村岡到:「社会」を規定する意味――経済と政治との明別が導く新地平
2003.1.14 400字×36枚
「真理に一歩近づいている観念や方法を受け入れる場合の最大の障害は、人間の精神の中に、すでに慣れてしまっている別の不完全な観念や方法が存在していること☆である」(ガエターノ・モスカ『支配する階級』1973年、ダイヤモンド社、460頁。
注 ☆のところに「だから」と書いてあるが、ない方がよいだろう。
「ある教義が、ある社会のある歴史的瞬間にぴったりするためには、その教義はとりわけその社会のその瞬間に人間精神が到達している成熟の度合いに合致することが必要である」185頁。だから、先駆的認識は孤立することが多い。
先日、テレビを観ていたらこんなことを言っている人がいた。「日本は資本主義という名の社会主義で、中国は社会主義という名の資本主義だと言う人もいます」と。「視点」なるNHKの解説番組である。自分の考えとしてではなく、「と言う人もいます」とぼかしているのがこのいわば官許の番組らしいところであるが、いったいこんな話を聞いて何になるのであろうか。ここでは「資本主義」も「社会主義」も気分的に発せられているだけで、その意味を幾分かでも明確にする意志ははじめからない。経済の規制緩和の大合唱のなかでは「日本は金融社会主義」だという俗説もある。計画性や社会的規制が「社会主義」の名の下に非難されるのが流行りらしい。「ダメなもの」の代わりに「社会主義」と言っているだけである。こうして、言葉の本来の意味は不明となり、そのことは「社会主義」だけに限られるわけではなく、文章や会話全体があいまいとなる。いつの頃だったか忘れたが、「ファジー」なる言葉がもてはやされたことがあった。
私はこのような風潮にはけっして与することはできない。言葉はなるべく正確に使うように努力することが大切である。言葉は、知らない同士の人間や対立する人間たちの意思疎通を図り、相互理解を助ける貴重な手段の一つだからである。
言語論に踏み込もうというのではないが、本稿の主題についての理解を助ける意味もあるので、S・I・ハヤカワが『思考と行動における言語』の冒頭に書いている「意味論的寓話」を紹介したい。不況によって一家の主人が100人も解雇された、二つの社会の物語である。一方のA社会では、失業者の救済のための手当を、それを受け取ることは不面目だと思わせるような仕方で与えた。もう片方のB社会では、「保険の原理」を導入して、失業者がその前に働いていた仕事を不幸に備えての前払い金の一種と考えて、手当を「請求権」の行使として実施した。結果はどうなったであろうか。A社会では受給者は「さげすみ」に萎縮したり新たな喧嘩が引き起こされた。B社会では受給者は「勇気と安心」を得た。つまり、同じ救済手当がその位置づけの違いによって、人々のなかに全く異なる反応を引き起こしたのである。お恵みと権理との相違である。その位置づけの相違は当然ながらこの救済手段の名称の相違としても表現されるはずである。<生存権>を基軸に据えている私たちが、いずれを選択しなければならないかは説明するまでもない。言葉にはこれだけの役割があるのである(なお、この寓話でもう一つ肝心なことは、ハヤカワは言及していないが、失業者はのたれ死にしてしまえという選択は除外されている点である)。
この寓話が教えてくれるように、私たちは正しい――その真義は相互理解にとってプラスに働くということである――言葉によってこそ、対立を緩和し、問題を解決してゆくことができる。「中間に真理あり」なる格言の有効性(<揚棄>する)もないわけではないが、同じ平面でAとB、白と黒の中間のグレーがよいということではないし、あいまいにすることとは違う。逆に、原理的に深く考察し、言葉を正確に使うことが必要となる。
私がもっぱら考えていることは、社会主義の諸問題であり、なかなかその枠を超えられない。この枠は恐らく、孫悟空を乗せた、釈迦の手のひらよりも広く、多くの難問がその解答を待っているからである。冒頭にただあいまいなだけの評論家の一言をあげたが、そこにも現実が反映していないわけではない。中国は何と呼ぶことが適切なのか、が問われている(多くの場合に、「資本主義か社会主義か」と単純に問われている)。この点があいまいになっているので、前記のようなあいまいな話が広がっているのである。中国だけではない。朝鮮民主主義人民共和国は何なのか、崩壊したソ連邦は何だったのか、ベトナムは、キューバは、いくつもの問いを連続的に発することができる。さまざまな説と用語が飛び交っていて、定説はなお形成されていない(ソ連邦の政治システムについては、続稿「<党主政>の概念とその有効性」参照)。
だが、どういう社会あるいは国家なのかを明確に認識することなしに、そこで生起している政治的動向を理解したり、国家的対立を解決することは難しい。もちろん、吉田松陰が獄に在った時に、そこにいた女性が話したように、月や花の定義は分からなくても、月や花の美しさを実感することはできるから、社会科学の認識が薄くても交流はできるし、人間的信頼を創り出すこともできる。だから、誰でもインターネットで交信したり、海外旅行を楽しんでいる。
後にも触れるように、人間は長いあいだ、自分が生きている社会が何かと定義しなくても生活してきた。とはいえ、今日ではそれだけでは人類は生存していけなくなった。社会が複雑になり、同時に多くの異なる社会が緊密に関連するようになったからである。飛脚が活躍していた江戸時代の農民ならとなりの村くらいしか関心はなかったであろう。
本稿では、「資本主義」だとか「社会主義」だとか規定する以前の問題として、<社会の発見>の意義を確認し、なぜ、ある社会を「○○」と規定するのか、そしてその基準は何なのかについて原理的に考察してみたい。そのことを通して、従来の常識を超える歴史観を模索したいと考える。
1 <社会の発見>と諸規定
小学校の高学年になれば「社会科」の授業はあるし、そこまでいかなくても、私たちは子どものころから「社会」という言葉に接している。しかし、「社会」という言葉が使われるようになったのは、それほど昔からではない。society
の訳語として、「東京日日新聞」の社長兼主筆の福地源一郎が作ったと言われているが、1875年=明治8年のことである。それまでは「世間」とか「世の中」と言っていた。
世の中で起きるさまざまな出来事を「社会の問題」として認識するようになったのは、ヨーロッパにおいてもそれほど大昔からではない。福田徳三は1922年(大正11年)に書いた「社会政策序論」の「第1章」に「『社会』の発見」を置き、その冒頭で「社会の発見」を「人類の発見の最大の一つに数えるべきもの」と強調している。11頁。この論文を巻頭に配した『生存権の社会政策』のはじめに彼の弟子の板垣與一が解説を書いていて、そこには分かりやすく次のように確認されている。「近代における人類の〔理論上の〕三大発見は、15、16世紀にはじまる『個人の発見』と『国家の発見』、そして18世紀の末葉から19世紀にかけての『社会の発見』これである」。周知のように、ルネサンスと宗教改革を経て、キリスト教の神から解放されつつあったヨーロッパの人びとは、「個人」を意識するようになった。イタリアのルネサンスのなかで、マキャヴェリが、近代政治学の出発点となった『君主論』を著わしたのが1532年であり、国家論をテーマにしたホッブスの『レヴァイアサン』は1651年に著わされ、フランス革命を思想的に準備した、ルソーの『社会契約論』は1762年に刊行された。
福田によれば、「『社会』の存在を見出さない前といえども、社会は厳として存していた。したがってその存在を認めることなくしては、解釈しえられざる現象がさまざまあったが、実際生活の上においても、学問上においても、社会を認めないがために、その解釈に苦しんでおった」。「個人と対立するものはみなこれを『国家』に組み入れることが、いずれの国においても普通であった」。<社会の発見>は、この隘路を突破する決定的な水路を切り開いたのである。
<社会>とは何か。『社会学小辞典』から引いておこう。<社会>とは「多義的な概念であって、抽象的には人間結合ないし生活の共同一般を、具体的にはさまざまな集団生活や包括的な全体社会を、理念的には国家と対立し人類大の広がりをもつ市民社会を、歴史的には一定の発展段階にある社会体制ないしは社会構成体を意味する」と説明されている。本稿で問題としているのは、最後の歴史的な意味における「社会」である。
これまで、<社会>はさまざまに特徴づけられ、その視点に応じてさまざまな「××社会」が唱えられてきた。F・テンニースは「共同社会」と「利益社会」とを対比した(後述)。「血縁社会」「地縁社会」という対比もある。「未開社会」「文明社会」という区分もあるし、「農耕社会」「工業社会」「高度情報社会」と見る人もいる。歴史的には「古代社会」「中世社会」「近世社会」「現代社会」と区分することも多い。そのほかにも「学歴社会」「高齢化社会」「奴隷包摂社会」などというのもあるが、それぞれに一つの特徴を強調した用語である。
だが、なんと言っても大きな影響を広げてきたのは、マルクスの唯物史観による「原始共産制、奴隷制、封建制、資本主義、共産主義(社会主義)」という把握であろう。唯物史観を肯定・受容する者はもちろん、反対する人でもこの区分と用語は踏襲することが多い。したがって、唯物史観について少し触れておく必要がある。
唯物史観の意義については、その当時はマルクス主義陣営からは「反動」とまで非難されていた法学者の尾高朝雄の評価を聞くのがよい。尾高は1949年に名著『法の究極に在るもの』で次のように書いた。
「唯物史観は、それが法や政治のようなイデオロギー的な性格をもつ社会組織の『上部構造』と、財貨の生産力を主体とするその『下部構造』との緊密な『相互作用』を認めている点では、おそらく何人も異存のない真理をとらえたものといってよい。そればかりでなく、観念論的な歴史観がとかくに閑却しがちであった、社会経済の法や政治の上に及ぼす大きな影響力をはじめて主題に取り上げた点で、社会の動態観の上に革新的な転換をもたらしたものといわなければならない」。194頁。
「生産力は確かに人間の社会生活を、したがって一切の法や政治を『規定』している。それは、油絵具やカンバスの生産がレンブラントの名画を規定しているといい得るのと同じ意味で真実である。けれども、唯物史観はさような愚にもつかない自明の真実をとくに主張したわけでもなく……唯物史観の重点は、歴史の『動態観』たるところにある」。195頁。
「意識が生活を規定するのではなく、生活が意識を規定する」28頁。は、唯物史観の重要な要点であるが、そのことだけならそれほど他と隔絶した特別の見方というわけではない。人間の周りの環境を<風土>として明らかにした和辻哲郎は、けっしてマルクス主義者ではないが、主著『風土』で「暑い国の人にはサンタ・クローズを作り上げることはできない」217頁と説明している。どこかでトロツキーが書いていたように、物事を深く認識した人は巧みなたとえを用いることができる
また、「盛者必衰」というだけなら、13世紀の『平家物語』が仏教の因果観に基づいて描いているが、マルクスが明らかにしたのはその変化の動力が何かについてであり、その動力学を『資本論』の経済学として打ち立てたところに偉大さがある。マルクスは当時の社会の基底をなすものを「資本制経済」と捉え、そのメカニズムを「労働力の商品化」「価値法則」「利潤」をキーワードにして解明した。「自己増殖する価値」としての<資本>を揚棄することを、マルクスは核心的課題として設定した。さらに、前記の「原始共産制、奴隷制、封建制、資本主義、共産主義(社会主義)」という発展を「歴史の必然性」として強調した。
私はすでに「唯物史観」について、この「歴史の必然性」問題に焦点を当てて批判的に検討したが、「資本制経済」の解明については、農業の欠落という大きな問題は残っているが、依然としてマルクスを踏襲すべきだと確信している。そのうえで、<社会>を包括的に把握するというより大きな課題について、マルクスの認識には重大な弱点あるいは欠落があったのではないかと考えている。この問題意識を根底にして、次の問題に進もう。
2 なぜ「社会」を規定するのか
先に、「社会」についてのさまざまな規定を紹介したが、そもそも、なぜそのような規定を与えることになったのであろうか。別言すれば、人間は、なぜ「社会」をいかなるものかと捉えるかを課題にするのであろうか。
最初に、「共同社会」と「利益社会」として対比したテンニースを例にしてみよう。カント主義に社会主義を結びつける倫理派社会主義者でもあった、社会学の創始者テンニースは、マルクスの『資本論』刊行後20年の1887年に主著『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』を著わした。この二つのそれまでは日常語として「気ままに混同されて」39頁いた言葉を、テンニースは、明確な方法論的意識に踏まえて、社会を形成する二つの対比的な原理を浮かび上がらせる形で彫琢した。ここでその内容を紹介する余裕はないが、テンニースがこの対比によって何を明らかにしようとしたのかについてだけ確認しておく必要がある。
第1篇の冒頭の「主題」は、「人間の意志は、たがいにさまざまな仕方で関係している」と書き出され、そのうちの「もっぱら相互的肯定の関係のみが研究対象として考察される。この関係は、多様性における統一性、統一性における多様性を表わしている」と確認している39頁。第2篇の冒頭では「本論の全内容は、人間意志の概念を正しく把握することに注がれる」と繰り返している。110頁。「付録」の手前の最後の頁では、「契約と誓約」を「人間文化の生成・流転という重要問題解決の鍵」として、その重要性に注意を喚起している。215頁。「契約」についてはその直前で「人間の意識性における契約の『拘束力』」とも説明している。
<多様性>や<契約>の重要性についても注意を喚起したかったので、テンニースを少し紹介したのであるが、ここで何よりも大切なことは、社会をいかに捉えるかの背後には、社会を形成・編成する仕組み・原理は何かを探る目的があるということである。
第2に、ある社会がどのようにして形成されるのか、別言すればその社会の統合の原理は何かという問題は、その社会を統合し統治していく立場に立つ者にとって、欠かすことができない重要な問題となる。部族や村落や一地方の狭い枠を超えて、より大きな社会を形成するためには、何かの旗印が必要である。自分が制圧する隣の社会よりは、自分の社会のほうが一段上の上等な原理を備えているとして立ち現れることが、隣の社会や国家を制圧するさいには求められる。単に武力=暴力だけで制圧したのではない。
古代ギリシアは周辺の民族を「バルバロイ」=野蛮な者とさげすんで支配地域を拡大した。日本では9世紀の平安時代から征夷大将軍の名が示すように、夷狄=野蛮な異民族を征伐することで支配地域が拡大され、16世紀半ばに織田信長は「天下布武」を自らの印章に印した(『君主論』の25年後!)。明治革命(維新)の直後には、天皇に従う臣民はいたが、「市民」の意識はなく、「民権」も奇異なものと思われていた。戦前の日本では「神国日本」などと叫んでいた。20世紀になってもこの程度の合い言葉で用が足りていたところに、日本の特徴がある。
<社会の発見>に踏まえた社会認識の進歩は、夷狄・野蛮を征伐するという水準を超えて、1789年のフランス革命においてついに<自由・平等・友愛>をシンボルにするところまで到達し、<法学>は遙かに紀元前から発達していたが、加えて経済学や社会学の発達を促し、社会についての認識は格段に深化した。その発達に応じて、社会の形成・編成原理や構造はどうなっているのかが、大きな問題として浮上した。
現体制の擁護者だけがこの問題に関心を寄せたわけではない。批判的な立場に立つ人間にとっても大いに意味のある課題であった。
第3に、ある社会をいかなる社会として把握するのか、その目的は変革対象の明確化のためでもある。眼前にあるものをただ俺はいやだ、反対すると叫ぶだけでは、小さな範囲――俺の家では犬は飼わないという程度のことであれば実現することもあるだろうが、事が社会的性格を有している場合にはそうはいかない。どんな方法を取るにせよ、多くの人々の合意・協力が必要になる。この合意・協力、一言でいえば<連帯>を創り出すためには、そこで変革しようとしているものが何なのかはっきりさせる必要がある。まさに、そのゆえにこそ、ある社会をいかなる社会として把握するのかが、最重要な課題として意識されるようになるのである。
逆に言うと、今日、この問題があまり関心を引いていないのは、社会を変革する運動や問題意識が衰退しているからである。後年、ナチスに追われたカール・マンハイムが『イデオロギーとユートピア』の結びで明らかにしているように、「ユートピアのさまざまな形態を放棄するにつれて、歴史を創ろうとする意志を失い、それとともに歴史を洞察する力をなくしてしまう」1968年、未来社、282頁。「歴史」を「社会」に置き換えて文句を言う人はいないだろう。
マルクスが『資本論』で「近代社会の運動法則」を解明しようとしたのも、『経済学批判序言』で唯物史観のいわゆる「定式」を整理したのも、そのためである。
したがって、例えば、ソ連邦が何であったのかについて解答を提出できないようでは、いくら唯物史観の「定式」は正しいとか、その正しい解釈はこうであるとか主張してもほとんど意味はない。魚釣りにいかないのに、釣り竿だけ磨く艶布巾にも役割はあるのかもしれないが、やはり海でも川でも実際に釣りに行くほうがよいだろう。
ソ連邦が何であったのかという問題は、21世紀に社会の変革をまじめに考える人間にとっては避けて通ることができない重大な問題である。歴史の経験に学ばない理論や運動が多数の人びとの支持と共感を得ることはない。社会変革の気運が高まれば、逆に変革を阻止しようとする者は、あのようにまた失敗するのではないか、あるいはソ連邦崩壊の経験は何だったのか、という声をあげるからである。
なお、時間を軸にした場合には、<情勢>はどう動いているのかが問題となる。
第4に、変革対象を明確にするということは同時に、目指すべき社会は何なのかを明らかにすることにも通じている。社会を根本から変革するとは、その社会の形成・編成の原理を、別の、それとは対極的原理によって取って変えることを意味している。その対極的原理によって社会はどのように変わるのか。政治システムはどうなり、経済システムはいかに運営されるのか。その新しい変革のイメージに現実性が濃くあり、その希望に多くの人々が共感し共鳴し広く連帯が形成されるときに、社会は変革される。
人間の<連帯性>を重視する私たちは、マルクスのように「意識性」だけに過大な意義を見出す立場には立っていないが、「意識性」を否定したり、過小評価することも誤りである。日本共産党の不破哲三議長に言わせると、マルクスは未来社会の「青写真」を描かなかった点でこそ評価されるべきだということになるらしいが、マルクスが聞いたら、ちょっと待ってくれと言うだろう。何をどこまで描けるかが問題なのである。
もう一つ大切なことは、この変革のやり方は、変革対象の原理が何かによって異なるという点である。「奴隷制」の崩壊と「封建制」からの移行と「資本制社会」の<変革>とは、その内実も形態も同じではない。私には今、それらを適切に区別して表現することはできないが、目的が手段や形態を規定するのである。魚を捕るためには網が必要となり、鳥を得るためには鉄砲がよい。私は、2年前に発表した「『唯物史観』の根本的検討」で、「階級闘争の形態変化」に注意を喚起して、「A→B→C→DではなくてA→B⇒C…Dと認識することが重要なのである」と提起した。66頁。
このように、<社会>をいかなるものとして捉えるのか、規定するのかという問題は、ゆるがせにできない重要な問題なのである。森羅万象さまざまな出来事に直面する人間は、その関心や問題意識にしたがってさまざまな問題を研究課題に設定することができる。古墳の探索、江戸時代の風俗の研究、……どれもみなそれぞれに意味があるであろう。そこに優劣を序列づけることはないであろうが、<社会>をいかなるものとして捉えるのかという問題は、けっして軽いものではない。この問題は、人間の平等を求めるユートピア追求の核心に位置する課題なのである。
3 <社会>を規定する基準
最後に、<社会>を規定する基準は何かについて検討しよう。
前記の「共同社会」「利益社会」や「血縁社会」「地縁社会」は、社会の編成原理に着目した区分であり、「未開社会」「文明社会」は文明の到達水準を基準にしている。「農耕社会」「工業社会」「高度情報社会」は、その上にさらに主要な産業が何かを問題にしている。「古代社会」「中世社会」「近世社会」「現代社会」は、時間の流れによる区分であって内容については問題にしていない。マルクスの唯物史観による「原始共産制、奴隷制、封建制、資本主義、共産主義(社会主義)」は、生産関係という視点を設定して、社会を区分した。マルクス主義を避ける人は「封建制」の代わりに「身分制社会」という場合もある。
唯物史観については後でもう一度、検討するが、これらのいずれの区分においても共通していることがある。分析対象が「社会」であることは前提だから、それ以外にである。区分の基準が一つであることが、それである。これまで、誰もこの点に疑問は発しなかったようであるが、言うまでもなく「社会」は発展する。発展するから、その異同を認識しようとするわけである。そうすると、「社会」は発展するのに、その発展を捉えようとする基準は一つだけでよいのであろうか。その基準自体も変化・発展すると考えたほうが合理的ではないであろうか。
喩えをあげれば、鳥がまだ卵の段階なら、卵の大きさや重さを量るしかないが、孵化すれば鳴き声や食欲によってもその成長をはかることができるようになる。社会を認識するさいに、どの時代にも同じ一つの基準が通用すると考えるのは、孵化したあとも大きさや重さだけで鳥の成長が理解できると思うのと同じである。
私には人類の歴史を広く鳥瞰する能力はないが、誰もが知っているように、古代には経済と政治や宗教とが未分化であった。「祭政一致」という言葉がそのことを明らかにしている。経済と政治が未分化でより一体化している歴史的段階ならば、奴隷制とか封建制とかの把握で十分なのかもしれない――私はその問題は勉強していないので、確言はできない。ただはっきりしていることは、近代以降の社会を認識するためには、経済と政治を明確に区別して、かつ直対応一体型としてではなく把握する必要がある。
周知のように、産業革命をテコにして「資本制経済」が発達することによって、経済と政治が分化するようになった。封建制のもとでは、身分的拘束に基づいて、経済と政治はより一体化していた。だから、政治的権力と経済上の実力とは領主とか君主に集中していた。君主制である。この経済と政治の分化が深化することを基礎として、「経済の法則」を認識することができるようになり、経済学が成立した。経済学の発達についておさらいしている余裕はないが、マルクスが『資本論』で資本制経済の構造を体系的に解明できた客観的基礎はそこにある。ついでながら、そのことを宇野弘蔵は「資本主義の純粋化傾向」とか「方法の模写」として際だたせて強調した。
他方、政治の領域では、近代になると、中世の身分制的な紐帯が希薄となり、「市民社会」の成立として広く説かれているように、<法の下での人間の平等>を原理とする<人権>が形成・確立され、政治システムとしては<民主政>が成立した。少なくとも原理の上ではそうなったのである。あるいは、そのように変化したことをもって、中世から近代への移行が実現したと考えられ、表現されている。<民主政>を別の視点から捉えれば、「人治」から「法治」への転換として理解される。
したがって、近代以降の社会を捉えるためには、経済システムはどうなっていて、政治システムはいかなるものかを別々に認識しなくてはならない。両者の関連はそのうえでの問題である。
ここで、唯物史観について、前節の論点とは別に、ここでの問題に即して少し検討してみよう。マルクスは唯物史観の「定式」において、「原始共産制、奴隷制、封建制、資本主義、共産主義(社会主義)」という把握を示したが、そこでは、経済と政治との関係について、土台あるいは下部構造と上部構造というように、1対1対応的に土台A、B、Cには上部構造イ、ロ、ハが対応・直結すると考えられている。逆の関係・作用についても「相互作用」を認めはしたが、土台A、B、Cには上部構造イ、ロ、ハが対応という点は不動なのである。相互作用はCとハの間で起きると考えられている。資本制経済では<資本と賃労働>という階級関係が貫徹しているがゆえに、その上にそびえ立つ上部構造においても、資本家階級が賃労働者階級を支配している、つまり「ブルジョアジー独裁」が貫徹していると考えた。だから、社会認識においては、基本的には経済だけに重点を置くことになる。政治はその従属関数なのである。このような認識が、資本制社会の変革についてどのような歪みをもたらしたかについては、別稿「マルクスの革命論の致命的欠陥」で明らかにするが、ここではとにかく、政治についての独自の分析が手薄になってしまったこと、きつく言えば、政治分析が欠落したことだけを確認しておきたい。だから、『マルクス・カテゴリー事典』の「民主主義」の項目で、加藤哲郎は「マルクスには……民主主義についての体系的言説はない」と確認している。丸山真男のいう「基底体制還元主義」という批判用語はこの点を指摘したものであるが、単に欠点を指摘しただけで、それがいかなる意味をもっていたのか、その欠点を克服するためにはどうしたらよいのかについては、丸山は考え及ばない。
だが、現実には、近代の社会では、経済と政治との関係は<分化>したのであり、マルクスが考えたように単純に対応・直結していない。繰り返すように、政治の領域・次元では<法の下での人間の平等>を基軸に据える<民主政>が実現したのである。それを「ブルジョア民主主義」などと捉えるのは錯覚だった。類推には多少ズレはあるが、冒頭の寓話を思い出せば、対立をあおる愚かなやり方と同じである。
そして、さらに重要なことは、政治システムにおいては、<民主政>にまさるシステムの原理を人類はまだ発見していない。ということは、資本制社会から社会主義社会に変革・移行した――その核心的内実は、資本制経済から<協議経済>への転換である――としても、政治システムにおいては<民主政>をそのまま継承し、その不十分なところを充実させることになる。断るまでもないが、政治の領域における私たちの闘いが不要になったわけではない。さまざまに時代逆行的な悪法が狙われ、策動が絶えないがゆえに、それらとの闘いこそが求められている。<民主政>は与えられるものではなく、不断の努力によって創造してゆくものだからである。
革命論に及ぶ問題については別に検討することにして、話を戻すと、私たちは、経済にのみ過重で決定的な位置を与えてしまった「唯物史観」の限界を克服して、経済と政治とを明確に区別して解明しなければならない。政治については、さらに法(律)の重要性に注意を喚起するために、<法文化>という視点が近年、提起されている。本稿では、話を簡単にするために、<文化>については言及しなかったが、近現代社会は経済、政治、文化の3層の構造をなしており、<文化>とその変容についても考慮しなければならない。 さらに、経済と政治のおのおのについて、その分析基準は何なのかについて探る必要がある。
経済については、すでにマルクスが明らかにしたように、<生産関係>――生産手段をめぐる人間と人間の関係――という視点が最重要な基準である。その上で、<分配問題>についてもしっかりと位置づけることが重要である。マルクスは、分配は生産の結果にすぎないものと考えたようであるが、経済の発展段階にも大きく左右されるが、<分配問題>は独自に解明する必要がある。「社会主義経済計算論争」が明らかにしたように、社会主義においては<分配問題>はきわめて重要な位置を占めている。<生産手段の社会化>――これとてその内実の確定と実現は困難である――が実現したら自動的に<分配問題>が解決するわけではない。
近代経済学者ヒックスは、成瀬治によれば、「人類がこれまでの歴史のなかで、経済問題(社会を存続させるために、生産と分配をいかに調整するかという問題)を解決するためにとられてきた方式は3つある、すなわち、第一が伝統、第二が指令、第三が市場による方式である」と明らかにした。195頁。成瀬がすぐに与えている注意は、本稿全体にとっても有効なので、引いておこう。「これら三者は、いずれも一種の『理念型』であって、現実の特定の経済社会のなかでは、これらの方式ないしシステムが重なり合って現れるのがふつうである」。「資本主義市場経済」という言葉がよく使われるようになったが、「資本制」と「市場」との関係については、さらに解明すべき問題が残されている。
政治を分析する基準は、その社会の「共同の意志」を形成するあり方、原理に着目する必要がある。古代の神権政治では、政治的支配者は神の代理者として絶対権力を主張し、人民を服従・支配した。君主制では、世襲の君主によって人民が支配された。そして、近代の<民主政>では繰り返し確認しているように、<法の下での人間の平等>を原理とする<人権>を基軸にしている。ここまで到達したがゆえに、近代の憲法ではその点を明記・高唱している(逆に、経済システムについては規定していない。生産手段とのかかわりにおける人間の不平等を残しているがゆえに、万人を納得させるものとして説けないのである。これと対比的に、ソ連邦の憲法では、内実に歪みがあったとはいえ、経済システムについても明確に規定している)。
私たちが本稿で明らかにした方法論によると、これまで安易に「資本主義」とか「社会主義」とかと分類されてきた社会はどのように表現することができるのか。その結論だけ示して本稿を閉じることにする。私は「資本主義」は<資本制民主政>、「社会主義」は<協議制民主政>、そしてソ連邦は<指令制党主政>と呼ぶのがもっとも適切だと考える。このように表現すれば、変革すべき対象は経済の領域なのだということが明示される(<協議>は、ヒックスの分類を活かせば、第4の方式となる)。このように、規定した上で、それらの社会の現状分析が求められている。<資本制民主政>から<協議制民主政>へと転換するためのオルタナティブは、その現状分析に踏まえてこそ的確に提示できるからである。私たちは、<社会>をいかに規定するのかという問題を出発点にして、ここまで進んできたのである。
注はあとで整理します。
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