村岡到:「自主独立」の優越性となお残る独善性
   ――『日本共産党の80年』を一読して
20030716 補正 400×23枚


 突如発表された党史『八十年』

 日本共産党は一月一六日、突然なんの前触れもなく、党史『日本共産党の八十年』を発表した。志位和夫委員長が記者会見して明らかにした。
 党中央委員会署名で、綱領や大会決定に次ぐ重要文献のはずであるにもかかわらず、内容はおろか、発行することについてさえ、この日まで一切なんの兆候もなかった。昨年十二月には中央委員会総会が開催され、年頭には恒例の新年旗開きがあったが、そこでも一言半句も示唆もなかった。かつて『六十年』を八二年末に発表した際には、中央委員に「素案」を配布して「修正・補強意見がだされ、党中央の英知を結集して作成された」こと(『七十年』下、一六九頁)もあったのに、この党に拭いがたく染みついた閉鎖的体質は依然として払拭されていないようである。『八十年』のもう一つの外形的特徴は、きわめて軽装で小さな著作になったことである。九四年に発表した『七十年』と比べると本文の分量は三分の一になり、年表も省かれてしまった。読みやすくするという利点に重点をおいたのであろう。
 つぶさに検討する余裕はないので、一読後の感想として、私の守備範囲で気づいたことを簡単に記すことにしたい。戦前の党史や経済問題については、それぞれそれを専攻している人が語るであろう。
 共産党は、党員四〇万、「赤旗」読者二〇〇万を有するわが国で最大の左翼政党である。国会内では衆参に四〇人の議員が活動する唯一の野党らしい野党である。地方自治体議会では四二〇〇人の議員を擁する第一党である。

 共産党を捉える基本的姿勢

 まず、『八十年』を一読して深く感動したのは、戦前の治安維持法下の闘いのなかで、女性党員が獄中での過酷きわまりない、国家権力の弾圧に抗して、生命を賭して人間として、党員としての信念を貫きとおした、その姿である。『六十五年』には小林多喜二の獄中死などが実にリアルに描かれていて、感涙することが度たびであったが、女性党員の例はなかった。『八十年』での女性党員の獄中闘争の登場は適切である。
 次に大笑いした箇所がある。あとでまた取り上げるので、部分的に引用しよう。「……〔社会主義〕『生成期』論は、その当時においては、ソ連の現状にたいするもっともきびしい批判的立場でした」(二二四頁)。一〇〇メートル一五秒は最高記録でした。中学校の運動会では、と限定すればそう言えるかもしれないが、一体どこの世界で「もっともきびしい批判的立場」だったのか。共産党の外ではトロツキズムに限らず、ソ連邦への批判は当時にしてもはるか先に進んでいたのである。「スターリン主義批判」として広く浸透したこの点にこそ、日本新左翼運動の存在理由の一つがあった。
 さらに呆れた部分がある。一九七〇年代の日本の政治情勢を記述した部分に七五年の「スト権スト」が登場しないのである! 『六十五年』には「八日間のストライキを敢行した」(上、三六三頁)とともかくも書いてあったのに、全く触れなくなった。すでに何度も批判しているが、共産党が強調する八〇年の社会党の「右転落」――「社公合意」への転換の背景こそこの「スト権スト」の敗北なのである。この削除の根本的根拠は、共産党の視点が国会内の動向や議員数の消長に過大に偏重しているからである。労働運動の展開に軸を置いていないと言い換えてもよい。
 私は一貫して、戦前の共産党の闘いについては、さまざまに限界があったにせよ全体としては大きく肯定的に評価する立場に立っている。彼・彼女らの闘いは日本に住む私たちの共通の誇るべき財産である。日本帝国主義の侵略戦争を阻止できなかったから、共産党にも戦争への責任があるなどという考え方はまったく非歴史的で没主体的な傍観者の戯言にすぎない。このことについては次の言葉をかみしめる必要がある。
 「ある趨勢の究極的な勝利が、なぜ、その進行を抑制しようとする努力が無力であることの証拠とみなされなければならないのか。……変化の速度を落とさせたというまさにその点で評価されえないのか。……変化の速度は、変化の方向そのものに劣らず重要であることが多い」。
 これはカール・ポラニーの『大転換』からの引用である(四九頁)が、私たちが歴史を把握する基本的観点はこうでなくてはならない。そのうえで、闘いの限界についても傲ることなく自己切開すべきなのである。白か黒かの二分法に陥って、<程度>や<形態>の重要な意味を見落とす短絡的な思考の水準で、共産党を非難する声が絶えないので、このことは特に強調しておくことが大切である。
 この視点に立脚して共産党の歴史を直視すると、『八十年』でも一貫して強調している点であるが、ソ連邦と中国という二つの大きないわゆる「社会主義国」から重大で徹底した干渉・破壊工作を受けながら、それを跳ね返して「自主独立」を貫いた闘いは見事と評価するほかない。解体した社会党を見るまでもなく、世界の左翼組織でここまで闘い抜いた組織はどこにもないのである。いわゆるソ連派や中国派はいったいどこへいってしまったのか。
 いつも確認することであるが、批判対象がこのような形で現実に存在していることそのものが積極的な評価に値する。党の歴史を批判にさらす形で明示できることそのものが、その党の自信の現れであり、責任ある姿勢である。そのことを認めたうえで、批判は加えられるべきであり、相互に学ぶ通路もそこに切り開かれる。
 だが、後の二つのほうは、弁解の余地なく共産党の限界を顕わにしている。志位は冒頭の記者会見で、『八十年』にも「歴史のリアリズム」と「何ものをも恐れない科学的社会主義の精神」が「つらぬかれている」と威張っているが、さらに徹底してほしいと願わずにはいられない。

 「ブルジョア君主制」か「民主政治」か

 次に、いくつか理論的な争点について明らかにしよう。
 最大の問題は、日本の戦後の政治体制あるいは政治システムに関する評価の問題である。「第三章 戦後の出発と日本共産党」の「二」は「憲法の制定と政治体制の根本的変化」と設定された。この節の建て方が『六十五年』とは決定的に異なっている。『六十五年』には「日本共産党の新憲法草案」はあるが、「憲法」は柱には立たない。『七十年』では「日本共産党の新憲法草案と憲法制定時の党の先駆的たたかい」と改良された。ところが、『八十年』は前記のように「憲法の制定」が格上げされ、この節の結びは次のように書かれることになった。
 「日本国憲法は、一九四六年十一月三日に公布されました。/こうして、日本の情勢は、戦前の天皇が主権者であった専制的な政治体制から、戦後の主権在民の政治体制に根本的な変化をとげることになりました」(八四頁)。〔A〕/は改行。
 『七十年』では、この箇所はどうなっていたのか。
 「新しい憲法の制定によって、天皇制は法制的にもその絶対主義的性質をうしない、戦前のような権限をもたないブルジョア君主制の一種にかえられた」(『七十年』上巻、一八〇頁。『六十五年』もまったく同じ表現であった(上巻、一一一頁))。
 こうなっていたのである。だれが読んでも全く違うことは歴然である。『六十五年』では憲法の公布日もなく、修飾語として書かれていたものが、『八十年』では独立の一句に格上げされている。核心は言うまでもなく綱領にも使われている「ブルジョア君主制の一種」にある。それがいつの間にか「主権在民の政治体制」になってしまった。これほどの重大な認識の変化を、綱領を改定することもなく、何の議論もないままになし崩しにおこなうとは、ただ呆れるほかない。
 この認識は、二一世紀をむかえた最後の章でももう一度確認されている。「二〇世紀の日本の最大の政治的変化は、『主権在君』の専制政治から、『主権在民』の民主政治への転換でした」(三二二頁)〔B〕と。
 さらに、前記の志位記者会見では、「二〇世紀の日本の最大の政治的変化は、『天皇主権』の専制政治から、『国民主権』の民主政治への転換にありました」と説明された。
 実はこの問題は、二〇〇〇年十一月の第二二回党大会での「決議」で初めて問題となった。そこでは「戦前の天皇主権の政治体制はあらためられ、国民主権の民主的な政治体制がつくられた」と書かれていた。〔C〕
 私は即座にこの点に注意を喚起し批判を加えた。それはさておき、各大会に触れているのに、なぜ、この第二二回党大会での「決議」に言及しないのであろうか。恐らくその理由は、こんな常識的な認識を最初に書いたのが二〇〇〇年だと知らせることに羞恥心を感じたのであろう。もう一つ、そこで使った用語が不適切だったからであろう。すでに、注意深い読者は気づいたであろうが、そこには「国民主権」と書かれていたからである(私は「国民主権よりも主権在民がよい」と注意しておいた)。
 見られるとおり、言い回しが微妙に異なるのは、この認識がなお定着・確立していないことを問わず語りに明らかにしている。〔A〕ではなぜ、「日本」ではなく「日本の情勢」としたのか。「主権在民の政治体制」と〔B〕の「『主権在民』の民主政治」とは同じなのか。〔C〕では「国民主権の民主的な政治体制」。志位氏が「国民主権」と発音したのは、「国民主権」とは一度しか書いてない『八十年』の学習が不足しているからである。
 重ねて問う。この新しい認識「『主権在民』の民主政治」と綱領に明記してある「日本を基本的に支配しているのは、アメリカ帝国主義と、それに従属的に同盟している日本の独占資本である」とは整合的なのか、と(六一年綱領では「日本の独占資本主義」)。
 なお、この問題は、先年、私が再発見した、敗戦直後の「尾高・宮沢論争」の争点の一つとも重なっている。その意味では、重要な論争を無視していたことのツケがまわってきたとも言える。

 定まらないソ連邦評価

 第二に、ソ連邦の評価の問題に移ろう。先に「社会主義生成期」説について、健康のためには笑えるのでプラスであると紹介したが、事は深刻な理論問題である。何しろ『六十五年』では、第二次世界大戦における「ソ連の指導者スターリンの功績を否定することはできない」と評価していたほどである(九一頁)。『七十年』では「スターリンの覇権主義」に批判を加えるなど部分的に修正した(一五五頁)。さらに『八十年』では、ユーゴスラビア共産党非難への同調をはじめ、「社会主義ファシズム」批判の逸脱、「資本主義の全般的危機」認識などいくつもの反省事例を挙げていわば自己批判している。遅きに失したものばかりであるが、ともかく反省は示している(ついでながら、共産党は「無謬の党」と言っているとかいう非難がたまに聞こえるが、それはデマにすぎない)。
 ここでは、ソ連邦の評価の一点に絞って検討しておこう。
 最初に出てくるソ連邦評価は「スターリンらの支配のもとで、他国の併合や支配をねらう覇権主義と国民を抑圧する専制主義の体制に変質していました」(一〇二頁)である。。これは、一九五〇年の「五〇年問題」に際してのことについてである。
 次は、「七七年十月の第一四回党大会」で、前記の「生成期」の引用がそれである。「現存する社会主義はまだ『生成期』にあるにすぎない」と認識した(だから、いろいろ不都合なことが起きると弁解できることになった。当時は「目からうろこが落ちる」すばらしい理論と自画自賛していた)。
 さらに、八〇年代末の「東欧諸国の激動にさいして」の説明で、「東欧諸国では、第二次世界大戦後、ソ連の覇権主義によってソ連型の政治・経済・社会体制がおしつけられ」たと評価する(二六二頁)。
 この後は、大会ごとにさまざまに表現している。煩瑣ではあるが、引用しておこう。
 九四年の第一九回党大会では、「ソ連の体制は対外的には大国主義・覇権主義、国内的には官僚主義・命令主義を特徴とする政治・経済体制」に変質したと言い出した(二六八頁)。
 九七年の第二〇回党大会では、綱領を改定した。「綱領は……スターリンらによって旧ソ連社会は社会主義とは無縁な体制に変質したことをあきらかにしました」(二八六頁)。また「覇権主義と官僚主義・専制主義の破産」とも書き、「ソ連覇権主義という歴史的な巨悪の解体」を歓迎した(この表現はソ連邦崩壊直後の宮本議長の発言である)。そして、この大会で先にみたように、「生成期」説をお蔵入りさせることになった。そこでは「ソ連は社会主義への過渡期でさえなく」とされた(二二四頁)。
 二〇〇〇年の第二二回党大会では、「ソ連型の政治・経済・社会体制は社会主義とは縁もゆかりもない体制であり、……人間抑圧の社会体制の出現を絶対にゆるさない」と確認した(三〇八頁)。
 最後の章でも「ソ連型の政治・経済・社会体制による人間への暴圧をけっして許さない」と強調している(三二四頁)。
 一読すれば明らかなように、大国主義、覇権主義、官僚主義、専制主義、命令主義が乱発されているが、それらの用語の概念規定や説明はなく、羅列しているだけで、分析しているわけではないし、定まった認識に到達しているわけでもない。「ソ連型」というのは地理的名称を使っているだけで内容はゼロである。「社会主義とは無縁な体制」だの「歴史的な巨悪」だの「人間抑圧の社会体制」などというのはとても社会科学の用語ではない。奴隷制でもこの三つのレッテルを貼られる資格はあると言える。「社会主義とは無縁な体制」と言い切ったのでは、そこで展開された、社会主義のための苦闘、その教訓を汲みつくすという問題意識まで投げ捨てられてしまう。
 まだはっきりしていないのであれば、そこに課題があると率直に提起すればよい(この問題についての、私たちの最新の認識は別稿「『社会』の規定と党主政」参照)。

 「市民」と「生存権」は?

 他に、私がいつも問題にしている「市民」と「生存権」に触れておこう。
 前記の「『主権在民』の民主政治」とも関連するのであるが、綱領には「勤労市民」はあるが、「市民」は登場しない。「『主権在民』の民主政治」は三年前に初めて使い出したからである。『八十年』でも「市民」は日本では一九四九年に一度だけ顔を出す(九五頁)が、それ以外には存在していない。『八十年』では、中国の天安門事件やソ連邦のクーデターでは「市民」が登場するし、アフガニスタンにも犠牲者としては「市民」は登場する(なぜかルーマニアには「住民」しかいないらしい)。ところが、日本では六〇年の安保闘争において「労働者、学生、大学教授、文化人、高校生、業者、母親など広範な層」が参加したのに、ここには「市民」は存在しない(一四八頁)。
 ただ、「市民」は存在しないのに、「市民道徳」は七三年の「民主連合政府綱領」で一筆したと記されている(二二六頁)。その直前に第一一回党大会で「プロレタリア的ヒューマニズムにたった党風」とか「人民的な議会主義」を提起したと書いてあるが、最近の「赤旗」では死語になっている「プロレタリア」や「人民」が、なぜ当時は必要不可欠だったのかを反省する必要がある。
 「生存権」については、ついに『八十年』に登場しなかった。代わりに、敗戦直後に共産党が提案した「新憲法の骨子」に「人民の生活権」と書いてあったと紹介している(七七頁)が、「人民の生活権」は、この「新憲法の骨子」についてより多く引用している『六十五年』では引用から外れていた(「人民」だけでなく「万人の生存権」にこそ意味があるのだ)。七六年の『自由と民主主義の宣言』で「生存の自由」を提起したと書いてあるが、最近の「赤旗」では「生存の自由」は使われず、「生存権」が多用されている。
 また、七二年の「新日和見主義分派」問題、八四年にけたたましく展開された、平和運動での吉田嘉清への非難や小田実らの「市民主義」への批判など、『七十年』でも強調していた部分は一切削除されてしまった。創価学会による宮本委員長宅電話盗聴事件については記述しているが、党大会会場への盗聴や幹部自宅の電話盗聴などの公安警察による弾圧について記述しなくなったのは、いくら軽便にすることを優先したにせよ、誤りであろう。二〇〇〇年の第二二回党大会で決定した「自衛隊活用」論も姿を消した。この現実路線については、自由法曹団など党内外の法律の専門家のなかから強い批判が加えられていたからであろう。
 さらに、七六年に発表した『自由と民主主義の宣言』で「社会主義日本でも市場経済を活用することを明確にしました」(二二八頁)と書いてあるが、真っ赤な嘘である。この『宣言』には「市場経済」は一言も出てこない。だから、『七十年』の当該のくだりにもそんなことは書いていなかった。

 かすむ民主集中制

 組織のあり方について、第二二回党大会で「『前衛』という誤解されやすい用語を削除しました」(三〇七頁)と書いているが、『八十年』には「民主集中制」はたった一度書かれているだけである(一三八頁)。規約に謳っている組織の原理を強調して説けないとは? 一体これはどういうことであろうか。近年は中央委員会総会はCS放送によってリアルタイムで党の地方事務所で放映され、直に党員の意見を集中して、その声を会議で報告している。これは、レーニンの時代には考えも及ばない通信手段の発達がもたらした変化であるが、この変化は、「民主集中制」に代わる組織論の必要性を明らかにしている。なお、「政治理論誌」の誌名がなお『前衛』であることは、何とも不首尾なことである。
 なお、一読後の印象では不破哲三議長が前面に立ち現れている感じである。もちろん、宮本顕治の功績は揺らぐものではなく、要所では必ず彼の発言が方向を決定したものとして叙述されているが、とくに八〇年代以降は不破発言が目立つ。これに対して現委員長の志位和夫は役員の氏名として二回出てくるだけで、言動の紹介はまったくない。若すぎるということだろうが、『八十年』に一度も言動を記録されることがない指導者によって、二一世紀を迎えているのは前途の明るさを減殺するのではないか。理論なき者によって、数十万人の左翼組織を指導できるはずはないからである。不破氏が引退したら、理論はだれによって提起されるのであろうか。
 軽装版にしたことにはプラスもあるのであろうが、年表は付けてほしかったし、党勢や国会議員の変化を図表にしたほうが分かりやすいであろう。「『赤旗』の読者数も八〇年をピークに漸減傾向をたどりました」(二五〇頁)と正直に書いてあるが、このピークの絶対数いくつだったのか。八〇年には三五三万部だったはずである。図表を付ければこういう点もはっきりしたであろう。
 こうして、『八十年』は、「自主独立」の一点ではきわめて頑強に闘いぬいた不屈の党であることは鮮明にすることができたが、なお依然として独善的な体質を拭いがたく身につけている党でもあることをさらすことになってしまった。その根底にある問題は、先進国における社会主義革命の性格と内実をいかなるものとして展望するかという問題である。
TOPへ戻る