写真対談 HARI氏編

今回の対談はHARI氏です。Field Worksの撮影会で知り合いました。

HARI氏の自己紹介(リンク)

落合:

まずモデルと言う言い方は好きではありません。

モデルではなく一人の人間であり、女なんです。

たいていの人はモデルの上辺だけを見ている様な気がします。

私は肉体ではなく、その人の心を見つめてその心を撮りたいと思ってます。

心は写真には写らないし、見えない。

しかし心を感じる写真を撮ることは出来ると思います。

HARI氏:

「モデル」とゆう単語の好き嫌いはともかく、「心を撮りたい」とゆう考えは分かるのですが、「心」とはなんでしょうか?

落合さんも書いている通り、「心」は写りません。

「心を感じる写真」とは、「撮影者とモデルさんだけが分かる写真」なのでしょうか?

落合さんにとって、「心」とはなんですか?

落合:

一言で言うのは難しいです。

例えば公園に花が咲いていて、撮るときに花を持ってカメラ目線で

笑顔っていうのは好きではないんです。

これは写真を撮るために付けさせたポーズに過ぎません。

この写真には撮られる人の心が無いんです。

私ならストーリーを考えます。

公園を散歩していて花壇に花が咲いていた。

「わぁ、綺麗な花」と言ってしゃがんで花を持つ。

この時にこの女の人は花を美しいと思っている。

写真を撮る私も美しいと思ってます。

その時の目線は何処に行くでしょうか?

当然花です。花を美しいと思う心を表現する為には、

花を見つめていなければならないんです。

さらにその美しいと思う心を強調する為に、花を持ってもらうんです。

花を持ちながらカメラ目線になったとたんに、何の為に花を

持っているのかの意味が無くなってしまうんです。

美しいと思う心を無視したただのポーズになってしまうんです。

HARI氏:

たしかにそうですね。

落合さんの例では、それが最良の構図だと思います。

ただ、セオリーに囚われすぎると同じ設定なら同じような写真ばかりになってしまいますよね。

もちろん、器材も腕も経験もある落合さんなら同じ設定でも異なる印象の写真を

撮ることが出来るでしょうけど。

私は、人と異なる構図を探すことも、目標としています。

「人と異なる構図」とは何か、と質問された時に話している話があります。

ある公園の花壇の近くにあるベンチに私と妻が座っていました。

花壇には一輪、きれいな花が咲いており、私は花壇の側に行くと自分が

この花を写真に撮る時にカメラを構えるであろう位置を探しました。

(この時私はカメラを持っていません、あくまで構図を探したのです。)

そして、妻が休んでいるベンチに戻ると、「あの花を写真に撮る人は、多分みんなあそこで写すよ。」と自分が決めた撮影位置を示しました。

妻は半信半疑でしたが、ぽつりぽつりと来るカメラマンがみんな、私の示した位置で写真を撮るのを見て「どうしてわかるの?」と尋ねました。

「背景や光を考えると、一般的にはあそこがあの花を撮るのに一番良い位置なんだよ。」

さらに数人が同じ位置で写真を撮った後、私が期待していた人が現れました。

その人は私が示した位置で花をしばらく見ていましたが、別の位置を探してそこで写真を撮ったのです。

私は、その人が去ってからその位置に行き、構図を見ました。

「!」

そこには私が考えなかった構図がありました。

この時の構図は、もう忘れてしまいましたが「花の美しさ」だけを捕らえた構図でなかった事は記憶しています。

ビギナーズ・ラックとゆう言葉がありますが、これは何も知らない初心者だからこそ訪れる幸運なんです。

多くの知識によって「斬新な・変わった・おもしろい写真」が失われて行くとは思いませんか?

平均打率(使用フイルム数における気に入った写真の割合)は確かに向上するけど「最初の頃の斬新さが薄れてきましたね。」と評される人って、結構多いと思います。

落合:

確かにそれは有りますね。テクニックを覚えるとそれに溺れてしまう。

セオリーに縛られるのは、ベテランほど多くなるでしょう。

HARI氏:

今は、基本に忠実に撮る事を心がけていますが、基本がしっかりと身についたら冒険をするつもりです。

打率は大幅に下がるでしょうが、わずかな場外ホームランを狙います。

ただ、ポートレートはこれが難しいですね。

「基本」はもちろん重要です。

「基本」が身についていなければ、「基本」から外れられないですから。

落合:

私の場合遊び心を大事にします。出来るだけ型にとらわれずに、

自由で自然な写真を撮りたいです。

あとがき:この対談は、江氏の対談のHARI氏の感想を対談にしたものです。協力してくれたHARI氏にお礼を申しあげます。

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