村岡到書評:碓井敏正著『グローバル・ガバナンスの時代へ』2004.9.10
碓井敏正さんの新著『グローバル・ガバナンスの時代へ』(大月書店)を読んで、まず感じたことは、社会主義への対話と協力の可能性が切り開かれたということである。後に触れるように、本書には私が編集している小誌に掲載した論文も二つ収録されているし、碓井さんには私の小著への批判・案内も書いていただいたことがあるが、そういう個人的な事情をこえて、左翼運動が全体的に退潮し、理論戦線が衰弱している今日、貴重な一石が投じられた。
本書は、書名にも明らかなように「グローバル・ガバナンス」なる、まだそれほど拡がっているわけではないキーワードを基軸にしながら、自由主義史観や「新しい歴史教科書をつくる会」による教科書問題、地球温暖化問題、日本資本主義の根本的な性格規定、など大きな問題が取り上げられている。何よりもまず、このような現実的諸問題を課題に設定して真正面から解明しようする実践的で視野の広い努力に敬意を表したい。世間的に言えば哲学者に分類される著者がこれほどの問題に踏み込んだという点で、蛸壺に陥って「専門」だけを飽きることなく繰り返している「哲学者」とは大違いである。
初めに、私が強く共鳴できるいくつかの基本的認識を引いておきたい。
「社会的公正と折り合わないような権利主張は、権利概念の権威と信用を失わせる点で大変危険なものである」〔A〕
「ナショナリズムは、近代国民国家と産業社会によって作り出されるだけでなく、それに呼応する歴史的・土着的根拠があるのではないか」〔B〕
「イスラム復興の運動には宗教的外被の下に、健全で平等な社会を取り戻そうとする問題意識(社会主義とも通底する)が隠されて」いる。「アメリカ人の『国民国家的連帯〔偏見〕』とイスラムの人類的連帯とどちらが普遍的か」〔C〕。
「グローバル化の時代は社会主義の再登場が期待されている時代である」。「われわれはかつてなく社会主義的連帯の精神が厳しく問われる時代に〔生きて〕いる」
それほど大きな問題ではないが、近年一部で流行の「アソシエーション」説について「経済的土台の構想を抜きにする」として退けていることも同感である。環境問題で「グローバル・ガバナンスの視野」を欠く「地域主義的傾向」への批判も正しい。
その上で、同意できない点や不十分と思われる問題点を指摘したい。
碓井さんはなお「生産力の永続的向上」を揺るがぬ原則としているが、地球温暖化問題はそこを鋭く問い直す必要性を提起しているのではないであろうか。本書でもっとも違和感を感じたのはこの点である。農業問題の欠落も気になるところである。
碓井さんは繰り返し「人権や民主主義という近代の成果を真に人類共通の財産とするために、それらを国民国家的な制約からいかに解放するか」が「われわれの課題」だと主張するが、同時に<資本の論理>による制約とすべきではないのか。本書には、「資本賃労働関係を白日の下にさらした」とか「資本主義的生産関係の矛盾」という言葉も1度だけ登場するが、序章ではそれらへの言及はない。解明すべき難問は、「国民国家的な制約」と<資本の論理>との構造的関連なのではないか。<ナショナリズム>問題を課題の中軸に据えたことは正解だと考えるが、これまでもH・B・デーヴィス『ナショナリズムと社会主義』(岩波書店、1969年)を初め、マルクス主義と民族問題は多岐にわたって論じられており、一面的という印象をまぬがれない。
碓井さんは、自由主義史観への批判のなかで、「国家や社会全体の秩序と利益のためには、個人の権利は制限されて当然である」という言い方を誤りだと書いているが、この表現の何が問題なのか。後段に問題があるとなると、前記の〔A〕とはバッテングしないのか。「国家や社会全体」と一括りにすることこそが問題なのであろう。碓井さんは「自由主義」を自らのバックボーンとされているようであるが、自由が後景化して自由よりも<平等>が強調されているように思える章もあり(特に第3章、第5章、〔C〕)、私には、自由主義史観と真に対決できるのは<平等>の視点・立場であるように考えられる。
碓井さんは、「われわれの認識論の基本的立場は史的唯物論ないし唯物史観である」と明言している。「マルクス主義(史的唯物論)」とも書いている。だが、他方では「経済(階級)還元論的な国家観とそれに依拠する国家死滅論」「やや単線的な歴史進歩主義」を問題だと指摘する。また、「マルクス理論や社会主義思想を原理的に再点検する」とも書いている(前記の〔B〕も)。私自身は、マルクス主義の超克による、唯物史観に代わる<複合史観>の創造が課題だと考えているが、これらの、私にはちぐはぐに見える本書の論述は、碓井さんもまた思索の過程にあることを示しているのではないであろうか。マルクスについて、「疎外論」への批判的言及には同意できるが、「主体性の哲学」として問題にするのは疑問である。
碓井さんはソ連邦の崩壊に直面した「結果得た結論」として、「社会主義は……政治的には経験論的思想に裏づけられた議会制民主主義を採用しなければならない」とする。この認識は、社会主義のための変革対象は、政治システムではなくて、経済システムなのだとする私の主張とも重なるが、その直前に「社会主義の原則」として「B労働者を中心とした権力」をあげている点とバッテングするのではないか。ちなみに、日本共産党は今年1月の第23回大会で大した議論もないままに綱領から社会主義の要点として「労働者階級の権力」を削除した。
碓井さんは、最後の章「第11章 市場社会主義と配分的正義」で、私の著作(『協議型社会主義の模索』社会評論社、など)も取り上げ「村岡到氏がマルクス主義の核心にまで踏み込んで社会主義崩壊の総括を試みている点は、高く評価したいと思う」とまで書いており、私が提起している<協議経済>構想について「計画経済に代わる人間の自主性と連帯を担保する経済編成として理解されている点で共感に値する提案である」と評価している。その上で、村岡の言う「『平等な分配』をモットーとする社会が理論的に存在しうることは否定できない。しかし、問題はその現実的可能性である」と、碓井さんは批判する。
私は、この批判はおかしいと思う。理念のレベルと現実が混同されているからである。この論法でよいなら、本書で強調されている「グローバル・ガバナンス」の理念もまた「現実的可能性」が薄いものとナショナリストによって処理されるであろう。詳しく論じる場ではないが、「労働と分配を切り離す」と主張する私もまた社会主義への過渡期においては「労働に応じた分配」が部分的には必要であると説明している。また、「労働の動機」という重要な問題に関連して、私は「誇りをめぐる競争」=<誇競>を提起しているのであるが、碓井さんがこの点に言及してくれなかったことも残念である。
碓井さんは「自生的なものとしての市場システムの中に合理的なものを認めること、それを人間生活に生かしていくこと、これが新しい社会主義の出発点となる哲学でなければならない」と書いている。文中の「それ」が「市場システム」を指すことは明らかであるが、<そのこと>と書き換えたら、私もかなり同意することはできる。何かの中に「合理的なものを認めること」はその何かを「活かす」こととは異なるからである。その何かの中の合理的なものだけを継承・活用すればよい。そして、市場システムの中の何が合理的なものなのかについてさらに明確にしなければならない。
(『カオスとロゴス』編集長)
<碓井敏正さんとの交流>
・村岡到「<平等>こそ社会主義正義論の核心」2002年4月で碓井敏正『現代正義論』に批判的に言及 『カオスとロゴス』第21号、『生存権・平等・エコロジー』に収録
・北京での国際シンポジウムで同席、交流 2002年10月
・碓井敏正「市場社会主義と配分的正義」で反批判 2003年6月 『カオスとロゴス』第23号、『グローバル・ガバナンスの時代へ』に収録
・碓井敏正 書評・村岡到『不破哲三との対話』 『QUEST』第29号=2004年1月
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主体性論の旗手でもあった梅本克己がどこかで、優れた理論的作品は、自らを超える契機を内蔵していると書いていたが、