村岡到:「アソツィールテ」と言い出した不破哲三
――「代々木『資本論』ゼミナール」の最終講義
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日本共産党の不破哲三議長は、12月16日に党本部で開かれた「代々木『資本論』ゼミナール」の最終講義で大変に興味深い話を語った(「赤旗」12月19日)。「『結合された生産者たち』の問題」についてである。
本題に入る前に、確認しておきたいことがある。この「代々木『資本論』ゼミナール」開催の意義についてまずは大きく肯定的評価をある種の羨望もこめてはっきりと認めたい。この講座は、党創立80周年を記念して、幹部・中堅活動家300人の規模で、1年間にわたって開講されたもので、講師は不破が務めた。不破自身は、最終講義で「歴史的な壮挙」とまで自画自賛している。そこまで持ち上げてよいかどうかは人それぞれであろうが、確かに日本のどの政治勢力にとっても真似のできることではない。それだけの関心・エネルギー・努力が共産党に存在していることを知っておく必要がある。
「用語は発展、訳語は同じ」?
不破は、「『赤旗まつり』での話への補足――『結合された生産者たち』の問題」と項目を立ててこう語った。「訳語は同じですが、原語では資本主義の段階の結合(コンビニールテ)と社会主義の段階の結合(アソツィールテ)とは、用語も発展させられているのです。そういう点で、『結合された生産者』というのは大事な概念なんです」。
文意についてはまことにそのとおりである。だが、だれでもすぐにちょっとおかしなことに気づくであろう。「用語も発展させられている」のに、どうして「訳語は同じです」でよいのだろうか、と。友情が愛情に変化することもあるが、両方とも「情」とだけ表現するとしたら、どうやってその変化を表すことができるのか。そんな芸当はできないから、不破は恐らく「赤旗」創刊いらい初めて用いられたであろう、「コンビニールテ」とか「アソツィールテ」なるドイツ語をかっこに入れて話すことになったのである。これからは「結合」と書くときにはいつもこの非日常的なドイツ語のお世話になるのだろうか。いずれ、こんな馬鹿らしい表現は、「赤旗」紙上で「生存の自由」が「生存権」に替えられつつあるように、後述の用語に取って代わられるであろうが、まずは、不破の認識がここまで到達したことについては大いに賛意を表しておこう。
こんな風に高飛車に書くのは不遜ではあるが、次の事情を知ればそれも許していただけるであろう。実は、この不破発言は、私の彼への批判にたいする応答なのである。
経過を説明しよう。
8月26日に、不破は北京の社会科学院で「レーニンと市場経済」と題する講演をおこなった(9月4日「赤旗」発表)。私はただちに「あるべき『レーニンと市場経済』論」を書いて批判した(「稲妻」第344号=2002年10月10日、ホームページでは9月13日)。批判の一つの要点は「生産手段」の問題が欠落しているという点であった。そうしたら、11月4日に、前記の「『赤旗まつり』での話」――「ふたたび『科学の目』を語る 代々木『資本論』ゼミナール・赤旗まつり」が1500人もの聴衆を集めておこなわれ、そこで不破は、「生産手段」について重点を置いて語ることになり、そこに「結合された生産者」が登場することになった。そこで、私は再び直ちに「『赤旗まつり』不破講演の半歩前進――再び不破哲三を批判する」(ホームページ、11月15日)を書いた。その核心を再現しよう。
<不破は「誰が生産手段をにぎる」のかと問題を立て、『資本論』から「結合された生産者」の一句を引いて強調しはじめた。これは、3分の1はプラス評価できる前進である。問題の立て方だけは正しい。答えも半分は正しい。だが、「結合された」はいただけない。講演なので、引用頁をあげることはしていないが、この「結合された」は恐らく英語なら
associated であり、近年おおいに議論されている問題の一句である。不破は後のほうで『フランスにおける内乱』の草稿から「自由な協同労働」を引用しているが、この「協同」も英語なら
associated である。わざわざ不破は近年は誤訳とされている「結合された生産者」を使って、流行の「アソシエーション」という言葉に「赤旗」の読者が汚染されることを避けたわけである>。
これではっきりしたであろう。ついに不破は、「アソツィールテ」、慣用の英語で名詞形にすれば<アソシエーション>に到達したのである。
これだけのことなら、事は私と不破との二人だけのやりとりにすぎないが、私たちが知らなければならないことがさらにある。「コンビニールテ」と「アソツィールテ」との違いに重要な意義を見い出し、鋭角的に問題提起していた先人が日本には存在していたのである。広西元信が、その人である。1966年、『資本論の誤訳』である。
「邦訳の一番、悪い点は、連合生産者が結合生産者と誤訳されていることです。社会主義を意味するアソシエート(連合・提携)と、資本主義を意味するコンビネート(統合)とが、同じように、結合、などという訳になっていることです。この両語を区別せずに、混同して、同じように結合などと訳す訳し方は、邦訳の最大の悪癖です。……アソシエートとコンビネート、この両語を私のように連合と統合などと訳さず、別の訳し方もあろう。前者を協会、協同、組合とか、後者を統一、統括、合一とか、いろいろの訳し方もあろう。あってもよいはずです。ただ、両語を同じ訳語、結合などと訳してはいけません。これでは社会主義と資本主義との区別が、わからないものになってしまうからです」(こぶし書房、2002年復刻版、14頁)。
すでに1966年にここまではっきりと認識されていたのである。「邦訳の最大の悪癖」とまで指弾されていたにもかかわらず、日本のマルクス主義者は例外なしにこの広西の先駆的批判を無視した。私は、すでに何度も書いているように、ソ連邦崩壊の後に、1992年夏に広西さん本人と『資本論の誤訳』に出会い、深い衝撃を受けて、直ちに、その意義を理解し、学ぶことができた。それゆえに、前述のような批判を不破に加えることができたにすぎない。広西さんが生きていたら、苦笑しながら「そんなものだよ」と軽くいなしたであろうことを、いくらか真面目に書いているにすぎない。
私は、広西さんだけを称えたいわけではない。何事においても、先人の先駆的認識から虚心に、党派的色めがねを外して学ぶことがいかに大切かということを声を大にして主張したいのである。
ソ連邦を「社会主義」と言っていたのは誰か
もう一つ、「社会主義論」についても、不破は同様の態度をくりかえしている。不破は「『結合された生産者たち』の問題」の次の項目を「社会主義論では旧ソ連をどう見るかが大事」と立て、「このソ連を社会主義の現実だとする見方が、社会主義のイメージをゆがめたことは、たいへん大きなものがありましたし、理論の上でも世界的にたいへん有害な影響をあたえました」と語った。さらに「ソ連の社会体制が社会主義の反対物だったという結論を明確に出しているところは、世界の共産党のあいだでもまだ少数でしょう」などと威張っている。
これまた、私が長いあいだ主要に問題にしているところであるが、「ソ連を社会主義の現実だとする見方」を、長い期間、共産党自身が取っていたではないか。1977年第14回党大会で打ち出した「社会主義生成期」論はいったい何だったのか。当時は「目からうろこが落ちる」(上田耕一郎)と自画自賛していたこの謬論は、94年の第20回党大会で撤回されお蔵入りとなったが、だからと言ってその責任が帳消しになるわけではない。
ソ連邦はなお「社会主義」ではないと、明確に主張していたのは、トロツキーを先駆とするいわゆるトロツキストであり、そこに新左翼の存在理由の一つがあったのである。何度も引用しているが、トロツキーは1936年に執筆した『裏切られた革命』で、「空想の翼をどんなに勝手に広げて見ても、マルクスやエンゲルスやレーニンが描いた労働者国家の輪郭と〔ソ連邦の〕国家との間の対照のように甚だしい対照を想像することはできない」ときっぱりと批判したのである(論争社、1962年、57頁)。
しかも、後段の「ソ連の社会体制が社会主義の反対物」という認識は半分は誤りである。この小論では論及する余裕はないが、これでは、1917年のロシア革命とその後の社会主義をめざしたさまざまな苦闘を清算主義的に切り捨てることになるからである。だから、不破は、私が前記の論文で指摘したように、例えば「社会主義経済計算論争」の検討には決して進まないのである。
さらに、その次の項目で「価値法則」について、「価値法則も歴史の産物であって」とつぶやいているが、北京での講演でも赤旗まつりでの講演でも今度の講義でもそれまで「価値法則」の4文字は一度も発音されたことがない。これまた、私が前記の批判で明確にすべきだと教示しておいた論点である。
不破は近年、「科学の目」なるものを強調しているのであるが、そうであれば、研究対象と自分だけが存在しているかのごとき姿勢はやめたほうがよい。そのあいだに存在する既出の研究から学ぼうとしないのは、不破の一貫した非科学的思考である。さらに、ぜひとも「科学の目」に「党派的色めがね」を外すことを加えてほしいと切望する。
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