中華同文学校
陳舜臣「神戸ものがたり」に次の下り(pp199)がある。
気象台下の中華会館の純中国式建築も、完全に爆撃されて、あたり一面煉瓦の山と化して
いた。在留華僑がさまざまな行事に使い、神仏を祀り、孫文も立ち寄ったことのあるゆかり
の建物である。日清戦争のおり、敵愾心に燃える市民たちの投石によって破損し、いちど修
理したという記録はあるが、今度は修理もできなくなった。
これを読んだとき、筆者はすぐに、今の中華同文学校の場所であろうと、想像した。しかし考えてみると、「気象台下の」と言うんだから、むしろ関帝廟の周辺がふさわしいとも思える。結論を逡巡しながらそんなことを書いておいたら、それを読んだ中華同文学校卒業生の 蔡 旦伯 さんという方からメイルを頂いた。そして若干の曲折を経て、やはりこの中華会館は現在の中華同文学校の場所という結論に落ち着いた。蔡さんの先輩がそのようにおっしゃっている、ということである。
そのあたりは筆者の通学路だった。中華同文学校は司馬遼太郎も「街道をゆく/神戸散歩」に「りっぱな学校建築」と書いているが、40年前には「壮麗」とさえ言えたかと思う。僕らの学校とは雲泥の差だった。
さて、筆者は、今の神戸中華同文学校がまだなかった頃のことを覚えている。あそこは空襲でやられた焼け跡だった。あの焼け跡の「えったん」は大きくて食いでがあった。いたどり、東京ではすかんぽなどとも言うのか、茎をポンと折って皮をむいて食べる。僕らは「えったん」と呼んでいた。その「えったん」が、あの土地には栄養があったのか、誰も採らないから成長したのか、ともかく大きかった。
周辺には他にもいくつか焼け跡が残っていた。上の中華会館と同じ'45年6月5日か、その前の3月16日の空襲だろう。上に出てくる「気象台」つまり神戸海洋気象台にも焼け跡があった。気象台のは、'60年頃に南半分の2階までだけが修復されたが、3階はなくなり、さらに北半分は手付かずのまま'95年の震災まで残り、'99年に気象台自体が脇浜海岸通へ移転して、'01年には他の建物とともに取り壊された。
あの学校ができてからは中華同文の子とけんかしたこともあった。たいていは口げんかだが、「お前らシナ人はシナへ帰れ」ぐらいのことは言ったような気がする。今思えば顔から火が出る。南京町なんか行くと、あの頃のけんか相手がいるんじゃないかと内心ひやひやしている。周囲の大人の影響か。あるいは、そんな雲泥の差の学校を彼らが持ってることへの妬みもあったかも知れない。
その日も口げんかになった。こちらは小学生が二人、むこうは中学生がやはり二人ぐらいで、彼らは学校の中にいた。口論が嵩じて、僕は小石を投げた。もとより本気ではない。軽く投げたんだが、コントロールが狂って、石は彼らの頭上を通り過ぎ、後ろの校舎の窓ガラスに当たった。窓ガラスには傷がついた。
当時、僕らの学校の、いや僕らの家の窓ガラスも、紙みたいに薄くてあほらしいくらい簡単に割れた。それが中華同文のガラスは、いくら軽く投げたとはいえ、小さな傷がついただけだった。それでも、
「あのガラス、3000円すんねんぞ。」
相手の一人が言った。「いちまんさんぜんはっぴゃくえん」とかいう歌謡曲が流行ったのはその数年前くらいだったろうか。サラリーマンの月給の代表的な額はそんなもんだった。3000円は、特に子供にはとてつもない金だった。僕は内心青くなっていた。
「だまっといたるから、早よお、逃げ。」
その中学生が言ってくれた。言われなくても、逃げた。
Dec. 2002
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