春の海終日のたりのたりかな

 この有名な句は蕪村の宝暦三年の作で、須磨で詠まれたものとされている。須磨浦公園にはその句碑もある。
 さて、この「終日のたり」の正体は何なのか?
 ふつうはゆったりした波、つまり「うねり」のようなものを想像するのではないかと思うが、春の大阪湾にはそれはちょっと似つかわしくない。
 ひとつの可能性として、大阪湾の「静振」が考えられないだろうか?
 大阪湾の静振にはいくつかのものが知られているが、その中の「横静振」は須磨と泉州方面との間に起こるもので、周期約60分のものが知られている。その程度の周期で海面がある程度大きく昇降すれば、「終日」海を見ていた詩人の歓心を買ったかも知れない。
 「春の海」というから、季節は春でなければならない。昔のことだから、春とは立春から立夏の前まで、今の暦で言えばだいたい2月から4月と考えて良いだろう。もしも2月だとすると、春とはいえ、まだ寒い。気象条件を考えると、西高東低のいわゆる冬型気圧配置も珍しくはない時期である。この気圧配置のとき、神戸では阪神タイガースの応援歌でも有名な「六甲おろし」が吹く。これは北西風なので、大阪湾の海水を泉州側へ吹き寄せるだろう。つまり大阪湾の北西方に位置する須磨の海面は下がり、南東方の泉州海岸の水位が上昇する。しかし立春を過ぎたこの時期、冬型は長くは持続しない。やがて大陸の高気圧の一部が分離して東へ進む移動性高気圧となる。この移動性高気圧に日本列島がすっぽり覆われると風は止み、非常に穏やかな日和となる。そうなると、須磨−泉州ラインの海面差は解消されるべきだが、そこにかの60分周期という静振の存在が問題になる。海面差はただちには解消されず、泉州側と須磨側の間でしばらくは振動を繰り返すだろう。蕪村が見たのはこれではないか、というのが本稿の主題である。
 では、実際にどの程度の静振が起こり得るのだろうか?

 風による海面傾斜は、次の式で求められる。
tanγ=           (1)
 ただし、γ:海面傾斜角
     τa:風の応力
     ρ:海水の密度
     g:重力加速度
     h:水深
 風の応力τaは以下のように求められる。
  τa=ρa*2         (2)
 ただし、ρa:空気密度
     u*:摩擦速度
 そして
u(z)= ln           (3)
 ただし、u(z):海面上高さzにおける風速
     k:カールマーン定数
     z0:海面粗度長
 さて、
  k≒0.4
であることが知られている。また、「中程度以上の強さの風では
  z0=0.6cm
に相当した粗面の性質を帯びる」とされている。これらを用いて、さらに高さzとその高さにおける風速u(z)を与えれば、(3)を逆解きしてu*が求められる。
 また、
  ρa=1.2kg/m3
を用いて(2)からτaが求められる。
 さらに、
  ρ=1000kg/m3
  g=9.8g/m2
 また大阪湾の平均水深
  h=27m
を用いて、(1)からtanγが求められる。
 須磨から紀伊半島までの距離をLとすれば、須磨と泉州海岸との水位差は
  Δη=Ltanγ          (4)
である。Lは30km(30,000m)程度である。
 これらの値を用いて、z=10m における風速を10m/s とすると、
  Δη=0.059m
つまり、水位差は6cm弱に過ぎない。
 上記の議論からわかるように、この水位差は風速の2乗に比例する。したがって風速が20m/sなら水位差は24cm、30m/sなら54cmまで上がるはずである。
 では、風速はどの程度を想定するのが妥当だろうか?ひとつの目安は「地衡風」であろう。これは地球の自転に起因する「コリオリ力」と気圧傾度力が釣り合う場合の風である。すなわち、
u=           (5)
 ただし、∂p/∂rは気圧傾度(単位距離あたりの気圧変化量)、fはコリオリ因子で、
  f=2ωsinλ
 ωは地球の自転角速度、λは緯度である。大阪湾付近は北緯30°ちょっとなので、sinλ≒1/2 となり、
f≒ω= =7.27×10-5s-1
と考えて良い。
 気圧傾度は、100km(100000m)につき1hPa(100Pa)とする。これは東京〜神戸間(約600km)で6hPaの気圧差で、天気図を描けばかなり等圧線の混んだ状態である。
∂p/∂r= =0.001kgm-2s-2
 このとき、
  u=11.5m/s
となる。このような「地衡風」が実現するのは地上1000m程度以上と言われており、海面直上ではこれよりいくらか弱いはずなので、かなり気圧傾度の大きい場合でも10m/s程度が妥当と思われる。20m/sやそれ以上というのは台風などを除けばそう滅多に起こらない。特に春先にはちょっと無理がありそうである。ごく稀に出現したとしても、蕪村がそれに遭遇したと主張するのは説得力に欠けるだろう。
A「亀は万年生きると言うな。」
B「うそだあ。この前夜店で買った亀は3日目に死んじゃったよ。」
A「その日がちょうど万年目だったんだ。」


験潮記録による検証
 大阪湾の横静振を験潮記録によって検証することはできないか?そのためには、固有周期が60分程度であるからそれより短い間隔の潮位データが必要である。海上保安庁海洋情報部では、5分間隔のリアルタイム験潮データを公表しているが、残念ながら大阪湾には観測点が全くない。一方、気象庁では大阪湾の大阪、神戸、洲本、淡輪の記録を公表している。しかしこちらは1時間間隔である。したがってこの横静振の検証には使えない。
 しかし、神戸と淡輪の記録があれば、上記の季節風による吹き寄せの検証はできるだろう。そこで、2003年2月のデータについてこれを試みた。
 ここで用いたのは潮位偏差すなわち、潮位の実測値と予測値(天文潮位)との差である。周知のように、潮位は月や太陽が及ぼす潮汐力によって昇降する。そして潮汐力についてはかなりよくわかっているので、それを用いて潮位を予測することができる。これを天文潮位と言う。しかし実際の潮位はこの天文潮位とぴったり一致するわけではない。様々な原因によって天文潮位からのずれが生ずる。例えば気圧が1hPa上昇(下降)すれば潮位は1cm下降(上昇)するとされる。したがって大きな台風が来て気圧が数十hPa下降すれば、それだけで潮位は数十cm上昇する。「高潮」の一因である。季節風による吹き寄せも、この潮位偏差として表れるはずである。
 2003年2月の神戸の潮位偏差(以下これを「偏差@神戸」と呼ぶ)と、淡輪のそれ(以下「偏差@淡輪」)を比較してみる。
要素偏差@神戸偏差@淡輪
平均値2.6cm1.4cm
最大26cm24cm
最小-17cm-15cm

 偏差@神戸は偏差@淡輪より平均的に1cm程大きく、また最大〜最小の振幅もやや大きい。しかしオーダー的にはほとんど変わらないと言って良いだろう。
 偏差@神戸と偏差@淡輪の相関係数は0.98というきわめて1に近い値である。このことは、偏差の要因の大部分が気圧変化のような大阪湾全体にほぼ同様の効果をもたらすものであることを示唆している。季節風による吹き寄せが大きければ、偏差@神戸と偏差@淡輪は逆位相(相関係数がマイナス)になるはずである。

 次に、淡輪と神戸の偏差の差つまり
  偏差@淡輪−偏差@神戸
を調べて見る。季節風による吹き寄せが大きいとき、この値は大きくなるはずである。
要素偏差@淡輪
−偏差@神戸
平均値-1.2cm
最大5cm
最小-7cm

 平均値が-1.2cmというのは、前述の偏差@神戸および偏差@淡輪の平均値の差に一致する。当然である。最大は5cm、最小は-7cmであるが、これらは平均値-1.2cmに対して±6cm程度ということになる。最大の5cm(平均値に対して+6cm)は2月20日16時に記録されている。この日の15時の天気図を見ると、関東の南東に994hPaの低気圧、朝鮮半島付近に1024hPaの高気圧があり、東海から中四国にかけて南北の等圧線が密に走っている。明らかに強い北西季節風のパターンである。そして「偏差@淡輪−偏差@神戸」の平均に対して+6cmという値は、前述の吹き寄せの理論的推定値とほぼ一致する。

Aug. 15, 2003