「大倉山」雑考

3つの「大倉山」
もうひとつの大倉山
大倉喜八郎のこと
東海道本線と大倉山
東京vs神戸
3つの「大倉山」

 全国に「大倉山」という地名が何箇所あるのかは知らない。ただ、札幌、横浜、神戸の3つは知っている。
 この3都市は明治以降に急速に発展した大都市という共通点を持っている。
 もっとも、神戸は古代からこの国の重要な港であった。平清盛の時代にはほんの数ヶ月とはいえ、この国の都(福原京)が置かれた所でもある。しかしながら、江戸時代の兵庫は北前船などで栄えたとは言っても、人口は2万人程度だったというから、現在の150万都市の直接の先祖とは言い難い。横浜も同様で、東海道神奈川宿の人口は1万人にも満たなかったようだ。(数字は平凡社「世界大百科事典」より)
 横浜と神戸には「元町」とか「山手」など、共通の地名も多い。これも両者が同じように港町として発展してきた歴史を物語っているんだろうが、しかし「大倉山」なんて固有名詞ぽい地名まで共通するというのもちょっと不思議な気がする。

 さて、神戸の大倉山の由来については神戸市のホームページの「KOBEの本棚」(第20号、平成8年9月20日)に記述がある。以下に引用する。
大 倉 山

「我庵は茅渟の海原池に見て波の淡路は庭の築山」
明治の大実業家大倉喜八郎は、安養寺山(今の大倉山公園)からの眺望をこう詠みました。大倉喜八郎は、明治維新の動乱の中で御用商人として活躍し、一代で大倉財閥を築いた人物です。喜八郎は日清戦争後、安養寺山の約八千坪の土地を買い取り、広大な別荘を建てました。当時の安養寺山は松の木が繁り、瀬戸内海や淡路島が望めたそうです。しかし、この景勝地に建てた別荘に、喜八郎自身はあまり滞在せず、彼と懇意であった伊藤博文が、「昼夜涼風不断、神戸第一の眺望且避暑地に有之」と専ら利用していました。 その伊藤博文が、明治四十二年(一九〇九)ハルピンで射殺され、喜八郎は、伊藤が愛したこの地に彼の銅像を建てて公園として市民に解放する条件で、土地と別荘を神戸市に寄付しました。二年後の四十四年十月銅像が建設され、大倉山公園が開園。銅像は戦時中に供出されて今はありませんが、銅像の台座と大倉山の名称が当時を偲ばせます。

 また、札幌の「大倉シャンツェ」は同じく大倉喜八郎が資金援助して建設されたことに由来するという(平凡社「世界大百科事典)。
 ところが、横浜の場合は「大倉洋紙店」の大倉邦彦に因むということで、神戸、札幌と由来が異なる。
 しかし、いずれも明治、大正、昭和の実業家が名のもとという意味では共通しており、やはりこれら3都市の性格を物語っているものと言えるだろう。

もうひとつの大倉山
 ところで、「もうひとつの大倉山」と言える所がある。もっとも誰もそのようには呼んでいないのだが、東京虎ノ門のホテル・オークラ界隈がそれである。
 「地図で見る東京の変遷」(財団法人日本地図センター)に収録されている1909年(明治42年)頃の地図では、ここに「大倉邸」と記されていて、大倉喜八郎の邸があったことがわかる。その意味ではこちらが「元祖大倉山」と言えるかもしれない。その敷地の一番高い所には「大倉集古館」という博物館があり、そこから道路を渡ってホテルに入ると、そこは5階ロビーである。つまりホテルの1階からはそれだけの標高差がある。集古館からホテルと反対側にはアメリカ大使館があり、その少し南にはスペイン大使館、その裏にはアークヒルズがあって、赤坂、六本木方面へ下る。このように、ここはたかだか25mほどの標高ながら、ひとつの「山」ではあるのだ。サントリーホールは半分ほど、この山の中腹を繰り抜いたような構造になっている。
 この旧大倉邸からは、高層ビルなどなかった時代には、愛宕山が手前にあるとは言え、海まで見えたに違いない。その景観は神戸の大倉山に似ていたのではないか。「茅渟の海原池に見て」と大倉が愛でたその景観におそらく負けてはいなかったろう。

大倉喜八郎のこと
 さて、集古館の前には大倉喜八郎の銅像がある。そのばかでかさからは俗物の印象を受けるが、左の草履を脱いでベンチに半胡座し、その脱いだ草履までが銅像になっているのは、ちょっとユーモラスでもある。その横には山縣有朋の揮毫になる碑文が建っており、「神戸安養寺山別邸為公園」云々と、神戸市ホームページの記述を裏付ける字句も見える。
 ちなみに、ここにホテル・オークラを建てたのは大倉喜七郎で、喜八郎の子息であるが、この人の石碑は集古館の裏側にある。その碑文の「剣橋大学に遊学」という一節には笑ってしまった。「剣橋」と書いて「ケンブリッジ」と読むというジョークは知っていたが、まさかそのまんまの石碑があるとは思ってもみなかった。もしかすると「牛車」と書いて「オクスフォード」と読む石碑もどこかにあるんだろうか?
 しかし大倉喜八郎の銅像といい、この喜七郎の石碑といい、なかなかひょうきんである。あまり悪人とも思えなかったりする。
 大倉喜八郎には、戦争の度に肥え太った「死の商人」という評さえある。それもまた事実には相違なかろう。しかしまた、自ら開いた「大倉高商」(後の東京経済大学)で、90歳を越えた大倉翁は学生達に「一度約束したことはたとえ首を刎ねられてもやり通せ」と訓示を垂れたとも言う。商人にとって信用がどれほど大事かということを身をもって知っていた人と思われる。合併してできた大銀行がトラブルを起こしても、その経営者が「実害は無い」などと言ってのけるような風潮の中に置いてみると、大倉のこの言葉は輝いてさえ見える。
 財閥を築いたほどの人物である(大成建設も彼の創業という)。毀誉褒貶あって評価は定まるまい。まして筆者のような凡俗が評価を下すなんてことしたら恥をかくだけ。ここはいくばくかの知り得た事実と、それに対する感想だけを記述するに留めよう。

東海道本線と大倉山
 旧大倉邸、現ホテル・オークラの地が神戸の大倉山に似ていると述べたが、これは単に地形だけのことではない。ここからJR新橋駅までは1kmほどであろうか。一方、神戸の大倉山はJR神戸駅から500mほどである。昔の市電は、今の地下鉄山手線と同様、県庁方面からここを通って湊川公園さらには長田方面へ続く路線があったが、この大倉山から神戸駅へ向かう路線が分岐していた。
 日本の鉄道が新橋、横浜間から始まったということは広く知られているところである。やがてこの鉄道は神戸まで延びる。東海道本線である。つまり、東京と神戸の大倉邸は、この日本の大動脈の起点と終点のすぐ近くの、同じような高台にあったわけである。汽笛一声、新橋を発した列車はやがて愛宕山に隠れるが、すぐに煙を吐きながらその山裾に現れるのが、東京の大倉邸からは見えたはずで、十数時間後、その同じ列車が生田の森から現れて神戸駅に入るのも、神戸の大倉邸から見えたのにちがいない。
 なお、当時の新橋駅は後の汐止貨物駅で、今の「ゆりかもめ」の駅のあたり。神戸駅も当時のものは後の湊川貨物駅で、現在のハーバーランドの一角あたりであるが、どちらも現在の駅からそう遠くないし、大倉邸との位置関係もそんなに変わらない。
 東海道本線が全線開通したのは1889年で、それより先の山陽鉄道(後の山陽本線)は前年にやっと姫路まで伸びたばかりである。「当時の企業家のなかでは中国大陸への事業進出にきわめて積極的」(平凡社「世界大百科事典」)であった大倉喜八郎にとって、神戸は最前線だったものと思える。東京からここまでは鉄道があって便利が良い。そしてここから船で大陸へ向かうことができる。
 しかしやがて山陽鉄道は下関まで開通する(1901年)。そうなると大倉にとって神戸はさほど重要ではなくなったろう。大陸へ行くには一気に下関まで鉄道で行くほうが良い。急行列車を走らせたのも山陽鉄道が最初だったというからなおさらだ。神戸市ホームページに「この景勝地に建てた別荘に、喜八郎自身はあまり滞在せず」とあるのは、このような理由によるものではなかろうか?
 伊藤博文が神戸の大倉邸をこよなく愛したというのは嘘ではあるまい。しかしそれだけだろうか?鉄道が延びた先の下関は長州である。伊藤の本拠地である。大倉にしてみれば、もはや必要性の無い神戸の別邸を伊藤に自由に使わせるかわりに、下関で何らかの便宜を図ってもらうという魂胆もあったのではないかと思えて来る。であるなら、伊藤亡きあと、大倉にとって神戸の邸はますます価値の無いものだったろう。神戸市に寄贈するのもたいして惜しくはなかったのではないか?
 もっとも大倉はこれより前に「大倉商業学校」を建学し、当初それは東京の邸の敷地内にあったようだ。「死の商人」と評されるほどに、戦争でも何でも商機に敏であった半面、そうして得た資産にあまり執着していなかったようにも見える。

東京vs神戸
 時代は下って、東海道本線の起点は今の東京駅に移る。その程近く、麹町区に中央気象台(現気象庁)があった。一方、その頃神戸に海洋気象台が建てられた。その両台の台長を兼任する岡田武松という人物も現れた。当時、気象台というのはこの他に「高層気象台」があるだけだった。ちなみに、この海洋気象台はその後1999年まで宇治野山にあった。大倉山からは宇治川という小さな川を隔てた隣の山である。ここには内外の文献など、中央気象台より揃っていたという証言もあり、また初期の頃には日高孝次(後の東大海洋研初代所長)を初めとする多くの優秀な気象学者、海洋学者を輩出した。
 人はこの国の文化の対決軸として「東京vs大阪」を挙げる。そして平行移動的に「横浜vs神戸」と考える。そう考えるのには充分な根拠があるし、多くの場合、間違ってはいない。しかし、中には「東京vs神戸」という図式も少なからずあるようである。特に明治大正期には比較的多かったように思われる(一方で「大阪vs横浜」というのは聞いたことがない)。
 大倉山(そして宇治野山)は、そのような時代の証人であるかのようにも思えるのである。
初稿:2002.6.11
小改訂:2002.6.14
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