上島武・村岡到編『レーニン 革命ロシアの光と影』刊行 2005.6.10

上島武・村岡到編『レーニン革命ロシアの光と影』社会評論社 3200円

*目 次
はしがき                       上島武
 第一部 ロシア革命とレーニン主義
第一章 レーニンの農業・農民理論をいかに評価するか  梶川伸一
第一章 レーニンと「収奪者の収奪」          森岡真史
第三章 ロシア革命と宗教               上島武
第四章 「ロシア的反乱」の歴史的意味         川端香男里
 第二部 レーニン主義の思想史的検証
第五章 レーニンとオーストリア社会主義        村岡到
第六章 マルクス主義思想史の中のレーニン       太田仁樹
第七章 日本におけるレーニン像の転換         千石好郎
 第三部 レーニンの経済学・哲学への批判
第八章 レーニン帝国主義論の脱構築          斉藤日出治
第九章 レーニン哲学の総括とマッハ哲学への評価    島崎隆
第十章 第一次アジア的生産様式論争とレーニン主義   堀込純一
あとがき                       村岡到
 
はしがき 上島武
         
 本書は、二〇〇四年に開催された「レーニン没後八十年記念・十一月シンポジウム」に報告者として参加された方々の論考を収録したものである。メイン講演、分科会報告をはじめ、それに先だって二回開かれたプレ研究会の報告者のものも収めてある。同シンポジウム開催にいたる経過、内容等については「あとがき」を参照されたい。なお、本書に収録した論文の題名および内容には、報告時のものと若干異なるものもある。
 まず本書の構成について述べる。十一月シンポジウムにメイン講演者として立った梶川伸一の「レーニンの農業・農民理論をいかに評価するか」を冒頭に置き、同じく大なり小なりロシア革命に果たしたレーニン・レーニン主義の功罪を論じたものを三点くわえ、あわせて第一部「ロシア革命とレーニン主義」とした。いま、功罪と言ったが、多少ニュアンスを異にするものの、いずれも圧倒的にレーニン(主義)の消極的側面を照射する結果となっている。特に梶川論文はレーニンにおける農民軽視ならぬ「蔑視・敵視」を問題とし、「史上最大の農民革命」(トロツキー)が、その実、最大の農民収奪と膨大な餓死をもたらしたと説く。またそれは従来強調されたような内戦・干渉戦の産物というよりも、それに先だって実現し、戦時共産主義終了・ネップ移行後も継承されたことを強調する。森岡真史論文も、かつて「資本にたいする赤衛軍的攻撃」(レーニン)と呼ばれたものが実は経済を破壊し、国民生活を破綻させることでしかなかったこと、そもそも「収奪者の収奪」構想がかかる結果に至らざるを得ない論理的必然性を内包していたと述べる。一方、上島論文はロシア革命が旧支配機構の一部たる教会と宗教に敵対的態度をとらざるを得なかった点を認めながら、なおそこに不必要な行き過ぎと逸脱のあったこと、さらにその後の革命政権の宗教政策に、マルクス・エンゲルスのものとは微妙に異なるレーニンの宗教理解が影を落としていたことを示唆する。最後に川端香男里論文は、革命を劇薬にたとえる説を採って、ロシア革命が社会悪の治療効果のみならず残酷な副作用を伴わざるをえなかったとし、ロシアの革命を「独特のロシア的反乱」と規定して、それを世界史上の諸革命との比較・対照において理解しようとするものである。また、レーニンの個性を論じつつ、結局、彼のしたことは二十世紀が突きつけた問題に立ち向かったということであり、七十四年の生命に終わったソ連体制の生みの親という点にのみ帰着させてはならぬと説く。レーニンの役割としてあるが、これをロシア革命の歴史的意義と読みかえてもよい。まこと示唆に富む一文ではある。
 さて、レーニンとレーニン主義を全体としてかくも厳しく評価するとなれば、解放思想としてのレーニン主義に根本的欠陥のあったことを認め、かかる欠陥のよって来るところを明らかにし、さらには事実上これにとって代わりうる思想の存在可能性を探るという作業が求められるであろう。なおこの作業の中では、レーニン主義の一源泉としてのマルクス主義自体にも(レーニンによるマルクス継承の仕方の問題性も含めて)、再検討が必要となる。本書の第二部「レーニン主義の思想史的検証」には、これに直接・間接に関わると思われる三点を収めた。すなわち村岡到論文は、かつて修正マルクス主義としてのみ否定的に評価されてきたオットー・バウアーの思想を、それも「オーストリア・マルクス主義」としてではなく、より広義の概念としての「オーストリア・社会主義」の一環として捉え、ロシアに継承された「マルクス・レーニン主義」に取って代わりうるヒューマンな社会主義思想と理解するものである。ここにヒューマンとは、それが平和的・多数者革命を展望し、階級独裁体制とは異なる民主的体制への移行を保証するとの意味を込めている。次の太田仁樹論文もベルンシュタイン、カウツキーを悪質な修正主義としてきた見解を完全に否定し、彼らは実にマルクスにあった根本的誤謬を訂正するものであったと説く。含意は、マルクスにあっては労働者が市民社会から排除された存在で、その革命的転覆が展望されたが、実際の労働者は市民社会における体制内的改良をめざす存在であり、かくして労働者によってではなく、「革命党」によって強行された革命は、究極の無法とも言うべき「ノメンクラトゥーラ国家」を招来せざるをえなかったというにある。また千石好郎論文は、ほぼ同一の趣旨を、わが国におけるレーニン主義受容の長い歴史の経過において展開し、それは実に、受容、批判、放棄の各段階を経て、今や「訣別」の段階に達したと断ずる。同様の趣旨が近年、大藪龍介、中野徹三、いいだももらによって説かれているのに対応している。
 第三部「レーニンの経済学・哲学への批判」は、分野別に見たレーニン主義の問題点を、さらにいっそう掘り下げたものからなる。斉藤日出治論文はレーニンの帝国主義論における時代的制約と方法論的欠陥を精緻に分析し、なによりも、帝国主義を純経済的要因の所産としたことに基本的問題があったと説く。そして、帝国主義とは異なる今日の「帝国」的状況の中で、新しい、多様な変革主体の形成が期待されると述べて説得力に富む。島崎隆論文は『唯物論と経験批判論』におけるマッハ批判が、当時の党内闘争の持つイデオロギー的・政治的契機によって混濁され、マッハの提起した認識論上の問題を看過せしめたこと、それが後年、ソ連における学術的論争のありかたに悪しき先例となったことを述べる。「社会主義経済学」における論争の歴史を顧みて共感をそそられることである。最後に堀込純一論文は、島崎と同じ見地から対象をアジア的生産様式論争にとって、ソ連における学術論争が、それ自体、学問的には未成熟にとどまったレーニンの権威を過度に援用して、学の教条化、不毛化を促進した次第を、これもまた説得的に展開する。
 ここで編者の立場から述べておきたいことが、二つある。
 第一点は本書の構成に関わる。もともと当シンポジウムの成果は何らかの形で公刊することを考えていたが、このような三部構成にすることまでを念頭に置いてシンポジウムを企画したわけではない。「レーニン没後八十年」を本題に、「現代世界の課題とレーニン」を副題とし、報告者各位には全く自由に論題と内容を選んでいただいたことは言うまでもない。だから本書を編むにあたってこのような体裁にしたことは、あくまでも便宜的であり、それが読者になにほどか便利ではないかと考えたまでのことであって、本当にその目的を達成するかどうかの懸念を別にすれば、他意はまったくない。
 第二に、本書は『光と影』と称する。しかし、ご覧の通り、内容的には影が光を圧倒している。それも圧倒的にである。過去にその正反対の状況を生きてきた者にとって、一種の感慨を禁じ得ないところであろう。そして自然に想起されるのは、かつてE・H・カーが述べた次のくだりである。曰く「歴史というのは、歴史家がその歴史を研究しているところの思想が歴史家の心のうちに再現したものである」(『歴史とは何か』)。要するに歴史家の歴史観は、歴史家の生きている時代の所産たる思想を反映するということであろう。そのことを承認しつつも、本書の各執筆者が時代の傾向をただ受動的に容認しているとか、いわんや、進んでこれに迎合しているなどと言うことはどうしてもできない。過去を真摯に反省し、それを今日の理解の一助にせんとする学者(学ぶ者、その意味では学生に通ずる)の苦痛に満ちた営為の、その今日的ありかたであると思うのである。したがって、また、だからこそ、何の制限とてない、完全かつ無条件の相互批判が今ほど求められている時はない。本書がそれにいささかなりと役立つのであれば、これにまさる喜びはない。            
    (文中、敬称を省略してあります)
   二〇〇五年五月

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