ベッカー・サイン問題 誇りをめぐる競争と連帯を
サッカーのイギリス選手ベッカムのサインをもらった子どもからそのサインを回収したことが話題になっている。「朝日新聞」の「声」欄でも典型的な両論が掲載された(六月二五日)。「個人差の体験、教育には必要」と「幸運分け合う子どもを望む」とタイトルが付されている。小さなことのようであるが、きわめて大きな問題が提起されていると、私は考える。
こう言うと、「有名人のサインをもらって有り難がる価値観こそが問題で、そんなものは下らない。そのことが分かれば、騒ぐことはない」という反発も起きそうである。確かにそうだろう。それならベッカムのサインについては問題は解消する。だが、サッカー嫌いの人や有名人を認めない人でも、効能が高い稀少な新薬を求める場合もあるだろう。問題は、稀少な機会や稀少資源をいかに公平に分配するかというところにある。
ベッカムのサインに即して考えてみよう。「幸運分け合う子どもを望む」人は、サインの回収を良いことと主張する。しかし、サインならば展示してみんなが見ることができるだろうが、その前にサイン会に出席できた「幸運」を「分け合う」ことはできない。出席の幸運は享受してよいが、サインのほうは良くないという線引きをする基準は何であろうか。他方、「個人差の体験、教育には必要」とする人は、サイン享受における「差異を体験することも人間性を育む一環」だと主張する。確かにそうである。しかし、前者が望む「少しでも幸運を分けてあげようという意識」、別言すれば<連帯>意識が人間にとってきわめて大切であることも理解しやすいことである。つまり、片方だけを排他的に求めることはできないのではないか。平凡な結論のようであるが、そうではない。
なぜなら、双方の意見に一理を認めることは、その中間の道を求めることを意味するからである。サイン回収反対論者は<連帯>意識のない利己主義者だ、いや、サイン回収論者は「個人差の体験」を認めない平等論者だ、という二者択一の論議を避けることができる(投書のお二人がそうだと言うのではない)。昨今、市場万能論か悪平等かの二者択一の不毛な論議が閉塞状況をいっそう重苦しくしているがゆえに、中間の道を求めることが大切なのである。それだけではない。問題が生じたさいに具体的事例において解決策を見いだす努力へと導くことになる。「稀少資源」にもさまざまなものがあるし、「幸運」を享受できる・できないと言っても、常にその範囲は限定されている。どこまで範囲を広げて考えることが妥当なのかを併せて考えるようになる。そうすれば、サッカー熱の裏側には貧しい国の悲惨な児童労働が存在することにも気づくであろう。
さらに、この問題はまた、競争をどのように考えるかという問題でもある。市場における優勝劣敗の非情な競争は避けなければならないが、競争すること自体を無くすわけにはいかないだろう。競争の基準を変えることが必要なのである。その昔、幸徳秋水は「社会主義真髄」(一九〇三年)で、「競争はその性質方法を変える」と主張した。私は、金銭ではなくて、<誇りをめぐる競争>が必要なのだと考える。そうすれば、「少しでも幸運を分けてあげようという意識」を育みながら、同時に「個人差の体験」についても実感・修得できるようになる。
この<誇りをめぐる競争>=<誇競>は、私が主張している<社会主義経済=協議経済>における生産の動機をなすものである。提起したときには、秋水は読んでいなかったが、ロシア革命の4年前に秋水が主張していた論点をさらに発展させたものであると、後で気が付いた。
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