村岡到:
マルクス(主義)の致命的欠陥――マルクスは民主主義を理解できず

               2000.4.15

 中国翻訳局と武漢大学共催のシンポジウム「マルクス主義と現代世界」に招待していただいたことに深く感謝します。
 20世紀末にイギリスのBBC放送は、人類の偉大な思想家の筆頭にマルクスをあげた。ベトナム反戦闘争が全世界で高揚していた1960年代に比べれば、はるかに低下しているとはいえなおマルクスは高い評価を保持している。このシンポジウムのタイトルもそのことを示している。『資本論』によって資本制経済の仕組みを理論的に解明し、社会主義を経済学によって基礎づけた点においてマルクスは高く評価されるべきである。社会主義をなお目指している私は、このことをはっきりと認めたうえで、混迷と停滞のなかで苦しんでいる世界の社会主義運動の前進のためには、マルクスとマルクス主義の限界を切開する必要があると考える。その核心は、現代社会の政治システムである<民主主義=民主政>についてマルクスは十分に理解できなかったことにある。

1 直視すべき現実
 私たちは、どのような現実に直面しているのか。なによりも1991年末のソ連邦崩壊が世界の社会主義運動に深刻な打撃を与え、大きな後退と混迷をもたらした。なぜ崩壊したのか。崩壊したソ連邦の社会主義とはいったい何だったのか。この大きな問題に一定の解答を明らかにすることなしには、社会主義の未来を語ることはできない。長くトロツキストであった私は、ソ連邦は社会主義への過渡期が官僚制的に変質したと考えていた。最近になって、経済は計画経済という名の指令経済であり、政治は党を中軸とする<党主政>であったと考えるようになった。一言でいえば「指令制党主政」である。
 各国で左翼組織と運動が後退と混迷を深めているなかでは、一人中国だけが社会主義にむかって好調に前進することはできない。グローバリゼーションが席巻している世界では、孤立して一つの国家だけでわが道を歩むことはできないからである。今日の中国が抱えている困難は、先んじて社会主義への道を歩み出した国=社会主義志向国の困難なのである(ベトナムもキューバも同じ課題に直面している)。日本では「中国はすでに資本主義になった」という批判が拡がっているが、日本の左翼運動はその停滞によって中国の社会主義への歩みにブレーキをかけている。スカートを踏みつけておいて、お前は社会主義の道から外れていると批判するのは、没主体的な無責任な態度にすぎない。
 私は昨年10月に北京で開催された国際シンポジウムに参加したが、そこでの共通の問題意識は次のような諸点であった。資本主義変革の長期性・漸進性・平和移行、政治的民主の重要性。私は、これらの問題と関連させて報告する(グローバリゼーションにいかに対抗するか、がもう一つの大きな問題であったが、別の分科会の課題なので触れない)。
 さらに、現下のイラク戦争について言えば、アメリカ帝国主義による無法な侵略に対して、国連や国連憲章の重要性を強調する必要がある。この点で、この国連憲章が1948年に採択されたときにソ連邦などが棄権したことを思い出すことは無駄ではない。その意味は、私の報告全体から明らかになる。私たちが必要とし、創造しなくてはならない世界は、力は正義と法に服従するという世界であって、「力こそ正義なり」という強盗が跳梁する暗闇の世界ではない。

2 私の基本的立場
 私が社会主義に目覚めた出発点は、1960年の安保闘争(日米安保条約の改定に反対する闘い)であった。17歳で高校生の私は、青年マルクスが書いた「疎外された労働」論を読んで、資本主義を根本的に変革しなければならないと観念的ではあったが自覚した。私は、正統派の日本共産党ではなく、新左翼と呼ばれる新しい運動に飛び込み、トロツキストとして活動を開始した。
 ソ連邦の崩壊に直面して、私は反省を迫られ、改めて社会主義について考えることになった。私が得た教訓の一つは、大切なのは、社会主義の実現であって、マルクスやレーニンやトロツキーではないということであった。「歴史は終焉した」とか「社会主義の敗北」が流行して、多くの人が社会主義を放棄したが、私は社会主義を志向・探究する道を選んだ。
 私は、マルクスによる資本制経済への批判を継承する。労働力の商品化、生産の動機=利潤、価値法則をキー概念とする資本制経済分析は基本的になお有効である。私たちは、<賃労働―資本>関係の変革、別言すれば生産手段の社会化を実現しなければならない。
 社会主義とは何か? 経済の領域では、生産手段の社会化を実現することである。これまではそれを「計画経済」として考えてきたが、私は<協議経済>として構想する必要があると考える。だれも言わないが、マルクスもレーニンさえも一度も「計画経済」とは書いていない。反共主義者のハイエクが指摘しているように、この言葉は1919年にドイツで初めて使われ出した(反共主義者でも正しい指摘をすることはいくらでもある)。マルクスは『資本論』フランス語版で、未来社会に触れた部分で「協議した計画にしたがった生産」と書いた。単なる計画ではなく、「協議した計画」がカギである。専制君主や官僚でも計画は立案できるからである。労働者を主人公にした「協議した計画」が必要なのである。
 さらに、農業と工業の新しい結合という視点が重要である。このような変革によって、人間の平等を実現することこそが、社会主義なのである。後に見るように、政治システムについては、今日の民主主義=民主政の原理を変更する必要はない。その充実が課題なのである。

3 マルクスが見落とした問題
 日本の代表的政治学者の最近の認識を示すことから始めよう。1998年に刊行された『マルク・スカテゴリー辞典』の「民主主義」の項目には「マルクスには……民主主義についての体系的言説はない」と説明されている(加藤哲郎)。つい最近、刊行された本では、マルクスは「民主主義についての解明が甚だ手薄である」と指摘されている(大藪龍介)。二人とも比較的に高名なマルクス主義周辺の研究者である。
 彼らは研究者によくありがちな禁欲を心得ていて、それ以上のことは主張しないが、これは重大な問題である。けっして小さな弱点ではない。なぜなら、民主政は現代社会の政治システムの根幹に位置づいているものであり、その別名とも言ってよい。隣組の掟ではない。その民主政についての「解明が甚だ手薄である」としたら、政治についてはあえて極言すれば無知といってもよい。商品とは何かの認識を欠いていたのでは経済学者にはなれないように、民主政についてよく理解しないで、現代の政治について語ることはできない。事実、マルクスは、議会の役割と意味を認識できず、過小評価していた。もちろん、時代的制約は考慮しなくてはいけないが、同時代人のJ・S・ミルは1861年に『代議制統治論』を著わしている。
 マルクスは、このように政治システムについて理解が浅いままに、資本主義社会の政治はブルジョアジー独裁だと断定してしまった。その認識から、ブルジョアジー独裁を打倒するためには暴力革命が必要だと考え、その勝利はプロレタリアート独裁となると展望した。ツアーが支配する後進国ロシアで、レーニンはこの考え方を踏襲し、ロシア革命を勝利に導いた。ルネサンスも民主政も経験のないロシアでは、この考え方に現実性があり、妥当だったからである。
 だが、ロシアで成功したマルクス主義は先進国では成功しなかった。先進国では民主政が実現していたからである。だから、先進国の共産党は、暴力革命やプロレタリアート独裁を放棄した。しかし、暴力革命やプロレタリアート独裁は、ブルジョアジー独裁認識と三位一体であって、どれかを捨てて他を継承することはできない。
 マルクスの限界は他にも<多様性>を認識できなかった点や、平等よりも自由に重点を置いた点にもある、と私は考えている(これらも別の分科会のテーマなので省略する)。
4 この欠陥の根本にあるもの
 さらに明らかにすべき問題は、なぜマルクスがこのような誤りに陥ったのかについてである。その原因は二つあった。
 第1に、マルクスは、政治を経済の従属変数と見た。唯物史観でいう「土台=下部構造が上部構造を規定する」という考え方である。この考え方は全面的に誤っているわけではないが、上部構造とされる政治や法律の独自の解明を軽視するように誘導する点では明らかに誤っていた。ここから、なんでも根本原因は経済にあると見て、経済分析だけを偏重することになった。だから、「基底体制還元主義」として批判されることになった。資本主義社会を全面的に把握するためには、経済と政治を明別して、その各々についてその特徴を明らかにする必要がある。資本主義社会の経済は「資本制経済」であり、政治は「民主政」である。
 第2に、歴史を階級闘争の歴史と見る考え方である。生産手段と人間との関係に視点を定め、その関係が歴史的に変化することを明らかにしたことは重要な認識であったが、その変化の仕方もまた変化することを、マルクスは認識できなかった。歴史は、どんな時代にも少数の支配者と多数の被支配者とが階級闘争を展開すると、マルクスは考えた。だが、この変化の仕方=階級闘争の形態もまた変化する。
 仮に図示すると、A→B→C→Dではなくて、A→B⇒C>Dとなる。
 近代における民主政の形成は、<法の下の平等な権理><人権の尊重>を基軸とすることになった。もちろん、これは原理であって、現実にはさまざまな制限が加わる。<法の下の平等な権理>を原理にしたことによって、近代社会では、政治は少数の支配者と多数の被支配者とが階級闘争を展開するのではなく、多数者の動向によって左右されることになった。この変化とその意味をマルクスは理解できなかった。そして、この原理に代わるものを、人類はまだ発見していない。
 マルクスは、1871年のパリ・コミューンの経験を総括した『フランスにおける内乱』で、コミューンを「労働の経済的解放のためのついに発見された政治形態」と評価した。なぜ、「形態」であって、新しい政治の本質ではないのか。つまり、マルクスは、政治システムについては別の新しい本質=原理を発見することはできなかったのである。
 レーニンは、このマルクスの認識――資本主義社会での民主政の本質はブルジョアジー独裁――を踏襲して、プロレタリアート独裁を強調し、ブルジョア民主政に対して、プロレタリア民主政を対置した。だがこの分け方は間違いである。二つの言葉に「民主政」が使われている点にも、この二つの用語の内実に本質的相違がないことが示されている。形容句のほうだけが異なるだけである。黒い猫と白い猫との違いにすぎない。
 マルクスやレーニンがこのような誤りに陥ったのは、社会の形成にとって法の役割が決定的に重要であることを理解できなかったからである。法学の古い諺は「社会あるところ法あり」と教えている。『資本論』によって、資本制経済を構造的に分析したことは比類ない貢献であったが、その裏側には政治システムの認識についての軽視・弱点が潜んでいたのである。

5 この欠陥による悪影響
 このようなマルクスの弱点・欠陥は、社会主義運動を<法を軽視する革命>へと向かわせることになった。ロシアではボリシェヴィキの周りでは「法律についての無知は革命家の誇り」だと言われていた。ロシアでは「自白は証拠の女王だ」というのが常識であった。レーニンは1917年に「あらゆる革命の根本問題は政治権力の問題だ」と強調した。だが、先にも述べたように、歴史は変化するのであり、したがって革命もまたその内実と形態とが歴史的に変化するのである。そもそも「あらゆる」革命と歴史貫通的に考えることが非歴史的な思考法である。
 また、中国では毛沢東は中国社会は「無天無法」だと特徴づけ、「鉄砲から政権が生まれる」と強調した(毛沢東は1966年に日本共産党にもこの路線を押しつけようとしたが、日本共産党の宮本顕治はそれを拒否した)。
 ロシア革命後のソ連邦では、人権は「ブルジョア的」と蔑まれ、人権を正面から評価するようになったのは1980年代になってからであった。だから、冒頭に触れたように、1948年に国連憲章の採択に際して、ソ連邦は棄権したのである。
 こうして、マルクス主義は先進国で根付くことができなかったのである。 
 しかし、いつも歴史は人間の教師である。ロシアでも中国でも、後に法治の重要性に気づくことになった。80年代のペレストロイカでも、今日の中国でも<法治>が強調されているのは偶然ではない。そこに歴史の発展方向があるからである。

6 私たちが目指す社会主義
 私は、以上のような反省から、<法律に則った革命>=則法革命を提起している。この構想では、単に政治権力の奪取ではなく、社会主義への経済的・政治的・文化的接近をこそ追求することが課題となる。私は、「資本主義から社会主義への転換」を<資本制民主政から協議制民主政への転換>と表現したほうがよいと考える。この新しい表現ならば、変革するのは経済システムだけであることが明示できる。政治システムは継承する。
 また、この報告では展開できないが、私は、社会主義をイデオロギーから解放することが重要だと考えている。この考え方は、オーストリアの法学者グスタフ・ラートブルフが1949年に提起していた(『社会主義の文化理論』)。社会主義は特定の世界観や思想に依拠する必要はない。この開かれた考え方によってこそ、民主政を尊重・重視する人びととも、観念論者とも宗教家とも協力できるようになる。
 社会主義へ討論の文化を!――このペレストロイカのスローガンを高く掲げたい。

  
 社会主義論――協議経済については、10月の国際シンポジウムでの報告で展開した(英文を用意)。

 注意:民主主義と民主政は英語なら同じ democracy
党主政は partycracy
協議経済は agreementeconomy

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