村岡到:「社会」の規定と党主政2003.3.25
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「真理に一歩近づいている観念や方法を受け入れる場合の最大の障害は、人間の精神の中に、すでに慣れてしまっている別の不完全な観念や方法が存在していること☆である」1)
はじめに
先日、テレビを観ていたらこんなことを言っている人がいた。「日本は資本主義という名の社会主義で、中国は社会主義という名の資本主義だと言う人もいます」2)と。「視点」なるNHKの解説番組である。自分の考えとしてではなく、「と言う人もいます」とぼかしているのがこのいわば官許の番組らしいところであるが、いったいこんな話を聞いて何になるのであろうか。ここでは「資本主義」も「社会主義」も気分的に発せられているだけで、その意味を幾分かでも明確にする意志ははじめからない。経済の規制緩和の大合唱のなかでは「日本は金融社会主義」だという俗説もある。計画性や社会的規制が「社会主義」の名の下に非難されるのが流行りらしい(この思考法でよいのなら、豊臣秀吉の太閤検地も「社会主義」になっていまう)。「ダメなもの」の代わりに「社会主義」と言っているだけである。こうして、言葉の本来の意味は不明となり、そのことは「社会主義」だけに限られるわけではなく、文章や会話全体があいまいとなる。いつの頃だったか忘れたが、「ファジー」なる言葉がもてはやされたことがあった。
私はこのような風潮にはけっして与することはできない。言葉はなるべく正確に使うように努力することが大切である。言葉は、知らない同士の人間や対立する人間たちの意思疎通を図り、相互理解を助ける貴重な手段の一つだからである。
言語論に踏み込もうというのではないが、本稿の主題についての理解を助ける意味もあるので、S・I・ハヤカワが『思考と行動における言語』の冒頭に書いている「意味論的寓話」3)を紹介したい。不況によって一家の主人が100人も解雇された、二つの社会の物語である。一方のA社会では、失業者の救済のための手当を、それを受け取ることは不面目だと思わせるような仕方で与えた。もう片方のB社会では、「保険の原理」を導入して、失業者がその前に働いていた仕事を不幸に備えての前払い金の一種と考えて、手当を「請求権」の行使として実施した。結果はどうなったであろうか。A社会では受給者は「さげすみ」に萎縮したり新たな喧嘩が引き起こされた。B社会では受給者は「勇気と安心」を得た。つまり、同じ救済手当がその位置づけの違いによって、人々のなかに全く異なる反応を引き起こしたのである。お恵みと権理との相違である。その位置づけの相違は当然ながらこの救済手段の名称の相違としても表現されるはずである。<生存権>を基軸に据えている私たちが、いずれを選択しなければならないかは説明するまでもない。言葉にはこれだけの役割があるのである(なお、この寓話でもう一つ肝心なことは、ハヤカワは言及していないが、失業者はのたれ死にしてしまえという選択は除外されている点である)。
この寓話が教えてくれるように、私たちは正しい――その真義は相互理解にとってプラスに働くということである――言葉によってこそ、対立を緩和し、問題を解決してゆくことができる。
私がもっぱら考えていることは、社会主義の諸問題であり、なかなかその枠を超えられない。この枠は恐らく、孫悟空を乗せた、釈迦の手のひらよりも広く、多くの難問がその解答を待っているからである。冒頭にただあいまいなだけの評論家の一言をあげたが、そこにも現実が反映していないわけではない。中国は何と呼ぶことが適切なのか、が問われている(多くの場合に、「資本主義か社会主義か」と単純に問われている)。この点があいまいになっているので、前記のようなあいまいな話が広がっているのである。中国だけではない。朝鮮民主主義人民共和国は何なのか、崩壊したソ連邦は何だったのか、ベトナムは、キューバは、いくつもの問いを連続的に発することができる。さまざまな説と用語が飛び交っていて、定説はなお形成されていない。
このような問題意識にもとづいて、本稿では、まず<社会>を規定する意味を原理的に考察し(第1節)、つぎに<党主政>なる新しい用語を提起してその意味を明らかにしたい(第2節)。この新しい用語は、ソ連邦の政治システムについての解答でもあり、今日における変革の核心を明示することにも結びついている。
第1節 <社会>を規定する意味
どういう社会あるいは国家なのかを明確に認識することなしに、そこで生起している政治的動向を理解したり、国家的対立を解決することは難しい。もちろん、吉田松陰が獄に在った時に、そこにいた女性が話したように、月や花の定義は分からなくても、月や花の美しさを実感することはできるから、誰でもインターネットで交信したり、海外旅行を楽しんでいる。社会科学の認識が薄くても交流はできるし、人間的信頼を創り出すこともできる。
後にも触れるように、人間は長いあいだ、自分が生きている社会が何かと定義しなくても生活してきた。とはいえ、今日ではそれだけでは人類は生存していけなくなった。社会が複雑になり、同時に多くの異なる社会が緊密に関連するようになったからである。飛脚が活躍していた江戸時代の農民ならとなりの村くらいしか関心はなかったであろう。
本節では、「資本主義」だとか「社会主義」だとか規定する以前の問題として、<社会の発見>の意義を確認し、なぜ、ある社会を「○○」と規定するのか、そしてその基準は何なのかについて原理的に考察してみたい。そのことを通して、従来の常識を超える歴史観を模索したいと考える。
1 <社会の発見>と諸規定
小学校の高学年になれば「社会科」の授業はあるし、そこまでいかなくても、私たちは子どものころから「社会」という言葉に接している。しかし、「社会」という言葉が使われるようになったのは、それほど昔からではない。society
の訳語として、「東京日日新聞」の社長兼主筆の福地源一郎が作ったと言われているが、1875年=明治8年のことである。それまでは「世間」とか「世の中」と言っていた。
世の中で起きるさまざまな出来事を「社会の問題」として認識するようになったのは、ヨーロッパにおいてもそれほど大昔からではない。日本の社会学の先駆者・福田徳三は1922年(大正11年)に書いた「社会政策序論」の「第1章」に「『社会』の発見」を置き、その冒頭で「社会の発見」を「人類の発見の最大の一つに数えるべきもの」4)と強調している。この論文を巻頭に配した『生存権の社会政策』のはじめに彼の弟子の板垣與一が解説を書いていて、そこには分かりやすく次のように確認されている。「近代における人類の〔理論上の〕三大発見は、15、16世紀にはじまる『個人の発見』と『国家の発見』、そして18世紀の末葉から19世紀にかけての『社会の発見』これである」5)。周知のように、ルネサンスと宗教改革を経て、キリスト教の神から解放されつつあったヨーロッパの人びとは、「個人」を意識するようになった。イタリアのルネサンスのなかで、マキャヴェリが、近代政治学の出発点となった『君主論』を著わしたのが1532年であり、国家論をテーマにしたホッブスの『レヴァイアサン』は1651年に著わされ、フランス革命を思想的に準備した、ルソーの『社会契約論』は1762年に刊行された。
福田によれば、「『社会』の存在を見出さない前といえども、社会は厳として存していた。したがってその存在を認めることなくしては、解釈しえられざる現象がさまざまあったが、実際生活の上においても、学問上においても、社会を認めないがために、その解釈に苦しんでおった」6)。「個人と対立するものはみなこれを『国家』に組み入れることが、いずれの国においても普通であった」。<社会の発見>は、この隘路を突破する決定的な水路を切り開いたのである。
<社会>とは何か。『社会学小辞典』から引いておこう。<社会>とは「多義的な概念であって、抽象的には人間結合ないし生活の共同一般を、具体的にはさまざまな集団生活や包括的な全体社会を、理念的には国家と対立し人類大の広がりをもつ市民社会を、歴史的には一定の発展段階にある社会体制ないしは社会構成体を意味する」7)と説明されている。本稿で問題としているのは、最後の歴史的な意味における「社会」である。
これまで、<社会>はさまざまに特徴づけられ、その視点に応じてさまざまな「××社会」が唱えられてきた。F・テンニースは「共同社会」と「利益社会」とを対比した(後述)。「血縁社会」「地縁社会」という対比もある。「未開社会」「文明社会」という区分もあるし、「農耕社会」「工業社会」「高度情報社会」と見る人もいる。歴史的には「古代社会」「中世社会」「近世社会」「現代社会」と区分することも多い。そのほかにも「学歴社会」「高齢化社会」「奴隷包摂社会」などというのもあるが、それぞれに一つの特徴を強調した用語である。
だが、なんと言っても大きな影響を広げてきたのは、マルクスの唯物史観による「原始共産制、奴隷制、封建制、資本主義、共産主義(社会主義)」という把握であろう。唯物史観を肯定・受容する者はもちろん、反対する人でもこの区分と用語は踏襲することが多い。したがって、唯物史観について少し触れておく必要がある。
唯物史観の意義については、その当時はマルクス主義陣営からは「反動」とまで非難されていた法学者の尾高朝雄の評価を聞くのがよい。尾高は1949年に名著『法の究極に在るもの』で次のように書いた。
「唯物史観は、それが法や政治のようなイデオロギー的な性格をもつ社会組織の『上部構造』と、財貨の生産力を主体とするその『下部構造』との緊密な『相互作用』を認めている点では、おそらく何人も異存のない真理をとらえたものといってよい。そればかりでなく、観念論的な歴史観がとかくに閑却しがちであった、社会経済の法や政治の上に及ぼす大きな影響力をはじめて主題に取り上げた点で、社会の動態観の上に革新的な転換をもたらしたものといわなければならない」8)。
「生産力は確かに人間の社会生活を、したがって一切の法や政治を『規定』している。それは、油絵具やカンバスの生産がレンブラントの名画を規定しているといい得るのと同じ意味で真実である。けれども、唯物史観はさような愚にもつかない自明の真実をとくに主張したわけでもなく……唯物史観の重点は、歴史の『動態観』たるところにある」。
「意識が生活を規定するのではなく、生活が意識を規定する」は、唯物史観の重要な要点であるが、そのことだけならそれほど他と隔絶した特別の見方というわけではない。人間の周りの環境を<風土>として明らかにした和辻哲郎は、けっしてマルクス主義者ではないが、主著『風土』で「暑い国の人にはサンタ・クローズを作り上げることはできない」9)と説明している。どこかでトロツキーが書いていたように、物事を深く認識した人は巧みなたとえを用いることができる
また、「盛者必衰」というだけなら、13世紀の『平家物語』が仏教の因果観に基づいて描いているが、マルクスが明らかにしたのはその変化の動力が何かについてであり、その動力学を『資本論』の経済学として打ち立てたところに偉大さがある。マルクスは当時の社会の基底をなすものを「資本制経済」と捉え、そのメカニズムを「労働力の商品化」「価値法則」「利潤」をキーワードにして解明した。「自己増殖する価値」としての<資本>を揚棄することを、マルクスは核心的課題として設定した。さらに、前記の「原始共産制、奴隷制、封建制、資本主義、共産主義(社会主義)」という発展を「歴史の必然性」として強調した。
私はすでに「唯物史観」について、この「歴史の必然性」問題に焦点を当てて批判的に検討した10)が、「資本制経済」の解明については、農業の欠落という大きな問題は残っている11)が、依然としてマルクスの認識を踏襲すべきだと確信している。そのうえで、<社会>を包括的に把握するというより大きな課題について、マルクスの認識には重大な弱点あるいは欠落があったのではないかと考えている。この問題意識を根底にして、次の問題に進もう。
2 なぜ「社会」を規定するのか
先に、「社会」についてのさまざまな規定を紹介したが、そもそも、なぜそのような規定を与えることになったのであろうか。別言すれば、人間は、なぜ「社会」をいかなるものかと捉えるかを課題にするのであろうか。
最初に、「共同社会」と「利益社会」として対比したテンニースを例にしてみよう。カント主義に社会主義を結びつける倫理派社会主義者でもあった、社会学の創始者テンニースは、マルクスの『資本論』刊行後20年の1887年に主著『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』を著わした。この二つのそれまでは日常語として「気ままに混同されて」12)いた言葉を、テンニースは、明確な方法論的意識に踏まえて、社会を形成する二つの対比的な原理を浮かび上がらせる形で彫琢した。ここでその内容を紹介する余裕はないが、テンニースがこの対比によって何を明らかにしようとしたのかについてだけ確認しておく必要がある。
第1篇の冒頭の「主題」は、「人間の意志は、たがいにさまざまな仕方で関係している」と書き出され、そのうちの「もっぱら相互的肯定の関係のみが研究対象として考察される。この関係は、多様性における統一性、統一性における多様性を表わしている」と確認している第2篇の冒頭では「本論の全内容は、人間意志の概念を正しく把握することに注がれる」と繰り返している。「付録」の手前の最後の頁では、「契約と誓約」を「人間文化の生成・流転という重要問題解決の鍵」として、その重要性に注意を喚起している。「契約」についてはその直前で「人間の意識性における契約の『拘束力』」とも説明している。
<多様性>や<契約>の重要性についても注意を喚起したかったので、テンニースを少し紹介したのであるが、ここで何よりも大切なことは、社会をいかに捉えるかの背後には、社会を形成・編成する仕組み・原理は何かを探る目的があるということである。
第2に、ある社会がどのようにして形成されるのか、別言すればその社会の統合の原理は何かという問題は、その社会を統合し統治していく立場に立つ者にとって、欠かすことができない重要な問題となる。部族や村落や一地方の狭い枠を超えて、より大きな社会を形成するためには、何かの旗印が必要である。自分が制圧する隣の社会よりは、自分の社会のほうが一段上の上等な原理を備えているとして立ち現れることが、隣の社会や国家を制圧するさいには求められる。単に武力=暴力だけでは制圧できない。
古代ギリシアは周辺の民族を「バルバロイ」=野蛮な者とさげすんで支配地域を拡大した。日本では9世紀の平安時代から征夷大将軍の名が示すように、夷狄=野蛮な異民族を征伐することで支配地域が拡大され、16世紀半ばに織田信長は「天下布武」を自らの印章に印した(『君主論』の25年後!)。明治革命(維新)の直後には、天皇に従う臣民はいたが、「市民」の意識はなく、「民権」も奇異なものと思われていた。戦前の日本では「神国日本」などと叫んでいた。20世紀になってもこの程度の合い言葉で用が足りていたところに、日本の特徴がある。
<社会の発見>に踏まえた社会認識の進歩は、夷狄・野蛮を征伐するという水準を超えて、1789年のフランス革命においてついに<自由・平等・友愛>をシンボルにするところまで到達し、<正義>とは何かの探究を核心とする<法学>は遙かに紀元前から発達していたが、加えて経済学や社会学の発達を促し、社会についての認識は格段に深化した。その発達に応じて、社会の形成・編成原理や構造はどうなっているのかが、大きな問題として浮上した。
現体制の擁護者だけがこの問題に関心を寄せたわけではない。批判的な立場に立つ人間にとっても大いに意味のある課題であった。
第3に、ある社会をいかなる社会として把握するのか、その目的は変革対象の明確化のためでもある。眼前にあるものをただ俺はいやだ、反対すると叫ぶだけでは、小さな範囲――俺の家では犬は飼わないという程度のことであれば実現することもあるだろうが、事が社会的性格を有している場合にはそうはいかない。どんな方法を取るにせよ、多くの人々の合意・協力が必要になる。この合意・協力、一言でいえば<連帯>を創り出すためには、そこで変革しようとしているものが何なのかはっきりさせる必要がある。まさに、そのゆえにこそ、ある社会をいかなる社会として把握するのかが、最重要な課題として意識されるようになるのである。
逆に言うと、今日、この問題があまり関心を引いていないのは、社会を変革する運動や問題意識が衰退しているからである。後年、ナチスに追われたカール・マンハイムが『イデオロギーとユートピア』の結びで明らかにしているように、「ユートピアのさまざまな形態を放棄するにつれて、歴史を創ろうとする意志を失い、それとともに歴史を洞察する力をなくしてしまう」13)。「歴史」を「社会」に置き換えても文句を言う人はいないだろう。
マルクスが『資本論』で「近代社会の経済的運動法則」を解明しようとしたのも、『経済学批判序言』で唯物史観のいわゆる「定式」を整理したのも、そのためである。
したがって、例えば、ソ連邦が何であったのかについて解答を提出できないようでは、いくら唯物史観の「定式」は正しいとか、その正しい解釈はこうであるとか主張してもほとんど意味はない。魚釣りにいかないのに、釣り竿だけ磨く艶布巾にも役割はあるのかもしれないが、やはり海でも川でも実際に釣りに行くほうがよいだろう。ソ連邦が何であったのかという問題は、21世紀に社会の変革をまじめに考える人間にとっては避けて通ることができない重大な問題である。歴史の経験に学ばない理論や運動が多数の人びとの支持と共感を得ることはない。社会変革の気運が高まれば、逆に変革を阻止しようとする者は、あのようにまた失敗するのではないか、あるいはソ連邦崩壊の経験は何だったのか、という声をあげるからである。
なお、時間を軸にした場合には、歴史の趨勢が意識され、<情勢>はどう動いているのかが問題となる。
第4に、変革対象を明確にするということは同時に、目指すべき社会は何なのかを明らかにすることにも通じている。社会を根本から変革するとは、その社会の形成・編成の原理を、別の、それとは対極的原理によって取って変えることを意味している。その対極的原理によって社会はどのように変わるのか。政治システムはどうなり、経済システムはいかに運営されるのか。その新しい変革のイメージに現実性が濃くあり、その希望に多くの人々が共感し共鳴し広く連帯が形成されるときに、社会は変革される。
人間の<連帯性>を重視する私たちは、マルクスのように「意識性」だけに過大な意義を見出す立場には立っていないが、「意識性」を否定したり、過小評価することも誤りである。日本共産党の不破哲三議長に言わせると、マルクスは未来社会の「青写真」を描かなかった点でこそ評価されるべきだということになるらしいが、マルクスが聞いたら、ちょっと待ってくれと言うだろう。何をどこまで描けるかが問題なのである。
このように、<社会>をいかなるものとして捉えるのか、規定するのかという問題は、ゆるがせにできない重要な問題なのである。森羅万象さまざまな出来事に直面する人間は、その関心や問題意識にしたがってさまざまな問題を研究課題に設定することができる。古墳の探索、江戸時代の風俗の研究、宇宙の探索……どれもみなそれぞれに意味があるであろう。そこに優劣を序列づけることはないであろうが、<社会>をいかなるものとして捉えるのかという問題は、けっして軽いものではない。この問題は、人間の平等を求めるユートピア追求の核心に位置する課題なのである。
3 <社会>を規定する基準
最後に、<社会>を規定する基準は何かについて検討しよう。
前記の「共同社会」「利益社会」や「血縁社会」「地縁社会」は、社会の編成原理に着目した区分であり、「未開社会」「文明社会」は文明の到達水準を基準にしている。「農耕社会」「工業社会」「高度情報社会」は、その上にさらに主要な産業が何かを問題にしている。「古代社会」「中世社会」「近世社会」「現代社会」は、時間の流れによる区分であって内容については問題にしていない。マルクスの唯物史観による「原始共産制、奴隷制、封建制、資本主義、共産主義(社会主義)」は、生産関係という視点を設定して、社会を区分した。マルクス主義を避ける人は「封建制」の代わりに「身分制社会」という場合もある。
唯物史観については後でもう一度、検討するが、これらのいずれの区分においても共通していることがある。分析対象が「社会」であることは前提だから、それ以外にである。区分の基準が一つであることが、それである。これまで、誰もこの点に疑問は発しなかったようであるが、言うまでもなく「社会」は発展する。発展するから、その異同を認識しようとするわけである。そうすると、「社会」は発展するのに、その発展を捉えようとする基準は一つだけでよいのであろうか。その基準自体も変化・発展すると考えたほうが合理的ではないであろうか。
喩えをあげれば、鳥がまだ卵の段階なら、卵の大きさや重さを量るしかないが、孵化すれば鳴き声や食欲によってもその成長をはかることができるようになる。社会を認識するさいに、どの時代にも同じ一つの基準が通用すると考えるのは、孵化したあとも大きさや重さだけで鳥の成長が理解できると思うのと同じである。
私には人類の歴史を広く鳥瞰する能力はないが、誰もが知っているように、古代には経済と政治や宗教とが未分化であった。「祭政一致」という言葉がそのことを明らかにしている。経済と政治が未分化でより一体化している歴史的段階ならば、奴隷制とか封建制とかの把握で十分なのかもしれない――私はその問題は勉強していないので、確言はできない。ただはっきりしていることは、近代以降の社会を認識するためには、経済と政治を明確に区別して、かつ直対応一体型としてではなく把握する必要がある。
周知のように、産業革命をテコにして「資本制経済」が発達することによって、経済と政治が分化するようになった。封建制のもとでは、身分的拘束に基づいて、経済と政治はより一体化していた。だから、政治的権力と経済上の実力とは領主とか君主に集中していた。君主制である。この経済と政治の分化が深化することを基礎として、「経済の法則」を認識することができるようになり、経済学が成立した。経済学の発達についておさらいしている余裕はないが、マルクスが『資本論』で資本制経済の構造を体系的に解明できた客観的基礎はそこにある。ついでながら、そのことを宇野弘蔵は「資本主義の純粋化傾向」とか「方法の模写」として際だたせて強調した14)。
他方、政治の領域では、近代になると、中世の身分制的な紐帯が希薄となり、「市民社会」の成立として広く説かれているように、<法の下での人間の平等>を原理とする<人権>が形成・確立され、政治システムとしては<民主政>が成立した。少なくとも原理の上ではそうなったのである。あるいは、そのように変化したことをもって、中世から近代への移行が実現したと考えられ、表現されている。<民主政>を別の視点から捉えれば、「人治」から「法治」への転換として理解される。
したがって、近代以降の社会を捉えるためには、経済システムはどうなっていて、政治システムはいかなるものかを別々に認識しなくてはならない。両者の関連はそのうえでの問題である。
経済については、すでにマルクスが明らかにしたように、<生産関係>――生産手段をめぐる人間と人間の関係――という視点が最重要な基準である。その上で、<分配問題>についてもしっかりと位置づけることが重要である15)。マルクスは、分配は生産の結果にすぎないものと考えたようであるが、経済の発展段階にも大きく左右されるが、<分配問題>は独自に解明する必要がある。「社会主義経済計算論争」が明らかにしたように、社会主義においては<分配問題>はきわめて重要な位置を占めている。<生産手段の社会化>――これとてその内実の確定と実現は困難である――が実現したら自動的に<分配問題>が解決するわけではない。
近代経済学者ヒックスは、成瀬治によれば、「人類がこれまでの歴史のなかで、経済問題(社会を存続させるために、生産と分配をいかに調整するかという問題)を解決するためにとられてきた方式は3つある、すなわち、第一が伝統、第二が指令、第三が市場による方式である」16)と明らかにした。成瀬がすぐに与えている注意は、本稿全体にとっても有効なので、引いておこう。「これら三者は、いずれも一種の『理念型』であって、現実の特定の経済社会のなかでは、これらの方式ないしシステムが重なり合って現れるのがふつうである」。
また、「資本主義市場経済」という言葉がよく使われるようになったが、「資本制」と「市場」との関係については、さらに解明すべき問題が残されている。
政治を分析する基準は、その社会の「共同の意志」を形成するあり方、原理に着目する必要がある。古代の神権政治では、政治的支配者は神の代理者として絶対権力を主張し、人民を服従させ支配した。君主制では、世襲の君主によって人民が支配された。そして、近代の<民主政>では繰り返し確認しているように、<法の下での人間の平等>を原理とする<人権>を基軸にしている。ここまで到達したがゆえに、近代の憲法ではその点を明記・高唱している(逆に、経済システムについては規定していない。生産手段とのかかわりにおける人間の不平等を残しているがゆえに、万人を納得させるものとして説けないのである。これと対比的に、ソ連邦の憲法では、内実に歪みがあったとはいえ、経済システムについても明確に規定している)。
4 唯物史観の検討
ここで、唯物史観について少し検討してみよう。マルクスは唯物史観の「定式」において、「原始共産制、奴隷制、封建制、資本主義、共産主義(社会主義)」という把握を示した。私は2000年末に発表した「『唯物史観』の根本的検討」で、「問題の核心は……階級闘争の<形態変化>に応じて、転換の形態もまた変化することを認識することにあり、まさにその点が唯物史観の定式では抜けていた。A→B→C→Dではなくて、A→B⇒C⇒Dと認識することこそが重要なのである。つまり、階級闘争の<形態変化>にこそ着目すべきだったのである」17)と提起した。変革の実現形態は、変革対象の原理が何かによって異なる。「奴隷制」の崩壊と「封建制」からの移行と「資本制社会」の<変革>とは、その内実も形態も同じではない。目的が手段や形態を規定するのである。魚を捕るためには網が必要となり、鳥を得るためには鉄砲がよい。
さらにもう一つ問題があった。マルクスの「定式」では、経済と政治との関係について、土台あるいは下部構造と上部構造というように、1対1対応的に土台A、B、C、Dには上部構造a、b、c、dが対応・直結すると考えられている点である。逆の関係・作用についても「相互作用」を認めはしたが、土台A、B、C、Dには上部構造a、b、c、dが対応するという点は不動なのである。相互作用はAとa、Bとb、Cとc、Dとdの間で起きると考えられている。だから、社会認識においては、基本的には経済だけに重点を置くことになる。政治はその従属変数なのである。
このように考えていたマルクスは、資本制経済では<資本と賃労働>という階級関係が貫徹しているがゆえに、その上にそびえ立つ上部構造においても、資本家階級が賃労働者階級を支配している、つまり「ブルジョアジー独裁」が貫徹していると考えた。このような認識が、資本制社会の変革についてどのような歪みをもたらしたかについては、すでに論じたことがある18)が、ここではとにかく、政治についての独自の分析が手薄になってしまったこと、きつく言えば、政治分析が欠落したことだけを確認しておきたい。だから、私がいつも引例する『マルクス・カテゴリー事典』の「民主主義」の項目で、加藤哲郎は「マルクスには……民主主義についての体系的言説はない」19)と確認している。丸山真男のいう「基底体制還元主義」という批判用語はこの点を指摘したものであるが、単に欠点を指摘しただけで、それがいかなる意味をもっていたのか、その欠点を克服するためにはどうしたらよいのかについては、丸山は考え及ばない。
だが、現実には、近代の社会では、経済と政治との関係は<分化>したのであり、マルクスが考えたように単純に対応・直結していない。繰り返すように、政治の領域・次元では<法の下での人間の平等>を基軸に据える<民主政>が実現したのである。それを「ブルジョア民主主義」などと捉えるのは錯覚だった。類推には多少ズレはあるが、冒頭の寓話を思い出せば、対立をあおる愚かなやり方と同じである。
そして、さらに重要なことは、政治システムにおいては、<民主政>にまさるシステムの原理を人類はまだ発見していない。ということは、資本制社会から社会主義社会に変革・移行した――その核心的内実は、資本制経済から<協議経済>への転換である20)――としても、政治システムにおいては<民主政>をそのまま継承し、その不十分なところを充実させることになる。
いささか乱暴に図示すれば、下図のようになる。これまではマルクス主義ではダルマ型モデルで考えていたと言えるが、それをコートを着た人間型に思考転換する必要がある。ダルマ型では、Cダルマは土台Cにその上部構造cが直結していて、それがDダルマに移行すると土台Dにその上部構造dが直結すると思われている。だが、コートを着た人間型では、D型に移行すると土台はDに転換するが、その上部構造は依然としてcのままである(いうまでもなく、原理的レベルについてであって、現実にはcは大きく改善・充実する)。「転換の形態もまた変化する」のは、まさに「上部構造は依然としてcのままである」がゆえなのである。
c d
⇒ ⇒
C D
断るまでもないが、政治の領域における私たちの闘いが不要になったわけではない。さまざまに時代逆行的な悪法が狙われ、策動が絶えないがゆえに、それらとの闘いこそが求められている。<民主政>は与えられるものではなく、不断の努力によって創造してゆくものだからである。
革命論に及ぶ問題については別に検討することにして、話を戻すと、私たちは、経済にのみ過重で決定的な位置を与えてしまった「唯物史観」の限界を克服して、経済と政治とを明確に区別して解明しなければならない。政治については、さらに法(律)の重要性に注意を喚起するために、<法文化>という視点が近年、提起されている。本稿では、話を簡単にするために、<文化>については言及しなかったが、近現代社会は経済、政治、文化の3層の構造をなしており、<文化>とその変容についても考慮しなければならない。この点では、斉藤日出治の一連の提起21)に学ぶ必要がある。
第2節 <党主政>概念とその有効性
前節「社会を規定する意味」では、近代以降の社会については経済と政治が別次元あるいは別領域であることを明確にしたうえで、その各々についてその特徴をつかみ出し、その内容にふさわしい言葉で表現することが必要だと明らかにした。両者の複雑な相互規定関係はそのうえで探求しなければならない。
例えば、ソ連邦をいかに規定するかという問題について諸説が飛び交っているが、「現存社会主義」「国家社会主義」「国家資本主義」の代表的な3説は、いずれも「資本主義」と「社会主義」の二つの言葉以外にはソ連邦などの社会体制を規定する用語はないと思っている。日本共産党が1977年から94年まで「目からうろこが落ちる」と自画自賛していた「社会主義生成期」説も同じである。私をはじめトロツキストが主張していた「社会主義への過渡期社会」はいくらかは視点は異なっていたとはいえ、理論の枠組みでは質的に異なったものではない。「革命後社会」などという言い方もあった(ポール・スウィージー)し、近年は「開発独裁」などという用語も使われているが、単なる思いつきにすぎず、方法論に踏まえたものではない。唯物史観の「定式」といかなる関連にあるかを問題にしたものではない。
崩壊したソ連邦や中国、キューバなどについて、経済と政治とを別次元として明別するという方法的意識に立脚した場合、その政治システムの特徴はどこにあり、いかなる用語で表現することがよいのか。本節の主題はそこにあり、その解答は<党主政>である。この新しい提起は、<唯物史観の克服>の一環でもある。
古くから歴史的に存在し、よく知られている事象についてであれば、その事象は定まった用語で表現され、その用語は概念として明確にされることになる。新しい事象でもその新しさを的確に把握する方法論がない場合には、既出の用語を手がかりに表現することになる。前記の「現存社会主義」「国家社会主義」「国家資本主義」「社会主義生成期」がその例である。
だが、新生事物を新しい方法論に立脚して捉えると、実態についての解明の後に、その特徴にふさわしい言葉を与えることになる。だから新しい造語が必要になることが多い。実態についてはかなり明確にされていても、それが新しい用語で表現されない場合もある。新しい視点が必要とされず、古い思考の枠内で用が足りていると思われている場合である。本節で取り上げる問題はこの好例である。
1 <党主政>とは何か
まず、この<党主政>なる造語によって何を表現したいのか。<党主政>とは、読んで字のごとく、<党>を<主>とする<政治システム>を意味する。党を主要な軸として形成されている<政治システム>である。<党>が一つであることのほうが多いであろうが、複数であってもどれか一つが抜群の位置と力を有していれば同じものとみてよい。<民主政>――一般の用語では「民主主義」――の対概念と考えてもらうと分りやすい。<民主政>とは、法の下で平等な権理をもつ市民を主体とする政治システムである。歴史的には中世の君主制を打破して誕生した。
論証と実証が求められている時に、同意への期待に頼るのは上品なやり方ではないことくらい承知してはいるが、それなりにソ連邦や中国の政治の実態について関心と知識をもっている人なら、<党主政>と聞いただけで、なるほどそう言われればそれはいいネーミングだと納得するのではないだろうか22)。
本来ならば、ソ連邦や中国の政治の実態についての分析・解明に進むべきなのであるが、先を急ぐ必要があり、今の私にはその手順を踏む余裕がない。そこを明らかにしないで、先に進むのはけしからんと注意されそうであるが、ソ連邦や中国の政治の実態についての分析・解明を省くのはもう一つもっと有力な理由がある。これらの社会と国家における<党>の位置と力が絶大であった(あるいは、ある)ことは周知と言ってよいからである。ソ連邦では1977年憲法第6条に「ソ連邦共産党は、ソビエト社会の指導的および嚮導的な力であり、その政治システム、国家組織および社会団体の中核である」23)と明記されていた(この条文に改変が加えられたのは、ゴルバチョフによるペレストロイカ末期の1991年であった)。
だから、従来もこの点に着目していた論者もいた。岩田昌征は、1991年末のソ連邦崩壊の後に、ソ連邦とユーゴスラビアについて新しく「党社会主義」24)と命名した。岩田は、1960年代に早くもソ連邦を「国権的社会主義」25)、ユーゴスラビアを「民権的社会主義」と対照的に区別して論じていたが、この区別を取り払って「党」に特徴点を求めることになった。なおも「社会主義」を用いている点は、前記の限界内ではあるが、特徴づけのほうについてだけはそっくりそのまま継承したい。岩田よりも20年以上も遅れて「国家社会主義」と言い出した者も少なくないが、はるか以前から「国権的社会主義」用語を用いていた岩田の認識のほうが深い。一般的に、あることを先に認識した人は、途中で挫折することがなければ、遅れた人がその点で追いついた時には、さらにその先へと認識を深化させていることが多い(逆に、いつまでも孤立していると、こらえ切れずに「転向」する場合もある)。先駆性のもう一つの意味はそこにある。
ソ連邦などの政治システムの特徴は、岩田が明らかにしたように、「国家」よりも「党」にこそある。大江泰一郎も1992年に著わした『ロシア・社会主義・法文化』で「『人権』や『人民主権』を排除して『共産党の指導的役割』を基軸に据えた社会秩序」26)と特徴づけていた。
ところで、私は1980年代には、ソ連邦を<官僚制>に焦点を当てて<官僚制過渡期社会>と捉え、<官僚制の克服>を実践的な課題として提示していた。「官僚制」も確かにソ連邦の社会と国家の特徴の一つには違いないが、「官僚制」なら例えば日本にも強固に存在していることにも明らかなように、ソ連邦の特徴とするには弱い。私の場合には、すぐに気づくこのことに目をふさいで、「官僚制」にポイントを設定したのは、そこに焦点が当てられることが少なかったからでもあったが、<党>それ自体の役割を軽視する傾向を助長したくないという政治的判断も働いていたからである。「党が悪いのではなく、官僚制が悪いのだ」とずらしたわけである。もちろん、私は今でも<党>それ自体の役割を重視している。私は、<民主政>を十全に実現するためには<党>は不可欠だと考えている。ただし複数の党である必要がある。社会は多様性に満ちているからである。
ソ連邦の経済については「計画経済」という名の「指令経済」であったことを、私はすでに1999年に「ソ連邦経済の特徴と本質」27)で明らかにした。それに<党主政>を加えると<指令制党主政>とでも言うことができる。慣用になるにつれて、最初の3文字は経済システムについて、後の3文字は政治システムについて表現したものと誰にでも理解されるようになるだろう。仮にこの特徴づけがなお不適切であったとしても、「社会主義」というにふさわしいか否かだけにこだわる議論の水準をこえて、経済と政治の内実における特徴は何なのかをめぐる議論へと誘導することができる。なにしろ、つい最近でも日本共産党の不破哲三議長は「ソ連の社会体制が社会主義の反対物だったという結論を明確に出しているところは、世界の共産党のあいだでもまだ少数でしょう」28)などと威張っている。だが、「社会主義の反対物」と決め付けるだけで、ソ連邦の社会を特徴づけることになるのであろうか(共産党の常任幹部会委員だった聴濤弘は「独特の位階制社会」という独特の試論を提起した29))。
2 なぜ<党主政>は成立したか
ソ連邦(や中国)でなぜ<党主政>が成立したのか。
その第1の歴史的根拠は、ロシア社会の法文化が法や法律を重んじるよりは人治の要素が大きな比重を占めていたことにある。別の言い方をすれば近代的な人権思想にもとづく<民主政>の発達が遅れていた。文学者の川端香男里によれば「ルネサンスや宗教改革はロシアにはほとんど影響を与えることなく終わり、中世的要素は色濃くその後も残ること」30)になったのである。法学者の藤田勇が書いていたように、レーニンなどボルシェヴィキのあいだでは「法律についての無知は革命家の誇りである」などと思われていた(レーニンは法学部を卒業し弁護士もしていたのに!)。世間では「自白は証拠の女王だ」などと言われていた社会だったのである。だから、革命から数十年経っても、法律家の間ですら「社会主義では人権は不要である」と考えられていた。藤田勇によれば、「『人権』という概念がポジティブなものとして承認されるようにな」31)ったのは、「近時」つまりペレストロイカが始まった1980年代半ば!なのである。ここには後述するマルクスの思想の弱点も影響しているが、そういう影響を受けやすい法文化の下にあったとも言える。このロシアの法文化については、大江泰一郎がロシア革命を「反立憲主義的社会主義」32)として特徴づけて強調している。
第2の歴史的根拠は、強行的な社会変革=革命を実現したことにある。そしてこの革命は「反資本主義」を主要な柱にしていた。第一次世界大戦下の国際環境のなかで、遅れて資本制経済に移行したロシアでは、無能なツアーによる圧政と悲惨な戦争という現実からの脱出路として、「反資本主義」=「社会主義」を掲げる、レーニンに指導されたボルシェヴィキ党の政治主張が、社会を統合することになった。
簡単に言えば、ボルシェヴィキ党の主導によってロシア革命は実現した。あるいはこう言ってもよい。革命の帰趨はボルシェヴィキ党に国家権力が主要に集中することに帰着した。今日でも議論の争点になっているが、革命直後の憲法制定議会の解散やボルシェヴィキ党だけの一党制への移行は、その背景・妥当性・正統性がどうであれ、そのように事態が進展したことに、ロシアの法文化の特徴があったのである。したがって、この革命を主導した政党がその後の政治過程を主導することになるのは自然の勢いだった。だからすでに引用したように、憲法に「共産党の指導的な力」が明記されることになったのである。「市民社会」強調論者の視点を取り入れれば、「市民社会」の未成熟ゆえに諸政治勢力の競合にならず、一党主導となったとも言える。
ついでに付言すれば、このいわば「早すぎた革命」が背負うべき重い課題がどこにあったのかを明らかにすることこそが大切なのであって、「早すぎた革命」の是非を問題にする立場に私は立っていない。私は、歴史の採点者ではなく、歴史を創造する人間でありたいからである。この点については、上島武が、ロシア革命の生き証人ともいうべきミリュコフの言葉を引いて次のように指摘しているとおりである。「当時、ミリュコフが冷徹に洞察していたとおり、『コルニーロフかレーニンか』以外に選択肢はなかったのである」33)。無能なツアーによる圧政と悲惨な戦争という現実のなかで、レーニンに指導されたボルシェヴィキ党が選択し主導した革命は、明らかにロシアの民衆にとって大きなプラスをもたらしたことも決定的な事実だったからである。E・H・カーが『ロシア革命』で明らかにしたように、当時のソ連邦の労働者は「革命が彼のためにしてくれたことを意識しないということはほとんどありえない。そしてこのことは、彼がかって享受したこともなければ夢みたこともない自由なるものの欠如を上まわるものであつた。体制の厳しさと残酷さは現実のものであった。しかし、その成果もまた現実のものだった」34からである。カーを引いたのは、ここでも「自由」別言すれば<民主政>の欠落が指摘されているからである。
第3の理論的根拠は、前記の「反資本主義」にはマルクスの思想が大きな影響を与え、その理論的な支柱となっていたことである。確かに、「資本主義の改良」ではなく、「資本主義の根本的否定・打倒」を経済学によって裏打ちして提起したことは、マルクスの偉大な貢献であった。だが、長所の裏に短所あり、でこのマルクスの理論には大きな欠落と逸脱が潜んでいた。一言でいえば、マルクスは政治の独自の領域、位置、役割について過小評価あるいは見落としていたのである。マルクスは、政治、別言すれば<民主政>を正面からとらえようとはしなかった。確かに、『共産党宣言』には「労働者革命の第一歩は、プロレタリア階級を支配階級にまで高めること、民主政を闘いとることである」35)と書いてあるが、「民主政」についての何か説明があるわけではない。すでに引用したように、加藤哲郎は「マルクスには……民主主義についての体系的言説はない」と確認している。エンゲルスは「議会は無花果の葉」であるとまで極言した。
レーニンはさらにこの傾向を「プロレタリアート独裁」を強調した『国家と革命』(1917年)で単純化した。前記のマルクスが「プロレタリア階級を支配階級にまで高めること」と「民主政を闘いとること」の二つを並置したことがミスリードを誘うことになった。レーニンにとっては「民主主義〔=民主政〕は、一階級の他階級にたいする系統的な暴力の行使のための組織である」36。だから、レーニンは「民主主義は国家形態であり、国家の一変種である」と決めつける。レーニンにとっては、「独裁」と「民主主義」とは、A形態からB形態への変化=移行を意味するのではない。そのことは1年後に書かれた『プロレタリア革命と背教者カウツキー』における「プロレタリア民主主義」についての説明がよく語っている。レーニンは、『国家と革命』では使わなかった「プロレタリア民主主義」について、支配する者にとっては「民主主義」であるものが、支配される者にとっては「独裁」であると説明している37)。つまり、「プロレタリア民主主義」と「プロレタリアート独裁」とは同一のあるものを上から見るか、下から見るかの違いにすぎない。私たちの普通の語感では、「民主主義=民主政」は「独裁」とは別の形態で、「独裁」の対極をなすと考えられるが、レーニンにとっては1つのものの上辺と下辺と理解されている。「民主政」とは何かと内実を探るのではなく、すぐに<誰にとっての>民主政か、と問題をすり替えているにすぎない。
このように、<民主政>を正しく捉えることができなかったがゆえに、出発点において「プロレタリア民主主義」なるものは歪められ、「プロレタリアート独裁」が強調され、<党主政>へと陥没したのである。断るまでもなく、私たちは、歴史を理念の展開過程とは観ないから、より正確に言えば、「プロレタリア民主主義」なるあいまいな理解が、党主政への陥没を容易に許すことになったのである。
ここに析出した3つの根拠は、ロシアのみならず、中国についても同じことが言えるであろう。ことわるまでもなく、レーニンの代わりに毛沢東が立っていた。毛沢東は、中国を「無天無法」と特徴づけていた。ペレストロイカ期にも今日の中国でも同様に「法治」が強調されているのは偶然ではない。今日の中国は<向資本制党主政>と言える。ベトナムやキューバがどのような歴史を背負っているのかについてもいずれ学びたいと考えている。危険な隣国・朝鮮民主主義人民共和国については「配給制軍事独裁」と命名できる。「軍事独裁」を<党主政>の下位概念として位置づけることも可能であろう。<軍主政>なる用語を創ってもよいが、そこまですることはないであろう。
3 <党主政>認識の有効性
最後に、<党主政>と捉えることの有効性はどこにあるのかを明らかにしよう。
第1の有効性は、対象の内実を一番よく表現できている点にある。ソ連邦の社会と国家における共産党の位置と役割が絶大であったことについては、くりかえすように本稿では論究しないが、余りにも明らかである。<党主政>という用語はそのことをズバリと表現している。ほ乳類と言えば、卵からではなく母乳によって育つ動物を、甲殻類と言えば甲殻を備える動物をイメージするように、<党主政>と聞けば誰もが「党が主要な位置」を占めていると推測するだろう。
また、<党主政>と命名することが導き出すというわけではないが、ここでもう一つ、<党主政>が形成された現実性についてしっかり認識することの重要性を合わせて確認しておきたい。<党主政>なんかにならなければよかったと嘆いたり、直ちに<党主政>を廃棄したいと願望したからといって、別の可能性が開かれてはいなかったし、簡単になくなるものではない。もちろん、だからと言って、「現実的なものは合理的である」と考えよというのではない。逆である。
第2の有効性は、そうあってはいけないこと、別言すれば反面教師であったことを明示しやすくなる点にある。冒頭にも触れたように、<党主政>は<民主政>の対極をなす概念であって、否定すべきものである。言うまでなく「否定すべき」という価値判断は私が加えているもので、この用語それ自身から浮かびあがるものではない。「悪主政」なら誰だって「悪が主要ではたまったものではない」とすぐに反発するだろうが、<党主政>にはそこまでの語感はない。しかし、大多数の人間がプラスに評価している<民主政>の対極をなす概念だと説明するのだから、<党主政>はよくないシステムと理解されることになる。「資本主義」が多くの場合に否定的用語として使われているように、やがて<党主政>も同様によくないシステムと理解されるであろう。
××はいけないと否定形で言うよりも、○○はよいと肯定形で主張するほうが積極的であり、困難でもある。では、よいものとは何か。<民主政>こそがそのよいものなのである。このことを積極的に主張できるところに、<党主政>と捉えることの第3の有効性がある。これまでは、マルクス主義や左翼のなかでは、「民主主義」は低次のもので、社会主義の前の段階で必要なものと思われていた。
だが、私たちは、<民主政>を永劫にめざすべきものとしてはっきりと位置づける必要がある。「永劫に」と強調したのは、けっして一時的なものではないことをはっきりさせたいからである。そして、この要求と、社会主義をめざすこととはなにひとつ対立・矛盾するものではなく、相互補完的な関係にある。
この問題は、日本がすでに先進国になったように後進国は以前より少なくなったからその比重は下がっているとはいえ、後進国における革命論にとってきわめて重要である。
先の認識に到達した私たちは、今では聞くことがほとんどなくなった「二段階革命論」の意味をその功罪あわせて取り出すことができる。この論は、遅れた国ではまずブルジョア民主主義を実現して、第2段階で社会主義革命をめざすというものであった。この論に対して、新左翼は社会主義革命を第2段階まで先送りすることは誤りだと批判した。「民主主義の遅れ」に着目する人たちは、「まず民主主義を」の方針に親近感をいだくことになった。いわば正統派と新左翼とのこの点での対立は、もし本稿での提起のように、<民主政>を追求することと、社会主義をめざすこととが、段階的に隔てられているのではなく、同時並行的に要求・追求することができると理解されていれば、生起しなくて済んだ。ところが、<民主政=民主主義を>ではなく、「ブルジョア民主主義を」あるいは「民主主義革命を」と表現したために、「社会主義はどこにいってしまったのだ、社会主義を彼岸化するな」という叫びを誘発したのである。正統派のほうは、「民主主義を要求する」ことを「社会主義の前段階」と理解していた。つまり、誤った枠組みのなかで、その誤りゆえに、着目点や力点の相違を隔絶した傾向あるいは対立関係として理解してしまったのである。
第4の有効性は、先進国における革命の課題が<経済システムの変革>にこそあることをはっきりさせる点にある。なぜなら、大づかみに言えば、先進国ではすでに<民主政>は理念としては掲げられ、ある程度は実現しているからである。この点では理念を充全に実現することが残された課題である。日本では象徴天皇制の廃止が課題である。
私は2年前に発表した「則法革命こそ活路」で、社会主義革命では「政治の領域では、原理の上で変革しなければならない内実はなかったのである」38)と明らかにした。この論文で続けて明らかにしたように、グスタフ・ラートブルフは『社会主義の文化理論』で「法治国家の理念と議会民主政の方式は……放棄されてはならない」39)と主張していたのである。「ブルジョア議会ではなく、コミューンを」という叫びが一時は叫ばれていたが、国家権力の腐敗を防止するためには、三権分立の原則のほうが有効であり、<市民主権>の確立こそがカギである。
それに対して、経済システムの変革はこれから実現すべき新しい課題である。そしてまさに、この<経済システムの変革>こそが<社会主義革命の核心的内実>なのである。レーニンは、1917年4月に「あらゆる革命の根本問題は権力の問題である」40)と断言したが、これは誤りである。ツアー支配下のロシアにおいては君主制の打破が課題であったから、この強調は現実的で有効であったことは事実である。だが、「あらゆる革命」にまで普遍化するのは誤っている。歴史は発展するのに、なぜ、「革命」だけは「あらゆる革命」として発展から除外されるのか。自説の過度の強調は往々にして誤謬に転化する。
仮に労働者階級が国家権力を握ったとしても、経済システムの変革に着手しなければ根本的には何の意味もない(私は、「資本制経済」に代わるのは<協議経済>だと主張しているが、そこまで同意できない人は、では何なのかを提起したほうがよい。間違っても今さら「計画経済」とつぶやくのだけはやめてほしい)。
このように、<民主政>はその充実だけが必要で、変革すべきは経済システムであるという認識は、前記の「二段階革命論」がもたらした弊害を除去するよりもはるかに大きな影響を生むことになる。<民主政>の大切さを理解し、尊重しようと考えている人々をはじき飛ばしたり、対立を引き起こすことなく、<経済システムの変革>の必要性を説得できるようになるからである。レーニンのように、「プロレタリアート独裁まで承認する」ことこそが必要であるなどという、わざわざ間口を狭める立場に立つのは間違いである。言うまでもなく、「プロレタリアート独裁」は日本共産党によってすでに1976年に放棄されているが、綱領には依然として「労働者階級の権力の確立」が掲げられている。これは、資本制社会の政治システムは「ブルジョアジー独裁」だとする認識に立脚したものであり、先にみたレーニンの断定を前提としている。だが、「労働者階級」だけを特別に格上げするこの考え方は、<農民>をはじき飛ばしているだけではなく、<法の下での平等の権理>が万人にあるとする<民主政>とは本来的に相容れないのである。それは、歴史の前進ではなく、退歩を意味する。ロシア革命直後の「勤労被搾取人民の権理宣言」では、非勤労者は権理の主体から外されていたのに、1936年のいわゆるスターリン憲法では権理の主体として「市民」が定立されることになったことについて、深く考える必要がある41)。
ここまではっきり確言すると、「労働者階級の権力」を否定して何が社会主義だ、という反発を招くであろうが、労資関係を根本的に変革して、<生産手段の社会化>を実現した上で、<民主政>が充全に実現している社会のどこに問題があるというのか。なお<未存>であることが“最大の弱点”ではあるが、それ以外の弱点を指摘してほしい。もちろん、この新しい社会に弱点が存在しないと主張したいのではない(戦前に、福田徳三は「たとえ社会主義社会が実現したとて社会問題は消滅するものではない」42)と明らかにしていた)。「労働者階級の権力の確立」を実現しないと除去できない弱点は何かと聞いているのである。重ねて言うが、すでにそこでは労資関係は根本的に変革されている。
私たちが本稿で明らかにした方法論によると、これまで安易に「資本主義」とか「社会主義」とかと分類されてきた社会はどのように表現することができるのか。その結論だけ示して本稿を閉じることにする。「資本主義」は<資本制民主政>、「社会主義」は<協議制民主政>、そしてソ連邦は<指令制党主政>と呼ぶのがもっとも適切だと、私は考える。このように表現すれば、変革すべき対象は経済の領域なのだということが明示される(<協議>は、前記のヒックスの分類を活かせば、第4の方式となる)。このように規定した上で、それらの社会の現状分析が求められている。<資本制民主政>から<協議制民主政>へと転換するためのオルタナティブは、その現状分析に踏まえてこそ的確に提示できるからである。
<注>
1)ガエターノ・モスカ『支配する階級』ダイヤモンド社、1973年、460頁。☆のところに「だから」と書いてあるが、ない方がよいだろう。モスカは、「ある教義が、ある社会のある歴史的瞬間にぴったりするためには、その教義はとりわけその社会のその瞬間に人間精神が到達している成熟の度合いに合致することが必要である」とも書いている(185頁)。だから、先駆的認識は孤立することが多い。
2)西村和義「中国の変化に学ぶもの」NHK、2002年12月19日。
3)S・I・ハヤカワ『思考と行動における言語』岩波書店、1951年、7頁以下。
4)福田徳三『生存権の社会政策』講談社、1980年、11頁。
5)板垣與一「ヴィジョンの書」。福田徳三『生存権の社会政策』4頁。
6)福田徳三『生存権の社会政策』11-12頁。
7)『社会学小辞典』有斐閣、1977年。148頁。
8)尾高朝雄『法の窮極に在るもの』有斐閣、1947年、194頁、195頁、28頁。
9)和辻哲郎『風土』岩波書店、1935年、217頁
10)村岡到「『唯物史観』の根本的検討」『連帯社会主義への政治理論』五月書房、2001年。
11)村岡到「『資本論』と農業」『生存権・平等・エコロジー』白順社、2003年、参照。
12)テンニース『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』。『ドイツの社会思想』河出書房新社、1963年、39頁、39頁、110頁、215頁。
13)カール・マンハイム『イデオロギーとユートピア』未来社、1968年、282頁。
14)宇野弘蔵『経済学方法論』東京大学出版会、1962年、参照。
15)村岡到「<協議経済>の構想」『協議型社会主義の模索』社会評論社、1999年、参照。
16)成瀬治『近代市民社会の成立』東京大学出版会、1984年、195頁。
17)村岡到「『唯物史観』の根本的検討」『連帯社会主義への政治理論』66頁。
18)村岡到「『まず政治権力獲得』論の陥穽」『連帯社会主義への政治理論』など参照。
19)加藤哲郎「民主主義」。『マルクス・カテゴリー事典』青木書店、。この直前で、加藤は「マルクスの民主主義概念は、マルクス主義思想全体の存亡に関わる一大争点となったのである」と書いているが、「体系的言辞はない」のに、「概念」としてまで高まった認識がマルクスにあったのであろうか。
20)村岡到『協議型社会主義の模索』社会評論社、1999年、参照。
21)斉藤日出治『空間批判と対抗社会』現代企画室、2003年、など参照。
22)私が本稿の後半を「稲妻」に掲載したあとに、この論点について後述の岩田征昌と会話する機会があった(2003年2月15日)が、彼は朝鮮民主主義人民共和国について「あれは家父長的党主政と言える」と応じた。
23)トポルニン『ソビエト憲法論』法律文化社、1980年、資料4頁。
24)岩田征昌『現代社会主義・形成と崩壊の論理』日本評論社、1993年、「第3章 党社会主義の終焉」参照。
25)岩田征昌『労働者自主管理』紀伊国屋書店、1974年、参照。
26)大江泰一郎『ロシア・社会主義・法文化』日本評論社、1992年、@頁。
27)村岡到「ソ連邦経済の特徴と本質」『協議型社会主義の模索』参照。
28)不破哲三「代々木『資本論』ゼミナールの最終講義」「赤旗」2002年12月19日。
29)聴濤弘『ソ連とはどういう社会だったのか』新日本出版社、1997年。本書については村岡到「『社会主義生成期』説を放棄したあとで」『協議型社会主義の模索』参照。聴濤は80年代に正統派のなかでは珍しく「官僚制」を論点として取り上げていた。
30)川端香男里『ロシア――その民族とこころ』講談社学術文庫、1998年、19頁。
31)藤田勇『概説ソビエト法』東京大学出版会、1986年、332頁。
32)大江泰一郎『ロシア・社会主義・法文化』参照。
33)上島武『QUEST』第19号=2002年5月、43頁。
34)E・H・カー『ロシア革命』岩波新書、267頁。私は、もう20年も前にこの一句を引いて、続けて次のように確認したことがあった。その信念は不動なので、引用しておきたい。「われわれはともすれば、あるべき理想やつらぬくべき原則を現実の複雑さを切りすてて単なる尺度としてあてがって批判したつもりになることがあるが、カーが明らかにしているように、ロシア革命はマイナスばかりを生んだわけではない。スターリソの圧政のなかでも「成果」を実感する労働者人民によって、しかしそこに虚偽と苦痛を感ずる労働者人民によつて歴史は創造される。“夢と現実”という歴史の二つの磁力を、明確に意識的にとらえ、緊張したバラソスをつらぬくことが、変革者に求められている」。『社会主義とは何か』稲妻社、1990年、74頁。
なお、カーの評価については、上島武が誠実にその意義と限界を明らかにしている(『ロシア革命・ソ連史論』窓社、2003年)。
35)マルクス/エンゲルス『共産党宣言』岩波文庫、68頁。
36)レーニン『国家と革命』岩波文庫、116頁、139頁。
37)レーニン『プロレタリア革命と背教者カウツキー』全集、第28巻、107頁。
38)村岡到「則法革命こそ活路」『連帯社会主義への政治理論』168頁。
39)グスタフ・ラートブル『社会主義の文化理論』(みすず書房、1953年)。松尾敬一『法理論と社会の変遷』有斐閣、1963年、148頁から重引。
40)レーニン「二重権力について」全集、第24巻、21頁。
41)村岡到「<社会主義と法>をめぐるソ連邦の経験――ロシア革命が直面した予期せぬ課題」『連帯社会主義への政治理論』参照。
42)福田徳三『生存権の社会政策』36頁。
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