03.12.25

 昨日の日記に関して、私の主張はおかしいと友人から指摘されました。こうして反応がくるということは何ともありがたく、それこそ休んでいてはいけないと思い知らされます。ともかくも、指摘してくれてありがとうです。
 さて、その指摘の内容といいますのは、やはり、クリスマスは恋人たちの日ということについてでした。眠気に負けて説明を怠った感もあり、確かに、このこと自体に異論を唱えることはとても自然なことです。当然ながら、クリスマス=恋人たちの日と断定してしまうことは乱暴なことです。本来的に、クリスマスはキリスト教の復活祭で恋愛とは別次元のもののはずです。私も詳しくは知らないですし、私自身、そのこと自体にはあまり興味がないので、これ以上の言及は避けますが、つまり、私のいったことは、根源的な由来に基づいたことではなかったことは確かであるので、その点が不可解に感じられたものと思います。
 とはいえ、私の主張の土台となっていたのは、現実問題としてやはり、クリスマスは恋人たちのものであるというある意味浸透している考え方にありました。実際、こうした通念的なものがある場合、本来的な意味よりも通念的なものの方が重要な意味を持つことはあると思います。
 私たちにとって、本来それがどうであるかは別として、私たちの思いなしの上で成立していることというのは、こうして原点に立ち止まってみると奇妙なことのように思われるものです。たとえば、毎年、クリスマスは恋人との無関係であり、バレンタインはデパートの戦略であるという主張を耳にすることがあります。そうした言説は正統なものに違いないのですが、その言葉は僻みくらいにしか聞こえないという経験がある人もいるかもしれません。そうした話は確かに本当の話なのかもしれないのですが、だからといって、それを重要視するということはありません。もっと、身近な例を挙げるならば、貨幣の価値でしょう。金本位制ではありませんから、貨幣がもっている価値というものは、大雑把にいってしまえば、私たちの思いなしが植え付けいるのであって、それ自体に価値があるわけではありません。
 よく、私たちは思いなしをして、自分たちの格付けによって、物事を判断していきます。それは私たちの社会を形作るための基礎となっているものなのですが、その基礎は必ずしも真実に忠実というわけではなくて、私たちがみんなで思っていることに中心が置かれているのでしょう。

03.12.24

 クリスマスイブです。こういう日にこそ、人の品性というもの、寛容さというものが表に浮き立つような気がします。たとえば、孤独感や不平感から、普段の理性的な振る舞いをしてしまって、自分でも気づかなくなったようなその人の本性というものが思いもよらず現れるものかもしれません。
 というのも、一般的に大人たちの間では、もはやクリスマスは恋人たちの聖夜といった意味合いが定着してしまっていますから、恋人がいるにしろいないにしろ、この恋人たちの特別な日ということで、人びとの感情はとらわれるものです。恋愛というのは人によって個人差はあるものの、人生の大切な一側面として重きを置かれることの多いもので、人びとは多かれ少なかれ恋をして、その禍福の入り交じる世界へと身をゆだねるものでしょう。なかなか恋愛感情が全く存在しないような人は希で、多くは恋の世界の住人であるはずです。だからこそ、恋のクリスマスを他の日と区別しないような人はいないと思われます。
 もちろん、クリスマスだからといって、他の日と変わらないように、特別な日だけ力を入れたりするのは嫌だと思う人も、恋人もいないので、特に自分には関係のないイベントと思っている人もいるかと思いますが、そうした人たちもやはり、クリスマスという観念から逃れているわけではありません。前者の場合は、特別な日にならないように気をつけているという時点で、後者も恋人の有無で自分にとっての重要度を勘案している時点で、クリスマスを特別視しているのです。
 本当にどうでもよい日だったら、クリスマスのクの字も意識されないままその日は過ぎ去っていくはずです。一年のうちで、365日、何かしら何の日と決まっていない日はないくらいに何かを記念する日があります。ときどき、テレビなどで今日は何々の人紹介されて知るくらいしかないですが、確かに毎日が何かしらの特別な記念日です。国民の祝日でもないクリスマスもその中のひとつですが、他の記念日と違って、明確に意識されているかといえば、やはり、私たち自身が特別視するためにあるのです。
 そうした特別な日であるクリスマスの日にはその人の思っていることが表に出やすいものです。特にクリスマスは恋愛の日ですから、その人の恋愛にまつわる気持ちが表に出てきます。
 ある人が嫉妬心に苦しんでいるのならば、それだけ、渇望しているということです。ある人が憎悪の心を煮えたぎらせているのならば、それだけ、不平等を呪っているということです。別にやることもなく暇をしている人ならば、そうした暇をもて余した自分の感情をちょっと分析してみるのも面白いかもしれません。

03.12.23

 何だか、どうしても日記が滞り、ブリーズネット自体の更新もなくなってしまっているのは、ひとえに、私自身がネットから離れている傾向があるからなのですが、頑張って行きたいなあと思います。でも、最近、何かいろいろと忙しく、ゆっくりと日記でも書いているという時間がないのが現状です。
 さて、クリスマスイブイブです。天皇の生誕を祝うための国民の祝日ですが、世の恋人たちはそんなことは全く意識をすることもなく、クリスマスに向けて、誠意恋愛中です。私も今年こそはと思っていたのですが、どうもそういう感じにはなりそうにないというのが実際のところ、全く残念で仕方ありません。
 とはいえ、やはり、クリスマスともなれば、恋人にとっては特別な日でそれはそれは楽しい日になれば幸いであると思うのです。去年みたいに嫉妬じみたことをいう気にもなれませんですし、そういう意味では一年経って、少しは大人になったということなのでしょうか。
 何でもよいのですが、クリスマスを過ぎれば年末年始、2004年の幕開けはすぐそこに来ています。部屋は荒れ果てています。それはあろか、今年は未だに年賀状も一枚も書いていません。これからの数日のことを考えると泣けてきます。確か先日18日は事始めという日だったそうで、その日から年越しに向けて準備をするのが伝統的な日本の師走らしいのです。既にその日から、5日も過ぎています。短気集中型の、宿題は8月31日にやっていくタイプの私にも分かっていることなのですが、いつもながら、過ぎし日の大切さが痛感されてしまいます。

03.12.11

 さて、先日は思わず近況というか、現在の私の精神状態を吐露してしまいましたが、何としてでもこんな半生半死の状態は脱したいと思うので、ここはひとつ、身近なところから精神力回復を図ろうということで、頑張ってこの日記を再開して行こうと思います。
 というわけで、先日、見に行ってきた映画、『ラストサムライ』について、少し触れようと思います。ハリウッド映画=爆発とアクションの映像重視の豪華なB級映画と私の脳髄には定着している構図をそれなりに打ち崩してくれたのがこの映画といえるかもしれません。何かしら、雑誌か何かでちょこっと読んだ寸評によれば、なかなかの出来具合であるとのことでした。制作陣が日本文化について勉強して、無理のない武士道を貫いているということでした。とはいえ、どれくらい理解しているのか非常に興味のわくところであります。別に私自身がそもそも武士道というものを正確に理解しているというわけではないのですが、日本人の端くれとして、文化の誤解の滑稽さを冷笑することくらいはできるので、当日もそんな興味で足が向いた映画館でした。
 実際はというと、ちょっとおかしいなあと思った点が2つほどありましたが、その他はほとんど気になることもなく、純粋にハリウッドのアクションを楽しむことができました。観客をしらけさせないレベルのシナリオであったので満足しています。
 ちなみに私がおかしいなあと思ったといっても、そもそも私の解釈や知識、それ自体が誤っている可能性があるので、何とも私のいうことをそのまま鵜呑みにしてもらいたくはないのですが、忍者が刀を背負っていたことと勝元の死のシーンで敵軍が土下座をしたことです。私の知識が正しければ、忍者は確かに刀を使う場合もあるのですが、その刀も侍と同様に腰にさすものです。背中に背負っていては瞬時に抜刀できませんから、万が一、刀を使わなくてはならなくなってしまったような絶体絶命の危機に対応することができません。ついでにいうと、忍者との戦闘シーンというのは絵的には非常に魅力的ですが、忍者は直接戦闘に臨むようなことは本来的にはあり得ないで、逃げることが第一にあるはずです。ですから、本来、忍者と戦うはずはないはずでした。とはいっても、ここは話が進まないので妥協ということでいいのでしょうが……。次に、勝元の死のシーンで、敵軍が土下座をするのですが、私にはこの行為の意図が分かりませんでした。彼は侍として死んでそのことに感動したのならば、土下座で謝罪するというよりは、むしろ敬意を表するということで、敬礼をするという方が望ましいと思われるのです。ここをどう解釈してよいのやら、分かりません。
 とはいえ、総じてよくまとまっていて、娯楽映画としては秀逸の部類に入るものではないかと思います。

03.12.9

 自分がこうも堕落した道を歩んでいるのか、自分自身説明がつかなくなってきている部分が、今の私にはあります。それは、たとえば、単なる怠け心とかそういうレベルの話ではなくて、ほとんど精神疾患のような具合で、とても生きづらく、ただ日が過ぎていく恐怖を感じながら、どうにか誰かの救済を願わずにはいられないという生活となってきているようです。
 思えば、そんな兆候は既に1年ほど前にはあったのかと思うのですけれども、結局、上手い具合に誰かが救ってくれるということもなく、ひとまずは、日課となるべき前進を一応しながらとうとう限界というのがきてしまったかのような気がします。
 私は私自身がいかに弱い存在かを知っていて、なおかつ、この病理が私の精神に宿る甘えに由来するものではないというのも何となく感覚として理解しているのですが、そうはいっても、解決策というのは見いだすことはできないで、ただ、苦しみの中に埋没していってしまったようです。
 人間にとって、社会の枠組みから離れて、好き勝手に生きることの恐怖は私は今まで知りはしませんでした。もちろん、今だって、真に社会から外れた存在を気取れるほどではなく、大学生の典型的な行動として、まさに社会のあるべき枠組みのひとつに収まった行動をしているわけですけれども、それでも、この遊離は深くその辛さを実感させるに充分な力をもっているようです。
 自由に殺されるとはよくいわれることですが、まさに今の私はそのような状況に陥っているわけで、脆弱な人間ひとりの力では、あるいは、私のような薄弱な意志をもった人間にとっては、自由などというものは、到底、飼いきれる代物ではなかったというわけなのでしょう。
 私のこの数ヶ月はいかんともしがたく肥大化した自由の威圧にうち負けて、それこそ何も手につかない状態と呼べるものだったといえるでしょう。

03.11.14

 十年一昔という言葉はいつ頃から使われるようになったのか分からないのですが、これは私たち現代人の技術革新の速度からきた言葉であろうと思います。今や10年どころではなく、3年もすれば、既に最新の電化製品であったものも時代遅れのアンティークとなってしまいます。もっとも、本当のアンティークのように骨董的価値や魅力もあれば嬉しいものですが、そうもいかずに単なる粗大ゴミとなってしまいます。私たちが今使っているPCも、かつては最新鋭の機種であったはずなのですが、多くの場合、そろそろお勤めの終了時期が近づいているなどということもあるでしょう。道具の新陣代謝の早さは恐るべきものです。
 最近、私の読んだコミックスに『レモン・ハート』(古谷三敏著 双葉社)というのがあります。といっても、まだ第1巻しか読んでいないのですが、その1巻の奥付をみると初版の発行年は1986年で、私が3歳の頃、つまり17年前のものというのが分かります。この本はお酒について描かれた本なのですが、ある話の中で、当時の最新の電子機器を自慢する男が登場しました。彼はマックのマウスオペレーターシステムを搭載したコンピュータを筆頭にレーザーディスクや8ミリビデオなどを取り上げて喜んでいるのです。もちろん、今の私たちからすれば既にそんなものは問題にならないほど進化した危機を扱っているのですが、その事実は、まさにたかが17年で、それこそSFの世界へとワープしてしまったかのような革新です。
 こうした急激な時代の変化に慣れてしまった私たちにとって、さしたる感動もないことではあるのですが、しかし、この急速な変遷が私たち、特に私のような若者に似つかわしくない感情を与えることになっているようにも思えます。つまり、この変化に乗りながら、明日の未来を夢見ることができるのと同様に、つい数年前を思い出して、「古き良き時代」を回顧することができるようになっているのです。こうした懐旧の念は本来的に年輪を重ねて老熟した人々の特権のようなものであったはずなのに、既に過去を振り返れば、そこには現在と違うノスタルジアがあるのです。
 過去に思いを馳せることは何も悪いことではないのですが、しかし、今の私たちが既に老いを意識してしまって、若さに任せて無謀な邁進をする心を失ってしまってはいまいそうで、恐ろしくもなります。というのも、時代の流れが速すぎて活力あるはずの若魚ですら、その流れに負けて淀みに安住してしまいそうな、それほど急激な流れなのではないかと思うからなのです。

03.11.13

 適正体重というのはどうやってもゆがめられないものなのでしょうか。ここずっと身体を何とかスマートにしたいと願いながら、節食を中心としながら、体重を落とし、ようやく62s台という私にとっては夢の領域に到達していたはずなのですが、最近、64s台へとバックしてしまいました。というのも、62sあたりで、ちょっと痩せすぎたような印象があったので、潮時を感じてダイエットをやめたことにあるのですが、それだけでもない気がします。
 今や、立冬を既に過ぎ、暦の上では冬となり、また、実際にもめっきりと寒くなって、そろそろコートをどうしようかと考えている頃なのですが、やはり、食欲の秋というのはどうにも継続していくようにも思えます。収穫の秋はたくさんのおいしいものが店先に並び、ついつい食指が動き、食べなくてもよいものまで食べてしまうという何とも嬉し悲しの季節ではあるのですが、思えば、この秋の食欲、野生状態の動物にとっては、冬に備えて脂肪を蓄積する時期であるはずです。そういうわけで、現代生活を送る私たちもその野生生活の原理というのは脳髄に刻み込まれた本能として未だ消え去ったものではないので、単純においしいものが多いというだけで、食欲が旺盛になるというわけでもなさそうです。
 ダイエットをして、減量を志す人々にとって秋冬というのは何とも苦しい季節です。今日も、食べなくてもいいのに台所にあったクロワッサンを2つも食べてしまいました。欲望というのは恐ろしいものです。

03.11.12

 さて、最近、私のある能力が減退していっているのではないだろうかと疑うようになってきました。その能力というのは、文章能力でありです。それは長らくこの日記を休んでいて、しかも、今も途絶えながらの遅筆であるのか、それは分からないのですが、少なくとも、上手い文章が書けずに書けないままに日記が滞り、滞るたびに作文機会を失って、文章技巧が減退する、その悪循環があるのではないかと思うのです。
 もっとも、こうして書いている私の日記の文章といっても、大して才能のある文章ともいえないで、乱文というに相応しい、稚拙なものであるというのは既に自覚されたものであります。何よりもこういう妙な言い回しが抜けきらないかぎりには優れた文章などというものはほど遠く思います。
 しかし、どうしてもこの文章能力というのは私としては向上させてやりたい能力の1つです。優れた文章を書くことができれば、どれだけ人生豊かになるだろうと、まあ、本気で思っているわけではないですが、それでも当意即妙な文章は思考の中でも確かに役立つものであるはずです。以前も紹介したと思いますが、『類語大辞典』(柴田武、山田進編 講談社)は的を射た表現、熟語を私に気づかせてくれるとても可愛い辞典です。引くたびに、その言葉の微妙な違いを意識して、言葉を選択することができます。
 それはそれでとてもよいことなのですが、結局、辞書に頼らざるを得ない時点で、どうも限界というのがあるようなものを感じます。というのも、主体的に日本語をしっかりと理解して、優れた構成力を手にしないかぎり、そうした優れた時点の助力を得たところで、付け焼き刃が露呈するだけで、恥を隠す恥をかいているように感じられてならないのです。別に上塗りをすることが悪いわけではないのでしょうが、それでも、もともと文章力がなければどうにもならないということが分かっているのです。
 どうしてこうなってしまったのか。それはおそらく単純で、変な本ばかり読んでいた、また変な読み方をしていた結果といえると思います。私は努力して文学書を読もうとするタイプで、本質的に純粋な好奇心で本を読んだことのない類の人間ではないのかと思うのです。つまり、打算で読んだ本から学べるものは論理的に処理されて感性によって吸収されることは少なくなっていき、合理的に説明できる部分だけ心に残って、あとは切り捨てられてしまったのです。これでは、文学の最も文学らしい文章を単なる字列としか認識していないことになるので、そんな読み方をして、いざ、吸収したものをはきだそうとしても、文学的な修辞などは切り捨ててしまって存在しないのです。優れた文章を書こうなどというのはどだい無理な話です。
 また、私は変な本ばかり読んできました。それは受験の弊害ともいえる本の選択でした。受験となれば、文章読解にはセオリーが存在して、その読み方もある意味では、一般の読書に役立つものであるはずなのですが、それが過度になってしまうと、これほど外の多いものはないようにも思えます。それは、自然と文章を論理的な構成に基づいて作成されたものと見なし、それはまさに数式を解釈していくように、読んでしまうのです。私はそうした読み方に適した本を読む機会が多くなり、その結果として、自然な本への興味もつみ取られてしまったかのようにも思えます。
 別に合理的な読書も、受験読解も、それ自体悪でも何でもないのですが、それでも大切にすべきは自然な読書であった気がします。いや、正確にいえば、どちらにも偏ることなくその両方の読み方ができるようになれればよかったはずなのです。安易な中庸論にも聞こえるのですが、やはり、そう思います。
 というのも、私の文章は何となく、どちらかというと論理的で、文学とはかけ離れた存在です。とはいえ、日記は構成も何も考えていないので半ば破綻していそうで、論理的な文章からも本来、離れたものなのかもしれませんが。そういうわけで、私ももっと純粋な読書を楽しむべきな気がします。大学生にもなってと思われるのですが、そういうわけで、今更ながら、読書に耽ろうと決意するのでした。

03.11.6

 明日、私の学部では卒業論文のテーマ相談のための書類を提出することになっています。そこには、来年、自分が書きたいと思っている卒業論文のテーマについて、曲がりなりにも具体的に書いてしまわなければならないのですが、現在の私にとって、それはとても困難なことでありました。というのも、未だに何を書きたいのか具体的に見据えられているわけではないからです。とはいいながら、現時点でひねり出せといわれるのは無理だなどと書く前から書類作成を放棄するような真似もできないので、とにもかくにも思案することにしました。まだ、何の資料もない状態で、ただ頭に思い描いたことを書くというのでは、本来いけないような気がするのですが、結局、特に準備のあるわけでもない私はそうした状態でペンを走らせることになるのです。
 何をしたいのかは、ひとまず決まりました。2つ候補があったのですが、その1つ、「道徳と性欲について」。何となく私の日記を読んでいるとそんな嗜好がありそうだろうと読者の方は頷いてくれるやもしれないのですが、そういったことを書ければと思っています。
 さて、そんな報告はどうでもよいのですが、ものを考えるというのはとても根気の要る、ストレスフルな作業です。普段、それこそ何も制約のない、ただぼうっと考えているときにだって、何も気の利いた考えというものは浮かばなければ、悔しい思いをするのに、期限が設けられていて、しかもそれなりに気の利いたものを書かないとなると、神経がすり減っていきます。
 こうしたときに恨めしく思うのはやはり普段から、知識を蓄えておくべきところを怠っている自分自身です。人間、思考をするときにどうしても必要となってくるのが、論理的な思考力や発想力に加えて、どうしても必要となってくるのが思考の基盤となるべき知識です。知識偏重型の教育の弊害が主張され、知識重視を見直そうという動きもあって、知識だけあってもどうしようもないという雰囲気がありますが、実際、どうしても知識がないと動けない部分があります。知らないとどうにもならないというのはとても悲惨なことです。スタートから躓くことになります。つまり、思考を開始することからして困難になってしまうのです。
 要はバランスなのだとは思いますが、とはいえ、のびのびと思考力を育てるのもよしなのですが、たまには努力して知識を詰め込まないと、というよりも良質な知識を取り入れる努力をしないと、伸びないということを思わずも自覚するのでした。

03.11.3

 今日はカラオケに行きました。最近、よく行くようになったカラオケなのですが、歌を歌っているなかで、洋楽はでどうして歌いづらいのだろうと、常々思っていました。洋楽がどうして歌えないかのは、おそらく多くの人が抱える共通の問題がやはり深く関わっていることは特に抵抗なく受け入れられることだと思います。つまり、第一に洋楽の最も洋楽らしい特徴である英語、あるいはその他の言語をヒアリングする能力が私たちには備わっていないということです。通常の会話では聞き取ることのできるセンテンスであっても、音楽にのせてしまうと、雰囲気も変わり、それと理解できなくなってしまいます。思えば、日本語の歌詞であっても歌にすると何といっているのか明快でないことがしばしばあります。
 そういうわけで、私たちはボーカルパートの旋律は理解しているはずなのに、歌詞が全くわからないという事態に陥ってしまうのです。ふつう、それを歌えるようになろうと積極的な動機でもなければ、歌詞カードをみて、練習することもないので、そうなると、歌詞は何となくのヒヤリングでしか理解できていないという状態のまま過ぎることになります。
 さて、そうした状態で、カラオケでその歌をチョイスして歌うことにすると、私たちは大きな問題に直面します。何となくでしか理解していなかった歌詞をある程度正確に再現しなくてはその歌がその歌として成立しないので、記憶を頼りに旋律にのせて歌詞をのせていくことになります。外国語を瞬時に読み取って、正確に旋律にのせるというのは案外難しくて、そのことでかなりの神経を費やしてしまいます。それだけでも大きな負担であるはずなのに、さらに、洋楽のような歌詞の理解できていないときならではの問題が発生します。それは歌詞をみても旋律が思い浮かんで来ないのです。聞き慣れて、暗唱できる曲ならば全く問題はないですが、カラオケでそうした曲ばかりを選択することはありません。何となく記憶はあやふやで、歌えるかどうか分からないけれども、歌ってみたいという曲は多くあり、また、それに挑戦していくことでレパートリーは拡大していくので、それはカラオケをする人にとっては自然な行為であると思います。そうした場合、曲の構成がどのようになっているかも正確には把握しきれていない状態で、歌うことになり、そのとき頼りになるのはテレビ画面に映し出される歌詞であるといえるでしょう。もちろん、バックミュージックも意味あるものですが、それでは補いきれない部分を歌詞によって補完しようと試みます。つまり、ある歌詞で歌うときはある旋律であるということが歌詞をみることで蘇ってくるのです。ところが、洋楽の場合、何となくでしか歌詞を理解していないから、そのフレーズと歌詞に書かれている文字、そして実際の旋律の整合性を理解できないまま歌わなくてはならないという苦境に立たされるのです。そして、歌詞をみても旋律が想像できないで、どうしようもなくなって演奏中止ボタンに手が伸びてしまうのです。
 今日は、初めてメロディガイドのシステムを知りました。歌の音程に合わせてガイド音がなり、それに合わせている限りは、問題なく歌え、また、それがあることによって曲の流れが想像しやすくなります。今まで、気づかなかったのが何とももったいない気がします。でも、このガイドを使っていけば、洋楽も恐るるに足らずという感じです。 

03.11.2

 バイト先の先輩がいいました。「うちの家系は代々、地震を直観的に予知することができる。胸騒ぎがするときはその兆候だ。そして、その胸騒ぎは今も止まないでいる」と。先月、有名な地震研究家が今月の4日に起きるという地震予知を受けてのことです。その先輩はこうして人に話せば、その予知は当たらないで済むということなので、何とも頼りづらい予知能力ではあるのですが、今回はそうしたかなり信用のある地震予知とも重なっているので、不安を感じずにはいられないという状況です。
 個人的に地震が起こって困ることといえば、今日、バイトを終えた疲れた身体で、部屋の掃除をしてしまって、せっかくかたしたこの労力が無駄になることと、私の可愛い熱帯魚が否応なく死に絶えてしまうということくらいには思いつかない、むしろ、常に機会あれば死にたいと思っている私にはある意味、好都合のような話なのですが、実際、地震が起きるということが予知されるというのはどういうことなのでしょう。
 そもそも、関東大震災はおろか、阪神淡路大地震も体験したことのない私にとって、震災というのは未知の領域の話です。二本の若者には戦争の経験がないから、戦争の悲惨さが分からないという現状と同じようで、身をもって体験したことのない大地震を想像することは非常に困難な話です。頭で理解することは容易であります。おそらく、それによると、大震災後は部屋中の家具は壊れ、せっかく修理保証をつけた電化製品も大地震を前にしては特記事項に従うと修理してもらえないという憂き目にあい、交通機関は麻痺し大学は休講になりしばらくはのんびりとした生活を送ることになるだろうというくらいです。
 人は死に、家族もまたその例にもれないかもしれません。私が死ぬのはもはや私とは無関係なのでどうでもよいことですが、誰か身内に不幸があったとしたら、また、あの面倒な葬儀が待っていて困ります。
 まあ、などと厭世的な感情をもらしてしまいましたが、やはり、能動的に死ぬ気にもなれない今とあっては、とりあえず、私も必死に生きようとして、自分の最善を尽くそうとするのでしょう。
 地震に備えて、何かするべきことはあるのだろうか。もし、死ぬことにネガティブな人は考えておくとよいかと思います。

03.11.1

 先日の大切なもののお話の中で、私のあげた例が、万年筆であったためにBBSでは何やら苦情がきているので、実際のところの私の私の失った大切なものについてやはり話そうかと、考えているのですが、この話をすることでその関係者に迷惑がかかるのではないかというそれを躊躇させる懸念がやはり払拭しきれないでいます。
 そういうわけで、具体的に話すのは遠慮して、かいつまんで話すことにすると、私はある友情を失うこととなったのです。何よりも私は人のことが気になって仕方ない類の人間であると思います。だから、私は、人の輪があり、私を人が好いてくれることを最大の喜びとして、人に無関心でいられること、嫌われることを最大の恐怖と考えているといってもよいでしょう。ですから、現在の私はというと、そうして友情を失ったことへの患苦が痛く心にしみているという状況なのです。
 とはいっても、誰も彼からも好かれたいとは思うことはありませんでした。私はこれと思う人には好かれたいと願うのですが、やはり、裏返せば、つまり残酷な選別のようにも聞こえるのかもしれませんが、好かれても仕方のない人、好かれる必要もない人というのが、存在するということでもあります。しかし、私の基準はおそらく特異でも何でもなくて、極めて一般の理にかなったものであるといえるでしょう。私の場合、私の尊敬する人、あるいは、言語化はできないのですが、私がその人はよい人間であると直感できる人には好かれたいと願います。もっとも私の経験からそうした人間は私の許容できない領域の人間に比べてはるかに多いので、あまり普段はこうした基準が意識の上で顕在化することはありませんが、やはり、そうした人間的に優れていると認められる人間との友情というのは非常に大切で、失うことは極めて大きな損失です。私はというとその人を好いていました。ちなみに私は友人関係でも、何でも人間関係の場合は、好き嫌いの格付けをしてしまう質なので、別にその人とそれ以上の仲になりたいというわけでもなく、自然なことなのです。でも、そうはいっても、好きな人が離れていくのは、失恋するのと同等かあるいはそれ以上なのではないかと思われるくらいに自分の身を削られることです。
 それほどの感情の動きがどうして起こるのかといえば、関係性というものは直接的ではないために、そうした実感をすることはなかなか難しいのですが、個人の人格の一部であるといっても過言ではないでしょう。友人関係は人格の形成に重要な意味をもっているのはいうまでもないことで、その関係を断ち切られることによってその重要な機会を逸し、また、断絶による苦悩もそれこそ人体を切断されるようなことであるといえます。個人の人格にとって、他人との関係は人体でいうところの手足のような諸器官であるといえるでしょう。なぜならば、人格は単一の個体では成立し得ないで、主体と客体の関係、つまり他者との関係によって成立しうるからです。というのも、私という存在は、他者が存在しなければ、もともとその存在意義というものがありません。私たちが何を決断したり、何かと関わろうとするとき、つまり他の人格を発見するとき、機能を発揮するようになっているからです。この議論を続けてしまうと本題を見失う可能性があるので、明晰な説明は避けますが、要は個人の人格が他人との関わりという世界で存在しているものであるというようなことです。多少、大雑把なものいいですが、ちょうど人と人との関係だけで構成される精神だけの世界のようなものがあるといってもよいかもしれません。そんな中で生活している人格にとって、他との断絶は極めて大きな事件であります。そこから得られるものを失い、また、自分が働きかけることのできる世界も小さくなります。私たちは何か身体の一部、たとえば、手を失ったとしたら、翌日から非常に不自由な生活を強いられることでしょう。いままでできたことが途端にできなくなります。それと同様のことが人格に起こると考えれば、よいかもしれません。しかし、これは正確なたとえとはいえないのでしょうが。
 とはいえ、そう考えていくと、私たちの中にはとても自然な現象が浮かんでくると思います。つまり、その喪失を克服して、新たな生活を手に入れる人の存在です。よく事故や病気などで人体の一部を失った人がその障害を克服して、以前と変わらない生活を取り戻すというような話をよく聞きます。また、その経験から多くのことを学び、そうした話を私たちにしてくれます。
 心についても同様のことがいえるのかもしれません。友人を失うことは非常に大きな痛みを伴う喪失です。そのことによって、人は大きく傷つき、懊悩する日々を送らざるを得ません。しかし、失ったことで、見えてくる自分自身の幼稚と傲慢を再認識する機会が与えられ、成長することで、次の関係を取り結ぶときの一助にもなるという具合です。
 私にはそんなに上手い具合にできるとは思えないですが。というのも、それには多大な時間と意志の力が必要となってきます。人間の心というのはどういうわけか、その身体以上にもろいものですから。

03.10.26

 街を歩いていると、そこで行き交う人たちの人生を垣間見る瞬間が時折あります。それはまさに白昼の修羅場というような痛烈なエピソードは滅多にお目にかかれませんが、恋人が相手を見やる顔つきや、通りを歩く人の足取りなんかでも、彼らをみることができます。
 今日はバイトが終わってから、お買い物でもしようかと、とりとめもなく繁華街を歩いていたら、男性のよく通る歌声が聞こえてきました。曲名は「スタンドバイミー」(ベン・E・キング)。つられて近くまで行くと、多摩都市モノレールの高架線の下、野外にもうけられた小さなステージの上で、何人かが歌っていたのでした。そのまわりを多くの人が取り囲み、穏やかで平和な雰囲気がそこには漂っていました。観客をひとまわり見てみると、随分とカップルの人たちが多く見受けられます。手を繋いだり、優しく微笑みあったり、ただじっとバンドの歌に聞き惚れている姿は、そこにある幸せな世界を私に見せつけてくれます。
 よく分からないのですが、それからもカップルにはよく出くわしました。カップルくらいどこにでもいて、何も不思議ではないようにも思えるのですが、それが普段では考えられないほどの人数であったので、思わずうなってしまうほどでした。たまたま、私がカップルのよく出没しそうなエリアを闊歩していたということもあるとは思いますが、それにしても多いのです。今がまさに恋愛の秋だからということの証明であるかのように、どこをみてもカップルという状況でした。
 だからでしょうか。華やいだ幸せが満ちあふれているような、そんな街中にあって、それとは対照的な存在が私に強く印象を与えたのでした。それは私が夕食をと思って、立ち寄った松屋でのことでした。私の隣の隣にある老人が座って、食事をしていました。松屋というと、忙しいサラリーマンか、あるいは金欠な学生の食欲を満たすお店であるように思えます。黙々と食事するまさにファーストフードのお店です。老人が独りで食べるには何とも違和感のあるお店です。何も、その光景だけで、決めつけることはできないのですが、私のみた感じでは、彼は妻に先立たれたか、あるいは独身で、どちらにするにせよ、孤独な生活をしている人のようでした。というのも、目つきに覇気がなくて絶望感がにじむような人であったからです。
 多くの人は、というよりはほとんど例外などはないとは思いますが、他人や社会と関わり合って生きているもので、そうした人間的なつながりというものなしで、生きるのはほとんど困難な生き物であるといってよいと思います。ですから、充実した人間関係が存在するかいなかはその人の幸せに大きく関わっているといっても過言ではないでしょう。人間関係というのはある程度、本人の努力でどうにかできる部分もありますが、やはり、大部分は偶然の産物で、あるいは、そうでなくても、直接的に作為のできない領域に存在するものです。
 人生の大きな影響を与えるそれは、それは不平等です。単純な努力や何かで埋め合わせることのできない本人の資質に左右されることもありますし、全く運命の悪戯でも決まってしまいます。だから、幸せな世界がある一方で、孤独な世界もあるという現実があるのです。
 もはや、私自身眠くなってしまったので、結論を急ぎますが、そう思うと、私はブリーズのお仲間には感謝しなくてはいけないですし、幸せであるなあと思います。

03.10.24

 大切なものをなくすと人というものは何につけて気が重くなってしまいやる気もなくなってしまうものだと思います。最近、私もいろいろなものをなくしているように思えます。その中のあるものは私の内面に大きな痛みを与えるものであったりもします。大切なものが消え失せてしまうと、ちょうど活力の炎も一緒に吹き消されてしまったように、やることもなすことも手につかず、それこそ何もかもがどうでもよくなってしまいます。その上で、その喪失感は体中が空洞になったような吐き気をもよおす感覚を私に絶えず与えてきます。
 こういうとき、人間は、その感傷に浸って、さらにその寂寥感を強めるなり、癒すなりする時間があれば、幸いであるのに、時間の流れは全く無常で、こちらの感情などはお構いなしに進行してしていってしまうのです。そんなことだから、ひとつの喪失に覆い被さるように次の不幸が私のもとへ寄ってくるのです。それはちょうど示し合わせたように、正確で、的確な痛みをくれてくれます。
 そんな私の喪失感は別にして、喪失感について、少し考えてみようと思います。当然のことなのですが、この喪失感というものは、何かがある状態から、ないという状態に移って初めて生まれる感情で、喪失したあるものへの愛惜が根源にあります。ものがなくなって、そのものの価値を自分自身が認めているから、それを失ったことへの衝撃も大きくなって、いつまでも心の中に残り続けてしまうのです。たとえば、最近、私は愛用の万年筆をなくしました。私と直接会ったことのある人ならば、すぐに気づかれることでしょうが、私が普段、胸のポケットにさしているモンブランの万年筆です。私は近年、何かにつけて字を書くときはあの万年筆を用いていて、この頃はペン先も私が使いやすいように削れたのか、より手に馴染んでいた気がします。思い起こせば、私が机に向かっているときにはあの万年筆が握られていて、それなしの生活は考えられなくもあります。万年筆のことを思い起こしては、ため息の漏れる毎日を送らざるを得ません。大切なものがなくなると、そのことばかりに心がとらわれてしまいます。
 とはいえ、これが万年筆だからまだよいもので、それがさらに大切なものとなれば、この思いはさらに強くなっていくことでしょう。人間、この歳にもなれば、といってもたかが20歳ですが、身の回りには大切なものが多くなってきます。私の身の回りにも、たくさんの大切なものが溢れています。さきほど、例にはものを挙げましたが、私の場合、というよりも多くの人がそうだと思いますが、もの以外の、たとえば人であったり、人との関係性であったりと、自分の力だけでは管理しきれないものばかりになります。
 喪失しては嫌なものは、それだけ自分の想いがつまっているものであるといってよいでしょう。そうしたものが大切であるということをとかく私たちは忘れがちですが、失ってから気づくのでは重いことも多いので、その大切なものに感謝するのを忘れてはならないですし、大切であるということを忘れないように努めなくてはいけないようにも思えます。それは別に、大切なものの心が自分から離れないように作為するためではなくて、自分の心がその大切なものに向かうときに、そのものが自分に与えている心地よい影響を実感するためにです。というのは、折角、気持ちのよいことが目の前にあるはずなのに、失って強烈な喪失感を味わうのは、この快感の裏返しであるはずですから、その気持ちよさに気づかずそのまま受け流してはもったいないでしょうから。
 ついでに、そうした喜びによって、その大切なものとの関係がより充実したものとなれば一石二鳥でもありますし。

 とはいえ、失うことはつらいのです。私の万年筆、見かけた人がいましたら、早急に連絡ください。モンブランの青い万年筆です。  

03.10.22

 家の脱衣所で、ゴキコちゃんを発見して、私は洗面台に置いてあったハンドソープを静かに構え、彼女の隙をついて狙い撃ちして、退治しました。どうして、こうも人間はゴキブリを目の敵にするのか、あるいは、同じ動物なのに彼らを抹殺することにどうして私たちは大抵の場合、生命倫理を引き合いにすることもなく、躊躇しないで彼らを死に至らしめることができるのか、そうした話を始めれば、また、それはそれで面白いと思うのですが、今日はそうではなくて、私が彼らと戦うときに用いた武器、石けんについての話をしようと思います。
 私たちは、手が汚れれば洗面所で、1日の動いて、汚れた身体を流したいと思えば風呂場で、自然と石けんを用いて手なり身体なりを洗い、石けんと水さえあれば、身体は衛生さを保つことができて、気持ちよく生活ができます。最近は健康志向で、衛生管理というのは大いに関心をもたれることがありますが、そうしたことを抜きにしても、私たちは石けんをよく使っています。普段、その恩恵が当たり前すぎて、意識もされないのですが、これがなくなってしまうと困りものです。トイレに行って、石けんがなくても、まあ、よいかという感じですが、汚れた手を洗おうと思ったら、石けんはなくてはならないものです。また、よくお風呂場で、石けんがないのに気づいて家人に「石けんとって」とせがんだり、濡れた身体で床を水浸しにしないように気を遣いながら棚の石けんを探したりしますが、毎日の入浴に石けんは必須のものです。
 この石けんの起源を調べてみると、やはりかなり古く紀元前3000年、古代ローマ時代まで遡るそうです。羊を焼いて神に捧げた際、その羊の脂と木の灰が混じったことで石けんのようなものが偶然できたらしいのです。さらに、同じ頃、メソポタミアのシュメール人が
石けんの製法を記していたそうです。
 とはいえ、それが一般に普及して、私たちの衛生状態に大きく貢献するようになったのは18、9世紀で安価な石けんが大量に生産されるようになってからなのだそうです。
 さて、長々とどうでもよい石けんの話を続けてしまい何がいいたいのかといえば、思わず石けんに注目してしまっただけで、特にいいたいこともないわけで、恐縮なのですが、突拍子もなく適当なまとめをするならば、人間、やはり、清潔なのは大切なことです。あなたの愛する人が不潔だったらそれはそれは不幸なことです。もっとも、この場合、愛することもないと思うので、そういう不幸は未然に回避されてしかるべきだからよいのですが、どうしても付き合わなければならない人が不潔だと最悪です。
 まあ、今となっては当たり前のことなのですが、身近な石けんの存在でもちょっと考えると偉大に思えてしまいます。

03.10.16

 帰国してから、1ヶ月あまり、諸処の事情により、長らく筆を止めてしまっていた私ですが、そろそろ再開したいと思います。
 さて、最近、私は致命的ともいうべきミスを犯してしまいました。それはあるコンビニに立ち寄ったときのことです。私はあまり意識せずに車を降りて、ふと空を見上げながら、のびをしていたのですが、しばらくすると、後方の車が勝手に動き出していました。それは極めて、単純なミスによって生じたことでした。サイドブレーキの引き忘れです。運の悪いことに、そのコンビニの駐車場は傾斜があって、ずるずると、車道側に車は引き寄せられているのでした。
 幸い、車が車道に落っこちるまでに、ドアを開け、サイドブレーキを引くことに成功したので、大事には至りませんでしたが、その瞬間、私の心臓は早鐘のように鳴り響き、全身に力が入らず、そのまま運転席にへたれこんでしまうのでした。しばらく運転していても、クラッチを踏む足が不安定で、何度もエンスト間際の走行を繰り返してしまうのでした。
 何事も、基本が大切であるといいます。サイドブレーキを引くのは、安全のためには忘れてはいけない非常に大切なことで、それを怠ったのは私の大いなる油断からでした。
 何か最近、気がゆるんでいるような気もします。このあたりで少し、気を引き締めておかないといけないかもしれません。

03.8.26

 出発前日、旅行に必要なものを揃えに繁華街をうろついていました。日本円をトラベラーズチェックやユーロを換えに行きました。トラベラーズチェックというのは何ともクーポン券のようなもので、現金としての実感が湧きませんでしたが、同様にユーロ紙幣もやはり、紙切れのように思えて仕方ありません。こういうのはやはり普段、使い慣れている日本円でこそ、ありがたみを感じ、現金としての実感を得られるものであると、確信しました。さて、その後、電源のコンバーターを買い、洋服を買いに行きました。何を悠長なことをやっているのかと非難を受けそうですが、実は、今日旅行代理店に旅行代金を支払い、チケットを受け取ったのでした。私が日本を経つまで、残り、18時間程度というときにこんなことをやっているのでした。
 ひとり旅というのはやはり不安なもので、しかも海外となると、鬱になりそうです。思えば国内であっても、ひとりで旅したことのない私が、海外のしかも英語圏ですらない地域に行こうというのは相当、無謀なものではないかと思っています。英語が通じるとはいえ、それでも、私は英語を流暢に話せる自信はありません。どうなることやらと心配です。私が気でもふれて、エッフェル塔からダイブでもしよう日には、哀れなる人が冥界へと旅だったと笑って欲しいと思います。
 さて、現在、日本を経つまで、12時間、家を出るまで6時間というところにまで来ています。実はまだトランクの中身ができていません。あまつさえ、明日来ていく服も決まっていない始末です。どうしたものかと思いますが、まあ、なるようになるでしょう。
 おみやげ、何か欲しいと思う人は、私にメールしてみてください。一応、ヨーロッパでのアクセスポイントなども控えて、ネットに接続せんという意欲だけはあるので、買ってきて差し上げられるかもしれません。

03.8.22

 今日、長年の野望でもあった、家の狸の撮影に成功しました。
 最近、Nikonの『D100』を購入したのが、この成功への秘訣でした。やはり、デジタルカメラというのは、PCさえ手近にあれば、即座にいろいろできる機動性があります。もっとも、そうした理由よりも、何より私の愛用しているNikonの『FM−2』では、自分の目が悪くなってピントが合わせられなくなったのと、そもそも暗闇でピントを合わせるのが困難だということなど、こうした動物写真を撮るには不得意だったので、それを『D100』のオートフォーカスが一気に解決したという点があるかもしれません。デジタルカメラ以前の機能ではありますが、マニュアルフォーカスしか使っていなかった私にはとても便利な機能です。
 さて、話がそれましたが、今日、ようやく狸の撮影に成功して、意気揚々と加工してみたのが以下の写真です。高性能のカメラを使っても所詮、容量を確保しようと思うとその膨大なデータ量が逆に徒となって、あまり綺麗とはいえないのですが、まあ、仕方ありません。
 とにかく、以下の写真をみて、これが狸だ、いや、イタチだと、私に教えてください。私は多分、狸ではないかと思うのですが。

03.8.19

 最近、バイト先で創価学会の信者である友人を見つけてから、創価の人たちと関わることが多くなってきたように思えます。といっても、昨日で3度目くらいでしょうか。それも、まあ、その友人に誘われてということなので、積極的に交流があるというわけではないのですが、こうして何度か彼らを見ていくと、なかなか明るい好感の持てる人間ばかりであることが不思議に思えます。これが宗教の力なのだろうかと思います。ある種の理想郷の建設というのは宗教の力なくしてはといわれそうですが、ある意味、彼らの形成している集団はそうしたひとつの理想郷を樹立しているように思えます。
 もっとも、だからといって、私は創価の思想に馴染んでいるわけでもないですし、将来馴染むつもりもないので、その理想郷を推奨するということはありませんが、彼らの集団に混じっていても、悪意が感じられないので、心地よい気分にさせられるということはあります。誤解を恐れずいえば、その印象は、理想的な教育の施された生徒たちを思わせます。心優しき優等生が集まった集団、そんな感じなのです。
 さて、私はそんな彼らのスポーツ大会なる行事に参加しました。学生ばかり、20人ほどの集まりで、どうも彼らのうちの何人かの初企画らしかったのですが、驚くほどスムーズに進行がなされています。ゲームもルールに則って行われ、自然と秩序が尊重されていました。面白みもあります。自然に彼らは行事を共有して、誰かの不幸を作らないように自然と配慮しているようでした。驚かされるべきことです。
 ええと、いつの間にか、賞賛ばかりの文章になってしまいましたが、改めていいますと、私はそうはいっても、それが私の思想の中での理想というわけではありません。ついでに、本来はもっと別のことを話す予定でしたが、筆がそちらへ動いてしまったので、本来話そうと思ったことは後に加えることにします。
 本当は、このスポーツ大会で、私はバスケットボールとフットサルに参加しました。全部で、30分くらいは走り回ったでしょうか。ほとんど、素人の私は、どちらの競技もほとんどドリブルできないのですが、パスとシュートとインターセプトだけはして、つまり、そんなに技術の要らないで、フィールド全体の状況を判断するような部分だけは参加して、どちらでも得点を決めるという、楽しみも味わえました。しかし、翌日、日頃の体力不足がたたって、筋肉痛です。たかが、30分の運動でこうなってしまっては、動物である人間として失格なのではないかと、本気で悩んでしまうところです。 

03.8.18

 ようやく続いた雨も上がったようで、久々の生温い風が心地よくさえ感じてしまいます。毎年、風情の領域を踏み越えて、騒音に聞こえる蝉の音も、鳥の鳴き声も、ようやく届いた夏らしさのようで、心を落ち着かせてくれます。
 さて、このお盆、雨ばかりで、もしかしたら、単に雨の音にかき消されて聞こえなかっただけなのかもしれないのですが、蝉の音を聞いていなかったように思えます。とはいえ、おそらく蝉は絶え間なく地上にはい上がり、成虫となって短い華の人生を生きようとしていたはずです。残酷な運命というのは、やはり無情に万物に降り注ぐようで、そうして、彼らが長い間、この一時のために養った力を全く無駄なものに変えることを何ら躊躇することなくやってのけてしまいます。
 彼らには恋をする瞬間はおろか、空を飛ぶ自由も与えられはしなかったのです。天運というものがいかに私たちの気持ちを裏切り、貶めているか、考えずにはいられなくなってしまいます。人はそれを嘆く力まで持ち合わせてしまうので、余計に外を眺める情景も侘びしく映ってしまう気がします。

 

03.8.13

 今日の日記は愚痴です。暇でもない限り、読まない方がよいと思われます。
 PCの良し悪しというのはひとえに、私の受け答えに、すんなり応じるかいなかではないかと思います。私のPCはDELLの「LATITUDE D400」で、先代の「INSPIRON 4000」に勝るとも劣らない、従順さで私の愛を一身に受けているそんなPCです。さて、このように優秀なパートナーがいる私のPC生活は順風満帆です。ここでもしかしたら誰かは私に異を唱えるかもしれませんが、ひとまずは私のこの要求を満たしているこのPCは文句なしに私の最高のそれであるといえます。ところが、うちで家族が共有するPCがあるのですが、これがとんでもない、PCなのです。FUJITSUの「FM−V BIBLO NE6/700B」なのですが、とにかく反応が鈍いのです。こいつには本当にPENTIUM3が搭載されているのかと疑うようなPCです。どうして、こんなに使えないPCになってしまったのか、それは製品の所為ではなく、私たちの使い方の所為なのではということはできるのですが、彼は過去、突然壊れ、CPUを交換するという憂き目にあっているので、それ以前と、それ以降、おそらく何の変化もないのでしょうから、やはりPCが悪いということになるのでしょう。反応が鈍いと、こちらも何か異様にストレスがたまります。もちろん、私はPCがどんなものかは大体分かっているつもりですから、異常な負担を与えて、処理が遅くなったことを憤慨することはありません。でも、彼はおかしいのです。インターネットエクスプローラーを起動させるだけで、フリーズするのではないだろうかという勢いで、ちょっとアプリケーションを複数起動させただけで、不安定になります。普段、そうした使い方でも文句を言わないPCに慣れてしまった私には耐えられない痛みです。いっそのこと、棍棒で破壊してやろうかと、今日、本当に思ってしまいました。
 大したことではないのですが、それはこんな経緯があるのです。明日はブリーズのセッション会で、私は新しく作った例のルールを分かりやすく説明して、メンバーのキャラクターに修正を加えようと思って、必要部分をプリントアウトしようと思ったのですが、私のこのPC、つまり、「LATITUDE D400」にはシリアルポートが手持ちのシリアルケーブルの規格より一回り小さくて合わないので、うちでは印刷をするためには、別のPCにデータを渡してプリントアウトする他ないのです。そこで、白羽の矢がたったのが共有PCの「FM−V BIBLO NE6/700B」。何故か、彼にはうちのプリンターのドライバーがインストールされていなかったので、ドライバーをインストールするところから始めなくてはいけませんでした。この時点で、何度となくフリーズ直前という事態に何度も直面しています。
 ようやく、ドライバーもインストールして、プリントアウトを始めようとしたのですが、命令してもプリンターがうんともすんとも動きません。一度、すべてを初期状態に戻そうとしても、今度は、ぐずぐずして、まともに使える状態になるまで、1分は待たされた気がします。この時、殺意が芽生えました。本当です。PCを叩き壊してやろう何て思ったのはこれが初めてでした。
 人間、相手ができるはずのことをできないというのを見ているのはイライラするというのは現実であるというのを知りました。
 さて、どうして動かないのか、思案してみたところ、合理的に考えて、私に何か落ち度があるに違いないと考えるにはなかなか至りませんでした。彼は愚図なのだから、愚図な所為で、私の命令を聞けないのだ、そうに違いないと無意識に思っていたに違いなく、PCの設定等々を設定し直しました。……できませんでした。しばらくして、ふと冷静になって、背面をのぞくと、まだシリアルケーブルを接続していませんでした。何のことはない、コンセントに電源プラグを差し込まないで、テレビが壊れたとわめく機械音痴と同じでした。
 何事にも、真摯に受けとめて、相手を非難しない寛大さは必要なのだと気づきました。でも、ひとつだけ、いい訳をさせてもらうと、彼がもっと優秀ですんなり動くPCでしたら、私もイライラせず、ミスせずにいられたはずなのです。まあ、最終的に致命的なミスをしていたのは私ですけれどもね、もっとも、PCがミスするということはないのでしょうが。
 ちなみに、どうして「FM−V BIBLO NE6/700B」がこんなにもダメなPCになってしまったのかという理由はおそらく、余計なアプリケーションがありすぎる所為ではないかと思います。FUJITSUのコンピュータには使いもしないだろうというアプリケーションが初期状態からすでに多くのディスク容量を使っています。あれがいけないのではないだろうと私は思うのです。ちなみに、私のPCには足りないよというくらいにアプリケーションが入っていません。実はワードやエクセルも入っていないという、PC生活をするにはとても、心許ない守備範囲なのです。まあ、私にはホームページ編集用のフロントページと文書作成のための一太郎、そして、インターネット閲覧用のインターネットエクスプローラーさえあれば大体、事足りてしまうのですが。せめて辞書ソフトが欲しいとは思っているのですが。

03.8.12

 最近、頭痛に悩まされています。何かそれで、毎日、出掛けようという気がそがれて、1日ベッドの上で過ごしています。元気に兄弟や両親が出掛けてしまって、ひとり寂しく家にいます。寂しいというのはやはり、辛いことで、自分の病状よりも、この孤独をとせうにかして欲しいと思ってしまいます。
 とはいえ、私は頭痛持ちではなかったはずなので、何か致命的な疾患でもあったらどうしようかと、そんな気にもなります。嫌なことがあるときは、その嫌なことというものは、どうにも重なっていく気がします。
 明日こそ、医者へ行こう、そうしないと何かあってはつまらないから。とりあえず、まずはそれからです。

03.8.9

 昨晩から朝方にかけて、猛烈な風雨が吹き荒れて、窓から大量の雨水が入ってきました。私の部屋は屋根の先から1メートル以上離れているのにも関わらず、その風の力によってとばされてきた雨が入り込んだのです。自然の力を改めて、尊崇してしまいそうです。もともと、日本人がこうした自然現象に敬意を払い、共に生きようとした、その気持ちが分からないでもないという気がしてきます。
 そんな夜のことです。庭の欅がちょうど真後ろの五日市街道の街頭の光に照らされていました。風雨の中、その欅から輝くものが発しているようにみえたのです。そのひとつひとつをみると、雨粒が街頭の光を受けて、チラチラと光っているのでした。そのさまは、ちょうど日食のときにしかみえないコロナのようで、とても神秘的に思えました。欅がなくても、街頭がなくても、また、その位置と私のみている地点が一直線にならないと、たとえこれ以上の風雨だったとしても拝めない、光景でした。こんなこともあるから、自然というのは面白いと思います。
 私は、この神秘的な光景を、写真に収めようと試みました。しかし、私は気づいたのです。あたりは真っ暗で、光源はありません。フラッシュが20メートル以上先に届くわけもありません。もっとも、この光景をありのままとらえるのにフラッシュというのは、たとえ使えたとしても、役に立たないものでしたが。また、三脚もないので、シャッタースピードを落として、撮影することもできません。おそらくこれが理想的な撮影ですが、三脚を探す余裕はありませんでした。結局、この光景を撮ることを諦めて、眠るのでした。
 世の中には、美しい光景でも、人に伝えられないことのある寂しさというものを知ったような気がします。でも、もしかすると、こうして伝えられないからこそ、ちょっとした窓辺の神秘も、美しいと感じられるのかもしれません。

03.8.8

 嵐の前触れでしょうか。台風が近づいていて、木々がざわめいています。こんな日はこれから始まる何かが始まるような予感がして、無性に心が躍るものです。その期待は空しく裏切られるのですが、それでも懲りずに期待をしてしまうのは、何か、この吹き荒れる風と外の闇の深淵さが、それこそ混沌とした世界を運んでくるのではないかと思ってしまうのです。
 さて、私たちの世界を見渡してみると、多くのことが秩序だっています。例えば、窓の外からみえる道路、私の部屋からはあいにく音しか聞こえないのですが、その道路を車がスムーズに行き交うことができるのはひとえに秩序が存在するからです。具体的には道路交通法ということになるのでしょうか。車に乗って、私たちはスピード制限をしばしば守りません。人によっては、その違反の仕方は様々ですが、それでもどうしてか、すべてのルールを破る無法者というのは存在しないものです。暴走族であっても、決して、右側通行はしないのです。秩序に従って、左を走っています。左を走ってくれているだけで、交通秩序のかなりの部分を遵守しているといえるでしょう。
 暴走族のような特殊な例を避けるとしても、私たちドライバーでさえ、スピード違反は平気でします。私は時折、公道を時速90q程度で走ることもあります。純粋にそんな風に走りたいときがあるからです。しかし、制限速度が時速30qの道路では、その制限速度を守りますし、信号や踏切はまわりに誰がいなくても守ってしまうでしょう。同様のドライバーの人はおそらくたくさんいると思います。
 では、私たちはそれだけ、ルールを破りながら、しかし、ある部分では遵守します。それは何故なのでしょうか。例えば、私はまわりに人がいないのに信号と踏切を守っています。別に誰も使っていない信号を無視しても誰の迷惑になるわけでもないですし、ましてや、近くに警察官がいて、私の信号無視と同時に飛び出してきてキップを切るようなこともありません。それでも、私がここでルールを守っているのは、どうしてなのでしょうか。
 危険だからでも、何でもないのです。それはつまり、理由のいえない、強いて挙げれば「守らなければならないから守る」という有無をいわせない理由によって私の行動は制約されているのです。何をそんなヒステリックな女性のようなことをいっていると思われるかもしれませんが、実際のところ、それ以外に浮かばないのです。もし、他の理由が浮かぶ人がいれば是非教えてもらいたいところです。
 暴走族が左を走るように、暗黙に決められたルールの中でも特に守らなければならないルールには理由もなしに従ってしまうのです。これは人間にとって必要不可欠な資質です。この心がなければ、それこそ、世界の秩序は維持されようもありません。しかし、必要不可欠な資質といっても、それが人に制約を与えるものであるとには変わりありません。私は、こうしてルールを守ることが本能を抑制して、本能から解放された真の自由にの命ずるところによって、この制約を課しているとは思えません。これは、何ともいえない秩序のみえざる手が私を支配して、そこに留めているとしか考えられないのです。
 制約はなければないにこしたことがない。しがらみから逃れれば、逃れただけ真に自分らしいものが残るはずだと思うのです。だから、こうした秩序をも破壊してしまいそうな深い闇が訪れてくるようで何となく期待してしまうのです。

03.8.6

 うだるような暑さが突如訪れました。遅い梅雨明けからすぐに、本来の夏らしいあるべき暑さを取り戻した気候は容赦なく、私たちを襲い始めたようです。汗は昼夜を問わず額から流れ落ち、服はべとべとで、やる気もそがれます。あるワイドショーの報告によると、今日1日で200人以上の人が熱中症で運ばれたそうです。私もそろそろ部屋に冷房をかけて、科学の力の恩恵に与ろうと考えています。窓を全開放していてももう限界のようです。
 そうそう、読者の方にひとつ注意をしておきますと、熱中症になったときは日陰に退避して、水をかぶって気化冷却で身体を冷やすのが効果的な方法のようですが、熱中症にかかる前に、帽子をかぶるなり、日傘を差すなりして直射日光を浴びないようにして、こまめに水分補給をすることだそうです。ちなみにこまめに水を飲むとダイエット効果もあるということです。一石二鳥なので、是非、水筒かペットボトルを外出のお共にしてください。

03.8.3

 いつの日かは忘れましたが、バイトの昼休みにみんなで雑談していたら、こんな話を耳にしました。「ダカラ」「アミノサプリ」「アミノ式」などなどのダイエット支援ウォーターを飲んでもやせるどころか太るらしいとのことです。比較の問題で、「コカ・コーラ」などを飲むよりはよいという話らしいです。根拠はないので、まるまる信じられるのは困るのですが、表示を見れば、ダイエットウォーターはノーカロリーであっても、やはり、カロリーはあって、飲んでみると甘いというのは周知のことかと思います。私も時々飲んではみるものの、やはり効果はないらしいです。私はせっかく飲んでいたのに残念だと思い、これからは飲むのを控えようかと思います。まあ、私の場合、「コカ・コーラ」が好きというわけでもなくて、スポーツドリンク中毒ということもないので、摂るはずだったカロリーを少なくおさえられたというのではなくて、単に余計にカロリーを摂取してしまったということになるのでしょう。でも、この話が本当だとすると、このダイエット支援ウォーターの考え方というのは、実はダイエットに不適な誤った方法であるような気がしてきます。
 ところで、私が時々、この日記で紹介する、一連の緩やな体重減は真実のもので、最近は夢の64s台、あと1s減で目標達成だというところまで来ているのも真実です。私のこのダイエットを成功させている秘訣は、何といっても食事の質の変化です。ちなみに今日、バイト先で食べた昼食は「コールスロー」「ハムチーズサンド」「ビッグアメリカンドッグ」です。この中でアメリカンドックは高カロリーでダイエットの天敵ともいえそうなのですが、そうはいっても、まあ、最近、はまっている食品なので、はずせないところです。思えば、昨日のバイトでも、アメリカンドッグは食べていました。話がそれましたが、過去の私でしたら、昼食はコンビニなどで調達するとしたならば、「焼肉弁当」、「ボリューム弁当」などなどの重めの食事が主流でした。食べ盛りでしたし、成長期でもあったので、そういうものを好んで食べても、受験期で運動ができず、一定のストレス下に置かれ続けるなどという特殊な環境でもない限り、それでも体重はキープできたものでした。しかし、その生活をし続けていれば、おそらく夢の80s台の壁を叩いていたかもしれません。
 現在の体重が、そうした悲惨な状況にないのは、先の例のように食品摂取量の変化したからです。普段のバイトの食事には大体、アメリカンドッグは含まれないで、サラダとおにぎりかサンドイッチくらいです。トータル摂取カロリーは400キロカロリーを下回ります。アメリカンドッグをいれても、今日は600キロカロリーでしょう。さらに朝は簡単にすませて、今日はお蕎麦でしたから、200キロカロリーくらいでしょうか。夜はカジキマグロの煮付けにご飯、何かの残り物のカツサンドで見当もつかないですが、多く見積もっても800キロカロリーはいっていないでしょう。つまり、今日の接種カロリーは1600キロカロリーです。私の場合、家の気まぐれな体脂肪計で計ってみますと、基礎代謝に1600キロカロリー、消費カロリーは2100キロカロリーくらいですので、500キロカロリーの貯金ができます。
 何かのテレビでいっていたのですが、一般的に7200キロカロリー余計に摂取すると1s体重が増加するそうです。逆に7200キロカロリー少なく摂取すれば、1s体重が減少するらしいです。そう簡単な計算が上手くいくとは思えませんが、目安としますと、2週間で1s減らせる計算になります。何だかんだいって、どか食いしたりする日もありますから、1sが1ヶ月以上かかることもしばしばですが、毎日、500キロカロリーの貯金をし続けられれば、多少、散財しても体重は減っていくということになります。多少、どか食いしても、その日食べたものがすべて吸収されるということもありませんし。
 では、どうして、こうした食事摂取量をキープできるのでしょうか。それはひとえに好みの変化とあまり食べたくないという心境の変化にあると思われます。私はナスやトマトなど食べられない野菜の多い偏食家ですが、どういうわけかコンビニに並ぶあの小さな野菜のサラダなどは好むようになりました。トマトさえ、トッピングに入っていなければすべて私の食べてもよいものになります。それに加えて、肉類を避けるようになったのです。「カツサンド」も「焼肉弁当」も全然食べたくなくなったのです。さらに、飲み物も飲むならばミネラルウォーター、気分によってはお茶です。高カロリーのものを飲むとしたら牛乳くらいなものです。紅茶系の商品などは飲みません。砂糖が入っていて甘くなったものは好きではないので、飲みたくないのです。肉を避けて、甘いものが苦手になれば、自然とやせていけるようになるものです。余談ですが、コンビニで売られているような中国茶も私は飲みません。その理由はあれは純粋においしくないからです。中国茶は自分いれて飲まないとダメなのです。
 そんなことは分かっている、ではどうしたら、肉類を避けて、甘いものを控えることができるようになるかという秘訣ですが、私はミネラルウォーターを飲むように心がけるようにすることではないかと思います。どうして、そこにくるのかと不思議がられるかと思いますが、普段、家でわざわざ心がけてお水を飲もうという人はそういない気がします。のどが渇いて冷蔵庫を探っても、おいしそうな飲み物がなかったから、仕方なく、コップを蛇口にもっていって水を汲むくらいだと思います。私の住んでいるあたりはまだいい気がしますが、より都心のレストランで出される水はあまりおいしくありません。もっとも、高級レストランとなれば、高品質の浄水器を備え付けていますから、おいしく飲めますが、私のお腹を満たしてくれるような安いレストラン、定食屋では、その味は望めません。つまり、仕方なく飲む、あまりおいしくない、そういった印象をもつ水は積極的に飲まれないのです。では、水が飲めなければどうするかというと、そこに味を付けて飲んでしまうのです。つまり、お茶にしてみたり、ジュースにしてみたりするのです。
 ある本に、お弁当屋さんの白米の弁当と、チキンライスの弁当では原価がチキンライスの方が安い場合すらあるそうです。それはチキンライスは味付けをして、料理することで、品質の低いものでも技術でもって、味を高められるから米の品質を落とし、価格を抑えることができます。悪くいえば、客の舌を誤魔化すことができるのですが、白米では素材の持ち味がストレートに出てしまうので、誤魔化しようがありません。
 そうして、知らず知らずの間に、舌が味、品質にかかわらず濃い食品にならされてしまい、結果として、味が強く、おいしく感じられる、肉のうまみ成分と、砂糖の甘さに惹かれるようになってしまう悪循環が形成されていくと考えられます。
 この循環に逆らって、水を愛飲するようにしてみます。ミネラルウォーターと水道水、飲んでみると微妙な味の違いですが、少なくともミネラルウォーターを飲んで不味いと思うことはないでしょう。余談が多いですが、私は「ペリエ」などの炭酸要素の含んだ水は苦手なので不味いと思いますが、それは例外で、大概のミネラルウォーターはおいしく飲めます。それにミネラルウォーターはたくさんの種類がありますから、飲み比べて自分の好みを見つけることもできるでしょう。
 ミネラルウォーターは高いように思えますが、お茶やコーラの代替品と思えば10円くらいお得な商品です。さらに、カロリーは0の究極のダイエットウォーターです。加えて、大きな効果として、薄い味に敏感になれるようになります。さっきもいったとおり、ミネラルウォーターと水道水の味も素人にしてみれば、微妙な味の違いです。私だって、好きなミネラルウォーターの味は覚えているはずですが、もしかしたらラベルを隠されたらちんぷんかんぷんかもしれません。でも、その薄味を普段から飲み続けていて、意識的に舌の感覚を薄い微妙な味へ焦点を合わせるようにし向けていけば、次第に濃い味が苦手になっていきます。刺激が強すぎるようになるからです。微妙な味が好きになるとジャンクの作り物の味が、常食のものから、時折、焦がれて食べたくなるものに変化していきます。ジャンクな味は単調で、一時はおいしく感じたとしても、多様な味が識別でする舌が満足できないからです。人はバラエティーを愛するからです。
 濃いものから、薄いものへと移行で、食事を意識的に制限することなく、しかし結果として、摂取カロリーは減っていきます。ダイエットはつらくて長続きしないなどということはありません。なぜなら、好んでダイエット生活をしてしまうような舌になってしまうからです。
 ここで、私が提案する水の愛飲によるダイエット生活の導入法は、単に水だけを飲み始めればよいというものではありません。少しは意識的に薄味を好み、微妙な味を判別できるようにシフトしていこうとすることです。
 つまりは、ジャンク食品生活という狭い世界ばかりをみないで、広くおいしい食べ物を探していくのが大切なことです。おいしいものを探しながらやせられるというのはなかなか魅力的な方法ではないでしょうか。 

03.8.2

 今日は図書館のバイトで、2人の外国人の受付をしました。ひとりには英語で、もうひとりには日本語で対応しました。最初の利用者は英語で話しかけてきましたので、何となくそのまま英語の流れになって、話す言葉は英語になりました。次の人は、無言で本を出して来ただけなので、対応にも流れがあるので、無言でも相手が何を私に求めているのかは理解できるので、そのまま無言で対応してしまいます。ただ、重要なことがふたつありました。ひとつは利用者の人に本を種類ごとに別々の棚に置いてもらうのですが、そのためには置くべき本の場所をこちらから指示しなくてはなりません。また、貸出期限を告げるのも私の仕事です。当然、ここはひとつ、英語で対応したいと思うところなのですが、いきなりで英語が浮かんできません。……何となく英語で話しかけられると、頭が英語に反応して、返答が出てきやすいところなのですが、自分から話しかけないといけないとなると思考を日本語から英語に変更しなくてはいけません。なんとなく、そういうのは苦手で、結局は面倒になって、慣れた日本語で対応してしまうのでした。
 一貫性がなくて無様に思えます。しかも、初めの利用者に英語で対応できたとほくそ笑んでいた、矢先のことなので、その惨めさはさらに輪をかけたものになってしましいます。ちなみに、その外国人、2人は図書館の常連で、勤め初めてそんなに長くない私でも、初めてみた人ではありませんでした。それで、さらに私は彼らが実は日本語が理解できるということも知っていました。つまり、私は最初の人に全くの自己満足で話しかけたわけで、そう考えると何とも傲慢です。
 さらにいえば、同様に外国人といえば、中国や韓国からの人もいるのですが、そういう人たちには当然のように日本語で話しかけてしまう私の身勝手は何ともいやらしく思えてしまいます。これでは、欧米に迎合しているアジアの中間管理職日本人のようだ、とまでは思いませんが、ばつが悪いです。
 格好などはつけるものではないです。

03.7.27

 今日、ふと思い浮かんだこの考えはあまりに軽薄で、おそらくは多くの避難を浴びるに違いないもののように思われます。でも、とりあえず、このところリニューアルをしていて、日記も書いていないので、折角だから、この愚かな考えというものを披露してしまおうと思い至るのです。
 現在の日本社会を見渡して考えてみますと、通俗的なフェミニズムの意識というものがあって、何かと女性というものは優遇されているように思えます。私がここで通俗的なフェミニズムといったのは、欧米的男性中心主義からの脱却を目指し、女性の自己決定権を主張するといういわゆる正式なものとは違って、単に俗によくある女性に甘いという意味合いにです。女性に甘く、女性という理由で何事も許してしまうというそうした風潮がこの社会の中に渦巻いているのではないかと私は思うのです。事実、社会は男性に厳しくあたるものです。社会は怠けている男性を評価ししやしませんし、勤勉で向上心のない人間はなかなか上にのし上がれはしない社会です。「君も男なのだから……」という言葉は未だに使われる言葉で、男であるということで、「泣き言は御法度」が未だ不文律です。
 では、対して女性はというと、「君は女性だから……」といって、甘やかされ本来行うべき責務を免れることもしばしばです。この不平等は何なのだろうかと、思えば私も子供の頃にはよく思うところでした。
 しかし、最近になって、このカラクリこそ女性の辛さの根源たるところなのではないだろうかと気づくようになったのです。男性にとって、社会的な地位というものは大概、重要な意味を持っていて、その地位によって大きな制約を受けるといっても過言できありません。地位の上下はその人の格付けの上下に等しい意味を持っています。もっとも、私は地位などはどうでもよいとは思っていますが、一般社会のいわゆる公的な目というものは地位を重視するといってよいでしょう。対して女性は、地位などというものにはとらわれることなく私は私として生きていけます。彼女には肩書きなどというものは必要なく、私であることがアイデンティティです。
 これだけを聞くと、女性の方がより自由で、男性は地位などという下らないものに束縛されているとるに足らない人間のようにも思えてきますが、しかし、地位から自由であることは、逆に地位という社会の根元的な秩序体系から見放された存在であるということができます。また、見放されてしかるべきもと社会も考えているのが実情です。
 大学を卒業して、企業に入社して、数年間、最愛の人を見つけて寿退社する、その善悪はともかくとして、この流れがとても自然で、よくありそうな話であるとこれを読んであるあなたも納得できるところでしょう。女性の社会への参画が叫ばれつつも、現実は女性は結婚すれば、家にはいることは当然の世の中です。そもそも参画が叫ばれ、話題となる時点で、社会は男性のものにあるということは自明の理であるといえるでしょう。私はここでフェミニズムに乗っ取って女性の権利を主張しようとは思いませんが、しかし、着目してほしいことは、社会が男性が動かしているという実情です。
 つまり、女性にはその中で生きていくことを本来的には望まれていない、社会は男性のテリトリーであるということに目を向けるべきであると思われるのです。そして、女性に甘く、男性に厳しい、世の風潮もこの男性のテリトリーを守るためのシステムであるといえるのです。
 このシステムの下、男性は向上心をもって働いていけば、上位の生活を営むチャンスが与えられています。蓄えた知識と経験と信頼とで成功すれば、それこそ幸せな生活というものが待っています。社会というのは正確に時勢を見極める力があれば、成功するようにできています。失敗するとすれば、それは知識や何かが足りなかったからで、要は努力不足です。
 それに対して、女性は社会から大きな期待をされていません。期待というのはあくまでも一般的な傾向においてで絶対的に女性に期待が持てないというわけではなくて、比較の結果です。とにかく、のし上がるためには男性以上に大きな力を必要とします。では、女性が成功をおさめるための方法とは何かといえば、先にも挙げた自然な流れである、寿退社に代表されるような幸せな結婚ということになるでしょう。
 いい男を見抜き、惚れさせて、夫として貢がせる、これが女性の幸せであるといえます。もちろん、価値観はおのおの異なりますから、それに反対することは当然です。単に、これは社会の風潮から導き出された傾向です。理想の男性像の議論は省くとしても、より自分の理想する男性と一緒になれれば、幸せというものは何もしなくても飛び込んできます。
 しかし、この幸せを獲得するには大きな問題があります。まず、その最愛の男性を見つけなくてはいけませんし、落とさなくてはいけません。見つけるといっても、RPGのようにウインドウを開くとステータスが閲覧できるわけではないですし、攻略本があって、そのあと、その男性が成功するかも分かりません。理想の男性を見つけたとして、その男性を落としきれなくても、ダメなのです。
 つまり、女性が幸せになるためには、幸せを与えてくれそうな人を見つけて、ゲットしなくてはいけないことになります。男性は自分の幸せを自分で作り出すことができますが、女性は与えられなくてはいけない。これはとても不安で、ギャンボリックなことです。自分の努力に見合う男性が現れて、幸せにしてくれるかどうかは神のみぞ知るの世界です。男性以上にギャンブル性が強い世界で、これでは男性のように何も考えずまっすぐ前に進んだ方が楽ではないかなあと思ってしまいます。
 最後に、改めて付け加えますが、私はここまでの議論が、完全であり、世の中の道理であるとは思っていません。きっと、こういう現状であるから、こんな傾向があるのだろうと推定しているに過ぎません。そのあたりのところ、誤解なくお願いします。

03.7.19

 昨日テストが終わって、一息つく間もなく、明日は音楽スクールの発表会です。楽しみな反面、えもいえぬ緊張とが混ざり合い、ほのかに高揚感を感じるといった感じです。とはいえ、明日を迎えるまでにはかなりの波乱を経験することとなった1日です。いいことと悪いことがたくさん起きて、どうにも目まぐるしいのが正確ではありましょうか。
 昨日のテストは『国際経済論』という経済学部の専門科目で私の専門とはかけ離れた分野のテストだったのですが、何のことはない、哲学科の専門科目のテスト以上に手応えを感じることができたのが幸いして、今日は比較的精神状態が安定していました。減点方式のマークシートの答えが合っていると確信できる選択問題は安心させてくれます。
 しかし、起きて水槽をのぞくと悲惨な光景が広がっていました。先週、購入したパールーンという熱帯魚なのですが、数日前から、白点病と思われる症状を発症していたので、投薬治療を行っていたのですが、その甲斐もなく、今日の午前中には亡くなっていました。一気に気落ちしてしまいます。
 気を取り戻して、今度は懇意の大丸ピーコックに行きました。前々から広告で知っていたのですが、今日は特売日で、冷凍食品が40%Offというかなり嬉しい日なので、本来は夕食を買いに行くはずの予定なのですが、かなりの量の冷凍食品を購入して満面顔です。ちなみに今日の私の夕食は特売セールの牛肉でした。思わず、先日、勉強した経済の論理を思い出して、この満足感、お買い得感が、あの消費者余剰なのだと、変な実感をしてしまいました。
 それから、……いや、これでお終いのようです。案外、たいしたことはないようです。感情の起伏だけが激しいと、それだけで1日、いろいろと体験した気分になってしまうのでしょうか。
 さて、話に全然脈絡がなくて、とりとめがないのですが、明日はビートルズの『Get Back』のギターをやります。時間は1730から、場所は府中の『フライト』というライブスタジオらしいです。頑張ってきます。根性つけてきます。

03.7.16

 前期テストの初日でした。今日は経済原論というミクロ経済とマクロ経済の基本的なことをおさえるという趣旨で開設された講義で、教職免許状に必要な授業のために、文学部で経済とは離れた位置にいる私もこの講義のテストを受けねばならないのでした。
 前期のテストはミクロ経済の基礎ということで、たとえば、需要曲線と供給曲線、無差別曲線、あとは独占の理論やパレート最適なるものなど、私には詳しく分からないのですが、ミクロの基礎と思われる単元のテストです。
 基本的に経済学についてはそんなに興味のある人間ではないので、講義には最初と最後、あとは気が向いて数回程度しか出なかったのですが、まあ、試験は前日に勉強をしていたので、問題はなかったのです。しかし、昨日、初めて開いたその経済の教科書はとても興味深いものだったので、ここであえてこの話題を挙げて、知らせておかねばと思いテスト中にもかかわらず、キーボードを叩くことにしました。
 教科書として私たちが指定された本は『グラフィック ミクロ経済学』(金谷貞男 吉田真理子共著 新世社)というもので、特に外観からはおかしなところは見受けられないのですが、中身を読んでみると、不思議な気持ちになります。ところどころ抜粋していって見ましょう。ある程度、読んでいきますと、消費者の代表として、ある人が出てきます。
「シンジ君という需要者が伊勢エビを買おうとしているとしましょう。……」
 さらに読み進めていくと、2人目の消費者が登場します。
「さて、伊勢エビの市場にはもう一人レイさんという需要者がいるとしましょう。……」
 まあ、この程度ならば、偶然というのもあり得ますが、さらに生産者の代表がさらに2人ほど出てくることになります。
「アスカ水産という供給者が伊勢エビを売ろうとしているとしましょう。……」
「さて、伊勢エビの市場にはもう一つカヲル漁業という供給者がいるとしましょう。……」
 決定的です。いわずもがな、ここで登場する消費者、生産者役はエヴァンゲリオンのパイロットなのです。何故、ミクロ経済学の本で、このようなお遊びがなされているのか、私には全く理解できません。しかし、次第に、読み進めていくうちに次は誰が出てくるのだろうか、やはり、トウジ商事だろうか、それとも、ミサト銀行だろうか……次の登場人物を楽しみにしてしまうようになりました。残念ながら、カヲルくんで打ち止めで、他の名前は出てくることはありませんでしたが。
 そういえば、お気づきでしょうか。この本の出版社は新世社という会社です。“新世”です。この本はセカンドインパクト後の世界を意識して作られた本なのでしょうか。
 経済学の教科書を読んだことのある人はおそらく、消費者が2人しかいない世界や、供給者が1人しかいない世界というものを想定して議論をすることを知っていると思いますが、現に、この本でもまた、そのような想定で議論がなされている部分があります。
「この経済には二人の家計しか存在しないものとします。これがシンジ君とレイさんであるとしましょう。……」
 残念ながら、シンジ君とアスカさんしか存在しないといわれれば、映画のラストを思い出すことができるのですが、それでもやはり、シンジ君と綾波だけの世界というのも何かありそうな気がしてきます。
 ところで、レイさんの登場シーンの引用で、伊勢エビを需要していることになります。しかし、綾波はラーメンをオーダーする時もニンニクラーメンチャーシュー抜きで、菜食主義者のようです。果たして、伊勢エビを需要したりするのでしょうか。決定的なのはパレート最適という単元でレイさんは伊勢エビと牛肉を得ることによって、効用(心理的満足感)を得るよるような無差別曲線を展開させています。綾波は肉類は食べる気も起きないでしょうから、牛肉で効用が得られるとも思えません。
 折角、お遊びをするのでしたら、徹底して、こだわり抜いて欲しいと思うでした。でも、この本は読んでみると面白いので、大学の本屋さんなどで立ち読みしてみてはいかがでしょうか。

03.7.12

 どういうわけか、ボードゲームに対して、私は相性がよいようで、子供の頃から初見のゲームにもすぐに適応する柔軟性とある程度の戦略を立てる知力とには恵まれていたようで、それが余計に私をゲームに馴染ませる土台となっていたようにも思えます。とはいえ、特にゲームの定石や戦術を勉強するなどということはないので、実際はそんなにゲームが強いというわけではありません。ついでにいうと身近にゲームの相手をしてくれる強者がいなかったのもあって、所詮は井の中の蛙というようなものです。
 さて、今日は、眠い、眠いと目をこすりながらやっていたのは間近に迫った試験のための勉強も、発表会のための練習もせず、携帯電話にダウンロードされた麻雀ゲームに熱中していました。私は実は麻雀好きです。ボードゲーム好きの私としては、それは自明のことのように思えますが、麻雀は特に私にとって魅力的でした。
 どうしてかといえば、麻雀は運の要素と実力の要素のどちらも必要としていて、かつ、流れのようなものが確かに存在するゲームです。ギャンブル的なものの好きな、でも、実際の賭け事は嫌いですが、私にはちょうど合っているゲームなのかもしれません。
 まず、私は運任せのゲームは苦手なので、常勝できない、むしろ、負けの方が多いくらいなので、とても楽しいです。
 眠くなったので、今日はこれまでにします。これでは何も語っていないのと同じ気がしますが、まあ、こんな日もあるでしょう。

03.7.9

 身体は鉛のように重く、関節がめいめい悲鳴をあげている、久々に今日はそんな日でした。実はブリーズネットのリニューアルをすると公言している私ですが、試験直前という状況にも関わらず、部屋の模様替えに夢中なのです。毎日、大学から帰ってきては、あれこれと思案してより機能的でかつ私の美的な感覚を満足させる部屋を目指して、家具を動かしてみたり、あるいは書棚の整理をしてみてはいるのです。
 特に部屋の模様替えが好きな人がいるらしいと聞きますが、確かに模様替えというのはとても楽しいことです。何といっても部屋がより機能的に、かつより美しくなるという確信が模様替えをしているときにはあるからなのです。採寸をして、よりスペースを活用して、新しいものを置いて……。改善点はあらゆるところに転がっています。気分はといえば、お昼頃にテレビでしきりにやっているスペース活用術の紹介のようなものです。
 もっとも、私の美的センスでは、いくら効率的であるといっても、露骨に100円ショップのグッズを使っては云々というスタイルは許容しかねますが何しろ、100円ショップの品の品質はたかがしれていますし、それを組み合わせてみると機能的とはいえ、やはり違和感があります。生活用品として日常ふれるときにその奇妙な道具を使うのはどうも苦手です。
 話が幾分か逸れてしまいましたが、実のところ、私のこの日記で意図するところは、今日のこの体中に乳酸をためた成果をみんなに自慢がしたいという一点に過ぎないので、これからはその点について述べていくことにしましょう。
 私の部屋はまず、非常に縦長で、中央に入り口があり、右に書斎エリア、左に寝室エリア、そして、中央にリビング+アクアリウムエリアと3分割されています。今日は主にその3分割の徹底を行いました。書斎エリアに食い込んでいた、水槽を中央に置き直し、さらに寝室エリアとの接点にL時に本棚を横倒しにした棚をつくり、水槽を再配置したのです。これによって、中央のアクアリウムエリアに置ける水槽の数が1つから3つとなり、書斎からの転入に加えて新たに水槽を設置することができました。
 さて、さらりと述べたこの工程なのですが、実は水槽を動かすということは非常に大変な作業です。60p水槽と呼ばれている横の長さが60pの標準サイズの水槽を私は使っているのですが、この水槽は水を60リットルもいれることができます。本体の重量を加えると、さらにもう少し増えて、大体65sぐらいにはなるのでしょうか。当然ながら、移動させることは困難で、持ち上げたとしても水の重量に水槽の底が耐えられずに決壊するか、あるいは移動させようとした振動で大きな波ができて、水浸しにしてしまうだけです。もっとも、取っ手もない水槽を水入りで持ち上げられる人はまずいないと思いますが。
 そういうわけで、中の熱帯魚をバケツに移し替えてから、水を抜いて、重量を軽くして、持ち運ぶことになります。私の部屋には当然ながら、蛇口も洗面台もないので、風呂場まで、10メートルくらいでしょうか。何度も往復しなくてはなりません。さらに、水が抜かれたということとなると、これを幸いと水槽の大掃除をしてしまうのが悲しい性で、水槽も風呂場に運んで、ごしごしとやってしまうのです。2つある水槽の大掃除をするだけで大仕事なのに、今度は家具を作って、移動させて、……とまあ、こう話し続けるのも馬鹿らしくなったので、これくらいにしますが、ほとんど1日、よくも挫折せずにやれたなあと思います。もっとも、まだゴミなどが散乱していますので、まだ続けなくては行けないのですが……。
 ……ついでに、新たにスペースができたので、新しい水槽を買いました。今、設置して水を作っている段階ですが、何をいれるかは既に決めています。それをいれる日が楽しみで仕方ありません。
 何を血迷ったのか、下に私の部屋の見取り図を載せてみました。ものが多くて、使えるスペースが少ない……というより、はじめから、スペースそのものが使えないのです。

03.7.8

 昨日は七夕です。七夕といえば、織姫と彦星の恋物語、遠く引き離されたふたりがわずかな時間だけ、会うことが許されるという特別な日です。そのような日に私は何をやっていたかというと、特に何もなく、穏やかな日常を過ごしているのでした。七夕というのは何とも皮肉なイベントで既に恋人でもいない限りはどうにも恋の機会のないものです。仕方のないので、心の中だけで、短冊を掲げて満足することにしました。
 さて、七夕の話はこれくらいにして、昨日、私は何とも稚拙なミスを犯すことになったのです。それは私が何かの都合で、部屋を離れようとしたときです。手に持っていた携帯をベッドに放り投げようとしました。
 私は基本的に携帯電話やPCなど、機械の扱いは荒いことはよく知られています。さすがにPCを投げるなどという暴挙はしませんが、平気でPCに負担を強いるのは以前も書いたことで、それで寿命を早めた先代のPCは今、棚の奥底に眠っています。携帯に関しては、多少を落としても水に濡らしても、壊れないことは実際の経験の中で実証済みでしたので、風呂場にも携帯を持ち込んではメールを送受信したり、あるいは、シャツのポケットに入れた携帯を前屈みになるたびに落とすことや、下手をすると高速移動中の自転車から携帯が振り落とされるなどということもしばしばありました。それでも、多少、外面が削れるくらいで、機能的にも問題のなかったのですが、昨日のミスはその荒い使い方のレベルを遙かに超えたダメージを携帯に与えることになりました。
 私が投げた携帯はベッドの上の掛け布団をクッションにして、何らダメージなくベッドに放られるものと思っていた私は、特に意識せずに、必然的に力のこもりやすいオーバースローで投げ込みました。それが仇となりました。普段なら、決して犯しそうもないミスのはずなのに、携帯は勢い余って、ベッドを通り越し、壁に激突して、鈍い音と共にベッドと壁の隙間に落ちました。ベッドの上に投げればよいのです。しかも、遠くから投げろというのではなく、せいぜい2メートルくらいしか離れていないところから投げるのです。どうしてミスを犯したのか私には理解できないことでした。(まさか、これがTRPG世界のファンブルというもので……きっと、基本値3で目標値は6くらいに違いないのに出目が1・1だったのでしょうか。)
 駆け寄った私が見たものは中割れタイプの携帯の真ん中の留め具の半分が見事に割れた無惨な姿でした。
 私は意気消沈しながらも、再生を試みました。家にあったもっとも強力そうなボンドを使ってみましたが、やはり、相当な力のかかる中割れ部分を固定するには至らず、残ったのはボンドのカスだけで、余計に汚くなるだけでした。
 さて、今日、私がこの話をわざわざもってきたのは、この大きな過ちの挽回をある有名な最終兵器がしてくれたからなのです。その最終兵器とはいわずとしれた『アロンアルファ』でした。一縷の望みを託して、液を垂らして接着してみると、ほんの一瞬にして、くっついて取れません。外見は元通りとはいえませんが、これで壊れる前の状態と同様に使うことができます。
 『アロンアルファ』はいざというときに役に立ちます。きっと、この『アロンアルファ』には男たちの熱い青春があるに違いないと思わず、プロジェクトXの放送記録をみてしまいました。結果は、記録が膨大でチェックする気にはなりませんでしたが、『アロンアルファ』は確かにいい商品だと実感してしまいました。
 ……『アロンアルファ』ひとつで、こんな長話をするなと怒られそうですが、結局、いいたいことはこれだけでした。いや、ない知恵を絞って、もうひとついいますと、携帯は投げるべきではありません。ものは大切に扱いましょう。……当たり前でしたね。

03.7.6

 今日は私の通っているヤマハの音楽スクールで発表会があるので、そのリハーサルということで、バンドの練習をしてきました。初めて会う人たちと練習をするというのも緊張を誘うものですが、何よりもバンドの練習とはいかなるものかスタジオとはどのようなものか、それすらもきちんと理解していない私にとっては、あらゆるものが見慣れないもので、まさに、私はストレンジャーでした。スタジオといっても、いつも私がレッスンを受けている部屋で、いつも教えてくれる先生がバンドを指揮しているのですから、実質的には集団練習をしているのと何ら変わらないはずなのですが、落ち着きません。
 実際に、今日は多くの失敗をしてきました。教室に入って、ギターのアンプ近くに陣取って支度をします。さて、シールドを繋ぐ段になって、繋ぐべきであろう穴が2つあります。どちらに繋ぐべきか分からずに、とりあえず、適当に繋いで、ボリュームコントローラを見ると使っているものと微妙に違います。先生に助けてもらって、ようやく準備ができました。
 さて、合わせる段階になって、ギターが手から遠すぎて弾けないことが分かりました。立って、弾くのが初めての私はスリングに注意を払ってはいなかったので、まず、そこで出だしから、しくじることになりました。また、先生に直してもらって、これだけでも、散々という状況です。
 もはや、緊張の頂点を極めていた私は厚手の手袋をしているかのように、零下何十度というところにさらしていたかのように、両手は動かずにミスがどうのというレベルではなくて、まとも弾くこともできない状態でした。練習時間が終わっても、まだがくがくと震えてしまって、教室の中では生きた心地がしませんでした。
 私の初スタジオ入りというものはかくのように見苦しいものとして終わったのですが、発表会にはそうならないように、それよりも来週にまた集まるときには今日のような醜態はさらさずにすむように熱意をあげて練習をしなくてはいけません。帰ってからは、一生懸命練習しています。

03.7.2

 今日は頭痛と吐き気に悩まされる1日でした。というのも、昨日は前々から行ってみたいと思っていたバーテンダーが女性だけということで有名なバーに行ってきたからなのです。人に作ってもらうカクテルというのはなかなか嬉しいものでついつい、カクテルの怖さも忘れて飲んでいってしまいました。
 普通、カクテルというものは2、3杯飲んでお終いというのが、正しい飲み方で、それ以上だと余程お酒の強い人でもない限り、ほろ酔いではすまなくなるからです。カクテルそのものは酔いまわりも遅くて、自制心をもって飲まないとあとで痛い目をみる、そういう飲み物なのです。
 そういう知識というものは少なくとも時々シェーカーを振る私は持ち合わせていたはずなのに、実際、バーに行ってみると、楽しくて、また、カクテルも美味しくて、ついつい飲んでいってしまったのです。
 気づけば、少なくとも10杯は飲んでいた気がします。途中、マティーニを飲んだあたりから、お終いにしてしまえばよかったものを、そこからまた、リスタートしてニコラシカを一気してしまい、どうなのだろう、正確に思い出すことができないでいます。
 飲んだものは例外なく、アルコール度数20度強の強いやつで、総酒量をウィスキーで換算してみると、ワンボトル分は確実に開けている気がします。なんたる愚かな振る舞いをしたのだろうと思います。不幸中の幸いに、バーでは紳士に振る舞えていたので、これからもお世話になれそうな気配ですが……。
 家に帰ってから、……多分、一度、家の前の川で吐いた気がします。そして、家に入ってトイレでまた吐いた気がします。何とか寝てしまおうと思って、ベッドに入ったものの、30分後には気持ち悪くなって吐いた気がします。その頃には既に胃の内容物などというものは綺麗に吐ききってしまって、もはや吐くべきものなどなかったのですが、冷蔵庫からボルビックのペットボトルを取り出して、飲んでは、また、吐くの繰り返しでした。
 今日は朝起きて、とりあえず、飲み物を飲んで、また、戻して、結局、気持ち悪さに負けて、学校にも行けずに、午前中はさんざんな記憶しか残っていませんでした。
 現在、20時45分ですが、まだ、少し酒気が残っているようにも思えます。教訓はバーでの暗黙のルールを守らないというのは誰でもない自分を傷つけるということでした。今度からは気をつけようと思います。

03.6.30

 今日はトラックでGT−Rをぶち抜いて、浮かれていたら、そのあと、危うく人を轢きかねない不注意を犯しました。別に一応、未然に気づいて仮に相手が突っ込んできたとしても回避できはしたのでしょうが、それでも、もし、私の反応があと0.5秒遅くて、相手も命知らずだったら、私は今頃、留置場にいれられていたことでしょう。
 思えば、最近、車の転がし方が荒れてきたようにも思えます。生活が荒んで、情緒も不安定になってきたからでしょうか。普段なら、感じることさえもなかった、攻撃性というものが内側から衝動として押し寄せてくるようです。
 私はどうしてしまったのでしょう。次第に堕落していき、よりダメな男となっているように思えます。こうした負の意識に捕らわれて、もがいている様を客観的に捉えるならば、それはより柔軟で成熟した人間性を獲得する過程であり、その苦悩にこそ価値があるものだと判断下すことができるでしょう。何も悩まず正義の遂行者として生きて、何の疑問を持たないとしたならば、その一生はまさにレールを走る列車であり、本当の個性なんていうものはないに違いないと確信できるものであるからです。しかし、この状況は実際体験してみると、恐ろしいほど苦痛に満ちています。どうしようもない誘惑に足を絡め取られ、身動き取れずにいます。ただ、罪悪感と焦燥感だけが私の身体を支配しているのです。だからといって、もとの生活には戻る気にもなれないから、このまま新しい呪縛の解き方を発見するまで、悩み続けなければならないということになります。地獄というものが罪人にのみ切符が渡されるその所以は堕落したものにしか、この苦しみを体験することはできないで、何も疑うことなく、天国を夢見るような善人にとってはとうてい理解しがたい苦悩に違いないからではないかと思ってしまうほどです。
 さらに問題なことは、この苦悩というものが私の内面に自己完結することなく外にその影響をもたらしているということです。この堕落によって、私の地位というものが揺らいでいくのは、確かに私にとって癪ですが、それは自己責任として処理もできますが、今日のような不注意のように、私のこの病というものが顕在化することになれば、私の手に余る厄災を振りまくことになります。
 そう思うと、恐ろしくて、こうした苦悩などというものはなしにして明日から、純然な善人に戻ってしまったらよいのではないかと本気で考えてしまいます。

03.6.29

 何となく気分が晴れない日です。今日、会う約束していた人が急用で来られなくなったという知らせを聞いて、急に暇になってしまった今日は何とも長く思われました。用があるのだから、仕方ないと思いつつも、何となくやるせない気分にさせられます。こういう時、どうしたらよいものかと思うのですが、結局、特にやることも思いつかないで、家で読書に耽ってしまいました。おそらく、多くの人が経験することではあると思いますが、約束を反故にされるということは何となく空しいことです。恨む気持ちもありませんし、それならばそれで、別にやることはあるわけですから、時間が空費されたことを嘆くこともないのですが、やはりどこかもの足りなさを感じてしまいます。それは私がその会うはずであった人に期待をしていて、それを楽しみにされたからに他ならないからであります。
 だからといって、今度は私が反故にしてしまうというこということも生じ得ます。事実、約束を果たすことができずに、中止を宣言することもあります。とても悲しいことではあるのですが、そうした事態は低い可能性であるとはいえ、起きてしまうことです。どうなのでしょう。この空しさというものを取り上げて、問題にしようとすることは無意味なことなのかもしれませんが、やはり、心に留めておくべき問題であるかと思います。というのは、相手はおそらくやむを得ない事情がない限り、せっかくの約束を反故にしたいと思うわけはありませんし、それゆえに、罪というようなものは相手にはないといってよいでしょう。
 また、個々人にはプライオリティというものもありますから、たとえ、その天秤で私との約束が反故にされたとしてもそれを恨むのも筋違いです。
 生きていると、誰の罪でもない、しかし、互いを痛めつけるような悪戯な運命というものがあるように思えます。その運命とやらは、気まぐれに私たちの秩序だったスケジュールをかき乱して、私たちをあざ笑うかのような振る舞いを行います。運命というようなものに味方されれば笑うこともできますが、なかなか上手くいかないのがよの常というものであるようで、この運命というやつは私の楽しみというものを容易に奪い去っていきます。
 それは誰の罪なのでしょう。私の運命にあらがう力が弱いためなのか、あるいは、運命の女神の加護を得られない人の不運なのでしょうか。……約束通りに会えなかったというだけで、少し、話が大きくなりすぎてしまいましたね。

03.6.27

 最近は、特にこれといってどういう話も思いつかないのは、実際に私の現在が退屈あるからなのではないかと思います。実際、私の日常は確かにいろいろとやることがあり、忙しいと思えることもしばじばです。しかし、これといって、何か印象に残こる瞬間というのを味わっていないようなのです。こういう状況というのは折角の生というものを空虚なままにしてしまうかのようで、妙な焦燥感のようなものを抱いていまいます。何か感動できる出来事がその日に見つけられなければ、その1日というのはつまらないものになってしまうと思わずはいられなくなるのです。もちろん、日々の生活から、常に新鮮な感動を得ようというのは並大抵のことではないということは自覚しています。
 というのは、人間というのは忙しい毎日を送っていると、ものを受信しようとする感覚が狭まって、合理的に目下の物事に集中しようとするということを知っているからなのです。そうでないと、疲れてしまって、きっと勤務先や学校に着く前にへばってしまうというのが人間なのです。例えば、今、あなたのまわりに起きているすべてのことを知覚しようと努めてみてください。あなたが静かに自室にいるとしても、それを5分も続けていてはかなりの疲労を感じることでしょう。いわんや、町の雑踏を歩いて、これを実践しようと思えば、それは人間にはとてもこなし得ない困難なことになってしまいます。行き交う人の波、話し声、自然の状態、感じられるすべてのものに注意を払い、それを見極めようとするのは難しいのです。
 脇道に逸れたようですが、感動というのは、普通に生活していても得られるかもしれませんが、きっとこの私たちが無視してしまう膨大な情報の中に確かにあるはずなのです。効率的で合理的な思考をしていては、感動というのはなかなかやってきません。なぜならば、そうした思考をしている限り、因果律を未然に理解して物事を遂行してしまうことが多いはずです。この計算問題をこなせば答えが出るということを予め知っているはずです。そこに思わぬ感動などというものの入り込む余地などもともとないのです。
 感動しないというのはとても退屈な日々であるかと思います。だから、私にとって効率的で合理的な生活を送ってしまうことは最も避けるべき生活様式であるといっても過言ではないのかもしれません。それは、その日が大切なものにはならない気がするからです。毎日の特別を記憶することはきっと不可能ですが、私の血肉となるにはやはり、特別の感動を得なくてはいけないのではないかと思います。それはつまり、変化を促進するような感動というものが必要であるということです。
 人間は怠けていると、というよりも自然なことですが、合理的に効率的に仕事をしようとしてしまいます。その方が何より楽なのです。そうしない人は変化を恐れる意固地か楽にする方法を知らない愚者以外にはあり得ません。しかし、そこであえて、その合理と効率の循環から抜け出して、まわりをみてみることから、違うことを探してみれはきっと感動というものはあるに違いないはずです。
 とりあえず、明日は何があるかは分からないですが、ちょっと受信する感覚を拡大させて、外に目をやってみようかと思います。感動を探してみようかと思います。

03.6.26

 今日は大学の授業の中で非常に難しいテストを受けることとなっていたので、ちょこちょこと勉強して、さらに前日は夜の時間帯をほとんど利用して、勉強に励むのでした。そのテストというのは地名に関するテストで、予め用意された覚えてくるべき地名のリストが渡されて、当日、そのリストに書かれた地名の地点を白地図に書き込むというものでした。何を記憶テストで非常に難しいといわれるかもしれませんが、国、地名、地域、山、川、海、島、ついでに海峡まであわせて570余りの名称とその位置を合致させるのはそう容易なことではありません。学生の記憶能力にある種の挑戦をしているのではないだろうかと思われるテストです。
 私は記憶するという作業が非常に苦手です。いや、正確には嫌いなのです。基本的に、私は自分なりの記憶術というのがあって、また、記憶に関するメカニズムというものをある程度把握していて、やろうと思えば、記憶ができないという体質ではないのです。しかし、私の基本的な思考のメカニズムとしては、いかに少ない知識量でその少ない知識を応用できないかと、考えてしまうので、大量に暗記をしていくことほど、嫌いなものはないのです。
 いまさら、いうのも何ですが、私は文系の学部に通っていますが、受験は数学を利用していて、暗記要素の強すぎる歴史などは手つかずのままここまで来てしまった人間です。暗記は生理的に受け付けないのです。
 とはいえ、この単位を取れなければ、社会科の先生にはなれないので、歴史を知らない私が社会科の先生というのもある種の無謀さがあるのですが、必死に頑張って、久々に睡眠時間を削ってまで、根性を見せてしまいました。正確な結果は明日、掲示されるのですが、感触としてはかなりできたように思えます。合格ボーダーラインを遙かに超えて限りなく満点に、場合によっては満点もしれないと思われる成績であった気がします。とはいえ、実は私は570のうちの約50パーセントぐらいしか確実にわかるというものはなくて、あとの50パーセントはあやふやで運がよければ、分かるという程度のものだったのですが、何故か、覚えた50パーセントの方ばかりが出題されました。天は我に味方したと思わず、心の中で叫んでしまいました。何か、こんな成功談を話しても全然面白くないですよね。
 さて、そんな私ですが、今日は待ちに待った『Viewtiful Joe』(CAPCOM)の発売日です。早速購入して、ゲームを楽しみました。やはり、このゲーム、面白いです。

03.6.24

 昨日、映画『バイオハザード』をDVDを借りてきてまで見てしまいました。それはどうしてかというと、その直前に『世界まる見え テレビ特捜部』で『バイオハザード』のメイキングの紹介が行われていて、無性に見たくなったのです。私がハリウッド映画に興味をもつことはそうないのですが、やはり、CAPCOMから発売された『バイオハザード』シリーズをやってきた私としてはどうにも見ておきたいという衝動をこらえきることはできなかったのです。
 まあ、それはよいとして、映画が始まって、私はいつジル・バレンタインが出てくるのかと、ジルがグレネードをゾンビーに喰らわせるシーンを思い描いていたのですが、出てこないのです。ジル似の女優が主人公らしいですが、というのは失礼なので、ミラ・ジョヴォヴィッチは劇中ではジルとも思えるような雰囲気を持っていたのですが、やはり、ジルとは違うようなので、少しがっかりしました。
 最後まで見ていきましたが、やはり、アクション映画ということもあって、内容に期待をしてはいけないというのがあるようです。ストーリーが一元的でひねりがないので、飽きてきます。でも、今回は『バイオハザード』が映画になるとこんな風になるのかという単純な観点で見ていたので、割合楽しめました。ハリウッド映画というものはやはり、アクション部分や画像のきれいさを鑑賞するものであるのだなあと改めて実感しました。
 私のお気に入りは地下施設を統御するメインコンピュータに進入する際に、その防御システムが作動して、特殊部隊の人間が、通路に隔離されて、その中を走る光の筋を避けるシーンがとても面白かったです。光の筋が、一方向から一方向へと流れていき、それに当たると、何でも切り取られてしまうのです。その中で特殊部隊の隊長は巧みにその光をかわすのですが、防御システムを他の特殊部隊が解除したと思われた瞬間に、その光が格子状になって、隊長を襲うのでした。一瞬間及ばず、隊長はぶつ切り肉となってしまうのです。このシーンの切り口の生々しさと、描写がとてもきれいでした。

03.6.23

 『チューチューロケット』(SEGA)にはまりました。かなり前に発売されたものらしく、聞くところによるとゲームボーイアドバンスが発売されたのと同時期のものらしく、実際、私がこれを買ったビックカメラでは980円で売れていました。ゲームの内容はマップ上に矢印をおいて目的地にまっすぐ突き進むネズミを誘導して、その誘導した数を対戦して競うゲームで、単純なつくりではありますが、ちょっとした仕掛けもあって、楽しくできます。パズルモードもついていて、これは与えられた矢印マークですべてのマップ上のネズミを誘導するというもので、とても頭を使います。
 私はノーマル、ハード、スペシャルと各モード25ステージある問題をこなしていきましたが、ついに4つ目のランクであるマニアモードに突入してしまうと、頭を抱えてしまいます。半分ほどは攻略しましたが、残りはいくら考えても分からないものばかりで、あるものでは既に考える糸口も見つからず放棄してしまったものもあるくらいです。
 このゲームのよい点は対戦モードのゲーム性がとても高く、カートリッジ1つでみんなで遊べるという点です。弟と熱い戦いをしてしまいました。さらにたくさんのパズルがあって、私の好きなパズルゲームが好きであるということも加えて、980円で買ったとは思えないほどの満足度合いでした。

03.6.21

 昨日、お風呂上がりに、タンスの奥からパジャマを見つけて、たまには使ってみるかと、久しく袖を通していなかったパジャマを着て眠りました。最近、私の睡眠は不安定で、慢性的な睡眠渇望に陥りながら、いざというときに、つまりは夜寝る段になると、妙に目が覚めてしまって、寝たいはず、身体も寝ることを望んでいるはずなのになかなか寝付けないで朝日を拝んでしまうという生活を続けていた私にとって、このパジャマというものは何とも心地よく、すぐに私を眠りの世界へと誘ってくれました。
 今日はブリーズのセッション会で、仲間と集まっていたのですが、その仲間のひとりがいうにはパジャマというものは着ている人間が眠りやすいように設計されているらしいのです。確かにパジャマは着ていて、心地がよく、非常に楽で苦痛というものがありません。服というのは少なからず、私たちに着心地の悪さというものを与えているはずですが、パジャマにはそういった感じが全く感じられないのです。
 無精をして、短パンやTシャツで寝るよりも、パジャマに着替えるのがどれほど有益であるかにようやく気づいたきがします。もともと、私はとても寝るのが好きなくせに、なかなか寝付けない体質のようで、電車で居眠りをするようなこともできませんで、布団の上でないと寝られませんし、余所行きを着ているだけで、布団に入っても寝られないような質なのです。これは私にとって、とても大きな発見でした。パジャマひとつで寝心地が変わるというのは、楽にどこででもどんな格好で寝られる人にはどうでもよいことなのかもしれないですが、私にとっては偉大な発見で、とても得をした気分にさせてくれるのでした。
 もし、この日記の読者の方で、同じように寝付きが悪くて困っていて、ここはひとつ私のつまらない話でも読んで、寝てしまえないかと試みている人がいましたら、思いつく限りに眠る環境というのを整えてみてはいかがでしょう。案外、気分良く寝られるようになるかもしれません。

03.6.20

 昨日、思わず失念して、つまらないことを書いてしまいましたが、ようやく思い出すことができたので、今日はそのことを話そうと思います。実は、最近、とてもはまっているゲームがあります。とはいっても、1日中飽きもせずにゲームをやり続けているというわけでもなく、大体、1日10分程度やるちょっとしたゲームなのですが、これが思いの外おもしろいのです。そのゲームというのは、ゲームキューブに今月の26日にリリースされる予定の『Viewtiful Joe』(CAPCOM)です。正確には任天堂から発売された『ポケモンボックス』についてきた体験版を毎日飽きもせずにやっているのです。
 このゲーム、何が楽しいかといいますと、私自身、単純なアクションゲームを久しくやっていなくて、そういったものを求めているというのもあるのですが、何といっても、アクションが格好いいのです。ハリウッド映画的な要素を、採用した、というよりも私には皮肉ったようにも思えるのですが、その議論はおいておいて、単純に格好良さを追求して戦うというゲームのスタイルは爽快感があります。
 発売日が待たれます。多分、発売日には買ってしまっていると思います。もし、ゲームキューブをお持ちの方がいましたら、是非、お試しあれと私は思います。
 しかし、これだけ、褒めておいて、実際買ったらつまらなかったらどうしようと思います。何しろ、発売前のゲームに期待を寄せるのは久しく経験することのない感覚でありますので、はずれだったら相当なショックを受けてしまうものと思われます。

03.6.19

 今日は随分暑い日だと思っていましたが、今日、同意を求めた人からは何度となく否定されてしまいました。今日は暑い日だと思ったのですが、そうではなかったのでしょうか。まあ、それはよいとして、気づけば前期も終わりに近づき、もう残すところ4回程度、1ヶ月で授業は終わってしまうようです。何も学ばないままに前期が終わっていく不安が、私の心のなかをよぎります。こういうのはどうにも怖くて仕方ありません。私ももう3年生で、就職なるものを考えねばならないお年頃となりました。とりあえず、院に行くか、といってもその実力はなさそうですが、あるいは教師になるか、でなければ、塾の講師にでもなるかという3つぐらいしか選択肢はなさそうです。他にやりたいこともないのが現状です。銭もうけには興味がないですし、もの作りには興味があっても手に職がないですから、選択肢としてもあがってきません。とりあえず、出版関係の仕事くらいは考えてもよい気もしないでもないです。どうなのでしょう。同じ大学3年生の方はどう考えておられるのでしょう。よければ、掲示板に書き込んでいただけると嬉しいかもです。
 さて、話は一気に就職とか将来とかとは全く関係のないものに変わって、私のギターのレッスンの話をしようかと思います。最近の私の課題曲はビートルズの『Get Back』です。この前まで、ディープパープルの『Smoke On The Water』をやって、今度もなぜ、ビートルズなのかといいますと、私のレベルにあったものを選択する先生の趣味というのもが反映されているものと思われます。もっとも、現代の曲というのはよく分からないので、むしろ、そういった時代の曲の方が馴染んでいる私にとっては好都合なこともあるので構わないのですが。
 それはそうと、今、私は『Get Back』をやっているのですが、先生との話で、発表会に参加しようということになりそうな気配となっていました。発表会というのは私の通っている教室の生徒が好きな曲を選んで、バンドを組んでやるというものらしいのですが、私にはバンドを組んで何かをやるという経験はありません。ブリバンのように勝手知ったる仲間とやるわけでもなし、それも本格始動しているわけでもありません。それなのに、見ず知らずとやるというのはかなり怖いです。
 最近は怖いことばかりです。こういうのは克服していかないといけないというのは分かっているのですが、怖じ気づいてしまうのはどうにもならないものでしょうか。まあ、頑張っていこうとは思うのですけれども。
 何だか、もっととてもおもしろい話題があったはずなのに、いつの間にか愚痴のような話になってしまいました。PCの前に座ったときにまでおもしろい話を頭の中に維持しているは案外大変なことのようです。

03.6.18

 保証期間もとうに過ぎてしまった旧PCを修理することもなく、新しいPCを購入することにしてしまいました。データを移植しようと頑張っているのですが、私の悪癖はこういう時に力強く発揮されるもので、必要なCD-ROMの多くは紛失してしまって、そのいくらかをインストールできないでいます。非常に困ったことではありますが、それもまた仕方のないことであります。気長に探していくしかありません。
 さて、新しいPCが来たからにはブリーズネットの更新を思う存分、行うことができるかと思います。日記もまた毎日更新できるだろうと思います。そのうち、私のPCが壊れていたときの私の経験を話すこともありましょう。非常にタイミングの悪いことに、私のこの1ヶ月というのは容易に語り尽くせることのない激動の時期であったと思います。忘れやすい私の記憶から、思い出したところを少しずつ、語っていければと思います。
 今日は宗教について考えていこうと思います。というのはこの1ヶ月の間に創価学会に所属する友人を得る機会を得て、彼の行動から察することと、彼に招かれていった、彼とその友人たちのたまり場で体験したこととで、宗教の果たす意味というものを少し理解できた気がするのです。とはいえ、私はこれから創価学会について、その教えの偉大なことを流布して、ここの読者を勧誘するつもりもなければ、逆に宗教の存在を否定してしまおうと思いません。単に私の思うところを述べるだけにしておこうと思います。
 ことの発端はバイト先でできた友人とお茶を共にしたところから始まりました。正確な日にちは記憶にはないのですが、私とその友人はバイトが終わってから、中国茶を飲みにいきました。そこで、会話をしていくことで、私は彼の楽しく、朗らかなる一面を知ることとなりました。彼には宗教の教義からくる信条があって、それに忠実たれと生きていました。それに従う彼は非常に好感が持てるものでした。
 それから、メールアドレスを交換して、頻繁にメールをやりとりしていたのですが、その流れで創価大学のコンサートに聞きに行きました。コンサートは素人の私にもその優れたことの分かるほどのもので、こちらも非常に楽しませてもらいました。さらには、彼のたまり場に招かれることになりました。
 招かれた最初は、特に述べることもないような普通のようなものに感じました。普通の大学生が集まって、雑談をしているという印象でした。しかし、どういうわけか、それから少しずつ宗教と哲学の話になって、私は当然、思想的に彼らと異なる存在ですから、意見を対立させるようになりました。
 そこでの詳細の議論を語ることは私の記憶の曖昧さから、不可能ではあるのですが、主な論点は私の積極的に幸せになることをしない、幸せを信じて努力しないという点にあったかと思います。幸福の存在を信じることに集約されていたといってもよいかと思います。彼らの中では、幸せに向かって努力していくと確かに幸せに到達して、誤解を恐れず簡略的にいうと、幸せな世界というものが存在する、それに向かって努力している限りは幸せであるというようなものだったかと思います。あまり、自信のないところなので、訂正してくれる人がいれば助かります。対して、私にはどうしてもそんなものがあるとは思えません。努力などしてしまっても、その努力が報われるとは限りませんし、仮に報われたとして、それで幸せになれるとも思えません。私には未来に向かって努力していくことで幸せが得られるなどというのはどうにも理解できない概念なのです。
 そこから、次第に議論は結論が導かれるまでもなく、平行線をたどり、結局はそういう考えもあるだろうという私の理解をもって終わることになりました。
 さて、私がこの中で特に感じたことは、宗教者にとっての教義というものはまさに信条そのものを持つことにあるといっても過言ではないということです。彼らにはある真理とでも呼ぶべきものがあって、それを理解して、あるいは理解しようという目標をもって生きているのです。だから、その真理が疑うべきものであるかは別として、その真理に向かって合理的に行動をしますから、脇道に逸れる危険性を最大限回避しながら、進むことができるのです。おそらく、それは疑うことのない道ですから、自信に満ちたものであって、しかも、とても効率的です。彼らの1人はいいました。真理というものはソフトウェアのようなもので、私たちはそれを利用しているのだと。これはとても合点のいく説明です。私が今、こうして自信を持って日記を書いて、疑わないのはXPというOSとフロントページというソフトウェアに下支えあるもので、これなしでブリーズネットを更新しようと思えば、それは大変な苦労があるといってよいでしょう。例えば、HTMLの概念を理解して、FTP転送プログラムも自作しなくてはいけません。同様に日常生活においても教義というソフトウェアとして与えられれば、私たちはスムーズに生活ができるのは容易に想像がつきます。私たちがネット生活を与えられたソフトウェアによって満喫するのと同じ構造をなしているといってよいでしょう。
 それに対して、私というと信じるべきものを自分でこさえて生きています。絶対の真理というようなものは与えられません。自作の信条ですから、とても不安定で常に不安を誘発します。失敗は多くなり、致命的なものになれば、それこそ私の精神は回復不可能なまでに切り裂かれてしまいます。私が信じているものは私の知識と感性であります。私自身、20歳の若輩者ですから、蓄積された知識や経験は極めて少なく、絶対にこれであるという信念などというものが形成できようはずもありません。私は非常に非効率的な生き方を選択していて、それこそ、どこかの宗教団体の門を叩いて、ソフトウェアのライセンス認証を受けてしまった方がよほど苦労のないものであると思われます。
 では、どうして、私は入信をしないのかといえば、それは教義、真理というものがそもそも存在するのか、そのこと自体に疑いを持っているからであります。宗教はある種の創造性と自己同一性を依存する部分があるといえます。それは考え方がその教義に沿ったものであるように自然と固定化されてしまう可能性があることであります。Aに対処する方法はA’であって、その他の方法を模索する機会を逸してしまうように思えます。では、私はBやCといった方法を創出できるのかといわれれば、それは反論に窮してしまう部分はありますが、少なくともBやCを模索する可能性だけは残すことができるかもしれません。また、もっと重要なことはA’が最良の方法であるかどうかを吟味する機会を保持し続けることができるからです。私はどちらかといえば、柔軟な行動を行いたいと考えています。私の行動は常に私の意志決定によって行われるものであり、行動の取捨選択権は可能な限り私の思考の結果に起きたいと思うのです。そうすると、宗教とは相容れない部分が生じてきます。私には宗教を信じるような限定的な行動は避けるべきものであるからです。
 私のことは余談としておいておくにしても、宗教は信条があるからこそ、人に支持されているものであると考えられるということはおそらく間違いないのではないかと思うのです。それは私が信念そのものを模索しているのに対して、そうした時間を無駄に使うことなく合理的に信条を獲得して、その与えられた時間を幸福追求に費やすことができるからです。

03.6.4

 PCが壊れてしまいました。私の命令になにひとつ不満を持つこともなく、よく尽くしてくれた愛らしいPCが最近は過労で、1時間も動かしいているとフリーズするという状態になってしまいました。だから、ゆっくりもしていられず、いつ、止まるか分からないPCにどきどきしながら、今日もこの日記を書いています。PCというのはいってみれば道具なのですが、しかし、長い間使っていると愛着というものも湧くもので、新しいPCを買う気にはどうにもなれなくなってしまいます。だからといって、既に保証期間を過ぎたこのPCは有料修理しかありません。有料修理をするくらいならば、新しいPCを買った方がましである気がします。でも、買う気にもなれない、何ともいえない葛藤があります。
 さて、そんな事情で実は2週間ほど、更新を一切やめてしまっていたのですが、どうなのでしょう。日記を楽しみにしている方、いらっしゃるのでしょうか。そう思うと申し訳ない限りです。とりあえず、こうして、短い文ではありますが、その日、特にPCを使う用事がなかったならば、日記を書いておこうかと思います。

03.5.22

 最近は、心身がだらけてしまって仕方がない、こんなことでは駄目だと毎日、睡魔と堕落の悪魔と戦いながら、大学へ行くのです。そこで今まで、どうして気づかなかったのか分からないのですが、この倦怠感の一因となるものに気づきました。極めて単純で、万民に共通する状況の変化に今まで私は全く気づいていなかったのです。暑さです。5月というと暦の上でも夏ですし、徐々に暑さというものが忍び寄ろうとしてくる季節です。まだ梅雨の季節でもないというのに気の早いことですが、私がこうして日記を書いている日が暮れた時分こそまだ冷えますが、ちょうど講義を聴いている最中などは、暑さというものを意識するに到るのです。その暑さというのは数値的なものをみてしまえば決して大したものではないでしょう。また、現実においても盛夏の時期と比較してしまえば、今の暑さというのは可愛いものなのかもしれません。しかし、今感じる暑さというのは、毛を剃る前の羊のような、着物と外気の最適な関係が崩れているような状態にあるようなものです。思えば、高校生の頃の5月、6月というのは衣替えまでもう少しというようなところで、厚いブレザーを日中に着るのが重苦しく感じたものです。今感じる暑さというのは、そういう暑さなのです。
 何となく暑さへの耐性も不充分で、身体がしっかりと急な暑さに対応しきれずにいるとほてったような感じがして、集中力が鈍ります。五月病という言葉がありますが、もしかすると、4月からの飽きだけでなく、こうした微妙な気候の変化も関係しているのかもしれません。いえ、何ですか。マスターは4月の時点でやる気がなかったと。仰るとおりですね。こんなことをいっているよりも、実際に気を引き締めないといけないですね。

03.5.21

 アイデンティティとはいかなるものであるべきなのだろうかと、ふとコミックスを読んでいて思うことがあります。昔の私は物語のキャラクターの名前を覚え、彼のバックグラウンドをちゃんと認識していました。しかし、最近、私が本を読み終わって、その物語を改めて思い起こしてみたとき、私は登場人物の名前をすっかり忘れてしまっているのです。いや、正確にいうと、始めから念頭などにはいれてはいないのです。つまり、キャラクターに与えられる名前はそのキャラクターを指し示す記号以上の意味を持たずにたとえば、その名前がAやBと与えられていても大差のないもののように感じてしまうのです。だから、特定のキャラクターを思いだして、それを指し示す言葉は「かような行動をとって、かれこれした人」というものとなり、彼がどの様な名前を持ち合わせているかは問題としてしまわないのです。
 こうしたことを考えると、もちろん、そうあるべきではないとして、実際の本を読み返して名前を再確認するのですが、実際生活においても、また、これと同じ様な構造があるのではないかと思えてくるのです。通常、私たちが自己紹介をするとき、私たちは「何々という身分の」何々であると自分を表現します。たとえば、私ならば、ブリーズネット総括の深森椿ですというような具合です。当然ながら、ブリーズネット総括であるという私は私の一側面であり、私を規定するアイデンティティのすべてではありません。私はその他にも数々の肩書きを語ろうと思えば語ることができます。しかし、そうした肩書きはアイデンティティの本質ではなく、私というアイデンティティの中の限られたひとつでしかないのです。
 しかし、私たちは人を知る上で、一側面のアイデンティティを与えられることで満足してしまいます。典型的と思えるのは大講義室で行われる講義担当の教授の存在です。彼は私たちにとって講義を行うためのロボットのような存在としてアイデンティファイされます。特に淡々と授業をこなす教授に到ってはその傾向が顕著に表れます。教授=スピーカーであり、それがすべてであると学生は認識します。当然、彼のバックグラウンドには何か大きなものが控えていると考えることはあっても、実際はスピーカーである教授というアイデンティティで充分になってしまうのです。
 私たちは物事の一側面をみて、それで満足することに慣れてしまっていて、それ以上先に突き進むことを考えようとはしないのかもしれません。それは非常に合理的で必要最低限を認識したスマートな手段であるといえるのかもしれませんが、誰かを理解するためには不足したものの捉え方ではないかと思うのです。

03.5.20

 全く私というのは何をやっているのだという1日でした。お昼から今日の授業がスタートするのですが、そのスタートの授業というのがゼミでした。今日は10時頃に起床して、余裕の朝を迎えていたのですが、今日はゼミの予習をしていません。出発までに予習をしておかねば、ならないはずでした。しかし、ここ最近、全く気力というものが欠落してしまって、息苦しく生活していると、たかが仏文1ページを訳するのが億劫で仕方なく、案の定、訳もせずにゼミに向かいました。幸か不幸か、今日はやってこなくても問題があるというわけではないので、とりあえず授業だけ受けてきました。
 授業を受けて気づいたことは万年筆のインクがきれていたことです。擦れたような文字が1文字書けただけで、後は虚しくペン先が紙の上をおどるだけで、全く意味をなしません。こうなると、ただでさえ少ない気力というものはすべて消えてしまって、今日1日、ただそこにあるというだけの私が存在していただけで、全くいきいきとしてはいませんでした。
 もう、こんな生活から速く脱却したいところです。多分、この症状は鬱というものなのではないかと思うのですが、明瞭な解決のようなものも浮かばず、「ただぼんやりとした不安」などと呟きながら死んでしまいそうな勢いです。
 ということで、誰か私に生きる望みを与えてはくれまいだろうか。と既に自力で救済する術を持たない私は他力本願となるのでした。

03.5.16

 昨日はオールで遊び歩いて、今日は疲れてしまって何のやる気も起きませんでした。自業自得のこととはいえ、やらなければならないことが山積しているのにこの一日の空費というのは痛いです。何のやる気もなかった私は久々にとりとめもなくネットサーフィンを楽しんでいました。そこで目に留まったのは自己分析サイトでした。分析に必要な情報を入力して、判定してもらうという類のものです。ウェブ上にあるこうしたものは真贋の判定が難しいもので、どれほどの信憑性があるのか、あるいは確実性があるのかは保証の限りではないとはいえ、こうした判定をしてもらうのはとても好きなので、思わずのめり込んでしまいました。

http://www.prism-web.com/というサイトの分析を行ってみたところ、以下のような判定が下されました。

〈前略〉

あなたにとって一番価値のあるものは「心の豊かさのステータス」です。

あなたの清らかな心は周りの人に「あなたといれば安心できる」と、いう大きな安心感を与えます。それによって、大きな信頼関係が生まれ、仕事の面では商談などうまくまとめることができます。また、豊かな人間関係を築くことができ、誰からも愛される人であるようです。ただ気をつけなければならないことは、 純粋すぎるため 騙(だま)され易いということです。心が清らかなあまりに 逆に利用されてしまうことが あるかもしれません。それが あなたの良いところ なのかもしれませんが 周りから見ると「人が良すぎる気の毒な人」で終わってしまいます。価値を上げるには人を疑うことも必要となるでしょう。

あなたの選んだ回答による性格分析

あなたは純粋で一本気。まじめで正義感がつよい人に好かれ、親友もできるタイプ。年上の人に協力者が現れやすく、異性にも人気があります。ライバルはおしゃべり好きな年下の異性です。

あなたは人の顔や名前の記憶に強いタイプです。家ではお客のクセ、子供の成長過程などをよく覚えています。記憶力優秀。皆から重宝がられる存在でしょう。

あなたは流行のセンスはとても個性的、自分の感覚を信じ、自分に合わないと思ったら大流行していても拒否するタイプです。生活面でも自分の生きたいように行動する意思尊重派でしょう。

また、あなたはその時のムードで抵抗の度合いが変わる感情派。時間が経つとすぐに忘れてしまう気の弱い面もある気分屋タイプです。

また、あなたは豊かな感性の持ち主で言葉のひびきや態度で、すぐに反発します。もし何か言われたら「この人は口は悪いけれど、本当はよい人なのだ」と自己暗示をかけるようにしたら、うまくいくでしょう。

また、あなたは気がよわく、善良。あまり無理をしないタイプです。人生を楽しく生きていける性格で、のんびり屋。忍耐力はあるが、持続力がないのが欠点で、忍耐度は30%くらいでしょう。

また、あなたは自分では「モノわかりがよい」と思っているのでしょうが、他人には「純情ですぐムキになる性格」とみられがち。気性が激しいからですが、異性には好かれるタイプです。

また、あなたは理論派。人に後ろ指をさされないよう万事計算できるタイプですで、これからの人生も他人に頼られ、相談相手にされがち。奉仕することが多く、自分への責任度80〜90%くらいです。

 大体、私の正確を言い当てているようで、満足をしているのですが、その中で特に目立つ2つの言葉があります。それは私の性格からするといわずもがなですが、「異性にも人気があります」「異性には好かれるタイプです」という箇所です。私は異性に人気があって、好かれているのだろうかと、実生活を参照してみると疑問符を打たざるを得ません。ウェブ上にある分析ですし、そもそもこうした性格分析そのものが信頼できるものであるということはいいがたいものではありますので、こうした実際との乖離は仕方ないことなのかもしれません。とはいえ、こうした性格診断でこうしたことをいってもらえるのは嬉しいようにも思えます。何か、こう本当は私はもてるのではないかと錯覚してしまうではないかと思わず、笑みがこぼれてしまいます。別に私が現状を棚に上げて、本当はもてるのだと妄言を誇張したいということはありませんが、とりあえず、きっと私の魅力を理解してくれる女性がいないだけだと自分の可能性を完全に否定しなくてもよいと思っておこうかと思います。どうなのでしょう。私って本当に魅力ないのでしょうかね。特に女性の方からの意見をお待ちしています。
 などというと、彼女がひとこというのです。
フィア「そなたが毎日のように、このようなくだらない自分の株を下げるような真似をしているから、魅力などというものが仮にあったとしても、埋もれて理解などされないのではないのか」
 まあ、最もな意見ではあるのですが、それはそうと、自分のことについて何か隠し事をしていて、彼女を作ろうというのも虫のよい話ではないかと思うのです。
エレナ「馬鹿正直に突き進むのと、隠し事をしないのは違うことでしょう。恋愛には駆け引きというものが必要なのよ、マスターはそのへんのところを全然分かっていないから、駄目なのよ。可哀相なくらい運も悪いし」
 左様ですか。まあ、分かっていますけれども。ということで、その他、意見お待ちしています。

03.5.16

 それはある種の挑戦であるように思えました。私がそう感じたのは、デパートを散策していたときのことです。私は無印良品の大規模な出店を発見して、商品を眺めていました。無印良品というのはご存じかと思いますが、メーカーのロゴなどをいれたりしないでまっさらな商品を提供する企業です。私はあま買わないのですが、ときどき、いいかなあと思う商品を目にすることがあって、好感の持てるお店であるなあと思っています。
 さて、しばらくして私は無印良品の食料品売り場へと近づいていきました。商品名が食べ物の名前そのものというのが逆に新鮮で、包装もきらきらしていないので、ただそこにあるという感じで並んでいます。自己主張をしない商品というのは落ち着いています。
 しかし、その中でひとつ問題の商品を見つけました。冷蔵棚の一番下の段に置かれていたそれは素っ気ないパッケージのペットボトルです。商品名は「水」と書かれています。細かくそれがミネラルウォーターであることが記載されていますが、商品の名前は水です。これは常識を覆すべきことであると私は思うのです。
 日本で水を単なる水として売ることはありません。もちろん、山の上など水が手に入りにくい環境では堂々と水が有料で売られています。水は特別に名前が付かない限り、無料で提供されるものという意識が私たちにはあります。私たちが有料で買う水は特別に名前が付いたブランドを前提として買うところがあります。たとえば、私が普段愛飲しているボルビックはボルビックでない限り単なる水であるのです。飲んでみればエビアンともビッテルとも味は違いますが、ラベルをはがしてしまえば、単なる水です。それはちょうど、料理屋さんで出される水がミネラルウォーターであるのか、濾過装置を経た水であるのか、あるいは水道水であるのか、実際、味に差があるとはいえ、同じ水として認知されて消費されているのと同じ要領です。つまり、特別なブランドイメージを持たせていない水は特別な水ではなくて、扱いとしては普通の水と同じものとなってしまうのです。当然ながら、無印良品は無印良品という企業のイメージそのものがブランドであり、そこから出されていることで、無印良品の「水」として認知され、また、「水」という商品名の下には小さな字でそれがミネラルウォーターであることを示しています。ですから、細かく読めば、消費者は無印良品の「水」を単なる水ではなく、価値ある水として理解することができるのですが、とはいえ、水が自己主張をしないで単に「水」とだけ記されているのは、水というものは大概、無料で提供されているということを考えれば商品として成立し得ないといえるかもしれません。他の無印良品が自己主張無しで商品として成立するのは、たとえば、ハサミや電卓がそれ自身である限りに消費者がそこに価値を見いだすからで、その認められた価値を理解して、それ以上の宣伝をしないという意味で簡素なパッケージとなります。水は水というだけでは日本では価値を見いだすことはできないのです。その水が売られている数十メートル先には水を飲むための設備がそろっています。差別化されないならば、水は無料の水を飲めば事足りるからなのです。
 私は無印良品が既にブランドであることを知っています。ですから、「水」をミネラルウォーターであると認めることができます。しかし、同時にそうはいっても、水が単に「水」とだけ表記されて、水は差別化されてこそ価値が見いだされるものであるはずなのに、他の水と特に差別化しようと努力しないのが不思議で仕方なくなります。

03.5.15

 通勤、通学などで電車に乗っているときにみなさんはどのように過ごされているのでしょう。私の見かけるところでは、寝ているか、携帯をいじっているかというのが多いかと思うのですが、なかには難しそうな本を読んでいたり、ゼミの予習なのか、何やら英文のコピーと電子辞書をもって勉強されている方もいます。私はというと、大抵は音楽を聴いていたり、コミックスを読んでいたりと特に際だったことをするわけでもなく、電車には乗っています。本当は電車の中では私も難しい本を読んでみたりしてみたいのですが、どうにも私の集中力ではそれは困難であるということが分かったのです。これは昨日のことなのですが、前から読んでおこうと思っていた『笑い』(アンリ・ベルクソン著 林達夫訳 岩波文庫)を開き、序論を読み始めたところで、大きな音量で行き先案内の車内アナウンスが流れ、中断されます。ようやく終わったかと思えば、今度は注意を喚起するアナウンスが入り、また、中断されます。とりあえず、何が書かれているのか、辛うじて読み取るとはできるのの、何度も読み返す上に神経を使います。結局、アナウンスが4分ほど続いた気がするのですが、そのアナウンスと同時に読む気も失せて、『笑い』はカバンの中へと戻されました。
 思えば、混雑した電車の中で、哲学書を読もうなどと考えることがそもそも間違いのようで、集中力などというものは散漫になってしまい不可能なことなのではと思ってしまいます。そこで、あえて尋ねるのですが、電車の中で難解図書というものを読んで理解できるものでしょうか。心を乱すことのない訓練を積めばできるものなのでしょうか。禅定の訓練方法に数息観というものがあって、坐禅をして静かに自分の息の数を数えることに集中して、雑念を払うというものなのですが、そういうものをこなせば、どんな雑踏でも集中して本が読めるものなのでしょうかね。

03.5.14

 ブリーズバンドを頑張ろうということで、どういうわけか流れでドラムを担当することになった私ですが、やはり、素人のままではみんなに迷惑をかけてしまうであろうということで、ギターを習っている教室でドラムのレッスンも受けることにしました。そして、今日が初日のレッスンです。スティックの握り方から、基本的な8ビートを叩きました。私は基本的にギターをやっていてもそうなのですが、リズム音痴で、確実にリズムをキープするのはどうにも苦手で、さらに、いろいろと叩くことに集中していると、小節の頭がどこにあるかもよく分からなくなってしまいます。これからはまた、メトロノームと格闘することとなるでしょう。
 そうした問題点はさしおいて、ドラムはドラムで習ってみると楽しくて仕方がなくなります。我流で覚えていたフォームも正しく矯正されて何かすぐにでも覚えて前に進んでいこうと思います。ミーシャさんから早く楽譜を受け取って練習を始めたいところです。何かこのことはつい先日にも書いた気がしますが。そういえば、最近、音楽の練習についての話が多くなってきてしまったようなです。
 ところで、先日購入した、『ヴェリー・ベスト・オブ・ディープ・パープル』を聞いていましたら、その中の「BLACK NIGHT」という曲に惚れました。具体的な商標名は覚えていませんが、何かコーヒーのCMに使われていたフレーズが冒頭にくる今日です。言葉にはできないのですが、この曲のドラムパートがとても、私好みといいますか、魅力を感じました。……ブリバンでやるのは駄目ですかね……。まだ、楽譜もなく、具体的に練習も始まっていないことですし。ねぇ、ミーシャさん。どうっすか、キールさん。もう、遅いですかね、ティルさん。……まあ、曲決め終わってしまったのですから、いいといえばいいのです。私は案外、曲へのこだわりととないですから。とはいえ。

03.5.13

 ギターの練習をしていて、重要な問題に気づくことになりました。私のギターの弦がどうもギター関連書籍に従うと交換すべき時期らしいのです。4弦の5フレットあたりの色がどうも赤みを帯びているようなのです。書籍には仮に交換しなくてもギター自体にダメージを与えるので必須であるとは書いておらず、音が悪くなるとだけ書かれていたので、初心者で絶対音感もなければ、音質の良し悪しも微妙なレベルでは分からない私にはさして問題あることではないようですが、しかし、それでも交換し時に交換しないというのは何とも道理に背くようで気が収まらないというところがあります。それに音質がよいことにこしたことはありません。よい音質に慣れておけば、それだけ耳の訓練にもなるはずです。また、私が交換するしないで悩んでいる弦も楽器店で700円程度で購入したもので、半年ぐらいは使っているギターの弦を換えることを考えれば安価で、迷うことなどないと思われるのです。
 しかし、ここで、私がどうしてこうも弦を換えることを躊躇するのかといえば、ひとえに私が初心者で弦を独力で換えて、もとの状態に戻す自信がどうにもないからです。弦ですから、エアガンのカスタムとは違い、ギターをばらすわけでもないわけですし、ギターにダメージを与えるということもないでしょう。けれども、弦を失って元に戻せなかったら、当分、練習ができなくなってしまいます。それに私が買ってきた換えの弦もきちんとしたものが買えているという保証もやはりないのです。楽器屋さんにはたくさんの弦が並んでいて、どれがよいものなのか、あるいは不適なものなのか、私には皆目検討もつかないからです。所沢のギターショップなるものが潰れていなければ、彼か彼女に楽器屋さんでの様々なものの見方などを指南してもらえだろうにと悔やむところであります。
 つまり、何がいいたいのかといえば、誰かが私の下にやってきて正しいやり方というものを教えてくれればと思うのです。もし、迷惑でなければ、私がギターを片手に指導されに行くのでも構わないのですが、とにかく、誰か私に弦の張り方を教えて下さい。本当は今週末にセッション会を開いて、そのついでに教えてもらおうと思ったのですが、頼りになるはずだったブリバンのメンバーすべてに予定があり、総崩れというのではどうしようもありません。
 ということで、私に弦の張り方を教えてくれる方を広く募集します。忙しいところとは存じますが、是非ともあなたの力が私には必要なのです。お願いします。というところなのです。

03.5.12

 ふと思い立って、普段、私が読んでいる本に対する評論じみたことをマスターズアイディアでやろうと思います。評論というのはその人の読解力や想像力というものが露出してしまうとても危険な行為であると考えています。何が危険かといえば、下手なことを書いてしまえば、すぐさまに私の知性の低さというものが露見してしまいます。既に日記で、自分の知性の低さは周知のものとなっているわけですから、特に気にすることもないともいえるのですが、そうはいっても何か引け目のある分野ではあります。また、評論というのは必然的に私自身の感性や信条というものが反映されてしまうもので、そのために、客観性というものは欠如しがちな分野であり、ときにそのことは人の気分を害しかねないものであります。もはや、充分、この日記で気分を害していると仰る方はいるかもしれませんが、きっと、評論はそれ以上に非難を受けるべきものであると思うのです。
 とはいえ、私はそうとは知りながらもあえて評論に客観性は持たせる努力はしないようにしようと思います。というのは主観的な判断というものが決して客観的なものに劣っているというとは考えないからで、普遍化という作業が純粋にその評論の質を押し上げるとは思えないからです。むしろ、偏見や独断にまみれてしまった方が、読み手としても称賛や反論のしがいがあるもので、そのことにこそ価値あるものと思うところがあるからなのです。さて、上手く誤魔化したつもりですが、要は評論をするために勉強したくないし、また、私は率直に意見を述べるだけで、ありがたいものではないですよということです。ついでにいうと、本といいながら、コミックの評論しかしていないのですけれども。

03.5.11

 バイトが終わってから、『ヴェリー・ベスト・オブ・ディープ・パープル』(ディープ・パープル)を購入して、早速、現在、ギター教室で習っている「SMOKE ON THE WATER」を流して、合わせて弾いてみます。家では味気ないメトロノームの音に合わせていたので、よくわかりませんでしたが、他の音楽と合わせてみたとき、何ともいえない高揚感のようなものが感じられたのです。デジタル信号化されたCDからの音楽なのに合わせているだけで楽しいのです。ソロパートが全く弾けなくて音楽について行けなかろうとそんなことはさしたる問題ではないのです。仕方がないので、楽譜のサイドギターのパートらしいものを弾いて、CDから流れるソロを聴いているだけで何ともいえなくなります。
 思わず、リピートを繰り返して弾き続けていたら、小指が痛くなって仕方ありませんでした。まだ、少しじんじんします。私は1日何時間もとかそんなに熱心に練習しているわけでもないですから、腱鞘炎などにもなりそうもなさそうですし、まあ、大丈夫でしょう。
 これから、ブリバンが本格始動するはずです。その日が楽しみで仕方ありません。ということで、ミーシャさん、楽譜下さい。私は楽譜がないと動けませんのです。あれ、この日記の内容、何故かデジャビュしています。その記憶を辿るとこれから、私には不幸が訪れる気が。まあ、気のせいでしょう。

03.5.9

 最近、うちの裏に猫がたくさん住み着くようになりました。私の家の裏にはゲートボール場にあるのですが、そこで今日、5、6匹の猫が昼下がりの座談でも楽しむように寄り添って、あくびをしながらこちらを眺めてきました。猫というのはみていて飽きないものです。その流れるようで丸みを帯びた身体と不思議な魅力を備えた顔は少し恐ろしく、また美しいものがあります。ときに神聖化され、畏敬の念をもって眺められるに相応しいように思えます。この猫ですが、私がそこを通るときは大抵、とても暢気にしているので、こちらの気分も和みます。
 さて、この猫たちと、私たち人間の視点というものを比べてみたとき、私たちの視点は非常に粗いものであるといってよいかもしれません。猫は彼らが生息している活動範囲のことをとても詳しく知っています。たとえば、どこで食事が手にはいるか、どこが日向ぼっこには最適か、きっと、彼らの住む世界の風景も細かに記憶していて、鮮やかなものであるに違いありません。対して、人間はというと、特に大人になってくると、自分の生活する範囲というものがあまりに広すぎて、細かに観察してはいられなくなってきます。余程暇でなければ、家の庭の様子などというものは過去の記憶こそあったとしても、最新の状態は把握しきれません。生活する世界の中でも中核に近い部分であるはずの庭さえもよくみる暇もなくなってしまいます。下手をすると自宅の様子も細かに記憶することは困難かもしれません。
 生活範囲の広さと生活範囲へ観察度合いというのは相対的なもので一方が増えれば、他方は減るような関係であるようです。そうすると、たとえば、海外を縦横無尽に駆けめぐって、生活をしている人たちのことを考えてみると、彼らは常に新たな環境で、新たな刺激こそ受けることができますが、その世界をじっくりと観察して見極めていくことはできなくなってしまうのではないでしょうか。
 何がいいたいのかといえば、猫の世界と人間の世界というのは範囲として比べてみると、とても隔たりがあります。私の生活圏内は東京都でありますが、猫の生活圏内は私のご近所だけです。しかし、猫はきっとご近所のことをよく知っています。私は東京都のことはおろか、ご近所のこともよく分からないでいます。私は全体の浅い知識を手に入れますが、猫はご近所に限ったとても詳しい情報を手にします。どちらがいいとも限りませんが、私たちはどれくらい範囲を広げて生きたとしても、結局、得られるものの総量は限界があって、範囲にかかわらず、同程度であるかのように思えます。たくさんのことを知りたいというのは人間の基本的な欲求ですが、あまり手を広げすぎても浅いものしか得られないかもしれません。飛び回ればよいというのではなくて、ときには腰を落ち着けてひとつのことを観察してみるのも楽しいものなのかもしれません。

03.5.8

 今日、大学で久しぶりにあった級友に元気かと尋ねられました。私は別に嘘をつくこともありませんので自然に元気であると答えたところ、彼はさらに続け、最近私は元気ないそうだからというのです。その根拠はどこにあるのか尋ねたところ、実はここで私が綴っている日記だったのです。……確かにこの日記の上では、私の心というのは酷く破綻してしまって、いつ死んでもおかしくないような言動が繰り返されています。実際の私もそれと同じ様に鬱と躁とを繰り返して、危ない状態であるともいえなくもないのですが、それでも、この日記で勝手に私のいいたいことだけは述べてしまっているので、気持ちの上でも整理というものがつきますし、ここで語られている私と現実世界を生きる私には若干の隔たりというものがあります。
 そこで、極々最近はといいますと、とりあえず、安定した精神の上で伸びやかに過ごしているという程度でしょうか。というのも、私は問題の振られた恋について、その未練を断ち切るべく儀式じみたことをしたので、ひとまずは気持ちに整理がついた状態なのです。
 さて、私はここで全くの個人的な感情を吐露してしまって、自虐的な楽しみを見いだしているのですが、そうしたことで現実世界で、励ましの言葉が頂けるのはとてもありがたいことです。今日はどうもありがとうございましたという感謝の念を抱かずにはいられなくなります。しかし、やはり、ここで大きな問題も生じてくることを感謝と共に意識せずにはいられなかったということです。基本的に私は、私個人のことに対して隠し立てしようとは思いません。私のことについては質問があれば、その質問が正当なものである限り、いくらでも情報は開示しますし、されなくてもここで勝手に話をしてしまいます。もちろん、私の話とはいいながら他人のプライベートに深く関わるような話については避けてますが。そこで、私の失恋話というのもその一環として、包み隠さずに話してしまいます。それは、たとえば男の魅力として良いか悪いかを考えてしまいますと、秘密をいくらか着飾っているのもそれなりに魅力的である気がするので、自ら不利な局面に自分を陥れているとも考えられますが、やはり、せっかくですから私について知ってもらいたい認められたいという基本的な欲求がありますので、あえてプライベートを話してしまいます。
 だから、それはそれでいいのです。だから、私のことを誰が知っていてるということは承知しているはずでした。でも、思わぬところで、そのことを指摘されてしまうとやはり気恥ずかしいといいますか、困惑してしまうといいますか、そういった気分になります。
 今日は純粋な学友に指摘されたので、そうした彼が私の失恋話まで知っていると思うと、何か少しぞっとしてしまいます。公開しているのは自分ですから、その責任の所在は私にあるわけで、私が困惑してしまうことこそ不当なことなのですが、でも、やはり、唸ってしまうべき状況です。もっとも、だからといって、私が今後は書きたいことを書かずに自粛するということはないのですが。もし、失恋話や絶望調の話がみられなかったとしたならば、そういった場面に遭遇することがなくなってしまったか、あるいは単純にそうしたことを話すことに興味がなくなってしまったかのどちらかかと思います。決して、気恥ずかしいから、とりやめるということはないかと思います。
 でも、嬉しいことはこの日記の読者がいるということがまた確認できたことです。既にこのブリーズネットはTRPGルール紹介サイトとして成立していますので、ルールを読んでもらえることが最大の喜びではありますが、他にもこの日記を読んでもらえることは嬉しいことであるのです。というのも、私の日記は東京寿電波のような面白みもありませんし、話している内容といえば、稚拙な見解であったり、愚痴であったりと、笑いのポイントというのもありません。ついでに無意味に長いというのもあるかと思います。だから、結局、誰に読まれることもなく更新だけがなされているのかなあと思ってしまうのですが、でも、読んでいる人がいると思うとそれだけで嬉しくなってしまいます。

03.5.7

 教職課程を履修している関係で、文学部の私とはあまり縁のないと思われる経済学について、勉強することになっています。元来、思考の特性からして、私は理系の人間なので、明確なものについて、論理で解き明かすような類の作業は、好き嫌いは別として得意な方ではあるので、経済学はというと、実は哲学を理解するよりも、素直に頭に入っていきます。もっとも、私がやっている経済学というのは初歩の初歩ですから、より専門的な勉強を重ねる必要のある哲学と比べてしまうと、そうした哲学が未熟な学生風情が真に理解するには難解である部分があることは確かなので、当然といえば、当然なのですが。
 ともあれ、今日は「無差別曲線」というものを勉強しました。簡単に解説をしますと、「無差別曲線」とは私たちがサービスや商品を消費することによって得られる幸せであると感じられる効用を表した曲線のことで、その曲線上では同じ効用が得られると定義したものです。この曲線は線上に無数にあり、原点から離れてより右上にある線こそ効用の高い線であるとされています。XYとには消費する異なる2つの商品の消費量が入り、通常、曲線はXY平面上に原点に対して凸である曲線で与えられます。反比例の曲線のような形をしているように私には思えますが、正確には数式で表せないような恣意的な線になるようです。とりあえず、平面上に曲線があって、その線上の点のどこをとっても、幸せ度は同じであるような線であるということです。たくさんものを買えば、それだけ上にある無差別曲線に到達できますが、私たちは予算などによって、買える量というものは制約されてしまうのです。詳しくは経済学科の学生でも捕まえて、尋ねてみてください。
 さて、ここで興味深いことは、ものを買えば幸せになるという単純な前提に立っているということです。おそらく、経済学の根底にあるのは購買意欲があるのでしょうから、この前提を覆してしまうと経済学そのものが存立しなくなってしまうようなことですが、やはり、疑わざるを得ない命題のように思えます。前述で好き嫌いは別としてと述べましたが、私は経済学というのは正直なところ好かないのです。というのも、まさにこの前提が信じられないからなのです。もはや、耳にたこの議論とは思いますが、世の中は、少なくとも私の周りではものであふれかえっています。また、私の消費意欲というものは飽かずに存在しているということも事実です。私にはドゥカティに乗りたいという野望もありますし、毎日のように本とコミックスとに投資をしています。電車に乗らねば、学校には行けませんし、食料を自給する術もありませんから、これを購入して消費しなくてはなりません。多分、私にもっと多くの自由になるお金があるならば、とりあえず、幸せになることは間違いなさそうです。もちろん、例の恋愛渇望症の餌食となればすべての幸せは無に還るのですが。
 しかし、本当の幸せというのを考えてみると、やはり、ドゥカティを乗りまわしても、本の山に埋まれたとしても、手には入られないとどうしようもなく思ってしまうのです。それはひとえに、それが私の真に望むものではないということではないということもありますし、また、人の幸せというのが元来、ものには依存していないのではないかと考えられるからでもあります。
 眠くなったので、この議論について私の見解は今度考えるとして、少なくとも現代、好きずきに語られている精神優先論のように物質から離れようとする本質が私たちにあることが、その証明となっているのだと思います。
 ところで、話は飛ぶように思われるかもしれませんが、ものというものは私たちを愛してはくれないのでしょうかね。

03.5.6

 今日は大学での休講のおかげで、1日長いゴールデンウィークを満喫しました。午前中、アークザラッドで、最短のタイミングでちょことヂークベックを仲間に加えて楽しむという計画を遂行していました。闘技場で勝利を重ねることが仲間にする条件であったので、その闘技場で勝ち抜く強さを手に入れるために、2人の主人公とその仲間1名のレベルが開始から一気に上げられて、もはや他のモンスターを圧倒する強さを手に入れて、序盤の時点ですでに前回のプレイで暗黒の支配者と対峙していたレベルに到達してしまっていました。もはや、何も恐れるものはないという状況になってしまいましたが、仲間にしたちょこは可愛いので、そのようなことはどうでもよくなりました。
 さて、そのようなことはどうでもよいのですが、午後はというと、例のようにギターの練習をしていました。なかなか上手くならないので、練習あるのみということで、ひたすらに練習をしているのですが、そうした練習にひとときの清涼剤となるのは「ティシア音頭」作詞作曲キールです。少しずつギターは弾けるようになったようで、この「ティシア音頭」は私も弾けるようになったようで、独りで弾いてはにたにたと笑ってしまいます。弾いているだけで歌詞が思いだされて、それだけで楽しめてしまいます。キールさんは何とも偉大な曲を作ったものだと感心してしまいます。この「ティシア音頭」ですが、ご存じない人のためにちょっち解説を加えますと、現在ゲート計画で活躍中のメイド(神官?)戦士ティシアの賛歌なのですが、ティシアといえば、コスプレという定評があり、そのことを歌った曲であります。ブリーズのお仲間の中では大変好評で、よくセッションではキールさんの生演奏が聴けます。著作権はキールさんこと東京寿電波のminoさんにありますので、もし、興味のある方は直接掛け合ってみてください。
 そういうことで、私のゴールデンウィークの最後は「ティシア音頭」とともに終焉を迎えるのでした。結局、このゴールデンウィーク、何ということもなく過ぎていってしまいました。

03.5.5

 今日はバイトの仲間たちと多摩川でバーベキューをしました。昼からお酒を飲んでしまい、アルコール分解に久々に体力を使ってしまい家に帰ったころには疲れ気味でした。
 さて、そこで聞いたバイトの先輩たちの噂です。「つばきくんは問題児らしい」。あながち間違った指摘ではないことはブリーズネットの読者の多くが悟っていることではありますが、図書館では至って普通に過ごしてますので、そのようないわれを受けようとは思ってもみなかったので驚きました。さらに、このことについて調査を進めていくと、どうやらこの前の飲み会の席で問題があったらしいとのことです。私は普通にしていたつもりなのですが、少し私らしからぬほどにはしゃいでいた気もしないでもないので、おそらくそれをさしていっているのだろうと思います。
 やはり、始めは様子見をして相手を見極めてから、慎重に飲むべきであったかと少し反省しています。雰囲気に合わせておかないと浮いてしまっては迷惑ですからね。
 でも、私としてはそうした大人の振る舞いをするよりかは、常に子供らしく、無邪気にいきたいと思ってしまうのですが、それではやはり、問題なのでしょうかね。

03.5.4

 昨日の敗戦から、完璧な戦術を立てた私は暗黒の支配者に対して完全なイニシアチブをとり続け、勝利を収めることに成功しました。別に孫子の兵法に従うわけではありませんが、敵のデータというりがいかに戦略上重要な意味を持つものか改めて認識させられる戦いでした。勝利をしてみると物足りなく思えてしまうもので、今度はちょこちゃんとチークベックをシナリオの序盤ででも仲間にして楽しもうかと思います。もっとも、それだけの時間があればの話ですが。
 さて、今日はゴールデンウィークとだというのに特別な用事もなく、結局、こうしてつまらない1日を送ってしまったわけですが、そうはいってもやることはたくさんありました。ゲームの攻略もそうですし、ギターも練習しますし、洗車もしました。おそらく、ひとりでいる休日にしては充実したものではなかったのではないかと思います。
 夏休みや春休みのような特に長期の休みではあまり実感がないのですが、学校が始まって、時折やってくるこうした休日というのは非常に大切な意義あるものに思えてきます。休めるということ自体が貴重でありますし、やるべきことを処理するための貴重な時間というものが与えられたわけでもあります。しかし、こうした貴重な休みになるとやはり、こうしてひとりで過ごしてしまうには何か満ち足りないものがでてきてしまうようにも思えます。折角の休みなのですから、休みにしかできない何かをしたいような気になって、こうして他のことをしていても気がそぞろになっていくようです。では、どうしたいかといえば、やはり、友人と1日、羽を伸ばす意味でもどこかにいったり、恋人と幸せな1日を過ごしたいものです。願わくは後者ですけれども、前者にしてもなかなかその友人というのも予定がありそうですし、難しいものがあります。そうすると、結局、ひとりでいざるを得ない運命のように思えてきます。
 私はどうもひとりで淡々と休日を過ごすのが下手ではないにしろ、気に入る性質ではないようです。思わず、誰かに遊んでようと叫びたくなってしまいます。そう、ですから、あなた、私と遊んでもらえませんか。

03.5.3

 今日は『アークザラッド精霊の黄昏』をやっていました。ちょこちょこと暇な時間を見つけては攻略に勤しんでいた私ですが、ついに最後の暗黒の支配者との対決の時を迎えました。さて、戦闘が始まって、大きな目玉が小さな目玉を放出して向かってきます。とりあえず、本体は攻撃をしてこないようですし、この小物を倒して、味方の被害を最小限に留めようと、多数飛び出す目玉を各個撃破していったのですが、小物が召喚されて攻撃する前に撃破することができていたので、この状態ならば、たとえ本体が攻撃をしてきても回復も間に合い押し切れると思った瞬間、大きな目玉が攻撃してきました。メガ粒子砲か何かを思わせる攻撃でした。パーティのすべてを巻き込むその攻撃はダメージも200ポイント代後半と体力の低いメンバーは一撃のもと撃破されてしまいました。残ったメンバーは主人公のダークとカーグ、ポーレット、そしてお気に入りのタチアナ中佐でした。タチアナ中佐はフレイの髪飾りを装備していたおかげでこのメガ粒子砲のダメージを半減させることができたようです。細かいことはよいとして、形勢は予期せぬメガ粒子砲の一撃によって一気に傾き、どうしようもないピンチに陥れられてしまいました。タチアナ中佐は回復、蘇生の2つの仕事を任されていたために、まずまともには戦えない状態にありました。しかも、体勢を立て直すのに手間取り、小さな目玉が増殖をして、毎ターン、ネチネチと攻撃をしてくるようになりました。次第にこちらの精霊石がつきかけてくると、対応しきれずに増殖した小さな目玉に圧倒されるようになりましたが、タチアナ中佐を中心として30分の抗戦しました。もっとも、最後は敵の圧倒的な火力の前にひれ伏すことになりましたが。
 敗因はちょこちゃんを仲間にしていなかったから、これに尽きるかと思います。アークザラッドはいつも寄り道しながら旅を進めていたので、知らない間に敵を圧倒する強さを備えていて、暗黒の支配者だろうとなんだろうと問答無用でたたきのめしていた私でしたが、今回は特に寄り道せずにさくさくと物語を進めてしまったために、結局、データのない不意打ちに耐えられるほどのパーティレベルではなかったということであるかと思います。

03.5.1

 健康増進法の施行が始まりました。これにともない私鉄10社は駅構内の喫煙スペースを撤廃し、全面禁煙とすることにしたようです。私はご存じの通り、嫌煙家ですので、煙草が近づくだけで嫌悪を感じて、喫煙家の友人と席を同じくするときは煙がこちらに来ないようにパタパタと仰いで差し上げるという質の人間なので、全く喜ばし限りです。煙草といえば、最低限マナーも守れないで、そこら中に煙をまき散らされて、迷惑なだけで利益といえば、喫煙者の寿命が縮むことで高齢化社会へと推し進められることを予防し、さらに医療に対する需要を向上させること、また直接的に煙草産業というひとつの業界を生かしているだけで、他に利益といえる利益のないものです。
 とりもあえず、これで受動喫煙の機会が減ると思えば、心が躍ります。思うのですが、受動喫煙というのは科学的にも人の健康を害していることであると証明されているのですから、傷害罪を適用してもよいことかと思うのです。つまり、歩き煙草などというのは、街中で刃物をもって誰彼構わず切りつけている行為と法律的には同等の行為であるといってもよいのでしょう。
 まあ、とりあえず、いいたいことは煙草なんぞ吸って、私の近くに来るなということなのですけれどもね。
 さて、今日はもうひとつ重要な改正がありました。そうです。発泡酒の課税が高くなったのです。ついでにワインも高くなったらしいのですが、詳しいことは知りません。ワインのことはおいておいて、この事態をお酒好きの私がどう受け止めているかといいますと、端的にいって、別にどうでもよいことという認識です。というのは私は発泡酒は飲まないからです。何故かといえば、私はそもそもビールは好きではありませんし、さらに発泡酒というのはビールに比べてさらに味が悪いものです。ただでさえ、飲まないビールの模造品のようなものを、というと語弊がありますが、あえて飲もうとは思わないのです。安くても不味ければ飲む価値はないと考えるからです。お酒は味を楽しむものであって、量を飲んで、お腹を満たすような部類のものではありません。ましてや、酔うことが目的などというものではありません。それは酔ってすべてを忘れてほうけてしまった方がきっと幸せではないだろうかと思う不幸な境遇の私がいうのですらそう考えています。増税に伴って消費が冷え込むくらいのお酒ならば、もともと飲む価値なんてないということがいえるでしょう。それはまあ、限度というのもありますが、10円くらいどうということはありません。
 アルコールというのは特別な症例の人を除いて、別に飲む必要のないものです。贅沢品とまではいわないにしても、少なくとも必需品というわけではないのですから、何も単価価値を落としてまで無理して量を確保する必要などないのです。本当に美味しいものを美味しいと感じることにこそ真にお酒の価値があるのですから、価格を気にする必要などはないのです。増税に際して、多くの人がいうことを聞いていると発泡酒はビールより安いから飲んでいるとのことです。そこまでして飲まなければならないことなど何にもありません。酔いたいのならば、アルコール度数の高い98度のウォッカでも買った方が効率的です。多分、このウォッカをジンジャエールででも割った方がコストパフォーマンスもいいでしょう。
 何がいいたいかといえば、安いから飲んでいる程度のものならば、飲む必要などないということです。

03.4.30

 最近、ひかずにすんでいたのですが、私は風邪をひいてしまいました。徴候は一昨日あたりからあったのですが、どうやら何か免疫機能が低下していたようで、今、咳と吐き気とに苦しんでいます。こうしたときに、履修届を提出しなければならないと思うと憂鬱になります。寒気がする中で、学校に行って、出してくるだけでふらふらします。こういう時は授業も休んで1人部屋で寝ているに限ります。しかし、既に休みを連発させている私ははたして無事、今年の履修を乗り切ることができるのか甚だ疑問であります。さて、実はこうしてPCの前に座っているのもつらいので、そうした不安はあるものの寝かさせ頂きます。
 マスターへの応援メール、お待ちしております。あまり、期待はしていないですが。

03.4.29

 今日は泣きました。何に泣いたって、自分のどうしようもない保守性に泣いていました。結局、自分は庇護から離れられないと知って、泣きました。自分が自分勝手でどうしようもないことで泣きました。いろんな不幸な境遇にあっても、それを克服する力も逃げる勇気もないのを思い知って泣きました。こんなに私自身が子供であることを呪うなんて思ったことはありませんでした。
 また、PCの前で、友人に泣きついています。これで何度目でしょう。私は学生となって、何度、自分の矮小なるを知って泣いたことでしょう。
 はっきりとしたことは、私は不幸だということです。しかも、その不幸を悲しむことしかできない不幸ものの最たる存在であるということです。不幸に浸って、泣いているだけが楽しみの不幸な人です。
 気づいたのです。自分で克服できるほど、この壁は薄くも低くもないということを。堕ちるしかない、それを知っていながら、自分ではどうしようもできないと思ってしまう、努力なんて無意味なものと絶望してしまうくらいの傷を負っていて、結局、私が分かったことは私が脆弱であるということだけで、本質的に希望なんてものは何にもない、ただ堕ちていく自分を見守るだけしかできないなんて、不幸だと思う。でも、独りでは治せないものだという確信だけが強いのです。
 私は何を求めている。それは救世主に他ならない。宗教は近代哲学が殺してしまいました。だから、私が求める救世主はたぶん彼女しかいないのだと思う。彼女の他には私を救ってくれる人はいないだろうとおもう。でも、きっと、彼女はそれを拒絶するだろうと思う。私は迷惑な存在だから。それに私を救うなんて大業は誰の手にも余ることに違いないから、誰だって嫌がるに決まっている。
 私は医者にサジを投げられた重病患者のように、ホスピスで終末を待つだけなのだろうか。その終末のシナリオを書き換えてくれる彼女は私のもとにあらわれるのか。それは、もはや、……。
 ただ、ひとついえることは私は救世主を渇望していながら、救世主にとって、私を救う価値があるのか甚だ疑問で、恐くて仕方がない。希望だけは信じているというだけで。

03.4.28

 心身共に健やかな生活をしたいと思うのは本来的には人類に共通する願いであるかと思います。私もたとえ自虐的なともとれる言動があったとしても、本質的にはそれを望んでいる1人であります。
 しかし、どういうわけか、最近は精神の調子を一定に保つことはできないで、何を原因ということもない、ただ痛烈な不安を抱いた日々を送っています。そして、今日、思わぬ自分に気づくことになったのです。……特に甘いものを食べていて、摂取カロリーが危険域になっているということもないのですが、気づくと摂取する食事の量が増えていました。いつもより食欲が多くなって、食べてしまっていたのです。普段ならば、冷えた朝食をブランチとして食べているはずの私なのですが、ダージリンを飲むために湧かしたお湯で、ついでにインスタントの焼きそばまで作って食べてしまいました。夕方にはものの数分で平皿に盛られたカレーライスを平らげて、身体は勝手に台所でご飯をよそっているのです。数値に跳ね返ったというわけではないのですが、非常に恐い傾向です。思えば間食として、玄米フレークも食べていた気がします。
 私は過去に一度、過食症というほどの過食ではなかったのですが、それでも体重が数日にして数キロ上乗せされるという絶望的な状況に置かれたことがあります。そのときもやはり精神的に落胆していたかと思います。
 精神を病んでいて、つらいのだから、せめてそれに伴って、痩せてくれてもとも思うのですが、病んだ上に体重も増えられては泣きっ面に蜂です。みなさんも苦悩して、哀しみに打ち震えるときもありましょうが、決して過食になってはいけません。それでは、折角の努力が水の泡となってしまいます。
 私には目標があります。そのうちにある友人Aの彼氏並みに体重を落として、ある友人B並みの体脂肪率へと身体をしぼっていくことです。ある友人Aもお腹を引っ込めたとのことですし、私も本気にならなくてはと思います。そうです。何が週5日の授業です。週2日のバイトです。演習を4つ分の予習があろうと運動するだけの体力と時間を残して、努力するくらいはしなくてはいけないのです。ある友人Aさん、これ読んでいますか。私はきっと夏休みに海に行って恥ずかしくないくらいには身体を作っておきますからね。もっとも、私は海に行ったら磯釣りがしたいのですけれどもね。それにその友人Aと海に行くと決まってもいませんが。 

03.4.27

  昨日はブリーズのセッションがありました。メンバーの日程調整に苦労した分、セッションが開かれるというだけで楽しみでした。しかし、昨日の集まりにはもっと大きな楽しみがありました。それは新しいメンバーが追加されるということでした。いわゆる仮入部のようなものです。
 私はというと、一昨日の深夜からかけてその新規の人のためにブリーズのルールを再編集して、プリントアウトしていたのですが、思いの外時間がかかりました。気づけば、ブリーズ編のルールだけで、1ページ1,600字相当で、80枚もありました。試みに20字×20字、400字詰めの原稿用紙に換算してみたところ231ページ、総文字数は61,072文字でした。いつも、苦労している4000字のレポートと比べて15倍の量になります。内容がないようならば、論文として誰かに向けて発表したいところです。
 それはよいとして、その膨大な資料をもとに説明をして、キャラクターを作成してもらうのは長い作業です。ところどころ端折っても2時間はかかりました。結局、その新人さんの都合で、シナリオは即興の40分というものになってしまいました。うーん、風邪を召されていた新人さん、楽しんでもらえたのだろうかと、不安です。何しろ面倒なキャラクター作成ばかりに時間を費やさせてしまいましたし。何よりも実の全くない最低のシナリオをさせてしまったのは恐縮の限りです。まあ、次回もきていただければ、時間がなかったために急きょ5分で作った話よりかはずっとよいましな話をしますので懲りないで下さいなというところでしょうか。

03.4.23

 最近はまた鬱状態です。折角、気分も晴れやかに希望に満ちた学生生活に戻れるはずでしたのに、思わぬところでそれが叶わないことだと悟らされて、今はまた悩める日々を過ごしています。今日はその不安定な日の中でも特につらい日で、朝から不安とプレッシャーで動悸がして、さらに世の中が墨色に見えてしまいます。挙げ句には学校にも行きたくなくなってしまい、支度だけはしたもののぼうっとしたまま過ごして時間だけが過ぎていってしまいました。
 不安であったり、苦しかったりという時こそ自分自身が成長する機会であると思うことがあります。人は何もかも順調にいっているときは何も考えないで、ただ何か目標や鮮明な希望によって前へと突き進んでいけます。何も考えないというのはもちろん本当に何も考えていないわけではありません。目標や希望に向けての計画を練ることもありましょう。しかし、それは結局は考えていないことと同じなのです。それがどうしてかを答える前に、そうした思考がなされているときの様子について概観してみましょう。そういうとき、人というのは目に見えて変わっていきます。いろんなことをよく吸収できるときであり、また、仕事などにおいてもとても効率よくこなしていけるときです。たとえば、短期間である知識を学んでしまったり、技術を修得してしまったり、あるいは仕事の功績が讃えられて他人からの評価が向上したりします。順風満帆といってさし支えないような前進をすることができるのです。もし、そうでなければ、自分自身がどういう状態なのか気づいていないだけか、あるいは全く諦めてしまっているかのどちらかです。しかし、このとき、人の思考は自分がしなくてはいけない何か、目標であり、希望であり、仕事であったりするその対象に集中してしまって、自分自身については考えないのです。それは適合する鍵がある扉を開けるように、自然な流れで鍵はその扉の鍵であることを疑問にはもたないことと同じ様なものです。
 さて、先ほど放置した答えについて、考えてみることにしましょう。そうしたときに、人は思考をしないということです。それはそうしたとき、自分自身について考えていないからであるといえるのです。人は物事が上手くいっているときはその方法に満足して、同じことを繰り返します。成功していると確信していることにわざわざ疑問をもって改良を加えようとは思うはずもありません。
 しかし、その逆の状態となれば、つまり、失敗しているときです。このときは人は新しい方法を模索して、変化しようと試みます。鍵が合わなければ、疑問に思い、新しい鍵を探すか、あるいは手持ちの鍵が扉に適合するように調整していくのと同様です。人は挫折したときは現状に適合しようと変化を行おうとします。それは見かけにはよくわからないことかもしれません。なぜならば、気が充実して何も疑問を持っていないときは外面的な要素は刻々と変化していきますが、内面は変わりません。変わるとすれば、自分の行為の正しさを確信したことによって自信が備わっていくことぐらいでしょう。それも大きな変化と捉えることができますが、ここでは敢えて、考慮に入れないことにします。というのは自信というものはどうしても、内面を変化させたことによって、備わってくるというよりは何かの行為の成功を反復することによって得られる慣れ、といっては必ずしも正しくはないですが、そのようなものであるといってよいからです。その意味では、何も成功したことがないのに自信だけあるとするならば、それは真に自信であるとはいいがたいかもしれません。話が少し反れましたので、挫折時の話しに戻すと、このとき、内面では異なる2つの方向へと進もうとするベクトルに引き裂かれていくことになります。それはまさに挫折そのものが与える絶望感と、挫折を克服しようとする向上心です。人は目標に適合させようと自分を変化させようとしていきます。しかし、一方で、それを阻む脱力感に襲われるはずです。失敗は恐ろしいもので、人を不安にさせ、苦痛を与えます。なぜならば、失敗して挫折しているときは全く、前に進むことはできないのです。できたとしても、それは普段に比べてみると微々たるもので、大したものにはなりません。それが余計に不安を煽り、苦痛を確かなものにしていきます。しかも、厄介なことにこうした挫折の時間というものは次に成功に収めたその時まで続いてしまうものです。少なくとも、成功までの道筋が見えてくるか、成功までの過程が想像できない限り、続いてしまいます。だから、成功困難な物事に失敗したときには長期間にわたって、挫折の苦しみを味わい続けることになるのです。
 こうした窮地を避ける手段はもちろん、克服だけではありません。諦めてしまうことも有力な回避手段の1つです。諦めることは非常に有益な意味を持っています。諦めてはいけないというのは酷な忠言で、何もそれに従うことはありません。気に入らないものであったり、あるいは、理性的に考えても不可能なことならば諦めることで救われることは多々あります。むしろ、奨励すべき手段であるといえます。
 もっとも、私、個人として思うところをいえば、回避するほど難しいことはないかと思います。これは全くの私の体験からなのですが、私は基本的に挫折して諦めてしまいそうなことには始めから挑戦しない質であります。私はやろうとすることには全力で精と根とをつぎ込みます。ですから、諦めるということは理性が仮に許してもいっこうに感情がひいてはくれないことが多々あるのです。
 そうすると抑圧的に理性が感情を説得して、普通の生活をするように強要していきます。しばらくは感情もそれに従って静かにしていることができますが、やはり、抑えられれば抵抗するのが自然の摂理のようで、長くは理性の独裁政権は続いてはくれません。直ぐに感情の支配する憂鬱な混沌期に吸い込まれてしまいます。
 結局、人というのは挫折から逃れられないようにできているような気がします。挫折を味わえば、それは呪いのようにつきまとっていきます。私には耐えられることではないように思えます、そして、実際に私はこの呪縛を抱えたままかれこれどれくらいになるのか数えることもできなくなりました。端的にいってしまうと、その状態は筆紙に尽くせない苦しみです。餓鬼道の苦しみというのは多分、こんなものなのではと思います。

03.4.19

 今日は図書館のバイトをしてきました。まだ、研修の私は先輩にいろいろと教わりながら、作業をひとつひとつ覚えていきます。今日もたくさん勉強してきました。図書館はバイトで稼いでいるというよりも勉強させてもらいに行っているという具合が強いので、お金をもらうのも悪い気がします。
 さて、具体的に何をやったかというと、今日は主に新聞を読みました。本当に新聞を黙々と読むというのが私の仕事でした。もちろん、基本的な作業である書架の整理もします。しかも、図書館の一般の人が出入りできない閉架書庫の本も整理してきました。何か自分が突然、立派な知的に高い階層の人間ではないかと錯覚させられるような妙な魅力がそこにはありました。さて、しかし、今日の主はやはり新聞を読むことです。新聞を読んで特定の記事を切り抜くという退屈な作業でした。新聞を最初から最後まで隈無く読んでもいいというのならば、これほど楽しいことはありません。しかし、時間と読むべき新聞の量からして斜め読みを余儀なくされます。とてもつらいです。内容は頭に入らない上に活字ばかりを読み続けます。目に涙が浮かんできて文字が滲んできます。結局、三社の朝夕刊を調べて必要な記事は三つでした。私の今日のバイトの大半を費やして、それだけというのは悲しいものがある気がします。さらにいうと、図書館の職員の人が私に仕事をあまり回してくれませんでした。正確にはお客が研修生を避けてしまうから、結果、私が手持ちぶさたになるだけなのですが。研修生たる私はひとつでも多く仕事をこなして早く仕事を覚えて、慣れたいところなので焦燥感に駆られてしまいます。ついでに、内部で仕事をもらうまで待機させられたのですが、なかなか指示がもらえずにこれもまた暇をしてしまいました。兎角、今日のバイトは退屈でした。もっと、やるからにはびしばしとやりたいところです。

03.4.17

 さて、絶望の淵に立たされて、どうしようもなくなっていた私でしたが、実は今日、とても簡単なことでその絶望がいくらか立ち戻ることができました。それは今日の講義も終わった帰り道のことでした。教育実習の受け入れの口頭による内諾を受けるために懐かしの母校を訪れたのです。来客扱いになっていて、守衛さんに呼び止められ妙なバッジをつけさせられただけならばまだよかったのですが、長らく使っていた学生用の下駄箱を使わずに、来客用の入り口を通るのはものすごい恥ずかしさを覚えました。
 まあ、それはよいとして、手続きを済ませて帰ろうとすると、恩師に会うことができました。久々に会う恩師というのは自分を元気にさせてくれます。また、級友とも遭遇して、私と同じように級友も前に進んでいるかと思うとうれしくなります。自分の未来というものが開けてきたようにも思えます。来年には私の好きだったあの恩師に鍛えてもらえるのかと思うと今から胸が踊るようです。がんばって、それに見合う教養と感性とを備えなければと意欲に燃えてきます。
 文字通り、空は青く、道は輝いているように思えます。何も絶望することなどないのだと思われて仕方なくなります。
 しかし、こうして簡単なことで、絶望から脱した私にはまた改めて病と再開しました。いわずと知れた恋愛渇望症という危険極まりない死に至りかねない病です。結局、悩みはここに回帰するのです。……彼女ほしいです。自分でも馬鹿らしくなってきますが、それでもやはり、私はそれでこそ私なのだと思います。

03.4.13

 どういうわけかわからないのですが、現在、私は何のやる気もなくて、何もしたいわけではなくて、何の希望もないようなそんな状況です。これからは大学3年生となり、今はその1年の計画を立てる履修届のための大事な時期であるというのに、授業内容を記したシラバスを読む気も起こらず、日課であったこの日記も殆ど停滞してしまって、自分でもつらいと思うような境地にあるのです。
 つらいといえば、私が昨年の冬に好きだった女性に振られた時が最もつらい時期であると思っていました。当時の私は全身を万力で締め付けられているような閉塞感に支配されていて、何をみてもまた涙するようなそんな状態でした。しかし、実をいうと今の方が余程つらいようにも思えます。何もしたくないというこの状況は私があの時に体験した絶望感とは全く質を異にする痛烈なものなのです。当時の私の絶望はあくまでも恋に打ち破られた敗者としてのそれであって、それは次の糧となりうるものであったと思います。この絶望は私の内面に大きな影響を与え続けているものではありますが、決して悪いものではありません。そう確信することができるような人を好きになったのですし、彼女の存在は最大級、私を苦しめましたが、それ以上に喜ばせてくれました。そうした精神的な成長を含んだ絶望と違って、今回のは全くのネガティブなまさに希望が存在しないという絶望でした。絶望した人は新たな希望を見つけることで改めて生きることができます。しかし、私のそれはもはや希望が見つからないという絶望なのです。
 実際、私は多くの希望をもっているようにも思えます。ブリーズのメンバーは私の新たな恋を助けようとしてくれます、ブリーズのメンバーでバンドを組もうといってくれています、勉強もしたいことが見つかりかけています、バイトも始めて楽しいことが待っているはずなのです。不安も不安もないはずなのです。それは私には恋人はですし、そのことで私の恋愛渇望症という悪病が猛威をふるい、刻々と私の精神を蝕んでいることは認めるのですが、私には状況的にそれを解決することができるかもしれない希望があるのです。何しろ、友人が応援してくれるというのです、友人が心配してくれるというのです。それだけでも充分な希望のはずなのです。
 でも、全く希望が信じられないのです。どうしてだかわからないのです。それは希望を信じていながら、常に裏切られ続けた、特に恋愛沙汰については、私にはもはや希望が信じられないという単純な理由ではないかとも思うのですが、それだけで片づけられるほど、私の気持ちの沈み方というのは浅いものではないのです。
 嫌なことなどはないはずなのです。でも、全く、やる気になれないのです。疲れてしまって、何もできないのです。

エレナ「そういうことで、うちのマスターに応援メッセージを送りましょう。あなたの手紙がマスターの励みになるはずです。宛先はtsubakinohime@hotmail.comまで。きっと、元気になってくれるはずです……、何、イオン、さっきから私の袖を引っ張って……」
イオン「いやね、マスターがそういうエレナのセリフを書くのもつらいんだって、あのマスターは」
エレナ「そういう、内部事情はいわなくていいのよ、イオン」
イオン「でも、マスター、エレナのセリフ打ちながら、気が沈んでいっているよ、ほら、みてよ、今にも泣き出しそう。大人なのに、だらしないね」
エレナ「だから、いわなくていいといっているでしょう。ほら、マスターも泣かないでしゃきっとしなさいよ。誰かがきっと手紙をくれるからさ。……なに、私に慰められても、あまり嬉しくない、現実の人に慰められたいって。知らないわよ、そんなこと。折角、私があなたのためにメッセージの募集しているのに、そういう態度をとられるとあなたにもう何もしてあげないからね」

03.4.7

 私は疲れて何もする気が起きませんでした。世は鉄腕アトムの誕生日だとにぎわっていましたが、私にはどうにもやる気というものがわいてきませんでした。私も手塚治虫は好きなので、鉄腕アトムの誕生日に特別な意味を感じないはずはなかったのですが、結局、何もなく過ぎていきました。
 身体はだるく、時々、気持ちが不安になります。前回の日記では死などどうとでもないことだと言い放った私は今日は誰かが私の命をとってくれればと願っていました。嫌な感じです。空は澄み渡って、綺麗なのに、自分の世界は閉ざされて何もないのです。
 こういうときは散歩でもするのが心の平安にはよいかと思って、久々に庭を散歩することにしました。裏庭は、もう、ずいぶんも前から人の手を離れてしまった庭なので、正確にいうと庭ではなくて荒れ地というに相応しいのかもしれません。古に水を湛えていた池には野草が咲き誇り、人が歩いて渡るべき道はとうの昔に自然に委ねられて人を寄せ付けなくなりました。「国破れて山河あり」という杜甫の漢詩の通り、人の支配から離れれば、自然は豊かにその自由を謳歌しているのです。その庭は庭としてみると最悪のものです。何しろ、人が庭を庭として見るための道さえも閉ざされていて、歩くのにも不自由するところです。野草が奔放に伸びきって、均整のとれた庭園と比べることもできません。しかし、きっと一流の庭師が手塩にかけた育てた庭よりも居心地がよいようにも思えます。私は一流の庭に身を置いたことはないので勝手なことをいうようなのですが、庭というのは私にとっては完成された美を愛でるところではなくて、放埒で何に縛られることもなく解放されたものであってくれた方が気が楽で心が安まるのです。
 自然は偉大に思えます。誰に見放されても、ひとりで自立して生きていけます。誰にも頼らずに生きていきます。私のように、誰かに受け入れられたくて必死になることもなくただそこに悠然とあるのです。
 自然は何も語ってはくれませんでした。心は安まるのに、心は晴らしてくれませんでした。私が1人であることを教えてくれるだけなのです。
 裏庭からの帰り道、梅の木の下に蟻がいました。時折、どこから捕まえたのか蓑虫を抱えています。私が眺めていると蟻は黙々と仕事をしていました。 

03.4.5

 あいにくの雨です。今日はブリーズのメンバーを集めてお花見でもしようとしていたのですが、この雨のために計画は中止になってしまいました。折角、友人に会えると思って楽しみにしていたことが突然、駄目になると余計に気が沈んでしまうものです。普段は抑えられている感情もこういう時はいくらか過剰になってしまいがちです。今日も、その集まるはずだったメンバーの1人とチャットして、「マスター、最近危ないよ」といわれてしまいました。思わず、自制できていなかったことに気づきました。
 さて、悪いことは重なるもので、今日は何故か寝違えてしまったのか、首が右に回りません。正面を向いていても何か痛みが走るので、何をするにも不自由をしました。しかも、この首の痛みはこうして今日の日記を書いている23時になってもまだやまないのです。もしかすると、脳髄や脊髄の疾患ではないかと疑ってしまいます。私は精神を病んではいますが、この病みはそれなりに気に入っているのでどうということはないのですが、身体的な面では健康であるはずです。ここで、身体も病んでしまうわけにはいかないと明日、この首が全快してくれることを祈るばかりです。
 こういう状況になると、たとえば死のようなものを考えてしまいます。私の病は、まさに死に到る病そのもののようなものですが、私自身は死などはどうでもよく考えているのが実際です。というのも私が今、死んだところで、私の失うべきものは不確定な未来くらいなもので、私自身には守るべきものもないわけですから、死ぬことぐらいどうということではないのです。ですから、好んで死のうとは思わないのですが、好んで生きようとも思えないのが実状です。
 だからといって、未練がないということもありません。誰かに愛されたいですし、私の愛した彼女に逢ってみたいものです。誰かに抱擁されるとしたならば、きっと、それ以上の幸せはないのではと思います、その幸せを味あわずして死ぬというのは味気なく思えます。
 まあ、でも、そうはいっても、死んでしまえば同じですから、今死のうと、後に死のうと関係がないといえば関係ありません。願わくは高潔で品のある死に方をしたいものですが、そうでなくても、構いません。それは死は人間にとって、最大のイベントですから、美しく飾りたいものですが、まあ、死んでしまえばやはり同じですので、どうでもいいのかもしれません。
 私はこんな状況はある意味、非常に危険でしょうがなく思えます。私の場合、この状況にあって生に執着していないのは別に仏性を得たからでもなくて、生に期待が持てないからであるといって過言ではないでしょう。目の前には確かに多くの希望があります。しかし、その希望のひとつひとつは私を生に執着させるだけの本質的な魅力を保持しきれていないのです。どうでもよいと思ってしまうことは極めて危険なのですが、私にはどうしてもそれを払拭することはできないのです。
 それはどうしてかというと、その理由は冒頭に私が受けた指摘がすべてを示しているといってよいでしょう。私が危なくなっているというのはつまり、例の症状です。私はこの病気を気に入っているのですが、しかし、最も憎むべきものであるといってもよいものなのです。
 人間、最も望むべきものが手には入られないと満たされるということがないのです。

03.4.4

 私がこの日記を書こうと机へと向かったとき、机の上の電灯から蜘蛛が一匹、糸を垂らしてぶら下がっているのを見つけました。蜘蛛の上にはこうこうと光を放つフィラメントがあります。蜘蛛は登っては生きていかれないのです。その熱で焼かれてしまうのでしょうから。下っても生きていかれそうにありません。私の部屋には食べ物は落ちていませんし、補食するような虫もはっていません。
 思わず、この蜘蛛を助けたら、天国へ行けるのだろうかと考えました。ちょうど、光に照らされてきらきらと反射する蜘蛛の糸は生糸のようで、天国へと続いているようにも思えます。
 蜘蛛というのはその姿形からなかなか好きになれない人も多いかと思います。かくゆうの私もあまり触れたくはない生物のひとつです。しかし、ああした綺麗な糸を吐くことを考えると、何か感慨深く思えてきてしまうものです。そういえば、蚕自身もあまり美しい生き物ではないですし、また、その成長した姿もまた決して美しいとはいいづらいところです。けれども、吐く糸がああも美しいのはどうしてなのでしょうね。

03.4.3

 大学の方で健康診断がありました。今年の健康診断は結構自信がありました。というのも、最近は身体を気遣ってお酒はハレの日にのみ飲むことにしようと心に決めて、たとえ女性に振られようとも、暴飲暴食して余計に体調を壊すことのないように心がけました。やはり、身体の健康が乱れると精神も異常をきたして、それだけ魅力が減ってしまうでしょうから。だから、今日はお酒は控えめに、そして、身体作りのためになるべく運動するように心がけた結果を審判される日だったのです。
 まず、血圧です。これは特に問題ありません。安全圏内です。少し低血圧に傾いていそうなのは愛嬌です。次に身長体重です。これは最大の問題といってもよいでしょう。身長は変わらずに178pです。今さら、変わることもないので構いません。関心事は体重です。……67sでした。もう少し頑張りたいところですね。思えば、受験期にでぶっちょへの道を駆け上がらんとしていたらしく、1年の時の体重は73sでした。思わず、目を背けたくなる数値です。しかし、毎年、健康な生活環境を取り戻したからか、3、4sずつの減量に成功していたようです。しかし、太るのは1年で、それを戻すのには長い歳月が必要なことがよくわかります。まあ、今年も頑張って減量しようと思います。
 さて、次は視力です。これはとても恐い検査項目です。最近、運転していると目がかすむということはないのですが、道路案内が読みづらくて困っていたこともあって、裸眼で運転するための基準を満たしているかが疑問だったために、検査機器には恐れおののきます。いさ、と検査器に目をあてて、目を凝らします。よく見えないです。かすみます。思わず、「目で見ようとするからいけないのだ。心の目で見れば、自ずと答えは導かれる」などともってもいない心眼に頼ろうとしてしまいます。結果は両目とも0.7で、基準をクリアしました。体重測定を終えたボクサーの気分でした。
 後は内科診療でも、問題ないといわれて安心できました。結果として、予想通りの好成績でした。これで来年まで頑張れます。 

03.3.31

 ゲート計画を行えるような無料掲示板を探すのは案外、面倒な作業でした。ようやく見つけたのですが、この掲示板も問題なく、末永く使えるかどうかと思うとはらはらします。

03.3.30

 怪我の巧妙かあるいは塞翁が馬ともいうべきか、一昨日の不良にからまれたいという事件を間接的な要因となって、今日は女の子とのデートをすることになりました。とはいいましても、別に恋人でも何でもなくて、単に野球でも見に行こうかというお出かけなのですが、思えば、女性と2人でお出かけするのは……少なくとも半年ぶりのことなので、なかなか心を躍らされる出来事でした。
 1230に「萩山」という西武球場近くの駅に集合でした。相手の彼女は37分ほど遅刻しましたが、まあ、それは愛嬌です。球場に着くと無難に観戦を終了して、帰路につきます。いや、それで、今日のメインの出来事の話をお終いにしてしまうのも何なのでもう少し加えると、その試合というのはライオンズ対ファイターズでした。1、2回はみていなかったので、どういう展開だったのかわからないのですが、私たちが来てからは西武の圧倒的な攻勢で気持ちのよいものでした。しかし、残念だったことはファイターズにはそれほどのチャンスがなくて、こう緊迫させてくれる状態がなかったことです。やはり、ピンチを見守るのも野球の醍醐味だからです。食事は適当に食べましたが、その中で「ジャンボ餃子」というものが350円で売られていました。餃子は好きなので、思わず買ってみたのですが、あまり美味しくはありませんでした。味は大きいだけあって大味なのですが、それだけで、お終いという感じです。350円を支払って買うべきものではありませんでした。
 さて、帰り道、デーゲームでしたので、時間に余裕があったので、少し遠回りして彼女とのおしゃべりを楽しむことにしました。その途中に2人とも乗り換える駅があるのですが、そこで下車して思い立ったことは、その駅はちょうど私たちの共通の友人、というよりもブリーズのメンバーの1人が生息する地域でしたので、即座に呼び出して、カラオケに突入しました。これもまた楽しかったです。
 さて、今日の彼女との会話の中で気づいたことは、会話の内容が何か違うのです。強く印象に残っていた会話の内容がダイエット……で、男と女のする会話ではない気がするのです。むしろ、女の子同士の会話というのが自然な気がします。その彼女にも女らしいといわれてしまいますし……、何でしょうね。

03.3.29

 さて、昨日の続きの話をしましょう。三国志の攻略を終えた後、私は身なりを整えて、旧友のライブに出掛けました。いつか、この人のことについては書いた気もしますが、彼女は華奢な人なのですが、声はアルトで低く、そして、声量もかなりあって、とても迫力のある歌を歌う人でした。今回は前回以上に彼女のバンドのレベルも上がったようで、昨日は圧倒され続けました。思えば、彼女とは小学生からの仲なのですが、といっても高校以降はほとんど交友関係などはありませんでしたが、その当時から、彼女には敵うことなどありませんでした。彼女は多才で、私がほしいと願う才能のほとんどをもっていて、私にとってはもっとも敬愛する人でした。何か思い話になってしまいましたが、そんな彼女のライブは私にとってはとても魅力あるものです。単純に彼女の歌には引きつけられます。私は心地よいひとときを過ごすことができました。
 ついでにいうと、私は彼女のバンドのギターを弾く人と、助っ人できたというベースの人に惚れました。ギターの人は伸長が185pあるそうで、見下ろされてしまいます。その人がステージに上がって、格好のよいスーツを着こなしているのをみると魅了されてしまいます。あの、肩からつま先までの通ったラインは男の魅力がたっぷりと含まれています。ベースの人はとても面白い人です。けれども、やはり何というかこの人も背が高くて、服のセンスもよいのです。ただ、立っているだけでも多分、魅力的なのですが、彼らの歌が始まるとその格好の良さに輪をかけて、情熱と迫力とが伝わってきて、ああ男だなあと思わされてしまいます。男たるものはいつかはああなりたいものだと思います。
 ということで、私は彼女のバントがお気に入りになってしまいました。また機会があれば聞きに行きたいものです。いいんですよ。周りが格好良いし、彼女の歌がすごいしで。何かここまで全く説明できていないのですが、こういうのはどうにも言語化するのは難しいので、了承願います。
 さて、こうした唸るようなライブを聴いてしまいますと、私もという意欲がわいてきます。私もということはつまりはブリーズバンドのことです。私は初心者ですが、メンバーの人がいれてくれたのです。これはやるしかないし、こんなに嬉しい環境はないと思います。それに、実はライブの彼女はギターを初めて3ヶ月と、私と同じ時期に始めたのにもかかわらず、既に昨日のライブで、一曲、弾きながら歌っていたのです。これは対抗意識を燃するが筋ということでしょう。私には環境も動機もそろっています。私はいろいろと挫折してきたけれども、これだけは頑張ってやろうと思います。
 そろそろ、こうしたつまらない決意を聞かされては飽きるかと思いますので、ライブが終わった後の悲しいお話しを致しましょう。それはライブの熱気も醒めやらぬ、駅の駐輪場でのことでした。自転車を回収して、帰路へとつこうとすると、駐輪所の前にカップルが座っていました。私は思わず注視しました。というのも男の方が、私の高校時代の塾の講師のような感じがしたのです。夜で、しかも最近視力の低下している私にはどうにも判断がつかなかったので、さらに凝視をしていると男が立ち上がり、こちらに近づいてきました。ああ、やはりそうなんだと思って、立ち止まると、実は全然違う人でした。しかも、何やら外国人らしく思えたので、思わず「What? Did you want me?」と尋ねてしまいました。さらに近づくと、何のことはない単なる不良でした。不良には英語で話しかけられたのがそもそもの侮辱とうつったかもしれません。それはさておいて、その不良くんは私の目前に立って、顔を突き出してきます。思わず、全然いけてないなあと嘆息しそうになりました。不良は不躾な言葉で、私が彼に何か用があるのか、もし、私と戦いたいならば相手を致しましょうと、提案してきました。多分、こういうとき、私は武芸も度胸もない弱い人間ですから、竦んでしまうはずだったのですが、この時は全然そんな気分になれませんでした。何しろ、彼女の歌の方が全然、迫力がありましたし、何よりも彼は弱そうです。そうはいっても、私は公務員を目指す身で、喧嘩沙汰でも起こせば、私の夢も潰えてしまいかねないことと、仮に弱そうに見えても彼が武芸の達人ではないという保証もないので、ここは折角の提案をお断りして、早々に立ち去ろうと決めました。それに何よりも、彼女の歌を聴けて気分がよかったですからね、相手にする気も起こらなかったというのが最大の理由なのですが。ですから、もし、誰かに振られた帰りだったら、多分、間違いなく戦闘状態に移行していたでしょう。ともあれ、私はここで泣きたくなるような悲しみに支配されてしまいました。そうはいっても、もし、戦闘回避が困難な場合、私は先制攻撃をして敵を打ち砕かねばなりません。喧嘩のコツは先制攻撃であり、相手の意表をつくことであるとよくコミックなどでは語られています。ここはひとつ、そういう手立てを考えねばと思いました。でも、その考えがとても嫌なものだったのです。戦術その1から、もう、泣きたくなることです。彼と私との顔の距離は20pもありません。もし、こうして付き合わせているのが恋人であったならば、これほど嬉しいことはありませんが、彼は彼女を差し置いて、私とこうした体勢をとることを望んでしまわれた人ですから、仕方ありません。さて、この状態で、もっとも敵の意表をつく方法は何かと考えました。それは唇を奪うことです。ヘッドバットとかが無難な気もするのですが、どうしたのか、最近みている映画『ハンニバル』の影響か、何故か、そんなことが頭に浮かびました。危うく、自分を喪失するところでした。次のプランは比較的まともでした。私の胸にあるモンブランを相手の目に突き刺してやることです。一撃必殺だと思います。当たればですが。思考が深みにはまっていくと、どんどんとおかしな、そして卑怯な戦術が浮かんできます。その次は彼女を人質にとったり、彼女に自転車を投げつけてやったりと、もはや、どちらが悪者かわからなくなってしまいそうな、そんなものばかり浮かんできます。結局、そんな馬鹿なことを考えながら気のない返事をしていると、どうも彼は納得したようで、解放してくれました。今思うと惜しいことをしたと思います。一度くらい、不良と喧嘩してみるのも人生経験としては大切なのではと後悔してしまいました。後から考えたことですが、私がどうして、こんな変な思考に辿り着いてしまったかといえば、ひとえに彼の第一印象が彼女持ちの不細工であったことにあるのです。もう少し、煮え切ってしまっていたら、これを理由に戦っていたかもしれません。思うに人間、欲に溺れると滅茶苦茶なことをしてしまいがちです。やはり、健全に彼女をつくり、無駄に嫉妬などしないような環境作りを進めねばならないと悟りました。
 しかし、一番、残念なのは、折角ライブで楽しかった気分を心ない彼女持ちに汚されてしまったことです。どうして、そのことに絡まれていた瞬間に気づかなかったのか、本当に残念です。これだけの理由があれば、殴っていてもよかったのではと思います。ああ、でも、こちらが先に殴ってしまっては、正当防衛は成立しないのですかね。それよりも、裁判で時間を費やすのも面倒ですしね、新学期で忙しくなるのに、それは御免です。でも、先に殴らせてしまったら、まず、私に勝機はないし、喧嘩って難しいですね。

03.3.28

 都合上、前日の日記も同時にアップすることになってしまいましたが、気になさらずにいきましょう。今日はいろいろあったのですが、多くは明日にでも書くことにして、今日は手短にしようと思います。
 三国志をクリアしました。前回と同じくフィア嬢を中心に書いてみましょう。

 それは188年3月のことでした。残す勢力は3つ、その最大の勢力は10万の兵士をひとつの都市に集結させ、正確には先の戦いから敗走した武将兵士が逃げのびていって、最後の戦いの時を待っていました。
「そろそろ、敵の勢力も少なくなりました。フィア嬢の勢力から外れてしまわれたティルダさんを引き戻さないと、共闘する機会がなくなってしまいます」
 エレナとフィアの主な関心事は天下統一にはありませんでした。既に多くの実戦経験をもつ戦闘要員の中でも特に戦闘に特化しているキール、デプレはもちろんのこと、フィア自身も戦闘能力が100ポイントのマックス状態となり、向かうところに敵はないといった感にあり、その他のメンバーも開始時以上の戦闘能力を湛えていました。
「そうであるな。敵がいくらいようとも、我らには小事であるな。それよりもティルダ嬢を引き入れねば。彼女はいったいどこにおるのだ」
 エレナは答えました。
「嬉しいことにこの街にいるわよ。早く連れてくるといいわよ」
 フィア嬢は早速、君主の立場も忘れて、ティルダの住居に向かいました。ついに彼女の参戦が決定しました。エレナは嬉しくなり、彼女に14000の兵士と騎馬を授けると、翌月の戦争の準備をしました。
「ついに、これで、全員がそろったわね」
「ああ、これで、我らの天下統一に何ら障害はなくなった。すぐにでも統一を再開しよう」
 翌月、10万の兵士を抱える勢力はブリーズメンバーの12万の軍勢に為す術滅びました。
 そして、さらに翌月からは酷い惨殺の戦闘が始まりました。毎月、ひとつの街を侵攻するのです。圧倒的な戦力差、それは常に少数の兵士で戦っていたフィアの勢力には初めてのことでした。戦闘力も兵士の数でも上回っているフィアの戦術はもはや、たったひとつでした。
「蹂躙戦を開始する。各部隊は正面突破をして、接敵後は即座にその部隊を殲滅せよ。砦になど構うな。そなたたちの目標は砦ではない。敵勢力の短時間での制圧だ」
 エレナの用いた策はほぼひとつに限定されました。それは神速です。全部隊を高速で移動できるように策をとり、数日で敵の本陣を包囲することに成功しました。後方には制圧する間も惜しまれ放置された敵の砦だけがありました。
 それが毎月、続きました。太守には常に前線に物資を送らせ、征服先で兵士を補充しては次の街を攻略していきました。
 そして、最後の勢力を滅ぼしたのが同年9月のことでした。ここに、パリューノ王国の引き起こした4年戦争は集結することになりました。フィアは丞相となり、中国全土を支配することになりました。当人はまだ後漢王朝を制圧していないと不満を漏らしていましたが、そこはティシアに抑えられ、しぶしぶ了承するものの、やはり、天下統一への願望は強く残っていたようでした。そうした心に気づきながらもエレナはフィアの下を去っていきました。おそらくはフィアと同様で、戦いができなくてつまらなかったのでしょう。フィアの近くにいては内政ばかりさせられて、自由に自分の研究ができないことに気づいたのでしょう。エレナを失ったフィアは次の敵を求めて、世界を奔走しましたが、もともと治世などする気のなかったフィアの統治する中国は荒れに荒れ、フィア嬢の崩御の後は内政が混乱し、すぐに元通りに戻ってしまいました。
 大きな問題は彼女にとって中国が小さすぎることでした。たかが、4年で楽しみを失ってはどうしようもありませんでした。これでも、無駄に遊ぶことの多かったフィアなのですが、結局、最大の楽しみが戦乱であったために、これ以上統一を先送りさせることはできなかったようです。
 フィアはいいました。
「何だ、中国とは狭いものだな、誰か他に統一できそうな土地はないものか」
 ティシアが答えました。
「そんなものはありません。もう、いい加減にして下さい」
「そんなことをいって、私は知っているのだぞ。西には欧羅巴という戦争ばかりをしている楽しい国があるとのことではないか。私はそこを目指すぞ」
「そんなものはありません。中国は世界の中心です。それより外れには何もありません」
「そんなことはあるまい。私は西に土地が続いているのも知っている。そなた、どうして、事実を認めないのだ」
「もう、人殺しの手伝いはしたくありません。私は天下平安のためにと思って、フィアについていったのよ。どうして、そんな無駄な戦いをしなくてはいけないの」
 その論争は長く続き、フィアの崩御にティシアが関わっていたことを裏付ける有力な証拠となったとか……。

 結局、戦争ばかりしていて、内政をしなかったので、フィアの名声はたかが8000くらいで終わってしまい、パリューノ王国の軍門に下ったかつての対抗勢力の頭の方が余程、高い名声をもっていました。残りの余生をフィアが放浪せずに、民のために使っていたならば、おそらく中国はパリューノ王国と名を変えて、存在していたに違いないでしょう。

03.3.27

 大学の友人と万座に温泉につかりに行きました。一番の感想は旅費が高かったことで、一泊二日で40000円ではもうやっていられません。40000円分のサービスを受けた感がないのでものすごく割高感だけ残ってしまいました。こうして高いお金を払っている自分の中では、前々回の旅行、それは私たち、ブリーズメンバーの高校卒業旅行のことでしたが、私は努力したつもりなのに、割高な旅行にしてしまったことを思わず思いだし、そのときのメンバーの気持ちをようやく理解することができた気がします。教訓は幹事たるもの最大限努力して、金銭負担に見合った旅行プランを立てることだということです。これは最大の責任であると思います。次回からはもっと優れた旅行プランを提示してみせるから、ブリーズメンバーはついてきてくださいね。という感じです。
 けれども、いいこともありました。この椿は最近、スノーボードに興味を抱いていたのですが、なかなか機会がなくてできなかったのに、この旅行で初めてやりました。とても新鮮で楽しいものでした。
 どんな風だったかといいますかと、当初はスキーと同じ要領でできるに違いない、要はスキーのパラレルと同じで、パラレルで滑れる限りスノーボードも大丈夫だろうと、そう高をくくっていました。しかし、現実は全然そうではなくて、感覚が全然違うことに気づきました。まず、立てません。そして、滑れません。平坦なところで、ゆっくりと進むことさえ困難でした。始めはスキーの時の1/10ぐらいのスピードにも恐れを抱き、バランスはすぐにも崩れて転倒してしまいます。立っては転びを繰り返していた私にはその度に受け身に使う両腕の骨がそのショックに疲労骨折してしまうのではと思ったほどに転びました。結局、自力で技術を修得することは困難と悟った私はインストラクターに教授を願うのでした。その授業料も高かったのですが、もはや、そのことは私には問題ではありませんでした。滑れないのが滑れるようになれば、その投資は決して高いものではないと考えていたからです。実際、基礎から教えてもらった私はとりあえず、雪山を下ることぐらいはできるようになりました。いや、いずれのことにも先達はあらまほしきことです。それまで、転んでいたのが嘘のように降りられるようになっていました。もっとも、レベルからいえば、きちんと滑れるというよりかはなんとか降りられるという感じで、スキーでいうなればハの字で滑れるという段階でした。けれども、こうして初心の技術を学んでいくというのは何の感慨もなく、ただ、スピード感と風をきって進む気持ちよさだけのスキーで滑り降りていってしまう時とは全く別の喜びがあり、とても楽しいものでした。最後まで、スキーの時の1/4のスピードで恐怖に駆られてしまうのですが、それでも楽しくて仕方ありませんでした。
 そういえば、私は今、多くの初めてに挑戦しています。スノーボードもそうですが、ギターや初の恋人ゲットまで。もっとも、恋人を募集しているのは厳密には初めてではないですが。単に成功していないというだけで。しかし、初めてはとても楽しいものです。不安というのもありますが、初めてほど自分がどれだけ成長しているかを実感できるものはないでしょう。加えて全くできなかったから、少しでもできるようになったという変化はとても大きなものであるはずです。私はごく最近まで、ある程度のレベルまでは技術などというものはないも同然だと思っていました。それはある程度、上だけをみて、上の人があれだけできるのならば、今の私は何の技術は価値もなく、さらなる努力をして高みを目指さねばと思っていました。でも、そういうのは完全に正しい見方ではないということに気づいたのです。それを気づかせてくれたのは一週間前の春期旅行計画でブリーズメンバーの1人、ダッシュくんの教えてくれたことです。
「上をみるな」です。
 これは私がブリーズバンドの一員であるために必要なことを彼に夜風呂で教授されたその中で使われた言葉です。非常に消極的に思えるそのひとことは、私にとっては非常に有意味なものでありました。普通、人はより高みを目指していくことを善として生きていますが、そういう生活では結局、いつかは挫折してしまって、道を諦めるほかないという結論に達しまいがちです。私も既に多くのことを挫折してきました。しかも、そのたびに後悔の念にとらわれて、如何ともし難い哀しみに陥るのです。詳しく知らないのですが、何か流行歌の歌詞の中にナンバー1よりもオンリー1という内容のものがあったかと思います。これは世界の多様化から個性がより重視されるようになった結果として認識されがちですが、実はこの思考の転換は非常に重要なそれであるといえます。ナンバー1に固執することは、ある種大切なことといえるでしょう。それは即物的なことをいえば、世界経済に成立している資本主義社会の根幹をなす競争原理の活力であるはずですから、これに執着する人がいなくなれば経済自体が成立し得なくなるからです。しかし、一般にこのナンバー1、あるいは上に固執しないということは重要な意味を持ちます。それは自分のモチベーションを別のところに置くことができるからです。上を目指すというのはある種単調で、無目標といってもよいくらいの漠然とした目的意識です。こうした意識を維持するのはオリンピック選手を本気で目指す人々のような強靱な精神力と、そこへ多くの犠牲を支払う覚悟が求められます。一般にそんな酔狂なことはできません。必ず限界が生じるはずです。それは精神力に限らずに、時間という大きな制約がある限り、仕方のないことです。人は幅広く生きようと思えば思うほど、ひとつのものに特化することが難しくなってしまいます。人間の可能性は無限ですが、その実際には限界があるのです。ならば、上ばかりを見ていることは無意味なことになります。なぜならば、その人はその分野においてそれだけの時間と労力を費やしたということで、それだけの犠牲を払ったということであるのですから、たまたま、自分はそれを支払わなかっただけで、そこに劣等感を抱く必要はないのです。上をみればきりはありません。限界近くまでその技術に特化したところで、上がいることはよくある話です。上を目指すことは大切なことである反面、酷く精神を痛めつけます。人は痛めつけられた精神を活力に変えて明日の糧にしますが、過ぎた刺激は精神を砕いてしまいます。そうなってはあとは苦しいだけで何も得られなくなってしまいます。得られたとしても、苦労の割に大したものが得られずに、割高な努力をしてしまいます。
 人間、自分のやったことにある程度、満足していた方が健全であります。無理な目標というのは非常に制御し辛くて、大抵の人には手に負えない害をもっています。自分の身の丈にあった目標と喜びに満足をするのが幸せになるこつなのです。無理をしないこと、自分を大切にすることは決して悪いことではないのです。初心のことなのだから、できなくて当然、自分のペースで前進していけばよいという大らかな心を持っていた方がおそらくは気が楽で、そのために雑念にとらわれずにすむはずです。今回はボードに関してはボロボロだったのですが、次回はもう少しレベルアップをとゆっくりやっていた方がいいのです。
 とはいっても、自分を甘やかしてばかりではいけないのです。物事の極意は中庸にあるのです。自分にもったやる気をどこまでつぎ込めるかは重要です。問題は過剰にやる気をもったり、やる気以上のことをしてしまおうとすると、つらくて挫折してしまうということです。

03.3.25

 昨日、minoさんと会って、三国志のデータを受け取ったので、ようやく三国志を楽しむことができました。三国志Zではオリジナルの武将を登録できるということで、フィア以下6名で成都に陣取り、西暦184年の中国大陸にパリューノ王国を建設しようという主旨で始めました。フィア嬢に従う武将は6名です。軍師のエレナ、戦闘パートを担うキール、デプレ、アルス、執政パートを担うティシア、ティルダ、そして、何の役に立つのか、魅力ばかりのセリスです。以前、少し触れたと思いますが、3ヶ月で内政に飽きたフィア嬢はそこから戦乱にのみ身を投じるようになるのでした。

 184年7月、成都で狂犬の異名をとるキールを相手に武芸を楽しいんでいたフィア嬢は天を見上げ、ふと思い立ったようにキールにいいました。
「なあ、狂犬。こうして訓練をしていても何か緊迫感というものがないな。これでは身体の方がなまってしまう。それに、そなたもそろそろうずいているのであろう」
 その言葉をきっかけに、フィアは戦闘要員のキール、アルス、デプレを引き連れて成都から北、手近なところに董卓の勢力に乗り込みました。とりあえず、現時点でできるだけの武力を率いて、いざ出陣でした。
「この風、この肌触りこそ、戦争よ」
 と横でキールが例のように刀を出し入れしながら、戦地に着くのを待っていたところで、参謀のエレナがいいました。
「フィア、みえみえの奇襲よ」
 エレナの助言で奇襲を回避し、混乱に乗じてキールを筆頭とした戦闘部隊があっさりと敵をなぎ払い、確か3倍程度の兵力をもった董卓軍はゲーム開始から数ヶ月で歴史から抹消されることになりました。
 都に戻ったフィアは思い立ちました。
「何だ。中国大陸には大した敵はいないようだな。これならば、一挙に攻めていってよかろう」
 その無謀な戦略にティシア嬢が待ったをかけるので、フィア嬢は妥協をして、
「よし。とりあえず、空白地帯を埋めてから本格的な戦争を始めよう」
 とのことで、空白地帯の多い南部を中心に翌月から数部隊に別れて南部を制圧しました。途中、士燮の勢力というのにもあたったのですが特にフィア嬢の印象にも残らずに彼は滅亡をしました。南部攻略開始から6ヶ月ほど経って、やはりフィア嬢は飽き始めました。
「こうやはり、抵抗してもらわないとこちらとしても天下を切り開いているという実感がない。狂犬ども、やはり、北を攻めるぞ。ティルダ、ティシア、セリスはまあ、適当に南部攻略を続けるがよい」
 翌月北部の前線基地へと移動したフィア一行は、その移動の間に征服地から根こそぎ兵をかき集めて、練度の低い烏合の衆と共にいました。
「ねえ、こんな人たち役に立つの」
 アルスが尋ねてきたので、フィアは答えました。
「さあ、どうであろうな。確かに役に立つかどうかは現時点ではいえないが、これから補充しながらも彼のと共に戦うのだ。私も経験するところだが、実践以上の訓練の場などないのだぞ」
「……でも、死んじゃあ、しょうがないよ」
「仕方なかろう。それが戦争というものだ。我らがしてやれることは被害を最小限に食い止めて次の街へ行くことだ」
「次の街って、内政はどうするのよ」
 エレナは尋ねました。
「それは、まあ、適当に登用した人間を太守にしてやればよいであろう。我らがほしいのは次の戦地へ行くための兵糧と補充の兵士だけであるからな。街など、彼らにくれてやればよい」
 そうこうしながら、やはり6ヶ月ほどで西平を陣地としていた勢力と丁原なる勢力を討ち滅ぼして、何進というひとつの勢力を担う男を今度は東へ東へと追いやっていきました。
 しかし、口ほどにもないと、思っていた矢先のことでした。フィア嬢はもはや日常のことのような軍備増強に勤しんでいると、東のある都市でパリューノ体制に反旗を翻し、何進の勢力に下った太守がいました。裏切られたフィアは
「そのようなこと、よくある話だ、今度近くを通りかかったところで再度制圧するから覚悟しておけよ」
 当時進行中であった別の何進領の戦地へ行っていました。戦闘中、そういえば、戦闘要員でないブリーズメンバーはどこにいるのだろうと思い、征服後、確認してみると……ティルダがいないのです。何か誰かのコミックの落ちをみているようなそんな感じになりました。太守が裏切った、その地域にいたために、そのまま相手の軍門に知らぬ間に下っていたのです。フィアは絶望にうちひしがれ、しかし、ここはひとつ冷静になって、考えました。
「まあ、そういうこともあるであろうが、ここはひとつ彼女の仕えざるを得なかった勢力を潰してしまえばよいこと。そうすれば、きっと、親密度も高く、かつて私に忠誠を誓った彼女ならば、すぐに帰ってきてくれるだろう」
 翌月から、鬼神のごとくというよりは矛先が単に何進に向いたというだけで、3ヶ月後、何進は歴史から姿を消してしまいました。フィアは捕虜にしたティルダに満面の笑みを浮かべて、いいました。
「私に、また、仕えてはくれまいだろうか」
 フィアは3ヶ月の苦労を思い起こしました。罠にかかり、どこから来たのか呂布が大群を連れて徹底抗戦をしてくれて一筋縄ではいかない戦闘を繰り返したのでした。時間を短縮するためにメインの部隊を2つに分けたのもつらいところでした。フィアの期待は頂点に達していました。
「……私がいてもなんの得にはなりませんよ」
 ティルダは答えました。自らの耳を疑ったフィアはもう一度尋ねました。
「私に仕えてはくれないのか」
 ティルダは不敵な笑みを浮かべていいました。
「あなたの有り金、全部くれるならば、仕えてもよいわよ」
 フィアは思いました。金でよいならば、すべてくれやろう。私に必要なのは10万の兵士とそれを養う兵糧だけで、他に望むものはブリーズメンバーがそろって、わいわいやることで、他は何も要らなかった。もし、望むならば、既に制圧した、成都、長安、洛陽といった大都市ごと捧げてもよいと思いましたが、選択肢がでなくて泣きました。それからは毎月、手紙を書いて、贈り物をして訪問をするという半ばストーカーのような行為を続けるフィアでした。
 フィアは操作するマスターは思いました。どうして、このような危険な状況になるのであろう。コミックといい、三国志といい、何故、こう、いやな暗示をしてくるのだろう。ティルダさんに限らず、誰もブリーズから抜けてほしくないのにと。
 時に187年の夏のことでした。1年戦争として中国大陸を統一してやろうと思っていたフィアは既に20歳の女性となっていました。

03.3.20

 3月18日から、20日にかけて私たちブリーズのメンバーは山形県の蔵王温泉にスキー旅行に行って参りました。そのために、当然ながら、このネットは放置されていましたが、これより更新を再開しようと思います。旅行報告に関してはマスターズアイディアででも触れようかと思います。そして、今日はついにアメリカの侵略戦争ともいうべき戦いが開始してしまったことについて話そうかと思います。そうはいっても、旅行中は情報から隔離されていた存在の私なので、きちんとした話ができそうもないのですが、それでも話さずにはいられないことなので、簡単にでも触れようかと思います。
 単刀直入に結論からいえば、私はアメリカの対イラク戦争に対しては反対です。それは私にとってはもとより、世界の誰にとっても自然な結論であると信じているからです。人間はとりあえず、その理性と慈愛と良心の心を備えていると信じているからこそ、他人に危害を加えることを躊躇します。もし、この原則が成り立たなければ、そもそも社会というものは成立せず、万民の万民による闘争状態ともいうべき世界を構築することになることは自然なことです。それは世界で生じた戦乱期にも、現代の資本主義社会にもみられる共通の真理である人間の闘争本能と利己的欲求を備えているからなのです。それを捨てることは人間にとっては生物としての存在理由を失うことと同義ですから、毛頭不可能なことであるかと思います。もし、そのようなことが達成するならば、それこそ、桃源郷や神の楽園を創造することになるでしょう。若干話が反れましたが、人間は社会の成立に与する利他と幸福と利益追求の利己の葛藤をもって生きている生物であるということは了解していただけるかと思います。
 さて、今回のアメリカの戦争に関して、彼らは世界の意志と彼らの意志を同一のものとして考えています。アメリカの意志に反するものは孤立しているような、そうした独善的な意識に基づいて行動をしているといってよいでしょう。どうやら国連決議も反故にされたようですし、イギリスを始めとする何カ国かはアメリカを支持することを表明していますが、残念なことに私たちの住む日本もまたその国のひとつであります、世界の多くの国はアメリカの戦争を正当なものとはみなしていません。それはひとえに、彼らの行動が正義を掲げているところの正義は大義名分に過ぎず、真の正義はやはり自国利益の確保であることは明白であり、その戦争が国際社会の上で公に利益あることではないことであるといえます。ちょうど、ジャイアンがちょっと悪さをしたのび太を懲らしめるような、あるいはスネ夫のラジコンでも壊してやりたいというようなそうした色合いといって過言ではないと思います。それは高度に洗練された大人たちの国家間の決断ではなくて、ガキ大将の利己的な我が儘であるのです。ここで私が『ドラえもん』の典型的なシーンを引き合いにしたのはアメリカの行為がジャイアンと何ら変わらないと確信したからであります。アメリカは名実ともに超大国として世界に君臨しています。それは紛れもない事実で、認めざるを得ない現実です。ところで、フランスは今もまだこの戦争反対のシンボルの国として有り続けているそうです。そのフランスは誰が世界の意志決定をいるかという観点で、この戦争を捉えています。理念の問題だといっているのです。政治的な思惑を考えてしまうと、それは何も彼らが全面的に正義を遂行しているとはいいがたいものですが、しかし、フランスの主張は実にこれからの世界の在り方を考える上で重要なことを提唱しています。アメリカは自国利益に忠実に行動しています。それは人間的に非常に自然なことで、それはある意味で正当なことであります。それは人間が自己利益を追求することがまた自然な行為であるということであるからなのです。しかし、それに振り回される他の国々はアメリカの奴隷とならざるを得なくなります。アメリカは強すぎて、誰も逆らうことなどできないからです。フランスはこの事態を恐れているのです。超大国にすべて支配されるということは国家の主権を献上せざるを得ないことと同義で、アイデンティティを放棄するようなものです。それは平等を目指して進もうとする国際社会の進化の方向に逆行する極めて痛烈な退化であります。アメリカを支持するということは主権を放棄しているといっても過言ではないでしょう。なぜならば、アメリカ支持の背景にあるのはアメリカのなす利益配分に与ろうという浅ましい欲望があるからです。そうしたことで自国を放棄してよいほど、国家とは軽薄な存在ではないはずです。もし、国家が利益集団であるならば、それは全く企業と変わらないからです。
 今回の戦争は問題はイラクが大量破壊兵器を所持しているか、あるいはテロリズムの可能性を根絶できるかなどといった些細なことにはないのです。あのアメリカが真に世界の支配者であると意識して国際協調を共用することが正しい在り方であると認識して、また、そのことを他国が受け入れてしまうかというそうした意識の問題にあるのです。今回の戦争はアイデンティティを揺るがす問題です。決して対岸の火事などと私たちは悠長に構えていられるわけがないのです。

03.3.12

 最近、ラグナロクオンラインにはまっています。登録をしてからというもの、毎日欠かさずログインをしている熱の入れようです。このゲームの楽しさはやはり大勢の人と同じ空間を共有しているという感覚があるということです。実際に、ゲームの中ではまさにファンタジー世界の住人となった気分でいられます。オンラインゲームはディアブロUをやって以来ですが、このときはそんなことは感じました。ラグナロクのサーバーにいる数千人の人が一同に世界を共有するシステムがこの感覚を産んだものと思われます。仮想現実と現実を混同してしまうという問題がゲームがよりリアルなものになって行くにつれて大きくなっていますが、このラグナロクはこの問題の頂点に来ているのではと思われるゲームです。実際、ラグナロクの世界は確かに個性豊かな別個の人格である他人が操作して形成されるものですから、ある意味、世界がファンタジーでゲームであるということ以外は現実と相違ないのです。そのファンタジーでゲームであるというのは大きな現実との差であると思われますが、ラグナロクでは人付き合いという観点からみれば現実と仮想現実の差はそうないかもしれません。厳密にいえば、ラグナロクに集まる人はラグナロクの楽しみを知っているという共通項をもっていますので、一般的な人付き合いではなくて、趣味の似通った人々の集まりといってよいのですが、それはやはり、大きな問題ではないでしょう。要は決まり切った選択肢ではなくて生の人間と相対するということがゲームの中でできるのです。
 それは、人が集まって、ラグナロクはそこに世界が存在するということなのです。そして、その世界を私たちが共有することができるのです。より現実的な仮想現実といってよいでしょう。だから、私は虜になってしまったといえるかもしれません。とはいえ、ラグナロクはゲームなので、現実を忘れることはありませんが、ラグナロクのようなゲームのスタイルは私たちが少年の頃に思い描いた剣と魔法の世界の主人公に限りなく近づけさせてくれるものであるといっても過言ではないでしょう。
 ちなみに、今のところ私はフィア・パリューノという、まあ、うちの姫君の名を語ってゲームを楽しんでいます。もし、お見かけになったら、気軽に声かけてやって下さい。一応、いつもの姫君のような口調はしていませんで、丁寧な話ぶりで、危害はないと思います。

03.3.5

 今日、私のよく行くスーパーで店員のお兄さんが飲料水の陳列棚を整頓していました。私はそこでボルビックのペットボトルを2本カゴに入れて立ち去ろうとしたとき、店員のお兄さんの舌打ちが聞こえてきたのです。私は聞き違いということも考えられるので、強いて言及しようとは思いませんでしたが、やはり、そういうのは不義であると思うのです。彼の気持ちもわからなくもないのですが、というのは彼は私がペットボトルを取りあげてしまったことで、せっかく完璧に整えられた棚が乱れてしまったからです。しかし、本来、その陳列は私がそのペットボトルをとるためにあるのであって、そのことを忘れてはいけないのです。
 また、そのスーパーからでたときにもそのスーパーの目の前には車が一台止まっていました。そのスーパーは大きな街道に面していて、正面に止めると周囲の交通に多大な迷惑になります。その車はナンバーも隠してあって、ちょうど私が停車したのはその車の側面よりやや前方だったのですが、ナンバーを読み取ることはできませんでした。このスーパーにはお客が車できても不自由しないように駐車場があり、そんなに混み合うことのない時間帯でしたから、別段、そこに止めなければならないという必要性もありませんでしたし、当然ながら、そこは駐車禁止エリアですから、道路交通法にも違反しています。
 これだけ人の不義をみると不愉快になるのは常ですが、さらに私の憂鬱は続きました。帰りの交差点では無様な改造を施した、恥ずかしくて乗っていられるのか甚だ疑問なバイクが方向指示器を点灯させずに左折していきました。別に誰に迷惑がかかるということもないですが、必要なルールである以上したがって欲しいものです。
 私はときどき、こうしてつまらない人の失礼を列挙しては不犠だ不義だというのですが、どうしてこうもつまらないことを書いてしまうのかといえば、こういうことをして、他人に迷惑をかけるのがとてもつまらないことであると考えるからです。人を幸せにしようと行動は実際に、自分をも幸せにしてくれます。多分、多くの人が経験するように人の幸せが自分の幸せという瞬間が多かれ少なかれあるかと思うのです。彼らの場合、それを無意識のうちに放棄してしまっています。それだけでなくて、人に迷惑をかけたいという不幸せな気持ちを潜在的にため込んでしまうのです。
 私は人の良心というものがはたして全く完全に正しいものとしてあるものか、それを見定めることはできません。それは私の大きなテーマであって一朝一夕で解決できるような問題ではないからです。しかし、現実、多くの人は良心に従って生きることを幸せだと感じています。それは良心がみんなと同じことをしているから安心というような消極的な意味ではなくて、ある種の幸せの共有をしたいという積極的な意味からであると思うのです。倫理は政治によって変わってしまうというのは昨日少し触れました。両親も同様に時の為政者や時代の流れの影響を受けずにはいられません。しかし、その幾らかの良心は自然の原理に従っていると思われるともいいました。
 この意味では私は必ずしも良心に従うことは正しいと断言することはできません。なぜならば、そこに大きな欺瞞が隠されていないとも限らないからです。しかし、もし、そうするならば、それは深い考察を経て行われるべきことです。自分中心にして、不義をはたらくべきではないのです。
 論理の展開がなくて、押しつけになってしまいましたが、もう、私自身、この問題は簡単に論理を組み立てられるわけではないので、今回は承知の上で終わりにしたいと思います。

03.3.4

 ときどき、疑問になることがあります。それは些細なことなのですが、しかし、ひとつ考えておいて損はないと思うことなのです。私の机の上にはこのPCとフロッピーディスクドライブ、新書が数冊、大学で使う教科書、雑誌に住所録、歳時記に、その他には雑多な文房具や書きかけの原稿などです。左の本棚には各種の辞書や事典、資料集が十数冊あります。ついでになぜか熱帯魚の餌も。他にも多くの本や道具が私の部屋にはあふれています。しかし、この中で私が活用するべきものはいかほどあるのでしょう。レポートなどで基本的によく使う本は手近にあり、事実、よく活用されています。しかし、机の本棚には明らかに不必要なものが混じっています。新書の類がそれです。別に読みたいわけでもしいて読む必要があるわけでもないものが、静かにそこで私を見つめているのです。
 部屋中をひっくり返せば、不必要なものはおそらくごまんとでてくるかと思います。部屋に入って正面の棚の中身のいくらかは私自身、全く想像がつきません。稀に必要になるものもありましょうが、そもそも私が今、認知していないものは将来も不必要であることは間違いがありません。
 どうして、こうした不必要なものに囲まれてしまうのか。それは私にとっては不思議でならないことです。昨今、叫ばれているのは環境優先主義で、消費優先生活が問題視されてきていますが、実際は大量消費をしてしまいがちで、多くのものを人々は買い込みます。しかし、日本人の性質として、古いものも使い、ものを捨てられないというものがあり、それは実際に私たちの多くの中に今も息づいているというのもまた矛盾することのようですが事実であるかと思います。だから、私の疑問に論理的解答を導こうとするならば、消費するだけして、消費して、捨てる段階になって躊躇した末路が不必要なものの存在であるといえるかと思います。
 全く不合理だと思います。一貫していないから、ものがたまってどうしようもなくなるのです。合理的に考えれば、ものを置くということはそこにスペースを割くということですから、それだけ家屋の使用できるスペースが限られることになり、家屋の使用価値を下げることにつながります。家屋の維持費は変わりませんから、ものがあるほど家屋に対して無駄な出費をするということになります。ものがないことは家に住む人々にとってはむしろ豊かな生活であるといえます。もちろん、スペースを割くに値するべき道具はそろえてしかるべきですが、私たちはその論理に全く矛盾するように無駄なものをため込んでしまいます。
 一昔前、ものを捨てるための指南書のような本が出版されたかと思います。私はテレビか何かで紹介されたのをみただけなのでタイトルも作者も忘れてしまいましたが、確かにそういうものが合ったと思います。合理的に考えて、それは正しいことです。しかし、私はやはり着目すべきは何故、捨てられないなどということに固執するのかということよりもむしろ、何故、捨てられないのか、そのものであるかと思います。捨てられないのは捨てたくないからなりのです。それは単純で、それ故に力強い意識です。もともと、大方の日本人というのは、私は海外の人までそうと断言しかねますので、ものを大切にして、余計にものを必要としていないのです。倫理の上でもものを捨てることを罪悪とみなすそういう傾向があるのです。倫理というのは時の為政者によって故意に歪められることはありますが、そうでない限り、その生活に密着した自然の原理に従うものであることが多いのです。ものを捨てたくないという欲求は自然の原理に従うものであるといってよいでしょう。捨てないことは多くの利益をもっているからです。では、解決策はと考えれば、消費をしないことになってしまいます。経済が沈黙しようが、それは別の問題で、消費を可能な限り抑えたいと思うのは人間の欲求です。私はバブル期に贅沢をしたいと思った人々の消費へのあこがれを理解することもできますが、ものを捨てたくないというのも確かに真実であるのです。
 どうして、消費をしたがらないのかという理由を考えてみると、もちろん、金銭に見合う消費が得られないという事実もあるのでしょうが、他にもものを捨てたくないから、消費もしないという理屈も通じると思うのです。私たちは根本でものを大切にしたいのです。そのことを考えて消費というものを考えなければならないといえないでしょうか。そうすると、私も不必要なものがでないようにものを買うときには考えなくてはいけません。
 ……そうはいっても、私の場合、本とかになると構わずに衝動買いしてしまうのですが。

03.3.3

 私がお昼寝をしていると突然私は悪夢に襲われました。私はどうやら、私の愛車のシトロエンのサクソで多摩川の南側の地域を走っていたようなのですが、具体的にはよくわかりませんでした。ただ、どういうわけか夢の中で地図を確認したので、それと知っています。でも、私自身は多摩川の南側の地域を走ることは少ないので、地名も道も現実とは全く整合していませんでした。私は気持ちよく、ドライブを楽しんでいました。その途中誰かから、電話がかかってきました。多分、私は路肩に止めて、その電話を受けたのですが、その内容というのはとりとめのないねので、記憶には残っていませんでした。強いていえば、それに私の知人の誰かからの電話でそれは楽しい会話であった気がします。その電話を境に私の恐怖の始まりでした。また、ドライブを再開した私は目前の状況を疑いました。確かに私は日本の道路のルールに従って道の左側を走っていたはずなのに、大型のバスがこちらに逆送してくるのです。恐いものです。私は辛うじてかわしたのですが、その直後のもう一台の大型バスが後続に続いていて、私は勢いよく道から外れてしまいました。外れた先は立体交差になっていて、私はその上から下へとまるでハリウッド映画のワンシーンのように落下していったのです。そして、そのまま無傷で着地して恐怖に駆られて全速力で走るのでした。私はあたりの情景がものずこい勢いで変化するのとエンジン音から、本当に考えられないスピードを出していたと思われます。でも、恐怖から逃れられないで、走りつづれるのです。次に止まったのは警察の検問でした。スピード違反のチェックだと私は勘違いして、ひどい恐怖に駆られました。前の恐怖も後の恐怖もすべてが現実を超越した恐怖なのに、これだけは現実感があって、今思い返すと嫌になります。私はやはり、恐くて車を走らせました。それから奇妙なことに小道へ小道へと誘導させられました。丁寧に指定方向外進行禁止の標識が並んでいたのです。私は小道に追いやられ、ついにおそろしい急勾配、+45°くらいはあるのではないかというところで踏切で止められました。サイドブレーキを引いて坂道発進をするのですが、ロウで4000以上回しいてるのに、充分進めないのです。私はそれでとまってしまい、また、再度坂道発進に挑戦することになりました。その時、ルームミラーで後ろを確認するとタクシーが後続に控えていて、運転手の人がおそろしい形相で睨んでいたのを覚えています。私が踏切を越えると二股の道がありました。右か左の選択です。私は左に進みましたが、すぐに道が途絶えていて、進めなくなりました。住宅街に突っ込んでしまったのです。
 そのとき、私は何を思ったのか、車を降りて正面の家に入っていきました。玄関から、小学生の低学年くらいの女の子が元気な声で外に出ていきました。私はそれを家の影からみていました。私は家の側面にまわり、窓から部屋へと侵入しました。どうして、そんなことをしたのか全くわかりませんでした。部屋には生活感のあふれる様子がうかがえて、ふすまを隔ててとなりの部屋に続いていました。私はとなりの部屋へと進みました。そこには布団に中年の女性が眠っていました。私が部屋にはいると突然起きあがり、何かを罵っていきます。そのとき、耳鳴りが聞こえたのです。そのとき思いだしたのは、恐怖の前には必ず耳鳴りがしたということです。どんどんと耳鳴りは酷くなって、私は思わずはたと起きあがってしまいました。
 水槽から水の音が聞こえます。確かにそこは自分の部屋でした。そして、自分の家のはずでした。でも、耳鳴りが聞こえます。私は脱力してしまい、ふただび、ベッドに横たわると母が入ってきました。私が部屋で眠っているのを催促しに来たのです。しかし、顔が違います。さっきの中年の女性です。声はさっきと違い母の声なのですが、顔がそのままさっきの中年の女性なのです。母のような女性は私に近づいてきます。それと一緒にすべての部屋のものが近づいてきました。それは表現しようのない恐怖でした。私は「嵐の中で輝いて」の着信音が聞こえます。私は改めて起きあがることができたのです。つまり、先ほどの母のような女性は夢の続きだったのです。
 こんなふうに落ちもなく、教訓にもならない話をここまでつらつらと書いてしまったのは、この恐怖を誰かに知ってもらいたかったのです。私の表現力と実際に夢で体験したことでは私の味わった恐怖は伝わらない気がします。さらにいえば、明らかに実際の物事で感じる以上に怖がっていたという気がするのです。時折、いいしれぬ恐怖を味わうことはみなさんにはあるでしょうか。不合理な恐怖を感じてしまうことはないでしょうか。どうしてこんな風になったのかわからないけれども、これから車に乗らなくてはいけません。それは私にとっては恐怖の続きかもしれないと思うと足がすくむようです。恐怖というのは恐怖であるから恐怖なのだと、当たり前のことを実感してしまいました。教訓として挙げられるのはお昼寝は脳が通常の睡眠よりも活発に活動しているので、悪夢を見やすいので気をつけましょうということですか。もっとも、楽しい夢もこのお昼寝で見やすいので、一概に悪いとはいえませんが。
 最後に、メールで私を悪夢から解放してくれたアルスくんには感謝します。おかげで助かりました。

03.3.2

 最近、無性に小説が書きたくなって、構想に明け暮れています。過去、私は何度か小説を書こうと努力して、そのいずれも完成に至る前に破綻をしてしまい、良悪の判断以前に破棄され続けているので、今、ここでこうして構想する小説もおそらく日の目を見ることなどないのだと思います。そういえば、ゲーム化計画のシナリオ原稿も書いてはいるのですが、書いては破棄の繰り返しで、いっこうに前に進む気配をみせません。
 好きこそものの上手なれといいます。2ヶ月ほど前でしょうか、私が全く弾くことのできなかったフレーズが今では途中にぽろぽろと間違えながらもたどたどとでも弾けるようになってきているのに今日気づきました。ギターもドラムもそうですが、初心者の私には日進月歩で上手くなっていくのが実感できます。もっとも、それは既に上手に弾ける人にとっては拙いものに聞こえるでしょうが、事実、私の音楽はどれも拙いのですが、やはり進歩していることの証明なのです。その言葉は間違いではないはずなのです。
 私は小説を書くのが好きではないのでしょうか。多分、それは好きということができると思います。というのは私は嫌いなものは何においても嫌いで決して近くに寄ろうとはしない気質であるからです。では、私はどうして進歩もせずに毎回毎回破棄を続けているのでしょうか。それはきっと私の私に課す要求水準があまりにも高すぎるからであるからだと私は想像します。多分、私はピアノの前に座って、どうして今、「別れの曲」が弾けないのかと悩んでいるのと同じことであるかと思います。自分の限界のはるか上空を見上げて、どうして無理なのか理解できていないのです。私に弾けるのはせいぜい「ハッヘルベルのカノン」ぐらいです。それも光るナビゲート付きの玩具のキーボードについていた楽譜のそれを弾いて喜んでいる段階なので、もしかしたら正式のカノンは難しくて弾けないかもしれません。私には正式なカノンがピアノでどうなるのかも確信をもって知っているわけではありません。そもそもこの正式というのも何ともおかしいですが。脇道に逸れてしまいましたが、要は私は私の考えているような小説を各段階に到っていないということに気づいていないということです。
 確かに私は自分に豊富な語彙がないことも、言葉選びの鋭い感性がないことも知っています。何よりも小説がかけるほど充分に小説を読んでいるという自信もありません。小説を読んで即座に小説が書けるようになるとは思えませんが、また、それは公平にいっても無理なことですが、しかし、最低限の前提もクリアしていないことは自覚しているはずなのです。私はTRPGのマスターをやっているからといって、物語を考えられると勘違いして、それをすぐに小説を書く能力と誤解しているのだということに気づいているのです。もっとも、TRPGは物語を作る真の主体はプレイヤーにあるので、その意味でも誤解をしているといえるでしょう。
 多分、知らず知らずのうちにこうした誤解から失敗したことというのは人にはあるかと思います。また、そうでありたいと自己欺瞞に満足してしまいたくなることも大いにあるでしょう。しかし、本来、私たちは自分の現状を把握して、限界を知ることが大切なのです。もちろん、限界を見定めたからといって、その限界に満足することはありません。自分を偽らないで自分にとって適切なことをしてあげるのが真に自分を錬磨するもっとも易しく、もっとも早いやり方であるかと思うのです。私たちは努力次第で、その限界を少しずつ上に押し上げられることも知っているのです。しかし、無理難題をこなすことは不可能で、無理矢理こなそうとすると自分が潰れてしまうことは自分を飾ってしまうのに夢中で軽視してしまうのです。おそらく、直の自分を晒してしまうのは大変な不利なことであるかと思います。しかし、無理なことは無理だと認めてしまうことが必要なのです。多くの場合、それが今できないということは問題ではありません。もし、それが問題となるようならば、私たちはそれまでの努力を怠った結果であるという事実にもまた向き合わねばなりません。時には虚勢をはって、踏みとどまらなければならないこともあるでしょうが、しかし、それでも“I can do it”は本当にできることだけに限っていうべきなのです。何でもかんでもそんなことをいっていたら、口先だけと笑われるばかりでなく、自分自身も辛くなるでしょう。努力をしている限り、今、それができないことを認めて恥ずかしいことなどないはずなのです。
 さて、そういって、私はどうしましょう。書かねばならないシナリオがあります。書きたいお話があります。手段はひとつです。最善を尽くして努力することです。そして、自分の技術を偽らずに提出することです。そして、また、そうするのが私の義務でもあるのです。

03.2.28

 長年、アップせねばならないと考えていたエレナの師匠のカイをようやくアップすることができました。このキャラクターはもうまともに冒険をするようなキャラクターではないので、全く慣習を無視して作ることができます。そして、完成したカイのレベルは84でした。普段、私たちのTRPGではレベルは10にすら届かないパーティですから、この数値が如何に異常かがわかるかとおもいます。ブリーズの場合、あまりレベルと実際の強さというものは一致しないことが多く、レベルが高かったとしてもそれが必ずしも強さにつながるわけではありません。というのは、与えられた条件の中で強さに直結する技術を修得しない限り、強くはならないからです。カイもその道を歩いているキャラクターで、レベル85といえども、おそらく6、7人のレベル10以下のパーティと戦えばやられるかと思います。こう考えるとドラゴンクエストやファイナルファンタジーなど普通のRPGと比べてもレベルの形骸さがわかります。レベルに比例して増えるSPですが、レベル85の場合、2850ポイントSPがあるのですが、それをほとんど分配してもカイの戦闘能力はレベル10以下の集団には負けてしまうでしょう。ちなみに、レベル10の場合、使用できるSPは600です。もし、これがガープスのようなTRPGルールだとしたら、大体、この1:4の差はとても大きなものになります。どう考えても4の方が圧勝します。もちろん、それは戦術を用いれば絶対ということはあり得なくなりますが。しかし、正面から対決したときはおそらく、何人でよってたかっても勝てないと思います。もちろん、限度はあるでしょうが。
 何がいいたいかというと、ブリーズというのはどうしてか、いい加減なゲームのようで、結局、強かろうと弱かろうと、レベルが高かろうと低かろうと一緒になってしまうという恐いところがあるようです。
 そう、興味があれば、カイのステータスをみてみてください。自分で作ったルールの自分の作ったキャラクタへですが、本当に馬鹿みたいです。

03.2.26

 暇があるというのはときに幸いであります。何にも囚われず自由に本を読めるというのは人にとっての最高級の贅沢のひとつです。しかし、その中でも何にも囚われずに何かをするというのはやはり難しいものがあるようです。
 昨夜は眠れずに0時頃にお風呂に入ったのですが、そのときに暇つぶしの意味もあって、一冊の本を持ち込みました。その本というのは『ホンモノの文章力』(樋口裕一著、集英社)なのですが、これは主に受験小論文のテクニックという観点から、文章技術の上達を意図する本なのですが、読んでいて大体、50ページぐらいで一度目の忌避がはじまりました。というのも、書いてある内容がやはり、私にとっては馴染みのある内容であったからです。つまり、文章の論理展開の仕方であるとか、そういった方法論であったので、そういうことは一度は学校の授業で、あるいは塾の指導などで一通り習うものですから、今さら説明されても目新しいものが乏しくて飽きてきてしまうのです。もちろん、そうはいっても思わず、失念していた事柄に気づかされることはありましたが、しかし、それでも、それから結局、4時間も湯船に浸かりながら読んだ代償に比べれば、得られるものは少ないものでした。
 私の読んだ本はおそらく悪い本ではなかったかと思います。多分、受験テクニックを知らないか、あるいは知っていても実際の文章にいかしきれていない人にとっては有益であると思います。基本的に、この受験テクニックは日常的に私たちが書くレポートや小論文に応用が利くもので、受験生のための指南書というわけではないからです。詳しくは心持ち、乗り気になれないので避けますが、私も著者の意見には賛同するところもあって、方法論としては正しい方向を向いていると確信できるものです。ただ、私にとってはあまり有益ではなかったといえます。こういう本を読むときに読者と著者の気質や向かおうとする方向性というものは当然ながら、重要となってきます。私はもはや受験生でもなく、レポートを書くのに文章で苦労するということもありません。いや、これはレポートの一般的な型についての理解がそれを支えるもので、ここでは著者のいうテクニックが欠如していることによる苦労というものです。本来の私はレポートに書く内容を探すのに苦労しています。つまり、著者の説くべきところは文章の書き方であって、私はそれは既知のことだったのです。
 問題は私にはこの本が何を意図して書かれたものかを見極めるが欠如していたということなのです。私はもっと感性の豊かな情緒的な文章を書くことを目指していたのですが、私はそうした記述がいずれ後になればでてくると期待して、結局終いまで、その期待に適うような話はされなかったのです。多分、私のこの日記を読む人はお気づきでしょうが、私の書く文章というのはどちらかというと論文的で、何か真面目な雰囲気が漂っているかと思います。論理的でなくて支離滅裂なのはもともと私の頭の回転が悪くていのに、この日記がきちんとした青写真が描かれないまま思いつきで書かれているという証拠なのですが、それを差し引いてしまっても、やはり、私の話には面白みというものがなくてしかも固いというのがもっぱらの評価です。そこで、せっかく、こうした文体から脱却して、より情緒的な感性を刺激できるような洗練された文章を書きたいと思っている私が読んだのは、論理構造が……という話で、全く私の目的とそぐわないものだったのです。50ページ以降も何度もこのまま手に持った本を湯船に沈めて、本としてのアイデンティティを崩壊させてやろうかと思っていました。それができなかったのは私が非常な臆病だったからです。
 自分の目的にあった本を探すのは非常に困難なことではありますが、しかし、きっとどこかにあるはずなのです。だから、とりあえず、次を探すのは面倒だということで、手近な本に身を委ねてしまうのです。手持ちの本に期待ができないようならば、本来はそれを放棄する勇気というものが必要であったのです。その本が良書であるかどうかは実は問題ではなくて、結局、本の価値というものは自分にとって必要なものであるかであって、それが優れているか否かは二次的な問題でなのです。
 ところで、私は今日、それを反省して新たにきっと私の期待に応えてくれるだろうと思われる本を幾らか買って、新たに私の知識の探求を続けることとなるのですが、それは大きな回り道をしたといえるでしょう。本を読むのには必ず有益なものがあって、それは長期的には回り道ではないという指摘はあるでしょうが、それでも、単純に私の怠惰な心が産んだ大きな回り道です。今回は対象が本であったので、それほど大きな痛手を被りませんでしたが、別のことですと、やはり、回り道は大きな痛手となりうることがあります。何が回り道になるのか、ここでは簡単に触れると試行錯誤しているという段階は決して無駄ではないといえるでしょう。そこから得られる糧は実際以上に大きなものです。しかし、試行錯誤という知的な取捨選択を放棄して行った行動というのは大概、失敗すると回り道となります。

03.2.24

 ものの比喩ではなく、今日は何もしない1日でした。人間にとって、暖かな部屋が与えられて、することもなくただぼうっとしていることは、あるいは何も生産的なことをしないで、時間を空費することは最大の罪のようにも思われます。そうした時間の浪費はこうした機会にしかできないというふうに考えれば、贅沢な時間を過ごしているようにも感じられなくはないですが、しかし、やはりせっかくのこの1日を何もしないで過ごすというのはもったいなくも感じます。というのは、私は別に昨日、肉体や精神に耐え難い疲労を背負わせた記憶もなく、今日という日は強いて何もしないで休ませるべき日ではなかったのです。こうしたぐうたらを1日してしまうと翌日から何となく気力というものが失われます。何にも関心が持てずに徒に時間の流れるままにまかせて日が沈んでいきます。気力というのは不思議なもので、過酷な状況においても消耗しますが、全く解放された制約のない状況においても消耗していくのです。
 そういえば、筋肉やその他の身体の諸器官はその個体の生活環境によってその能力を変えていきます。大きな能力をもった器官を維持するためには多くのエネルギーが必要となります。そのために使わない器官にエネルギーを使うことは単に浪費であるので、使わなければ使わないほど、器官の能力は小さくなっていきます。前回の話でも出てきた資本主義社会における企業のリストラと同様の原理であるといってよいでしょう。そうしたことが精神においてもいえるような気が漠然としないでしょうか。何か近日中にやらねばならないことが多くあると、可能な限り効率的にそして活発に活動を行えるのに、何もなければ何もないで何もしない、むしろしたくないと思ってしまうようなそういう傾向がないでしょうか。多分、気力も無駄に使うのはもったいないとでも身体の中では判断されて、自然と使える気力が配分されているのかと思います。
 しかしながら、人間どうしても多く活動して自分をより高いものにしていこうという欲求がありますし、また、実際、そうした人々の方が評価されます。だからといってもむやみやたらに苦境に立とうとしなくてもよいですし、精神をリラックスさせるのは大切なことです。きっと一番楽しいのはやはり適当であるということなのだと思います。適当な程度の気力を維持することがよいことだと思うのです。物事は常に中庸であることがよいということはやくいわれますが、リラックスというのも過度にしてしまうと苦痛である気がします。
 何か、話がハチャメチャですね。

03.2.22

 今日はJTBに春期ブリーズ旅行計画の宿泊プランの予約に行きました。
 さて、最近、消費が落ち込み、やれ不況だ、デフレスパイラルだと騒がれているご時世です。実際のところ、確かに不況であるともいえますし、また、デフレの深刻化がさらなる問題につながるという懸念もおそらくは正しいものであると思います。私には経済学の知識はありませんから、学術的な裏付けはできないのですが、しかし、感覚としては私たち日本人はニーズに従っていくという生き方を改めて新たなる段階に到達したといえるでしょう。というのは家電の三種の神器はもはや各家庭に配備されているのが普通ですし、とりたてて欲しいものがなくなっているというのが現状です。必要なものとは何だろうと考えて、そう思いつくものは少ないものです。私の場合、必要なもの、それは愛だと即答しますが、別に愛は市場にはないので、金銭を対価に得られるものではありませんし、そうしたもので得られたとしても虚しいだけです。というような精神的なことを抜きにして、何か欲しいものということになれば、私は“ドゥカティ”のバイクということになります。おそらく多くの人がこうした欲求をもっていることとは思うのですが、そこにはある特徴が伺えると思います。欲しいもの=必要なものという方程式が成立していないということです。当然のことですが、ニーズ(needs)はニード(need)の複数形で、その第一義は「(差し迫った)必要性,理由」(『ジーニアス中英和』大修館書院)で、あくまでも必要を中核とする言葉です。事実、高度経済成長期の私たちの消費の形態は生活を豊かにする上で必要なものを買っていくことで幸せになろうとする時代でした。テレビ冷蔵庫、洗濯機、エアコン……があれば幸せ、それが私たちを駆動したものでした。しかし、今、私たちはそうした誰もが駆り立てられた消費の誘惑をどう感じるでしょうか。そうしたものは家に転がっているから、別段、必要ではなくて、精々その家電製品が壊れたり、何かしたりしてから、それではちょっと新しいものでも買おうかと思案を始めるのが普通です。部類のテレビ収集マニアでもない限り、そんな人がいるとは思えませんが、最新型のテレビの宣伝がコマーシャルで流れたとしても、科学技術の発展を思う程度で、即座に購買心をかき立てられるようなことはありません。理由は単純でそれは必要のないものだからです。最近の好例は“ITバブル”です。IT関連の商品が飛ぶように売れたのはITがまさに人々のニーズをかき立てたからであり、世界がそれを要求したからに他なりません。PCが家電製品と同じように万民に必要なものとして認識された結果です。しかし、そうして必要とした人々で、それを購入する余裕のある人はみんな買ってしまい、結局、消費が頭打ちとなり、バブルは終わるのです。そして、自然な形でIT不況は訪れたのです。不況の構造は単純です。
 さて、消費者に必要なものがないということは生産者にとっては致命的な問題です。心血を注いで優れた機器を開発したとしても、それを求める人口が少なければ、利益は少なくなります。利益が少なければ、その分投資額も少なくなり、開発は困難になります。そして、開発が困難な状況では経済自体が停滞し……とここで、経済的な論理をかじった程度の私が詳しく話をするのははばかれますので、掻い摘むと経済の構造自体が基本的に消費者のニーズに依存していて、それなしでは成立しないというものであるからです。そして、多くの企業が転換期に差し掛かっています。ニーズの現象に伴い、そのニーズの許容量にあった規模に会社自体を縮小していくのです。つまり、リストラの風が世間を吹き荒れるようになるのです。
 では、どうしたら、私たちは健全な経済状態へと立ち戻ることができるのでしょうか。その答えは多分、ありません。それは分からないというわけではなくて、もはや立ち戻るという選択肢を私たちが選択できない自体へときているからです。前の社会は消費至上主義の世の中です。つまり、私たちが目を血走らせて消費に走れば経済は回復するでしょう。もちろん、以前のように必要なものですらないのですから、そこには必要だという強い自己暗示を用いるか、ある種のコマーシャルはこの路線を採用していますが、あるいは経済のためと思って、買ってきた商品をそのまま廃棄処分する生活にコミットするほかありません。しかし、いずれの方法でも、私たちは自由な意思と世界の生命を犠牲にしなくてはなりません。しかも、幸せになったつもり、生活が豊かになったつもりになるだけで、実際には何ら嬉しいことはありません。むしろ、経済という人の造り出した幻惑の支配者に身を委ねることに過ぎません。説明は当たり前のことなので割愛しましょう。理解に苦しむような人がいたならば別の機会にでもお答えします。
 戻ることができないならば、前に進むしかありません。健全な経済はニーズに固執することなく新たな市場を獲得することが必要となってくるのです。つまり、人々のニーズに代わるウォント(want)に注目していくことです。この試みは既に多くの企業が試みています。そして、消費者のウォントをつかんだ商品はヒットするのです。“ユニクロ”という企業が大きな収益をあげたのは安いからという理由だけではなくて、いろんな色をそろえたさまざまな服を売ったという点にあるかと思います。もっとも、ユニクロに足を運んだことのない私はそう思っているだけの話ですが。
 キーワードは個性なのです。自分が欲しいもの、自分が共感できるものにお金を使うようになってきたのが、今の時代の潮流なのです。デフレーションのご時世だから安いものならば売れるなどというのはおそらくは錯覚で、そう思っているのは多分、大きな間違いでもしそれが企業の指導的な立場にある人間だったならば明日はないでしょう。“マクドナルド”の格安バーガーは価格を下げても売れなくなったそうです。それはそのハンバーガーが高かったからではありません。安くても、食べたくないから食べないのです。人がマクドナルドを食べたいと思う瞬間はきっと、あのアメリカ風のジャンクらしさに恋したときで、価格は関係ないのです。正直なところ、私は“マクドナルド”のハンバーガーはそれほど好きではありません。ビッグマックはどういうわけか好きですが、食べるのは時間の差し迫ったときか、付き合いのときか、あるいはジャンクに恋したときだけです。ハンバーガーが食べたくなったら、もっと美味しい“モスバーガー”を探します。そういうわけで、人々の消費を駆動するものは何々に対する思いのような精神的なものに移ってきました。もの選びの基準は自分にあったものです。私は“デル(DELL)”のPCを愛用しています。性能のよさとコストパフォーマンスという点もありますが、このノートブックの形が気に入ったというPCとは別の次元の理由によります。私がコストパフォーマンスという点を挙げたのは安いからよいというのではなくて、PCに無駄に資金を使う必要はないという私の信条もあるからです。さて、そのように私の愛用するデルですが、私の友人はデルだけは買うまいとしています。それはデルの会社のエピソードが理由になっています。そのエピソードは紹介しませんが、このエピソードで選択するというのは1つのものの判断基準です。話は少しずれますが、私は読売は嫌いです。理由は大方の巨人嫌いと同じで、あの不躾な運営姿勢です。このように選ぶ基準は時にデザインであったり、企業の経営姿勢であったりですが、共通するのは“いいなあ”と思うその気持ちで買い、“いやだなあ”という気持ちで避けるという基本的な姿勢です。
  さらにいうと、冒頭で述べた私の欲しいものであるバイクとデジカメですが、実際、私には必要ありません。なぜならば、私にはほとんど自由に使える“シトロエン”のサクソ(SAXO)があります。これは私の好みにもあっていて、その走りに私は大変満足しています。燃費が悪いのがちょっと困りものですが。しかし、まあ何といいますか、バイクという走り方、そして、ドゥカティの美しさやメカニックを見ていると欲しくなります。必要ないけれども欲しい、きっといいものに違いないという思いが消費の駆動になるのです。
 個性が重視された経済の中で、必要とされることは安さでも便利さでもありません。もちろん、それを備えているのは当然なのですが、それ以上に、人々のウォントを的確に読みとる感性と、人に嫌われない清廉潔白な印象です。前者は当然の発想です。ウォントを引き出して、相手に認めてもらえる商品を開発するのは商品を売るものにとってはもっとも必要なことです。そして、人は嫌いな人とは取り引きしたくないものです。そういう人との取引の後は何か嫌な気分にさせられます。それではよい商品があったとしても買いたがらないのが、人情です。もし、買わなければ生活が成立しないのであれば、それはきっと拷問のようなもので、次第にその苦痛に耐えるために割り切ってしまい代わりに消費者が人の心を失います。生産者にとってはそれはしてやったりですが、現実、そのような場面は少ないので、そけこそ世界中みんな悪くなってしまわないといけないでしょう。それは無理な話です。
 さて、冒頭の一行に戻ることができました。私は今日、JTBへ行きました。そこで私は旅行に関する様々な情報を提供してもらうことができました。そこでの印象は接客の姿勢がよく、私の質問にも迅速に答えてくれました。私は学生の小僧で、大した紳士ではありません。使う言葉も時に若さが出てしまい恥ずかしく思うようなそういう粗野な人間です。しかし、相手の対応は非常に真摯で丁寧でした。二度行って、二度ともよい対応を受けられたということは社員の人柄、会社の雰囲気がよいのか、あるいは社員への教育が徹底されているかはわかりませんが、とにかく、好感が持てるのです。そういう店に出会うと人は気持ちよくなりますから、次回もとリピーターとなります。
 逆に私は“ビックカメラ”へはあまり行きません。行ったとしても、必要なもの、まさに必要だと感じるものをさっさと品定めして帰ってしまいます。なぜならば、私の印象では“ビックカメラ”の接客の質は決して高くありません。量販店の人間特有の個性なのかとも考えられるのですが、どうも表面的で、形式的で好きになれません。私にとっては人間的でなくて紳士でないように思えるのです。こういう場合、もう、必要のための買い物で、滞在時間数分で何か企業の利益に貢献してしまうのが釈然としなくなります。結果として、用がなければ立ち入りません。ついでに読売を応援する姿勢も嫌いです。
 商品は売るのに大切なのは思想であり、配慮であり、人間的な印象のよさにあるのです。いかに人間的で相手とのコミニュケーションをとるか、いかによい人間関係を気づくことができるかが、ポイントになってくるのです。お互いが認め合うことが大切になってくるのです。経済の何かをあらわす指数のポイントが正義ではないのです。
 当然、こうした関係を気づくためにはこちらも紳士でなくてはなりません。相手にその気すらない暴漢ですと、相手が紳士だったとき、大変な苦痛を強いることになります。結果として、彼らは精神を病み割り切ってしまい人間らしさを失い、私たちは彼ら紳士と巡り会う機会を自ら減らしてしまうのです。経済問題は人々の精神的な成熟と意識の変化が解決の糸口となるといってよいでしょう。 
 もちろん、私は哲学科の学生ですから、私の話など耳を貸さずにいてくれてよいでしょう。何しろ、私は紳士になりきれない子どもですから、こうして論ずるのは生意気でしょうからね。

03.2.21

 今日は東京寿電波のminoさんのところへお邪魔しました。特に用という用があったというわけではないのですが、彼が余暇であるとのことなので、おしゃべりに行きました。とりとめのない馬鹿話をして、“連邦vsジオン”をしていました。そこで、私の常套はああどうして、こうしている時間が幸せだろうと云ってしまうのですが、今回はそうした話はしないで、最後に戯れに始めた“三国志”の話をしましょう。“三国志”とはKoeiの戦略シミュレーションゲームですが、今日やったのは新たにキャラクターを登録して、新勢力として1つの勢力として、三国志の世界に参戦できるというものでした。そこで、私たちは折角ですから、ブリーズのメンバーを新勢力にして、戦いをしようということになりました。そこで、私たちの王女さまであるフィア姫を君主、エレナとして、キール、デプレ、アルス、セリス、ティシア、ティルダの家臣を引き連れて、成都を地盤にして、いざ、開始です。最初の2ヶ月間、私はminoさんに師事して、オーソドックスに国政をまとめていましたが、3ヶ月目、はやくもフィア嬢の精神は限界に達しました。
 「はぁ、こうして国政などで暇をもてあましたまま過ごすのは性に合わない。少し運動でもしてこようか」
 と、思い立たれて、3ヶ月目は軍事増強をして4ヶ月目には南方に侵攻を開始していました。5ヶ月目、ついに一国の主と矛を交えることになりました。相手との戦力差は2倍でしたが、運良く勝利を収めました。気をよくしたフィア姫はそれから、北方の敵を討つべく、征服国から物資をかき集めて、毎月どこかの地区へと侵攻しています。そうして数ヶ月して、また新たな国に侵攻しました。今度は強い武将がいる国とのことで、かなり苦戦を強いられましたが、しかし、ブリーズでもやはり戦闘組であるキール、デプレ、アルスの通称、三馬鹿トリオの圧倒的な武力によって、やはり、圧倒的な戦力差のある戦局を打開して、勝利を収めました。
 しかし、ブリーズのメンバーが武将となると、雰囲気が変わるとのそうです。実際に、私も三国志をやっているような気分にはなれませんでした。むしろ、単に殺戮を楽しんでいる、そんな感じでした。けれども、やっていて各武将がブリーズキャラクターの個性を上手く担ってくれて馬鹿馬鹿しくて非常に面白かったです。
 これから、私はこれを持ち帰って、フィア姫のバリューノ王国の樹立にむけて頑張ります。

03.2.18

 ゼミ飲みにいって参りました。今はゼミ飲みから帰って一眠りして、酒の酔いも幾らか、というよりはずいぶん醒めた状態です。ゼミ飲みに行くとやはり、どういうわけかいわれるひとことがあります。今日はこれでした。「女の子にもてるでしょう」。たとえば、プライベートの話になって、私が彼女が欲しいのを知った女性たちの常套文句は「すぐに彼女ができるわよ」で、そんなものかと思ったり、では、彼氏にどうですかと溜息混じりの回答をするのですが、今回は何の前振りもなくのっけからいわれたのです。即応してもてないことを断言することは若干、寂しいものがありますが、それが私の現状から事実であることには違いないので、答えざるを得ません。今回、そういってくれたのは私のゼミの担当教員だったのですが、どうしてそういってくるのか私にはその真意がどうにも理解できません。強いてそういうことをいうべき状況ではありませんでしたし、お世辞にするのならば、別に私に限定していうことはないのですから、私はもてるのではないかと誤解をしかねなくなってしまいます。まあ、そう誤解してしまってもよいのですが、やはり、そうして天狗になるのは私の本意ではありませんので、自戒をします。
 もっとも、その飲みで自戒を無視したことも1つしてしまったのです。その飲みの会費は最終的に3000円だったのですが、今振り返って、自分の飲んだ酒代だけでも少なくとも4700円は飲んでいて、お通しやその他の食べ物の代金も考えると確実に6000円を超過しています。割り勘というのは恐ろしいもので、愚者たる私は飲みに集まった人々は無駄な出費を強いることになるのです。さらに、先生はこの3000円以上に支払いをしているはずですから、それを思うとみなさんごちそうさまでしたといいたくなってしまいます。いや、いって当然の所業といえましょうか。でも、大丈夫です。何が大丈夫かといえば、すべてのオーダーをどさくさに紛れて行っているために、きっと私がそこまで飲んだなどということは誰も気づいていないはずです。ちょうど、そのゼミ飲みでは私よりも有名な飲み師が、なんてネーミングセンスだろうと私自身思いますが、いたのでそれが隠れ蓑になって私は明らかに飲んでないものと思われているに違いありません。
 しかし、何にせよ、飲み会というものは有意義です。楽しくも興味深い話が聞けますし、支払いは割り勘で、飲んでもそんなに手痛い出費にはなりません。集まる人間の雰囲気がよければ、そこは幸せな空間になります。

03.2.17

 今日、ついに最後のレポートを書き終えました。これで、もう私を束縛するものは何もないかと思うと晴れやかな気分で、きっと刑期を終えた囚人が塀の外に出るときもこのような気持ちになるのであろうという気分です。しかし、私は何をどう間違ったのか、2000字かけばよいレポートに4113字も書いてしまいました。一応、要求された条件は2000字以上なので、その条件に違反しているわけではないので、別にこれといって自分自身が困るようなことはないのですが、それでも、何か損をしたような、しかしして、してやったりという複雑な気分です。倍も書いてしまうという経験は実はこのかた初めての体験です。普段は規定文字数を満たすことを目標に書いていたのに最近、提出したレポートは同様の心持ちで書いているのに、手が止まらなく、正確には話がまとまらず、足りなくなって書かずにはいられない状況に陥ってしまうのです。実は昨日、個人レポートとしては最長の5349字を達成して喜んでいたのですが、今日は必要文字数の2倍以上という新たな記録をうち立てることに成功して、また嬉しく思います。実は私の最長レポートは昨年の夏休みにグループレポートをまとめた、グループレポートなどといいながら、このレポートを書いたのは殆ど私ですが、17092文字が最高です。つくづく思うのですが、私たち学生がどう努力したところで、興味深いレポートなどというものはそうあるものではなくてその多くは評価するだけに読むという教授にとってはくだらないレポートが多くなると思うので、こうして文字数を重ねたものを提出するのはやはり迷惑なのではと思ってしまうことも多々あります。2倍も書かれては読む時間が単純に2倍かかるわけですし、神経を使う時間も2倍です。そう心配はしても、本当に教授が読んでくれてはいないのならば、そんな心配は無用でよいのですが、おそらく私の提出したレポートは教授が読んでくれているものと信頼できる教授なので、やはり心配してしまいます。5349字というと、大体、13分はかかる計算になります。哲学の哲の字もわからないような学生のレポートを、一応私は哲学科なものですから、10分以上も読むのはきっと苦痛以外の何ものでもないと思います。ましてや、17092文字ともなれば、大体42分は読むのにかかります。多分、グループレポートの中でも桁違いの情報量で提出したであろうその42分のレポートは教授の精神に強い衝撃を与えたに違いありません。20枚程度の分厚いレポートはワープロで書かれた無機質な文字で容赦なく突きつけられます。まあ、教授にとっては給与内の職務ですから、文句は云えないでしょうが。いや、しかし、してやったりです。
 しかし、不満なのは、大概の授業の場合、学生が精魂込めて満足いくレポートを書いても、教授はそれに無機質な100点満点換算された数値を示してくれるだけで、余白に赤ペンで何かしらのコメントをつけてそのレポートを返却してはくれないのです。これではせっかくやる気のあるテーマでほくそ笑みながらレポートを書いても、気分が萎えてしまいます。一行ぐらいのコメントを書く手間ぐらい、すべての教授が実行しても罰は当たらないと思うのですけれどもね。
 さて、これでは、まるで私が真面目に勉学に励んでいるように聞こえてしまいますが、決してそのようなことはありません。基本的に私は嫌いなことは最低限の労力で回避する質ですから、提出したレポートのいくらかはそんなに真剣には書いてはいません。

03.2.16

 大学生になって思ったことは、何をいまさらになってこのような書き出しをするかという追及はしなくてよいですが、遊び方が不健全になっていったということです。飲んで飲んで飲まれて飲んで、あるいはオールで何かをしたりと、小学生の頃の5時には帰路を急いで駆けていた時分を思いだすと、どうにもその大きな差異には自分の愚かさを思い知らされてしまいます。しかし、私が思うに、人間生きていく上で一番大切なのはきっと遊ぶことで、不健全な遊び方も非常に大切な要素であるに違いないと思っています。何故、遊びが大切かといえば、私自身、遊ぶのが下手で理想的な遊びへの羨望が混じっているからというのもありますが、結局、遊ぶにはそれを共にする仲間が必要で、何にしろその仲間を獲得せねばならないからです。仲間と爽快な笑みをたたえあえたならば、それは人の最高級の喜びの1つであるように思えます。しかし、遊ぶのは実は結構、難しいことであるのです。たとえば、型通りに飲みにいって、煽りを交えて一気のみをしてみても、遊園地に行って一通りのアトラクションに乗ってみても、それは真の意味で遊んでいるとはいえないのです。それは確かに遊びの形式なのですが、遊びの本質ではないと思うのです。私の考える遊びの本質というのはやはり創造性と相互性を含んだ遊びでなくてはならないのです。ただ飲んでいるだけでは、ただ乗っているだけでは、ただ歌っているだけでは遊びではないのです。そこに、創造的で、あるいは友人との相互的な感動を伴わねば遊びは完成しないと私は考えます。やはり、人として生まれたからには欲望を満足せねばなりません。きっと、楽しめる人が楽しまないのは罪なことです。肉体を満足させても、一過のものであまり有益にはなりません。宿でマッサージをしてもらったら、きっと贅沢な幸せですが、それまでです。気持ちよかっただけで後に残るのは金銭の請求だけです。むしろ、友人の話に感銘を受けたり、そのユーモアに笑っている方が、遊びの形としては理想型に近いと思うのです。
 さて、戯れに書いてしまいましたが、よく考えれば、別に遊ぶのならば、友人は必ずしも要りませんでしたね。きっとギターの練習をしている私も満足して遊んでいる状態ではあるかと思います。とすると、結局、遊ぶというのは自分の心を満足させることに帰着するのでしょうか。おそらく、そうであるのでしょう。でも、自分を満足させるというのは非常に難しくて、知らず知らずに自分はこれで満足している、これは面白いことであるから、これをしている私は面白がっているに違いないという推測で、満足してしまうことが多いかと思います。そういえば、少し前の電車の中吊り広告でみたキャッチフレーズなのですが、“真面目な遊び人”というものがありました。正確に覚えていないのですが確かそのような感じであったかと思います。やはり、遊ぶのは真剣に心の底からしなくてはなりません。遊んだ気になってしまうだけでは結局、何も残らずに終わってしまいます。

03.2.15

 あとレポート1つ、今日漸くレポートを1つ書き上げて、残り1つとなりました。こんな日にちまでレポートを背負い込んでしまうと、今ひとつ春休みという気分がでないもので、読みたい本もどうにも気がそぞろになってしまい読めずに埃がかかってしまう始末です。さて、今期の私の研究テーマはどういうわけか、「性」ということになりました。別にこれは「ザカ」と読み、人間のどうしてもそうせざるを得ないというような心理の研究をしたというような格好のよいものではなくて、「セイ」と読み、おおよそセクシャルな方面の研究をすることになりました。それもこれも、演習形式の授業で課題となったテーマが、大杉栄の『羞恥と貞操』、“従軍慰安婦問題”、“生徒のモラルのこれから”というものであったので、どうにも性がらみの話ばかりをすることになったのです。“生徒のモラルのこれから”というのは教育課程の授業の課題で、生徒の性的に解放された現状に対していかに対処するべきかを問題としたものです。
 私生活において、失恋をして、とりあえず、性や女性、愛などという言葉を敬遠したく思っていた時期も容赦なく、もはやこれはセクハラなのではと思うような本を読破せざるを得ない状況は新手の拷問を受けているかのようにも感じられました。どうでもよいのですが、そうして性にまつわる本を読んでいくと、否応なしにセックスをしてみたいという欲求に駆り立てられます。正直なところ、私はセックスなどよりも女性から愛されることの方が希望なので、セックスせねばという強迫観念のようなものに囚われるなどということはないのですが、性やセックスの論理的な意味に関する記述などを読んでいくうちに、ここは1つ、肉体だけのセックスと愛に満たされたセックスのどちらも体験したいという欲求が芽生えます。それは何か私自身が一昔前の学生が哲学的な恋愛論を読みふけり、その構造を解き明かそうと試みているようなその様に重なっていくようで、恐いのと、やはり、論理ばかりではやはり机上の空論として実効的なものとはならないという鉄則がこれにも適用されていそうで、自分の知識を確かなものとするためにもここは1つ体験をしたいものだと願ってしまうのです。セックスが如何なるものか。悲しくもある程度、説明できてしまうのが虚しいのです。しかし、ここで大きな問題は私の感覚はどちらかといえば女性的で、女性が処女を大切にするのと同様に私もどうもこの童貞を大切に思ってしまう傾向があるのです。自然なことなのかもしれませんが、いや、厳密にいうと、それを自然なものとみなすかどうかは議論を経ねばならない問題ではあるのですが、ここでは割愛して、やはり、初めては好きな人と、それも私が本当に好きになった人にと思ってしまいます。そういうこととなると私のこの知的な欲望を達成させるには遠い道程であると、思わずにはいられません。ほんの数ヶ月前ならば、いざしらず、今は失恋してしまって、次の恋を見つけるにも、この恋を現状から覆して成就させるにしても、非常に長い期間を要します。私は人を騙すのは苦手ですし、基本的に策略をめぐらすのは盤上のゲーム以外では下手であります。その私が恋人を易々と得ることは困難ですし、万が一そのような事態となっても、何よりも、自分の心は騙せません。それでは結局、話は容易に解決しないという方向で決着せざるを得なくなります。
 まあ、でも、セックスしたいのは真実です。別に快楽が欲しいわけではないのですが、やはり、男性にとってのセックスの意味を考えるとそれは甘美な果実を思わせます。その意味というのは実に簡単です。セックスは愛し愛されの究極的な表現だそうです。私もそんな気がします。でも、実体験がないので断定はできませんが。しかし、私はどうにもこの愛し愛されを求めているのです。そうあるのならば、それは自然な希望であるといえるでしょう。でも、私としては愛されている実感さえ得られれば、セックスなどどうでもよいと思うのが、実は本心かもしれませんが。
 ……いや、本当に最近はこんな話ばかりですね。“東京寿電波”の日記に倣って、恋愛渇望度「□□□」などと表示してしまってもよいかもしれませんね。

03.2.14

 今日がバレンタインであることをつい一週間前に友人に云われるまでは失念していた私の今日はやはり、そうした状況に相応しい1日でした。何故か汚れたお風呂の全体の掃除を1時間強ほどかけてして、それから、既に日課となったギターとドラムの練習をして、特に嬉しいこともなく、日が暮れて、やはり女性の声を聞くこともなく、部屋で期日の迫ったレポートの文章を推敲しているうちに終わっていくのでした。
 とりあえず今年は11日のブリーズのセッションで女性のメンバーから義理のチョコレートをもらえたので、ひとまずは満足しようと思っても、やはり、心持ちはそうした妥協に屈することはできないような淋しさというものが募ってきます。思えばチョコレートをもらったのは数年来の出来事で、もらった当時としては非常に嬉しくて恋愛渇望症の私としてもずいぶんと幸せになれるものです。そう、義理だとわかっていても嬉しいものです。でも、まあ、やはりというべきか、この日記を読んでいらっしゃるみなさんには周知とこととなった私の恋愛病はそうした義理では私の心が満ち足りることのないことを無慈悲にも示してくれました。そういえば、12日、完全解散した後の私はメンバーの1人に送る半ばお決まりにもなったメールはその日も孤独を紛らわすものでした。物理的に凍えるような家路はそれを紛らわすメールが最適なのですが、そうしたことに加えても、独りとぼとぼ暗い夜道を歩き帰って、祭り後を片づけるのは私のか弱き神経では少しでも気を緩めれば涙してしまうようなそんな哀愁が漂う状況です。結局、私は人恋しくて仕方がないのだと思います。ブリーズのメンバーは私にとってかけがえのない大切なもので、その他にも友人は幾らかいるのにも関わらず、それでも自分の満足できるまでに人と付き合えないのは私が貪欲な所為なのかもしれないのですが、ひとえにこの恋人がいないことによるものかもしれません。
 実際問題、私は今のままでも充分幸せなのかもしれません。確かに恋人はいないかもしれませんが、友人がいます。人を大切にしたいという心もまたあります。しかし、どうしても不安に思うのは、その実感として愛されているという感覚がつかめないからなのかもしれません。きっと、友人は私のことを愛してくれているはずであるということは理性ではわかっているはずなのですが、やはり、それでも駄目なのです。「ああ、愛されているんだ」と思わず感嘆するようなそういう気持ちにはなれないのです。そうした心持ちになれる人というのはもしかしたならば、絶対的に少数なのではという懸念はあります。残念ながら、世の恋人同士がみんなそういう感情を共有しているのかどうか、実体験のない私には未知のことです。聞く限りにおいてはきっとそうなのだろうと思いますが。
 話がいくぶんか散雑になってしまいましたが、要はこういう愛の日というのは私の気分を憂鬱にさせてくれるということで、どうにも愉快な気分にはなれないということです。きっと今日、彼や彼女は恋人と集って愛を確かめ合っているに違いないと思うと、今こうして私が独りPCと向かって、この日記やレポートを黙々と書いているのは溜息無しではいられません。でも、きっと、こういうのは決して悪いことではないのではとは思います。確かに妙なプレッシャーが私の臓物を圧迫して、地球の重力がいつもの倍になったかのように全身が重苦しくなるのは事実ですが、私の心がまだ正常に、この状況から脱却したいと願い、そして、いずれ開けることができるであろう幸福の扉を夢見ているということを再確認する機会が得られることは幸いです。そのことが私に希望を抱かせます。その根拠がないのは少し憂うことですが、それでも、ひとまずはその希望だけで生きていられるもので、心の寿命はこの苦しみの中でも若干延びてくります。
 「愛し愛されたい」、その非常に簡潔な私の最大の目標をまた掲げていられます。

03.2.13

 大概、レンタルビデオなどを借りると観よう観ようと思いながら返却日が近づいてきて、結局、袋からも出さずに返してしまうことが多くなった私ですが、今日は借りてきたビデオを帰ってからすぐに見始めたので、そうした無念を未然に回避することができました。とはいっても、3本借りたうちの1本を見終えただけですが。
 そういうことで、私は以前から観たいと思っていた『羊たちの沈黙』を観ました。元精神科医の猟奇殺人者レクターとFBIの見習い捜査官クラリスのやり取りを描いたこの作品は、思わずのめり込んでしまいました。私はそれほどたくさんの映画を観たわけではないので、正当にこの作品を評価することはできないのかもしれませんが、この作品はなかなかというものでした。役者の演技がとてもよいと、特にレクターのキャラクターというものが興味深く、映画の世界に引き込む魅力があるかと思います。しかし、グロテスクなシーンというのは苦手なので、途中に出てくる皮膚を剥がされた女性の映像はどうにも受けつけがたいものがあるという単純な私の問題もありますが、それに加えて、ひとつひとつのシーンがよくつながっているのに折角の終盤のシーンがハリウッドお決まりのラストで興ざめです。続編の『ハンニバル』への伏線でもあるのかと予想もできますが、それにしてももう少し幻滅させない工夫が欲しかったところです。さらにいえば、皮を剥ぐ殺人者バッファロー・ビルの捜査段階にもっと緊迫感が与えられ、レクターとクラリスとの会話に緊密に関係していればよかったかと思います。それでも、なかなかよいものてあったかと思います。何といってもレクターのキャラクターは強烈で、非常に魅力的です。

03.2.12

 昨日はセッションのためにブリーズのメンバーで定例のTRPG会を開きました。定例とはいっても、大学の後期試験のために2ヵ月も間があいてしまったので、久しぶりの会でした。今回はブリーズバンドやブリーズメンバーで行く春休みの旅行計画についてなど、シナリオ以外にも多くのやることを抱えていて、かなり忙しいものとなりました。
 先ず、ブリーズバンドですが、幸いにも音楽をやるメンバーに恵まれていたことを再確認することができました。シナリオの前に少し練習をしたのですが、といっても私の技術では口を挟むこともできませんで傍観するだけでしたが、みんなとても上手くて思わずほくそ笑んでしまいます。そして、いつもながらここに初心者の私が混じってもよいものかと不安になってしまいました。しかし、おそらく私さえ足を引っ張らなければ成功するに違いないと期待に胸がふくらみます。いずれみなさんへの発表の機会があれば幸いです……随分、気の早い話ですが。
 シナリオはいつもの通りドタバタで、多分、みんな楽しめたのではないかと思います。それから、私たちはガストで夕食をとって、軽くお酒を飲みながら談笑をしました。やはり、遠方より来る朋友と話をすることは一番の幸せです。それから、1人抜けて残ったメンバーは繁華街まで1時間かけて深夜の暗い道程を楽しい会話と共に歩き、翌朝までカラオケボックスで歌い明かしました。さすがに内心、眠くて帰りたいなどと思いながらでしたが、どうにも魅力には負けてしまいます。ブリーズメンバーのカラオケは少し奇妙で、誰が1人で歌うというのは珍しくて、複数人で歌うのが常で、時にはメンバー全員で合唱してしまいます。合唱をするのは中学生以来のことですが、みんなの声が合わさるというのも悪くない感じです。しかし、みんなで歌える曲が何曲もあるというのが結構、不思議です。しかし、結局は歌う頻度が必然的に増えてしまうので、今日は喉が痛いです。思えば完全解散がなされたのは、招集から19時間ばかり経った翌朝でした。
 最後に、セッションを終えての感想ですが、私はこのメンバーで集まれるのがやはり、どうしてか一番の幸せの時であるということを自覚しています。何の気兼ねもない、もっとも、そう思っているのは私だけで実はメンバーに多大な迷惑をかけているのかもしれませんが、その疑惑は愛嬌と触れないことにして、正直な私が解放されるように思えます。一種の恍惚状態にあるといってもよいかもしれません。打算的な損得勘定というのは全くなされないで、思ったことを無遠慮に話してしまいます。女性メンバーに口頭で「(私には彼女がいないので)女の子、紹介してよう」と懇願したのはお酒が入っていていたとしても、今から思えば失態ではあります。絶対的に彼女には迷惑な要求ですし、仮に了承されたとしてそうした迷惑を無遠慮にかけてしまうのは心苦しいことです。まあ、私が後で惨めに思うのは、それは自業自得なので、構わないのですが。とにかく何がいいたいのかといえば、私が恋人が欲しくてそこまで堕ちたということではなくて、彼らといる時は何の打算もなくありのままに振る舞えるということです。そして、このような関係というのはなかなか心地よいものであるということです。

03.2.10

 この風邪はどうも私と相性がよいらしく、未だに私の身体を宿主にして快適な生活をしているようで、いまもまだこうして喉のあたりに妙な抵抗を感じています。内蔵の働きも優れないで、生きる気力というものがなかなか出てきません。生活自体はもう通常通り行っていて、今日もゆるりとのどかな昼下がりを楽しんでいました。
 そういえば、今日は部屋の片づけをしました。不思議といくら片づけても知らない間に一定程度の汚さに保たれてしまう私の部屋なのですが、片づけるのは一筋縄ではいきません。何故か不思議と書類の山が形成されるデスクに本が山積するベッドまわりどうしてかはわからないのですが、気づくと山の頂は高くなっています。
 しかし、さらに不思議だったことはその乱雑な山の中から未開封のお年玉や成人の祝い金が混じっていたことでした。やはり、こうしたものは人の気持ちのこもったものですから、きちんと管理せねばと私の粗雑さを反省する限りです。最後に自己弁護をしておきますが、まあ、そうはいっても私はそんなに部屋を汚す質の人間ではないのですよ。そう、そして、明日TRPG会があるからということで部屋を片づけているわけでもないのですからね。

03.2.4

 気がつけば、今日は誕生日で、ついに20歳となりました。それで特に何が変わったということもありませんが、やはり、まだ風邪が抜けきってもいないので、これからは大手を振ってお酒を飲めると思ってみても、飲む気にもなれないというどうにも嬉しくない状況です。むしろ、昨日まで19歳の坊やと威張っていたのに、これからは20歳以降のおじさんの仲間入りをしてしまうかと思うと、少し憂鬱になります。
 先月の成人式から理解するところのことですが、年齢によって子どもと大人の差別化ができません。昨日と今日の私の差は事実何一つだってないからです。まあ、でも、そうはいっても子どもを気取っているわけにもいかないので、一つ、この日に相応しいような決意でも述べようかと思います。その決意というのは、自分のしたいことをしようということです。特に変哲もありませんが、やはり、この信念こそ大人のもつべきものであるかと思います。そう、子どもはしたいように生きられないのです。それは何故かというと、やはり、経験と知識が絶対的に不足していて、それに伴い感情も不足します。それでは自分の道を見定めてゆくことなどできはしないのです。もし、そうであると確信しているのならば、それはその子どもが既に大人と同列の精神をもっているか、あるいはある物事に盲従しているかのどちらかです。感情や感性といった、感受性というものは年と共に減退するということはありません。むしろ、経験や知識によって、それは豊かになっていくといえるでしょう。もし、大人が感受性を失っているように見えたのならば、それはきっと別の要因によって忘れさせられてしまっているからでしょう。大人は子ども以上に情緒豊かになれるのです。それを発揮するのが難しいからといって放棄してはいけません。私は願わくは今あるこの感情を凍らせたくはないので、やはり、自分のしたいように生きていこうかと思います。

03.1.30

 風邪をひきました。実は10日ほど前から家族が1人ずつ、病魔の触手に絡め取られていくのを傍らで眺めていたのですが、昨日、高熱の弟と一緒にいるうちに私にも魔手がのびたのかと思います。まだ、初期症状でそれほど辛くはないのですが、これからのことを考えると憂鬱になります。とりあえず、ティシアさんの麻雀をやろうと持ちかけたことについてはここはひとまず延期しなくてはと思います。それに、家からこの病原菌が一掃されるまではブリーズの招集も延期しなくてはならないでしょう。まあ、それは大したことではないのですが、楽しみごとを延期するのは辛いことですし、何よりもやらねばならないことはついてまわって、私の事情に構いなくあるのは大変なことです。風邪ひいているのに、今日はレポートを書かなくては……。
 実にありきたりのことなのですが、今年のインフルエンザはいつにもまして強力らしいので、みなさまも健康には充分注意なさった方がよろしいかと思います。しかし、実際、風邪の蔓延している家で自分だけ生き残るというのは相当、難しいことであるかと思います。家族に苦労をかけない意味でも健康であることは非常に重要なことです。さて、何をいいたかったのか、いまいちまとまっていませんが、分かることといえば、風邪をひくと判断は鈍るし、身体も辛い、“せきをしてもひとり”(尾崎 放哉)では心も寂しくて仕方ありません。風邪をひくと決定的に自分の能力は低下するから、嫌がおうにも誰かに頼らねばならないことが多くなっていきます。この時に、誰か寄りかかることのできる人がいれば何と楽しいことかなあと、思わずもらしてしまいます。結局、行き着く先はそこかと非難をあびそうですが、風邪はどうにも人を感傷的にさせていけません。

03.1.28

 思えば、提出せねばならないレポートの締め切りが近づいてきています。しかし、どうにもやる気になれません。やはり、テスト週間を乗り切って、一度バカンス気分になってしまうと、どうにもやる気を取り戻すのは難しいようです。しかし、その主たる原因はやはり、この時間のなさにあるのではないかと思うのです。とは云っても、私の今日すべきことというのは矯正歯科の治療にいくことだけで残りのすべてはフリーであったわけなのですが、それでも時間がないと思ってしまうのは私のやりたいことの多さなのです。つい最近までどうにも乗り気のしないことばかりに忙殺されていて、漸く手にした自由な時間にやりたいことばかりが名乗りを上げて、先陣を切ってしまうものですから、比較的好まない庶務はどうにも先送りされてしまいます。やらねばならないということはわかっているのですが、やりたいことにはやはり敵わないのでしょうか。
 とはいっても、私のやりたいことというのはギターの練習をして、本を読んで、ゲームをすることなので、あまり褒められたものではないのですが、まあ、それでも過去の余暇ではこれほどまでに能動的にやりたいことが浮かんでくるのも珍しいことです。楽しんだ状態というのはこういう状態を指すのではないかと思います。
 さて、話は少し変わって今やっているゲームのことについてしましょう。私は今、『アーマードコア3サイレントライン』(フロムソフトウェア)に熱中しています。昔からこのシリーズだけは何にもましてひいきにして、最近はめっきりゲームをやる機会の減った私も迷わず購入しています。このゲームは結構、歴史があるですが、その難しさは有名です。今回はついに私の中にある掟を破って、普通の条件で戦うということを断念してしまいました。というのはゲーム中、決定的に能力が強化されてしまうオプションパーツがあるのですが、それを使ってしまったということなのです。今日ひとまずはクリアしたのですが今回は本当に難しかったです。
 結局、遊びほうけているのには変わらないのですけれどもね。主体的に遊んでいるのは何とも楽しいことです。

03.1.27

 テストが終わって、2日経ちました。昨日はブリーズとは別のTRPGの集まりに行く予定でしたが、急きょ内憂に対処するためにキャンセルという憂き目に遭いましたが、今日は何事もなく平穏な、そうはいっても問題が全くなかったわけではないでしたが、1日が過ぎていきました。
 レポートの期限にはまだ間もあるので、今日はゆっくり家で、ギターの練習をしていました。つい最近まで余暇の時間は持て余して空費していた頃に比べると何やら充実した時を過ごせているのではと、嬉しくなってしまいます。人間何か芸術に関する趣味を持ち合わせるのがよいかと思います。人間の精神は欲望と理性と感情の3つがあるかと思うのですが、芸術はその感情に大きく作用して豊かにしてくれるのではないかと漠然とながら考えています。
 前にも云ったかと思いますが、私は子どもの頃に音楽は中途で挫折してしまって、それから縁遠いものになっていたのですが、今やってみるとどうにも面白くてのめり込んでしまいます。今日も起きている時間の1/4は何かしら、楽器を触っていたかと思います。ギターの合間に、ドラムとピアノの練習もしてしまい、一貫性がないのは問題ですが。さて、音楽の練習をしていると不思議と昨日できなかったことが、今日できるようになっていたりと、思わず前進していることを実感できてしまうから余計に面白くなってしまいます。目に見えて成果がわかるというのは、しかも、何か外部に影響するのではなくて、自分の技術が着実に伸びていると云うことが分かるのは励みになります。もっとも、それは初心から始めているからというのもあるかもしれませんが、それは不問にしてください。とにかく、音楽は私を嬉しくさせてくれます。
 こうしていると野心が芽生えて、ブリーズバンドを成功させたくなってきます。

03.1.24

 漸くテスト週間も終盤にさしかかり、明日にはすべてのテストを終えて、レポートを書く時間ができるという今日この頃です。今日は、明日の試験に必要な和仏辞書を買いに繁華街へと車を走らせました。家を出てすぐに、私は1人の走る女性を見かけました。彼女は後ろに迫るバスに乗ろうと、そのバスと併走していたのです。結果はあっけなくバスに抜かれて、バスは何事もなく通過していきました。思わず、泊まっても良いだろうにと嘆息がもれます。女性はバスの前を全力疾走していたのですから、バスの運転手は彼女の存在に気づいていたはずです。車に乗っていると、歩行者の動きは非常に気になるところなので、バスのようにバス停の人を確認する責務がなかったとしても、そうした動きには敏感に反応できるものです。しかし、バスは完全に無視していきました。私もそういう経験があったので、非常に不憫に思います。ただでさえ、女性の服装は走るには適した格好ではなかったのに、必死に走っていたのにと、思わず同情して私が送ってしまおうかと思ってしまいました。しかし、どうもそういうのはナンパのようにとられてしまいそうで気が引けて通過してしまいました。結局、私も彼女に冷たくしているに過ぎないのでした。
 車に乗っていると、そういう人の嫌な面がよく見えてきます。帰りにもクラクションを鳴らし、傍若無人に交差点に侵入するワゴン、停車車両を避けるためとはいえ、私の走る対向車線に私の存在があたかも存在しないかのように蹂躙してくる危険極まりないタクシー。どうにもよくないことであります。私もあの時に、彼女にボランティアできる勇気があれば、幾らでも状況は変わったのであろうと思います。結局何をするにも必要なのは勇気ということなのではないかと思えてきます。決断力と自分の信念を貫こうという姿勢がなければ、他人に翻弄されて、次第に何もできなくなってしまいそうで、恐ろしいです。
 さて、そういえば、帰り道、駐車場を出た時、窓から粉雪が舞い込んできました。気がつけば今日もまた、雪が降ったようです。交差点での信号待ちで、フロントガラスについた雪がじわりと溶けて雨に変わります。ガラス越しにみたその様子は上から見たのと違ってダイナミックでした。また、粉雪が交差点で白波になっていました。冷たいコンクリートの上を溶けずに風に揺られて飛んでいっています。葉の落ちた裸の街路樹の通りをさらりと落ちる雪は冬を感じさせ、非常に風情のあるものです。
 こうしていると自然の世界の美しさに魅せられてしまい、感激する傍らで、自分の愚かさが身にしみてしまいます。

03.1.19

 さて今日は1日勉強していたのかと思いきや、朝食前にハッヘルベルのカノンの練習をして、それから今度は、ギターとキーボードの練習を交互にしながら午前中は過ぎていきました。午後になって、とりあえず、勉強すべき課題を整理すると、弟がボードゲームを買いに行こうとせがむので、繁華街まで一走りして、アバロンと麻雀を買いました。弟と一緒にデパートの地下のお寿司屋さんで、昼食をとり、帰ってアバロンと麻雀のルールを教えます。ボードゲームは昔から得意であったので、アバロンは私自身がルールとセオリーをのみこむ前の初戦を弟に破れるものの、それから後、十数回の勝負は土つかずの私の勝利でした。互いに初見のしかもルールのシンプルなゲームに子どもの柔軟な発想力が勝らないはずはないと思ったのですが、どうも私の弟にそれを期待することはできないようです。しかし、我ながら、大人げないとは思います。それが終わると、今度は麻雀を教えました。始めに牌をすべて開いて流れを押さえさせ、次からは普通にやってみたのですが、こういう時、より弟に学習効果が高いようなやり方でするのが道理というものですが、三局目の私の配牌に三元牌が二枚ずつきていて、数巡のうちに中を引き、發をポンしてしまうと、もはや教えるなどとは関係無しに熱中してしまいます。白がいつくるか、役満を目指して突き進むしかありません。とはいいながら、途中面倒になってしまったので、小三元+混一色でロン上がりしましたが……。結局、教えるなどといいながら、自分は自分で楽しんでいたのです。まあ、最近、『兎』というコミックを読んで、思わず麻雀したくて仕方ない衝動に駆られて仕方なかったからかもしれませんが。
 こうして試験も忘れて何か優雅な1日を過ごしてしまったのですが、とりあえず、今は勉強しております。しかし、試験勉強の時は、何かもう、何もかも忘れて1日こうして優雅に自分のしたいことだけして生きていたくなってしまうのは私の単なる甘えによるものではない気がします。

03.1.18

 これからテスト期間に突入して、正念場を迎えます。別にテストに正念を使い果たすつもりではないですけれども、やはり、ここは頑張らねばと思います。勉強をしていて思うことは、私の今やっていることは私にとってやりたいことではなくて、必要なことでもないのではという疑問の念です。いつも思うのですが、単位というものは実に学生を大きく束縛するもので、自由に本を読んだり、芸を磨いたり、友達と交わって感動したりという、より必要な経験を束縛してくれます。やらねばならないこととやりたいこと、必要なことが一致しているならば、構わないのですが、冷静に考えてみても今、修得しようとしている授業の幾らかは単位のための履修以上の価値を持っていないようで残念です。あらゆる障碍から自由になってやりたいことをやれた時、私がどの様に成長できるのかはわかりませんが、それはきっと心地の良いことであって、しかも、人生にとって大きな糧となるに違いないと思うのです。
 ともあれ、私にも将来に対する希望があります。受け入れねばならない課題から逃れる夢想をして、その夢を絶とうとは思いません。でも、理不尽には思います。理不尽を理不尽なものとして受け入れてしまうのは小利口な生き方ではないかと思いますが、仕方ありません。私にはそれを変革する勇気は持ち合わせていないのですから。でも、理不尽を受け入れるのことは私を忍耐強くさせてはくれます。忍耐が強くても大人じゃああれませんが、体力のない私にはちょうどよい刺激です。
 ……とどのつもり何をいいたかったのか、私にはよく分かりません。まあ、でも、要はテストがいやだなあということなのでしょうか。

03.1.17

 忙しくて、何か書くことが浮かばないので、今日もまた、書いていたレポートを載せてしまうことにします。だれが、私のような低レベルの学生の書いたレポートなど読むのかと思いきや私の知り合いのYHMTさんはチャットがてらに読んでくれて、よかったといってくれました。いや、それで気をよくして載せてしまうのですが、そうは思ってもやはり軽率ではあるなあとは心のどこかしらでは思っています。

これからの学校臨床について 〜教師の在り方〜

 最近の本や雑誌を読んでみると、「子どもは変わってしまった」という言葉が多く見受けられる。大人にとって、子どもがどのような行動をするのか自分の持ち合わせた常識では計れずに困惑していて、時に今頃の子どもは「我慢できない」「努力が足りない」「自己中心的だ」「甘えている」「無気力だ」そして「すぐにキレる」と評価を下して、何か非社会的な存在であるかのように時にさげすみ、あるいは恐怖して子どもを捉えている。子どもと大人との間の確執は確実に深まっている昨今である。当然、ジェネレーションギャップというものはあるだろうから、そのこと自体を大きな問題とすぐに決めつけてしまうわけには行かないが、それでも、問題といえるのはその確執が相互の不信から起きていると感じるからである。大人が子どもをさげすみ、あるいは恐怖するのと同様に、子どももまた大人を自分に徒なす危険を内包した存在として警戒しているといってよい。大人がすることに子どもが素直に同調できないのは基本的に大人を疑っているからではないだろうか。
 この相互の不信は子どもと大人の関係だけでなく、子ども同士の間にも深く横たわっているという印象を私はもっている。十三歳から二十九歳までの男女に行った「日本の若者」NHK放送文化研究所世論調査部の調査(引用は『子どもの社会力』門脇厚司著)によると「ふだん友人とどのような付き合い方をしているか」という問いに対して、全体として最も割合の高かったものは「相手のプライドを傷つけないし、自分のプライドも傷つけられたくない」「相手のプライバシーにも深入りしないし、自分も深入りされたくない」「相手の話が面白くなくても熱心に聞くようにしている」であった。これら3つを見てみると、一見、他人を尊重している紳士淑女にも思えるが、それよりも、他人に干渉をしないことを前提として行動しているようである。自然な交友関係に関して、相手の私的な領域まで踏み込んで何かいってしまったさし支えない段階まで到達しているならば、それは相当親密な関係であるといえるが、近年ではこのような世界を形成すること自体を初めから放棄してしまっていると考えられる。常に表面的な情報のみをやり取りして、自分の内面を決して晒さないようにしている。普通、人間関係を続けていれば、より深入りして付き合いたいと願う人間が出てくるのが自然であると思うのに、今ではそのようなことは一般的ではないらしい。
 このような現象がいかにして起こったかを推察すれば、やはり、挙げられるのは人々の人間不信であるといってよいであろう。信頼に足る人物が少ないために、可能な限りそうした人間から被る厄災を避けていく結果、結局は人間関係そのものが恐ろしくなっていったと思われる。
 また、「父性の復権」「母性の回復」と声高に叫ばれるようになった背景にはやはり家庭の機能の低下があるいえるだろう。家庭内に人間を信頼させるための土壌が充分に形成されているとは限らない。また、社会に出ても人間とは信頼できると確信させるようなことが続くとも限らないのが現状である。何か困った事態が生じて、見知らぬ人に親切にされるという経験は誰しもが体験するだろうことであろうが、常にこのようなよい経験ができるともいえず、その逆に他人の自己中心主義に悩まされる場合も多いだろう。人間は基本的に経験に基づいて成長する動物であるから、対人において悪い経験が多ければ、常に疑いの目でいた方がそうそう憂き目に遭うこともなくて有益と感じてしまうのは自然だろう。
 さて、こうした現状に立って学校はどのような対応ができるのであろうか。その解決の方法として私は教師自身がよい人間、よい大人のモデルとなる必要があるのではないかと考える。基本的な人間不信は誠意ある対応でしか払拭できないかと思われる。個人的なことではあるが、私は人間の幾らかは信頼に足るものであると知っているが、やはり、どうしても信頼の置けない危険な人物というものがいることも知っている。しかし、私にとっての幸いは人間の幾らかは信頼することができることを知っていることである。
 学校における問題はいじめや不登校など精神的な問題が殆どであるといってよいであろう。また、そうした問題行動として顕在化しないまでも、多くの生徒が潜在的に精神的な悩みを抱えていると考えても過言ではない。そうした中での対応は常に誠意をもって行わねばならない。
 古今東西、子どもも大人も精神的な悩みというものは尽きないと思われるが、現代の子どもが抱えている悩みの根本原因にあるのは大人に対する不信であり、その不信によって生み出される将来に対する不安である。多くの人間が将来に不安を抱えるのは、その担い手である大人を信頼できないからである。
 学校教師がカウンセラーを兼ねるようなことはやはり、避けるべきではないかと思う。それはやはりその多忙さも問題であり、また、カウンセリングの専門的な技能を修得することは教師が片手間にして確実に身につけられて、しかも、それを大手を振って用いるというのは失敗も考えられて危険である。しかし、教師がカウンセリングの基本的な概念を理解して、その教育現場で応用することができれば、それは有益なものとなるに違いない。教師は教育目標を達成させるための能力を備えなければならないのと同時に生徒の悩みの解決の一助とならなければならないはずである。カウンセリング技能の修得はそのような場合の実践的な助けになるだけでなく、カウンセリング技能を修得しようとする意識自体が評価されるはずである。
 私はこうした学校臨床で語られるような問題の山積する現状で、教師に問われることは子どもに対して誠意をもって対応し、正直に素直に、そして、心から生徒に接することであり、そのために努力を惜しまずにいる姿勢ではないかと思う。

03.1.15

 昨日の話の延長のようなレポートを書いたので、ついでに載せてみます。大学に提出する予定です。しかし、今思うと、マンガの引用が私らしい。別に引用などしなくてもよかったのですが、思わず載せてしまいました。まあ、付け足しのようなものですから、どうでもいいのですが、別に文字数調整で載せたわけでもないし。でも、こういうレポートを書く時、ですます調を使っては駄目と云われて、仕方なく、である調で書いているけれども、ですます調になれると、案外書きづらいものがあるし、生意気そうで恥ずかしいのですよね。

個性の喪失から交流の沈黙へ、逆の循環を促す楽しさの自覚

 成人式に出席する年齢となった私は、先日、成人式の式典が開かれる地元の会場へと行くこととなった。昨今、新成人の子供ぶりが取り立てて報道されているが、そのたびごとに嘆かわしいことだと心を痛めていたのだが、実際にその現場に立ってみるとその心痛はさらに酷いものとなった。しかし、彼らの行動を、私も彼らの一員ではあるが、具に観察していると、幾つかの興味深いと思われる特徴が見てとれたが、ここでは後につなげるために、一点に絞って簡単に触れることにする。単純なことである。暴れている彼らが道化に見えることである。行事の一環として定着したのか、無法者が壇上にあがり、つまらない振る舞いをしては係員の人に制止されて退場する。どこからかまた入ってきては退場するという動作を繰り返していた。その顔には注目を浴びているという快感からか満面の笑みが伺えるが、そうした行為は例年の式典荒らしの行動を踏襲しているに過ぎず、社会の暗黒面からの要請に従って、行動しているとしか感じられないのである。そこには壇上にあってその注目を浴びているにも関わらず全く個性というものが存在していないと云える。
 個性の喪失は近年、顕著によく話題にあがる問題の一つであるが、この現象の勢いは加速がする模様で、さらに拡大するとのことである。その原因を何に求めるかはここでは問わないとしても、様々な環境要因が重なって、人々全体の個性を萎縮せしめている。そして、その結果として「指示待ち世代」「オタク」「自己チュー児」「自閉症人間」など精神的な欠陥といってもさし支えないと思われる特徴の人間が増えてきた。
 人々の個性、とりわけ、内的気質と創造的感性への低下は深刻であると考えられる。人間は社会的な動物であるから、一人ですべてをこなして生きていけるようにはできていない。それ故に、個人が尊重されて、個性というものの存在が個々に違っていることが求められるのは当然であるといえる。それに応えるのが本来ならば人間としてつとめるべき義務であるともいえるかもしれない。内的気質、優しさや大らかさ、勇気、ユーモア……、あるいは朴訥、短気、小心……などと長短に関わらず人柄や個性を身につけることは決して悪いことではないはずである。また、人には自分の意思決定をして、個を発揮することが求められる。単純な作業をこなすだけならば、機械の方がよほど扱いやすくて効率的であるからであるのはいうまでもない。
 個性の喪失の一例といってよいが、私が見る限り、テレビの中に存在する彼らの典型の人々にはやはり、成人式の無法者と同様に個性が感じられない。テレビというフィルターを通して見てしまうからなのかもしれないが、彼らの典型のすべてが同じ類型に見えてしまう。外見などは全く見分けがつかないように見え、発言する内容も同じであるように聞こえ、誰もが彼らのスタイルであるそのスタイルの同質性を共有して、同じように振る舞うことを強迫観念のように抱いているように感じられてしまうのである。
 また、最近は外見を意識する風潮が強まっているようである。女性の痩せ願望は今に始まったことではないが、ダイエットブームも盛んとなって、女性は時に不妊や病気の危険性を冒してまで痩身を目指しているらしい。「痩せ願望は現代の纏足だ」(
AERA)といわれるように、外見の追及を行っている。
 さらに、私の中学生時代の恩師がいうには今では中学生でも化粧をしているらしく、それは男子も例外ではなくなっているとのことである。小学生から高校生向けの安価な化粧品が流通するようになって、化粧の開始年齢も下がってきているようである。多くの人々が個性の伸長以上に外見的な美を追究するようになっている。
 この現象は人々が精神的な繋がりを軽視するようになったために、より外面的な要素で人に魅力を感じてもらえるように作為しているからおきると云ってよい。内面よりも客観的に算出可能なステータスを利用した方が処世をするにあたって効率がよい社会である。その背景にはやはり、精神性の軽視にある。
 この原因を探ると人とのコミニュケーションの質と量の低下が挙げられる。十三歳から二十九歳までの男女に行った「日本の若者」NHK放送文化研究所世論調査部の調査(引用は『子どもの社会力』門脇厚司著)によると「ふだん友人とどのようなつきあい方をしているか」という問いに対して、全体として最も割合の高かったものを挙げると「相手のプライドを傷つけないし、自分のプライドも傷つけられたくない」「相手のプライバシーにも深入りしないし、自分も深入りされたくない」「相手の話が面白くなくても熱心に聞くようにしている」とのことである。3つを見てみると、他人を尊重しているようにも思えるが、それよりも、他人に干渉をしないことを大前提としているといってよいかもしれない。私も経験するところであるが、人間付関係が表面的なものになって、深入りしようにも如何ともし難く、軽薄な付き合いを余儀なくされることがしばしばある。そもそもそれが私が信頼に足る人物と承認されないことによって起きることかもしれないが、それを考慮しても現実問題としてそういうものが横たわっていると考えられる。
 本来、濃密であってさし支えないはずの親子関係において、携帯電話やPCにおけるメール通信などによって、子どもの交友関係を親が掌握し辛くなっている現象はこれを象徴的に語っていると云えるだろう。
 また、量においても、少なくなっている。家族間では、子どもに個室が与えられ、自室に一人でいる機会が増えたことや、男女共働きで親子の交流が激減するケースも少なくないであろう。また、地域間の交流を促すような行事も少なくなり、人々の孤立化は加速している。
 結果、可能な限りに、人付き合いを回避する傾向はこのコミニュケーション機会の低下に伴いい強くなっているといえる。コミニュケーションの機会が減れば、自然とその方法も収得し辛くなり、より危険度も増す。また、コミニュケーションによって人の干渉に煩わされるのも億劫となり、一人でいることで安心できるようになる。こうして、より孤立化する方向に悪循環しているのが現実である。
 この現実を考えるにあたって、一つの考え方ができると思う。現代社会は都市化が進み、人との交流も少なくしようと思えば、少なくでき、また、強いてことと交流することも絶対的な必要ではないと考えられる。乱暴な考えではあるが、生物は周りの環境に最も適応した形にその性質を変化させる特徴を持っている。人々の孤立化もその今の環境に合わせてのこととも考えられなくはない。
 たとえば、筋肉は使わなければ、次第に衰えていくが、筋肉はそれを維持するだけで大きなエネルギーを消費している。使わなければ不必要と判断されるので、不必要なものにそうした無駄な投資をするのは好ましいこととはいえないので、必然的に筋力は衰えていくのである。同様に、コミニュケーションが必要なくなった現代だからこそ、人々はその能力を失っているといえるのかもしれない。
 しかし、実際にその様な事態を受けてこの現状があるのであろうか。もし、これを自然の原理として受け取って、容認するのであるならば、普通、コミニュケーション不足によって弊害を被り、人との交流を渇望して心を痛めることもないのである。
 セックスフレンドという言葉がいく年か前に話題にあがったのを覚えているが、セックスフレンドはセックスをするのにも関わらず、恋人のような濃密な人間関係があるわけではなく、特にそれほど深い関係であるわけでもなく、文字通り友達である。問題は倫理的な問題ではなく、セックスの象徴するものとその人間関係のギャップである。セックスは云うまでもなく、最高級の人間関係の成立であるにもかかわらず、その精神的関係はそれほど確かなつながりを保持しているわけではないのである。これからわかることは人々は精神的に不足する交流を肉体を用いることで補足しているということである。決して、コミニュケーションを拒絶しているわけではないのである。
 では、この現状から、如何に脱却するかであるが、それはひとえに人と交流をはかることであると私は考える。それは外交的な利益目的の交流でも、表面的な軽薄な付き合いでもなく、濃密なすべての個性を交流できる相互に許容可能な関係である。そして、人と交流することは楽しくて、自己が他人に認められることがいかに喜びにつながるかに気づくことである。今あるコミニュケーションは時に策略の飛び交い人を脅かしかねない恐怖を印象づけている。しかし、このコミニュケーションがいかに楽しさと喜ばしさに満ちているかを知れば、今の循環は全く逆転していくはずである。それには、一人ひとりがコミニュケーションの利点を自覚して、よいコミニュケーションに備えることである。それには人との交流に耐えられる豊かな個性を獲得することも必要である。
 最後に『
Dr.コトー診療所』(山田貴敏)というコミックスの三巻に掲載されている話をして終わろうと思う。都会から離島に単身赴任をしたい教師がもう一年、そこで教師を続けることとなって、その教師の家族もそこに移り住むことになった。特にその妻は離島の生活に初めから拒絶を示していて、すぐに険悪な雰囲気となってしまう。彼らの息子は離島で起こるだろう楽しい未来を楽しみにして、期待に胸をふくらませていた。彼にとって離島は別世界であり、また、家族の団欒が続くことが嬉しいのだ。妻は離島の生活がいやで島民との交流にも大きなストレスを抱くようになっていたが、しかし、ある事故をきっかけに彼らはその島での楽しさ、喜びに気づくこととなり、その生活に馴染んでいくようになったのである。楽しさ、喜び、それさえ自覚すれば、希望は開けるのだと、単純なことではあるが、これをなしにすると何もよいことなど感じられなくなってしまうものである。

 《参考文献》

『子どもの社会学』 門脇厚司 1999年 岩波書店

『女は男のどこを見ているか』 岩月謙司 2002年 筑摩書房

『AERA(No.37)』 2002月9月9日 朝日新聞社

Dr.コトー診療所3』 山田貴敏 2001年 小学館

 

03.1.13

 成人式に行って参りました。式典ではキールさんと同様に悲劇の道化の方々がたくさん見受けられました。彼らを観察していると非常に興味深いので、先ずは最初の観察地である式場における、彼らについて触れさせて頂きたいと思います。
 私の住む市ではタレントのガッツ石松がゲストとして呼ばれ、記念講演をすることになっていました。彼の話は充分時間がとられていたにもかかわらず、嘆くべきは市長と市議会議長の挨拶がほんの数分で切り上げられて、非常に短い挨拶であったということでした。市議会、および、市教育委員会の考えは量りかねますが、おそらくは問題のある坊やに迎合して、最小限のリスクで運営を計ったものと思われます。私としては、個人的にあまり好きではないのですが、というのはおそらく偏見に近いものがありますが、私の家の法事の席で見る限りに何か不機嫌な雰囲気をしていたのが、妙に印象が残っているからですが、それでも、市長という立場を尊重するならば、当然、堂々たるスピーチを期待するところでした。もっとも、私は彼のスピーチは好きではありませんが。
 さて、式の最中、かわいげのない坊やは何度か壇上にあがり、騒ぐばかりか、式事進行の妨害をする始末でした。さらにその男の仲間であるのか、あるいは単なる煽りなのであるのかは知りませんが、彼の動作に狂ったように騒ぐ式場前列の連中もまた一緒になって、彼らの心の中に潜む絶望を吐露していました。他にも会場中に私語が乱れ、とても落ちついて演壇の声を聞くことはできませんでした。
 彼らの行動をつぶさに観察していくと、ある特徴が浮かび上がっていました。演説の最中、ゲストのガッツ石松が口調を強くする場面があったのですが、文脈からすれば、彼は坊やに怒りを示しているのではなく、話の流れからそのういう技術を用いたに過ぎなかったのですが、その勢いで、会場の雑音は一挙に打ち消され、静寂が訪れました。彼らは考えているのです。石松の声に驚き、状況を観察して、それが彼らに矛先あるものでないと知ると、また、おしゃべりを再開するのです。この行動は大きな声に対して、身の危険の警戒をしたという生物的な反応ととることもできますが、彼らの身の安全は保証されている、そのことは彼らも充分承知しているので、やはり、ここは叱責を期待したものと思われます。彼らは潜在的に問題を起こすことで、叱ってもらえるということを期待していると云えるでしょう。もっとも、この行動は幼稚園児から中学生に見られる現象であると一般的に云われているようです。また、もう1つの特徴として、彼らは常に集団で行動しているのです。素晴らしいことに、演台に登った男は1人でしたが、他の人間は常に複数人で行動します。懐かしい旧友に会ったのですから、1人で行動するというのも味気ないという気持ちもわかりますが、わかりかねないのは、そうした行動をしては会場内を右往左往、一度入ってきたと思えば、また戻って来るという行動を繰り返しているものが幾らか見られました。私はトイレを疑いましたが、坊やは20歳の大人です。幾ら何でも、トイレのためにぞろぞろと集団で群れることはないでしょう。また、席を立つことが目的であるわけでもないことは戻ってきていることからも明かです。私には彼らは集団で群れることに慣れ、それを心地よく思っているとしか結論づけられませんでした。しかし、坊やは20歳の大人です。1人で行動して、1人で決断することぐらいできて当然であると思われます。見る限り、彼らは子供であるという印象が強く感じられました。全く、可愛らしいものです。
 さて、少し話題は反れますが、坊やたちの水準に合わせたと思っていたガッツ石松の講演は思いの外、素晴らしいものでした。テレビで見る彼と同様に日本語の間違いは耳につき、その引用も程度の知れてしまうものでしたが、しかし、そのようなことよりも、印象に残っていることは、彼の話は純朴で優しさに満ち、そして、何よりも人生を歩んできた人なのだと感じさせる興味深い話をしていたことです。人生における苦悩とそれの克服が単純明瞭に説明されています。そして、彼が人生を謳歌していることを私に伝えてくれました。私の過去聞いた講演は大抵はつまらない知識をひけらかしたり、立派と思われる概念を至上のものだと盲信して話したりと、根本的な部分の欠如している、5分聞いただけで、嫌気のさす、軽蔑されても仕方ないスピーチを堂々と自慢げに話すものが大半でしたので、この点がない、しかも、最も必要な楽しさについて語っている彼のスピーチは非常に優れたものでした。そこまで、見抜いての人選であったのか、私にはわかりませんが、非常に有益な話でありました。もっとも、多くの坊やたちにとっては馬の耳に念仏であったかと思います。いや、一切衆生悉有仏性ですから、厳密に云えば馬どころか、存在する如何なるものに劣ると云うことになるのでしょうか。
 彼らは自分が坊やであることを気づく機会をみすみす逃していると私は思いましたが、もし、そのことに気づくことができるならば、坊やなどと呼ぶのは侮蔑に値すると抗議するだけの資格のある人でしょうから、坊やにとってはそもそも彼の話を聞く権利をもっていなかったのだ、資格のない人間だったのだと思われて残念です。

 さて、話は式典の後に私の母校の仲間が集った同窓会が催されたのですが、そこでは喜びと哀しみを味わいました。ここからは、真面目な話ではないので、読まれる方は肩の力を落としてください。
 旧友に会うというのは非常に嬉しいことです。思わず、居心地の良さを感じずにはいられませんでした。しかし、悲しむべきことは多くありました。話を聞く人の多くが、彼氏持ち、彼女持ちで、何か私が取り残されている感じがしました。別にいいのです。私は私の特別を見つけるために今は眠る翼であると自覚して、人は人として、惑わされないと自信を持ったのですから。いや、しかし、どうにも彼らがのろけるたびに自信は揺らぎます。泣きたくなります。しかも、私の中学生時代のオカマ、疑惑が浮上して、本当はそんなことないのに、誤解が広がってしまったようです。これを読まれている方には誤解のないように断言しますが、私はオカマではありません。

03.1.12

 成人式の前夜です。気がつけば、未だ未成年にもかかわらずに成人式へと出席することになりました。成人式といえば、最近は流行のようになっている新成人の暴走ですが、私はあの知らせを聞く度に、彼らが可哀相でしかたなくなります。先進国の抱える、というよりは文明の抱える弊害の圧力に、力無く呑み込まれ、抗うすべなく、悲痛の声をあげることだけが彼らに許された唯一の手段であるという事実が見てとれるからです。おそらく彼らは無意識の中で、大人と未来に対する大きな不信の心を抱いています。私も、同様に、多くの大人には不信を抱いているのが現状です。本来、大人というものはその蓄えた知恵と経験とで、人生を楽しみ、そして、子供を導く存在でなくてはいけません。この能力を今の大人諸君は年相応に持ち合わせていないというのが私の見るところです。子供は暴れているように見えて、大人を見透かして、警鐘をうち鳴らしているのです。
 どうして、このような事態になってしまったのか。私は専門的な知識はありませんから、かなり私感の混じった解答を提出することになりますが、これは世間で云われているようないわゆる物質至上の資本主義社会が生み出した弊害であるといってよいでしょう。物質的な豊かさを追及するあまりに精神の退廃に気づかなかった、あるいは気づきながらその傷の深まるのを気に留めなかった、今から見れば異常とも云えるその状況にも平然としていられる精神を構築してしまったことに起因します。この精神は自己同一性を自分の外部に求めます。たとえば、職業、地位、財産のようなものです。私は医者で都内に一戸建てをもっていて、乗っている車はベンツで……と自分を着飾ってきます。時には身長は……容姿は……といった要素も含まれることかと思います。しかし、多くの場合、その精神的な程度というのは意識されません。当然ながら、プロフィールに掲載すること自体が困難という点もあるのですが、本来の人間の質はそのようなものにはないと思うのです。そうした経歴はその人の重要な側面の1つではあります。しかし、さらに重要なことはそうしたものではなくて精神と感性の豊かさであります。サラリーだけで人は幸福にはなれません。もしなったとしたならば、それはそれでよいかもしれませんが、多くの人は決して我慢できずに絶望してしまうことでしょう。
 精神的に成熟している人は本当の楽しみを知っています。知らないと、お金ばかり浪費して、一時の快楽に身を任せるだけで、根本から楽しいと感じることなく、その楽しみを楽しみだと誤解したまま過ごしてしまいます。だから、貧弱な人の場合、楽しいことが次第につまらなくなったり、より強烈な刺激をもった楽しみに代えてしまわないと楽しめなくなります。あるいは、楽しみとは何かを教えてもらわないと楽しめないかもしれません。それに対して、成熟した人は何が楽しいかを知っている人で、豊かな発展性を秘めた遊び方をします。そして、楽しんだという実感が残るものです。
 勢いで書いてしまう日記ですから、随分と話が反れてしまいましたが、要は今の大人は精神的に未熟で、人生を楽しんでいない人が多数いるように思えるのです。だから、子供は直感的に大人を不審に思い、懐かないのです。新成人は子供です。何故子供かというならば、大人がしっかりと人生を謳歌せずに、楽しいものへの方向性を子供に示していかなかったから、子供は自力でその目的を見極めて、大人に頼ることなく前進しなくてはいけないのです。将来の不安、大人の堕落、これを子供たちはしっかりと見つめているのです。
 子供が生きるのには辛い世の中です。大人は自分の成長を助けるものではなくて、脅かすものです。頼れるのは己の力、そして、よい同胞の力です。普通、だれもがこの力を獲得できるとは思えません。しかし、それはやらねばならないことなのです。新成人のみなさん、どうか、自分の力を自覚して、前進することができると気づいてください。私はそれを切に祈ります。
 もっとも、私は19歳、そんなにたいそうなことは云えませんが……。

03.1.9

 愛されることは非常に重要なことかと思います。愛されるよりも愛したいというフレーズの流行歌があったかと思うのですが、人間どうして愛されもしない相手を愛することができようかと思うのです。人間として大成すればその問題は克服されるのかもしれませんが、特に私のような若輩者には愛されていないと感じることはまさに恐怖そのものです。
 愛とは何かをこれから議論しようとは思いませんが、愛というのは一方的なものなのでしょうか。一方的な愛というのを今や常用語として定着したストーカーのようないわば歪んだ愛ではなくて、純粋でしかも正当な愛を何かに送ることとして定義するとして、それが成立しうるのかは私にはわかりかねます。私を愛さない人をいつまでも愛していられるのだろうかと思うのです。その答えを経験的に答えるとするならば、それはある意味では可能であります。私は彼の人を未だに愛していると云ってもよい状態にあります。正確には、恋愛の愛とはまた類型を別とするものではあると思いますが。しかし、それと同時にその愛が全く完全で歪みのないイデアのような愛の形であるとはどうしても思えないのです。私はおそらく彼の人のためならば、容易に自己を捧げてしまいましょうし、最善を尽くす気構えをもっています。しかし、それだけでは何か欠落したものがあるに相違ないというしこりが私の愛の中にはあるのです。
 物事が相互的に結びあって初めて、その両方にある事象の真の実在と実用が保証されるということは比較的容易に数え上げられることであると思います。たとえば、電車の駅のような現実的なものから教育の相互性ような理想型まで一方向のベクトルだけでは決して役に立たないものが世の中にはあります。愛もそれに性質を同じくしているのではないでしょうか。
 さて、これは私の漠然とした感覚であって、あるいは全く見当違いのことを述べている可能性は高いと考えられます。私は未だにその相互的な愛の窮極を経験してはいませんし、それ故に実感することもできずにいます。ことに他人の感情を交えて考察の範囲とする場合、その領域には無限の暗部が横たわっているといって良いでしょう。しかし、それでもなお、私がその相互的な愛の存在を仮定して、その仮定が真であるというその可能性を肯定するのは私に欠如する感情は補完される余地を残していることを前提としているからです。私が愛するというその先にはさらに上位の愛の形が待っているに違いないというこの発想は直観です。しかし、それは必要な直観ではないかと思うのです。
 だから、私はこの感情が愛だと思ってはいるのです。しかし、それを口に出して愛しているとはどうにも云えないのです。

03.1.8

 今日は授業の再開初日にして、ミーシャさんのライブの日でした。私は朝、既に狂いきったリズムを規律するのを身体が全身で拒絶するのにむち打って、学校に行き、そして、ミーシャさんがライブをするという高田馬場へと赴きました。
 東京寿電波のminoさんと駅前で待ち合わせ、とりあえず、一杯やってから、彼のライブを見に行きました。彼が以前のTRPGの集まりで云うには彼のパートであるドラムは専門というわけではなくて、いわば挑戦するものであるとかでしたが、見る限り全く、そうした気配を感じさせない素晴らしいものでした。人間どうして、こうもなるものかと思わず彼の才能に嫉妬心を抱く私でしたが、そうするまでに彼は上手いと私は感じました。もっとも、私は全くのずぶの素人で、決して、正当評価が下せる人間ではないことは承知していますが。
 とりあえず、酔いが回って、ライブ前に幾らか飲んだ挙げ句に家に帰ってもまだ飲み続けた私は幾らが冷静な判断を下せずにいますが、そうした中でも私が感じたことは、ミーシャさんはきっと、バンドや、それを取り囲む人たちに愛されていているのだろうということです。サークルをして、彼はその立場を確固たるものとして確立して確実な愛を享受していて、そのことはおそらく彼のモチベーションに影響を与えるものではないかと思うのです。ライブの終局に彼のサークルのおそらくは引退するメンバーの紹介が行われていました。一緒に歌って、一緒に輪になっている、そういうサークルの輪に彼はいるのです。きっと、大いなる愛をミーシャさんは受けていることでしょう。まったくもって羨ましいことです。その愚痴を聞かないと云うこともないですが、それを差し引いても悪いものではないと感じられます。それに対して私が何をやっいるのかを問われたら、私は言葉を窮せざるを得ませんから。
 聞いていて私は彼の力に驚愕させられると共に、私1人だけがその場に取り残される焦燥感に駆られます。
 でも、そうはいっても最も感じたことは彼の才能です。いつも、TRPGではおとぼけを演じてくれている彼も、舞台の上では男である私も、私が少し特殊な人間であることは否定できませんが、魅了する魅力を持ってその場に立っているです。正確にはドラムなので座っていますが。私も人として生きる限りにおいては彼のようになりたいと切に願う1日でした。彼と知り合えてた運命に感謝すると云うのがどうして過言といえましょうか。
 私もいつかああなってやる。Breezeバンドの結成を祈ってやまないしがないマスターでした。

03.1.7

 早いもので、私の学校では明日から、授業が再開され、今日が最後の冬休みとなりました。思えばこの冬休みは諸処の事情で全くやる気になれず、本来ならばこなしておくべきであったレポートなども殆どが手つかずです。毎度のことなのですが、どうしてレポートをため込んでしまう癖が治らないのは嘆かわしいことです。さて、そうはいっても宿題を期限一杯まで引き延ばすのは私の兄弟の共通の特性のようで、かのガンダム好きの弟も今、漸く書き初めの宿題のために半紙と格闘を始めました。
 そういえば、この冬休みに弟の誕生日プレゼントであった鍵盤の光るキーボードを半ば略奪して、ハッヘルベルのカノンを練習していました。何年も前に辞めてしまったピアノでしたが、弾いてみると面白いもので、毎晩、練習していました。子供の頃に譜面に隠されている音楽の理論がわからなかった私にはこの楽しさが全くといって理解できなかったのに、今は何かの雑誌の記事で読んだ漠然とした案内を消化しているだけなのに、キーボードを弾くというのは何とも心安まる楽しいことに感じられます。
 しかし、その一方で私を呵む物事は絶えず存在していました。それは私のしなくてはならないことの催促です。私の今の神経では、そうしたものを自発的にこなせようとは思えませんで、こうして自発的にできることをしていたのです。けれども、それは悪いことではないという自覚があります。キーボードを弾くことの意義は確実にあり、それはレポートを書くに等しく価値あることであります。そして、仮に評価の対象とならないことであったとしても、私の力として確実に宿ります。そして、これは自由に生きようとする私の発意なのです。
 そうはいっても、そのストライキのツケは労働者が支払うように、私もこれからそのツケを支払わねばならないのですが。
 さて、全く関係ありませんが、冒頭の弟の書き初めに際して、私も一筆、筆を借りて書いてみましたところ、以下のようになりました。やはり、特に誰に手解きも受けていない私には字を書くというのはこの程度のものなのでしょう。

 容量確保のために書き初めは削除しました。みたい人は直接連絡……する人はいないでしょうし、もはや、このテキストを読む人もいないでしょうね。読んだ人はキーワードの欄に「恋愛渇望症」と書いて、私のところまで送って下さい。

03.1.5

 4日の日記を書き終えてから、友人とのとりとめのないチャットを経て、床についたけれども、最近の生活リズムの乱れもあってか、いっこうに眠れずにいました。仕方なしに、地元の繁華街に新しくオープンしたアニメイトで大量のプラスチックのブックカバー((株)コアデ企画)を買うことができたのを機会として、手持ちのコミックの整理をはじめました。予想はしてはいましたが、それほど多くは買ってこなかったカバーは蔵書のほんの一部にしか用いることはできませんで、結局、この計画は頓挫してしまいました。別に整理といっても、書店で掛けてもらったカバーを引きはがして、本のタイトルさえ容易に知ることができれば、仕事はお終いなのですが、変な性分でカバーをつけずにいる本が汚れてしまうのがいやで、どうにも単にカバーを引きはがすことはできずにいるのです。同感される人は少なくはないと思いますが、1枚あたり10円強のカバーをつけることで得られるのは汚さずに済むという安心感なのでしょう。話が反れてしまいましたが、今日のこの整理はいつの間にか、というよりはごく自然の流れで、再読会に変更されてしまいました。整理のうちに、面白かった本が多く再発見される折りには再読せずにはいられないのが人情というもので、また、余計に時間を過ごしてしまいました。そこで、私は折角ですから、このややもすると浪費にほど近い時間の消耗に幾ばくかの意味を持たせる意味でも、私のお勧めする2冊をあげておこうかと思います。
 1冊目は『魔法遣いに大切なこと』(原作・山田典枝、作画・よしづきくみち、角川書店)という昨年の11月に1巻が発行された本です。私は詳しくはわかりませんが、ご存じの人も多いかと思います。概容はヒロインの菊池ユメが魔法遣いの見習いとなって、その依頼を全うするというスタイルで、魔法が1つの社会的な技能として確立しているのが特徴です。先ず、私がこの本に目をひかれたのは表紙絵の女の子で、物語のヒロインであるユメの可愛らしさと透き通るような描写でした。物語の中でもその絵からは可愛らしさと優しさが感じられました。ストーリーも決してひねくれてはおらず、緩やかなテンポで確実によい方向へと導かれていっています。しかし、それだけに終わらずに、4話目の“思いでのハーモニー(A Song for Grandma)”では、そのまっすぐな優しさにアンチテーゼを促すような状況を用意して、よりその優しさを強調する演出がなされています。そういう幸せになれる本であるかと思います。
 2冊目はうってかわって『プラネットガーディアン』(高坂りと著、エニックス)というそうした優しさとは対極にあるようなコミックを紹介します。プラネットガーディアンはこれもまた魔法使いの話で、正確には魔女っ子ですが、こちらは悪の異星人に対して魔法使いたる正義の味方がそれを挫くという王道のスタイルをとっていますが、完全なコメディーです。しかし、この話の優れた着眼点はそのギャグを成立させるまさにその条件にあります。その条件とはつまり、私たちが魔女っ子に抱くイメージと、必ずしも私はこの本で理想とされる魔女っ子のイメージを持ってはいませんが、それに羞恥を覚え、その理想に背く魔女っ子当人の葛藤が描かれている点にあります。ことあるごとに魔女っ子の理想という型を忌避するヒロインに対して、まわりはその理想を求めるそのギャップが愉快であります。
 一応の断りを入れますとどちらの2冊も魔法使いものでしたが、それは私の意図するところではなく偶然であります。それはよいとして、さて、私はこのどちらの本もお薦めします。もし、機会があれば読んでみてはいかがでしょうか。

03.1.4

 祖父の家から帰ってきて、何か幸せな気分になっていたのに、私に宛てられた年賀状の1つに目をやって、急に切なくなりました。たわむれに住所を見つけて送った年賀状の返信は彼女が一児の母となっていたことを告げるものでした。さて、私はといえば、残念な結末の恋を終えて、漸く平静を取り戻しかけていた矢先にはどうしても自分と対比してしまって鬱になります。きっと、伴侶に出会えた彼女は幸せであろうに私と年も違わない。私が最も求めるものを彼女は手にしていると思うと私の力なさを惨めに感じる共に、激しい嫉妬に駆られます。こうして焦燥感に駆られたところで、何が変わるともありませんし、変わるとするならば、むしろ、悪い方向になるものとの懸念がありますが、それはそれとして、愛というのは私には実感するべき感情ではないけれども、それはきっとあらゆる他の幸福を積み重ねても足らない至高のもであるに違いないという確信があります。願わくは愛に生命を捧げたいとする悔しくなります。エロースの半身が私にはないとこが酷く不安定にさせます。
 妻の存在はおそらくは自己存在をかくあるものとして確固たる価値と地位を確立してこそのものであると考えています。妻に限らなくとも彼女であっても、そうでしょう。恋人となることは最大級の自己存在の承認を受けることであるに違いないのです。私のこの不安は私の不精進を欠いているのだという恐怖から来るのでしょう。
 私の日記は最近、こんな話ばかりですが、それはどうしてかというと、ちょうど、私は成長の過渡期にあると思うのです。こう云ってしまうと、常に人間は成長する存在であるとして、つまらないことを云うと一蹴されるか、あるいは、成長するものが自分の成長を自覚するのは傲慢だと諫められはしまいかと思いますが、冷静に見てもそう考えるしかないのです。この立場にあると、人間の本性のようなものが自らの実践から捉えることができて、愉快にもなりますし、絶望もします。そこで、青年椿のつまらない成長を嘲笑混じりにでもと思います。
 しかし、まあ、このようなところで、こうして自虐的にもとれるように自分自身の弱さをさらけだしていては笑われるだけの道化に成り下がるやもしれませんが。

03.1.2

 2日目といえば、確か書き初めの日でしたが、筆をとるのは久しくて、今年もまた筆をとることはありませんでした。代わりに今日は初夢を見ることに成功しました。初夢というのは今年1年の吉凶を占うだとか云われていますが、果たして私の夢はどうなのでしょう。
 私は気づいた時は棺桶に入っていました。いや、棺桶といっても、普通の棺桶ではなくて、いわゆるMS(モビルスーツ)のコックピットのことです。私が見たものは全方位モニターに映し出される満天の宇宙でした。私は緊迫した空気の中で何とも云えない安らぎを感じていました。前方に何か彗星のようなものが横切りました。直後に映像付きでアムロからの通信が入りました。内容はよく覚えていませんが、前方にいるシャアを協力して撃つことが任務として課せられていたらしいので、これにまつわることなのでしょう。私は通信を終えるとMSを、外観を見たわけではないので、どのMSに乗っていたかはわかりませんが、高速機動させました。
 それからシーンは移り変わって排気ガスくさい車の通りの多い、勾配のある道を歩いていました。横には何故か私の初恋の人がいます。とりとめのない会話をしながら向かった先は水族館でした。また、彼女と魚を見て回り、そのまま幸せな時を過ごしていたと思います。
  最後は古風な家にいました。新しく張り替えられた畳は心地がよかったと思います。私は誰かと一緒にその部屋ので、小さな窓から見える空を眺めていました。
 残念ながら、富士山も鷹も茄子も見ることはできませんでしたが、私はまあ、夢に満足しています。しかし、どうして、冒頭でMSに乗っていたのか、それは私にはわかりません。

03.1.1

 新年です。大晦日の日記を書き終えてまもなくこれを書き始める節操のなさですが、昨日の私と今日の私は何か違いがあるのでしょうか。まあ、そのような話は止めにするとして、ひとまずは新年のご挨拶をさせて頂きます。
 新年の抱負はBBSに記すつもりなので、ここで、何を書くべきか非常に悩むことでありますが、1つひねり出してこれからのブリーズについて、話をしようとか思います。ブリーズはブリーズネットを立ち上げて1年余り、起源まで遡れば長々と4年は続いております。これもひとえに私を支えてくださるメンバーの皆様と、そして、ブリーズネットをご覧頂いている皆様のおかげであります。心より御礼申し上げます。これからもブリーズはより楽しく遊べることをもっとうにメンバーの豊かな創造性を発揮させていきたいと思います。というのは水面下でブリーズゲーム化計画というものが遂行しています。ブリーズキャラクターの個性を発揮させたゲーム計画です。どこまで計画が進められるかはわかりませんが、私たちは努力して、前進しようと思います。また、これは私個人の計画ではありますが、ゲージレデューサーというブリーズを基本としたカードゲームを考案中です。これもまた、どうなるかわかりませんが、ひとまずはそうしたものがあるという報告だけさせていただきます。
 これからもブリーズネットをごひいき頂きますようお願い申し上げますと共に、皆様の益々のご清栄とご多幸を心よりお祈り申し上げます。

 ついでに、私の新年のスタートは私室に1人、ブリーズネットを更新した後は音楽でも聴きながら、スコッチをグラスに傾けています。飲んでいるのはROYAL SALUTEの21年もので、聴いている曲はNoirのコッペリアの柩です。なんでしょうね。こんなスタートでよいのでしょうか。まあ、ウィスキーが美味しければ、とりあえず、今は幸せでいられるかなあ。あっ、チェイサーも用意しよう。

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