村岡到社会主義と宗教、ロシア革命での経験2005年5月28日
――広岡正久著『ソヴィエト政治と宗教』に学ぶ
「稲妻」第360号 2005年5月1日
「けんしん主義」?
ローマ法王ヨハネ・パウロ2世の死去が大きく報道された翌日、神田の古本屋で広岡正久著『ソヴィエト政治と宗教』を発見した。一読して、深く反省させられた。関連する著作を読書する余裕はないので、いつものように、本書から学んだことを急いで整理する。私が近年に考えている問題意識――社会主義と宗教――と重なり、深めてくれるからである。
「けんしん主義」と耳で聞いたら、何だと思うであろうか。「献身」かと思ったり、日本史が好きな人なら上杉「謙信」の考えかと連想するかもしれない。<建神主義>が正解であるが、『広辞苑』にも出てこないから、分かる人はほとんどいないのではないか。神を建てるとは何のことだろうか。
実は、ロシア革命の歴史において一時期、無視できない潮流をなしていた人びとが唱えた考え方なのである。その一人がルナチャルスキーであった。ルナチャルスキーの名前なら、ロシア革命史に関心がある人なら、とくにトロツキストなら、彼がトロツキーに近いところにいたから知っているだろう。私には、教育関係のトップで活躍したという記憶しかない。
私には、建神主義なるものが一定の影響力をもって拡がっていた事実それ自体もきわめて興味深いが、同時に、この事実が左翼のなかでは今までほとんど知られていなかったことに大きな、反面教師的な意味があると思われる。広岡の著作で明らかにされていたわけだし、注意して読めば、ルナチャルスキーの『革命のシルエット』に付されているアイザック・ドイッチャーの解説にも「建神主義」や「求神主義」(言語が異なる)は出てくるが、左翼のロシア革命理解のなかでは埋もれていたと言ってよいだろう。何故なのであろうか。
埋もれた史実というだけなら、ほかにもたくさんあるだろう。これからもさまざまな事実が発掘されるにちがいない。そのたびに、私たちは歴史認識を深めてゆく。建神主義ををめぐる動向を知ることによって、私たちはロシア革命についても、<社会主義と宗教>問題についても認識を深めることができそうである。
ルナチャルスキーと宗教
広岡は「建神主義」について、それが「まぎれもなくマルクス主義のロシア的な受容形態の一つであ」るとし、「ロシアマルクス主義の父」たるプレハーノフに典型的な、「ロシアマルクス主義のパトスとエトスの欠落を鋭く剔抉」したものと特徴づけている。
広岡が明らかにしているように「今〔20〕世紀初頭の帝政ロシアは……革命という大破局の予兆に怯えながら、退廃と混迷の様相をますます深め……〔カントの影響を受けた〕知識人たちは『宗教の復権』を訴え」ていた。ベルジャーエフなどの「求神主義」者たちは、宗教による祖国の救済に道を見出そうとしていた。この「求神主義運動の出現に触発されて一部のマルクス主義知識人たちのあいだに起こった」のが「建神主義」であった。彼らは、「宗教の換骨奪胎をはかるという方法で伝統的宗教の復活を阻止するとともに、新たな社会主義的宗教の構築を目指」した。著名な作家ゴーリキー、ルナチャルスキー、ボグダーノフらがその中心人物であった。
まずルナチャルスキーについて、どんな革命家だったのか見ておこう。ドイッチャーが前記の「英語版への序文」で教えてくれる。アナトーリー・ルナチャルスキーは、1875年にウクライナ東部のポルタヴァで生まれ、古都キエフで成長した。早くから非合法のマルクス主義サークルに入り、94年にスイスのチューリヒ大学に入学、そこで「ロシアマルクス主義の創始者にして指導的な権威、アクセリロートとプレハーノフに会った」。「彼の学生仲間には……ローザ・ルクセンブルクがいた」。98年に病弱な弟を連れて、ルナチャルスキーはロシアに帰えり、すぐにモスクワの非合法グループで活動を開始した。そこにはレーニンの姉も参加していた。やがて逮捕され、辺地に追放・流刑された。そこで、彼は、「1903年から08年にかけての危機の数年間、レーニンの密接な政治的同志であったボグダーノフ」に出会った。彼は、ボグダーノフの妹と結婚した。ボグダーノフは「無二の親友にして政治的・思想的協力者」となった。
1901年か02年に刑期を終えて、ルナチャルスキーはキエフに戻った。03年、周知のようにボリシェヴィキとメンシェヴィキとの分裂が起き、レーニンを支持したボグダーノフの勧めで翌年にパリとジュネーブでレーニンと接触した。政治に没頭するレーニンと、「実証的美学」の理論家であるルナチャルスキーとは肌合いはよくなかったが、彼はボリシェヴィキに加わった。
05年革命が敗北し07年からの反動期が訪れ、ツアーの翼賛的議会に席を持つ社会主義者の議員の態度をめぐってボリシェヴィキのなかで論争が起きた。ボグダーノフとルナチャルスキーは「議員を召還するようにレーニンに迫った」。レーニンはこの戦術を拒否し、ボグダーノフらを「日和見主義者」と批判した。次に、哲学上の論争が、ボグダーノフとレーニンの間で交わされた。レーニンは『唯物論と経験批判論』(1909年)で、ボグダーノフを徹底して批判した。ルナチャルスキーは『社会主義と宗教』を書いてこの論争に加わった〔残念なことにこの著作の邦訳はない〕。しばらくして、レーニンはメンシェヴィキとの論争の必要性から、ルナチャルスキーにも矛先を向けることになった。詳しく追うことはしないが、そのころのエピソードをドイッチャーが紹介している。「ある集会では、ルナチャルスキーが『求神主義』を鼓吹したあと、レーニンは頭を低くして彼のそばに歩み寄り、目に意地悪そうな輝きを浮かべて『どうか私を守って下さい、神父アナトーリー様』と囁いたということである」。レーニンはボグダーノフに対しては仮借ない批判を加えたが、ルナチャルスキーに対しては、ドイッチャーによると「愛情ある皮肉をこめて扱った」。
17年のルナチャルスキーは、8月にトロツキーとともにメジライオンツイ・グループとしてボリシェヴィキに合流し、「トロツキーだけに次ぐ赤いペテログラートの大演説家」となった。そして、革命勝利の直後にレーニンは「一瞬のためらいもなくルナチャルスキーを教育人民委員〔文部大臣〕のポストに選任した」。このころのレーニンは、「文化の問題では、憎悪と傲慢、狂信ほど有害なものはない。この問題では細心の配慮と寛容を心がけねばならない」という余裕を保持していた。「求神主義者」のほうが適任だと考えていたのである。レーニンの時代には、後にグロテスクに定着する「自己批判」などという儀式はなく、ルナチャルスキーは自己の哲学的見解を捨てたわけではない。とはいえ、広岡によればルナチャルスキーは、レーニンが死の床についた「1923年に至ってその主張を公式に撤回して、結局のところレーニンの『戦闘的』無神論の軍門に下」った。
「ルナチャルスキーは、レーニン死〔24年1月〕後の凄まじい党内闘争には加わらなかった」。彼は「誰よりもトロツキーに近かった」し、スターリンに与することはできなかった。1923年に刊行された、ボリシェヴィキの指導的人物を評した『革命のシルエット』では、ただスターリンだけを取り上げなかったが、ドイッチャーはこの「欠落は不敬罪にも等しかった」と評している。27年にトロツキーやラコフスキーがシベリアに追放されたあと、傷心のルナチャルスキーは29年まで名目的には教育人民委員に留まったが公務はこなさなかった。33年にマドリード駐在大使に任命されたが、同年末に赴任する前にフランスで没した。59歳であった。
ルナチャルスキーの『社会主義と宗教』を読めば、はっきりすることが多いはずであるが、ここでは広岡の叙述から要点を引くことしかできない。「彼らはマルクスの教説のうちに科学と宗教との総合を看取し、疑似宗教的な建神主義の構想を明らかにすることによって、マルクス主義の理論的・実践的完成を実現しようとした」。「ルナチャルスキーによれば、プレハーノフはマルクス主義の合理主義的・科学的側面をのみ継承・発展させたにとどまり、その情緒的・倫理的側面を等閑視するという致命的な過失を犯してしまった」。「プレハーノフは、マルクス主義を科学としてのみ把握しようとする」。
「ルナチャルスキーによれば、実にマルクスはその社会主義思想において『科学と宗教的熱狂とを結びつけた宗教的天才、キリスト、聖パウロ、スピノザといったユダヤ的系譜に立つ宗教的天才』である。そして、マルクスの科学的社会主義は『すべての宗教のうちでもっとも宗教的な教義であり、真の社会民主主義者はもっとも深く宗教的な人間』なのである」! ルナチャルスキーからの引用の形は取っていないが、彼は「人間社会の発展が、社会・経済的要因に規定されることは確かであるにせよ、それに倫理的価値を与え、倫理的正当化を施すのは宗教以外のなにものでもありえない」と考えていた。
本稿ではルナチャルスキーの見解よりも彼の足跡に多くを割いてしまったが、先に見た業績を残した人物が、「建神主義」を唱え、かつそれを改宗することなく、レーニンによって抜擢されていたことを知ることは、大きな意味があるからである。
レーニンの宗教批判とソ連邦での宗教弾圧(略)
広岡によれば、「革命前夜に当たる1914年当時、ロシア正教徒が実に総人口の70%(約1億人)ロシア人中ではほぼ100%を占めていた」。「ロシアは900年間にわたって、ロシア正教が国民統合の精神的原理をなし」た国だったのである。したがって無神論をバックボーンとするレーニンのボリシェヴィキが国政を主導することは、両者の間で鋭く巨大な対立と矛盾を引き起こすことになるのは必然であった。
この重大な問題については、整理する余裕がないから、他日を期すことにしたい。広岡の著作に詳述されているし、近年、上島武がレーニンの宗教政策にしぼって明らかにしている。
問題の今日性
建神主義について知ることは、酒の肴に夢やぶれた革命の裏話を加えるためではない。宗教は今日なお社会生活できわめて高い比重を占めている。各国によって相違があることはいうまでもないが、ローマ法王の死去や新法王の式典が数百万人の規模で執行され、各国の政府要人が参列し、国際政治の焦点にもなっている。国際政治にも鈍感な小泉純一郎首相はヴァチカンに行かないが、私たちは宗教に鈍感であってよいわけはない。
世界総人口が約55億人だった1995年の統計によれば、約19億人がキリスト教信者、約10億人がイスラム教信者、約7億人がヒンドゥー教信者、約3億人が仏教信者である。これらが4大宗教と言われる。イラク戦争を直視すれば、イスラム教やイスラム文明が世界政治における難問の焦点となっていることは誰もが理解できる。仏教は、中国、日本、タイ、ベトナム、ミャンマー、韓国、スリランカ、台湾、カンボジア、インドに広く分布している。
日本ではさらに仏教やキリスト教などの周辺にさまざまな新興宗教が数え切れないほど声をあげている。10年前にオウム真理教が引き起こした地下鉄サリン事件の恐怖から、つい最近の教祖による幼女への性的虐待まで、いかがわしい新興宗教は後を絶つことなく発生し、少なからぬ人びとを信仰に引き入れている。創価学会は542万人と推定され(公表していない)、それと一体化している公明党は数年前から政権与党になっている。日本人は宗教への帰属意識が低く、信仰ありと自認する人が約3割にすぎないが、七五三は祝うし、葬式には仏教の僧侶の世話になるのが一般的である。
日本における宗教のあり方や歴史については、いずれ学びたいと思うが、話を狭い左翼の世界に移して少し考えてみたい。
戦前に日本資本主義の発達とともに労働運動や社会主義運動が興った時期に、キリスト教徒のなかからもこれらの運動に接近するものも少なくなかった。大正デモクラシーの代表的人物である吉野作造はキリスト教徒であった。吉野は1920年には、幸徳秋水の親友だった堺利彦と協力してコスモ倶楽部を作り、26年に社会民衆党が結成されたときに、呼びかけ人の一人になり、31年の満州事変勃発の際には堺と吉野は戦争反対の声を挙げた。32年の社会大衆党の結成にも尽力している(日本共産党の創成は1922年)。
松尾尊~によれば、この社会大衆党は「三反主義、すなわち資本主義、共産主義、ファシズムに対する反対を掲げていますが、これまでは反共という点だけが強調されてきた」ということである。治安維持法の下での戦前の社会主義運動の総括も残されている問題であるが、その際にキリスト教あるいは宗教をどのように理解するかが大きな相違をもたらすであろうことはすぐに推測できる。戦争に反対して獄死した、創価学会初代会長牧口常三郎の評価や1921年(大正10年)と1935年に二次にわたる弾圧を受けた大本教も左翼の世界では無視されている。
敗戦直後には、今では振り返るものはほとんどいないが、哲学者の梅本克己が口火を切った主体性論争が論壇をにぎわせていた。梅本が1947年に発表した「唯物論と人間」の冒頭には河上肇の自叙伝から「絶対的無我という一つの宗教的真理と、マルクス主義という一つの科学的真理とは、私の心の中に牢固として抜くべからざる弁証法的統一を形成しつつ」というセンテンスが引かれていた(著作集第1巻、33頁)。この論文には「マルクシズムと宗教的なもの」というサブタイトルが付けられていた。そもそも梅本の出発点には1926年執筆の卒業論文「親鸞における自然法爾の論理」が据えられていた。78年に著作集で初めて公表されたこの論文はほとんど顧みられることもなく、私にしてもそういう論文があったとしか記憶にないが、主体性論争についても宗教という視座から問題をさらに発展させるべきであったと思われる。ルナチャルスキーはプレハーノフをパトスの欠如した科学主義として批判したが、梅本もまた正統派マルクス主義を人間の主体性(能動性)を欠落させたひからびたものとして批判したのであった。
河上が記した「絶対的無我という一つの宗教的真理と、マルクス主義という一つの科学的真理」との「弁証法的統一」と、ルナチャルスキーの「科学と宗教的熱狂とを結びつけた宗教的天才」とが通底する理解であることは明白ではないであろうか。もし、梅本がルナチャルスキーの主張を知ることができていれば……、慚愧に耐えないというしかない。ここでも、宗教についての狭い理解から生み出された無知は、真理の探究にとっての大きなブレーキになっていたのである。
本稿は、広岡正久著『ソヴィエト政治と宗教』に触発されて、いくつかの問題を略記したにすぎず、<社会主義と宗教>問題は、なお探究の途上にある。私は、「<愛>と連帯社会主義」(『カオスとロゴス』第26号)で明らかにしたように、「愛」をテーマにした論文を一つも書かなかったマルクスにはこの点で欠落があったと考えている。なお、近刊の『レーニン 革命ロシアの光と影』に載せた「レーニンとオーストリア社会主義」でバウアーの宗教理解に触れたので、参照してほしい。
<参考文献>
広岡正久著『ソヴィエト政治と宗教』未来社、1988年。
ルナチャルスキー『革命のシルエット』筑摩書房、1973年。
松尾尊~「 戦前の社会民主党の歴史的位置」『QUEST』第37号=2005年5月。
梅本克己著作集、三一書房、1978年。
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