村岡到:則法革命と農業問題
――連帯社会主義の内実
村 岡 到
反戦運動、欧米と日本との巨大な落差
2月15日、全世界60カ国で1000万人がイラク戦争反対のデモを展開した。欧米各国では数十万単位の人びとが行動した。1960年代のベトナム反戦闘争を越える歴史的な高揚である。200万人が立ち上がったイギリスでは、ブッシュ大統領に追随するブレア首相の言動にブレーキをかけつつある。日本でも渋谷で5000人がデモした。若者がその大半を占めていたことは、新しい希望の芽を感じさせるが、欧米におけるこの間の反戦運動の大規模な展開と比較すると、日本でのそれは2桁も少ないのも現実である。この大きな落差は何に起因するのか。私は、この問題を正面切って設定して、その要因を明らかにすることがきわめて重要だと考える。
大きな問いであり、落差の諸要因は複雑に絡んでいるであろう。国民の80%がイラク戦争に反対しているフランスにはアラブ人が数百万人も住んでいるという。イラクとの地理的・歴史的つながりについて言えば、ヨーロッパのほうがはるかにアメリカよりも深く広い関係がある。戦争突入になった場合の懸念――難民の流入、戦後処理費用の負担なども運動高揚の要因に違いない。マスコミの報道姿勢や実態も比較する必要がある。
しかし、一番大きな理由は、やはりソ連邦の崩壊の痛手ではないだろうか。欧米にしてもソ連邦の崩壊に直面したのだから、それは理由にならないと思う人もいるだろうが、そうではない。崩壊に到るまでのソ連邦をどのように評価していたのかという点で、とくに左翼のなかでは日本と欧米とでは決定的に異なっていた。日本には、ソ連邦(あるいは中国)こそ「社会主義の模範」と思っている人が多かった。だから、社会党は解体したのであり、信念の薄い研究者は雪崩を打って社会主義離れを引き起こした。共産党は、ソ連邦が崩壊した後になってから「巨悪」と切り捨てて、ともかく党勢を保持した。他方、アメリカでは国民のなかではソ連邦は敵国であり、アメリカ共産党は極少派だった。ヨーロッパでは、「モスクワの長女」と言われたフランス共産党も存在したが、ソ連邦から独立して距離を置いていた社会民主主義派の勢力のほうが各国で歴史的伝統も長く、遙かに大きかったし、緑の党も定着していた。だから、ヨーロッパの共産党は軒並み解体・衰微したが、労働運動や市民運動ではそれほど深刻なショックとはならなかった。
だから、日本ではとくに、ソ連邦崩壊について明確な総括を提出し、それに代わる新しい社会主義像を提起することこそが、核心的課題だと、私は考えている。個別のさまざまな課題における実践と実績をどんなに積み重ねても、この根本的課題を打開しないかぎり、反戦運動の高揚も左翼の再興もありえない。私が、ソ連邦崩壊の後、主要にこの課題に取り組んできたのはそのためである。
さて、普通の人が青春時代に出会う人生の師や理論書はそれほど多くはないであろう。多くの青年はその小さな出会いのなかで、自分がまじめに人生を生きる指針や思考法を感じ取り、それを正しいと確信してその後の人生を歩む。だから、一度自分が信じた認識が誤っていると認めるのはまじめな人ほど容易ではない。あるいは一転して、確かなものはどこにもないと早合点することになる場合も少なくない。そこで踏みとどまって、何がまだ貫くに値いし、どこを訂正したらよいのかを考えさせるのは、彼が置かれた状況と彼女が信じた認識とその度合いの深さによる。眼前の不平等や理不尽な現実への怒りを最深のバネにしていたのであれば、じっくり反省する道を選択するであろうし、誰それが憎いとか、あいつには貸しがあるなどという個人的感情のレベルに何時までもこだわっている場合には、棄教も早いであろう。ついでながら、このことは、他人に読まれることを目当てにして文章を書く人間、書ける人間には大きな責任があることを教えている。
私は、ソ連邦崩壊の後、「労働に応じた分配」問題、社会主義経済計算論争、ソ連邦経済の実態、を検討することをとおして、「計画経済」に代わる<協議経済>を提起し、さらに<社会主義と法(律)>問題に取り組み、オーストリアの社会主義論に着目してきた。本稿では、それらの論点のなかから、<則法革命>と新しく気づいた農業問題にしぼって要点を整理して明らかにしたい。
<則法革命>の意味と有効性
私が<則法革命>という造語によってこの問題を提起したのは、2001年初めである。ここではその要点だけを再述する。
<社会主義革命>とは何かについて、マルクス主義ではマルクスいらい経済の領域では<生産手段の社会化>と明確にされてきた。さらにその<生産手段の社会化>の内実をどのように埋めるかについてはなお模索中であるにしても、ここまでははっきりしている(最近では30年も遅れて共産党の不破哲三議長までが「国有化」ではなかったと書くようになった)。
そして、政治の領域では、『共産党宣言』いらい「政治権力を獲得する」という言葉がさかんに発せられている。だが、この言葉を何度となえてみても、実は「獲得」した「政治権力」の構造が変化するのかしないのかについては全く何も分からない。
実は、「政治権力を獲得する」という書き方自体が、そこにある問題性を意識しないままに表現していた。経済の領域での「生産手段の社会化」と対比して考えると理解しやすい。この表現なら、それまでは「資本制的な私的所有」であったものを「社会的所有」に変えるということが理解される。つまり、「所有」のあり方が変化する。だが、「政治権力を獲得する」という書き方は、それまでは手にしていなかったものを新しく「獲得する」ということは理解できるが、「政治権力」のほうはその内実やあり方が変化するのかしないのかはまったく表現されていない。その内実やあり方を深く問うことなく、ただ「政治権力を獲得する」ことが強く印象づけられていた。ただ、その「獲得」の方法をめぐって、「暴力革命」と「平和革命」との分岐・分裂が生じた。グラムシの「機動戦」と「陣地戦」の区別もこの範囲の内側にすぎない。こうして、根本的問題である「政治権力の質」あるいは<政治権力の構造>の問題は霧のなかにかすんでしまった。
「政治権力を獲得する」という考え方の前提にはどのような認識があったのか。いうまでもなく、資本制社会の政治体制を「ブルジョアジー独裁」とする認識である。この認識は、これまでマルクス主義とその周辺では疑問の余地なく踏襲されている通念であるが、そこに根本的に問われるべき問題があった。マルクス主義者は「ブルジョアジー独裁」と考えたから、「民主主義とはごまかしで、ブルジョア民主主義だ」と主張してきた。そして、この「ブルジョアジー独裁」を打倒するためには「暴力革命」こそが必要であり、その勝利の結果は「プロレタリアート独裁」になると考えた。まことにもっともな筋道のとおった推論である。だが、問題はこの三位一体をなす最初の起点である「ブルジョアジー独裁」認識が錯誤であったことにある。<権理の主体>を<法の前で平等な権理をもつ市民>とする政治体制、つまり<民主政>はけっして「ブルジョアジー独裁」ではない。もし、「ブルジョアジー独裁」認識が正しいと考えるのであれば、その支配階級の意志は誰によってどのような機構とプロセスによって形成され表示されるのかについて明らかにすべきである1)。だが、私はその点を解明した文献を見たことはない。
人間は経験をとおして学んでゆく。ソ連邦が崩壊したがゆえに、ロシア革命の経験は丸ごと歴史のゴミ箱に投げ捨てられているかのようであるが、学ぶべき教訓は少なくない。その大切な一つは、<社会主義と法(律)>という前人未到の課題に挑戦することになった革命ロシアの法学者たちの模索の到達点が<権理の主体=市民>という原理であったことである(革命直後には1918年初めの宣言にも明示されているように「勤労被搾取人民」だけが権理の主体とされていた)。
このことは何を教えているのか。ここでは結論を述べるスペースしかないが、近代の<民主政>を踏襲する以外に道はなかったのである。別言すれば、政治の領域では、原理の上で根本的に変革しなければならない内実はなかったのである。だからこそ、1871年のパリ・コミューンに着目したマルクスは、「労働の経済的解放をなしとげるためのついに発見された政治形態である」2)とか、「できあいの国家機構」とは書いたが、政治上の原理の問題を提起することができなかった。本質的な相違は何なのかを明示すべきだったが、「国家機構」までしか言及できなかった。
「原理の上で」と限定しているのは、現実にはさまざまな不平等と抑圧が残されているからである。私たちは、この原理的認識に立脚して現実の統治構造を解明する必要がある。そのさい、方法論的には宇野経済学の三段階論を政治学にも応用できるのではないであろうか。
それはさておき、社会主義社会でも民主政を継承しなければならないことについては、ワイマール共和国の司法大臣にもなり、ナチスの弾圧に抗して自己の信念を貫徹した法哲学者のグスタフ・ラートブルフが『社会主義の文化理論』の「あとがき」(1949年に執筆)で明確にしている。
「社会主義者といえども、民主主義的民族国家というものは同時に、権力分立の原理に立脚し、基本的人権を尊重し保護する義務をもった法治国でなくてはならないことを銘記すべきである。われわれは法治国、人格の自由を望むが、独裁はたとえそれがプロレタリアートの独裁と呼ばれようと全くこれを望まない」3)。ラートブルフは――松尾敬一によれば――「法治国家の理念と議会民主主義の方式は、単にそれが形式的であるとか自由主義的な生い立ちをもつとかいった理由で放棄されてはならない」4)ことを強調している。
<社会と法(律)>という根本問題に立脚し、かつ近代市民革命の歴史的意義を重視する立場から考えると、<権理の主体>を法の前で平等な権理をもつ市民とする政治体制=<民主政>を創りだした近代社会においては、<法(律)に則った革命>が可能でもあり、適切な形態なのである。
私は2000年末に発表した「『唯物史観』の根本的検討」で、「問題の核心は……階級闘争の<形態変化>に応じて、転換の形態もまた変化することを認識することにあり、まさにその点が唯物史観の定式では抜けていた。A→B→C→Dではなくて、A→B⇒C⇒Dと認識することこそが重要なのである。つまり、階級闘争の<形態変化>にこそ着目すべきだったのである」5)と提起した。だが、さらに付け加える必要がある。C型とD型の社会の構造を把握する方法にも問題があった。
いささか乱暴に図示すれば、下図のようになる。これまではマルクス主義ではダルマ型モデルで考えていたと言えるが、それをコートを着た人間型に思考転換する必要がある。ダルマ型では、Cダルマは土台Cにその上部構造cが直結していて、それがDダルマに移行すると土台Dにその上部構造dが直結すると思われている。だが、コートを着た人間型では、D型に移行すると土台はDに転換するが、その上部構造は依然としてcのままである(いうまでもなく、原理的レベルについてであって、現実にはcは大きく改善・充実する)。「転換の形態もまた変化する」のは、まさに「上部構造は依然としてcのままである」がゆえなのである。
c d
⇒ ⇒
C D
私たちが誤りであると明らかにした、この「ブルジョアジー独裁」認識が根本的にその正否が問われないままに長いあいだ疑問の余地なき「真理」とされてきたのはなぜであろうか。誤りを指摘するだけでなく、誤りの根拠と誤りが受容されている根拠をも切開する必要がある。そこまでえぐり出すことによってこそ、新しい認識は受け入れられることになる。
その根本的理由は、この認識がマルクス主義の核心に位置するものと理解されてきたからである。この点では、日本共産党も同党を「スターリン主義」と断罪する新左翼もまったく同一であった。90年代に一時さわがれたネオマルクス主義もまったく同じである。
私は、自分が新左翼出身だからというわけではないが、1960年代に日本社会に登場・定着した新左翼には十分な存在理由があったと確信している。いつも強調しているように、「スターリン主義批判」の一点で、共産党がなおスターリン主義の呪縛に囚われていた時期――1956年のハンガリー事件の頃である――に、その問題点を批判して、新しい運動にまで結実させたことは明らかに積極的でプラスであったと評価できるし、すべきである。だが、問題は、その批判の質・レベルが「レーニン主義への回帰」となってしまった6)ことにあり、そこに根本的な限界があった。
周知のように、レーニンは、活動家の必読文献とされた『国家と革命』で「階級闘争を認めるだけではなく、プロレタリアート独裁を認めること」を共産主義者の不可欠の要件に設定した。今でこそ、不破はロシア革命後の「レーニンの理論的な粗れ」なるものに批判を集中しているが、その彼さえ、今日でもなお、「プロレタリアート独裁」や「暴力革命」を容認することも重要な内実としている「敵の出方」論を正しいと主張している7)。このような水準に止まるかぎり、「ブルジョアジー独裁」認識を捨て去ることは、マルクス主義やレーニン主義の放棄に直結し、そのことはさらに社会主義放棄=資本主義批判・変革の放棄と理解されることになるのは当然であった。事実、そのように考えて、「転向」した者も多かった。
さらに、日本の左翼がこのような水準に止まった最奥の根拠は、近代社会への発展が遅れた日本の歴史にこそある。明治の為政者は、「民権」の訳語について「『民に権があるとは何の事か』という議論が起こ」8)るような人びとだったのである。「市民」も「社会」も「権理」もみな外来の翻訳語であった。ツアーが君臨したロシアと天皇が統帥した日本との近親性・共通性のゆえに、日本ではレーニン主義の受容は容易であった。だから、「プロレタリアート独裁」が長く踏襲されてきたのである。
逆に、私が依然として<社会主義実現>の立場を堅持しながら、「ブルジョアジー独裁」認識が根本的に誤っていたと反省できるようになったのは、マルクス主義やレーニン主義の放棄は決して社会主義放棄にはつながらないことを理解したからである。ラートブルフが明らかにしたように、「社会主義はある特定の世界観に結びつくものではない」9)のである。むしろ、このような開かれた、非党派主義的立場に立脚することによってこそ、社会主義はより多くの人びとに受容されるようになる。宗教や思想信条がどうあろうとも、平等を希求して、資本制経済の根本――資本―賃労働関係――を打破・揚棄するほうがよいと考えたり、行動する人はみな社会主義に合流できるのである。
私たちは、<連帯社会主義>をめざす革命は<則法革命>によってこそ実現することができることを明らかにしたが、この新しい言葉<則法革命>は次の二つの点で特に大きな意味がある。
私たちは、この新しい表現によって、「資本主義の現状はよいとは思えないし、変革する必要はあると思うが、暴力を伴うのはどうもいやだ、民主主義が破壊されるのは困る」という人たちに、今日における「変革の争点」はただ一つ<社会主義>を志向するか否かであることを疑問の余地なく明確にすることができる。こうして、私たちは普通の人の感情と常識にフィットすることができる。民主政の下で不十分ではあれ実現している「基本的人権」の保障をいささかも損なうのではなく、逆に拡大し実質的に発展させるものとして<革命>を理解し合流する水路が広範に開かれるのである。
もう一つは、これまで民主政の意義を強調し、そのゆえに「暴力革命」礼賛や「基本的人権」の侵害に鋭敏に反対してきた政治的潮流(第2インター系には限らない)の積極的意義を正面から認め、この潮流と連帯する可能性を切り開くことである。政治情勢の緊迫した課題のために戦術的に共闘するという水準を超えて、連帯することが大切なのである。さらに、憲法や国際法や国連を原理的な意味で重要視することができるようになる。
私の『連帯社会主義への政治理論』を書評した西川伸一は、「『マルクス主義政治学』の通説が痛快なまでにくつがえされる」と好意的に評したうえで、前記の「政治の領域では、原理の上で根本的に変革しなければならない内実はなかった」を引いて、この「記述に接するとき、左翼的信条を抱く人々は卒倒するのではないか」と指摘し、「本書の結論は、どうやら政治についての多元主義的理解に落ちつくようだ。それは、〔アメリカの政治学者〕ロバート・ダールの主張や日本政治学の通説に限りなく近い」10)と結論している。政治学者ではない私には、日本政治学の通説がどのようなものか知らないのだが、もしそうだとすればその通説を是認している人たちとは、理解を共有できることになる。その共通の理解を土台にして、社会主義の是非を討論できるようになれば、社会主義への理解はいっそう拡がるに違いない。
その新しい社会主義像の内実の一つとして、農業問題があると最近になって気づいた11)。
農業問題の重要性とマルクス主義の限界
私の家は農家ではなかったが、子どものころは小さな農村に住んでいた。だが、高校を卒業して東京に出てきてからは、農村や農業についてまじめに考えたことはなかった。私に農業問題の重要性を教えてくれたのは、『QUEST』誌上での白井朗論文「農業・農民と社会主義」である。白井は論文冒頭で、マルクス主義者は「農民と農業についてのドグマと偏見」12)に陥っていたと明らかにした。
<農業>とは何か。『広辞苑』では、「地力を利用して有用な植物を栽培耕作し、また有用な動物を飼養する有機的生産業、広義では農産加工や林業をも含む」と説明されている。「原料や粗製品を加工して有用なものとする産業」とされる<工業>との違いは、<生命ある有機体>を生産するところにある。1970年代に評判になった『スモール・イズ・ビューティフル』の著者E・シューマッハーは、「農業の基本原則は、生命、すなわち生きているものを取り扱うという点にある」13)と明らかにしていた。そして、農業は食糧を生産する。私たちは、「衣食住」と言うが、アダム・スミスは『国富論』の冒頭で「食・衣・住」の順で捉えていた。
しかも、自然の在り方が深く農業の在り方を左右する。和辻哲郎が名著『風土』で鋭い観察眼で究明しているように、ヨーロッパと日本では一口に「農業」と言っても、その内実には大きな相違がある。気候が乾燥ゆえに雑草が繁茂しないヨーロッパでは「雑草との戦いが不必要」だが、高温多湿の「日本農業の核心をなすものは『草取り』である」14)というようにである。
<農業>についての学問が<農学>である。<農業>や<農学>は、人類の生存にとって不可欠かつ重要な位置を占めている。在イギリスのロシア人科学者Z・メドヴェージェフは大著『ソヴィエト農業』で「農業が人間存在のよりどころであるのは、今もなお、そしてこれからもずっと変わらない」15)と強調した。
だが、マルクスやマルクス主義では農業は軽視されつづけてきた。『マルクス・エンゲルス農業論集』が編まれ、カウツキーは『農業問題』を書き、日本では戦前から敗戦後1950年代に、マルクス主義経済学のなかで<農業問題>が、日本資本主義の発達をいかに把握するかの主要な論点としてかまびすしく論議されたこともあったので、今まで気づかなかったのであるが、偏見――この場合には身内に甘くなる偏見を捨てて調べるとすぐに理解できる。いささか古いが1966年に刊行された『資本論辞典』(青木書店)には、何と「農業」という項目が立てられていない!
労農派の向坂逸郎は1932年に、カウツキーの『農業問題』の「訳者序文」で、カウツキーのこの著作とレーニンの『ロシアにおける資本主義の発展』が同じ1899年に刊行されたことを紹介し、「この時まで、われわれは資本主義において農業がいかなる様相をもって現れるかについて体系的に述べたマルクシズムの文献を有しなかった」16)と書いている。例えば、『資本論』では農業はごく軽い扱いしか受けていない。さらに言えば、マルクスの「自然」理解に歪みがあった。マルクスは「自然」を正面から捉えてはいない。マルクスがいかに「自然」について少なくしか触れていないかは、マルクス主義者を自任していた寺尾五郎の遺作『「自然」概念の形成史』に、多数の思想家が登場するのにマルクスはたった1度、それも反マルクス主義者をからかう文脈に人名だけが出てくるにすぎないことにも明らかである17)。
視野を広げると、1986年に突発したチェルノブイリ原発事故は、ソ連邦における環境破壊がいかに深刻に深行していたかを象徴的に示した。今では常識になったが、ソ連邦および東ヨーロッパ諸国における「環境破壊」は資本制社会以上に酷いものであった。このように広範囲に深刻に拡がっていた環境問題の背後で、もう一つ並行して進んでいたのが、農業の荒廃であった。Z・メドヴェージェフが『ソヴィエト農業』で深く嘆いているように、かつてヨーロッパの穀倉ウクライナを擁する最大の食糧輸出国であったソ連邦は、1970年代前半に穀物純輸入国となり、80年代年には穀物・畜産物の世界最大の輸入国に転落してしまった(この背後には、レーニンの「農業・農民」認識の歪みがあるのだが、それについては別稿参照)。
マルクス死後のマルクス主義者が環境問題や農業理解の点で「負債」があることにさえ気づかないままに時間を浪費していたがゆえに、その「空隙」を衝いて、新しい動向が登場することになった。1970年代以降、<エコロジー問題>が浮上した。
スペイン人で、バルセロナ自治大学教授のホワン・マルチネス=アリエは『エコロジー経済学』できわめて高い水準で問題を提起していた。本書の基軸をなしているのは、マルクスとも接点のあった、1850年生まれのウクライナ人セリイ・ポドリンスキーの発掘である。ポドリンスキーの問題意識は、マルクスの「剰余労働の理論と現代物理学の理論を調和させようとする」18)点にあった。
エコロジー経済学の核心は、アリエの主張を要約すれば、「非更新性資源の枯渇」や「将来の世代への責任」を経済にどのように組み込むかにある。これらの「外部性」をどのように<評価>するのか、という問題である。アリエがきわめて優れているのは、単に古く過去にさかのぼって問題を探究したというだけではなく、<経済計算>の問題に主軸を据えて考察している点にある。アリエは、「枯渇性資源の最適な世代間配分という問題は、伝統的経済理論の基本法則に反して、道徳的価値に関する問題と不可分であ」り、だから、「経済学者は将来を価値評価する倫理に関する社会学者にならなければならない」と提起している。そしてアリエの「エコロジー経済学」のきわだった特徴は「平等主義」と固く結びついていることである。
ところで、宇野経済学として新左翼運動に影響を与えた宇野弘蔵は、1950年に発表した「世界経済論の方法と目標」で、「勿論『資本論』のような原理論では、農業もまた完全に資本主義的に経営されるものとして、資本家的原理を明らかにする方法を採らざるを得ないのであるが、実際上は決して資本主義に農業問題を解決し得る力はなかったのである」19)と書いた。その3年前に宇野は『農業問題序論』で、「それ〔農業問題〕は資本主義がみずから解決し得ないままに、そのいわば外部に押しやってきただけに、資本主義自身の矛盾をもっとも深刻に包含しているものといえるのである。社会主義が農業と工業との結合を主張する点もそこにあるといえよう」20)と明らかにしていた(強調は村岡。宇野が強調した「労働力の商品化」と、この「農業問題」とは「資本主義の内的矛盾」と「外部的矛盾」をなすものとして把握されるべきなのである)。
資本制経済のなるがままの発展によって、農業が衰退するのであれば、当然のことながら意識的に<保護>することが必要になる。事実、どこの国でも農業はどんな形態でどの程度かは別にして、国家の政策によって「保護」されてきた。E・シューマッハーは、資本制経済の「全歴史を通じて、農業保護主義は例外なく支配的傾向であった」21)と指摘している。日本で1961年に制定された旧「農業基本法」でも、第1条で「農業の自然的経済的社会的制約を補正し、他産業との生産性の格差が是正されるように農業の生産性が向上すること」を「目標」にしていた(ところが、1999年に旧「農業基本法」に代わって「食料・農業・農村基本法」が制定されたが、それではこの第1条はまったく書き換えられてしまい、「農業の自然的経済的社会的制約」も「他産業との生産性の格差」も消え失せてしまった)。
<農業は保護すべきである>という考え方は、農業経済学者の石渡貞雄によって1980年に、そのタイトルにも明示されて著わされた『農業保護産業論』で先駆的に主張されていた。私たちは、この理論を継承・発展させなくてはならない。<農業の保護>を不本意な必要悪としてではなく、社会を存続するための積極的施策として評価するためには、新しい価値基準が必要である。利潤や金銭第一の市場経済の論理と倫理を打破して、平等と連帯を基軸とする<社会的・道徳的評価>を創りだすことが課題である。
この課題は同時に、資本制経済に代わる<協議経済>の核心でもある。このように社会主義の内実としてその土台に農業を据えることは、旧来の社会主義論の致命的弱点を克服し、社会主義像を革新することを意味する。近年、地球温暖化問題が先鋭に提起され、環境問題が広範に認識されることになり、「社会主義と環境問題」という問題意識が形成されつつあることは望ましいことであるが、さらに<農業問題>にまで視野を広げることが是非とも必要である。
なお、つい最近、社青同解放派の指導者で故人の滝口弘人が1996年に農業問題の重要性について綱領的レベルで注意を喚起していたことを知った。滝口は「賃労働廃止労働連盟(アソシエーション)綱領案」で「都市と農村との融合」22)を提起した。なお、滝口はそこで「生存権」の重要性についても指摘している。私が生存権について主張し始めたのは1998年からであり、滝口はその前から主張していた。「日本戦後国家の憲法の世界史的到達点を……つかみ直す」とも書いている。後者の内実は不明であるが、恐らく、前節で問題にした憲法や法(律)の重要性という認識にも通底すると思われる。いわば住む世界が違っていたので、気づかずにいたのであるが、このことを私に教えてくれたのは、最近になってオルタ・フォーラムQに入会したある労働組合の活動家であった。ここでもまた、オルタ・フォーラムQは共通の認識を拡大する場として有効にその機能を果たしていると言える。
両側が谷底に似て険しく細い難路ではあるが、このような努力のなかにこそ<希望のオルタナティブ>を紡いでゆく道が拓かれると、私はなお深く確信している。
<注>
村岡到『協議型社会主義の模索――新左翼体験とソ連邦の崩壊を経て』1999年、社会評論社、『連帯社会主義への政治理論――マルクス主義を超えて』2001年、五月書房。
1)村岡到「『支配階級の意志』は存在するのか――ハンセン病控訴断念の一側面」「稲妻」第336号=2001年6月10日。
2)マルクス『フランスにおける内乱』全集、第17巻、319頁。マルクスは、1934年に初めて公刊された「フランスの内乱・第一草稿」では「コミューン」を「国家権力が……社会によって……再吸収されたもの」とも書いていた(同、514頁)。なお、「社会政策」の先駆者福田徳三は、1922年に書いた「社会政策序論」で「国家の社会への包摂」について論じていた(『生存権の社会政策』講談社、1980年、23頁〜30頁)。
3)グスタフ・ラートブルフ『社会主義の文化理論』1922年、みすず書房、1953年、134頁。
4)松尾敬一『法理論と社会の変遷』有斐閣、1963年、148頁。引用出典は不表示。
5)村岡到『連帯社会主義への政治理論』66頁。
6)明治革命=維新において開国(前向き)を尊皇(後ろ向き)という形でしか実現できなかったことと、スターリン主義批判をレーニン主義への回帰としてしか実現できなかったこととは、その時代と内実の相違にもかかわらず、形のうえでは通底するものがあるのではないであろうか。歴史の歩みはそのように、複雑・重層的なのであろう。この轍を踏まないようにすることが歴史の教訓に学ぶということであろう。
7)不破哲三『レーニンと「資本論」』5、新日本出版社、2000年、421頁。
8)平野義太郎「議会および法制史」。長谷川正安・藤田勇『文献研究・マルクス主義法学』日本評論社、1972年、65頁。
9)グスタフ・ラートブルフ『社会主義の文化理論』132頁。
10)西川伸一『QUEST』第15号=2001年9月、60頁。
11)村岡到『生存権・平等・エコロジー』白順社、2003年、 頁。
12)白井朗「農業・農民と社会主義」『QUEST』第19号=2002年5月、21頁。
13)E・シューマッハー『人間復興の経済』佑学社、1976年、83頁。
14)和辻哲郎『風土』岩波書店、1935年、73頁。
15)Z・メドヴェージェフ『ソヴィエト農業』北海道大学図書刊行会、1995年、G頁。
16)向坂逸郎「訳者序文」。カウツキー『農業問題』上、岩波文庫、1932年、9頁。
17)寺尾五郎『「自然」概念の形成史』農文協、2002年、60頁。
18)ホワン・マルチネス=アリエ『エコロジー経済学』新評論、1999年、111頁、271頁、288頁。詳細な紹介は、別稿「エコロジー・平等・社会主義」共産主義運動年誌編集委員会『共産主義運動年誌』第3号=2002年、参照。
19)宇野弘蔵「世界経済論の方法と目標」著作集、岩波書店、第9巻、353頁。
20)宇野弘蔵『農業問題序論』1947年、著作集、第8巻、20頁。だが、宇野は1962年に著した、「三段階論」を詳述した『経済学方法論』では「農業」にまったく言及していない。
21)E・シューマッハー『人間復興の経済』84頁。
22)滝口弘人「賃労働廃止労働連盟(アソシエーション)綱領案」『 』476頁、477頁。
<党主政>については、「<党主政>概念とその有効性」「稲妻」第346号=2003年2月、参照。
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