村岡到:日本農業の再生の方向
その全体は、「<自然><農業>と<社会主義>」
第1節 <自然>と<農業>の一体性
第2節 エコロジストの問題提起――エコロジー経済学の形成
第3節 ロシア革命の限界
第4節 梅原猛の「森の思想」の意義と限界
第5節 日本農業の再生の方向
付 『資本論』と<農業>
第5節 日本農業の再生の方向 村岡到 2002.8.21
最後に、日本農業の再生の方向について提起しよう。できることなら、日本農業の再生の政策を提起したいのであるが、なおその数歩手前にたどり着いたばかりなので、「方向」とした。
A 日本農業の現状
未来を語るにせよ、出発点は現在にしかない。現状を正確に把握しなければ、確かな方向を提示することはできない。だから、日本の農業の現状について知る必要がある。だが、私には蓄積がないので、『農業白書』などからごく簡単に記すにとどまる。
まず食料自給率について、2000年版の『農業白書』では次のように書かれている。
「我が国の食料自給率は長期にわたって低下傾向で推移しており、供給熱量総合食料自給率は1965年度の73%から99年度には40%に、穀物自給率は同期間に62%から27%へといずれも大きく低下している」。
「主要先進国の供給熱量ベースでの食料自給率の推移をみると、我が国の食料自給率の動向は、欧州諸国が1970年代以降の30年間に、生産力を高め、自給率向上を実現してきたのとは対照的な動きとなっている」。「我が国の食料自給率はきわめて特徴的に推移し、現在、主要先進国のなかで最低の水準となっている」。
「このような我が国の食料自給率の推移を、国民1人当たり供給熱量の構成の変化からみると、自給品目である米の供給熱量が1965年度から99年度までの間に約4割減少した。一方、自給率の低い畜産物、油脂類の供給熱量は、同期間にそれぞれ2.6倍、2.4倍に増加し、これら2品目の全供給熱量に占める割合は13%から30%へと大きく上昇した」。
農産物の輸入は、年間約4兆円で、世界第1位で、2位のドイツの3倍であり、日本の輸入総額の約20%を占めている。。
農業人口について。農家総戸数は、1960年に606万戸が、2000年に312万戸に半減した。農家人口は、同じ時点で3441万人が1346万人に、農業就業人口は、1312万人(人口比30%)が299万人(人口比5%)に激減した。農業就業人口の60%は女性である。
しかもこの激減する人口の分布をみると、「農林業センサスにより農家人口に占める65歳以上の高齢者の割合をみると、2000年には28.6%に達しており、1965年からの35年間で18.8ポイント上昇している。総務省「住民基本台帳人口要覧」における2000年の総人口に占める65歳以上の高齢者率は17.1%であり、農家人口の高齢者率はこれを10ポイント上回る。このように農村では、全国の平均よりも速いテンポで高齢化が進行している」。60歳以上だと、1960年の20%弱が、95年には62.5%にもなる。そのうえ、少子化の顕在化も進行している。「全国的に出生率の低下に伴う少子化も顕在化しており、2000年における総人口に占める14歳以下の年少者の割合は14.7%となっているが、農家人口に占める年少者率(同じく14歳以下)の推移をみると、65年の29.0%から2000年には12.8%まで低下している」。また、近年、高校や大学を卒業した後に農業を継ぐ者は毎年約7000人しかいない。こうして、過疎の村が全国各地に広がっている。
農地の面積は、1965年の600万ヘクタールが96年には500万ヘクタールへと減少した。
農業の内実について。石油を大量に使う農業は、「4個のピーマンをつくるために牛乳瓶1本分の石油を使う施設野菜生産、大量の糞尿を排出して水を汚す大規模畜産、ヘリコプターで農薬をまきちらす水稲作まどは、どうみても環境を汚染する農業としかいいようがない」と指弾されている。
農業が国民総生産(GNP)に占める比重は現在は1.3%でアメリカやEUと同水準である。
このような日本農業の現状=惨状は、言うまでもなく日本の資本制経済の発展にともなってその結果として生み出されたものである。工業生産の飛躍的発展の背後で農業と農村は衰退・破壊されてきたのである。農業は工業と比べて生産力の発達の速度が決定的に違う=低いからである。
B 農業は保護すべき産業
資本制経済のなるがままの発展によって、農業が衰退するのであれば、当然のことながら意識的に<保護>することが必要になる。事は一国規模の問題だから、<保護>とは国家の政策によってということである。事実、どこの国でも農業はどんな形態でどの程度かは別にして、国家の政策によって「保護」されてきた。『スモール・イズ・ビューティフル』の著者E・シューマッハは、資本制経済の「全歴史を通じて、農業保護主義は例外なく支配的傾向であった」と指摘している。<農業>は「保護」される以外に存続できないからである。梶井功は、「貿易自由化を一般原則とするガット〔貿易と関税に関する一般協定〕でも、農業については、各国がそれぞれの事情において必要な農業生産分野について国境保護措置をとることを認める例外的な取りあつかいをこれまで〔1980年代後半〕してきたが、それはそうした常識をガット加盟国のいずれもが認めあってきたからである」と指摘している。つい最近では、アメリカの上院は、今後10年で1800億ドル(約23兆円)の補助金を出すことを可決し、ブッシュ大統領はこの新農業法に署名した(5月13日)。
日本で1961年に制定された旧「農業基本法」でも、第1条で「農業の自然的経済的社会的制約を補正し、他産業との生産性の格差が是正されるように農業の生産性が向上すること」を「目標」にしている。ここでは「他産業との生産性の格差」の存在が前提されている。
ところが、1999年に旧「農業基本法」に代わって「食料・農業・農村基本法」(以下では「新農基法」)が制定された際に、この第1条はまったく書き換えられてしまい、「農業の自然的経済的社会的制約」も「他産業との生産性の格差」も消え失せてしまった。農業の衰退は歯止めがかかるどころか、加速されているなかで、なぜそんなことになってしまったのであろうか。「他産業との生産性の格差」についての認識が明確ではなかったからである。
「他産業との生産性の格差」についての認識を明確にするということは何を意味するのか。それが、ここでの問題である。
旧農業基本法の第1条だけでは「農業の生産性」が工業の生産性とは太刀打ちできないほどの「格差」があることは分からない。あたかも努力さえすれば、「他産業との生産性の格差」をなくすことができるかのようである。だが、リトルリーグの子どもがいくら努力しても大リーガーに勝てるはずはない。このことについての認識をあいまいにしていることは大きな問題である。しかしともかく、「格差が是正されるように」という方向が示されていたことは、「格差」を放置するよりはよい。
だが、「格差があっても構わない」という考え方もあり得る。事実、「格差」は縮小しない。そうなると、「格差の是正」は目障りになる。しかも、「格差があっても構わない」とむき出しに言うことは避けたいという意識が働く(1960年代初めには「貧乏人は麦を食え」と放言して辞めさせられた首相もいたが)。ここから「格差」という言葉を使わないようになる。だから、新農基法では「他産業との生産性の格差」は消え失せた。つまり、「格差の是正」ではなく、「格差は在って当然」という考え方に変わったのである。そして、「格差は在って当然」を強者優位の方向にもう一歩すすめると、「劣位にあるものは不要」と考えるようになる。高成長を実現する工業だけを重視すればよく、農業は廃れてても仕方がないことになる。
この新農基法が成立する数年前、1986年ころから農産物の「自由化」の大波のなかで、「農業不要論」が大声で叫ばれた。この場合には、外国の農産物との関係で、食料は価格が安い外国産に頼ればよく、国内の農産物は不要だというのである。この「農業不要論」については、田代洋一が『日本に農業はいらないか』で詳細に批判を展開している。田代は、この本の冒頭で、竹村健一の『日本農業 大改造論』(祥伝社、1987年)を批判している。「農業不要論」が暴論であることは論をまたないが、それにたいして単に「農業は必要である」と主張するだけでよいのであろうか。必要か不要かという価値判断と「格差」の有無とはまったく次元が異なる。必要だと判断したからと言って、そこに在る「格差」はなくなるわけではない。「格差」が在るものが対等に存在するためには、劣位のものを保護する必要がある。囲碁では高段者と対等にゲームするために、下手が置き石して対局する。
一国内での工業と農業との格差と、外国の農産物との格差とは同じではないが、根本的には、<農業は保護すべきである>と考えなくてはいけない。このことを明確に認識する必要がある。この認識は、実は石渡貞雄によって1980年に、そのタイトルにも明示されて著わされた『農業保護産業論』で先駆的に主張された。長くなるが引用する。
「農業は、事実上、多大な保護助成を受け、かつそれが当然視されてきたにもかかわらず、保護産業と規定されたことはないといえよう。当然、保護産業と規定してゆくべき勢いにありながら、しかもそのすぐ手前までゆきながら、そこで立ち止まって、沈黙してしまうのである。これは、なぜかという疑問である。厚い農業への保護と、農業保護産業とは、どこがちがうのか、という疑問である。これが、第一。
農業保護産業への検討の第二の理由は、農業政策上、重要な意味があるからだ。保護されている事実が、あるいはどの程度保護されているかどうかが重要なので、それにどう名付けるかるかはどうでもよい、といえるかもしれな。だが、そうではない。保護されている事実の意味に相違がおこるし、そこが重要なのだ。もし厚く保護されていながら、それが保護産業でないなら、それは、お情けによるもの=慈恵的なものであり、屈辱的なものである。受ける立場を悪いことをしているごとき後ろめたい気持にし、卑屈にし、遠慮勝ちにする一方、他方与える側の立易を高圧的にし、可及的に節約させようとするし、保護を不安定なものとする。これに対し、保護が保護産業のゆえに行なわれているのであれば、かかる負い目とは無縁であるばかりか、当然なこととなるのだ。現状では、農業保護は無意識的・無自覚的に体制化されているし・きているといえるが、農業保護を意識的・自覚的に体制化できるか否かは、実に農業を保護産業と規定できるか否かにかかっていると言えるのである」。
石渡によれば、「『保護産業』というテクニカル・タームはまだないようである」。だからこれは彼の「造語」である。石渡は<保護産業>を次のように「規定」している。「なんらかの意味でその正常な存続が必要であるにもかかわらず、資本主義的市場機構・経済にうだねておくかぎり極めて不利であったり、不安定・動揺的となり……、国民経済にとって保護を適切ないし不可欠とする産業ないしその本性をもっている産業である」。
先に、1999年の「新農基法」の第1条について問題にしたが、その大きな後退は、まさに<農業は保護産業である>という認識が不明確で確立していなかったから生じたのである。共産党がこの点を指摘できなかったのも同じ理由である。国会には反面教師ばかりしかいないのは残念であるが、そのことは逆に、<農業は保護産業である>という認識がいかに決定的に重要であるかを教えている。国家財政が逼迫してきたから、保護政策の財源を削減しようなどと考えてはいけない。農業保護政策の財源は、社会が社会として存続してゆくために不可欠に必要な経費として確保されなければならないのである。自衛隊の予算の削減と聞いた瞬間に反発する自民党の防衛族議員などは、平気で農業破壊を加速させているが、彼らには<愛郷心>は無いか、あるいは歪んでいるにすぎない。
石渡が1980年に明確に提起していたにもかかわらず、「農業保護産業」論は農業関連の著作ではほとんど取り上げられていない。なぜ「農業保護産業」論は広がらなかったのであろうか。社会認識における<真理>の公認がいかに困難かの一例とも言えるが、その最奥の理由は、石渡が明確に<社会主義を志向>していたからであろう。正しくとも(もしかすると正しいが故かもしれないが)棘――21世紀の棘はいぜんとして<社会主義>である――ある主張は、第2節でみたエコロジー経済学のように、無視され排除されることが多い。
なお、「農業保護産業」よりも<農業=保護産業>としたほうが分かりやすいので、以後はそう表記する。
農業を保護する方策はさまざまである。すぐに思い浮かぶのは、米価のように農産物を国家が高い価格で買い上げるやり方である。農作業に必要な生産手段の購入にさいして補助金を支給する方法や環境を整備する方法もある。さらに税制上で農家に優遇措置を取る方法もある。すでにさまざまな政策が執行されているが、ここでは省略する。日本では実施されたことはないであろうが、税制上の優遇措置よりも徹底した方法としては、農家を生活保障することも可能である(フランスでは国境地帯の過疎の地域に住む農家にたいして生活保障していると聞いたことがある。国境を守る役割を果たしていることがその根拠だという)。
C 日本農業の当面の課題
最後に、衰退しつつある日本農業をどのようにして再興させたらよいのか、その方向についてだけ簡単に提起しておきたい。
第1の課題は、食料自給率を現在の40%からまずは50%まで増やすことである。この点は前記の共産党の要求にも掲げられている(農水省の目標は45%)。
第2に、過疎化している農村を再興するための<農業復興隊>を組織することである。そんなものは空論にすぎないと反発する人には、実はすでに実例があることを紹介することができる。宮崎県諸塚村で、1990年に村長の発案によって、「諸塚村国土保全森林作業青年隊」が創られた。1965年には8000人だったが、90年には3000人に激減した過疎の村で、数十人の規模であるが、生活費の不足分を村の予算などによって負担している
このほかにも各地で「脱サラリーマン」の一つの形態として過疎の村に移住する家族が現れている。受け入れる自治体ではさまざまに補助しているし、農水省でも「農業を始めたい人を応援します」として「就農支援資金」を公募しているが、もっと本格的に拡大強化する必要がある。税制上の優遇はもちろん、さらに進んで移住した家族への特別の生活保障を図ることが重要である。農家戸数は、2000年には約312万戸まで激減しているが、仮に50万戸増やすとすれば1戸5人家族(250万人)に年間100万円保障すると5000億円必要である。
第3に、農家全体への生活保障を図ることが必要である。例えば、農家1戸当たり年間100万円保障すると、350万戸として、3.5兆円かかる(家族の人員の多少による保障金額の差など具体的なレベルの話はここでは省略する)。農林水産関係予算とほぼ同額であり、この程度ならけっして今日の資本制経済のもとでも実現できないわけではない(28万人の隊員を擁する自衛隊の予算は年間約5兆円である)。日本の食料と郷土を守るために、この程度の負担を許容できないはずはない。
現在、日本はアメリカの駐留軍に6619億円も支払っているという。この金額を転用したらどうなるか、一ノ瀬正輝が試算している。「一定のルールを定めて、農業希望家族に対して、一世帯当り300万円を補助して、田舎で自給自足してくれれば、約22万1000家族に充当することが可能である。〔そうすれば〕……情報や通信の外に交通アクセスも地方での人材も豊富になる」。
第4に、農業のやり方としては<有機農業>を押し進める必要がある。この点については不勉強なので、日本の風土・気候や農業の歴史とあわせて他日を期すことにしたい。郷土と自然保護という点からも大きな意味がある。
農業をめぐる国際的動向や食料安全保障の問題についても省略する。
第2、第3の方策についてだけ少し説明しよう。
これらの政策の根拠は、前項で明らかにした<農業=保護産業>論にある。この農民への生活保障によって、@農家の経営が安定的となるだけでなく、A農産物価格を低廉にすることが可能となる。これまでは農家の収入源は、自らの農産物の売り上げだけであったが、この制度が実現すれば、農産物の売り上げの有無にかかわらず年間100万円は保障されるから、その分だけ農産物の売り上げは低くてもよいことになる。別言すれば、農産物の価格はその分だけ下がる(単純に計算して20から30%か)。
また、副産物ではあるが、このことによって、WTO(世界貿易機関)での農産物価格をめぐる国際的な争いにまったく新しい局面を開くことになる。高い関税障壁によって、安価な外国農産物の流入を阻まなくても、自国の農産物の価格が安価なのだから、高い関税をかける必要はなくなる。逆に、農業を高く評価する国家の優位性として、安価な農産物によって輸出が増えるだろう(農産物の貿易には節度ある姿勢が望まれるが)。
また、農民への生活保障制度が確立されることは、他の社会的弱者への生活保障制度の確立にも連動するし、さらには、私たちが<連帯社会主義>の内実として提起している<生活カード制>へと、社会全体の意識を変革してゆくテコにもなるであろう。
何よりも大切なことは、このような農業への新しいアプローチを、無駄なことに金をかけているなどと思うのではなく、社会全体のための積極的な行動として社会が全体として大きくプラスに評価して推奨する雰囲気を創り出すことである。<農業の保護>をプラスに評価するためには、新しい価値基準が必要である。利潤や金銭第一の市場経済の論理と倫理を打破して、<平等と連帯>を基軸とする<社会的・道徳的評価>を創りだすことが課題なのである。
私は、この間、<連帯社会主義>を提示して、その経済については<協議経済>として明らかにしてきた。そこでの核心こそ、<生得の権理>としての<生活カード制>と、<平等と連帯>を基軸とする<社会的・道徳的評価>の創造であった。本稿の冒頭で、私たちは、「<協議経済>の構想は<エコロジー問題>にとってまったく新しい方向を切り開くテコとなった」と示唆していたとおりである。
人間の社会が存続するためには、<農業>が社会の土台として大切にされ、自然を愛する心が醸成されなければならない。幸いにも郷土の67%が森林である郷に住む私たちは、「夢はいまもめぐりて」を唇に、<豊かな森の郷を創ろう!>を21世紀の日本の合い言葉にしようではないか。
<注>
1)農林水産省『農業白書』2000年版、 頁。西暦に直した。
2)堀込純一「日本農業の全般的衰退とサバイバル競争」『QUEST』第19号=2002年、参照。
3)安達生恒『岐路に立つ日本農業』有斐閣、1993年、16頁。
4)E・シューマッハ『人間復興の経済』佑学社、1976年、84頁。
5)全国農業協同組合中央会編『現代日本農業論』筑波書房、1988年、3頁。
6)この新農基法が国会で審議された時に、日本共産党は、「食料自給率のいっそうの低下と、日本農業の崩壊に拍車をかけることは必至です」と結論し、「重大な問題点」として「食料自給率の引き上げ」や「食料供給における輸入依存」など5点をあげたが、第1条の書き換えについては問題にしていない(「新農業基本法案にたいする日本共産党の修正案」1999年)。彼らの「修正提案要綱骨子」でも一言もこの点には触れていない(もっとも、私自身は恥ずかしいことに3年前には「新農基法」が新しくできたことさえ知らなかった)。
6)田代洋一『日本に農業はいらないか』大月書店、1987年、7頁。
7)石渡貞雄『農業保護産業論』農文協、1980年、16頁。この区別は、私が<生活カード制>を提起したさいに、マルクスの『ゴータ綱領批判』での「控除」と<生得の権理>との相違として説明したのとまったく同じ意味である(「<生存権>と<生産関係の変革>」『カオスとロゴス』第11号=1998年、122頁)。9頁。
8)村岡到「<多様性>と<自由><平等>」(「稲妻」第343号=2002年8月)で初めて提起した。この言葉は、『広辞苑』にも載ってはいないので、私の造語だと思っていたら、教育改革国民会議を初め広く使われていることを知った。
9)石渡貞雄「唯物史観の『公式化』と現代資本主義」『専修大学社会科学研究所報』第406号=1997年、参照。「Z 社会主義のビジョン」では、経済における「競争」の内実が質的に転換すると提起している(24頁)が、それは、私が『協議型社会主義の模索』で提起した<誇競>=誇りをめぐる競争とまったく同じである(110頁)。
10)安達生恒『岐路に立つ日本農業』236頁以下、参照。
11)一ノ瀬正輝、ホームページから。数字の根拠が不明だが、考え方の紹介としてそのまま引用した。「毎日新聞」によると、「2000年度予算案では、前年度よりわずかに減ったものの、それでも2603億円が計上されている。ほかにも日本政府は、基地周辺対策費など約1900億円を負担している。これらを合わせると在日米軍全体で計約4500億円、米軍人1人当たり約1000万円を毎年、払っている計算になる」(2000年1月17日)。
TOPへ戻る