私の個人的に考えていることや体験話をするスペースです。日々思ったことや考えたことをうちあける 日記が中心であります。感想、その他、ご意見等をお待ちしています。どうぞ、辛口の批評をしてください。私に対する議論の挑戦もいつでもお受けします。もっとも、私自身は大した論客ではないので、期待に応えられないかもしれませんが
![]()
05.5.19
このサイトの目的ってなんだろう?とりあえず、ルール確認?テキストのみというすばらしいサイトなのだけれども日記はほとんど、ミクシィに吸収されてしまって、残るものはルールだけ……。いえ、頑張って、こっちにアップできそうな小説は書いておいてますけれど……。やっぱり、テキストなサイトであることは変わらないわけか。とりあえず、相互リンクの希望が1月ほど前に届いていました。
それに1月ほど気づかないくらいの放置っぷりはさすがに自分でもどうしようかと思うくらいだったけれど、まあ、いいか。ここはブリーズのルールサイト……と居直ろう。
![]()
05.3.20
今日は卒業式です。これで4月からプー花子です。うーん、ミクシィに日記を吸い上げられて基本的にはこちらの更新ができていないね。基本的にルール追加のときだけ、更新するようになってきたのかしらってことかしら。
![]()
05.12.30
たまにはこちらも更新しないと……。といっても、ベースボールヒーローズの板変えただけやねん。
![]()
05.12.30
正しい年越しの仕方
とりあえず、部屋を片づける。女の子に初詣の約束を取り付ける。あっ、こういうのは、大概、失敗するの私の場合。そして、遊戯王のデッキを構築する。……あれ?何か変な感じ。そうです。何だか、よく分からないのですが、突然、遊戯王のデッキを構築したくなってしまったのです。
もはや、滅びたゲームと思いきや、私のブリーズ・コミュニティーではどうやらまだまだ現役らしく、この前の
コンセプト
モンスターは極力いれない。
攻撃って何?くらいに魔法・トラップ重視のデッキ構築を目指しました。結果、モンスターは合計9体に圧縮されました。
相手が全く身動きできないくらいにロックする。
これは結構難しい。攻撃と魔法、トラップを封じるにはそれなりにデッキに枚数を支払わなければならないので、完全にはできませんでした。
じわりじわりと時間をかけてなぶる。
カルト?なんていわないでね。でも、これ私の好きな勝ちパターン。圧勝みたいな勝ち方ではなくて、じんわり相手の身動きが取れないところを時間をかけて、じっくり真綿で締めて殺すのが好き。
そして、出来上がったのが、「シモッチによる副作用」というカードを中心に出来上がったちょっと汚いデッキです。「シモッチによる副作用」は「相手のライフポイントを回復する効果は、ライフポイントを与える効果になる」というコンボ用永続トラップカード。つまり、どれだけ相手を回復させることができるかが勝負の決め手となる画期的なカードです。意外に相手を回復させるカードは少ないので、構築は難しいのですが、使っていると快感。なんていうかゾクゾクするんよ。
最新のカードもちょっと買ったカードがあるので、それを織り交ぜて、構築してみると、面白い。相手をロックしながら、じわりじわりさせるというデッキができました。早く対戦してみたい。
相手はきっと、絶対突破してやるって気になるか、あるいは私となんか対戦してやるかってどちらかの気持ちにさせること請け合いなのです。というわけでここまで読んだあなた。遊戯王のデッキをもっていたら私と勝負です。
![]()
05.12.29
ミクシィだけでない。ベースボールヒーローズというキーワードもまた、アクセス数を伸ばしている要因のひとつらしい。私と同じようにベースボールヒーローズのカードを探している人は多いらしい。これはがっつり集めて、トレード希望の人にメールしてもらわなくてはならないな。年末は忙しいから、ゲームセンターに行く予定はないのですけれども。といって、年始からもまた忙しくなるので、なかなかゲームセンターでベースボールヒーローズをやっている暇がなくなりつつあります。ちゃんと定期的にやらないとベースボールヒーローズの自分のチームが消えてしまうというのに……何をしているのだか。私は。いえ、部屋を片づけていますよ。だって、論文前と論文後で明らかに部屋自体がおかしくなっているもの。いまだに草稿と原稿用紙が入り乱れていて、歩くスペースもない。石油ストーぶつかっているから、間違って、原稿用紙がそこに落ちれば火災が起きてしまう惨状、残り約48時間。翌年までにはこの汚い部屋をきれいさっぱり片づけてやるのだから、覚悟しなさいよ。って、こうしてこんなところで、油売っている暇があったら、さっさとゴミのひとつも片づけろって。ごもっともです。
![]()
05.12.28
ミクシィ参戦して、ふと気がついた。アクセス数が伸びています。リンク元をたぐるとミクシィから来てくれた人が結構います。ありがとう。でも、それって、少なくとも内輪の人に羞恥プレイをくらっているということを意味するような意味しないようで、ちょっと、いや、かなり恥ずかしい。よし、ここはひとつ、ブリーズネットを真面目なサイトにするように頑張ろう。そうそう、容量も少なくなったし、もう、そろそろ過去の自分の落書き、若さ故の過ちは処分してしまおう。
このサイトはあくまでルール紹介サイト。TRPGのためのサイトです。でも、贈り物もらうのは嬉しいから、それはそれで、待ってます。
![]()
05.12.27
ミクシィに参加してみる?というわけで参戦してみました。ニックネームはツバキヒメです。そのままです。ミクシィ参加されているか違いましたら、強制アブダクションしてください。基本的に他人まかせな管理人です。
やってみてもいまいちルールが分からない。リアルと接点が微妙にあるのが、このサイトの不可解なところ。微妙にどう振る舞ってよいかわからない、リアルに走るか、バーチャルに耽るか……。うーん、まあ、とりあえず、基本は放置方向で、面白いことには足をつっこもうというスタイルで頑張ろうかと思います。まあ、どちらでもよいか、基本的には、私は何ていうか、リアルでも人と接点少ないからどちらでもよいということかしら。
それよりリアルに年賀状を書かなくては。去年はくれた人からすら返信しなかった私ですが、今年は時間も精神的な余裕も多分ありますので、多分、書きます。まあ、部屋が卒論という台風によってあれにあれて、文献山積み状態からは脱出しないといけないし……。案外、活動的になろうと思うと時間は足りないものです。
![]()
05.12.26
クリスマスの夜にはクリスマスパーティ。これは基本でしょう。というわけで、図書館バイトの人を集めてホームパーティです。賑やかに恋の語らいを、プレゼント交換して、まあ、こんな年もいいかなあと思いました。
でも、そのあとがいけなかった。どういうわけか、このパーティがお開きになって、残ったのは男ばかり、ちょうど4人いるのならというので、麻雀大会です。うーん、聖夜に奇跡の起こらなかった私が何でこんなことにと思いつつ、それでも、実牌を握れるという魅力に負けて敢行しました。バイトの先輩と私の同期の集まりでした。
ルールはアリアリの東風戦、25000点持ちの30000点返し、ウマ10-30の積み棒1500点。途中、東風戦は早いというのと、積み棒1500点が思いというので、一般的な半荘戦になりました。積み棒も300点に戻されました。最初は東風戦2回、後半に半荘戦2回の計4回戦を行いました。
まあ、それはそうとして、前半、1回戦こそ私は2着で終了しましたが、そのあとは3連勝で3コロを達成しました。
ハイライトでお送りしましょう。どんな展開だったか。
1回戦はまあ、様子見の一局でした。小場が続き、とりあえず、原点をキープしながら、ひとりが満貫を突き抜けてラストとなりました。私は2着を維持したまま終了です。
2回戦、ほぼ一方的に、私が上がりを制御しながら、点数を合わせてトップを維持して終わりました。
3回戦、ここからは、半荘戦になりましたので、打ち方も少し変わってきました。点数と着順を合わせてうつよりもいかに差を付けてゲームを支配するかという戦いとなりました。前半、東場の親番で、混一小三元の18000を振り込ませ、ほぼワンサイドに出来上がりつつあったところですが、私の上家、バイトの動機が東場で親連荘、そのときは積み棒が1500点というルールでしたので、この驚異的なパワーに圧倒され、親ハネのアドバンテージをひっくり返されました。その連荘の直前、私は白のみながら、場の流れからして、シャボかリャンメンか、迷いながらもリーチをしました。ダマなら誰かが振ったかもですが、これ以前に前に出てくるものがいなかったので、他家をリーチで押さえつけてしまいたかったからです。私はここで、直観を信じて、シャボ受けにしてみました。というのは、他家にとってはなにげに浮き気味になりそうなところだったのです。しかし、たらればでこの親連荘の始まりはこの失着から入りました。
リャンメンに受けていれば、一発満貫(リーチ一発白裏ドラ1)でこの連荘を始める人が振ってくれたのに、ついでに、それを見逃しても一発ツモで満貫でした。この失着で流れを失った私は、その後、親の3連荘を浴びました。
とはいえ、そのあとで、この連荘を阻止して、マクリ直し最後に、脇を飛ばして終了しました。
4回戦、流れは完全に失われていました。それはちょうどダッシュで走りきったあとのように配牌とツモ牌、私の勘が狂いだしたのです。放縦に親かぶり、リーチの競り合い負け、あれよあれよと点数が減り、初めてのラスで南場に突入しました。トップ目は33000点くらい、私は17000点まで落とされていました。しかし、運良く私はオーラスの親でした。私は南場3回戦、逆転のための布石を放ちました。
7種8牌、微妙な数でしたが、そこから、国士無双へと走りました。上がれなくても、オーラスで大物手を呼ぶためには、小物手を狙って親を引くよりは、そこへの努力と感じたからです。5巡ほどで発が4枚切られ、国士の目は消えましたが、そのまま、混老頭、混一、役牌で倍満狙い、あるいは高めに字一色まで狙いました。最終的には他家が他家に放縦して、終わりましたが、このとき、私は相手のリーチの声にもひるまずに全ツッパで行きました。この勢いが、オーラスにやはり残ったようです。
オーラス、14000点くらいに落ちていました。逆転するためには、親満2回程度が必要になりました。しかし、私は自信がありました。オカルトといわれてもこれは確かな自信なのです。打ち筋からして、オーラスの親番はピンズのホンイツ構え、役牌が二つトイツとなっていて、配牌からして、満貫上がれる手でした。トップ目は私のラス親を蹴るために最短最速の手格好をして、絞りが甘くなっていました。役牌を2副露させて、ピンズのリャンメン待ちで待ちました。染め手でありながら、捨て牌からは何の染め手かは予想させていませんでしたので、ここは12000点回収です。
1本場、配牌はぐっと悪くなりました。少し弱気になりました。カンチャンばかりで、どうしようもなかったのです。ここは完全に連荘しようと、最短最速手牌で組んでいったのですが、それが裏目になりました。高め、高めと張り続けていけば、面前三色、ドラ3のハネ満まで見える手牌となりました。私は完全にツモを読み違え、何とかテンパイリーチしたものの、流局しました。
2本場、配牌はまたも、ホンイツ構えでした。役牌とマンズしかありませんでした。私はまた、完全に高めに張り続け、マンズをさらしながらも、高め満貫のホンイツテンパイしました。ちなみに低めでもマクリです。さすがに、この勢いを恐れた他家は私のマンズを抑えて、粘り続け、まわし打ち続けました。私はそれでもツモってくる自信がありました。もともと、ツモ運が悪いので、捨て牌作りして、放縦型を作るのが私の手牌でしたが、私はその時自信に満ちあふれていました。
結果は、2家が頑張って、回し打っているのに、ひとり冒険した人がいたのです。その人があえなく振ってラスとなりました。ひんしゅくを買いながら、トータルでもその人はラスでした。ちなみにテンパイすらしていなかったのに……。
まあ、マクったから私はいいけれどね。
そういうわけで、また、みんなで麻雀しましょう。今度は配原ビンタ付きの東風戦、うちのルールでやりましょう。再戦、いつでもお待ちしております。結局、負けることが好きな私にとって、2位以下転落なしというのはつまらないものです。やはり、麻雀は負けてなんぼです。
![]()
05.12.24
うちのマスターが本人曰くとても魅力的な女性とデートをしてきたそうなの。イブの夜にディナーだそうです、ブリーズの世界にはない行事です。どうやら特別な意味がある日らしいです。
だから、こちらもたまには成就もするのかと思っていたのですが、でも、そこはマスターの恋は変わりませんでした。報われない恋が好きな奴です。その女性は彼氏持ちでラブラブだそうです。いや、うん、予想通り玉砕らしい。それで今、悦に入っているマスターは明日もバイトで朝早いの忘れているらしい。さっさと、風呂入って寝ろと説教しておきます。
ちなみに、今日はマスターには話させません。あの人、自分で作ったデートコースかなり気に入っているらしく、振られているのに、楽しかったって、仲間に熱心に報告しているのよ。神経が知れないわ。振られるの前提の恋しかしない気かしら?正気の沙汰とは思えない。私が一時の迷いとはいえ付き合ったシアスだって、まだましだったのに、うちのマスターはそれに輪をかけて酷いのよ。少しはまともな恋愛を楽しみなさいと正直思うわ。 エレナ
![]()
05.12.21
哲学科の卒業論文が終わった暁には、ワインアンドチーズパーティという論文提出おめでとうの会があります。形式は立食パーティですが、パーティといっても、学生の飲み会の延長というのはやはり変わらずでしたので、立食パーティ形式に従って、カジュアルなスーツにちょっとしたネクタイ、白地のポケットチーフをパッフドにして挑みました。
私のスーツへの信仰は案外厚く、もっぱらふたつボタンのシングル、肩パッドははずして、気楽さを演出しつつ、若者らしい軽い味わいの中にも、胸襟開いて話をしてもらえるような雰囲気作りをもっとうとしています。ふたつボタンのシングルを愛用する理由は、シングルはもともとVゾーンを広く取れるという性質(これは首周りを圧迫されるのを嫌うためです)と、堅苦しくない、雰囲気が作れることで好んでいます。私はまだダブルを着て威厳を放つようなことができるほど大人ではありませんですしね。もともとそういうのは苦手なので、年輪重ねてもダブルは否応なく着ざるをえないとき以外は着ないでしょう。
まあ、これくらいはオシャレの基本かなと思いつつ、実はプレタポルテとはいえ、かなり念入りに服装を選んで、私流を貫いたつもりでした。もともと哲学科なんていうものは偏屈が多いので、多分、立食ハーティの形式なんか無視してさらにブレイクでカジュアルな服装でくるに違いないと予想して、それでも、私はフォーマルでカジュアルな服装にこだわったので、まあ、びしっとスーツで決めていったのです。
さて、最悪だったのは、参加した教授よりも、スーツがフォーマルすぎたということです。多少、フォーマルになることは覚悟の上でした。もともとフォーマルな服装をすることの方がカジュアルなものよりも好きだという好みからそうなったわけですが、完全に浮きました。
教授より、フォーマルな風合いを出してしまったのは最悪でした。まあ、哲学科だからありなのですけれどもね。
それはそうと話は続きます。そんなわけで、パーティはそれなりにうまく進んだので、2次会までなだれ込みました。この頃にはすでにみんな出来上がっていて、ひどい荒れようでした。しかし、このスーツというかチーフの真価を発揮する瞬間が訪れたのは実は幸いでした。
私は話をしていた女の子、もっとも私はゼミに全く出ていなかったので完全に初対面です。彼女が手元のグラスをこぼしました。
チャンスです。私はジャケットのポケットに忍ばせたチーフの出番です。既に砕けた感じを出すために、チーフはパッフドから、さらに、クラッシュに変えて、華やかな演出となっていました。まあ、それはよいとして、相手がグラスをこぼした瞬間、私はチーフを女性に差し出しました。男なら、絶対にやってみたいチーフの遊びです。ちなみにチーフの高さに(単なるシルク製1890円なんだけれど)女性は使ってはくれませんでしたが、やっみみると楽しい限りです。チーフを出す瞬間から、女性へのアプローチまで完璧だったと自負しています。もっとも、この遊びが分からないから、私はまだまだ未熟なのですけれどもね。
社会人のみなさま。もちろん、学生の皆様も、もし、機会がありましたら、チーフひとつにこだわってみるのも粋であるかと存じ上げます。お試しあれです。私は楽しかったです。
![]()
05.12.19
祝、卒業論文提出。わーい。と、でも、達成感はない。哲学論文に終わりなどはないのである。いえ、いつものですます調に文体はすぐに戻りますから、安心してください。ただ空虚な達成感というか、何かが失われたのではないかという喪失感の方が大きいのが正直なところなのです。卒論提出日前に余裕をもって、しかも、何度も見直して校正して、先生にもよくしてもらって、まあ、書いたなという気にはなりますが、しかし、どうしてか、それだけで終わってしまうのです。なぜなのでしょう。
むしろ、教務課に提出に行ったとき、お兄さんこの人とてもかっこうよかった、が私の提出書類を書くふでを見て、「万年筆とはまた古風なものですね」といってくれた方が私が認められたような気がした、そんな感じです。まあ、どうしてそんな気持ちになるのかといえば、私の卒論を読んでいただければ、ご理解できるかと思いますが、あけっぴろげの私もさすがにこの論文はネット公開なんて愚はできませんので、欲しい方がいましたら、直接、メインページのメールから私と交渉してください。
ちなみに、この論文は私の論文ですから、当然、「ブリーズ論」といえばいえなくもないものです。もともと、どちらが最初だったかは分からないのですが、私の持論=ブリーズ論のようなところがあるので、もしブリーズのルールから推測された方は多分、見なくても私がどんなこと書いたか、想像には難くないことかと思います。でも、もちろん、真面目な論文ですからね、そのあたりはきちんとわきまえたつもりです。その上で、私は私を貫いた論文でした。だから、私にとっては卒業論文なんてものはやっぱり、2年かけたなんていったって通過儀礼のひとつに過ぎないわけで、常に卒論を書いているような気持ちで、そのような緊張感の中で、私は私を生きているという感じです。
まあ、卒論の話は置いておいて、とりあえず、この空虚感を埋めるために、帰り道のタイトーステーションに行きました。ゲームセンターです。私の憂さ晴らしはここで行われるのです。
今日は鉄拳5DRと兎麻雀と湾岸ミッドナイト2という私のオーソドックスなコースです。
鉄拳はぼろくそに負けました。タイトーステーションレベルには負けないと自負していた私ですが、なかなかバージョンアップに対応ができずにニーナは散りました。兎はどっこいどっこいの成績で、やっぱりモチベーションが下がっているときは勝てないものです。オリの勘は働くけれども、流れ重視のドラマティック麻雀では、やっぱり勝てません。そもそもオリた時点でこのゲームは負けなのだが、振り込むわけにはいかないので、どうしてもまわし打ちしてしまいます。
でも、いいことはありました。湾岸ミッドナイトです。これはいわゆるふつうのレースゲームなのですが、舞台は首都高で、いわゆる走り屋のゲームです。今日はふつうに、ミッションステージをクリアしていきました。C級を制覇して、B級に挑戦中です。愛車はマツダのRX-8です。名前はフィアです。もちろんのこと。でも、この選車の基準は単にロータリーよ永遠なれという気持ちで、本当に『プロジェクトX』です。本当はシトロエンのSAXOを愛機にしたかったのですが、というのもリアルに愛車なので、国産車しか選択肢がなかったので、まあ、そのあたりで、こんな設定になっています。適当にカスタムがされていて、まあ、かなりいい感じにしあがっているという雰囲気はあります。
そういうわけで、隣の人に対戦を求めます。ゲームセンターに行ったら対戦。人と戦うことに楽しみを見いだすので、やっぱりこれはやめられません。相手は、フィラレディZだった気がします。横須賀あたりを走っていた気がしますが、どうにもなかなか、レースゲームは難しいものです。
もともと湾岸ミッドナイトは真面目な走り屋ゲームです。本気で走ることに命賭けた人たちだから、もっとも、道交法は無視していますが、フェアにやるのがふつうです。でも、私はバーンナウトスタイルが抜けきっていないようです。めちゃくちゃにダーティです。
ロータリーの名を汚すくらいの外道な走り方をします。相手の車をプッシュするのは当たり前です。それはおろか、アザーカー(一般車両)にぶつけたり、壁際に追い込んだりします。とにかく、プッシュプッシュです。トラフィックテイクダウン、テイクダウン……と狙いはあくまでテイクダウンです。大人げないなと思いつつ、でも、こういうやり方が好きなので、やってしまいます。別にそんなことしなくても、コーナリングはまあまあうまくなった方ですよ。ゲームだからいいけれど、実車でやったら、ぼこぼこになっているだろうなっというゲームスタイルです。ちなみに、この精神はスリルドライブでも生かされます。とにかく、相手を事故らすのが好きです。でも、自分は事故を回避して逃げます。レースゲームの醍醐味はやっぱりそこかななんて思います。でも、バトルギアをやるときは、真面目ですよ。こすったりもしない、クリッピングポイントを維持して、あくまで、フェアにやります。まあ、要はルールによってどう自分のスタイルを確立するか、ゲームの醍醐味というのはそんなところかなあと思います。
![]()
05.12.15
卒論がほぼ完成をして製本作業に取りかかりました。なんで製本なんて面倒な作業があるのかなあと、この作業をしている間は本当は思っていたのです。だって、レポートとして提出した方が読み手にとっても楽だし、合理的だ。と私は思ったのです。それを何もわざわざ、こんな手間をと思っていたのですが、作り終えてなぜこんなことをさせるのか、私は分かった気がします。
私はこの卒論を2年がかりで作り上げました。そして、完成させたのは、文字数約84000字、400字詰原稿用紙なら単純計算で210枚程度、余白とか空白とかがあるので、その分、実質300枚まであとわずかという大作を完成させたつもりでいるのです。
ところどころ、これから手直ししないといけない部分もあるから、この加筆修正の間に、この大台は突破してやろうという目論みです。
まあ、それはよいとして、手元にあるこの論文。何のことはない稚拙な学部論文です。でも、何ということでしょう。子どもを産み落としたような高揚感。そして、愛おしさ。長年忘れていた私の愛する気持ちを思い出させてくれた気がします。私にとって分身ともいえるこの論文は哲学の論文としては下の下です。教授にもブリーズネットのアドレスを教えているから、戯れにのぞいてこれを読んで頂けるかも知れませんので、もしそうでしたら、ここでお願いがあります。
もし、私が首尾よく提出にこぎつけて、卒論が読まれることとなったとき、変な恩情を加えて、50可とかで卒業させないでください。もちろん、私の分からないように、点数に色を付けるのもなしです。私の論文が先生の心に少しでも響くものでなかったら、つまりは、稚拙な議論だと感じたならば、そこはそこで、容赦なく不可を与えてください。私はその覚悟があります。もちろん、自信はありません。でも、私はこの論文と最後まで向き合いたいのです。私はこの論文を愛しているのです。だから、中途半端に終わらせたくないのです。
![]()
05.12.10
すばらしい現象に遭遇することとなりました。というのは、また、卒論関係なのですが、一応、10割完成して、あとは校正と注釈づけをするための一週間なのですが、この卒業論文、友だちにみせたら、おまえらしい論文でまた難解だといわれました。そして、帰ってまた、これをじっくりと読んでみると、うん、全くその通りで、私にも難解な論文になっているのです。どうして、こうなってしまったのだろうといぶかしんでいるのです。私の論文に自分で説明中をつけようとしたとき、この論文が果たして本当に、うまい具合に作用するぴったりな説明かどうか分からなくなるという不思議な現象が生じるのです。なぜなら、私は私が書いた論文を理解できないからです。
これは一種の立場逆転現象であります。私はいままで、論文を書くものであり、そして、いつのまにか論文を読むものになったのです。つまり、自分で自分を解釈するという不思議な立場にまわったのです。そうしたとき、私の論文はいままで、私だったものは実は過去の私であり、現在の私ではないということを実感させられます。過去の私≠現在の私なのです。換言すれば、私の論文≠私ということになってしまうのです。
これが何を意味しているのか。それはまあ、論文を書いた人には多分、分かるのだろうから、あえて説明することはないだろうね。私も忙しくなってきたので、なにげに、勉強に忙しくしているので、このあたり簡単に失礼致します。
![]()
05.12.8
今日は卒論はおやすみ。とかいいつつ、ちょっとずつは書いてあるけれど、9割方消化したのであとはこの完成度をいかに高めていくかというその1点に過ぎないということです。
さて、おやすみなので、私は今日はカウンセリングを受けて、帰り道、ゲームセンターの麻雀に没頭しております。没頭しているのは、「兎−野生の闘牌」のオンライン版です。流れの偏りが激しいので、ある意味で、これは麻雀ではなくて、流れを感じ取るゲーム、いかに原作に登場する人物になりきりその上で、打牌を決めるというのが戦法です。
そこでは、捨て牌読みや、効率打法よりも、より流れを支配するかということが問題となっていきます。
そこで今日はこのゲームを私なりに分析して、いかにゲームを組み立てたらよいかを少しずつ、思ったことを率直に話していこうと思います。
まず基本的にゲームはコンビ打ちであるということを意識しなくてはなりません。味方に放縦させてもポイントにはなりませんし、逆に相手に放縦させれば大きなアドバンテージとなります。だから、味方の親番では、この親がいかに勝ち行くできるか、ポイントを稼げるか、この点に執着しなくてはいけません。もし、味方が親でしかも大物手が入っているときはたとえ、味方が放銃しても、みのがすくらいの器量が必要となります。
また、ゲームは東風戦なので、味方も自分も親番は一度しかありません。そして、この親番に効率よく上がることが点棒を集めるために必須であるといえます。ここでは、基本的な麻雀の戦術というものはあまり役には立ちません。当たり牌を抑えることはまだできます。しかし、波に乗った相手の場合、それをものとはしないで、ツモ上がりしてしまうからです。
そして、点棒よりも運が誰にどれくらいいっているのかを察知することが最も重要な要因となっています。運が良ければ、好牌はあたりまえのようにそのキャラクターに集まり、上がってしまうからです。
さて、これがこの麻雀の基本的なルールです。たたき上げで得られた麻雀の技術はそれぞれキャラクターの前の能力に対しては無力です。だから、逆にこの特性を理解した上での振る舞いをしなくてはなりません。そこには運量という点棒とは無関係に存在する流れが絶対的にあるのです。そして、そのことを侮ってはいけません。
まず、新城さんというキャラクターについて、語ります。このキャラクターが最初なのは、単にこのキャラクターが好きだからです。他に理由はありません。だから、気にしないでください。
このキャラクターは親番で、爆発するタイプの打ち手です。逆に言えば、親番以外では、できるだけ手を温存して、無駄な運を使わないように努力することが大切です。親番となれば、満貫、ハネ満、倍満程度の手牌はすぐにつくれてしまうので、それまで、劣勢であっても実は問題ではないのです。このキャラクターがオーラスで待ちかまえいていたとしたら、連チャンを続けてマクリができるといって過言ではないでしょう。
さて、このキャラクターの能力を生かすためには親番では長い間、連チャンして、他の局は回してしまうのがこつです。パートナーは優などの他家のテンパイがわかる能力をもつキャラクターか、ケイトのような上がり時に相手の配勢を落とす能力がもっているキャラクターをから選ぶとよいでしょう。優は上がり牌を私にトスしてくれますし、危険時にツモ上がりなどして、最悪の大物手でゲームを壊されることを避けてくれます。ケイトは相手のシャンテン数を落として、自分の親番を有利にしてくれます。
次にゴンというキャラクターについて語りましょう。私はゴンはそんなに好きではありません。それよか、その脇にいるイチローの方が断然格好いいです。それはそうと、このゴンは完全なクラッシャーです。すべての局に役満手が入るというふれこみですが、実際は局が進むにつれて、役満手が入るというキャラクターです。今日は役満を2連チャンされて終了しました。それだけ破壊力のあるキャラクターです。このゴンに対して、私は新城さんというキャラクターで挑むのですが、実はとても相性が悪いのです。私は親番で、点棒を稼ぐ。その間にゴンは着々と役満手を確実なものにしていきます。連チャンするたびに役満の恐怖は増加します。
もっとも、この役満は捨牌から察すると何を狙っているのかまるわかりなので、放縦はさけられますが、ツモられます。
そこで、もっとも消極的な考えですが、兎が最も強いという結論に至りました。兎は敵の危険牌を察知する能力だけでなく、味方上がり配を確実に知るという能力をもっています。というのは、流れはこのゲームにおいては実は見えるものです。誰がどこでテンパイして、どのタイミングで、ツモってくるかも大体予想できます。そうなれば、この相手の大物手を完全に抑えきって、味方にトスすることが最も大切なそして確実な方法であるといえます。さすがに、私には全員の待ち牌は分かりません。大体分かるでは通用しないかにです。
それならば、確実に卓上を支配することのできる兎が最強ということになります。
もっとも、兎に手作りでくないくらいに相手が仕上がっていたり、豪運で蹂躙されたとしたら、まあ、もう仕方ありませんが……
![]()
05.12.4
さて、波が乗らない。論文を書く雰囲気にならない。まあ、こういうときもあると開き直り、昨日は暴挙にでました。立川のゲームセンター、オスロー店、そこは多分、この地域の中で最もレベルの強い人たちが集まる領域だと思います。その中でも最も規模の大きな第2店に行ってきました。そこには鉄拳対戦台が4ライン、連合vsZAFTが6ラインくらいありました。MJ2や麻雀格闘倶楽部4もあり、対戦を求める人たちの集まる非常に熱い場所でした。
そこで、私は兎の闘牌、伊藤誠『兎』をモチーフにしたドラマティック麻雀をメインにして、気分は本当に新城さんなんてやっていました。最近は、これが私のトレンドです。ゲーム自体がドラマティックを謳っているので、流れという要素が強いけれども、配牌から仕込みが入っているので、すごい役がばんばん出てきます。オリの勘がなかなかうまく発揮できないので、逆に本格麻雀の腕がなまりそうな雰囲気ですが、とても楽しいのです。
ちなみに、私は新城さん使いです。チームの名前はフィアです。もし、兎をやっている方、私は今のところDクラスなので、会ったらよろしくお願いします。ちなみに、ふつうの麻雀をやっていても、フィアは新城さんよりの戦い方をします。もともと、素で打っていても親番爆発タイプです。けれど、新城さんを使うとそれがよりはっきりします。
もちろん、鉄拳もやりました。そして、全敗しました。やはり、激戦区の中のさらなる激戦区です。同じレベルであるはずの、初段とか二段とか低段の人でも勝ちきれません。そして、この人たちはさらに強い人と戦うので、いつまでも初段をしているのだろうと思います。
全敗したけれど、嬉しかったことがあります。鉄拳王とお手合わせしてもらえました。しかも、みんなが知っている鉄拳王でした。武田〆NoRespectです。鉄拳ランカー、ランキング18位、家庭用ゲーム鉄拳5でも、名前が出てくるの有名な人です。まさか、万年初段の私が戦える何てありがたかったです。とても楽しかったです。ありがとうございます。
しかも、あざやかなシャオユウをプレイ中でした。せめて、1本とらせて頂ければと挑んでみましたが、軽くあしらわれてしまいました。相当、手加減されていたかとは思いますが、この人は何枚も相手が上でした。鉄拳王はやはり強かったです。強い人と戦うのはとても楽しいです。また、お手合わせが果たされれば、この下手なニーナを相手してくださいっという感じでした。
ちなみに今日は?もちろん、オン、オフは切り替えますさ。少し波を取り戻して、リスタートです。追いこみ開始です。
![]()
05.11.30
引きこもるのは良くない。というので、たまには外に出ようと外に出ました。といっても弟を駅前まで送るという作業で、実質、外に出たのは30分くらいでした。もっとも、この30分というのは、この弟が次の予定に間に合わないために、移動時間を短縮させて、ダブルブッキングと遅刻を回避するような誰かをほうふつさせる時間ではありました。なんで、急いでいる日に限って、警察車両がうろちょろしているのでしょう。無謀運転とか、法定速度オーバーも遠慮さぜるを得なくて、他のところで、もっと危険な走行させられる羽目になるのに……。
と愚痴ってもしかたないので、本題に入ります。今日はそんなこともあったので、久しぶりに外に出て、駅前の繁華街に行ったついでに、注文して取り寄せた本を取りに行きました。
その本のタイトルは『NDC日本十進分類表第九版』です。ちょっと高かったとは思うのですが、最近、本が増大傾向にある私の書架をきれいに片づけるのには、これほど最適な道具はないのです。みんなにお勧めの図書です。しかも、これは読んでみると案外に面白いのです。この『NDC日本十進分類表第九版』には解説が付いてあり、とてもそのはじめの文句はこうでした。
「はじめに この解説は、初めて本書に接する方のために書かれており、分類作業に取りかかる前にぜひ読んで理解していただきたい。作業に入ってからも、迷ったら読み返していただくと幸いである」
まさに私のためにあるような著作だと思わせてくれるのが嬉しいところです。
もっとも、私のもっている本の荒わけは既になされていて、第一次区分は既になされていて、ものによっては、第二次区分まではされているのですが、これをきっかり、NDCに従って分類するには時間がいるので、多分、後回しにしてしまうだろうとは思うのです。多分、予想通りに、私の蔵書は1門ばかりです。しかも13、14に集中してしまっています。案外、4門もあったのは、私の考えていることが、このあたりに引っかかっている証拠かもしれません。それを思うとほら趣味の本とか、増やそうよと思うのですが、山積みにされている本の中では、趣味のエリアになりそうな芸術関係7門はほとんどありませんでした。囲碁の本とか麻雀の本とかくらいです。
それはそうと、それよりも面白かったのは、このNDC表紙に分類記号が付いているのです。014.45と自己主張しています。どちらにせよ、私には0門関係はほとんどないのですから、そんな細部にわたった区分はされやしないのに……。
気づいたらパソコンに向かっている時間が多くなっているので、こうして休憩の気分で、書いている話が多くなったような……。しかも、今日の話って、すごくプライベートです。
![]()
05.11.30
ねぇ、先生。私はこれからどうしたらよいのでしょう。私はうつ病のまま、多分、大学生を卒業しています。もっとも、それは今書いている卒業論文が認められたらの話ですが、そうしたら私は宙ぶらりんな生に甘んじなくてはならなくなるのです。。
心理学の勉強は哲学の肥やしにするために勉強したに過ぎないので、専門的な臨床心理学系の大学院の、しかも春試験となればまず受からないでしょう。もともと哲学から臨床心理学へ、それは無謀にみえる転向なのですから、受かるなんて思えないのです。
それに、今期、履修しながら、その実、一度もゼミを受けなかった私は大学生ではなくて引きこもりです。それを先生は見捨てずにいてくれました。私はそれにとても感謝しているのです。この感謝を言葉で言い表すのは本当にできないくらいに感謝しているのです。
私は何をやるにしても中途半端です。教職にしたって、教育実習では、私の思うとおりにできなかった。勉強不足もありますが、どうやって生徒と接したらよいのか、先生にはなりきれませんでした。単位も残りはずかとはいえ、残っているので、教員免許状を取ることができませんでした。来年はとりあえず、この免許状はとりに行こうと思います。そうでなくては、私を指導していただいた恩師に申し訳がつかないのです。
私はどうしたらよいのでしょう。大学の卒業は私にとってはすべての保護を失ってひとりだちせねばなせないことを意味しています。
友人はいいました。「大学4年生を越えたら時間の進み方が変わる」と。これはもっともな意見です。それは大人として生きることを暗示しているものなのです。
つまり、彼は既に大人になっていたのでした。それに比べて、私はヒッキーです。私には何の能力もありません。ある人は私を評価してくれます。しかし、内心の私は既に限界を感じているのです。私は生き遅れています。というのは、本来の意味ではなくて、取り残されたまま子どもであり続けているという意味でです。私は22歳です。大人の年齢です。もはや、子どもではいられなくなったのです。
ねぇ、先生。私はこれからどうしたらよいのでしょう。臨床心理学系の資格は何も大学院に行かなければならないというわけではありません。1年はその他の研究機関で指導を受けることができるでしょう。そして、知識を蓄えた私は翌年には多分、院生に返り咲くに違いありません。
そして、また、卒業して。私はうまくゆけば、臨床心理士、専修教育免許状に加えて、何か軽めの臨床心理学系の資格を得るチャンスを得られるかもしれません。ついでに、図書館でのバイト経験も生かして図書館司書の資格も取ってやりましょうか。
でも、その先は何が待っているのでしょうか。
私の理想は高校倫理の非常勤講師に加えて、どこかしらの学校カウンセラーになれれば本望だと思っています。
でも、そんな理想も私の家にまつわる呪いの前には無力なのかもしれません。とても悲しいことです。それに私はまだ、うつ病という爆弾を抱えています。治療を先回しにした結果、このうつ病の病理はかなり進行しているようにも思えます。私が夢を叶えるまで生きたいられるかどうか、それもまた危うくなってきました。悲しいけれど、これが私に突きつけられた現実なのです。
私はとても弱いのです。
![]()
05.11.29
部屋からでない、完全な引きこもり生活をして3日、疲れてきました。起きている時間のほとんどをこのパソコンの前に座り、論文を執筆するだけの生活は私には耐えられそうにないことなのです。
ふと、3日前に外出して、人と会話したときのことを思い出します。バイト終わりにだべった女の子たちを考えます。引きこもりってつらいなあ、彼女たちはいま何をしているのだろうと。
![]()
05.11.27
大切なこととはいったいなんでしょう。昨日のお茶会は実はほとんど夜中にまで及ぶもので、感触としてはリアルな女の子の感性に触れた気がしてとても有意義だった反面に、私の中では大切なことが見失われていることにも気づかされました。
というのも、そのとき、私は女性化していました。男性性を放棄して、ほとんど女の子と同化していたのです。女4に対して男1というシチュエーションだったから必然なのかもとも思いつつそれがとても不思議なことのように思えました。
私は男で、お話をしているのは、とても親しい、親しいゆえに無遠慮に発言もする友人です。彼女たちと恋の話をしました。だから、私は余計に自分の中の女の子の気持ちを感じたのです。共感性のなせる技かもしれません。私は女ではないから、(プロフィールにネカマと書いているけれど、本体は至ってノーマルな男)、やはり、女の子のことは分からないのです。もっとも、女の子に限って人間なんていうものがわからないのではありますが……。
それなのに共感してしまう。それはそれで私は女の子のような振る舞いをしてしまっていたのでした。
一夜明けて、思い返してみると、私は恋をしていないのです。13年に及ぶ長い片思いを経てから、多分、私はそれ以上の恋をしていないのです。大切なことは何でしょう。私は恋を忘れてしまっているのです。恋は大切なものなのでしょうか。それとも、何でもない消費される感傷なのでしょうか。
そう思ったら、恋をしたくなりました。でも、もう私には恋をする気持ちが芽生えてこないのです。
![]()
05.11.26
今日はバイトして、そのお仲間と夕食を共にして、それからお茶をすする、とても一般的な平和な1日を過ごすこととなりました。卒論一直線の私にとっては、バイトというのはまさにオフの日であり、計算のうちにも入っている遊びの日なのです。遊びの日というのは語弊がありますが、私の中ではバイトというものはマニュアルという極めて制限された自己の中で、どれだけ質の高いサービスを提供するかをテーマとした実験なのです。それに加えて、私はバイトの仲間が好きなのです。自分の好きな人に囲まれることの幸せは多分、私の中ではそれいじょうのものはないでしょう。私は少なくとも人間を嫌いにはなっていないのです。とはいえ、世俗の話題を振られると弱いですが、それでも彼女たちのひとことひとことは生を実感させ、私にも生きるということの意味を追求するヒントを与えてくれます。
彼女たちは迷っています。迷いというのはとても生きているのに必要なことです。私も迷っています。だから、おあいこではあるのです。でも、このおあいこは、単なるだべりによって悲しくも決められてしまうものではありません。その間にある対話の中にはさらに高みに昇るべく真理へのヒントが隠されていると私は感じています。それはなぜか、これは答えはオープンにして、個々の判断に任せるとします。
いずれにしても、対話というのはどんな話であっても、私にとって、意味あるものでいてくれます。
![]()
05.11.25
疲れはピークをむかえている気がします。私がこんなに頑張るなんてとても違和感があります。私はもともとキリギリスなのです。すべての世の中に斜を構えて生きていて、いつ果てるとない生を恨んで生きているのです。
生はなんという苦しみを与えるのでしょう。卒論、たかが卒論と思いながら、現在のペースからして勝算は5分5分です。気づいたら字数だけでは規定枚数は満たしたらしいから、適当にお終いにさせてしまうかもしれませんが、それはやっぱり私には許せないのです。なぜなら、私のいいたいことはまだ、30%くらいしか消化していないのです。
不眠症は輪をかけて酷くなりました。ここで今、こんな風に日記を書いているのもねられないからなのです。フランクルの努力価値というのは何でしょう?私は頑張っても頑張ってもそれだけに過ぎない気がしてならないのです。
![]()
05.11.22
たまには外出をするのもよいものです。秋晴れが続き、突き抜けるような青空を毎日、この場所から窓越しに眺めている私ですが、たまには、本当にたまには外出します。
そうでないと、私の愛機のバイクのオドメーターがまわらないからというのもあります。定期的に点検に出すバイクのディーラーさんには、もっと乗りましょうとダメ出しをされました。それでも、最近は走行距離が2200qをようやく突破して、頑張ったつもりではいるのです。
そういえば、全然関係がないけれど、私の車も合わせた総走行距離は大体25000qくらいです。免許取得からまだ4年間あまりだから、少ない方かもしれません。でも、自慢はまだ無事故無違反で通っていることです。なかなかドライビングというのは上達しないもので、下手ではありますが……。特にバイクはまだまだ初心者です。1年は経ちましたが……。
さて、とはいうものの、私はとりあえずは模範的なドライバーなのです。信号は守るし、駐車禁止違反はしない、制限速度は+10q/sオーバー程度で走り、特に危険なところでは法定速度遵守しているので、捕まるわけがないという感じです。こうして、法に対して忠実な私はよくよく他人の走りを見て思うところがあるのです。
「おまえは人の命を軽んじているのか?」
もっともこれは特にバイクに乗り始めて気づき始めたことです。バイクに乗っていると車の無謀運転は実によく目につきます。もらい事故でも死に直結するのがバイクなので、当然、事故ったときの安全性を重視されている四輪の方には分からない部分まで行き届くのは最たる理由ではあるかと思います。というのも、多分、車は気づいていないだろうが、自分がブレーキを踏まなければ、私は縁石と車に挟まれて死んでしまうなんてことはままあることなのです。これは私には気づいて、相手は私に気づいていないから、あるいはもともと私の考えている世界と人の考えている世界が違うからといえなくもないことです。
最近は、人と私の違いを考えています。
ようやく本題的なものになるのですが、今日は久しぶりにTSUTAYAなんてものに行ってしまいました。もう何ヶ月か行かない場所です。まあ、それはよいとして、私はとりあえず、そのTSUTAYAにある本屋さんに行ってから、それとなく帰ろうとしました。
バイクのセルモーターを回して、エンジンをかけたところで、こちらに寄ってくる女性がいました。外見から判断して、頭は明晰ではなさそうで、礼儀は知らなさそう、肌は秋だというのに焼けていて、とても好意的にすり寄ってくる人とは思うないと思いました。人は外見で判断するものです。予想通りに彼女は何やら怪しげなセールストークを始めました。
相手をする気には到底なれなかったので、私は時間がありませんので、と、断ると彼女は去っていきました。案外にあきらめが早いと呆気にとられていると、彼女は捨てぜりふを吐いていきました。私はこれを全く予想していませんでした。
「たいして時間なんて割いてねーよ、馬鹿野郎」
と聞こえました。何となく、普段、ののしられたことのない私には全くその意味が理解できなくなりました。というのも、こういうののしりは私の辞書にはないのです。どう表現したらよいのか、たとえば、警察24時を見ているときに感じるようなバーチャルな感覚を私は彼女に対して抱いたのです。つまり、ある意味で、私は彼女の存在を現実のものとして受け入れなかったのです。彼女の存在は私にとってはテレビジョンなのです。
だから、私は真面目に彼女の言葉を考えます。私にとっては時間はお金よりも貴重ですと。もっとも、暇でも相手しませんが。
そうしたら、彼女は何を根拠に私をののしったのでしょう。私の礼を逸していたからでしょうか。いえ、礼を逸していなかったからこそ起きたことなのです。私と彼女は同じ世界の住人ではない。つまりは、彼女は彼女流のやり方で私に接して、私は私なりの解釈を彼女に加えていたのです。
普段は、同じような人が集まってある固まりを形成しているので、気づかないのですが、顕著に異世界を突きつけられれば、その違いが明らかになるのです。
![]()
05.11.21
疲れる。本気というのはやはりつらい。私は常に読書とピュアに生け贄を捧げながら波を待つタイプの作家筋。もっとも、才気はないのですが。それが、全エネルギーを集中突破させて、爆発されて原稿を書いています。
波に乗る日は数千字、書けない日は0。それは人力飛行機のような不安定さを抱えながら、時間は刻々と減っています。
ちなみに、私が好きな漫画に『兎』という麻雀漫画があります。気がついたら続刊が出ないのはなんでだろうといぶかしんでいるのですが、それはとにかくとして、この麻雀はどちらかというと厳密な麻雀をするというよりは、いかにドラマティックにあるかということに視点を置いた麻雀です。だから、当たり前のように、キャラクターには麻雀をするときに能力がついています。その能力はそのままキャラクターの個性を再現しているかのようです。その中でも私の好きなキャラクターは新城パパです。この人は話の途中に殺されてしまい、同様の能力と、それ以上の潜在能力をもつカナというキャラクターに継承されていく伏線のようなキャラクターともいえます。
でも、私は彼が好きなのです。彼の打ち筋は自分の親番まで、運気を貯めて、連チャンを繰り返すつよいまくり能力をもったひとなのです。私は相手の捨て牌から、残り山牌を予測して手牌組みをして待ちを作り、愚形となっても、リーチするなら、愚形であるということを利用して、相手の勝負手から余剰牌を切らせるパターンを好む変則型なので、似てもにつかない。同じ私の操作するフィアの打牌は相手の手牌が分かって、ほぼ放縦牌がそれだと予測でき、危険信号が鳴り響く中でも、勝負するイケイケなので、いずれにしても、新城さんのような力には及ばないのです。
![]()
05.11.16
時間とは有限なもの。異に締め切りを目前にするものの焦燥感というを私は味わったことが何度あるでしょう。残り13日。月末まではついに2週間を切ったのです。私はいま、論文のために引きこもり生活をしていて、自分でも何回だなあと思う哲学書を読み下して、私のいいたいことをつづる。私のいいたいことを書くなんてすばらしいことなのに、そのすばらしいことは恐怖するべきものに変わっているのは不思議なことです。デットラインとはよくいったものです。私にとっては、このデットラインはたかが卒論といえど、私の命運を分ける逢魔がときなのです。私は死にものぐるいに騙し騙し、肉体を酷使して清新に鞭を打っています。それでも、私はただ砂丘に足を取られ前を進めないままに未来を恐れている存在です。
いえ、私は実際にはお医者さまのお墨付きのうつ病者なのです。本来ならば、治療に専念することこそ本意なれど、私の世界というものは決してそれを許してはくれなかったのです。「to
be or not to
be」という言葉はずしりと身にしみます。ハムレットの一節とは文脈が異なりますが、私の胸中はそんなものです。こんな苦しいこと、大学受験でも味わわなかったし、たかが卒論、簡単にクリアしていく人たちを見ているうちに私は既に何をしているのかさえ分からない五里霧中を歩く人、あるいは盲者のようになって気分です。
でも、そんな私にも癒してくれるものはやっぱりあるのです。私の愛車にレインカバーをかけようと先ほど、外に出ました。冬は本番となり、急激な寒さは私の身体を射抜くように鋭く痛めつけていきました。久しぶりに出た外の夜空はしかし、月光の美しい晴れ渡った空でした。満月か、ちょっと欠けているかなとは思うけれど、月光が私を包んでくれるような気持ちになり、また、月光はあたりを明るく優しい光で包んでいます。私の家は街道に面しているので、車の騒音が絶えないのですが、どうやらなぜか、そのときばかりは静寂が私を支配していたかのような気持ちです。時間は緩やかに進み、私は月と月が照らすほんのりとした地面に愛着を覚えました。
外に出ているうちにベートーベンのピアノ・ソナタ第14番がふと思い出されます。やっぱり、月光なんて名前が付いているくらいで、やっぱりこんな状況だったら、思い出してしまう曲かなとただ名前がそれだという理由だけで、思い出してしまうのはミーハーな証拠かななんて思うのです。
ところで、この「月光」、ベートーベン自身は「幻想曲風」、つまりは夢を見ているような気持ちで描いた曲だと語っています。そして、この「月光」は愛する人ジュリエッタに捧げられた曲でもあるのです。
もっとも、「月光」というネーネングはレルシュタープが名づけたものなので、本来的には「月光」は月の光に導かれて作られた曲ではありましょうが、恋の歌なのだと思います。音楽を専門にされている方からはこの素人の当て推量は批判の対象であるかもしれませんが……。
そうしたら、私は何ができるでしょう。月の光の美しさを思わず感じられるのは私です。それを恋に当てはめることはできない自分です。私はこれからどうなるのか分からない自分です。先延ばしにしている本格的な病気の治療もいつ始められるか分からない自分です。
それでも、何か恋をしたいななんて思ったのはこの月光をみたからでしょうか。それとも、もともと私が抱いていた壮大なストーリーのひとつなのでしょうか。
![]()
05.11.15
東京テレビの「ガイアの夜明け」を見ました。最近、テレビを見ていないので、というか外部の情報そのものを取り入れていないので、たまにはよいかなあなんて思います。私は時間があれば、その後の「ワールドビジネスサテライト」をよく見ます。経済関連ニュースはやっぱり、常に先進的な刺激を提供してくれます。これは単に刺激の消費を意味するだけではなくて、先端のニュースによって私にはちょうどよい現代を捉えるしるべを与えてくれるような気がするのです。テレビは誰にでも分かるように平易に読み下しをしてくれるのがとても助かります。新聞は読む暇があったら別のものを読んでいるだろうし、テレビを見るなら、私の知的好奇心を満足させながら、私にさして負担のない構成を取ってくれるというのがありがたいところです。
さて、今日、「ガイアの夜明け」では石油価格の高騰の話と日本の企業、現場が直面する状況を説明してもらいました。原油価格の高騰はやっぱり私たちの生活に跳ね返るものです。私の愛する灯油ストーブに欠かせない灯油の価格は3年前に比べて約1.5倍くらいになっていたと聞いて驚きました。このところ寒くなってきたので、稼働し続ける私の石油ストーブですが、結構な金食い虫になっています。まだまだ電気ストーブに比べて費用対効果がよいとはいえ、油断ならない数字です。
もっとも、この石油価格の高騰の最も大きな要因として私が考えているのは、たとえば、イラク戦争でも、アジア圏での石油需要の増加でもなければ、カトリーナでもないと考えています。産業が発展して、それによって需要が増えるのは必然的なことです。だから、文句などひと言も言いません。しかし、重要なのはそうではなくて、それは、私たちがどれだけ、京都議定書の精神にコミットできるかという一点にあるような気がしているのです。別に私がアメリカ嫌いで、なおかつ日本人だからこんなことをいっているのではないのです。もちろん、きっとどこかにはそれがあるかもしれませんが、基本的にはそうではないのです。
ただ、私にとっては、文明と産業の発展そのものが私たちの直接の幸せにはつながらないと確信しています。だから、本来的には私たちはそんなに石油を使う必要も、科学を発展させ用なんて気も起きなくていい気がしています。でも、これはあくまで、人間が人間らしさを放棄して、エデンの園へ還るような行為と発想で、人間の進化というものに対して真っ向から否定する形として表出してまう発言であると考えられてしまいます。ただ、進化することの意義というものにはいかなるものかと疑問符を打ってしまいたくなるのです。
私たちの進化はより知性を発達させて、私たちの知ることのできる領域を増やし、活用し、私たちの力を拡大していくことにあります。そして、いかなる事態に対しても柔軟にそして、合理的に解決できるような人間になることです。科学技術と産業の発展はその最も効率的な過程です。その過程では当然、私たちの力を拡大するために利用できる力を最大限利用しようと試みます。石油の消費量の増加とそれによって、地球温暖化なる現象まで起きていると科学者が推定するくらいのレベルになっても、やっぱり、使おうとしているのです。
エコロジーに対する姿勢は資本主義の中に還元されて、既に実践されています。デフレーションはおそらく思想的にはエコロジーによって発生した必然的な現象であると考えられます。企業が拡大路線を停止させて、リストラに走るのは、デブになった身体を絞って、より早く動けるようにしようとする姿勢であります。ようやく飽食はやめて、とりあえず、絞りを入れていくのが、リストラとコスト削減の根底にあるものです。もっとも、それ自体は極めて好ましいことではあるのですが、その進化はやっぱり、誰かを見捨てていくのです。そして、より人間的に苦悩する人間を作り上げてしまいます。苦悩することは悪いことではありません。苦悩は進化のために必要なことなのです。むしろ、私たちはそうして日々、進化するために切磋琢磨していないと人間ではなくなってしまうという義務を背負って人間をやっているようなところがあります。とはいえ、それはいつまでも重荷となって、私たちにのしかかっていくものであります。
多分、私たちはそうしないと生きていけません。でも、そうするのはとてもつらいことなのです。
ちょっと話がとびとびですくないなあと思うのですが、まとめてしまいます。私には経済関連のニュースを見るたびに思うことがあります。私たちはいつまでこの経済ニュースを見なければならないのだろうか。私たちは前を見て進まなければならないのか。私はつらくてしかたないのです。私はそろそろエデンの園に還ってしまいたい。もちろん、私はキリスト教徒ではないので、厳密な意味でのエデンの園を解釈したり信仰したりはできないのですが、それでも、観念として残るエデンの園という甘美な誘惑にどうしても連れて行って欲しいと思うのです。
![]()
05.11.11
『デスノート』の話。前回もそうでしたが、今回もまた同じ話題になりました。今日は内容に関わる話です。知らない方もいらっしゃるかと思いますが、そうしたら、この日記が変な先入観を与える意味やもという点では読まないでおいた方がよいかもと思います。しかし、それとは逆に私の話は内容そのものを話すわけではありませんので、『デスノート』の面白さを紹介することを意図した日記ともなります。というのは私はこの『デスノート』がとても好きな人だからです。
とはいえ、そういう意味合いもあるので、読むことによって、良い結果、悪い結果どちらも引き起こすものであると考えてみてください。NHKの「名作平積み大作戦」のような雰囲気です。
さて、前回に続いて、今回も同じ作品をモチーフとして話すこととなりました。もっとも、これは偶然で意図しているわけではありません。といったら少し、『デスノート』のキラ対Lのテニスのシーンが想起されるかと思います。
それはそうと、前置きしていっておきますと、私はコミックス派なので、週刊誌として連載されているリアルタイムな『デスノート』を読んでいません。だから、私のシナリオの展開で知っているのは、ちょうど主人公の夜神
月の策略でメロを追いつめそこねたところで、止まっています。それ以降の話は多分、少年ジャンプには連載されているに違いないと思いますが、念頭には入っていません。それを踏まえた上での所感と考えてください。(だから、間違っても、この話を聞いて、私の知らない『デスノート』の展開を教えないでください。読む楽しみがなくなるっていうの、そう、あなたにいっているのですよ、この日記を読んでいただいている貴重な読者であるとは重々承知していますが、それでも、ここは譲れずに訴えるのです。と、もし、この気持ちに同感する方がいましたら、以下は読まない方が無難です。買ってから読んでみてください)
今日、問題にするのは、この『デスノート』のキャラクターの役割と物語全体の構造についてです。構造などというとわけが分からないという方もいると思いますが、ここでは物語の流れや展開と考えてみてください。物語はシナリオとキャラクターのふたつの要素によって展開します。シナリオは与えられる環境です。『デスノート』ならば、「デスノート」という存在、「死神」という存在、それに加えて、警視庁やFBIという機関などあらゆるものがシナリオを動かす素材として用意されています。これに加えて、もしかすると、作者の意図がシナリオの起点となるかもしれません。つまり、作者の「デスノート」があったら、ああしてこうしてこうなるという想像はすべてのはじまりかもしれませんということです。もっとも、シナリオの基本はあくまで、環境や素材と考えておいてください。これに対して、キャラクターというのは、主人公の夜神
月、死神リューク、探偵Lといった名前のある物語の中でもいろんなことを考えて試行錯誤する、また、そのひとつひとつに個性をもった人たちです。もっとも、死神は人ではありませんが……。
同じ様にそれを私たちが読者の視点という役割を与えられているという点についても注目していてください。私たちは読者で、物語に登場する、たとえば死神リュークのような存在以上にお話を客観的に眺める立場にいる人であるということを踏まえてくださいということです。この意味で、私たちは『デスノート』という物語の構造に読者という視点で参加しているといういい方ができるかもしれません。私たちは読者なので、いろいろな視点から、いろいろな事実を知ったり、または推察したりすることができます。
私はこの読者の一部なので、だから、ひとりの読者として、この『デスノート』の持つ非常に面白い構造をみんなに教えようと思うのです。
『デスノート』は真っ直ぐにひとつの方向に物語が進みながら、いつのまにか同一律というか全く同じ展開を踏んでいるという点が面白い点です。真っ直ぐにひとつの方向に進むというのは物語ですから、始点と終点があります。最も古典的にいえば、「むかしむかしあるところに……」と始まり、「……めでたしめでたし」という展開を踏みます。『デスノート』も物語なので最終的には「めでたしめでたし」で終わります。仮に作者が途中で連載をやめたとしたって、そこが終点となり、この構造というものは変わりません。余談ですが、もしかしたら洞察力のある読者はこの終点がどんな展開になるのか既にお気づきのことかもしれませんが、実はこのことは全く問題にはなりません。それは古畑仁三郎シリーズを楽しんで見る視聴者と同じ視点に立ったからという点でしかないからです。
さて、話を戻して、全く同じ展開というのはどういうことかというと、つまり、同じような構造が繰り返しモチーフとして描かれるということです。たとえば、『ドラゴンボール』では、強い敵が出てきてそれを倒すというような繰り返しになります。この繰り返しの展開は『ドラゴンボール』だけでなく、どんな話にもあてはまることで、また誰でも陥ることでもあります。極端な話をすれば、私たちひとりひとりが行う朝起きて夜寝るという生活習慣そのものも全く同じ展開とするということができます。そうしたら、ある小説家が、題材に対して視点を若干変えただけで、内容は同じというのもあてはまるかもしれません。それは一概に悪いことではありません。よくも悪くも私たちをその展開がその話なり、キャラクターがそれとして彩られるために必要なことであるからです。『デスノート』でも、キラ対Lという基本的な構造は変わらないままストーリーが流れていきます。このモチーフは変わらないまま、物語は基本的には変わらないで展開していくのが特徴です。
しかし、面白いのは、主人公の夜神月の取った行動が以降では全く別のキャラクターが行った行動と類似してしまうという二重の構造がある点です。夜神月は最初は、キラであるということを疑われ、追われている立場にありました。もっとも、これは夜神
月の言い分からすれば意図的に行われたことであるかもしれませんが、構造としては客観的にそうとることができます。話は展開し、夜神月は探偵Lを抹殺することに成功し、さらにLの座を奪うことに成功しました(こんな物語にとって重要なことをそれを知らない時点の私にポロリといわないでねっとあなたにいいたい)。ここで、物語として、夜神光はLという役割まで背負うことになりました。
ここで、夜神月は死神に取り憑かれているということを利用して、物語の途中、Lの包囲網を突破します。Lはこの時点で死神なんてものが存在するのかなんて知りませんでしたから、出し抜かれてしまうのです。具体例は、たくさんあるのですが、ここでは、最も顕著な死神の利用方法として、盗聴器、監視カメラの発見を挙げましょう。ある時点で、キラとして疑われた夜神
月の家に監視カメラと盗聴器が仕掛けられます。夜神はそれを察知して、その位置を死神リュークをうまく利用して、自分は完璧な優等生として、キラらしい素振りを見せないまま、キラではないことをLに証明させました。もちろん、間違った証明です。Lは間違った証明をさせられたのです。死神なんて存在は認められるものではなかったからです。
構造という話が出てくるのは、ここからです。さて、Lを抹殺し、探偵Lの座を奪った夜神は今度は死神に翻弄されてしまうのです。それがちょうどメロを策略で抹殺しようとしたくだりです。夜神はキラという役割を負いながら、同時にそれを追うLという役割を同時に得ています。その前にキラとLを定義しましょう。キラは「デスノート」を使って、人を殺し、キラにとって理想の社会を作ろうとするキャラクターです。それに対してLは探偵で、役割は「デスノート」の所有者を割り出して、殺人犯として死刑台に送ることです。両者の役割を演じ分けていた頃の夜神はうまくいたちごっこを繰り返して、この均衡をうまく取ることができました。
しかし、あるとき、メロという優秀なマフィアの構成員に、彼は皮肉なことにLを継ぐものとしての可能性をもつひとりでした、「デスノート」の一冊を奪われてしまいます。こうなると、夜神はLとして、「デスノート」を所有するものを抹殺し、奪還するものという立場に変わってしまいます。最初はキラだったのに、いつのまにか、Lになっているのです。そして、Lがしなければならないことをキラであったはずの夜神がしなくてはならなくなりました。
ここまでは、まだ読める展開です。予想される方も多い、こうなったかと唸らせる話です。でも、実はLにはもうひとつ役割があったのです。Lは死神の存在を知らないで、捜査するものという定義があったのです。「デスノート」が奪われる際、夜神はその奪われるノートに死神という特典がつかないということを承知していたから、みすみす奪われました。そして、相手には死神はいないという仮定の下に策略を練ったのです。結果は死神が思わぬところで出てきて失敗です。私が知っているのはちょうどここまでなので、多分、そこからああしてこうして、うまくメロを抹殺しているのだろうなあと予想はしていますが、それはあてにはなりません。そんな推理をするのも読者という構造を与えられた私たちだからです。
問題は、この失敗が、Lという役割のもたされた意図的な失敗であり、「デスノート」を所有するものがもつ意図的な防衛であるということです。そこにはシナリオ以上に作者の意図を感じることがあるかもしれません。実際に『デスノート』にはつっこみどころが満載なのです。よく読むと論点矛盾していたり、予想の範疇を越える現象が起こっているということがあります。まあ、それは物語だからといっても良いので、ことさら問題ではないのです。問題はキラという役割、Lという役割、〜の役割とキャラクターは次々とその役割をあてがわれては、その役割に従って行動してしまうという構造が面白いのです。夜神がLにならなかったら、多分、全く異なる展開になったことでしょう。それは、Lの役割がもつ宿命を背負わなくてすむからです。変な話、この話はキャラクターはキャラクターとしてシナリオに沿って、また、キャラクターなりの自由意志なんていうものに従っていながら、同様に役割としての宿命を背負っているのです。
キラ対Lという構造は基本的には変わっていないのに、その構造を担うキャラクターが変わってしまうというのはとても斬新なことであるような気がします。また、同様に、キャラクター以上に役割のほうが強い強制力をもっているという不思議な構造はとても興味が湧きます。
その意味で、単なるサスペンスとして読むには面白いコミックスです。
でも、つっこみどころはあります。ついでだからいってしまいます。最近の例でいえば、たとえば、レーダーで追えない「ミサイル」です。裏ルートでマフィアが手に入れたというところはまあ、許容範囲内ですが、レーダーで追えないミサイルなんてあるはずがありません。ミサイルにステルス加工がなされていたとして、レーダーの投射を吸収する構造であったとします。そうしたら確かにレーダーでは捕捉できないかもしれません。それを最大加速させたとしても、最高速度はたかがしれていますし、高エネルギーの熱源であり、爆音をとどろかせて突き進むミサイルです。正確な着弾予想地点を割り出すことができなかったとしても、おおまかには分かるはずです。どこかで、捜査網にかかってしまうでしょう。ミサイルはアメリカを横断させて、最後は海に着弾されるように設定されていました。その猶予はあるはずです。ついでに、マフィアそのもののデータはFBIなどが管理していたはずですから、彼らの行動はすべてチェックされているはずですし、そうしたら、デスノートの奪還はたやすいことです。それをひとつひとつ監視してしまえば、不審な行動を取る者を辿れば、デスノートにたどり着きます。もっとも、これはNの策略といえなくもありませんが……。
そして、メロ抹殺計画の特殊部隊の装備です。軽装は特殊部隊としてはとても合理的な判断です。しかし、死神が出てきて、簡単にヘルメットを剥ぐほどに柔にはできていません。頭部ヘルメット媒体には最低限の情報を確保するインターフェイスの役割を担っているはずなので、見た目以上に頑丈です。単なるバイク用のフルフェイスヘルメットだって、脱着には結構手間がかかるものです。それをいとも簡単に取り外せる技術は死神シドウにはどうみてもありません。それに、彼ら特殊部隊はあらゆる事態に対応できるエリート部隊です。死神のひとりやふたり出てきたところで、揺るぐほど精神はやわではありません。「デスノート」の存在を教えてもらった時点である程度、想定される範囲のことといえなくもあります。全くこれくらいで混乱してしまう部隊では中東の戦渦の中を生きていけたか全く疑問です。
とまあ、そんな点があるけれど、必読の価値があります。みなさんもお試しあれです。
![]()
05.11.9
私がもし、デスノートを手に入れたらどうしていたでしょう。デスノートというのは大場つぐみ『デスノート』講談社に登場する人の死を簡単にいえば、名前と顔をそのノートに書けば死ぬという代物です。作品全体を見てみると、どうしても、作者の意図があって、やや不自然な展開が見受けられ、少し矛盾するなとこそ思いつつ、それでも、この壮大な思考実験に私はとても熱い関心を寄せています。なんとなく、ストーリーは読めてきたけれど、それでも、まだまだ読む価値ありと踏んでいます。
ひとつひとつつっこみどころを挙げていけば、きりがなくなるので、本編そのものに対する批評に関しては、ここでは控えるとして、私がデスノートの所持者となったとして、どういう振る舞いをするかという点において少し考えたいと思います。本編でのデスノートの所持者は無垢で理想を叶えようとする青年です。そして、極めて聡明な役柄です。
それに対して、私は狡猾で、使い方を本当は想像することはできません。私は誰を殺したいのでしょうか。私にとって、殺す価値のある人はいないのです。もちろん、命を賭して守りたい人はいると思いますので、そうしたら、その人を助けるためにノートを使うのでしょうが。
殺す価値のない人が周りにいないというのは一見、とても自然に平穏な日々を送っているからなせる技ともとれなくはありません。しかし、同様に、それだけ世間にコミットしていない私を浮き彫りにしてしまうのではないかと思います。なぜ、コミットしないのか、それは私が最近、あだ名されて、案外に気に入っているフレーズなのですが、ヒッキーニートだからでしょうか。それに殺す価値のある人に巡り会えるほど、私は人を信じていないのかもしれません。同様に、その人を恨むような感情は喪失してしまったかにも思えます。
だから、私にとっては誰が死のうが生きようがそれ自体は全く価値的には意味をなしません。もちろん、家族が死ねば悲しいし、親しい友人の死は私に絶えがたい苦痛を与えることは確かです。しかし、現実的にその死を結局は単なる事象に還元しようと作用してしまうのではないかという危機感があります。それはつまり、世界そのものに対する虚無を意味しています。
さて、そうした状況で、デスノートを手渡されたとして、どういう風につかうのでしょう。私は私利私欲も理想もとりあえずはなんにもありませんので、そもそもデスノートを使う動機をもっていません。
それはいったいどういうことなのでしょうか。私にもわかりません。
![]()
05.11.7
私にしては、随分早起きをして、もう、これでもかというほどに伸びきった髪を切りに地元の床屋さんに出かけました。久々に晴れ渡った空は美しく、今日はいつもよりも暖かくて、心地の良い日でした。バイクを転がすにはちょうど良い天気と思って意気揚々とお出かけしました。すると、散髪屋さんは定休日で、明日もおやすみです。なんか、フル装備で出かけたのが少しばからしくも思えるくらいの事態でした。
まあ、それはよいとして、晴れのになると外を眺める機会というのは不思議と増えていきます。気づけば、庭の草木は朱に染まり、いやこの表現には誤解があるので、紅葉はそれこそ美しく、見るものをいやしてくれます。散発が空振りになったので、しかたなく、部屋の窓ふきまで、きっぱりしてしまおうと、両面きれいに磨き上げました。
ところで、これは余談ですが、窓磨きというのは案外難しくて、ぞうきんで拭いただけでは美しい透明感は生まれてきません。そうしたら何を使うかといえば、車洗車用の簡単ワックス付きのシートです。その中でもフクピカがお勧めです。もっとも、窓磨き専用のシートを使えばそれこそ何の問題もないでしょうが、バイク用品の流用をする私の中では逆に身近で、使いやすい道具でした。
窓ふきに外に出で、屋根も何年かぶりに上りました。眼下には紅葉に彩られた美しい木々が風に揺れています。普段、気づかないけれども、よくわく考えたら身近には、秋を彩る四季の変化がそこにありました。
弟に誘われるがまま、キャッチボールをすると、その下では、草木が一生懸命に生きていました。それもひとつだけではなく群をなして、そして、それに比べると何となくヒッキーで、1日の大半を読書に費やすのはあまりにも情けなくなってきます。いや、それをやらなければ未来がないことは重々承知ではあるのですけれども。
しかし、未来未来と考えている私に自然があざけるように悠然と構えているのを見ると何やら私自身が矮小なものに思えててしまいます。
![]()
05.11.5
久しぶりに下界に降りました。というのは、つまり、健全に朝、起きてバイトに行く。というだけのことなのですが、私にはこういう生活というのは実は結構、希ですので、余計に健全な日はそれこそ何も忘れて、とにかく遊ぶという気分になります。というかそういうことにします。変な話で、私の場合、バイトに行くことは遊びに部類されるところのもので、それ以外の日、つまり、平日にヒッキーしているのは遊びではないのです。そんな生活をしていたら、それこそ明治の文筆家のような発狂をしてしまいそうなので、たまには、外界で人と話して、人と接することを楽しみにするのです。
案外に私はサービス業が好きです。ホテルのコンセルジュに憧れた時期もあり、型どおりではなく、私−他者のはっきりとした関係性を実感できるアルバイトというのはなかなか魅力です。まあ、アルバイトなので、基本は受付を単純にするものでしかないのですが、機会は少ないのですけれども、図書館バイトだから、本の案内とか一緒に探すなんてシーンがあるので、そんなときはフルに知識を駆使して、利用者さんのオーダーに応える楽しみがあります。難題、珍題、とても多いです。でも、できるだけそんな奇題にも応えてみようというのはなかなか楽しいのです。もっとも、本当に難しい専門的な調査はできないので、そういうのは専門の職員さん任せです。私はできることだけをするお気楽なバイトです。でも、そのうちに、その専門家の調査スキルを盗んで、専門の職員さんに、回す前に処理してやるとポジティブに目論んでいます。
さて、気分を変えると、いろいろと違うものが見えてきます。今日は晴れであるということに気づきましたし、利用者の人は違うし、紳士的な人もいれば、病的な人もいるという違いに気づくこともできます。もっとも、この尺度そのものは私の裁量によって決められるので、そこには普遍性はないのですが、そうしたことすべてを何か違う視点で気づかせてくれる上に、私自身の感性そのものも取り戻していけると感じるのでそのあたりがよいのです。
さて、感性といえば、麻雀です。といっても、私はノーレート主義なのでネット麻雀ですけれども。今日はそんな感性の取り戻しを感じる打牌ができた気がします。久しぶりにゲームをしました。2週間ぶりに羽根のばしをした私は感覚が鋭くなっていたのか、相手の手牌の掌握率が高くなり、また、運も良くツモを連発できました。
ゲームは5勝2敗でした。トップ4回は私には驚異的なことでした。多少落ち込み、3位になりましたが、MJ2の初段に戻っても、2位を維持できたのは喜ばしい跳躍です。最後はラスでした。まあ、ゲームセンターなので、負ければ終わりです。
しかし、良かったことは、致命的な放縦をすることなく、しかし、すれすれに打ち切り、ベタ降りすることはなく、迂回こそすれ、打ち回す感覚でした。私なんぞがのらりくらり打って勝てたのは、要因の大半は一発ツモ裏ドラの行幸だったのかもしれませんが……。
としても、不思議なのはこの一発ツモがどうして起こるのか、私にはよく分からないことなのです。私は調子のよしあしで、成績ががらりと変わってしまいます。調子の良いときは、トップを量産するくせに、不調の時はラスを引くだけにはあきたらず、本当に致命的な放縦をしてしまいます。
私はフィアという名前でゲームセンターをめぐっています。ご存じの方もいらっしゃるかと思いますが、フィアはブリーズTRPGの私のキャラクターで、私の分身です。きっと彼女ならこんな打ち筋だろうなどと思いながら、度胸をきめて、トップを狙いに行くのが多分に彼女のスタイルです。だから、高そうな手牌のリーチに怯まずにほとんど降りません。そして、小細工とかは嫌いな質なので、きっと、ストレートに面前リーチ派になるはずです。ついでに運がいいキャラクターです。
対して、私は小細工大好きの技巧派です。技術はなくても技巧派なのです。捨牌を作り、待ちを巧妙に仕組むのが好きです。相手の思考を読み取って、相手の余剰牌となりそうな牌を予測して、それが切られる瞬間に放縦を誘うのが楽しみです。そんなことばかりするから、ほとんどツモには恵まれずに、運も低いのです。
基本的に気質の違う正反対のキャラクター、多分に、このフィアと私という2者の関係は表裏一体な何かです。フィアは私の作り物なので、私の分身です。ジキルとハイドではないですが、正反対でありながら、私の中に共存しているのです。私は私であるが、フィアを求めていて、作り上げようとしています。そして、同時に、私はフィアを楽しみながら、私を楽しんでいるのです。
それは無意識下の話です。刹那に捨牌をするときにはふたりで相談することなんてなく、どちらかが勝手に動きます。あるいは、局の流れを見て、私はフィアで楽しむのがよいか、地で楽しむのがよいか選んでいます。
苦しくない選択肢をしているときはとても、物事はスムーズに且つ、明晰に理解できます。それは苦しいときもあるがゆえではあるのですが。
ついでに話を続けると、フィアのもともとはアブリアル・ネイ・デュブレスク・パリューニュ子爵ラフィール、『星界の紋章』のヒロインです。フィアは劇内の言語であるアーヴ語で「殿下」という意味で、このフィアは、ラフィールが皇女殿下とか、子爵殿下とか、とにもかくにも殿下と呼ばれているところが由来となっています。だから、基本的な思考構造はラフィールを踏襲しているのは確かです。しかし、いつのまにやら、ラフィールではない私のフィアになっています。それは私が読んだラフィールという点で既にオリジナルのラフィールとは別ものになってしまっているからなのです。もっとも、単なるコピーのラフィールなら、ラフィールのままでいいのです。フィアなんて別名にすることなんてなかったのです。
![]()
05.11.4
最近、メディアをにぎわせている女子高生の母毒殺未遂事件。とても興味があります。犯行までの過程はとても興味深く、空虚感に満ちあふれています。彼女は孤独な思想家のように思えます。彼女は供物を捧げ続けた女、そんな気がするのです。
というのもテレビでそのブログの一部分が引用されていて、それを見ました。極めて冷静に、独自の視点で彼、あるいは彼女は世の中を見ていたようです。その視点は彼女のものであり、逆説的には私が追い求めている何かを示している気がしてなりません。
ひとつの視点、しかも生々しく直接的に私を表現するブログというものを案外に私は侮っていたのかもしれません。駄文の中から、選りすぐって、出版に結びつけるという仕事人がいるように、ブログの世界は奥が深いようです。思えば、このサイトも日記サイトに近くなっているので、お仲間といえば、そうに違いないのですが。
それはさておいて、私がどうして彼女に惹かれてしまうのかという点についてです。私は彼女を羨ましくも思います。データによると中学の時点で化学の専門書を読んでいたそうです。端々しか手に入れられませんでしたが、ブログにつづられている文章は、太宰治や芥川龍之介、志賀直哉を読んだときに感じるあの感覚を連想させるような雰囲気をもっています。もちろん、文学的なレベルの差はあるのですが、それはちょうど、綿谷りさ『インストール』が文章的には現代風でありながら、それでも感じるような虚無感と通じるところがある気があるからなのです
そうそう、そういうわけで、ついでに、今日は久しくネットの力を使って、そのブログの全容を手に入れておきたいと思い立ち、先ほどチャレンジしてみましたが、既に管理サイトによって削除されていて、最近、残っていた他の検索サイトのキャッシュのみを拾うことができました。もっとも、気持ちの悪い思いもしました。その過程では、彼のリアルの顔写真までネットに流れているという気味悪さです。誰がと思います。
そのうち、誰かが、心理学系の本として全文を引っ張ってくれたらと思います。
ちなみに、今は多分、同じようなことをしている人が多いだろうので、たとえば、……(ここにはこの事件にヒットしそうなキーワードが入りますが、それを入れるとここがヒットしてしまうので、控えます)と入力すれば、ブリーズネットのアクセス数は大幅な伸びを見せるくらの勢いらしいのですが、まあ、それは本意ではないので、伏せておきます。思えばこんな躊躇をしたのは初めての経験です。まあ、興味があれば、ご自分でとよくいうネット人の気持ちが少し分かった気がします。
![]()
05.11.2
何だか疲れてしまいました、なんかもう気分も乗らないし、筆を走らせる気乗りもしない。どうしたらよういかといえば、私をどうしたよよいのであろう。疲れというのはいったい何なのでしょう。身体的な、あるいは精神的な負荷がかかった状態とおそらくには解釈されるべきことでしょう。
でも、少なくとも私は疲れてはいません。もちろん、身体的にも精神的にもです。「ただぼんやりとした不安」もきっと私の疲れを表すにはちょうど良い言葉にも思えます。
![]()
05.10.31
浮世離れした思想家。ちょっとどころではなくかなり変わっているけれど、知識のある人。ついでに大学5年生で、ニート。バイトでのもっぱらの評価は私は多分、そんな感じだろうと思うこの頃です。というかそういわれています。
まあ、1日部屋で引きこもりつつ、哲学書なる分け分からないものを読んで、外界に出るのは週一度のバイトくらい、大学もたまに教授に会いに行くだけという状態なので、まあ、ニートというに相応しい私であります。
でも、何でか、私のことを知者と呼ぶ人は多いのです。自慢ではなくて。発想が独特であるからか、あるいは哲学心理学系の知識を応用して日常会話に織り込んでいるか正確な理由は知らないけれども、多くの人が私のことをなんか頭の良い人というのです。
私自身はそうは思っていないのですけれども。というのは、絶対的に教授の前で話をしているとき、私の知識が本当ににわか仕込み、メッキものだというのが浮き彫りにされてしまうからなのです。というのは教授は私の話を聞く側にまわった上に、ソクラテス的な産婆法で私を追いつめつつ、私の思索をより深いものにしようと試みる存在だからです。絶対的な知識量が不足している上に、イニシアチブを握られているという状況ではどうしようもありません。私が教授に勝つ方法といったら、それこそ暴力くらいしかないと思うくらいにです。
とはいえ、それと同様に同級の人には絶対に議論に負けやしない、とはこの弁論家は思うのですが、そんなこともあってか、内心では私のいうすべてのことそれ自体が既に相手の術数によって操られているのではないか、見下されているのではないかとも思ってしまいます。だから、いっそう、大切なことはいわないように心がけもします。
変に絵も割れるかもしれませんが、それにも関わらず、私は大いに内心を告白してしまうタイプの人間です。もしかしたら、私が内心だと思っているのは相手に知られても良い程度の本心なのかもしれません。本当はもっと別の気持ちがあるのやも知れません。だから、逆に告白好きになるのかもしれません。
私は駆け引きは好きですけれど、それはあくまで盤上の戦いの上での話。本当の駆け引きで当意即妙の刹那のやりとりは苦手です。応酬戦略を基本としながらも、さらに初手から直感に頼って動く気質で、好きなら好きな人として対応して、嫌いなら嫌いな人らしく冷たくなります。単純明快で分かりやすい戦略です。それに気づけばすぐに私の思考パターンは読まれていいはずです。
さて、そこまで考えてみて、もっとも、最も正しく現実を直視して考えてみたとき、私は最も絶望的な見解へと至るのです。私の思考パターンを読んでくれる人は少ないということです。はなから相手にされていないというのが結論です。というのは、私は他者に対してどこまでも他者としてあり続け、そこから踏み出して、じっくり観察されて、なおかつ好まれる人にはなり得ないのです。それは私が私の世界に展開させている虚無感と浮世離れした感覚が人を遠ざけている理由となります。類は友を呼ぶといいますが、私はある意味で、どこまでも異質な存在として、認知され続けます。じっくり観察する対象としては荷が重い私です。疑問に思われ、観察こそされるやも知れませんが、そこから、どうしてこのような思考プロセスに至ったかまではきっと誰も本腰入れて研究しやしませんし、そんなよくわからないものを愛したりはしないものです。
人は謎を秘めています。ちょっとまとまりにかける話やなと思われる方もおられるかと思います。しかし、結論はというとこの気質を愛するか否かはどうして決まるのかということです。
私は知者と呼ばれているのは、他者を寄せ付けない決定的な論理力と洞察力にあるかと思います。私は相手の心理を即座に読んで、相応の対応をします。つまり、いつも身構えていて、鉄壁の守備を崩さないから知者なのです。好きになる隙を与えさせないのです。そして、ついでにブラックユーモアを盛り込むのが好きなので、相手の守備の弱めな部分をアタックしてしまいます。話に落ちをつけ、真実へと人を遠ざけようとしています。それは知者の所業です。相手が愚者になれば、私は相対的に知者でいられるからです。
![]()
05.10.30
夕方の総合格闘技の紹介番組をみて、須藤元気格好いい。なんて思っています。テレビでは変幻自在のトリックスターと呼ばれているらしいのですが、ときおり、私もそんなに本興味でないにしろ、格闘番組を見ます。そうしたとき、異彩を放つというか、どうしても魅了されずにはいられない選手が、須藤元気という人です。言い得て妙な気がするこの「変幻自在のトリックスター」の異名です。本当に彼の戦いはすごいのです。スウェーから諸手刈り、寝技の技巧、それに加えて挑発まで。相手の攻撃を鮮やかにかわし、多彩な技を繰り出す。
ある意味、個人的に鉄拳でニーナに再現させたい戦いスタイルそのままです。というと何となく俗っぽくなるのですが……。
もちろん、ボブサップなんかも好きです。圧倒的なパワーに加えて、それをしなやかに使いこなす敏捷性。野獣なんて呼ばれているけれど、本当はとてもアメリカ気質の合理的な戦い方をしていて、パフォーマーでもある彼の戦いもまた魅了されます。
有名どころしか、名前が出てこないのは私が格闘ファン度合いが薄いゆえのことで、私の考え方はもしかしたら生粋のファンにとってはきっと浅はかに感じるのだろうなあと思います。けれど、あえて考えてみます。
そうすると格闘技はどうにしても、戦闘の技術の戦いでもあるけれど、それ以上にその人のもつセンスが問われ、その人が戦いに何を込めるかを私たちは観ているような気がしてきます。リングの上で戦う人たちは、どんな気持ちでその戦いに臨むのでしょう。それはもちろん、相手に勝ちたい、というのは根幹に近いところにあるはずですけれど、きっとそれだけならば、やる必要のないこと、無駄なことに思えてきます。勝つか負けるかなんて、それはそれで重要な要素ですが、それが目的だったら、きっとより合理的で、極められた戦い方をする人が出てくると思うのです。ボブサップにしても須藤元気にしても、彼ららしい強さがあって、その中にあって、リングという通過点があり、お互いに示し合っているというような感覚です。陳腐な概念といわれるやもしれませんが、リングで戦っているのは他者ではなくて自己自身という気にもさせられてきます。
須藤元気の挑発はどうして起きるのでしょう。彼がエンターティナーだからでしょうか。それとも、挑発によって相手の気を乱し、自分の手をさらさないポーカーフェイスの意味をもった攪乱という点であるのでしょうか。合理的な理由付けをしようと試みみれば、前者も後者も妥当な見解にたどり着くこととなるでしょう。それはいずれにしても、須藤元気その人の利益として還元化されるものとして説明づけられるからです。しかし、リングの上でのパフォーマンスはそれだけの意味しかもたないのでしょうか。
私には分かりません。推し量るのみです。が、私にはかの人たち、リングで戦っている人たちの打撃、一動作、仕掛けすべてそのものは彼らを体現するそのものものとして理解されるのではないかと思うのです。つまり、彼の一打は彼によってのみにしかできない一打です。同じ物理的なエネルギーをもったパンチを他の誰かが放ったとしても、それは当たり前のように違うのです。その攻撃は彼のものだから、私たちは魅了されるのではないかなあと思います。
ふと、思い出されるのは今は亡き人となってしまいましたが、橋本信也vs小川直也というカードがありました。橋本信也はそのとき、負ければ引退という背水の陣の宣言をして、小川直也に挑みました。そこはプロレスの世界です。だから、戦いはパフォーマンスの世界です。だから、その戦いは何かしらプロレスという概念の与える空虚さを背にしての戦いです。戦いの内容は、お互いの得意技のDDTとSTOの応酬となりました。お互いに限界まで戦っていました。そして、私は熱くさせられました。茶番には感じられない何かを感じたのです。あれは空虚なものだったのか、あるいは、プロレスでなくても、格闘技そのものは空虚なものなのか、それとも生々しくその人を体現する何かなのでしょうか。
![]()
05.10.29
優雅な1日。さっきコマーシャルで、マクドナルドが朝マックを宣伝してこういった。「人生は短い。特に朝の時間はもっと短い」と。細分は少し違うかも知れないですが、要はその朝の短い時間をいかに早くファーストフードを提供してくれるか、そこが肝なのだと思う。確かに人生も朝の時間も短い。私も今日は、バイトな日なので、朝からお出かけです。もっとも、この時期にバイトは単に息抜きでしかないので、そこからして、その貴重な時間を浪費しているなという気もしないのではないですが、それはおいておいてください、趣味です。
さて、朝、バイトの日は、ある時間までにある地点に着かなければならないという制約を受けて、それでもなおかつ惰眠の限界に挑戦する私はいつもバイクの限界速度にチャレンジしながらの戦いです。いけないなあと思いつつ、とはいえ、制限速度は法定速度+10q/hは守りますが、それでもタイムを縮め、普通だとまあ、12分はかかろうという時間を大体、6〜9分に縮める荒技を成し遂げます。カーブへの突入速度、そのときのバイクのバンク角は多分、私の技術の限界まで。道順選択と信号の時間差読みは私の経験の総体。そんな下らないものを駆使して、大体、いつもバイトのタイムカードを3分くらいに押すのが常でした。下手をすると1分前なんて記録もありました。だから、そのコマーシャルのメッセージに全く同感、頷いてしまうのです。
しかし、どういうことでしょう。たまたま今日は、いつもより30分も早く起きてしまったのです。しかも、そこから二度寝することなく、起きてしまったのです。そうしたらどういうことでしょう。朝は極めて優雅です。朝風呂に浸かり、朝食もゆっくりと食べ、バイクは法定時速を守り、走ります。いや、そこは癖で、いつも通りでしたが、心持ち極めて落ち着いているのです。タイムを気にして、信号のパターンを瞬間的に認知判断してルートを選択する、そんなことをする必要もなく、安全運転です。いえ、当たり前といえば当たり前のことなのです。しかし、この優雅さ、どうしていつもは発揮されないで、忙しなく生きているのだろうと思ってしまいます。
私はいつも時間に追われています。一番怖いのは当然、卒論の締め切りです。あと、2ヶ月ないのに書けてないままです。ある人は多分、余裕に感じるこの日程も、私には恐怖そのものです。しかも、去年からかかりっきりでこうなのですから、哲学科って難儀なものです。という私が難儀なのか。
私をよく知る人は私が一極集中型だと感じていることでしょう。そのいい例がこのブリーズネットそのもので、更新はある日、突然、しかも大規模に行われます。能力・特性データなど、更新されるときは数十個簡単にできてしまいます。毎日、ちまちまはできないのです。でも、ちまちまできないから余計に時間は怖いのです。
それはそうと、今日はバイトの友人が風邪をおしして、頑張っている姿に感心しました。彼女は飛び級で院生になるというこれまた秀才なのですが、理系なので、研究室に籠もりきりの生活と聞きます。いつ起きていつ寝たのかを聞くと、私は彼女がいつ休んでいるのか、いつも不思議になるくらいの多忙なスケジュールの人なのです。しかも、彼女は研究発表が翌月曜日にあるそうです。私は何で今日、バイトくらい休んでしまわなかったのかといいましたら、はぐらかされました。帰り道にお買い物に付き合ってみると私は風邪薬を買うように進めたのに、彼女はクリアファイルとバインダーを買いやがるのです。今日は12時頃まで起きて、明日はやっぱり、ずっと勉強するらしいです。私にはできない所業です。
彼女にとって、1日は忙しいのでしょうか。彼女は忙しいと答えますが、きっと私のように時間に怯えることはないのでしょう。実質的に私よりずっと忙しい日を送っているはずです。とはいえ、私の1日もまた忙しいです。私は1日、大体本を1冊くらい読んでは、机の前で唸っているか、ゲームしているか、ベットで横になり、お気に入りのクラシックを聴くくらいに忙しいのです。比べてみたら、私は忙しくないはずなのです。でも、やっぱり、私もまた忙しいのです。私は時間に追われているからです。
あっ、全然関係ないのですけれども、バイクに振り分けサイドバックを搭載しました。見た目にもかっこうよく仕上がって嬉しい限りなのです。VTR250の細身をほとんど殺さないバックです。しかも、従来の積載量の約2倍強になった私のバイクはレインウェアを標準装備して、肩掛けバックを載せてもまだ余裕が残ります。もっとも、搭載時はタンデムができないのが弱点ですが。
ここからは笑い話なのです。そのおかげで、ヘルメットをかけるスペースがなくなって、荷付けハンガーに半ば強引にかけざるをえなくなりました。これが外見からはなかなか見えない格好になってしまいます。振り分けサイドバックが邪魔をして、ヘルメットがかけられているのがみえないで自分が忘れてしまうからです。
さて、バイクで走っても寒くないように防寒具を着て、バイク用グローブをはめます。セルモーターをスタートさせて、暖機した後に走り始めました。そこまでは完璧です。そう思いました。しかし、始めに気づいたのは、エンジン音の違いでした。あり得ないくらいに高音域の音が出て、からからと聞こえてきます。心持ち、ギアも感触が変でした。これは故障かなと思い、バイクディーラーのところへ行こうと思っていると、次の違和感を感じます。自分の髪が風でなびいているのです。それはおかしな現象です。髪は普通、ヘルメットに被さっていて、なびくはずないからです。
気づきました。私は完璧なバイク装備をしたつもりが最も肝心なヘルメットを着用し忘れていたのです。走り始めて、500メートルほどいってようやく気づきました。異音もヘルメットと後輪がすれて起きた現象で、ギアはエンジンが不調そうに聞こえたことで同調して変な気がしただけでした。
案外に最も基本なことほど忘れてしまうものです。ヘルメットをしないで他は全身バイク仕様でバイクに乗る。はたから見たらさぞ滑稽だったでしょう。まあ、運が良かったのはその姿を白バイに見られていなかったことです。もっとも、走って500メートルだったので、悪意も何もないことを確認して、注意してくれるだけで済みはしたでしょうが、情けないものです。
社会の窓が開いていることに自分が気づかないのと同じくらいにショックです。あっ、でも、今日はあくまで時間の話です。こんなよた話はどうでもよいのです。
![]()
05.10.25
理想の恋がしたい。私がどれくらいいい人なのか、それは私ではどうか分からないけれど、誰かいい人がいたら紹介してくれないかな。なんかこう、魂の底から愛することのできる人を見つけたい。季節柄なのかしら。肉体だけの心のこもらないエッチも飽き飽きだし、私がすべてを投げ打って打ち込める恋愛。そんなことができる日がくるのだろうか。来たらいいな。私は冷静すぎる。それは淡泊にその人を評価して悲嘆してしまうからです。
恋はいつ発生して、私を虜にするのでしょう。誰かいない?私が愛することができる人、紹介してくれたら悪いようにはしないよ。
![]()
05.10.24
誰がこの日記を読むのだろう。復活したとしてもやっぱり不定期。気づいたら6日も経っていました。その間、ネットにあがってもいなかったのだから、当然といえば当然ね。
だから、今日は少し痛くて、プライベートな話題も含めて少し放出した話題でも選択しようと思います。
どんな話かって、それは恋バナです。たまには恋をしたいなあとつくづく思う。でも、環境が環境なだけに、ヒッキーな毎日を送るかバイトで女の子に囲まれてよりどりみどりの境をひた走るでも、私の中で、これという女性に巡り会えないのです。ひとつに私のエゴイスティックな女性の見方が災いしているのを知っています。多分、プッシュをかければ恋人にできそうな人、それはたくさんいます。でも、そうして恋人になってもやっぱり退屈になってしまう自分が見えるのです。だからといって、これはという人を狙ってみるとその人は彼氏持ちなのです。略奪してもいいけれど、やっぱり、そこまで自己主張はできないのです。もっとも、卒論卒論で恋愛どころではないというのが、まあ、それはおいておいて、私の恋のお話です。
恋愛が初級編で留まっているという批判は甘んじて受けます。私も不器用であるというのはおそらく自覚するところで、まあ、ある程度予想の範囲です。
まあ、前振りはそれくらいにして、私には好きな人ができました。どう好きかといわれるとまた返答に難しいのですが、私の手の内がどこまで読まれているのか、全く想像できない上に、こちらが相手の心理を読んだとして、表層的なことはすばりと当てられるのに、その先の深層心理、基本パーソナリティを読ませてくれない人でした。また、極めて聡明で、私のちょっと複雑で哲学的な問いを含んだメールに対して、鋭く私のメールの真意をくみ取って返してくる人です。私が女性心理を読めないばかりか、手玉に取られているような錯覚さえ起こさせる、私には敵いそうにない人が好きになりました。つまり、私よりも明晰で鋭い人が好きという点は私にとっては大切な好きになる要素ではあるのですが……。
さて、まあ、それもよいとして、昨日はというと、そんな彼女とデートしています。デートな2人きりで喫茶店でたわいもなく話をしながら、いつの間にやら、お互いの専門分野の話に発展します。まあ、この時点でお互いいいたいことをいっているという実感こそすれデートの会話ではないなあと思わます。
私はというと、この専門的な話を拝聴しながら、私の独自の視点から質問をしていきます。彼女は物理化学を専攻する院生ですが、私はその院生の主知主義を突き崩す問いを重ねました。たとえば、分子は意志をもつのかなんて話をします。ほとんど、フィールドを哲学領域に引き込んでしまった感があるのですが、それでも、彼女にとっては研究所内での人間関係の悩みがあったからか、素直に受け入れてもらえました。
ところが、デートは成功に終わったに違いないと思う一方、不思議と私の中から恋愛感情が抜けていく感覚が生じてきます。ラブホの前を通過しようとも、彼女とそうした関係にもちこみたいという衝動そのものが失われているのです。失われているというのは前は確かにあったはずなのにという前提を含んでいます。なぜかは私にも分かりません。
私は彼女のことが好きです。それはおそらく紛れもなく事実なのです。だって、もはや卒論卒論で時間の惜しい私が、わざわざ時間を割いてデートするのです。いや、正確にはデートではないのかも知れないのですけれども。そうしたら、男だったら、ある意味、戦略的には落としてやろうという気にもなりそうな気もしますし、今後の関係そのものを無視して、連れ込んだりすることもできそうです。でも、私にはいつのまにやらそんな気にすらならなかったのです。
デートして、ホテルに行って、エッチする。それはもしかしたら王道に近いコースな気がします。でも、私には何かもはやセックスだろうか、それに付随するキスであろうとペッティングであろうと嫌悪感を抱いてしまいます。彼女の名誉のためにいいますが、決して彼女の容姿が私を萎えさせるものではありません。性的な衝動をストレートに表現することに対するデリケートな嫌悪感。未だ感じたことのないこの感覚はいったい何なのでしょうか。誰か、そんな経験をお持ちの方はいないのでしょうか。
![]()
05.10.18
秋の長雨。それは風流でもあって、季節の変わり目を知らせるものです。でも、雨はやっぱり嫌だ。つい最近、ツーリングバックを購入しました。バイクの話ですね、今日は。ツーリングバックといっても日常生活に用いることができるようにできるだけサイズを選んで、小型化、携行制重視としながら、選びに選びました。ちなみにその悩みについやした時間は約半年間です。もっと、スマートに決めていけば良かったのにとも思いながら、それでも、どうしても、バイクに関しては格好の良さを重視してしまいます。もはや、私のカスタムバイクと化しているバイクはやっぱり、どうしてか愛着の湧くものです。もっとも、私自身はまだまだ内部をいじれることのできない初心者なので、外装のうつくしさに主に重点をおいています。つまり、中身はドノーマルの250ccです。
ツーリングバッグは用途に分けていろいろとバリエーションを得られるように、数パターン用意しました。総額だとちょっと値は張ったけれども、これで簡単な日帰りソロから、ロングツーリングまで、なんでもこなせるバイクとなりました。とはいえ、メインで使おうと決めたのが、なんでかV型エンジンの特性を活かした細身のバイクに振り分けサイドバックです。ちょっと走行性、特にすり抜けに関しては疑問符なチョイスです。かろうじてマフラー部分以上のオーバーはしないで済んだので、不格好にならずに済みました。
問題は時間です。少なくとも今の私にバイクをのんびり転がす時間はありません。加えて、この長雨です。外に出ることさえ許してもらえない、寂しい天気です。晴れの日はいつか、いつになったら、私の積載量の増えたバイクの性能をいかんなく発揮するシーンに出くわすことができるのでしょうか。少なくとも雨の日にバイクでお出かけは嫌です。
こう連日雨では、外に出ることすらなく、私の無精ひげが何日分かたまって、ちょっと強面の冷血漢のような顔になっています。いっそヒッキー記録を更新してやろうかと思う勢いですが、それでも外に出たいのです。ちょっとでいいのです。1時間。とにかく、それくらいでもいいから短い時間でも、バイクに乗りたいな。雨は嫌なのです。
秋の長雨はなんとなしに私を耕晴雨読の魅力に誘ってくれます。だから、決して、マイナス面だけでは語れない利点もあるのです。でも、それにもさすがに限度があるというものです。
![]()
05.10.16
最近、更新頑張っています。でも、話が株やら野球やらバイクやら、とてもTRPGのサイトとは思えない本当に私的なそれでいて、散漫な内容だなあと思いつつ、とはいえ、この姿勢はあえて突き通して、今日はお金の話です。
「お前は本当に資本主義が嫌いだな」とあるブリーズ仲間からいわれました。その指摘はある意味で正しいものです。私は確かに資本主義が嫌いです。資本の流動と生産、消費。経済の物理主義というか、淡々と進みながら、マスそのものが意思をもつかのような不気味さが私には恐怖でならないのです。では何が好きかと聞かれたら、存在したかどうかすら危うい原始共産制をと答えざるを得ません。個人個人の付き合いが輪となり、共に生きようという姿勢と尊するべき相手を敬える社会があるとしたらと思ってしまうのです。しかしながら、それは現実には存在し得ないもの、つまり、私の好きなものはあるかどうかもわからないユートピアなのです。存在し得ないというのは言い過ぎだと非難されるかも知れませんが、いや、どうして実際にも私の中では現実には存在しないのものであると感じられるのです。まあ、その議論については今日は掘り下げずに、ちょっとした前置きと捉えてください。今日は何しろお金を話をするのですから。
前の話ですが、数年前、私は欧州に行って、チップ制度を知りました。人が人に対して行った報酬をとりあえず、チップという形で表現する。別にその起源がどうあろうとは知りませんが、もし、私たちが恩義に対して「ありがとう」という言葉以上に何かその恩に報いたいとしたとき、もっとも手っ取り早く、叶えられる方法だと私は思いました。もっとも、お金なんて即物的なものと嫌悪するのは嫌悪するで当然のところ、日本人の感性はおそらくはどうして恩に対して、お金なんだと思ってしまうところです。しかし、どうしてか、これは日本人らしい誤解です。その誤解は悪いものではないのですが、多分、誤解なんだなあと思うのです。というのも、ギャルソンは決してチップのために働いているのではない、少なくとも本当のギャルソンはサービスをほとんどボランティアに近い精神性で行っていると感じられるからです。
というのは、私たちがチップを払いたくなるときはいつでしょう。マニュアルに従って、お食事料の10%が正確に計算できたときでしょうか。いえ、たとえば、ご飯を食べているときにそのご飯に真心を感じたり、特別によくしてもらったことに対して、正規の料金では足りないレベルを補いたいと感じたときに払いたくなるものです。
たとえば、10000円のご飯を食べたとして、日本のちょっと気取ったレストランやホテルなんかはそこにサービス料なんていう名目で、お食事料のその10%にあたる1000円が上乗せされていたりなんかします。私はこれはすっごく嫌悪するパターンの料金です。というのも、それはある意味での客を枠に嵌めてしまう裏切り行為であると共に、サービスするものの自己を規定してしまうことにも他ならないと考えてしまうからなのです。
普通のサービスをすれば、つまり、マニュアルに従って、客を満足させれば、その10%はサービス料の名目に相応しいと考えられてしまいます。もっとも、戒めとしての10%という意味合いもあるかも知れません。この場合は、逆に10%のサービスをする、しようという意欲をかき立てる意味での10%です。いずれにしても、サービスの主体者であるギャルソン(一例として)は10%に自らを規定してしまい、その枠組みの中に当たり前のように組み込まれていきます。Aというギャルソンのサービスも、Bというギャルソンのサービスもいっしょくたにされて、10%です。10%の枠組みからすれば、A=Bです。でも、現実のAとBのサービスは違ったものです。
お客、つまり、サービスを受ける客体に対してはもはや、ある種の義務を背負わせています。しかもそれは気づかないうちにです。つまり、A=Bと見ろと枠組みはいうのです。でも、お客さんはAが好きだったり、Bが好きだったりします。しかし、現実場面を想像してみてください。どう考えても、AとBは同じものには見えません。当然ながら、ポジションも違います。サービスとしての接し方は違います。マニュアル化されたのなら、別に機械式でも変わりません。A、Bは背丈も口調も出身も性別もみんな違います。また、しかし、現実は10%です。
私はもし、本当によいサービスに巡り会えたら、10%どころか、100%を越えて支払ってもよいという価値付けをすると思います。逆にダメなサービスに巡り会ったら0%どころか、定価から引かせたい勢いです。もっとも、それはお金という形にサービスを換算して考えたときに発生するものと考えなくてはいけませんが。私は日本ででも、私のピンチを救ってくれたタクシードライバーからは釣りは受け取らない主義ですし、サービスの悪い上品な店に出くわしたら、そのサービス料は今日は払わない、今度来たときには払わせるサービスをして欲しいといって帰る質です。さすがに、チェーン店の定食屋さんで、すばらしい接客をしてくれても、チップをはずむような真似は日本風土に合わない気がして、恥ずかしくてできませんが……。
あっ、なんか結構いっぱい書いている気がするので、今日はこれくらいにします。
![]()
05.10.15
今日は運のない日です。雨は私にとっては大敵なのかも知れません。今朝、お出かけ間際にバイク用のツーリングバッグが届き、それ自体はよいことでしたが、よもや最も忙しい時間に来るとはおもわなんで、次の予定に余裕と思いきや、急いで転がすバイク羽目になったのが始まりでした。そのときには小雨の予感、始まりの予感です。帰る頃には雨が降り始めていました。
雨宿りとひそかに雨がやむことを願っての、ゲームセンター。初段落ちがかかるMJ2を始めます。こっからは反省です。最近、そんなのが多いけれど、人の話は大抵こうなるものです。
初手、配牌もツモも好調に延びていき、他家に先手をとりつつテンパイし、タンヤオ、赤1のシャボ待ちでした。手配に暗刻を抱えていたので、ピンフ形への待ちかえもなく、ダマで待っていても、知れている手で、牽制のためにそこからリーチしました。待ちはワンチャンスの出待ちです。待ちは捨牌からも読みづらく、いけると思ってしました。しかし、その後、シャボがリャンメンに変化する可能性があり、また、そのリャンメンがツモできていました。しかし、途中、鳴きが入り、ツモをずらされた上で、他家がテンパイの予感、そして、危険牌を放縦しました。リーチしなければ、さすがに止めるというレベルの危険牌でした。この放縦の呼び水となったのは私の先制リーチそのものでした。
その後、自分に細いながら上がりの可能性もありながら、それを見落とし、他家にリーチをツモられ、ドラが入り満貫となりました。次局はチートイツテンパイ形から、他家の浮き気味ウーピン狙いでしたが、勇み足でやはりリーチをかけて、牌を逃しました。こうなったら、もう私の目は消えたも同じです。次局、テンパイし、しゃにむのリーチ、既にトップを諦め満貫2着狙いも、同テンを引き負けました。それでも、運命の女神はなかなか悲劇的なことをしてくれます。次局、暗カンと他家のカンによって、メンホン、ドラ7のツモれば3倍満出上がりでも、トップを取れる手牌になりましたが、やはり引き負け。最終局は3着がトップのリーチに構わず、全ツッパのまま放縦し、終わりました。そのときも確か逆転手は入っていました。
次の東風戦は1級落ちしての戦いでした。下家に高い手が入っていて、なおかつリーチのため、それ以外の他家に放縦し、危機を回避しようと、初牌の役牌を切り出しました。下家以外は鳴いていて、決して、店は高くない、赤が入っていたとしても2旛どまりと思っていましたが、隠しドラを踏んで満貫でした。もう、あとは配牌から死に体で完全に戦えなくなりました。
まあ、とはいえ、麻雀では負けたものの、そのあと鉄拳では、勝率5割で勝つことができたので満足です。あっ、鉄拳は基本的に、自分より格上の人としか戦わないので(弱い人と戦って勝っても楽しくないので)、勝率2割の私にとっては、快挙なのであります。
ところで、ゲームセンターを出ると雨は止むどころかむしろ酷くなっていました。つらい。まあ、それもまあ、よいとしてここから本題です。今日のプレーオフ、家に帰ってちょうど、千葉ロッテが勝つところです。4点リードの9回の裏、ストッパーの小林雅英が登板しています。そこまでは、先発の渡辺俊介が打たれながらも、失点をしない力投で抑えていたところ、完封リレーがそこに見えていた、少なくとも多少失点しても4点をひっくり返されて負けるなんてあり得ないと思い、よしよし千葉ロッテの31年ぶりリーグ優勝だと思いきや、小林が凡打の処理をミスし、そこから打たれ打たれ、1点差に追いつかれ、2死2、3塁のピンチに相手は4番松中です。采配は敬遠です。多分、私もそうします。どうせ打たれてもサヨナラには関係のない1塁です。松中にくれてやって構わない、そのあとのズレータを打ち取ればよい話です。酷だなあと思います。ここで、フォアボールの押し出しです。小林としては多分、弱気になり失投を放るくらいならある程度コースを狙い、打ち取りたいと考え、フォアボールは致し方なしというくらいのピッチングだったと思います。だから、このフォアボールは本当に致し方なしでした。
私は西武ファンですが、アンチソフトバンクなのと、渡辺が好きなのとで、千葉ロッテを応援していたので、このあと、続くサヨナラ負けは痛いなあと思いました。思い出せば、私が見ているときの試合のストッパー(というか豊田清)は私の見ているときに限ってピンチを招きます。ストッパー好きなのに…致命的なので、弟からは「お前は豊田が出てきたら試合を見るな」とまでいわれています。私の責任かと思えてきます。麻雀もどしゃ降りも私の判断ミスが重なってのことですので、しかたありません。こと、麻雀ではあきらかに初段の時は対戦相手とのレベルの差を感じるので、負けて当然にも感じるのですが……、まさかロッテまで負けるなんて。
なんか、でも、こういうのって、泣きっ面に蜂です。麻雀1級落ち、どしゃ降りの中のバイク、小林の崩れ、その日のよいことを忘れてしまうくらいに落ち込んでしまいます。はぁ、でも、きっと明日はいいことがあるはずです。といわずにはいられない。でも、明日も雨か。
![]()
05.10.14
というわけでお片づけをして、石油ヒーターを試験的に稼働させました。寒くなかったけれど、どんな使い心地かを調べるために。買ったのはコロナの流線型石油ストーブ(SL-111)という何となく、ああ、ストーブの原形という型のものです。興味があればネットなりで調べてください。……興味のある人なんていないか。まあ、それはそうと、このストーブ、この形での最小スペックを買ったつもりだったのですが、部屋8畳に対しては暖房能力が高すぎるに気づきました。部屋は暑いというくらいに暑くなり、まあ、なんというか、裸でも寒くない。実際は木造住宅13畳に対しての暖房能力があるということは承知の上で買ったのでそこは文句はいえないところですが、充分すぎる性能です。暖房能力そのものには大変な満足して、そうして、あの懐かしい灯油の微妙に臭さも混じりつつ、私の部屋は昭和なレトロの雰囲気に包まれつつあるのがまたよいのですが、やっぱり気づかない問題はありました。
古典的な型であるので、あまり灯油の節約もできないし、スペック表(?)を見るとタンク容量6リットルに対して継続燃焼時間は約11時間だそうです。まあ、そこは節約して使うので、というか不必要にスペック通りの能力を出されると暑いので、燃焼時間は20時間ぐらいを見積もって、低コストを狙って運転させますが、石油価格の高騰のあおりを受けてか、あるいはエアコンの省エネ能力の向上か、あまり燃費効率がよくないのです。本来なら、最も低価格でありがたい存在と思いつつ、今日灯油を買ったら67円/Lです。タンク容量6リットルを節約しつつ20時間使用して、1時間あたりのコストは67×6÷20=20.1円です。エアコンの暖房時の消費電力を約1000ワットとしたときの消費電力に対する支払い価格ともあまり変わりません。ましてや、表示通り11時間しか使えなかったら、1時間あたり36円で、エアコンの方がお得になってしまいます。
石油ストーブとか薪ストーブとか、少し時代を遡って古き良きを楽しもうとしたとき、案外、コストが高くつくのがなんともいえないです。思えば、古いものを使おうとすればするほどお金は高くつくというのはある意味では常識ではあります。
逆行路線まっしぐらな私は筆記用具は万年筆、時計は機械式懐中時計という具合に頑張っていて、また、そこにほくそえみを浮かべるタイプなので、もう諦めのつくレベルではありますが、やっぱりお金はない。どうしてこう世の中、お金がかかるのでしょう。そういうものにしか、お金使っていないから、できる芸当ではあるのですが……。本当にやになってしまいます。
あっ、でも、ポットはティファールの電気テトルです。こいつは使えます。しかし、それは最新式。結局、そう考えると私はエセだなあと思うところです。実際、お金の使い道なんて、こうしたエゴイスティックな考えのもとに動くものかなあとふと我に返ります。とはいえ、自分のお気に入りの一品につぎ込むお金とそれに囲まれるというのはそう悪くないものです。
選んだものは私の感性そのものによるものであり、まさにそれが私を示す指標にこそなり得るものであるからです。それは単に拝金主義(もはや死語かな?)からくるものではなくて、ものを選び、そうして対価を支払うという行為そのものにはそれなりの理由があって、そこにはものを買うという行為そのものに潜在的な価値観を見いだそうとする購入者、所有者としての私がいるのです。つまり、私は……ある種、マニアってことになるのでしょう。
![]()
05.10.13
今さらながらに、灯油のヒーターを買いました。エアコンの時代、あるいはガス暖房の時代に逆行するかのように、古典的石油を使います。もっと本当は古典的に薪ストーブをつけるか、いろりか何かが欲しいのですが、さすがにそこまで、頑張れないので(増設工事やら、もともとストーブが高いやらで)、木、石炭は遠慮しつつ灯油です。石油価格はこれからも高騰していくことは予見されています。末端価格でのガソリンの価格に比例して、灯油の価格だって、上昇を続けるでしょう。しかし買ってみて気づいたこと、それは単なる石油価格の問題ではなくて、部屋の汚さなのです。
部屋ってどうして汚れるのだろう。ときどき手間をかけて、きれいに、それこそちりひとつなく完璧なまでのきれいな部屋ができるのに、気づくと机の上は本が山積みにされ、いつ崩れてもおかしくない状態になり、その周りは書き損じの原稿用紙とルーズリーフに溢れている。ベット周りにはやっぱり、本と衣類が散乱して、床の面積よりもものの占める割合が高くなっている。ゴミ箱の許容量ははるかに超えるゴミがいつのまにやら、ゴミ箱エリアを作って、1畳分くらいに積まれている。あっ、今、ゴミ箱からゴミが落ちる音がした。
こんなに部屋が汚くては、使用時にいつ何に引火してもおかしくない状態です。設置場所がありません。いや、設置場所はあるのですが、怖くて点火できないのです。
ところで、そもそも暖房器具を買おうなどという発想はどこからきたのでしょう。それは私は案外暑さには耐えられる質なのですが、寒さにはめっぽう弱いのです。女は部屋ではずぼらな服というほどではないですが、部屋では、どうして薄着でいたいのです。というのも、洋服をきているとやっぱり動きづらいので、Tシャツに短パンが理想です。その恩恵に与ってか、私の部屋での今年のエアコン稼働率は0%です。全く使われていません。余談ですが、エアコンは結局、そのまま使わなければ、使えないものになってしまうというのが正しいのですが……。しかし、どうしても、その格好では寒くなってきました。つい最近まで、外の風に吹かれて涼むとばかりに窓全開放して、吹き抜ける風に自然とやや一体化した暑い部屋もいつの間にやら、窓を閉め切り、それでも気温が低い。ちまたではウォームビスがはやっているらしいのですが、それには賛同しかねます。クールビスは私は特に気にならなかった私ですが、仮にスーツ着ていても、そんなに暑いとは感じない気質故。暖房はもうそろそろ稼働開始です。
とりあえず、部屋片づけよう。ゴミだけでも、片づけよう。片づけて、重要な書類を間違えて放棄しないように気をつけよう。暖をとるのはその先にしないと。
![]()
05.10.11
西武は負けました。去年と違って、負けてもよいかなあと思っていた、そういう弱気と引け目は現実のものになるものです。あとは、これで、勢いをつけて、千葉ロッテが勝ってくれれば、問題はない。そうしたら面白い展開となります。
それはそうと、話はがらりと変わりますが、今、私は柄にもなく勉強なんかしてしまって頑張っています。いえ、普段から勉強は当たり前ですが、寝食をわすれるかのように、それだけしかしない生活をするたびに思うのです。そうなってくると勉強とはなんであろうと考えてしまいます。これは哲学科気質の学科病のようなものです。哲学は虚学です。世の中で最もためになる学問でありながら、実生活とは無縁の無用の存在です。もちろん、意味があるといえば意味があるのでしょうが、もし、合理的に金もうけをしたいとかんじたら、哲学ほど役に立たないものはないでしょう。そもそも目的なんてないのです。哲学が求める答えは常に私たちの手の届くところにまで届いたと思ったら、また、先に進んでいってしまう。哲学に限らず、学問にはそうした絶えず希求しなくてはいけない側面を持ち合わせているようです。
いつまでも答えはでないのがこの類の問いの奥の深さです。私の場合はタイムリミットは迫っています。だから、勉強するという理由付けがなされています。それは勉強でしょうか。真の学問というのは何でしょう。
![]()
05.10.10
全くの私事ですが、ネットなるものに久しく触れなかった私ですが、とはいえ、最低の薄情の汚名はいずれ返上したいと考えて、毒電波の発信源を訪問しました(東京寿電波)。そうしたら、忙しい忙しいと仰っていた管理人さんの日記は思いの外、長く、とても忙しい人の日記とは思えないのです。どうしたらこんなバイタリティが生まれてくるのか。何かすべてを斜陽の世界から現世を見ているような私にはどうしても理解できない、尊敬に値することと感じてしまいます。
![]()
05.10.8
主砲カブレラを欠くプレーオフ第1戦。西武対千葉ロッテの戦いです。先発はこちらは松坂に対して渡辺俊介。初戦のエース対決です。
正直な気持ち、今年は首位争いから後退してしまい、プレーオフに進出できただけでもよしとしようという気持ちもままありましたが、それでも、西武には勝って欲しいと思う。ただ、相手先発はサブマリン投手渡辺俊介。私の中ではとても好きな投手で、断然松坂より、渡辺俊介です。なんという板挟みでしょう。そのあざやかな変化球と浮き上がるような球筋のアンダースローを楽しみたいという思いもあるが、西武にも負けて欲しくない。まあ、そうすれば、今日はある意味でもっとも望ましい展開です。結果こそ1−2で、西武の惜敗でしたが、序盤から緊迫する投手戦が展開され、きっと千葉マリンスタジアムは相当な熱気に包まれたことでしょうと思います。もっとも、私はというと、テレビ中継がみられないので日本放送にて、ラジオで行方を見守ります。この時点で、渡辺俊介の投球がみられないというのは致命的です。サブマリンみたい。何で民放は読売の試合しか映してくれないの?と愚痴りたい気持ちを抑えてです。しかたないので、千葉ロッテのオフィシャルサイトで渡辺俊介の投球ハイライトを鑑賞するしかなかったのは寂しい限りです。
そんな問題点もありますが、加えて、今回のプレーオフ。制度としては緊迫した試合展開を臨めるので、パ・リーグに導入されたことはとても嬉しいと思います。とはいえ、今年は西武は千葉ロッテとのペナントレースでのゲーム差は大きな開きがあります。去年は西武は2位で、優勝してもおかしくない位置にいたゆえに、実際にはあまり気にならなかったのですが、今年はペナントレースのこの勝率で仮にプレーオフを征し、優勝、日本一となってもどうだろうという疑念が残ります。
私は西武ファンです。しかし、短期決戦有利の投手陣を抱えている西武のファンなのです。だから、勝つ可能性は多分、初戦の松坂が負けたとしても、低くはないと思っています。それでも、勝てば勝ったで何かチャンバラな気がしてしまいます。勝てば嬉しいです。しかし、優勝争いをしていた千葉ロッテと元ダイエーのチームをさしおくのは忍びがたくもおもいます。三つ巴のペナントレースになれば全く疑念を起こしません。しかし、何とか踏ん張って3位入りのチームと思うと退けてきます。
ただ、やっぱり、最も大切なのは、ゲームが面白いこと。1ゲーム1ゲームが真剣勝負で野球を観ている気がする試合をしてもらえることではあるので、原点に返れば、優勝や日本一など全く問題にはならない単なる結果です。楽天はいいチームです。しかし、残念なことに圧倒的に戦力が不足しています。また、試行錯誤で戦っているとはいえ、楽天に強豪チームは容赦はできません。容赦などしたら、それこそつまらない試合です。勝てない、それでもいいチームだと思わせるのは私の思う原点を抱えているからだと思います。
そう思うと、私の最初の疑念なんてものは実はささいなものに思えてきます。しかし、どうしてかこの些細なことが喉につかえた骨のように残り続けてしまいます。そうするとやはり、この疑念を捨て去り、野球に対して、いや、スポーツのすべてに対して純粋にありたいと思います。もっとも、それは大切なことでありながら、見失われるものであるのも確かです。野球には私は純粋性を求めます。汚いのなんて嫌です。八百長も嫌です。まわりがその純粋性をビジネスに変えたり、保身の道具にするのもやっぱり嫌なのです。
![]()
05.10.7
林みかせ『青色図書館』白泉社。花とゆめ、月刊ララらしい展開といってしまえば、展開らしいコミックスなのですが、その副主題に選ばれているのが本に対する愛着心と本の執筆家たちのもつ苦悩。ヒロインがバイトすることになった私設図書館で求められることは「本を大切に扱ってください」。
自分は図書館でバイトしている身です。そして、そこで思うのはどうしてももっと本を大切に扱いたいという気持ちがあるということで、この『青色図書館』にとても共感するところがあります。少し愚痴っぽくなりますが、公立図書館はルールも多く、利用者の人も多種多様で、決して本を大切に扱えるほどの余裕がないと思うことはままあります。ぎゅうぎゅうの書架に無理矢理に配架して(決まった場所に本を置く作業)、多分、10冊しか入りそうにないところに12冊は入れてしまったりします。本にはルックス(セロファンみたいな本を保護するもの)で本は武装されて、耐久力が増しているからぞんざいに扱われるやも知れない。また、ルックスを貼るという作業自体が既に本を傷つける作業でもあり、どうにも抵抗感は消えずにいます。
本はどうしてか、単なるものとしては扱えない何かがあるように私は思っています。なぜでしょう。ものはものです。確かに偉人たちの英知と呼ばれるような名著あり、その思想に触れることのできる本は特別な存在といえるかもしれません。しかし、そうでなくとも、駄文に違いないひどい本も丁寧に扱っていたいと思います。本には単にそれが尊崇に値するゆえに丁重に扱いたいという以上の何かがあります。私は本を書いたことはありません。まだ論文すらまともに提出したことのない身ですから、当然ですが。
しかし、何か本から伝わる何かがあるという感触があります。本は何かを発しています。そして、それを私は受け取っているような気がします。それは単に印刷物以上の力をもっているのです。何なのでしょう。
![]()
05.10.6
株って怖い。つい最近、下落に転じる地点を予想して、日経平均13800円までは上りと予想したのに対して、ここにきて大引、多少、残りの時間で、反発するかもですが、前日比-330円とのこと。明日はまた買い戻されるものと尾根いますが、波に乗って売り買いをするとしないと波に飲み込まれるのが市場という気がして恐ろしいものであると、改めて実感しました。日経ネットの記事によると、アメリカ景気の悪化と株安に同調する形で、投資家たちの投資姿勢に影響が起きたそうです。
株がすでに一国というクローズドな世界のものではなく、世界規模で行われているものであるというのが、ありありとしてきました。国内の政治と景気動向をにらんでいるだけでは痛い目を食う、当たり前といえば当たり前ですで基本的なことではあるのですが、侮っていました。
意外にどうしてか、人の作り出す意思の流れも侮りがたく、読むことはできないものです。
それはそうと、阪神電鉄は大丈夫かな。すでに世界は昔とは変わって、よりいっそう空想化してきています。最近、球界をにぎわしている新規参入組は資本というよくわからないものの力をもっています。旧体制は革命の危機にさらされています。旧体制そのものが弊害をもっているということもありますが、新体制に対する違和感もどうして拭い去ることができないのでしょう。この気持ちの悪さを誰か説明して欲しいと思います。
ただ、どうしてやっぱり大切なのは、そうした変革のときにあっても、生の現実であって、よりよいプレーをしようとする選手ではと球界に関しては思います。もっとも、それは私たちひとりひとりにいえることであるはずなのですが……。
![]()
05.10.5
眠り。私の場合、正確には睡眠障害を患い、睡眠薬なしの睡眠ということ自体があり得ない状態になっているのですが、それでも、それさえ使えば、一定で健全な眠りが確保されていることは幸せです。
人はなぜ、眠らねばならないのでしょう。実際、躁、鬱の多くは睡眠障害を併発するとのことです。躁の人は寝る間ももったいなく活動したいという情念から、鬱のひとは何でだかよくわからないけれども、寝られなくなのです。私は伝聞で躁の人がそういう状態に陥るということを知っていますが、、実際は、ありありと後者の側をいま、ここで経験しているので、眠気がなぜ生じないかということについては、やっぱり、どうにも説明がつかないのです。私の場合は、入眠障害といえばよいのか、睡眠状態に落ち込むことに非常につらい忍耐を要する作業となります。
ただ、逆に寝てしまえば、いくらでも寝られる。むしろ、起きられないという症状が生じ得ます。今日は自己最高のレコード18時間連続睡眠(昨日18時から入眠して、翌日の12時起床)を経験し−というのも、それまで論文の中間発表などなどのためにそれまで数週間まともに寝ていなかったから、その反動と思われるのですが−、眠りそのものの意味について考えさせられます。
眠りは何なのでしょう。一方で、ある短期間なら眠らなくても生きながらえることのできる人、あるいは日常的にショートスリーパーと呼ばれる短時間の睡眠で、起床時間が長くとれる人がいます。また一方で、睡眠過多である人。睡眠そのものをどのように定義するかによるのですが、私たち生物にとっての睡眠というのは単に脳細胞や体組織にとっての休眠以上の何かがあるのではないかと感じさせられます。「死んだように眠る」という慣用句がありますが、眠りと死の関係そこには何かしら接点があるのでしょうか。
いえ、まとまってない文章と批判されるかと思いますが、とりあえず、アップのための近況報告です。
![]()
05.10.1
論文の提出期限も迫り、まっとうに雑務をこなす人であろうと努力する。しかし、それは実存するための私にとって、真に必要な所行なのか謎である。少なくとも尻に火がついたというのは適切であろう。これからは、文献と論考との戦いとなるであろう。
ところで、そうはいいつつ遊ぶことにしました。今日のMJ2の戦績。3ラス、2トップで、トータルマイナスの一級落ち。これで半荘リーグへの参加権を失ったというので大きなショックです。もっとも、それが身分相応であるといえば、自分の実力を考えれば、納得すべきところです。もっとも初段回復はすぐに達成できると思います。だから、それ自体は大した問題ではなく、まあ、許容できることです。
トップ時には起家ラス親というすばらしい快挙をなしとげながら、その流れに自ら酔ってしまい、見え見えのダマテンパイに放縦。トップ→ラスの辛酸を嘗めました。それも、おそらく自分の中で、確信的に当たり牌であろう危険牌を戯れに放り出しの敗北である。自分の打牌のずさんさが目に映ります。
しかし、こんなとき、私はなぜ、降りなかったのか、手配は愚形のリャンシャンテン。状況からして、トップのラス親、小差とはいえ、自分がでかい手に放縦しなければ、勝ちは私のものでした。受けにまわっても2位は固いのです。それでも、降りなかったのはなぜなのでしょう。私自身にとっても不思議です。放縦すると分かっていて、捨てる牌の意味とは一体なんでしょう。
フィアの傲慢と無謀の境地といえば、それまでですが、そこにはどうしても、信じたい何かが存在しているかのように感じます。その信じるものというのは、何か究極的な意味においてのどこ臭さと自我のようなものに感じます。フィアらしい潔さをどうしても感じてしまうのです。それが負けであると分かっていても、打ちたくなるそんな放縦でした。
結果はもちろん負けです。ショックも大きいのです。でも、それで満足のような気すらしてしまう一局でした。
全然関係ないけれど、野球の話題です。ヤクルト、古田選手のプレイング・マネージャーをみてみたいです。楽天の新監督がどうなるかはわかりませんが、もしシダックスの野村監督が就任したとしたら、セ・パ交流戦では、古田対野村というある意味で究極的なドリームマッチが実現します。もちろん田尾監督への愛着もあるので、一ファンとしては難しいところです。
![]()
05.9.29
阪神タイガース、リーグ優勝おめでとうございます。
次は日本シリーズにて、西武か千葉ロッテがお相手致します。ダイエーはダイエーではなくなってしまったし、元ダイエーの選手は好きですが、スポンサー会社がどうにも好きになれないというだけなのですが……。
優勝ムード漂ってきたあたりから、関係ないけれども、阪神株の成長はすばらしい勢いです。上げ幅もすごい感じです。やっぱりこういうときに脳裏をよぎる人の顔が憎らしいのは私だけ?
いや、でも、そんなネガティブなことは忘れて、セ・リーグの中では2番目に好きな阪神が優勝してくれてよかった。今年の日本シリーズは楽しみです。見ている余裕があるかは別として。
![]()
05.9.27
1年と3ヶ月の沈黙を破り日記を再スタートしてみました。いえ、本当はネット派から紙派に変えて、愛着あるモンブランの筆走るのを楽しんでいただけなので、ここでは、みんなに報告したい、よい話をしようと心に決めつつ、のんびりゆっくり気分によって再開することにするのです。
専門書は高いなあと思います。欲しい本、私は買わないとなかなか読まない質なので、論文に必要な本などがあると大抵、自らの家計を圧迫してでも買ってしまいます。今日は15000円のお買い物。本当に高くて泣けてくる。ついでに買ったバイク雑誌「タンデムスタイル」は最近のお気に入りなのですが、それはそれであたりまえですが、安いです。今日買った専門書の消費税にも満たないくらいです。どうしてこんな高いのかと嘆きながら、お出かけついでにゲームセンターに寄りました。最近はこのパターンが非常に多いのです。
MJ2席は満席です。ひとつ空いていたのですが、どこの誰かは知らないですが、荷物おきにしていて使えない。既に15000円のお買い物をしていて気分も負けそうな萎えたところなので諦め鉄拳台へ移動しました。そうしたらいました。私の好きな人。シャオユウマスター。返し技、座り、鳳凰の構え、側転、前転、とにかくポジションチェンジがやたらうまくて、致命的なコンボ始動技をあてることはおろか、戦いの主導権すらまともに譲ってもらえない、ガードが堅くて、小技がうまい。私の最も戦いたかった人がそこにいたのです。
早速対戦へ。ニーナ使いのフィアはいつのまにやら初段に昇格するも勝率は2割4分のいわゆる負け組。とはいえ、自分より弱そうな人とは絶対戦わないので、この2割という数字も私より弱い人が作ってくれた数字で、本当はまともに勝ったことすらないただ試合を楽しむニーナ使いです。もちろん、勝てませんでした。
しかし、対戦していて、こんなに楽しい思いをしたのも初めてです。シャオユウは私自身も使えるキャラクターなので、技のデータもフレーム硬直の長さも知っています。だから、めったなことではこちらもガードは崩れません。私がやられるのは、ワンツーパンチなどの基本技を、巧みに構えのチェンジを利用してかわされたときです。私だって、スウェーや横移動で頑張るのですが、どうにも相手が上手です。鮮やかな戦いぶりでした。私はなんとか一本とったものの負けに至りました。
負けて何が楽しいかといえば、やはり、相手に付き合ってもらえているという実感があるからです。翻弄されるというのは、誘われているのと同じような快感を私に与えてくれます。しかも、それは私の理想とするような人からのお誘いと指導です。これほど嬉しいことはありません。もっとも、対戦相手は私と同じくらいの年齢の男性ですので、それ自体では全く嬉しくもないのですが、ゲームという世界に入り、また、対等のフィールドに立った上での戦いということになれば、そこにはある種の会話が成立しているような錯覚とその錯覚がまさに実感であるのではないかという気持ちが浮かんでくるのです。ゲームはゲームで、バーチャルなものですが、それはそれで奥が深いのです。鉄拳は将棋や囲碁、チェスなんかと同じくらい、相手の息づかいが聞こえてきます。
ところで、話は全く変わりますが、ここからは日経平均株価のトレンドを探ります。もちろん、儲け話でもないですし、一市井の戯れ言なので、そこのところはよろしくなのです。責任なんてもちろんとりません。単なる戯れ言です。
郵政解散が叫ばれ、自民圧勝ムード漂う中、株価は日経平均は13000円代を回復。その後も急騰を続け、今日の終値は13435円だそうです。昨日は13300円台に乗り、一旦は下落傾向に転じたものの、今日にきてまた、回復。取引終了あたりから、少し値を下げたようですが、いずれにしても構造改革なるものが与える日本経済に対する評価は大きいものだなあと痛感しております。とはいえ、投資する資産そのものがあまり投資先を模索する中ではあるので、買いの要素があれば多分、何等抵抗なく株価は上がり、売り要素があれば、以前以上に容赦なく売られていくようになるのではないかと思います。そんな中でも、これからの執政が注目される小泉内閣です。どこかの中刷り広告には小泉バブルかなどとも書かれていましたが、とりもあえず、日経平均はどこまであがるのかは注目です。私の予想では13800円台は固いと見込んでいますが、ここから、14000円台はやはり、心理的な大きな壁となると思われます。関係ありませんが、父は17000円台までは最終的にいくとの予想なのですが、私はそこまではと思います。とはいえ、一時、10000円台を割れてしまった日経平均はいわゆる徐々にトレンドを右肩上がりに変えていき、それもまあ、数値的にみればあり得ない数字ではないとは思います。しかし、日経平均の確実な回復のためには、ここからは、外交問題がやはり注目課題としてあげられるべきところではないかと思います。これからは主な貿易相手国となるアジア圏との良好な関係が経済的なイニシアチブを得るのにはどうしても必要なファクターになるには違いないと思います。そこさえなんとかなれば、まだまだ延びる可能性を残しているといえると思います。だから、逆に怖い存在でもあるのが、織田信長の危うさという気がしてなりません。
先物に関してはどうしてもあがるのが石油です。どうしてもあの地域で紛争が起こると、また、人為的に起こすとどうしても石油価格は高騰をしてしまいます。もちろん、そうしたマイナス要因だけではなくて、これから中進国、後進国の石油需要が高まるのは必然ですので、そうした世界全体のプラス要因もまた石油価格に大きく影響を与えます。この石油の値上がり傾向はこれからも続くと予想されます。いや、いわれなくともなことかもしれませんが。
ところで、いわゆるサラリーマンの年収はどうなるのでしょうか。労働需要は決して高くないのが日本です。そして、これからも合理化の波は押し寄せて、サラリーマン層は決して豊かにはならなくいでしょう。マネーそのものを取引する資本そのものは余るという現象が起きつつあるのではないかと思われつつあります。これは貧富の差と能力の差によって、人類を2つに分割する可能性を大いに秘めています。それはある種の資本主義の必然ではありますが、制度を見てみると、その必然性に拍車をかけているようにも思えます。それは全体の福利にとってはプラスではありますが、決して個々人のレベルでみると大きくマイナスとなる要素が深く浮き彫り化されてしまいます。確か誰かがいいました。総理は国民全体をマネーゲームの世界へと突き落としたと。あながち間違いではないと思います。稼ぐチャンスはそこら中に存在する世界になるのですから。極めて合理的なことです。しかし、その合理的ではありますが、その痛みを受けるのは能力のないものであり、若輩者のこれからの将来を担う子供たちです。
いえ、別にこれから共産宣言をしようとかそういうのではなくて、私たちはとうとうついに人間界で作ったエデンの園さえも壊してしまったのかなあと思うのです。エデンの中にいては見えないこともたくさんあって、外に出て始めて人間は人間らしく振る舞うことができるというのはそうなのだと思いますが、それがすべての人には望むべきことなのかとも思います。エデンに安住していることもまた、人々にとっては、それは乱暴ないい方をすれば、人間ではないということと同義なのかも知れませんが、私は人間なんかを無理にして、つまり、人間が人間になろうと頑張って、エデンを出て行くこともないのではと思ってしまいます。
いえ、すいません。戯れ言です。
![]()
04.6.26
点3初体験をしました。点3というのはつまり、賭け麻雀です。賭け麻雀というのはなかなか緊張感があって面白いものです。まあ、賭ける賭けないは別として、私自身は麻雀それ自体が好きなので、賭けたのは単に相手の要望に合わせる形で、どうでもよいことではあったのですが、賭けることで得られる勝ちと負けの意識への差がやはり変わってきます。牌への意識の違います。結果として、何かしら残るものがあるので、ある種の目標のようなものが生まれるからなのだと思います。
さて、具体的な対戦内容はというと、諸事情で2回目の半荘は途中で打ち切られる形となって、中途半端な半荘1.75回を行って、私の結果は−25ポイントで、負けてしまいました。しかし、面子は私より1つ上のレベルの人たちが2人、そして、運量のある人1人という構成でしたので、当然、勉強となるところも多く、私自身得られるものはたくさんありました。そのひとつには麻雀には確かに流れというものが存在して、その流れというものによって、牌の集まり方は変わってくるというものです。それを私は具体的に帯剣することができたのです。
序盤、私は相手の手牌に妥協して降りるのことはしたくはなかったので、最低限、基本的には危険牌だけは回避しながら、攻め続けるというスタイルは保つものの、手を崩したくないばかりに、テンパイ、イーシャンテンのあたりで危険牌を切り続けるという愚行を繰り返していました。正確には手を進められるような選択肢しか考えていなかったので、捨てる牌は1牌か2牌で、その多くは危険牌という状況です。
それでも、まあ、より危険性の低い危険牌を切ってはいたので、それほど放縦するということはなかったのですが、しかし、そういう状況が長くも続くはずはないので、ほとんど自分のミスともいえるような放縦してしまいます。そうすると、途端に手牌のレベルは落ちて、ほとんどテンパイも不可能な手牌が続いていくのです。そうすると、ほとんど放縦のミスを取り返すことができるようなチャンスも巡ってこないくなるわけですから、最初の半荘はラスを喰うことになりました。なかなかの屈辱ですが、しかし、それはそれ、ちょっとした臥薪嘗胆です。
そこで、少し堅実なゲーム運びをすることを覚えました。ある種、麻雀は4回に1回しか上がれないゲームだということを肝に銘じ、チャンスを窺うという姿勢で戦うのです。そうすると、放縦はとりあえず、なくなりますので、徐々に手牌も回復していきます。打ち方によって手牌が全く異なってしまうことを、実感をもって知ることになりました。
そうして、次の半荘ではなんとかチャンスをものにして、一気に優勢体勢を取り戻しました。その後で、大物手が他家に入り、一時的にたったトップもまくられてしまいましたが、しかし、勢いは残り、オーラス近くで500ポイント差に追い上げていくことができました。事情もなくオーラスとなれば、私の勝ち可能性も少なかったわけではなかったはずです。
最後まで打ってみたいところではありましたが、残念でした。
麻雀では自分が今、どのような流れの中にいるか的確にとらえて、その上で判断を下していかないといけないということが分かりました。そして、何より自分の欲求ばかりを押し通そうとするよりも他人を理解していくことが非常に有効であるということです。他家との関係においての私ですから、その中でいかに自分を表現していくかというゲームのようにも思えます。
思えば、これは私が教育実習で学んだ事ともある意味では通じてきます。というのは、いかに人との間の関係性を知るかということでは麻雀も人付き合いも共通するものがあるといえなくもないと感じるからです。
それを思うと、今日の負け分はなかなか安い授業料だったような気がします。次回に機会があるならば、また頑張っていこうと思います。次は上手くやろうと意気込みできそうです。
![]()
04.6.25
「コペンハーゲンの裕福な商人の家に生まれたが、生来虚弱な体質と憂鬱な気質の持ち主であった。」(「キルケゴールの生涯と思想」『倫理用語集』山川出版社)ふと思い立って、キルケゴールの生涯のエッセンスを知りたいと引いてみたらこのように書かれていました。キルケゴールといえば、『死に至る病』の著者で人間にとって、本当に死に至る病というのは絶望であるとした思想家であることは皆さんもご存じだと思います。私自身、『死に至る病』を読んでもはっきりとどういう意味合いで書かれていた本かを理解することはできないくらいのですが、ちょうど、彼の生きた19世紀というのは産業革命以降の急速な社会変化と定着していく合理主義の中で、しかも、裕福な家に生まれてしまったということには何か不幸な人であったのだろうかと思ってしまいます。私はキリスト教徒でもキリスト教の研究者でもないので、実際のところ、罪などといわれても何となくにしか理解できないので、キルケゴール自身の苦しみなどというものに共感するということは無理な話ではあるのかも知れませんが、彼は裕福であるゆえに日々の生活に追われてあまり普通は考えなくてもすむようなことを考えねばならないことというものも多かったのではないかと思うのです。考えるというのは苦しい作業です。特に現代社会のような個人の尊厳を自ら獲得しないといけないような社会にあっては、考えるということは自分自身に対することへと直結してしまいます。キルケゴールがそうだったかは私は全く分からないので正確なことはいえませんが、私の何となくの考えいうことになるのですが、というより私の妄想といってしまっていいのですが、社会の在りようとそこから求められる自己のあり方、それを憂鬱な気質で受け止めて回答を出すというのはほとんど拷問に近いことだと思うのです。少なくとも私にはそう思えます。
自分とは何だろうということを考えて、何かしら答えを見つけようとする実存主義的なあり方というのは、強靱な精神力を必要とします。誰にでもできるというものではありませんし、これを独力でこなそうというのも実際は無理な話です。ところが、今の社会は現実的には合理主義的、実証主義的でありながら、個人に対してはこの主体性の確立を求めています。ある種の矛盾を矛盾であると認めることなく、そのしわ寄せのすべてを各々の個人に突きつけてきます。だから、その圧迫に耐えかねて、厳密にいうと異なるものであるはずですが、キルケゴールの感じたような病に伏すことになる人も多いのではないかと思います。しかも、その病であっても、表面的には同情するという風潮はあって、そのような人もいるので差別するわけにはいかないと制度上は合意してはいるのですが、それでもその根本原因に踏み込んでそれを解決しようとは思わないですし、やはり、そのような病に冒されてしまった人については嫌悪感を抱いているといえるかもしれません。
しかし、実際、そのことを解決していくことが、次の社会に向けて必要なことであるには違いないとは思うのも一般的な人の潜在的な意識でもあるような気はするのです。
あまり、このことについて、長く語るわけにもいかないのと時間もないのとで、乱文で不明瞭な文章で失礼します。
![]()
04.6.23
大学の帰りの電車で、混み合った車内から降りようとする人を通すために道を空けたとき、私が逆に積めた側に立っていたおじさんに舌打ちをされました。混雑した電車というのはみなさんも多く経験されているところであると思いますが、こういうときは限りあるスペースを共有するには譲り合い、他人の意図を読み取り、それを妨げないような機転と許容できるような寛容さが求められます。簡単にいえば、お互いへの配慮というものが必要になってきます。配慮といっても、これは公共というものを解している人ならば、自然と行われるものですから、そう難しく考えることはありません。
私がしたように人が通れるように道を空けるのは誰もがする自然なことです。また、そうしたら、一方を避けるために反対方向の側に接近するのもやはり自然なことなので、こうして接近されたら、また、その人にぶつからないように、避けるかして、その人へと配慮します。こうして、非常に単純な動作である道を空けるという行為の背後には何人もの人の配慮というものが下支えになっているということがいえます。
こうした公共性に対する配慮というものは何より私たちが共に生活する上で心地よく過ごすための知恵でもありますが、それは他人に尽くそうという心の現れでもあります。私たちはせねばならないと義務感に駆られて道を空けるのでもなく、ただその人が通りやすくするために道を譲るのです。
これに対して、私に舌打ちをしたおじさんは、自分のパーソナルスペースが侵されたことに不満を感じていたのでしょうか、私に嫌な一瞥を加えて俯いたのです。私はこれをみて思わず笑いがこみ上げてきてしまい、それこそ本当に声を出して、笑い出しそうでした。というのも、そのおじさんはおじさんと私に呼称されるくらいなので、かなり年をとっています。年を無駄にとる世の中にはたくさんいるのかも知れませんが、少なくとも最低限の社会的なマナーを理解していないというのは案外、興味深いことのように思えたからです。
自己中心というのはさまざまな場面で出てきますが、社会では他人との共生というものが大切な規範のひとつとして定着していて、私たちはそれを基本的には善いことであると同意しているので、自己主張を控えるべきときは控えるということを心得ています。それを本来、他と協調して、社会的規範として自然と守るはずの大人が、守るべき道徳を無視して傍若無人に振る舞うのです。私もたとえば、子供や若者が多少の逸脱をしても、とがめはしません。自分も含めてですが、彼らは発達途中の未熟な人間です。多少の失敗はあるはずです。しかし、大人は守らないといけません。
話を戻すと、なぜ、おじさんを私が笑ったのかというと、私は彼の舌打ちの瞬間に彼は未熟な社会というものを理解していない本当は子供であるのに、さも自分が正しいように自己主張をするのです。彼の根底には分かっているという意識があるはずなのに、本当はそれは単なるまやかしに過ぎない独善です。
しかし、加えて、私たちは彼に道徳を守るように無意識的に強要しています。大人という教育されていなければならない人間に対しては、まあ、基本的なことではあるのですが、マナーを守るのが当然であると考えてしまいます。つまり、彼にはマナーを守るべき人間であらねばならないという要請が存在していて、その要請に従うか従わないかでしか私たちは彼を評価することができません。
彼は私からみて、三流の男であったのですが、私がそう三流と判断した要因となっているのは、彼が礼儀知らずであったという点のみです。
そもそもマナーというような道徳というものに対して、私たちは無批判に善と決めつけてしまう傾向があり、それは正しいことに違いないと議論の余地なく正義と決定してしまいがちです。もちろん、道をあけるのがよいか悪いかということになれば、さすがにそう長い議論は必要ないでしょうが。まあ、だけど、私たちは道徳やマナーだからという理由だけで、それに違反したおじさんを失笑するというのは本来的にはあってはならないことであります。なぜなら、おじさんの思想によっては道を空けることは必ずしも正義とはいえないからです。私たちには独善に見えても、おじさんにとっては、舌打ちするのが礼儀なのかも知れません。
何がいいたいのかというと、こうして彼を評価した尺度はあくまでも私たちが無批判に受け入れている道徳やマナーによってです。大多数の同意があるということで、容認されているというだけかもしれない道徳やマナーによってです。つまり、可能性として、道を空けるか空けないかという極めて単純なマナーであっても、本当は違うかもしれないと考える必要があるかも知れないということです。
疑いすぎのようにも見えます。事実、私もさすがにそれはないだろうと思います。しかし、私が笑ってしまったのは、彼がひとつの礼儀違反をしたことで、彼の評価を下してしまったというわけだからです。つまり、それは道徳やマナーというものが私たちが考えている以上に深い部分まで私たちを支配して、行動を決定してしまっているということなのです。
![]()
04.6.19
教育実習ではいろいろと学びました。特に何をというと、それはやはり自分がどうしても子供であったということです。それは、つまり、私は人から愛情をもらいたいという欲求が過剰な人間であるということに改めて気づかされてしまったということです。私にも子供の部分というのは大きくて、そうして大人らしく振る舞っていてもやっぱり誰かに甘えたくて、誰かから愛されたいと願う存在であったということなのです。
私はとりあえず、大人として振る舞わなければならないという場面になれば、それなりに成熟した精神の持ち主を演じることができますし、基本的にはそうした大人らしさがパーソナリティでもあります。ただ、そうはいっても、やはり、特に忙しくて追いつめられる実習ともなれば、私の基本的な対外姿勢である大人らしさはもろくも崩れ、そうした子供である内面も外部に顕在化させてしまっていました。
まあ、それは私個人的にはそんな私もいたのかと再発見できた意味ではいいのですけれども、いずれにしても、気づいてしまったからにはもっと強靱な精神力というものを身につけねばならないと悟るのです。私が本当に大人になるためには道は険しいのだと知りました。
![]()
04.4.8
ギターのレッスンを終えて、そろそろ眠くなった眼で何気なしにテレビをつけてみると驚くべきニュースが飛び込んできました。アルジャジーラTVの報告によるとイラクで日本人3人が拘束されたということです。その3人はいずれも軍人ではなくて、おそらく何の非もない平和活動に従事していた人間のようです。そうした人たちを捕らえてその犯行グループの要求は3日以内の自衛隊の撤退だそうです。そういえば、最近、車が襲撃されて、その中にいたアメリカ人の死体を辱めたというような事件もありました。
過激派武装組織が反攻作戦を展開し始めたと考えてよいものと思われます。そういえば、アルカイダが以前の犯行声明で適切な時期に適切な形で、報復をするというようなことを表明していたことが思い出されます。このとき、私たちの国である日本の名前もその対象に連ねられていたことはぎょっとさせられていましたが、そうした意思表明が現実になろうとしているということなのでしょうか。
こうした事件をみると、まさに今、歴史が動いているという実感を私たちに与えてくれます。この事件は超大国アメリカの横暴を諫めることができなかった私たち先進国の招いた災厄の顕在化といっても過言ではないと思います。こうした事件をおそらくアメリカあたりは「これは文明国に対する挑戦だ」「卑怯で非人道的で許し難い行為」などとののしるに違いないとイラクの問題を見守っている私たちは会見を聞くまでもなく想像できてしまうのですが、そろそろこうした視点を転換するべき時期に来ているといえるかもしれません。私たちはこれをテロ組織の単なる一作戦と捉えないで、利益追求型の拙い暴力に対する大きな反感と気づくべきなのではないかと思うのです。
世界の国々をちょっとたとえてみると、いわずもがなアメリカは腕力で支配をする幼稚なお坊ちゃん、それに追従する臆病であるか利益を与かろうとする使用人、暴力の対象となって搾取される動物というような3種類に分けられていくように思います。つまり、超大国の弊害を持ち続けたアメリカを中心にそれに追従するものと搾取されるものという形になっているといえるでしょう。もちろん、そこに反感をもって、抵抗しよう意見をいおうとするものもいるのですが、あまりに持ちうる権力の違いに実質的な抵抗力というものがなくなっています。こうした構図に唯一、反旗を翻そうとしているのが過激派武装組織であるといってもよいのかもしれません。
そのことで、彼らを評価するということではないのですが、彼らにアメリカなんていう大きな弊害に抵抗させねばならない現状というものがそもそも私たちの狙われる大きな理由です。つまり、利益のために大義のようなものを敬遠している体質のために、アメリカの横暴に合わせて、本来、人として守らなくてはいけないとみんなが感じているような良心なんていうようなものに従う気が本当にあるならば、こうはならなかったでしょう。
今回の事件は起こるべくして起こった事件として、深刻に受け止める必要が私たちにはあると思います。
とはいえ、現実問題としてどのように対処するかということになれば、話は少し現実的になってきます。私は個人的には自衛隊のイラク派遣は反対だったのでしたが、現在の活動内容からして、人道活動に限定されているということから派遣は妥当であったのではないかと思っています。実際、私たちが報道で知りうる限りの活動ならば、私たちは官房長官のいうとおり、撤退をするべてきではないですし、基本的な国家の姿勢として、テロリズムの個々の要求にやはり屈するべきではないので、テロのために撤退するということはあり得ないことと思われます。
さらにシビアなことをいえば、イラク国内でも人道活動をして評価されているらしい日本人が拘束されているということで、彼らが要求が通らなかったことの報復として3人を殺害したところで、さらに彼らの立場が悪化して、それこそ悪の枢軸とののしられても仕方ないと私たちも諦めてしまうかもしれません。
ついでに、もはやこれは現実的な話ではないのですが、先進国がそもそもイスラム国家そのものに失望して、気力も失ってすべてがどうでもよくなったら、先進国は広島や長崎を襲ったような旧世紀のテクノロジーとは比べものにもならない冷酷な兵器を所持しているのですから、世界地図に世界最大の新しい湖を書き加えて、何もなかったかのように振る舞ってしまったってよいのです。そうした方がよいのではないかと考える超大国の国家があるかもしれません。いや、その国の利益を考えれば、あり得ないのでしょうが。
しかし、いずれにしても、過激派武装組織も私たちも何か世界を支配する少数の人々に踊らされている気がしてなりません。
とてもまとまりもなく、適当なことをいっていますが、私自身、何の影響力もない人間ですので好きなようにいわせておいてください。
![]()
04.3.8
ふと、ゲームショップの商品を見てまわっていたとき、何の気なしに『人生ゲーム』(TAKARA)を手に取ってしまいました。別にそれが欲しかったというわけではなくて、単につまらないことを考えてしまったからです。人生ゲームというのはおそらく誰もが一度くらいはやったことがあることかとは思うのですが、サイコロを振って、出た目だけ進み、そのマスに書かれている指示に従いながらゴールを目指す双六です。そういえば、人生の谷間というつらい時期のある当世風の『人生ゲーム ブラック&ビター』が話題となったのは記憶に新しいことかと思います。
ところで、人生ゲームはテレビゲームにもなっていて、確か3あたりまで出ていたと思います。ボードゲームにしろ、テレビゲームにしろ、それだけでは現実の人生とは異なるお遊びであるというのは当たり前なのですが、しかし、いろいろな偶然や苦難を経て、ゴールにだどりつくようなゲームそのものはまさに私たちの人生の縮小のようにも思える部分があります。
とはいえ、私何となく、私たちの現実と決定的に異なる部分というものをお店の陳列棚で気づいたのです。決めてどうでもよいことではあるのですが、ゲームと現実を分ける悲しい壁というものがそこにはあるように思えたのです。
ボードゲームをやるとき、大体、やろうと思い立ったくらいですからそれなりにやる気があって行動します。そして、自分の知力の限りを尽くして最善の選択をしようと努力しようとします。これはボードゲームなどではとても自然なことです。囲碁や将棋などは上位者が下位者の教育のために意図的に悪手を打ったり、あるいは接待というような目的でボードゲームをするなら、わざと対象者を救うような手に出ることになるかもしれませんが、どちらにせよ何らかの目的の上での最善手を常にとってゲームを進めます。
このとき、たとえそれがどんなゲームだろうと変わりません。苦手だとしても苦手なりに、ゲーム自体を放棄しない限りはこうした坑道をとり続けます。もちろん、それが人生ゲームであったとしても同じです。
私は人生ゲームは苦手です。基本的にプレイヤーの恣意の関与するところが少なく、運任せのところが強いために基本的に勝てません。けれども、必死でルーレットは回しますし、少ない選択の中でも最善と思われるものを選択していきます。それがゲームというものだからです。
しかし、これが人生と思うと途端に疑問が浮かんできます。私は現実の人生をこんなにも必死になっているのだろうかとふと思ってしまうのです。ゲームの中のキャラクターはどういうわけか必死にスキルアップして上級の職業に転職しようと必死になったり、株へ投資などをして、利益を確保しようと頑張っています。対して、現実の私はなまけて自堕落な生活を送っているに過ぎません。
こうした矛盾の最たるものは育成シミュレーションゲームやRPGの類かもしれません。実際に頑張るキャラクターとそれを操作するプレイヤーの間には大きな意欲の隔たりがあります。キャラクターは努力して、ステータスを毎日向上させるように何らかの行動を行います。プレイヤーはというと、面倒くさがって強要されるものもなければ遊びほうけます。ゲームの中では必死に頑張るようにキャラクターをし向けているのにもかかわらず、私たちは基本的に自分自身を甘やかして過ごしているといってよいでしょう。それはもちろん、努力を怠らないで日々精進していく人もいるというのは確かですが、実際はそうした姿に憧れだけを抱いて、努力が長続きしない自分に嫌悪する人の方が大多数ではないでしょうか。
現実の自分とバーチャルで頑張っているキャラクターはそのゲームをしているうちでは同一のものです。そのゲームの世界ではキャラクターはプレイヤーの移し身であり、プレイヤーそのものを投影するものです。ゲームという条件下ではありますが、私というものは努力しているキャラクターになることができて、それを自然に受け入れて命令を下していけます。
ところが、ゲームという状況下から離れれば、キャラクターの努力の精神も消え失せて、何事もなかったかのように怠惰な心との葛藤を繰り返す存在なります。ゲームの世界ならばという妙な錯覚を感じてしまいかねない憧れだけが残ります。もちろん、現実にはバーチャルとの間には絶対的な壁がありますから、キャラクターを現実世界にまで持ち出して、その努力するという行動パターンを現実でも実行することはできません。
こうした現実世界のプレイヤーとゲームのキャラクターは命令者と被命令者という関係にあって、キャラクターはその能力に従って、プレイヤーの命令をこなします。プレイヤーはキャラクターに最善の手を指し示し、そのことで恩恵に与ります。ゲームであれば、行動によって得られた結果です。
しかし、キャラクターはというと、別に何も利益を得られません。ただ意志なく行動しているコマに過ぎません。努力していると感じるのはそのキャラクターに与えられた能力に過ぎないからで、それ以上の判断をすることはできないのです。たとえば、これは将棋において歩兵に与えられた能力は一歩前進することであり、金に成る可能性です。それ以上の感情はありません。ゲームの中で努力していると感じられるキャラクターは実際、そうするものであるからしているに過ぎないのです。だからこそ、それをそつなくこなしているということがいえるでしょう。歩兵に意志があったのならば、決して一歩前に進むだけでは満足できなくなるはずです。右や後ろにも行きたくなるでしょうし、金になるどころか飛車になれれば、あるいは王になれればと考えるかもしれません。そして、それができないとなれば、一歩前進するのも面倒になって、その場から動こうとしなくなるかもしれません。何よりも意志をもって自己決定をしようとするはずですから、既に決められたこととは別次元の思考が始まってしまいます。
普段、私たちが余暇で自由な時間というものを過ごしているときは、考えている歩兵の状況にあるのかもしれません。つまり、プレイヤーとキャラクターの場合であれば、操作するプレイヤーとキャラクターが完全に一致している状況です。寝ようが勉強しようがそれは当人の自由で、誰も干渉しません。そうすると、私たちは自然としたいことをして、遊びほうけるだけです。それが大体において人の姿です。
ところが、余暇でないとき、たとえば、労働をしている時などは、それとは別に思考が変化します。私たちはプレイヤーを別の人格に依存するようになります。たとえば、雇用主であったり、会社そのものであったりします。雇用主の場合は話は単純で、私たちは雇用主の命令に従って彼らの手足となります。そのとき、何か逆らうことがあるとしたら、普通、雇用主の命令が不適切な場合だけです。歩兵の例でいえば、プレイヤーが右に動くように命令するように決められたことから逸脱している場合です。会社そのものの場合は、AI設定のようなものです。つまり、会社の利益を追求することが目的として与えられてそのように考えるようにとシステム化されているので、自然とそのように考えます。RPGなどで、キャラクターに自動で行動を選択させるようなものです。
とにかく、労働などでは、私たちは私たち自身の命令者の立場から離れているのです。特にそう感じないのはそれを自然と感じているからに過ぎないので、もしそのようなことがあるのならば、「これは今、この状況だからこそ、しなくてはいけないことだろうか」と自問すればよい話です。
プレイヤーとキャラクターの差というものは身近なところでも存在していて、それが一致している場合、その機能というのはなかなか上手く発揮されないものです。
![]()
04.3.2
今日は免許の更新にいってきました。免許の更新期間が1ヶ月延長されて、私の場合、今月の4日までが期限であったのですが、明日からは介護体験に行くので実質的に今日が更新できる最終日ということで、否応なしに電車に乗って府中の試験場まで行きました。
今回の更新にはひとつの大きな目標がありました。それは視力検査の裸眼でのパスです。最近、私の視力は運転するのに必要な基準のギリギリしかなくなってしまったので、場合によってはメガネなどを使わないといけないと通告されかねない状況にあったのです。とにもかくにもそのような事態は避けたいと思っていたので、前日あたりから目薬を差して目のコンディションを整えての挑戦でした。
左目は楽にクリアすることができました。本来は左目の方が悪いらしくて不思議だったのですが、それは何のことはありません。確率25パーセントのギャンブルです。右目は、切れ目が何となく見づらくて、容赦なく検査員のお姉さんが抑揚のない口調で「ちがいますよ」と連呼されてしまいました。さらに何度か彼女の冷たい「ちがいますよ」を聞きながら、もてる視力を総動員して何とか通過しました。一応、切れ目は見えるときもあるので、多分、視力は基準以上あるに違いない、そう信じてです。
それから、まさにお役所仕事なのかというわけではないでしょうが、「今度は○番窓口へいってください」と試験場内をくるくると回りながら、ようやく講義にたどり着きました。もう始まっているから急いでといわれて階段を駆け上がった記憶があります。別に私は悪いことはしていないのに、遅刻しているようだという何とも不思議な気分を味わいながらも待たずに済んだので幸いでした。
講習の担当の人は妙に話術の巧みな人でした。熱弁というのでしょうか、感情の込められた口調に思わず、引き込まれるというようなそんな感じでした。内容はいたってシンプルな交通安全なのですが、真面目に聞いているとお涙頂戴の交通事故事例にぐぐっと来てしまいます。どうして、彼の話が優れていたのかというと、多分、ある程度、講習の内容も影響しているのではないかと思います。つまり、講習内容に関しては交通安全の基本なので、小学一年生であってもすぐに納得できる平易なものであることと、交通安全自体は私たち講習の受講者にとっても軽んじることはできないものであるという点が、彼の熱弁を助けているといえます。当たり前で簡単なことであるけれど、とりあえず、重要であるということは聞かざるを得ません。聞いているときにその内容が平易なら簡単に理解でき、彼は何と正論をいっているのだろうと感心してしまいます。
うーん、講習のマジックのようです。
![]()
04.3.1
最近、私のはまっている食べ物があります。もともとアイスクリームが好きな私は時折、コンビニなどでも手を伸ばしてしまうハーゲンダッツなのですが、そのラインナップの中でも特においしい一押しというものを見つけてしまって今はその頻度が異常に高くなり、私の体重を圧迫ししています。ハーゲンダッツ
の「カスタードプディング」です。そのとろけるようなプリンの味と口に広がる冷たい甘みとカラメルのほどよい甘苦さがマッチしていて、それはそれはおいしいのです。
しかし、残念なことに、250円のミニカップしか生産されておらず、ただでさえ高いハーゲンダッツのアイスクリームの中でも最も非効率な小型サイズで体重だけでなく家計までも圧迫し欠けないところが何とも小悪魔です。
とはいえ、「カスタードプディング
」はもともと季節限定生産ものであったので、本来的にそれほどの売り上げは期待されていなかったのでしょうか、そのような事情なので、それは致し方ないことなのですが、既に家族ではまっているこの商品、店頭で見かけるたびに根こそぎ買いあさっています。高いとは思うのですが、その価値のある商品です。
実際、この商品、どこへいっても、といっても私が調べたのは私のご近所だけなのですが、品薄のようであればいいというくらいいで、同じ季節限定のアイスクリームはあるのに、「カスタードプディング
」に限ってないのです。これから春に向かい、季節と共に消えゆくのであろうか、「カスタードプディング」はハーゲンダッツ
のホームページを参照したところ、かなりの好調な売り上げであったそうなので、単に品切れなのか、もう終わりなのか分からないのですが、しかし、どちらにするにせよ稀少なこのアイスクリーム、もし見つける機会がありましたら、一度賞味するだけの価値あるものであると思います。
![]()
04.2.29
先日、オウム真理教の教祖に死刑判決が下されました。多くの人が彼のこの判決について思うところがあると思います。彼が逮捕され、公判が始まったのが8年前ということですから、私が13歳の頃の事件なのだと思うと膨大な月日をかけてたどり着いた判決だということを実感させられてしまいます。
思えば、当時、私はこの事件についてどう考えていたのか、おぼろげな記憶を頼りにたどっているので何ともあやふやではあるのですが、特に強い感慨もありませんでした。どうして何も感じなかったのかというと、それはどうでもよいことだったからなのだと思います。それはカルト教団が何をしようと目の前の青春を過ごす中学生の私には全くの無関係なこと、対岸の火事というような意味合いで何も感じなかったというわけでは厳密には異なります。社会の動向くらい常時チェックするのは中学生くらいになれば、誰でも習慣づいてしまうことです。では、どういうわけなのかというと、それは彼らの犯行がただ規模だけ大きいだけで、その他の殺人事件、たとえば、よく夕方のニュースで流れる、そういうこともあったのかくらいに翌日には忘れ去られてしまうような些細な事件の同列に考えていたという節があったからだと思います。地下鉄サリン事件はさすがに記憶に残る事件であるし、他の事件については何があったかといわれれば、歴史の問題のようにこれこれの事件があったと述べ上げることはできますが、それだけです。それはひとつの社会現象ともなった大事件ではあります。しかし、私たちの生きているその時間の流れから比べてしまえば、それは「たまごっち」のようなものでしかありません。彼らの野望はおそらく、私たちの現代社会が生み出した暗部を直に受けて発展していったいわゆる社会の病理ですが、ただそれだけの時の流れに生じたひとつの渦のようなもので、ただただ時間と共に消え去るものに過ぎないような気がしていだからだと思います。
さて、それでは、現在の私はこの判決についてどう考えているのかというと、さらにドライになっているかのようにも思えます。というのは、人びとが彼に対して多くを期待しているのが滑稽に思えて仕方ないというのがあるのです。法廷に望んだ彼の態度は、当初はその不当性を非難するようなものであったのかとは思いますが、最近は全くの黙秘と薄気味の悪い笑いくらいで、全く別世界にいる人間のような振る舞いです。これは凶悪な犯罪を犯した被告には時折見られる傾向ではありますが、最終的に無期懲役になろうと死刑になろうと、謝罪の言葉どころか反省の念も感じさせられないということがあります。今回もその例であるといってもよいかと思います。
こうしたことがなぜ起こるのかといえば、それは彼らには罪の意識というものがそもそも欠如しているという可能性があります。私たちは通常、してはいけないことということが脳髄に染みついていて容易なことではその禁止をふりきることはできません。犯罪を犯すことの怖さは何もそのあとで逮捕され刑を受けることではなくて、幼少の頃から培われてきたこの道徳を破ることにあります。ところが、彼らにはそれが欠けていることがしばしばあります。それは社会で当然守るべき道徳律というものを否定して、全く自分の論理で物事を考えることができる思考方法を採用しているからです。人びとはそれを浅はかであるとか幼稚であるとかいいますが、実際、社会適応能力という点では劣っているのかもしれませんが、適応する機会に恵まれないで、しかも、その思考が反社会的であっただけであるだけかもしれません。人として、人と交わることで、経験を積むことで深化するはずの道徳律も彼らはそれを別個の世界のルールと感じるだけですので、その機会は得られないのですから、概して浅はかに見えてしまいます。また、私たちが他国の価値観を見て、愚かだなあと失笑してしまうことがあるように道徳律の生育環境の違いもあると思います。
どちらにするにしろ、彼らに私たちが自然であると感じている道徳律に従って、罪というものを認めて謝罪をするなどということはするはずがないのです。そもそも、そんな感覚を彼らは持ち合わせていないのですから。
ところで、里に時折、熊などが降りてきて、周辺住民を脅かし、捕獲作戦が行われたり、あるいはハンターの手によって射殺されるというようなことがあります。この熊ですが、彼らは人を襲うとき、罪の意識を感じているのでしょうか。もちろん、そのようなはずもなく、それは私たちが、食肉を食べるのと同じように意識されることもない日常の活動であるはずでしょう。
彼の場合もおそらく同じだったのではないでしょうか。尊師として教団のトップとして君臨し、そのカリスマ性で信者を動かし、おのれの野望を達成させようと策を練る。ちょうど戦略シミュレーションゲームのような感覚で、それが日常の当然なことのように感じられていて、別に罪あることとは考えていないのでしょう。ゲームといいましたが、私たちであっても、ゲームで人を殺すことを躊躇しません。なぜならば、それはそういうゲームであるからです。つまり、殺すことも是となる道徳律がそのゲームの世界であるからです。
彼は、私たちがゲームの時に味わうような別の道徳律で、私たちの現実を生きていたに過ぎません。だから、今、私たちが彼にしているのは、何も悪いことをしているはずのない熊にどうして罪の意識がないのかと嘆いているのに等しい行為です。それはとても空しいものです。
彼にとって、法廷とは、捕獲されたあとの檻であるか、あるいは、ゲームオーバーのあとの長いバッドエンドかどちらかであるのでしょう。多分、彼は国家という彼にとってははるかに強い強者に捕らえられ、自分の権利という権利はすべて奪われてしまうのであろうということを自覚しています。しかし、それは弱肉強食の原理で喰われることになった被捕食者のような感覚で、罪の意識とは無縁の境地であるといえるでしょう。ただ、自分はいつ喰われるのか、それに怯えるだけの哀れな動物です。
だから、もし、私たちが自分の欲望を満足させるのならば、彼に人間として罪の意識を芽生えさせて、謝罪を願うよりは、死なないように拷問にかけ続けることであると思います。非常に不毛なことですが、最も効果的な痛めつけかたです。
謝罪というのはそもそも不可能です。前述の通り、彼には罪の意識がありません。もし、彼の謝罪の言葉を聞きたいのなら、最初から日本社会の道徳とは何かを教育するところから始めなくてはなりません。しかも、教育したとしても、そこでできあがった人間は罪を犯した彼とは別ものの別の人格をもつ彼になるでしょう。ほとんど過去の罪となったことを改めて問われて、彼の中では原罪でも背負うかのように死んでいきます。そうなっては、彼はオウム真理教のキリストになってしまいます。彼は最後にすべてを救い死んでいったと喜ぶことでしょう。私たちにいいことなんて何もありません。
![]()
04.2.20
ようやく、読み切った『ベルサイユのばら』です。何というか、思っていた以上にキャラクターが生きていて、また、個人的な好みもあって、はまりました。ここで、『ベルサイユのばら』について語るというのも、浅はかな私が大言壮語を並べて、失笑を買うなどというのは避けたいところなので、控えて、純粋にミーハーな感想を述べることにしたいと思います。
オスカルには惚れました。あんなによい女がいたら、先ず誰もが恋に落ちてしまうに違いないと思ってしまいます。あの、バスティーユ監獄での戦いは泣かされます。アラン、アンドレという一級の男たちに命を捧げられても、それが極めて自然な、それだけの価値のある女性であるから、うならされてしまいます。
そういえば、私の買ったのは文庫版だったのですが、その後ろについていた解説にオスカルについてちょっとした分析が載っていました。それによると、彼女は『ベルサイユのばら』が書かれた時代において理想とされるような、というより憧れの対象となるような強さ、個人を獲得して、意志と思想を持ち得る女性であるとのことです。
全く的を射た指摘であるようにも思えます。というのも、私たちが求めて、理想であると感じるような像を的確に追跡した女性がオスカルであるといえなくもあり得ません。もっとも、こう考えるのは私の個人的な嗜好が強く反映されているからかもしれませんが、はっきりとした強い意志は多くの場面で、現代社会でも好まれる特性です。
ところで、名作というものはそれなりの普遍性というものを帯びていたり、あるいは、先見の明があったりします。現在、女性が社会進出を果たし、逆に男性は中性化傾向にあるということです。
最近、テレビでやっていたのですが、何かのアンケートで、現在の日本の女子高校生の意識調査で、「女らしさ」、「男らしさ」を求める値は28%程度だとのことで、他の諸国、そのアンケートでは、韓国、中国、アメリカでしたが、その国々の中で最低の値だとのことです。そうした中で、フランス革命の激動の時代の表舞台で戦うオスカルと内助の功アンドレという構図は、現代の私たちの求める理想像をある意味、先見したものではないかと思えてしまいます。
![]()
04.2.16
遅ればせながら、私の中で、ベルばらブームが到来しました。数日前に、結構、少女マンガを読んでいる私が、王道である『ベルサイユのばら』(池田理代子)を読んでいないというのも何であるということで、読み始めただけであったのですが、すぐにもその魅力には引き込まれていきました。まだ、全体の1/5程度を読んだだけなのですが、既にオスカルの虜な私です。
![]()
04.2.11
夕方のニュースでこのような言葉が流されました。どこの局のものかも、そのニュースの詳細な内容も覚えていないのですが、ただその言葉だけは、はっきりと残っていました。
「建国記念日の今日は、国民に牛丼が消えた日として記憶に残るであろう」
他の祭日では、そんなにも意識しなかったフレーズに違いない言葉です。というのは、この牛丼が消えるのはこの国家によってなされたことであり、それはこの国家が私たちのために働いているということの証拠のようなものです。牛丼が消えたことについて、つまり、根源的にはアメリカに対する牛肉輸入禁止措置については賛否も分かれるところではあると思いますが、しかし、日本がアメリカと交渉をしているという事実は紛れもなく国家の役割というものを私たちに意識させます。
というのも、この牛肉輸入禁止措置は食の安全に対して、日本国民の利益を確保するためにあり、また、そうして断固として交渉することそれ自体は、国際社会に対して日本国の立場を明確にして、対等であることをアピールすることに繋がるからです。まあ、それ自体は当たり前といえば当たり前ではあるのですが、よくも追従外交を続けていた日本にしてはよくやっているという気になります。とはいえ、総じて気弱な態度というものは抜け切れてはいないという印象を私は受けるのですが、専門的なことは分からないので、これ以上のコメントは控えようと思います。
話はややそれましたが、国としての立場を明確にして、迎合をしなかった結果の牛丼の悲劇です。このことについて、「(牛丼がなくなって)こうして何かあったとき、しわ寄せが来るのはいつも庶民なのですよね」という話をやはりニュース内で聞きましたが、むしろ正反対です。たとえば、現実問題としてBSEに感染した牛肉を食べ続けたとしてもそれによって、死ぬ人というのが何人でるかということを考えたら、輸入停止措置は妥当な判断とはいえないかもしれません。なぜなら、そうした本当に死ぬとも限らない人のために、輸入を停止することで国民の厚生は悪化させるというわけにはいかないからです。人命のためということで、人身事故を防止するために電車の運行を完全に取りやめてしまうというような状況と同じくらい過保護なことというようにいえなくもありません。その意味ではアメリカの主張するような事柄もあながち間違ってはいません。しかし、これが国際社会の中での日本とアメリカの関係ということになれば、そうして安易に強硬論を貫くわけにはいかなくなります。ただでさえ、身勝手な国であるアメリカのいうとおりにしていてはまたその態度の悪さを助長させるだけで、長期的にみれば不利益につながり、そのことが日本経済全体に圧迫をかけるものとなりかねません。単なる食肉の問題にとどまらないのが今回のケースです。
とはいえ、そうした話はいいとしても、なくなると思えば、牛丼を食べたくなるのも人情というものです。私はそんなことは知らなかったので、折角のこの記念するべき日に何をするでもなく、1日家でのんびりとしてしまったのが悔やまれるようです。
![]()
04.2.9
最近、何か休み癖というのが定着してしまったのは、何となく忙しくなって、ゆっりとPCに向かうのが億劫になってきたようです。とはいえ、こうして、1ヶ月ほど更新を中断したのは、単にそれだけの理由からというわけではなくて、大学生の1ヶ月で1年分の勉強をするという例の時期であったからです。振り返ってみても今期の試験は大変でした。何が大変かというと、かなりの部分をさぼっていた私には本当に、1年分の勉強というものをほんの短期間に仕上げてしまわねばならなかったからです。別段、自業自得であるという話をしたいわけではないので、そうした話はしませんが、実際、1年分というのは身を削る量でした。毎度思うことなのですが、どうして計画的にできないのか、レポートの締め切りが近づいてから、その壮絶な戦いのためのチャートを作り上げて思うのです。1日1レポート。最終的に追いつめられた私の計画はまさに無謀ともいえるもので、気力と時間との戦いでした。こういう時に思うのは、そのある意味、極限ともいえる状況で、ひねり出されたレポートの質、。正直、及第点がくるとは思えない生産型のレポートを読む教授の労力には本当に申し訳なく思います。
さて、このようなつまらない話はこれくらいにして、最近、はまっているものについてお話ししようと思います。実は6日に最後のレポートを提出して、7日はバイトでしたので、実質、完全に自由に行動できる日というのは昨日であったので、本当ならば、昨日のうちにでも更新を再開しようと思っていたのですか、結局、やめてしまったのにはちょっとした事情があるのです。既に疲れていて、ちょっと自分の低水準の体力では強行軍にも思われたのですが、その魅力には勝てずにそのはまっているものを早速、してきてしまっていたのです。
その、私のはまっているものというのは、スノーボードです。スキーはまあ、滑れるので、少々味気ないと思い始めたのが、昨年の春でした。今年は春休みになったら、この技術を修得してやろうと野心を抱いていたのです。というのも、スキーも別にパラレルで滑れるのだから、スノーボードはスキー板が常にくっついて、パラレルになっているものだから、簡単できると思っていた私の自信を一瞬にして、打ち砕いてくれたスノーボードには少なからず魅力を感じていたからです。
とはいっても、いきなり雪山まで行ってきたということではありません。そんな体力もお金もありませんから、近場で練習をしに行くという感じでした。とても便利なので、紹介しておきますと、私が行ったの西武園遊園地のスノーボードパークというところです。そこは2時間滑り放題で、休日900円、平日は500円くらいという格安の値段で、ゲレンデ自体にも人が少なく滑りやすいので、まさに安い、近い、すいているという三拍子揃ったある意味、理想的なパークです。まあ、そこまで、道具を担いで、来る気にはなかなかなれないので、必然的に車を使わないとつらくなるのに駐車料金が1100円もかかるのがちょっとした難点ではあるのですが、それでも、まだまだ安いです。また、ゲレンデが私の目測で、20メートル×100メートルくらいしかないので、飽きがくるのもありますが、練習する分には問題はありません。
コンパクトにまとまっていて、練習するのにはもってこいの場所です。練習に必要なかつ十分な条件が揃っている場所です。1時間のレッスン料金が3000円というのも格安です。他のスキー場に行ったらもっと多くとられるのがふつうです。
そういうわけで、昨日は格安でスノーボードで楽しく過ごしたのでした。明日にでもまた行こうか……などと思っています。今年は私も3年生なので、就職に向けて勉強もしないといけないなあと思っているのですが、そんな勉強の合間の余暇としても、スノーボードというのはよいかと思います。気軽にウィンタースポーツをするというのは、夏に気軽にプールに行くというようには行かないので、得した気分になります。
ちなみに、私と一緒に、スキー、あるいはスノーボードに行きたい人は声をかけてください。一緒に行きましょう。というよりも、むしろ、率先して自分から誘います。行きましょう。
![]()
04.1.13
今更になって、新年の挨拶というのも非常に気が引けてしまいます。既に、寒中見舞いを出す時頃となっていているのです。ということで、今年は新年の挨拶などという堅苦しいものはぬきにして、早速、つまらない話でもしようかと思います。
どうして、こんなにもの間沈黙してしまったのか。そのことについて述べる説明責任のようなものが私にはある気がします。噂では死亡説も浮上し、何か大きなトラブルにでも巻き込まれていたのではと心配された方も折られると思います。とはいえ、それが本心から、して頂けたとは私の徳からしてあり得そうもあり得ませんが……。新春に私がどうしていたかというと、有り体にいうとあるゲームにはまっていただけであります。ただ、それとは別にPC離れののような現象が私の中で密かに起こっていたため、どうにもこうしてPCの前に座って、文章を打つという日常から遠のいていただけなのであります。
どうしてなのか。それを明確に答えることはできないのですが、それは端的に面倒くさいと思っていた節があるのではないかと推定しています。まず、起動時間を待つのが面倒で、さらに日記をこうして書いたりしている時間が何ともつらい時間のように思えてきたのです。というのも、私はこのつまらない日記を一日分書き上げるのに下手をすると一時間ほど費やしてしまうことさえあったために、どうにも足が向かなくなってしまったというのがあります。もちろん、現時点で私の精神状態が健全でないというのもあり、それも少なからぬ影響を与えているというとでしょう。
さて、こうしてつまらない話を初っぱなからしていては退屈なのではないかということで、ゲームの話でもしようかと思いますと、私は昨年の大晦日に『首都高バトル01』(GENKI)を購入し、それからというもの、ほとんど一日中はまり続けてしまっていたのです。別に、走り屋にさして興味があるわけでもない私でしたが、首都高のような入り組んだ高速道路を全力疾走するというのはなかなか楽しめることでした。何やら走り屋の気持ちが分かったような気分です。
しかし、こうした熱中は思わぬところで弊害が生じるものでした。私はリアルで首都高バトルをしたいと思えるほどの過ぎた勇気は持ち合わせてはいないのですが、さすがに、三が日に飽きもせずに首都高をぐるぐると回っていれば、それは気分的にもそれに染まってしまうもので、所用で立川へ出たときには、気分はドラッグレーサーで、普段はほとんど3000以上回すことのないエコで安全なドライバーな私も、どういうわけかアクセルを踏みつけ、4000〜5000くらいは回してしまい気づけばスピードも一般道では好ましくないようなほどに出ていたのです。まあ、一時的な発作のようなものでしたので、今ではいつもの運転に戻ってはいるのですが、ある程度回して、シフトチェンジするというのはなかなか心地のよいものでした。と、やはり、私の話はつまらないのですが……。
まあ、そんなこんなで今年もよろしくお願いします。とはいえ、これからテスト地獄、レポート地獄に突入する私なのですが……。
![]()