村岡到:賃金システム論の重要性2004.1.6
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『QUEST』第29号=2004年1月 掲載予定
新年のにぎわいがどの程度のものであったのか、だれか社会学者が経年的に比較して明らかにしてくれるとありがたいと思う。確かに海外旅行者は正月だけでも 万人を数えるし、テレビでは行楽地の派手な映像を流しているが、平均的な労働者の年収は減収し、逆に年金や医療の負担は増えているのが実情である。パートなどの低賃金・不安定・短期の非正規雇用が増えている。だから、誰もが経済の好転を望んでいるようである。だが、経済の好転とは何のことなのか、高度成長の再来を夢みるものは少ないだろうが、それでもなお経済成長が望ましく、かつ可能であると多くの人びとが思っている。私は日本などの先進国では経済成長ではなく、逆に経済縮小が必要だと考えているが、この大きな問題については別に本格的に論じなくてはならない。
賃金論を軽視していた左翼
私は、昨年ようやく「賃金論」の重要性に気づいた。堀込純一「戦前・戦中の賃金論と電産型賃金」1)に教えられたからである。そして、「賃金システム論序説」2)を書いた。書いたといってもまだその「上」だけで肝心の「下」は未完である。本稿は、私にとっては新しいこの課題に着手したばかりの準備的な作業にすぎず、何が問題で、その解明のために基礎的に踏まえておくべき前提は何かを明らかにしたい。
改めて述べるまでもなく、人間が社会生活を営むためには、いかなる形態かはさまざまであるが、ともかく生活資料を獲得しなければならない。強奪もその一種であるが、バイキングの時代はすでに去り、今日では日本でもどこでも多くの人々は、「賃金」を得て、その貨幣によって生活資料を商品形態において獲得して生活している。その商品を交換している場を「市場」というから、市場経済のなかで生活しているとも言える。天皇一族のように、働かなくても国家によって生活を保障されている人間も、受刑者や拘置中の被告のように衣食住をかなり問題はあるとはいえ保障されている者もいるが、それらは例外である。就業者は約6300万人で彼らは賃金によって生活している(生活保護法によって保護されている人口は80万世帯。年金生活者は2300万人。失業者が5%台となり、絶対数では約300万人)。年金生活者のほとんどは、年金受給時期の前までは賃労働者として働いていた。生活が楽になるのも、苦しくなるのも、その圧倒的な理由は賃金の多寡にあると言ってよい。もとより人はパンのみにて生きるにあらず。だから、「清貧」なる言葉があるように、貧しくてもこころ豊かに生活することができないわけではないし、ある意味ではそうあることを目指すべきでもあるが、だからと言って、賃金の多寡が生活に影響しないわけではなく、賃金の多寡についての関心が低いわけではない。「賃金論」は、先の総選挙の争点となった年金問題とともに今後いっそう大きく切実な問題となるであろう。
年末の忘年会で古くからの友人――政治グループ稲妻の一員でもあった――からこんな話を聞くことができた。彼は1980年代にある区役所の労働組合の役員だったのだが、彼の経験では、組合事務所に普通の組合員が聞きに来る用事の半分くらいは自分の賃金、昇級、年金、退職金がどうなっているか、どうなるかという問題だったという。その質問に答えられなくては役員は務まらず、だから、役員になるとすぐに俸給表の見方や昇級の仕組みについての講習を受けた。また、区役所に新しく採用された職員にむけて賃金問題について説明会を開いたり、活動家のためには賃金論の学習会も開いていた。だが、最近は賃金論の学習会はしていない。
私は、この話を聞いて、その中身についてそんなことがあったのかと新しい認識を得た点でも勉強になったが、それ以上に考え込んだ。彼とは最近は疎遠になっていて、会話の機会は少ないのだが、以前には頻回に討論の場はあったし、政治的議論はさまざまに交わしていたにもかかわらず、彼は、なぜそういう話をこれまで一度も私にしなかったのだろうか。答えはきわめてはっきりしていると思う。賃金などをめぐるそういう話は、重要な問題とは考えられていなかった。「経済主義」は軽蔑されていて、政治グループや党派にとってはいわば場違いなテーマであるという雰囲気があったからである。彼は、前記の私の小論を読んで、彼の体験を話す気になったのであろう。
この小さなエピソードは、けっして私のまわりだけで生じていたことではなく、新左翼の党派のほとんどで大なり小なり起きていたことではないだろうか。その結果が、先の小論でも明らかにしたように、今や左翼の世界では賃金論は例外がないわけではないが、まったく廃れている。あるいは初めから問題外であった。
私は、まずこの問題状況を直視し、改めることから始めなくてはいけないと気づいた。先走って示唆すると、問題を<賃金システム>と捉えることができなかったことが、この傾向に拍車を掛けたのである。賃金論、つまり賃金の高低・多寡に注意が傾いていたから、そんなことは低い問題だと切り捨てることになったのである。後述するように、<賃金システム>はすぐれて職場における労働者支配のためのシステムなのであり、そこにある不合理や抑圧に異議申し立ての声をあげることはきわめて重要な闘いである。あえて言えば、現下のイラク派兵反対の行動への決起と通底している。職場でまかり通っている労働者無視のリストラや賃下げに反対の声をあげることもできずに、イラク派兵反対の行動が拡がるわけはないのである。多くの人びとは、イラク人の戦死者にも同情しているだろうが、自分のまわりのリストラなどについても取り上げてほしいと思っているに違いない。
賃金システムの多様性
まず、前記の小論で明らかにした論点を要点だけ再説・補強しておきたい。
賃金論と言えば、一昔前は活動家ならだれでもマルクスの『賃労働と資本』を読んだ。一言でいえば、マルクスは賃金を「労働者を労働者として維持し、かつかれを労働者として育成するために必要な費用である」と捉えた。マルクスはそこに「搾取」の秘密を探り当てた。そして、『資本論』では「労賃〔には〕多様な形態」があるとし、それを解明するのは「賃労働の特殊理論の範囲に属し、したがって本書の範囲外である」と処理した。問題は、賃労働―資本関係の廃絶をめざすことになる、この原理的把握とさまざまで多様な賃金の形態とをどのように整合的に解明するかにある。宇野弘蔵が提起した、経済学における三段階論を活用することがその打開策ではないか、と私は提起した。
次に、「賃金論」としてではなく、<賃金システム論>として捉えることが決定的に重要である。賃金体系や賃金論とは別に、それらをも包括してもう少し大きく問題を捉える必要がある。<賃金システム>とは、@賃金の額、量的大きさとその基準、A職場における労働者の秩序の柱――この二つを不可欠一体のものとして捉えることがカギである。資本家は、賃金差別、昇級などをテコにして労働者を分断し、競争させ、労働強化と職場支配を貫徹する。
ところが、木下武男の『日本人の賃金』には「あるべき賃金制度」3)と1度だけ書いてあるが、賃金体系にのみ傾斜して現にある「賃金制度」には目が向かず、前記のAについての論及はまったくない。また、中島通子らの『男女同一賃金』では「賃金制度は使用者の雇用管理と結びついていることが多い」4)と書いてある。確かに「賃金制度」という言葉を使い、「管理と結びつ」けている点は、単に賃金の多寡だけに視野を限定する論者よりはよいが、これではまったく不十分である。「使用者」とするか資本家とするかも問題だが、それよりも「雇用管理」になぜ限定されるのか。さらに「ことが多い」のではなく、「結びついている」のである。
第3に、賃金システムが実に多様であることについて考える必要がある。賃金システムは、一斉にどこかの時点で画一的に作り出されたものではなく、歴史的に長い時間をかけてその場その場の条件に強く規制されて、労資の対立抗争を通していわば自生的に形成されてきたのであり、この多様さは、まずこれらの多様な形態が何なのかについて把握することを困難にする。そして、多様な形態を選択・許容できるということは、そういう形態を包み、あるいは逆にそれを基礎とする資本制生産様式に柔軟性を保障する。同時に、その形態が多様であることは、いくつかの特徴だけを根拠に何かの名称を与え、そのレッテルによって割り切って捉えても、それによっては把握できない問題が残ることが多いことを意味する。例えば、年功賃金が非難の的になることが多いが、これは大企業の正規雇用者に適用されているだけで、労働者の30%くらいをカバーしているだけで、中小企業では定期昇給もなく、さらにアルバイトなどは時間給である。
この賃金体系の問題について簡単に補足しておきたい。
本稿では詳述する余裕はなく、いわば直感的な提起となるが、私は「同一労働同一賃金原則」という定式化には違和感がある。後述するように、この「原則」は「世界人権宣言」にも読みとることができるし、日本共産党の綱領にも書かれている。近年は、「同一価値労働同一賃金原則」へと――肯定する論者によれば深化している。
私が違和感をいだくのはいくつかの理由からである。まず、「同一労働」でも「同一価値労働」でも、それを計る基準は何なのかが定かではないことにある(「コンパラブル・ワークス」なる用語で、労働の比較・価値付けを試みる動きがあり、大いに意味のあることだが、価値付けの基準、機構をどうするかはなお難問である)。
なによりも問題なのは、「同一価値労働同一賃金原則」の考え方は、逆に表現すると「異なる労働には異なる賃金を」を許容しているからである。労働力の商品化を生産の根底的基礎とする資本制経済にとっては、避けがたい限界であるが、私たちがめざすのは、生存権に基礎をおく社会の実現であり、どんな労働を選択しようが、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権理を有する」と考えるからである(言うまでもなく引用は現憲法第25条である。権利のみ権理に変更)。もちろん、男女間にせよ、産業間にせよ、一国の規模においてさえ「同一価値労働同一賃金原則」を実現することは超困難な難題であるが、論理的に言えば、高度医療に従事する医師とその病院の事務員との賃金格差が100倍あっても、全国の病院が同じ賃金体系なら、この原則は実現したことになる。果たしてそれでよいのであろうか。
この問題は、私が頭のなかで思いついた空論的対比ではない。同質の論点は、日本労働運動において特筆すべき大きな位置を占めた敗戦直後の「電産型賃金」要求闘争とその評価をめぐってすでに論争されていた。周知のように、「電産型賃金」は年齢別生活保障給と技能給を基軸とするもので、日本の賃金システムの形成に大きな影響を与えたが、岸本英太郎などは「同一労働同一賃金の原則から逸脱するとの根本的な批判」5)を加えた。この論争を整理した戸木田嘉久が注意深く留目しているように、「電産型賃金」要求闘争では、「憲法制定以前であったにもかかわらず」、「生存権」を掲げていた。
さらに、この問題は「年功賃金」の評価にもかかわる。確かに「年功賃金」と呼ばれる賃金システムが、賃金の男女格差の主要な基礎になっていることは明白であり、種々の弊害を生んでいることは大きな問題である(資本家の側からも桎梏になっていると意識されたので、早くから職務給への転換が追求された)。しかし、そこには、<生活できる賃金>の要求、やがて全国最低賃金制へと向かう闘いの成果も反映しているのである。
「属人給」は悪で、「仕事給」こそ善とするかのような議論もあるが、それほど単純ではない。だから、『男女同一賃金』では基軸をなすトーンとして「年功賃金」に批判的・否定的なのであるが、「勤続年数に関しては……その合理性が肯定されよう」6)と穏やかに評価されている。何とも不整合である。同書で中島は、「おこなう労働と関係なく扶養家族の有無や数で賃金に差を設けることに合理的理由を認めることは困難である」と書いているが、前記のマルクスの理解からすれば十分に説明可能である。また、木下は「年功賃金から生活できる仕事給へ、というのが新しい賃金思想のイメージです」7)と書いている。「仕事給」だけでは足りないからである。そうなると、「同一価値労働同一賃金原則」も「生活できる同一価値労働同一賃金原則」と修正されるのだろうか。同じことは、「男女同一賃金」についても言える。異種労働間にどんな格差があっても、男女が同一賃金ならよいのであろうか。
望ましい賃金システムの探究
最後に、賃金システム論を探究する方向性について明らかにしておきたい。私たちは、すでに確認したように、賃労働―資本関係の廃絶を志向している。だから「賃金」などというものがなくなる経済システムを創造したいと考えている(私は「生活カード制」8)として提起している)。だが、すでに敗戦直後に日本共産党の『前衛』誌上でも討論されたように、「賃金闘争の終極目標は……労賃制度の揚棄である」(上林貞治郎)とむき出しに主張するだけでは賃金闘争は一歩も前進しない9)。
総評がまだ「昔陸軍、今総評」などと、いまでは思いつくこともできない、社会的な位置を占めていた時期に、60年安保闘争の年に、総評は運動方針のなかで次のように書いていた。
「賃金体系は、搾取強化の重要な手段なのだから、理想的体系を作るという幻想におちいることなく……大幅賃上げの中で、体系改悪の焦点になっている部分を改善する闘争を積極的に組む」。
なぜ、こんな古証文に目を止めたかというと、この一文とそれを取り上げた石田光男の主張から方法論的な意味で重要な問題を引き出すことができるからである。石田の論述をみよう。石田は『賃金の社会科学』で、「ここでは『理想的体系を作るという幻想』と批判されているが、ある種の組合としてのポジティブな主張をする部分が存在したことを語ってもいる」10)と捉え、「横断賃率論」の検討に進む。
ここには、いくつかの論点が未分化なまま主張されている。@「賃金体系は搾取強化の重要な手段」、A「理想的体系を作るという幻想」、B「体系改悪〔に対する〕闘争」、C「ポジティブな主張」(「横断賃率論」)の4つは、石田が整理するような仕方で理解されるしかないのだろうか。
当時、「横断賃率論」が提起されて議論になっていた。今では主張する者がなくなったことが、この「横断賃率論」の無効性を示しているし、ここでは個別の賃金論を検討する余裕はないが、「ポジティブな主張」を近年はやりの言葉で置き換えれば<オルタナティブ>ということになる。総評主流は、“階級的原則的立場”から「ポジティブな主張」(「横断賃率論」)を批判したわけである。だが、「理想的体系を作るという幻想」を批判することは、<オルタナティブ>の拒否と一体なのであろうか。また、逆に、「ポジティブな主張をする」ことは、同時に「賃金体系は、搾取強化の重要な手段」という認識の放棄や拒否を前提にする――石田はそう思っているようである――のだろうか。
さらに「理想的体系を作るという幻想」という言葉に関連して、今でも散見される「あるべき賃金制度」(前記の木下など)なる表現について、注意しておく必要がある。このように書いている論者がどこまで意識しているかは不明であるが、この表現はミスリードを誘う。根本的には「賃労働の廃絶」という課題・方向を捨てることになる。かつ賃金システムの多様性を無視・軽視する。どの言葉もその語感は千差万別であるが、「あるべき」にはどうしても一つだけを志向するニュアンスが強いからである。この2点のゆえに、私たちは「あるべき賃金体系」として問題を立ててはいけない。その意味では、「理想的体系を作るという幻想」という批判は正しかった。だが、今では<オルタナティブ>こそが求められている。私は、それを<望ましい賃金システム>として方向づけることができると考える。<望ましい>のほうが膨らみを感じさせる。ここでもまた「中間に真理あり」である。<望ましい賃金システム>の核心は<平等志向>11)にこそあり、したがって<平等志向賃金システム>と表現してもよい。
平等志向賃金は、大きくは、@正規・非正規の間の平等、A産業・地域間の平等、B男女の平等、C国際的格差の打破・平等、の4つを柱とする。いずれもその実現はきわめて困難な課題である。B男女の平等についてだけ要点を確認しておこう。
1948年の「世界人権宣言」は、「何人も……同等の労働に対して同等の報酬を受ける権理を有する」(第23条)と規定し、ILOは51年に「同一価値の労働についての男女労働者の同一報酬に関する条約」(ILO100号条約)を採択した。66年の国際人権規約A規約、79年の女子差別撤廃条約11条でも同一価値労働同一賃金原則」が定められた。ヨーロッパでは57年にローマ条約119条で男女平等賃金を定めた12)。
日本では敗戦直後1947年に労働基準法が制定され、その第4条に「使用者は、労働者が女子であることを理由として、賃金について、男子と差別的取扱をしてはならない」と明記された。中島通子によれば、これは「世界各国のなかでもっとも早い男女同一賃金規定である」13)。85年に女子差別撤廃条約を批准し、男女雇用機会均等法が制定された。だが、法律の制定とその施行の実態とは多くの場合に大きな乖離がある。周知のように、日本は、男女の賃金格差が主要国で断然トップとなっている。この問題を主題とした『男女同一賃金』では男女比がフランスやオーストラリアでは男100に対して80台なのに、日本は50台である(1988年)。その意味で男女の賃金格差を縮小する課題はきわめて重要である。
冒頭で<経済縮小への転換>と書いたが、そうなると当然にも労働時間の短縮とワークシェアリングを実現するほかない。高賃金層の労働者は賃下げとなる場合もあるが、失業者が増えるよりは、最低賃金制を底上げして賃金の平等を志向したほうが、社会の安定を創り出すことができるのである。
紙数もなく、現下で進行している定期昇給の廃止や成果主義賃金の徹底を柱とする賃金システムの改悪の動向にはまったく触れることはできないが、それらの攻撃が何を狙っているのかを、単に賃下げという点からではなく、職場支配の強化という点から見定め、労働者の権理を確保・拡大し、平等を志向する働きやすい職場をめざして反撃することが求められている。
リストラが傍若無人に強行され、労働者が萎縮し、賃金にかぎらず、労働条件についても声をあげることができにくくなっている現状のなかで、声をあげ、連帯して行動する道を探り出すことが何よりも大切である。その主要な課題の一つが賃金システム論の解明なのである。
<注>
1)堀込純一「戦前・戦中の賃金論と電産型賃金」『カオスとロゴス』第23号=2003年6月。
2)村岡到「賃金システム論序説・上」『カオスとロゴス』第24号=2003年12月。
3)木下武男『日本人の賃金』平凡社、1999年、145頁。
4)中島通子ら『男女同一賃金』有斐閣、1994年、115頁、45頁。
5)戸木田嘉久『労働運動の理論発展史』上、2003年、新日本出版社、78〜79頁。
6)中島通子ら『男女同一賃金』231頁。
7)木下武男『日本人の賃金』148頁。
8)村岡到『協議型社会主義の模索』社会評論社、1999年、参照。
9)戸木田嘉久『労働運動の理論発展史』上、171から172頁。
10)石田光男『賃金の社会科学』中央経済社、1990年、54頁以下。
11)村岡到『生存権・平等・エコロジー』白順社、2003年、参照。
12)世界人権宣言にこのような致命的弱点が残っていることは、この宣言の政治的内 容の高い意義を否定することとは異なる。この政治における到達点に踏まえて、経 済的レベルでの弱点を克服することが、社会主義の課題なのである。
13)中島通子ら『男女同一賃金』34頁。
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