村岡到:徴兵制になるのか?2004.2.10
憲法を蹂躙するイラク派兵が強行されるなかで、徴兵制になるという危険性が叫ばれている。果たして、徴兵制になるのであろうか。
「このままでは徴兵制が登場するかも」と「赤旗」一面に大きな見出し(二月五日号)。女優の冨士真奈美さんのインタビュー「発言」に付けられたものである。「その道筋の先に徴兵制が現実となるだろう」――『週刊金曜日』編集委員の筑紫哲也さんが同誌一月二三日号の最後の頁でこう書いている。「徴兵制になる」と同時にイメージされているのは「赤紙で引っ張られる」である。他にもこの種の発言は少なくない。
まず、現在、義務的徴兵制を施行している国は、韓国、イスラエルなどきわめて少ない。主要国はほとんど義務的徴兵制ではない。さらに軍隊の兵員は近年減少している。ドイツは冷戦期に五〇万人も達していたが、現在は二八万人。イギリスも冷戦末期に三〇万六千人が現在は二〇万人に大幅に減員している。日本の自衛隊は現在二六万人である。
徴兵制になるという論者が危険な将来と重ねてイメージしているのは一九四〇年代の戦中である。敗戦時、日本軍は約七二〇万人にも急増し、学徒動員まであった(男子総数の四分の一に当たる一千万人が戦争に参加)。忘れてならないのは、当時は教育勅語や治安維持法や特高が猛威を振るい、虐殺・獄死が千六百余人、逮捕された者は数十万人という、天皇制下の治安弾圧の時代だったことである。今日の日本ではイラク反戦運動は残念ながら高揚せず、この運動での逮捕者はごく少ないのが現状である。イラク派兵をめぐって天皇が登場することはない(先日の外務省職員の葬儀で菓子を渡したくらいである)。
イラク派兵→徴兵制→赤紙→だから反対、という安易で怠惰な主張が説得力をもつはずはないと、私は考える。本当に徴兵制になる危険性があると主張するのなら、具体的にその形態、必要性を論証してから反対しなければならない。漠然とした印象でただ危険性を叫ぶのは、まるで「存在しないと断言できないから、存在している疑惑はあった」という小泉首相の強弁と同じではないだろうか。対立している相手には厳しく、味方には甘く、では説得力がないどころか不信を招くだけである。「私がすればロマンス、君がすれば不倫」式の思考法ではいけないと、韓国労働運動の記事に書いてあった(オルタ・フォーラムQ『QUEST』第二九号、キム・ユソン論文)が、このダブルスタンダードを克服しなくては、ジャルゴン(仲間内の符丁)だけが飛び交う狭い枠を超えることはできない。
かなり以前から「新たな戦前」というキャッチフレーズが使われているが、この論でいくと、イラク派兵したのだからすでに「戦中」なのであろうか。イラクの国民は万単位で殺されているが、米軍の死者はまだ千人に達していない。ピンポイント爆撃に象徴されているように、戦争の形態が変化している。いわゆる「銃後」のあり方も大きく変化している。安易に歴史を類推して危険をアジるのは有効ではない。
正確な歴史認識が必要なのは、反「自虐史観」に陥っている「右派」だけではなく、平和を創造するための運動にとってこそなのである。
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