題を主軸にしたレーニン批判とは対極的であった。だから、集会のアンケートには、この組み合わせがミスマッチであるという意見もあったが、まったく逆である。
この明らかなギャップをどのように考えるかこそが大切なのである。「都市というものを見たこともない農民がなお数億人も存在する」(大阪の交流会での梅発言)後進国で、社会主義にむけて経済建設するさいには、先進国の場合とはまったく違う課題が課せられているのであり、このことを理解することが中国評価の前提であり、核心である。
「偉大なレーニン」から始めた梅は、中国では農業が基礎的に重要で、農民の収入の増大が現在の主要な課題であると語った。梶川報告でのレーニンの農民軽視とは逆であり、その点ではレーニンは「偉大」ではなかったことはいずれ中国でも共通認識になるであろう。事実、このシンポジウムの直後に訪中した私は、先の国際シンポジウムで社会主義経済計算論争について会話した研究者と再会したが、梅とも面識のあるこの若い研究者は、この話をしたら即座に「彼はいい人だ」と言ったうえで、「彼はオールド・ゼネレーションですから」と答えた。ついでながら、彼は、私がバウアーの『社会主義への道』について話したら、中国でも60年代には反面教師の例として翻訳・紹介されたが、今ではヒルファディングやローザ・ルクセンブルクとともに肯定的に研究されていると答えた。
中国の現状をいかに認識するかも大きな難問であるが、社会主義への志向性と現実の一歩でもの前進という二つの視座の確定とその接点の模索こそが求められている。後者を欠落させて「資本主義に変質した」と「原則的に」裁断したり、逆に前者を忘却して現実追随に陥ったりしてはならない。革命と改良を二つながら調和させて追求する至難で険峻な道を探究・踏破することが、なお現代の課題なのである。
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