村岡到不破はマルクス批判に踏み出すか2003.9.13

400字×40枚
近刊の『不破哲三との対話――日本共産党はどこへ行く?』社会評論社、に収録予定。

 日本共産党の不破哲三議長は、昨年来、綱領改定を視野に入れてマルクス主義の古典の解釈を中心に党内教育に力を注いでいる。昨年は一年間にわたって「代々木『資本論』ゼミナール」を開催し、つい最近も『ゴータ綱領批判』をテーマに党本部で学習会を開催した。六月の第七回中央委員会総会でも綱領改定案についての説明で、マルクスの未来社会論について時間をさいて論じた。「代々木『資本論』ゼミナール」の最終講義と、七中総での報告については、その都度、取り上げて論評したが、直近の『ゴータ綱領批判』論についても新しく検討をくわえ、一つの論文にまとめることにした。前の二つは、そのまま再録する。ただしそれらの結論部分については、本稿のむすびに趣旨を活かして移動した。不破は、いよいよマルクス批判に踏み出すのであろうか。

 「アソツィールテ」と言い出す

 不破は、二〇〇二年十二月一六日に党本部で開かれた「代々木『資本論』ゼミナール」の最終講義で大変に興味深い話を語った(「赤旗」十二月一九日)。「『結合された生産者たち』の問題」についてである。
 本題に入る前に、確認しておきたいことがある。この「代々木『資本論』ゼミナール」開催の意義についてまずは大きく肯定的評価をある種の羨望もこめてはっきりと認めたい。この講座は、党創立八〇周年を記念して、幹部・中堅活動家三〇〇人の規模で、一年間にわたって開講されたもので、講師は不破が務めた。不破自身は、最終講義で「歴史的な壮挙」とまで自画自賛している。そこまで持ち上げてよいかどうかは人それぞれであろうが、確かに日本のどの政治勢力にとっても真似のできることではない。それだけの関心・エネルギー・努力が共産党に存在していることを知っておく必要がある。

 A 「用語は発展、訳語は同じ」?
 不破は、「『赤旗まつり』での話への補足――『結合された生産者たち』の問題」と項目を立ててこう語った。
訳語は同じですが、原語では資本主義の段階の結合(コンビニールテ)と社会主義の段階の結合(アソツィールテ)とは、用語も発展させられているのです。そういう点で、『結合された生産者』というのは大事な概念なんです。
 文意についてはまことにそのとおりである。だが、だれでもすぐにちょっとおかしなことに気づくであろう。「用語も発展させられている」のに、どうして「訳語は同じです」でよいのだろうか、と。友情が愛情に変化することもあるが、両方とも「情」とだけ表現するとしたら、どうやってその変化を表すことができるのか。そんな芸当はできないから、不破は恐らく「赤旗」創刊いらい初めて用いられたであろう、「コンビニールテ」とか「アソツィールテ」なるドイツ語をかっこに入れて話すことになったのである。これからは「結合」と書くときにはいつもこの非日常的なドイツ語のお世話になるのだろうか。いずれ、こんな馬鹿らしい表現は、「赤旗」紙上で「生存の自由」が「生存権」に替えられつつあるように、後述の用語に取って代わられるであろうが、まずは、不破の認識がここまで到達したことについては大いに賛意を表しておこう。
 こんな風に高飛車に書くのは不遜ではあるが、次の事情を知れば、それも許していただけるであろう。実は、この不破発言は、私の彼への批判にたいする応答なのである。
 経過を説明しよう。
 八月二六日に、不破は北京の社会科学院で「レーニンと市場経済」と題する講演をおこなった(九月四日「赤旗」発表)。私はただちに「あるべき『レーニンと市場経済』論」を書いて批判した(「稲妻」第三四四号=二〇〇二年十月一〇日、ホームページでは九月一三日)。批判の一つの要点は「生産手段」の問題が欠落しているという点であった。そうしたら、十一月四日に、前記の「『赤旗まつり』での話」――「ふたたび『科学の目』を語る 代々木『資本論』ゼミナール・赤旗まつり」が一五〇〇人もの聴衆を集めておこなわれ、そこで不破は、「生産手段」について重点を置いて語ることになり、そこに「結合された生産者」が登場することになった。そこで、私は再び直ちに「『赤旗まつり』不破講演の半歩前進――再び不破哲三を批判する」(ホームページ、十一月一五日)を書いた。その核心を再現しよう。
 不破は「誰が生産手段をにぎる」のかと問題を立て、『資本論』から「結合された生産者」の一句を引いて強調しはじめた。これは、三分の一はプラス評価できる前進である。問題の立て方だけは正しい。答えも半分は正しい。だが、「結合された」はいただけない。講演なので、引用頁をあげることはしていないが、この「結合された」は恐らく英語なら associated であり、近年おおいに議論されている問題の一句である。不破は後のほうで『フランスにおける内乱』の草稿から「自由な協同労働」を引用しているが、この「協同」も英語なら associated である。わざわざ不破は近年は誤訳とされている「結合された生産者」を使って、流行の「アソシエーション」という言葉に「赤旗」の読者が汚染されることを避けたわけである。以上、引用。
 これではっきりしたであろう。ついに不破は、「アソツィールテ」、慣用の英語で名詞形にすれば<アソシエーション>に到達したのである。
 その後、『レーニンと「資本論」』を一読したら、不破は一九九九年に、『資本論』の信用論からの引用――「結合された労働の生産様式」――に際して、「結合」に「アソツィールテ」とルビをふり(C一一六頁。E七六頁、九二頁)、さらに、エンゲルスの『家族、私有財産および国家の起源』からの引用――「生産者の自由で平等な協同関係」――に際して、「協同関係」に「アソツィアツィオン」とルビをふっていた(C三五二頁)。だが、そこでは、「コンビニールテ」と対比することもなく、これらの言葉の意味についてはまったく説明していない。不破は、一九九三年の『科学的社会主義の運動論』でも前者(信用論から)を引用しているが、そこでのルビは「アンツィールテ」と誤植されている(二五五頁)。ルビについての説明はない。したがって、前記の私の説明は変更する必要がない。

 これだけのことなら、事は私と不破との二人だけのやりとりにすぎないが、私たちが知らなければならないことがさらにある。「コンビニールテ」と「アソツィールテ」との違いに重要な意義を見い出し、鋭角的に問題提起していた先人が日本には存在していたのである。広西元信が、その人である。一九六六年、『資本論の誤訳』である。
 邦訳の一番、悪い点は、連合生産者が結合生産者と誤訳されていることです。社会主義を意味するアソシエート(連合・提携)と、資本主義を意味するコンビネート(統合)とが、同じように、結合、などという訳になっていることです。この両語を区別せずに、混同して、同じように結合などと訳す訳し方は、邦訳の最大の悪癖です。……アソシエートとコンビネート、この両語を私のように連合と統合などと訳さず、別の訳し方もあろう。前者を協会、協同、組合とか、後者を統一、統括、合一とか、いろいろの訳し方もあろう。あってもよいはずです。ただ、両語を同じ訳語、結合などと訳してはいけません。これでは社会主義と資本主義との区別が、わからないものになってしまうからです。(こぶし書房、二〇〇二年復刻版、一四頁)。
 すでに一九六六年にここまではっきりと認識されていたのである。「邦訳の最大の悪癖」とまで指弾されていたにもかかわらず、日本のマルクス主義者は例外なしにこの広西の先駆的批判を無視した。私は、すでに何度も書いているように、ソ連邦崩壊の後に、九二年夏に広西さん本人と『資本論の誤訳』に出会い、深い衝撃を受けて、直ちに、その意義を理解し、学ぶことができた。それゆえに、前述のような批判を不破に加えることができたにすぎない。広西さんが生きていたら、苦笑しながら「そんなものだよ」と軽くいなしたであろうことを、いくらか真面目に書いているにすぎない。
 私は、広西さんだけを称えたいわけではない。何事においても、先人の先駆的認識から虚心に、党派的色めがねを外して学ぶことがいかに大切かということを声を大にして主張したいのである。

 B ソ連邦を「社会主義」と言っていたのは誰か
 もう一つ、「社会主義論」についても、不破は同様の態度をくりかえしている。不破は「『結合された生産者たち』の問題」の次の項目を「社会主義論では旧ソ連をどう見るかが大事」と立て、「このソ連を社会主義の現実だとする見方が、社会主義のイメージをゆがめたことは、たいへん大きなものがありましたし、理論の上でも世界的にたいへん有害な影響をあたえました」と語った。さらに「ソ連の社会体制が社会主義の反対物だったという結論を明確に出しているところは、世界の共産党のあいだでもまだ少数でしょう」などと威張っている。
 これまた、私が長いあいだ主要に問題にしているところであるが、「ソ連を社会主義の現実だとする見方」を、長い期間、共産党自身が取っていたではないか。一九七七年の第一四回党大会で打ち出した「社会主義生成期」論はいったい何だったのか。当時は「目からうろこが落ちる」(上田耕一郎)と自画自賛していたこの謬論は、九四年の第二〇回党大会で撤回されお蔵入りとなったが、だからと言ってその責任が帳消しになるわけではない。
 ソ連邦はなお「社会主義」ではないと、明確に主張していたのは、トロツキーを先駆とするいわゆるトロツキストであり、そこに新左翼の存在理由の一つがあったのである。何度も引用しているが、トロツキーは一九三六年に執筆した『裏切られた革命』で、「空想の翼をどんなに勝手に広げて見ても、マルクスやエンゲルスやレーニンが描いた労働者国家の輪郭と〔ソ連邦の〕国家との間の対照のように甚だしい対照を想像することはできない」ときっぱりと批判したのである(論争社、一九六二年、五七頁)。
 しかも、後段の「ソ連の社会体制が社会主義の反対物」という認識は半分は誤りである。この小論では論及する余裕はないが、これでは、一九一七年のロシア革命とその後の社会主義をめざしたさまざまな苦闘を清算主義的に切り捨てることになるからである。だから、不破は、私が前記の論文で指摘したように、例えば「社会主義経済計算論争」の検討には決して進まないのである。
 さらに、その次の項目で「価値法則」について、「価値法則も歴史の産物であって」とつぶやいているが、北京での講演でも赤旗まつりでの講演でも今度の講義でもそれまで「価値法則」の四文字は一度も発音されたことがない。これまた、私が前記の批判で明確にすべきだと教示しておいた論点である。

 「必要に応じた分配」への疑問

 A 「あふれ出る富」の問題
 不破は、今年六月の第七回中央委員会総会で綱領改定案を提案する報告のなかで、「未来社会」についての部分で次のように語った。
 なお、つけくわえて言えば、マルクスがのべた共産主義社会での分配論にも、単純には絶対化するわけにはゆかない問題点があるように、思います。
 マルクスは、共産主義社会の低い段階では、生産物の量に制限があるから、なんらかの分配の基準がいる、それには、「労働におうじて」の分配という方式がとられるのが普通だろう、しかし、この方式では、いろいろな実態的な不公平が避けられない、こういう調子で議論をすすめます。
 そこから、この不公平を乗り越えて、各人が必要なだけの生産物を自由に受け取れるようになるためには、「協同的富のすべての源泉」から、生産物が「いっそうあふれるほど湧き出るように」なることが必要だ、生産がそこまで豊かに発展することが、高度な共産主義社会にすすむ条件の一つになる、こういう議論が、二段階論の重要な柱の一つになっています。
 しかし、すべての源泉からあふれるほどに生産物が湧き出るから、「必要におうじた」分配が可能になる、ということは、人間の欲望の総計を超えるような生産の発展を想定し、そのことを、共産主義の高度な段階の条件にする、ということです。はたして、そのような段階がありうるか、人間社会のそういう方向での発展を想定することが、未来社会論なのだろうか、ここには、私たちが考えざるをえない問題があります。
 すでに、一九世紀に生きた人びとの日常生活と現代人の日常生活をくらべるなら、生活の必要な物資の総量の違いには、ケタ違いの格差があります。しかも、人間の欲望は、今後の社会的な発展、科学や技術の発展とともに、想像を超える急成長をとげることが予想されます。その時に、簡単に、人間の欲望を超えて「あふれるほど」の生産、あるいはありあまるほどの生産を、未来社会の条件として安易に想定することは、それ自体が、未来社会論に新しい矛盾を持ち込むことになりかねません。
 長い引用になったが見てのとおりきわめて慎重な言い回しではあるが、とにかくマルクスの未来社会論、なかんずく生産力の発展論について、大きな問題があると、不破は指摘した。不破は、一九九七年に連載を開始して、翌年から三年かけて刊行した全七巻の『レーニンと「資本論」』いらい、レーニンへの批判を強調しているが、マルクスに対してはほとんど批判を口にしたことがなかった。だが、今、ようやく不破はマルクス批判に踏み出したかのようである。
 ところで、三年前に「赤旗」で、「レーニンはどこで道を踏み誤ったのか」などと刺激的な大見出しで、不破が正月からけたたましくレーニンを批判したものだから、 朝日新聞社の『アエラ』がびっくりして「不破氏の今どきレーニン批判」なる記事を書いたことがあった(二〇〇〇年一月三一日号)。取材を受けた私は、レーニンを厳しく批判する「この路線を徹底させるなら、マルクスについても、どこが間違っていたか評価しなければならなくなる。自分たちの過去の発言が、誤りだったと認める必要もある」とコメントした。このコメントの後ろで、不破は「科学の目から、マルクスが言ったことでも、今の時点で間違っていることは遠慮なく批判します」と答えた。
 答えたと言っても、もちろんこのやりとりは記事を書いた記者(森川愛彦)が構成したもので、直接の応答が成立したわけではないが、いわば間接的には対話したことになる。それから、いくら待ってもマルクスへの批判的言及は聞こえてこなかったのであるが、ついに、不破もマルクスへの批判を口にしたわけである。
 これだけのことであれば、わざわざ一文をものすることもないのであるが、ここで不破がようやく取り上げている問題については、私はすでに二四年前に、そこには大きな問題があることを明らかにしていた。私は「ソ連邦論の理論的前提と課題」と題する論文を、当時所属していた第四インターの機関紙「世界革命」に発表した(最初の著作である『スターリン主義批判の現段階』稲妻社、一九八〇年に収録)。
 われわれに問われているのは<人間と自然>のあり方なのだ……。ただ生産力が増大すれば万事解決するというわけではない。これまで、この点と関連させて問題とされてはいないようであるが、マルクスは『ドイツ・イデオロギー』で周知のように、生産の四つの契機の一つに<欲望>をあげていた。となると、人間の「豊かさ」の充足は絶対にありえなりないことにはならないのか。生産の増大にともなって欲望もまた増大するからである。この点からも、核心的問題は生産の量でなく、質であるという視点を、われわれは改めて理解しなげればならないのでないだろうか。(一八六頁)。
 この一句を、私は『社会主義とは何か』(稲妻社、一九九〇年)でも引用した。
 さらに一九九四年に私は、「『労働に応じた分配』の陥穽」(『協議型社会主義の模索』に収録)で、この通説を根本的に批判した。さらに、社会主義経済計算論争をフォローするなかで、オーストリアのクルト・ロートシルトが「成長と生産および消費の不断の拡大とは、社会主義の究極目標ではない」(C・H・フェインステーン編『社会主義・資本主義と経済成長』筑摩書房、二一〇頁)と明らかにしていたことを知った。
 この問題は、マルクス主義の限界の急所をなしているのではないか。ともかく、不破がここまで気づいたことは大きな前進である。ここまで認識したのであれば、「綱領改定案」になお記されている「物質的生産力の新たな飛躍的な発展」も問い直す必要がある。
 マルクスの『ゴータ綱領批判』での「分配」問題の理解については、さらにもう一つの問題があるのだが、不破の関心はそこには向かないようである。不破は、生産関係こそ重要という方向にのみ話を展開しているが、そのことを前提したうえで、「分配」問題も独自に重要であることを認識しなければならない。一九二〇年にミーゼスが提起した「社会主義経済計算論争」はそのことを教えていたのである。この点は、この間、しつこく主張しているので、ここでは繰り返さない(村岡到編『原典・社会主義経済計算論争』ロゴス社)。
 さらにもう一つの問題は、不破が「協同的富」と訳している、富に付けられている形容句の意味という問題があるが、この点も前に論じたことがあるので、ここでは指摘だけに留める。
 このように、一度、マルクスにも問題はなかったのかと鋭角的に問題を立てることができれば、私たちははるかに遠くまで反省を深め、マルクス主義を超えてすすむことが、社会主義を目指すものにとっての焦眉の課題であることが理解できるであろう。

 B 「労働者階級の権力」を捨てた不破
 もう一つ、不破が今度の「綱領改定案」で新しく提起している重要な問題なので、「労働者階級の権力」問題についても触れておこう。「労働者階級の権力」は従来、マルクス主義の根本教義であり、共産党の綱領でも「社会主義」の核心として位置づけられていた。
 不破は、報告のなかでこの用語を捨てたことを明らかにしたが、そのことはマルクスとはどのように関係しているのであろうか。周知のように、「労働者階級の権力」を強調したのは、「プロレタリアート独裁の承認」こそがマルクス主義者の試金石だと主張したレーニンである。だが、マルクスにも類似の認識はなかったのであろうか。言うまでもなく『共産党宣言』には「労働者革命の第一歩は、プロレタリア階級を支配階級にまで高めることである」という有名な一句が書かれていた。レーニンは『国家と革命』でこのマルクスを引用したうえで「労働者階級の権力」を強調したのである。
 マルクスはまた、『フランスにおける階級闘争』では「ブルジョアジーの転覆! 労働者階級の独裁!」を「革命的スローガン」として肯定していた(岩波文庫、六三頁)。
 したがって、不破が「労働者階級の権力」を捨てたということは、『共産党宣言』いらいのマルクスとマルクス主義の根本的教義を放棄したことを意味するはずなのである。
 『共産党宣言』にはこんな一句もあった。「近代の国家権力は、全ブルジョア階級の共同事務を処理する委員会にすぎない」(国民文庫、二九頁)。また曰く「法律、道徳、宗教は、プロレタリアートにとっては、背後にブルジョアの利益を隠しもったブルジョア的偏見である」(四一頁)。これらのいわば階級的認識もその当否が根本的に問われている。このように考えたマルクスは、もっぱら経済分析にのみ傾斜して、法(律)の諸問題を真正面から考察することができなかったのではないか。そして、不破もまた三時間にも及ぶ「報告」のなかで一度も法や法律について触れようとはしなかったのである。
 私自身について言えば、二年前から<則法革命>を提起してきたが、「労働者階級の権力」に問題があったことについては、ようやく今春になって気づき反省し改めた(オルタ・フォーラムQ編『希望のオルタナティブ』所収の拙論)。

 「『ゴータ綱領批判』の読み方」について

 不破は、今年八月一八日、党本部で「『ゴータ綱領批判』の読み方」をテーマに学習会で講義した。『前衛』十月号に資料とも七七頁を使って報告されている。不破は何を明らかにしたのか、簡単に検討しよう。

 A 「協議した計画に従って」への着目
 この小論のバランスを欠くことになるリスクを承知のうえで、まずは次の文章を紹介したい。
 最後に、目先を変えるために、共同的生産手段で労働し〔「協議した計画に従って」――フランス語版での挿入〕自分たちの多くの個人的労働力を自覚的に一つの社会的労働力として支出する自由な人々の連合体を考えてみよう。
 マルクスの古典に造詣の深い人なら、テーマが『ゴータ綱領批判』だというのに、なぜ『資本論』の引用から始まるのだ、といぶかしく思うだろう。不破がこの文章をこのような形で引用――もちろん冒頭からではない――したから、私はバランスを犠牲にしてもまず初めに重引したのである。なぜか。
 初めに断らなくてはいけないが、文中の〔 〕は私のものではなく、不破の筆である。実は、『資本論』フランス語版のこの一句については、私が一九九七年に「『計画経済』の設定は誤り」で光を当てたことがあった。私はこの一句にヒントを得て、従来の「計画経済」に代わる<協議経済>(=「協議した計画経済」)を創案した。周知のように、長いあいだ、マルクス主義陣営ではソ連邦でも日本でも『資本論』フランス語版は無視・軽視されていたのである。
 だが、不破は折角、「協議した計画に従って」を引用しながら、この一句の意味についてはまったく一言も説明しない。通常、引用文に引用者が挿入を加える場合は、後の論述でその意味を説明するのが常識である。何の説明もほどこさないのなら、わざわざ挿入する必要はない。しかも、不破は引用文中の「自覚的に」のほうは説明はしないが、くりかえし使っている。だが、実はフランス語版ではこの「自覚的に」は削除されている。マルクスは「自覚的に」を削除して、「協議した計画に従って」と書き加えたのである。だから、わざわざ「フランス語版での挿入」と書き加えるのであれば、そのフランス語版では削除されている「自覚的に」を使うのは不整合である。引用にさいして、「自覚的に」のところに〔フランス語版では削除〕と表示すべきである。
 いや、不破は、フランス語版では「自覚的に」が削除されていることを見落としている。「マルクスは、フランス語版で、一つの語句〔「協議した計画に従って」:村岡〕を追加した以外には、未来社会の分配方法についてのそこでの叙述になんの変更もくわえていません」と言い切っている。私は、ドイツ語版もフランス語版も読めないから、邦訳に頼るしかないが、江夏美千穂・上杉聰訳のフランス語版では、前記引用の冒頭の「目先を変えるために」も削除されている(法政大学出版局、五四頁)。ここは文意には関係ないから無視するとしても、本稿では引用を省いた数行先に書いてある「労働時間の社会的計画的配分は」が、フランス語版では「社会内での労働時間の配分が」と書き換えられている。「計画的」がなぜかは不明だが、落ちている。重箱の隅にこだわるつもりはないが、「なんの変更もくわえていません」と強く言われると、そうではないと一言する必要が生じる。それにしてもなぜ不破は「協議した計画に従って」をわざわざ書き加えたのであろうか。テーマが『資本論』研究であれば、言及しても不思議ではないが、まったく唐突としか言いようがない。そもそも『資本論』フランス語版はほとんど読まれていない。
 ついでながら、前記の拙稿でも指摘したように、林直道の『フランス語版資本論の研究』(大月書店)でも、この問題の一句については、まったく何の注意も払われていない。 まさか、不破が私の<協議経済>を宣伝するために書いたわけではないであろうが、この一句が『前衛』に登場したことは実に喜ばしいことである。

 B 不破講義の大意
 さて、まっとうなスタイルにもどって、不破の今回の講義を検討しよう。まずは、講義の大意を確認する。
 不破は冒頭で、この講義の「主題」は「二つ」あると説明している。「第一は『ゴータ綱領批判』をどう読むべきか」で、「第二はこれまでの国際的な“定説”……がどのようにして生まれてきたか」にある。不破は「国際的に教科書的な“定説”となっていたとらえ方をくつがえす」と意気込んでいる。
 不破は「一 未来社会論とマルクス、エンゲルス」で、近年に不破が強調している「@科学のの目」なるものを強調し、マルクスは「未来社会の詳細な青写真を決してしませんでした」と繰り返し説いている。次に、「分配論でも原則的立場は同じ――『資本論』の場合」と項目を立てて、そこで、冒頭に引用した『資本論』第一部第一篇の商品論から引用して、それを解説する。さらに「一八九〇年にエンゲルス、未来社会の分配論を論じる」の項目で、エンゲルスが『ゴータ綱領批判』の「二段階発展論」を再説しなかったことを指摘する。
 次に「A『ゴータ綱領批判』の読み方」で、『ゴータ綱領批判』が書かれた背景を簡単に説明し、丹念に原文を「逐条的に読んで」解説する。その結論は、問題の「労働に応じた分配」と「必要に応じた分配」「への発展論は、この時点〔一八七五年〕での試論とみるのが適当ではないか」というものである。他にも国家論などにも触れている。
 「二 国際的な“定説”はどのようにして形成されたか」では、『ゴータ綱領批判』についての、「『国家と革命』でのレーニンの解釈に最大の出発点があ」るという「結論」から論述を始める。不破が「試論」と見るものをレーニンは「最高の到達点だと思いこん」だと強調する。そして、「分配論中心の共産主義論は、社会主義建設の路線をゆがめた」とレーニンを批判し、さらにスターリンが「ソ連社会美化の道具だてに」使ったと明らかにする。
 「三 未来社会論での今回の綱領改定案の意義」は、わずか二頁の確認にすぎない。
 この講義の他に「資料」として、『国家と革命』の第五章が全文とマルクスのバクーニン論が納められている。
 外形に関することではあるが、『前衛』に資料として、マルクスのバクーニン論はともかくとして、『国家と革命』の第五章が全文掲載されているのには呆れた。今や『前衛』の読者は、『国家と革命』も所持していないと予想・前提される時代になったのであろうか(販売にもマイナスではないか)。党幹部が参加者である学習会でも資料として配付されたとも紹介されている。そんなことに頁をさくのなら、この学習会での質疑を一つでも紹介したほうがよいだろうが、恐らく内容ある質疑はなかったのであろう。そして、外形は内実を反映することが多いのも「唯物論的現実」である。

 C いくつかの問題点
 次にこの講義をいかに評価すべきかについて、明らかにする。
 まず全体的には、大きな問題はなく、不破がここまで明らかにしたことはよいことであり、共通認識にすべきである。私がこのように書くのは、実はすでに私は一九九四年に「『労働に応じた分配』の陥穽」で、この問題についてマルクスの誤りを切開し、<生存権>に立脚する、新しい社会主義論を提示していたからである。
 不破の説明にさらに加えれば、「労働に応じた分配」がソ連邦の官僚の特権を正当化する理論的根拠とされたことのほうが重要である。この点については、伊藤誠が指摘している(『現代の社会主義』講談社学術文庫、九〇頁。『市場経済と社会主義』平凡社、七六頁)。私が前稿で明らかにしたように、ソ連邦では、当初の「平等賃金」体系を廃棄するテコとして、この定説がスターリンによって活用されたのである。どの著作だったか失念したが、父親の貧しさを訴えた少女にたいして、「労働に応じた分配」に因るのだと恫喝する官僚の話を読んだことがある。
 「分配問題」については、抽象的なレベルの問題もさることながら、これまた現実の経験の総括と教訓が必要なのである。この問題は、すでに私は「『労働に応じた分配』の陥穽」で論じているので、ここでは不破になぜ「社会主義経済計算論争」の検討を課題にしないのか、と注文するだけにする。
 この論点に関連して、不破は「主として人間の消費生活の側面から未来をとらえるという一面性」などと批判しているが、彼自身が『レーニンと「資本論」』第一巻では「消費の領域での巨大な変化」(@三二五頁)にだけ注意を向けていたではないか。さらに、なによりもこの講義でも依然として「生産力の躍進的な発展」を未来社会論の要点にしている。「生産力の躍進的な発展」の是非が根本から問われているのである。
 ところで、不破は『国家と革命』からの引用にさいして、「記帳」「計算」「手形割引」「在庫調べ」など多義的な意味をもつ「ウチョート」というロシア語をわざわざ「記帳」に「統一することにし」たと断っている。レーニンの社会主義論を無理矢理に「記帳と統制」論に絞り込みたいからであるが、結果として「経済計算」に意識が向かわないように作為したことにもなる。
 不破は、お得意の未来社会の「青写真」反対論をしつこく論じているが、今回は「詳細な青写真」と限定句を付けているのが特徴である。『レーニンと「資本論」』では「マルクスは社会主義の青写真を描いたことは一度もなかった」と、注にレーニンを引いて強調していた(B三六九頁)が、ここでは「詳細な」と限定している。項目は「青写真主義をいましめるいくつかの文章――マルクスの場合」「同――エンゲルスの場合」と立てられている。普通、「××主義」とは、その××を中心にしたり、それだけにこだわることを意味する。だから、行き過ぎだと注意され批判されることになる。雨になるなら傘の用意が必要だから、日和を見ることは悪いことではないが、ほんの少し雨の兆候があるだけでもハイキングは中止する日和見主義は非難されるようにである。だから、「青写真」の必要性を「青写真主義」にまで逸脱させるなら、それは批判されて当然である。そもそも「意識性」にこそ「人間の類的本質」を見るマルクス(『経済学・哲学草稿』)が、未来社会の青写真をまったく否定したり、不要なものと考えるはずはないのである。問題はその描き方にあるのである。
 こんな当然のことに紙数をさくのではなく、マルクスの時代から一五〇年も経って、ロシア革命をはじめとする少なくない経験のあとで、マルクスの「青写真」とその後の現実とを総括することこそが求められているのである。理念は現実との往復によって深化する、とユーゴスラビア研究者の岩田昌征が書いていた。
 『ゴータ綱領批判』について、不破は「内部的な忠告の書だった」と強調しているが、半分は正しいが半分は誤りである。「内部的な忠告」であったことは周知と言ってよいが、「書」と言えるものだったのか。不破も著作とまでは書いていないが、数人の幹部に回覧されただけの文書だった。それよりさらに重要なことは、この文書は、「ゴータ綱領草案」への批判だったという点である。マルクスのこの批判が活かされて、ゴータ大会で決定された「綱領」ではいくつも修正された。だから、本当なら、この決定された「ゴータ綱領」への批判も必要なはずであり、「ゴータ綱領」決定後に「草案」への批判がクローズアップされるのもおかしなことである。
 また、不破は、当時のドイツの党の事情については説明しているが、「労働全収益論」について、『労働全収益権史論』の著者アントン・メンガーについてさえ言及しない。少し視野を広げれば、生存権の歴史的意義と経過についても知ることができたはずである。 最後に、不破は綱領改定の意義を説いて講義を閉じるにあたって、「大胆に明らかにしています」などを見栄を切りながら、次の四点を挙げているが、その表記の仕方がいかにも不自然である。四点とは、略して紹介すると、資本主義時代の価値あるものの継承、国民の合意の必要性、生産手段の社会化、市場経済を通じて、であるが、各項目の頭には「――」が付けられているだけで、第一、第二でも、@Aでもない。前の二つと後の二つは次元が別であり、後者を普通に叙述すれば、「第一に生産手段の社会化、第二に市場経済を通じて……」となるほかない。なぜそうしないのか。綱領改定案での叙述がそのように整理されていないこと、さらに、分かりやすく説くには「第一に生産手段の社会化、第二に市場経済を通じて……」とすべきだと私が注意した(本書  頁)からであろう。ともかく、この重要な論点・問題をめぐって、不破はまだ思案中なのである。
 このように、今回の不破の講義は、従来の定説の検討に着手して、そこから脱却しつつあることについては大きくプラスに評価できるが、なお不徹底であることを免れていない。

 このように、私たちは、不破の講演など、最近の不破の新しい理論的探究について検討を加えてきたが、さらに不破に望みたいことがある。不破は近年、「科学の目」なるものを強調しているのであるが、そうであれば、研究対象と自分だけが存在しているかのごとき姿勢はやめたほうがよい。そのあいだに存在する既出の研究から学ぼうとしないのは、不破の一貫した非科学的思考である。さらに、ぜひとも「科学の目」に「党派的色めがね」を外すことを加えてほしいと切望する。
 そして、さらに一歩、だが決定的な一歩を進める必要がある。今や、マルクス主義を超えて社会主義を基礎づけることが課題なのである。もともと、「社会主義はある特定の世界観に結びつくものではない」(グスタフ・ラートブルフ『社会主義の文化理論』みすず書房、一三二頁)のである。


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