マスターの日記
 from 2001.10.14 to 2002.12.31

 ブリーズネット開設から2002年までの日記です。日記というのは読み返してみるといかに自分が幼稚であるかと思い知らされます。特に私の日記の場合はその日の思いつきだけで書いてしまったようなエッセイば かりですから、その質というものはやはり疑われるにしかるべきものです。

02.12.31

 大晦日であります。思えば、何をすることもなく、年の瀬は過ぎていきました。やっていたことといえば、必死でイラストに色を塗り、PCと格闘していただけで、そういえば、大晦日定番のテレビ番組というもの見ていないなあと若干の不満も交えて、ぼやいております。もともと、紅白歌合戦などは私の興味のあるところではないので、仮にイラストを描いていなかったとしても見るわけではありませんが。
 さて、年の変わり目というものはどうしても時間の流れるのを意識させます。今年という日は何と教訓深い年であったのか、私の若さを意識させてくれる年であったのかと。年が変わっても人はどうにも変わりはしませんが、それでも、こうして年の変遷を眺めて感慨に耽るということは、やはり、私たちに並々ならない力を持って接しているのだろうと思います。明日には絶望があるのか希望があるのか、思いを巡らしてしまいます。
 いや、感覚だけで話をすすめると何をいっているのかわかりませんね。

02.12.29

 今日はある老人の家に行って、その片づけをすることになりました。その老人は独り暮らしで、老体でそう重たいものは運べないので、家のまわりに荷物が山積してしまって不自由するのでということで、私とその父が駆り出されました。正確にいえば、詳しくはわかりませんが、恐らくは親戚筋の方であると思うので、父が私に労働力としての徴用を行ったという形になります。私は憂鬱でした。何がいやだというに、別に荷物をかたすという単純な労働を敬遠するというのではないのです。私はどうも親戚や地元の知り合いというものには不慣れで、偏見と敬遠をもって接してしまいがちです。今日もそういう何とも理不尽な強迫観念のようなものが先行して酷く気がすすまないところでした。
 しかし、私はその任を了承した身なので、今更に断る術はありませんで、そこへ向かうことになりました。彼女とはたびたび法事の席で目にした人でしたが、それ以上のつき合いはありません。私は極力、真摯な対応をしようと試みましたが、どうもぎこちなく非常な違和感が自覚できるほどでした。冒頭でも述べましたが、彼女は独り暮らしです。彼女の生活がどのようなものだかは知りませんが、恐らくは普段、独りで何もかもこなすのでしょう。必要以上の言葉を私や父に投げかけます。どうもこうなると私は苦しくなってきます。やはり、私は子供で冷徹に対処するのことも、素直に笑いかけることもできないで、ただ、うわの空の返事をするのがせいぜいです。多分、外面からみればそれなりの紳士ではあったかと思いますが、その内実はどうにも怯えています。
 孤独というのは耐え難い拷問のようなものだと私は知っています。言葉は孤独を解消するために人へと投げかけられます。しかし、その投げかけられた言葉が如何なるものとして受け取られるかを考えると恐ろしくなります。言葉を必死に投げかけて、孤独から逃れようにも相手次第では容易に背後から黒い手が忍び寄り、一瞬にして首根っこを押さえつけられ、また、もとの黒闇に戻ってしまいます。孤独というのは最も恐るべきものです。すべては相手に委ねられた自分ではどうにもできないところのある闇です。私はそれを知っていながら、その言葉に真に応えることはできなかったのです。私は余計に憂鬱になります。どうにもその愚かさが浮彫にされてしまうからです。
 帰りになって、やる相手もいないからと、年の瀬にお年玉をもらうことになってしまいました。心付けのつもりなのでしょうか。私にはそれを受け取る資格はないように思えましたので、謹んで辞退を願いましたが、結局、父を経由に私の手に渡ってきました。最悪だと私は心の中で嘆きました。父がとある機会に中身を見て、その額面に驚きましたが、私は沈みました。私は実働たかが2時間でしたし、運んだ荷物の量だってたかがしれています。それだのに彼女の渡した報酬は明らかに適正を凌駕しています。何でしょう。孤独とお金というのはどうにも私を苦しめるようです。 

02.12.27

 幸せになる方法というものはどんなものかと思います。ある人は云いました。それは望まないことだと。つまり、これ以上の幸福を望まなければ、そこは天国のようなものだというのです。同様に知らなければ幸せでいられると云うこともあります。この2つは確かに真実であるかと思います。欲望のメカニズムからしてもそれは合点のいく事態です。
 私は今年の記憶と知識をすべて忘却の彼方に押しやることができれば、きっと心晴れやかになれるという確信がありますが、それは決して叶うことではありません。では、どうしたらよいかと云えば、私に存在するこれらの多くの欲望を克服して、より高められた自己を獲得するか、あるいは、すべてに絶望してすべてを断念して、自分を偽っていくことでしょうか。前者には非常に辛い試練の道が用意されていますが、後者にはその道すらありません。人というのは、私の実感から云うので、実は私だけにあてはまることではないかと懸念するのですが、何かに気づいてしまった時ほど弱くなります。
 最近の風潮はありがたいもので、意志を堅固にして諦めることが許されています。頑張らなくても生きていけるし、逃げ続けていても多分、老死による臨終を迎えることができるのだと思います。しかし、一方でそうした人たちの共通の認識として考えられるのは逃げ続けることで確実に自分の人生の大切な部分を切り売りしてしまっているというものです。
 私は心の問題を解決するために今どうしたいのかといえば、その答えを出せずにいます。私は逃げることが恐くて、失うことが恐くて幸福などというものには気づいていませんでした。しかし、それに気づいてみると辛いもので、何もかも放棄したくなります。どちらの選択もあるいはあるかもしれない別の選択もいずれも決意をもって採用することはできないでいます。もっとも、この決断を苦悩なくできる人がそう多くいるとは思えませんが。
 現状の私はこのようなものです。最近、こうした独白じみた話が多くなってしまっていますが、今のところ、こうしたものばかりを思えば書いてしまうというのが止められないでいます。いつまで続くかはわかりませんが、そのうちにこの現象も消え去って正常な運営となるに違いませんので、気にせずに愛読頂ければ有難く思います。が、最近、頓に質量共に低迷してしまっている、もっとも、当初から質などというものが確保されているとは思えませんが、と思えますが、どうぞ愛想尽かさずにいてください。私としては可能な限りの力をもって書いているものですから。
 いや、こういうことをこの場で云ってしまうのはそれ自体が末期症状の顕在かもしれませんね。まあ、しかし、こういうのも時にはよいですか。
 

02.12.24

 メリークリスマス。ブリーズネットをご覧の皆様、この聖夜をいかがお過ごしでしょう。私のイブは、それはそれは苦難に満ちたものでした。あまり、私自身やこれを読む人々に不快感を与えないように簡潔に話をまとめると、渋滞に揉まれ、疲労困憊となり、そして、家では冷めたパーティに心を痛め、ついでにそれを癒す術といえば、じっと瞑想して心を落ち着かせることぐらいで、ちょっと誰かに揺さぶられたら、平安も何もなく鬱にはいるというそんな日でした。病理に蝕まれた雰囲気はそう簡単にぬぐい落とせないものです。みなさんには幸せなクリスマスをと願います。
 特別な日というものは人々に特別な感情を芽生えさせます。私はこうして悲惨な1日を過ごしてもなお希望を抱いて待っています。誰をかといえば、それは私を幸せにしてくれるあなたの呼びかけをです。今日は奇跡を信じる日であり、信じて赦される日です。こんな私でも信じていれば少しは気が楽になるとそう思えてくるのです。

02.12.20

 最近、自分のこの感情を分析していて、気づいたことは私を取り巻く環境にはある1つの要素が欠如しているということです。それに気づいたことは私にとって、私が正真正銘の子供であり、私はそれ故に苦悩していたのだと判断させてくれました。その欠如していたものとは母性です。母性とは一昔前“父性の復権”という言葉が流行したのですが、それとは全く反対の概念です。簡単に云えば、父性とは人を厳しくしつけをする父に象徴される荘厳さであり、母性とは人を優しく保護する母に象徴される包容です。私には実をいえば真に叱ってくれるような頼もしい父性は近くにありませんが、父性に関しては私は自律して己の道を見定めるくらいの芸当はしてみせる自信はあったので、殊更に求めないにしても、私のもともとの心の弱さを支えてくれる包容は強く熱望するのにその求めるところのものは一向に手に入らなかったのです。普段の生活からして、私には泣きつく場所がありませんでした。正確に云えば、1つあるのですが、そこも私の最大の号泣を受け止められるだけの体勢はないようです。それらしく振る舞い楽になった気になるに過ぎないのです。絶対的な母性というものは今の私にとって最も必須のものであり、それなしではおそらく、もう長い間自我を今のままで留めておけないという自覚が私にはあります。
 02.12.3の日記で示された私の攻撃性は決して、私の成長の具現化ではなかったと思えます。また、最近、自分の内面が非常に不安定となっていることも気づかれます。大学への電車では必ず鬱になり、家を出れば、早く帰って布団にくるまってしまうことを願っているのです。現象からして、引きこもりへの前段階とも考えられます。将来の私の運命はそこにあるかもしれません。精神を病むでしまうと、1人では確かに到底解決できないなどと云う妙な実感が湧き起こります。
 私は知っているのです。現状、私に母性的包容を施してくれる人はいるかもしれませんし、いないかもしれません。しかし、いたとしても私がその人に現状を理解してもらい、その人にその人の時間を犠牲にさせるだけの交渉を完遂できるまで私の心が耐えきれないのは客観的に評価してみると明瞭に思えるのです。
 私の彼女のできない最大の理由の1つはおそらく、ここからくる絶望です。帰りの電車の窓越しに見えた男の顔は私には凍結していて死んでいると云うに相応しいものでした。今の私もにこやかな笑みを浮かべてやろうとするにこわばって、筋肉が思惑通りに動きません。動かせばゴムがひっついたような抵抗が感じられます。これでは私を愛しようはずもないではないかと思えます。そして、悪循環は無限に続いていきます。私には正確な知識はありませんので、単なる思いつきで述べさせてもらいますが、無限地獄というのはこういうものではないかと思えます。
 最後に、私が気づけば呟いている言葉を挙げて、結びとしようかと思います。おまりよい言葉ではありません。
「私を愛せ、さもなくば殺してくれ」

02.12.18

 昨日のことですが、私は学校へ行く前に時間があったので、朝風呂を楽しみました。昨日は暖かな日和でしたが、風が強く、私が風呂の窓から見える木々はその枝を大きく振るわせていました。そうして、その枝の合間から、ちらほらと落ち葉が落ちています。それを見て、ああ、やはり落ち葉というものはその落ちている瞬間にこそ落ち葉の最も落ち葉らしい意味を持っているのだなあと感心しながら、くるくると回転しながら落ちていく落ち葉を眺めました。私の家の風呂は二階にあり、その風呂の外はベランダで、というよりは物干し場になっていて、その上には屋根が続いていましたので、そうそう上手く風が吹いてくれないと、私の手元はおろか、ベランダの上にだって落ち葉は振ってはくれないのです。多くの落ち葉が流れる中で、時には非常に接近して、ベランダの手すりぐらいには届きそうなのですが、どうしてもそれより先には来てはくれませんでした。
 そこでふと気づくのです。こうしてたくさんの落ち葉が落ちながら、私の手元には1つも届かないのは、ある現実に酷似しているのです。それはつまり、私が最も求めているそれでした。今の私はそのために、それを希求することで生きているというようなものです。時にその感情が強くもなれば、世の中のものはすべて敵に見えてしまって、そう私の親友さえも呼び出してぎたぎたに引き裂いてしまいたいと思うような熾烈な憎悪が私の体内でうごめくのです。時に私の自己存在、自己同一性そのものが懐疑され、普段でさえ、矮小な存在でしかないと自覚している私には、さらに追い打ちをかけるかのように淀みのない濁流が私を押し流してしまうのです。
 私がそれを獲得できない理由は既に分析を幾度となく経られて、その現象の構造は論理的な構造をもって具現化しそうな勢いで、私はこの事象に対して、妙な不安を抱いたり、理不尽を感じる必要などは本来はなく、信じた解決方策を実践する努力を積むことが建設的で意義深いものであると自覚しているのですが、やはり、現状に対する陰鬱な感慨は払拭できずにいるのです。最近は躁と鬱の時期が交互に訪れているのが自覚されるほどになっていて、比較的に平静な現時点でさえも深呼吸をしてなおも拭えない胸の辺りのしこりがついてまわります。
 私の友人は異口同音に彼女ができない方がおかしいと励ましてくれます。感謝する次第です。しかし、現実は私の望むようにはしてくれません。だから、少し疲れてしまいます。私は誰かを愛しい。愛しい人に私を捧げてしまいたいと思うのはそろそろ血の滲む痛みを私に与え始めています。落ち葉がもし私の手元に落ちてきたならば、私はきっと快活になれるのだろうなあと思います。

02.12.17

 最近は忙しい日が続いていました。14日、ブリーズの忘年会、15日、大学の遠足、16日、1限から5限の連続演習授業と息つく暇と睡眠時間が無下に切り崩されていきました。これくらいの忙しさは世間一般からすれば、場合によれば大したことではないと自覚はしているものの、それでもやはり辛いのです。予習などをしていると休憩時間などというものはなくなります。遠足などしていると歩き続けて酷使された足が悲鳴を挙げます。
 しかし、何よりも辛いのはそうして音を上げる心身の脆弱さが露呈されて、私の心を呵むことです。体力増進は今の世の中を生きるためには必須ともいえる課題です。最近は体重も減ったのですが、それ以上に基礎代謝が低下しているのに気づきました。筋力が衰えているのです。私は19歳です。ピークは過ぎたとはいえ、まだ、成長期であるといってもよいでしょう。その私が筋力を落としていっているのです。環境的な要因を探れば、多くの時間を座って過ごすことが多くなったことが挙げられますが、それ以上に運動をする機会を逸していることが問題です。思えば、私は大学と家との通学の他には目立って身体を使うことが少なくなってしまいました。日によっては一日中活動しても数千歩程度しか歩いていないなどということがあるかもしれません。一日中、座ってじっと前を注視して、使うところといえば脳と小手先です。
 運動をしないということは動物の活動としてはその摂理に反します。摂理と云わなくても、構造的に運動を必要とするのが動物であることは科学が示しているでしょう。
 しかし、聞くところによると、筋肉増強を遺伝子レベルで行う方法が開発されているそうです。それは体内に特定の遺伝子を組み込むことによって、身体の筋肉の組成に際して作用して、通常の運動による筋肉の超回復現象などとは別個に、遺伝子の効能によって、単純に増強されるというもののようです。私たちが運動を行えないことがより卑近な状況となった場合は一般の人もこの遺伝子治療を施され、社会生活を行うようになるのかもしません。
 科学技術や医療技術の進歩、あるいは経済発展に対する環境に関する見解においてこのような話がありました。製品を作り、その結果として環境が悪化した場合、その公害を被ったことで病人となって患者は医療というサービスを受けねばならないので、そこで需要が発生します。つまり、公害は経済的にはよいものであるという考えです。さらに、こうした患者が下支えになることによって、医療技術は進歩して、不治の病が克服されていき、結果として患者は健康を獲得することができるのです。究極的には個人の健康それ自体が経済活動に組み込まれ、否応なしに個人を経済の渦に巻き込んでいくのです。
 肉体の虚弱の治療のために遺伝子レベルの筋肉増強を行うとしたならば、その根本原因は社会の経済活動にあるにもかかわらず、それは医療を行うことで経済に貢献して、さらに経済の利益を得さしむ構造となっています。神の見えざる手というべき経済に、ついには健康までもが支配されたまさにその証明です。経済活動を優先させ、働くことで身体を損ない医療に頼る、それは何を意味しているのでしょう。私のように、ただ、己れの肉体の弱まるのを嘆いている、それだけの問題には留まりません。知らずに身体を弄られて人の造り出した真の神に、創造主たる私たちが駒となって支配される、まさにそれを意味しているのです。

02.12.12

 今日はギターの勉強をし始めるために、すこしの事にも先達はあらまほしきことなりとて、やはり専門家から教授されるのが最もよい方法であるということで、ヤマハの音楽教室に行き、入会の手続きをしてきました。それから、何故か流れでジャズ・バーというものでしょうか。そこに行くことになりました。というのも私のこのギターの勉強は父が家族バンドをやりたいという発意で始まったことなので、幸運にも全面的なパトロンとして父がついているので、私の意思とは関係無しに、といっても私個人も行きたいと思っていたのでそれを云ってはいけない気がしますが、その父の意思を以て行くことになったのです。さて、簡単に感想を云いますと、店内の大人の雰囲気は心が安らぎます。温かな笑顔と一体化するジャズのライブは不思議な感覚を私に与えてくれます。車という呪われた乗り物を扱う時の最も守るべき掟に従って、バーにいながらにして、酒精を口に含めない悲しい状況に置かれていた私でしたが、それでも雰囲気は私を酔わせてくれます。本来の酒場というものはこういう雰囲気を売る場所であると感じられました。酒は別に大切なのではなくて、大切なのは人の和であるとそんな実感が得られます。
 幸い、私はこうした酒場とは対照的な、大学生の特有のあの飲み方を強いられる羽目にはなったことがないので、正確な、そして、公正な比較ができるとは思えませんが、ああして、酒に飲まれて、雰囲気に呑まれて得られる妙な一体感とはまた別の一体感が今日のバーにはありました。私の想像を資料に分析するに、前者には個が確実な存在としてあり、それが清流に乗ってその触れる感触を味わっているのに対して、後者はまさに濁流に呑まれながらのたうつようなそんな雰囲気です。
 この違いはどうして生じるのかと云えば、それは私は集まる人間の金銭的な能力に依存するものとは思えません。仮に、それを関係させるとしたならば、単に相関があるぐらいでしょうか。要は意識の問題であるのです。人がその場を如何なるものとして構成させるかが作用して雰囲気が形成されるのはその原理として認めてよいと考えられますが、それ故に当然ながら構成員の意識が肝要で、意識がすなわち現象の雰囲気として顕在していきます。つまりは、大学生は自ら望んであの醜悪な、これは私の感覚ですが、飲み方を享受して止まないのと同様に、あの場は緩やかな音楽と人との対面を楽しむのです。どちらかがよいかと云えば、私は断固として後者を愛します。思えば明後日は私たちブリーズネットの忘年会です。やはり、幸せなことにこの飲みは後者の雰囲気に近くあります。
 残念ながら、私たちブリーズネットの面々は大学生で環境を買うための余力がありません。だから、私たちに与えられる環境はあの大学生の集まる修羅の世界です。しかし、私の経験からするに、それはさしたる問題ではありません。というのは私は私の雰囲気の創造は成功しているからで、それは人の和が私の望むところのものであるからです。人の和というものは確実に雰囲気を規定します。しかし、それを形成するのは個々人の意識によるものです。望むべき雰囲気作りには意識を発揮する必要が不可欠です。
 酒場は人の意識の渦巻くところです。そして、人の意識の顕在です。

02.12.11

 帰り道、電車を降りてポケットを探ると目当ての鍵が見つかりませんでした。ズボンの左右のポケットに手を交互に突っ込んでみても、車の鍵が出て来るだけで、カバンの中を見ても家と別の自転車の鍵が出てくるだけで、私が必要な自転車の鍵が見つかりませんでした。懸命に電車に乗った時の情景を思いだして、何処に鍵をしまったかと思案してみると、何のことはないジャケットのポケットに入れたのでした。何もカバンの中まで見る必要は何処にもなかったのです。
 さて、思えば、私は必要かどうかは別として4つもの鍵を携帯しているのでした。そういえば、ゲート計画でも鍵は1つの重要な項目としてあがっています。鍵とはどんなものなのでしょう。それに私なりの解釈をもって答えるならば、まさに秘密への入り口なのです。鍵の存在意義というのはまさに他者の排斥であり、認証を受けた限られた人間による共同体を確保する、あるいは共同の財産を保存するためにあるのです。原理的に他者は私を侵害するもので、鍵はそれから私を守っているのです。自転車に鍵をかけるのはまさに泥棒から守るためで、当たり前のことで、もし泥棒のような存在がいなければ鍵などというものの存在は無意味なものとなるでしょう。鍵は排斥の原理なのです。
 とするならば、私は常に4つのものを守るために、4つの物に対する他人の使用を拒絶しているのです。もちろん、正確に云えば、私の守るものは私の所有権を有するところのものではないので、その場合は所有者の命にしたがっているということなのだが、いずれにしても私は他人を拒絶しているのです。
 世の中にはたくさんの鍵が存在します。そういえば、私のPCを起動させるのにもキーワードが必要ですし、ブリーズネットを更新するのにもパスワードを必要とします。ゲート計画だってそうです。私の机の引き出しの1つには鍵穴があります。目につくところ、至る所に鍵が存在します。そのたびに私は誰か見知らぬ人間を拒否しているのです。
 鍵はそうして私と他人、同胞と敵、知人と赤の他人とを区別していきます。限られた世界を形成させています。それは今の私たちにとって何を意味しているのでしょう。

02.12.9

 今日は東京に初雪が降りました。早い時期のそれなので、せいぜい雨の代わりに雪が降っているのだろうと思っていた私は外を見て驚かされました。夢の世界を抜けるとそこは雪国であった。普段、見慣れた風景は様変わりして、銀世界にその色を変えていました。吹き荒ぶ横なぶりの雪に恐れをなしていつもよりも重武装で臨んで学校へ向かいます。近道の裏を通るのは魅力でしたが、安全を考えて、表の通りから駅へと向かいます。街道を行くトラックのチェーンの音が雪の世界を実感させてくれます。既に何度も踏まれ、ぐちゅぐちゅと半ば溶けた雪道はしゃくしゃくと音を立てています。駅について来ない電車を待ちながら、その寒さを少しでも和らげようと右往左往とする歩みの下ではくきゅっくきゅっと未踏の雪の音がします。気がつくとその雪の世界は静寂でした。時折、車の音がするくらいで、特に音が聞こえません。ただ、ひたすらに雪がはらはらと地面へと落ちていくだけです。そこには私1人しかいませんでした。事実、その近くには私と同じように来ない電車を待ちながら息を白くする人たちがいたのですが、しかし、そこで私は1人でした。それととても気持ちのよい1人でした。
 学校が終わり、私は繁華街に寄りました。忘年会の開催場所の下見をするためにです。1人で飲み屋に入ります。19歳の若輩の私には少し贅沢にも思えましたが、あえてそれは問わずに、1人を満喫します。くっと地酒を飲み干し、温かな鍋を1人で味わい、それはまさに1人の楽園でした。誰かが側にいて私と談笑してくれれば、それは楽しいことかもしれません。しかし、それとは別にやはり1人のお酒もまた格別です。たった2合のお酒と小さな鍋のひとときで、得も云えぬ幸せが私には訪れるのでした。ああ、1人というものは斯くも楽しいものか。いつも1人はいやですけれど、時に1人で自分の世界を確立することの幸せを初めて発見しました。
 いつも、1人はいやだ。誰がが側にいて欲しいと、切に願っていた私にはアンチテーゼです。もっとも、私の中で得られた自覚というものはこの1人楽しさを知らないことは人との幸せを享受する前段階であったということです。その確証はありません。しかし、一般的に人の意識の進化過程は“依存→自立→相互依存”となっています。私は思えば、相互依存ないし、依存を求めていただけなのかもしれません。段階は決して順序を経てこなされなければならないと云うことが絶対の原則であるとは思えませんが、それを経ることが最善の前進であるかと思います。何を云うか、そなたは単に1人で酒を飲み惨めな心の自慰をしただけだと思われるかもしれません。しかし、1人の楽しさというものをそんなものかという程度には認識しない限りに、楽しいと云うことを本当に理解できようとは思えないのです。しいては人と楽しむなどと云うことは知れないと思うのです。
 吹き荒ぶ雪が私を周囲から孤立させてくれて、1人にしてくれた。私はそれに感謝します。1人を知ることが孤独から逃れる1つの手段ではないかと思う。

02.12.8

 私の待ち望んだ安らかな休日の夜明けに、また私の精神を掻き乱すひとことを友人から受けました。彼の指摘は事実であるし、それは私のもっとも求めるところです。私がいかに現状に偽りの平穏を感じたところで、私を取り巻く環境は到底私の求める世界とは異なるものでした。絶望の極地には平穏があります。しかし、その平穏は決して真に得られた平穏ではなくて、ちょうど、精神の安定をはかるために、私の肉体が私を労ってくれた所業なのです。彼はその言葉によって、容易に私の身を守るそれが偽りであったことを思い知らせてくれるのです。
 思えば、人としての限界というものは、私の場合、特に近くにあって、私の手の届く範囲などというものは非常に限られています。可能性は無限であると時に耳にすることもありますが、どうしてそんなにも軽はずみなことが云えましょう。私は既に私を支配する秩序と法則に束縛されていて、容易にこの呪縛から解き放たれようとは思えません。どれだけあがいたところで明日にはその呪縛は昨日の努力など何もなかったかのように私の傍らで笑っています。あらゆる制限は私を不快にさせます。肉体の限界、精神の限界、そして社会の中の私の限界、何もかもが私の位置を定めて離しません。努力の実践こそあれば、そこから脱却できるのでしょう。私を睨んでつきまとう呪縛の原理が毎日私の前にいたことを忘れて努力ができれば克服できることでしょう。だけれど、どうしてその呪縛を無視して、毎日努力ができましょう。きっと、それは私の脳髄に深く食い込んでいて、いやがおうにも意識させ、笑いかけ、不敵な魅了で私の足を止めさせます。そうして気づいてしまうことは不屈の精神など私は持ち合わせていない、一度、この闇に魅惑されたらこのままだということです。努力はします。それが私が生きることの証明であるからです。しかし、それが報われて幸せになれるのか、今の私が克服されて、よりよい私になれるのか、それは大いなる疑問なのです。
 真実は時に冷酷な惨状を提示します。悲壮さえも時に砕かれます。それが事実の世の中で生きるためには不屈の忍耐しかないのでしょうか。それとも、欺瞞でしょうか。真実に忠誠を誓うことは愚直に思えてくる、しかし、従わざるを得ない世界が目の前に展開しているのです。自分の役割を超越しようとしても真実にあざ笑われながら突き落としされてしまう、そういうことが時に日常の中で見られることはありませんか。その時、私はどうしたらよいのか、正答が見いだせずに、ただ、枕を濡らしているのです。

02.12.6

 今日の私の目覚めは何とも優雅なものでした。窓辺から差す光に起こされて、風呂にゆっくりと浸かり、身支度をしてなおも余りある時間の流れるのを眺めながら、ペン先を洗い、インクを入れ替えて、家を出ました。冬の風は適度にまだほてった頬をなでるように静かに通り抜けて行きました。落ち葉を踏みしめるその音が調子よく聞こえてきます。思わず、この時間のあまりある、心に何の不安もない穏やかな朝ほど贅沢なものはないと思ってしまいます。時間を支配することの喜びというものが感じられました。
 さて、そして、夕方遅くに帰ってきた私を妹は私を運転手に任命し、時間を拘束します。一息吐いて、語学の予習を時計をにらみつけながら終えるともうこの時間です。この時間というのはもう日付が変わるかかわらないかの時間です。その頃に夕食をとるのを忘れ、今その遅い食卓を弧食でむかえ、酔いつぶれてドラムの前で俯いている父を諫めて床につくように促し、ソファーでいつの間にか眠ってしまった弟をベッドに運び、そろそろ寝なくてはと焦りを感じています。こうなると時間ほど惜しいものなどないと思えるくらいに、時間のないのに不平を漏らしたくなります。今朝の幸せな時間はどうしてこうも長続きしないものかと悲しくなります。
 誰もが認識することではあるかもしれませんが、時間というものは人にとってはかけがいのないものであり、そうして、これほど貴重で希求するものはないようにも思えます。これはよもや過言ではないかと思いますが、豊かな生活とは経済的な豊かさなどと云うものなどでは全くなくて、自由で平穏を感じ、充実した時間を持つことでありましょう。真の生活水準とは自分の満足する時間をどれだけ過ごせるかにかかっているかのように思えます。
 もっとも、今や、物質的な豊かさなどは、誰もそれほど重視はしていないでしょうから、比較の対象にしても実感に乏しいかとは思いますが。

02.12.5

 帰りの電車、ドアにもたれて読む本の視線を不意に外へやると、そこには男が本を抱えて、こちらを覗いている。しっかりとこちらを見据えているが、その目にはどことなく生気がない。ぼやけたその男の輪郭は悪くはない。だが、その男の目は真っ黒で光が差していなかった。寂しいのであろうか。彼は私に向かって何かを云っているようだった。私はその声をそばだてて聞くとその男は彼にとって不可欠なものを手に入れていないのだという。彼の手にある本では、男の子と女の子が出会っていた。男は半身を求めているという。男は続けて云った。「私と同じ様に私の求めるところのものを持たない人はたくさんいる。ある人はその存在にしか気づいていないかもしれないが、潜在的にみんなは必ずこれが欲しいに違いない」私は端的に尋ねた。「それは愛か……」男は目線を落として床の汚れを眺めていた。彼は答えなかった。私は改めて男の顔を凝視した。彼もそれに応えている。私の心に1つの言葉がよぎった。“翼”。私は彼に彼の求めるところのものはそれかと声を上げようとした。
 その時、ドアが左右に開き、男は消えてしまった。私は電車を歩いて家路を急いだ。

02.12.4

 今日は一週間遅れてレポートを提出して、やっと一息つけるのを実感することができました。正確には来週の冒頭には発表の続きなどがあり、決してすべてから解放されたわけではないのですが、とりあえずは何日かの怠惰な生活というものが約束されて嬉しく思います。そして、私はブリーズの会の忘年会の開催場所を決定しながら、父のすすめで今年の新酒を、それは今度は日本酒ですが、飲んでいました。その新酒は生酒で新潟のそれほど有名ではない種類のものなのですが、父の友人の曰く非常なうまさのあるものということで、ここで名を明かしてしまうのも無粋なので避けますが、飲んでみるとその言葉の通り美味しいものです。口の中に広がる甘みと適度な舌への刺激、そして、飲んだ後の幸福感はその絶賛に値するものであると私には感じられました。お酒というものは、半ば当たり前のことですが、酔うためのものではなくて、やはり、味を楽しむものであると改めて思います。お酒の欠点というのはやはり、飲んでいくうちに酔ってしまい、次第に飲めなくなってしまうことで、いつまでもその味を楽しむことができないものであるかと思います。酔いがあるのはどうにも難点です。もっとも、この酔いがあるからこそ、その限りある酒量の中でお酒の味を楽しむという制約があり、そのことがよりお酒の美味に一役買っているようにも思えます。

02.12.3

 最近の自己の内面に芽生えてきた感情というものがあります。それは時に他人と接触する時に発生し、その言葉は決して口に出されることはありませんでしたが、まさにその内面では絶叫とも呼べるほどに熱烈に意識されるものでした。「騒ぐな、しれもの。退け、うつけ。よるでない、愚かもの」ほんの最近までは心の中でこうして呟くことさえもなかった言葉がほんの些細な人の愚劣な行為にも反応して、私の内面を支配します。その原因の1つにあるのはやはりふうした不届きな人間に遭遇する機会が嫌がおうにも増えたことが挙げられますが、それは差し置くとしても、最大には私自身のこの意識そのものが変革しているからであると云えるでしょう。恥ずかしい話ですが、私はごく最近まで思考力を持っていなかったと思えます。与えられたものを享受し、価値観を鵜呑みにし、それらしさが善悪の判断を下していました。道徳を絶対視し、道徳を疑うことがありませんでした。それは物議を醸しだしている問題、たとえば“どうして人を殺してはいけないか”という様な問題には幾らかの思考をしたのかもしれませんが、そこに前提となっているのは最終結論には定立している道徳への帰依がありました。私はこの内より発せられる悪口は定められる善たる人格に背くものであり、その意味で私の成長というものが感じられます。思考が冒され、汚れ始めていくという認識が私を喜ばせてくれます。というのはこうした汚れを通過することは、私が望むにしろ望まないにしろ、私がより高次のものになるための必要条件であり、道徳的悪を経ない限り、現状から脱し得ないと考えるからです。私が無垢な子供であったかは確証がありませんが、云えることは過去において私は真の意味で痴れ者で、小説に出てくるキャラクターであり、与えられた役割を演ずるものでしかありませんでした。本質が変化したとは思えないけれども、私の中にある自覚はとにもかくにもこの私が小説のキャラクターであったというもので、この現状を打破せねばならないという内的な発意であります。その実践方法は検討もつきません。私は不勉強で真理めいたものも、その真理に向かう方法などというものの糸口さえつかめていないのですから。けれども、意識の上ではこの痴れ者からの脱却は何においても達成されねばならないものであるという確信はあるのです。道徳に対する悪の芽生えは私にこのことを知らせてくれます。

02.11.29

 ポケモンのサファイヤバージョンのクリアを、チャンピオンリーグの制覇ですが、しました。最近の忙しさの中での唯一の清涼であったポケモンも一区切りがつきました。よくもこれだけの時間をポケモンに費やせたかと思うと不思議なものです。幸いにも発表などの山を越えて楽になったからだとは思うのですが、それでもやらねばならないことはありました。それをさしおいてもこのポケモンをやっていたのは何か逃避をしたかったのかも知れません。
 さて、それはよいとして、終了時のパーティはグラエナ、ロゼリア、サーナイト、ピカチュー、ヤミラミ、カイオーガの6匹でした。四天王、及びチャンピオン戦は思いの外苦しいもので、圧倒的なポケモンの質に阻まれてなかなか攻略することができませんでした。ハガネ属性やドラゴン属性は私のこのパーティには難関でした。可愛い野生ポケモンに目移りしてしまい、可愛いものを育てようという方針のもと集めていったパーティは必ずどこかに私の好みが反映されていないと使わないという戦力度外視のパーティ構成にはさらに厳しいものでした。グラエナは案外格好良くなったのですが、能力がラッタ並みでレベルを幾ら上げても弱かったのです。ロゼリア、サーナイトは草ポケモンであるから、もともとから弱いのに加えて、弱点が多いという致命的な欠点を抱え、ピカチューはピチュー時代の防御力の低さを継承して、物理攻撃を受けた時点で絶命してしまいます。、もっとも、レベルも低かったのでちょっと強力な攻撃を受ければどれでも戦闘不能になってしまったのですが。ヤミラミは数あわせで、戦力的には大したこともなく、頼れるのは直前のイベントで捕獲したパーティ最強の助っ人のカイオーガでした。戦いはとにかくカイオーガ主体に進められ、時にパーティはパーティの誰もが苦手とするポケモンに対してカイオーガが用心棒のごとくに登場し、敵をなぎ払ってくれました。カイオーガも苦戦する局面ではカイオーガの回復及び復活の時間を稼ぐためにパーティは盾となり命を張って勝利のために戦いました。結果、辛うじて勝利こそ収めることができたものの、パーティは数多くのげんきのかけらを消耗するのでした。しかし、別に私は自分のうち立てた方針を不味いものとして撤回するつもりはありません。というのはこれが私の楽しみからであるからです。これは当たり前のことなのかも知れませんが、やはり好きなポケモンの方が愛着もわきますし、戦うための愛嬌の感じられないポケモンというものを無理して扱っては楽しくはないでしょうから。
 ポケモンというのはバージョンが新しくなる度にポケモンの世界で主人公がどういうトレーナーになるのかより自由に決定できるようになってきたと云えるでしょう。がむしゃらにポケモンをコンプリートしたり、最強のポケモン軍団を作ってみたりという傍らで、私のように好きなポケモンだけを囲って満足するだけでも構いません。やり込み以外の方向でシナリオ終了後も楽しめるのは、あるいはやり込みの度合いが個々人の方針で自由に行えるのはこのゲームの最大の魅力でしょうう。ポケモンの世界という独自の世界が構築されて、その中で自由にふるまえる、主人公の行動がプレイヤーの意識を反映させる、このゲームは人に飽きられないだけの魅力があります。
 これを支えている要素はゲームのシステムであるのですが、さらにこれを支えている要素の1つは、ここでは簡略に見解だけを述べるだけにしますが、テレビとゲームの相互から人々の、ポケモンを好む人に限定されますが、意識の中に確固たる世界を根付かせたからであると云ってさし支えないでしょう。この下地があるからこそゲームの世界によりふくらみが感じられ、まさにその世界に身を投じることができると考えられます。好きなポケモンと好きな自分を振る舞えるのはポケモンの世界がある意味では第二の現実世界となり得るのです。というと語弊があるかもしれませんが、感覚としてはこれであると思います。それはポケモンを扱うという感覚がポケモンの世界と卑近になっていることによってより容易になされるからなのです。

02.11.27

 昨日は結局、その気力の限界を感じ、レポートの期限内の提出は諦めてしまいました。一度諦めてしまうと、これほど清々しいことはありません。来週はその期限を無視したそのレポートに加えて、延長となった発表の原稿の再検査、そして、グループディスカッション用の問題提起など、やらねばならない課題は山積みです。土曜日にあるTRPGの集まりにマスターとして参加せよとのことなのですが、これも大きな負担です。私には半日かけて遊ぶ余裕などというものは、しかも、シナリオを構築して披露するだけの体力も惜しいところなので控えたいところなのですが、この集まりは何度も声をかけてもらっているのですが、その度毎に予定が入っていて、というよりは最近、休日に余暇を楽しむという余裕がなかったのが実状であったのですが、断っていて、今回もというのはそれはあまりに不義理かと思い無理に予定を圧縮してしまうのでした。個人的にこう義理で遊ぶのはもはやレジャーではないのではと自覚しているのですが、これも仕方ありません。とりあえず、この様な頭を抱えるべき問題はあるのですが、昨日は久々に余暇を楽しんだかと思います。家族とスコットランドヤードをして、睡眠を充分に取って、といっても普段の2/3程度ですが、そして、今日は先生にできていないと素直に申告したのです。運が悪かったのひと言で解決させるとこれほど楽なことはありません。何もかもがむしゃらに猛進するというのは美徳ではありません。
 さて、今日はこのような話をするつもりはなかったので、本題へと移ります。といっても、大したことではありません。今日はそれでも永遠と続く講義をこなしながら、休み時間にコミックを読みます。コミックというのは読者に対する要求水準は低いのが常ですから、高度な思考をしなくてすみます。ちょうど、何も考えずにただ快楽のために突き進む行為のようなものです。とはいいながら、今日読んだコミックスはなかなか面白かったので、紹介します。『GUNSLINGER GIRL』(相田裕著 株式会社メディアワークス)という本です。何と事はない、女の子と銃の出てくる他愛もない話かと思いきや、残酷な純粋さというような、物語全体を覆う暗さとその暗さの引き起こす女の子の心理と可愛さはそれだけで哀しくもなりますが、何か共感できるような、おそらくそう感じるのは私だけのような気もしますが、不思議な気持ちにさせられます。これは一読の価値はあるかと思います。

02.11.26

 とりあえず、ゼミの発表も一段落して、といっても来週に繰り越しされているのですが、一息吐こうと思いきや明日にはレポートの提出が迫っています。早うこの抑圧から解放される日を望みます。さて、今日はそのレポートの参考資料を探しに図書館へと足を運びました。今日の授業を終えてやっとの思いで行くことができました。それは夕方のことだったのでしたが、いつも使っている車を父が乗って行ってしまい突如、別の車を探さなくてはいけませんでした。仕方ないので、普段使われていない、トラックを使うことにしました。アクセルを踏んで、いつもと感じが違います。重量がトラックの方が高いはずですから、それのためかと思ってあまり気にもせずにいました。というのは、普段、左のマニュアルに乗っている私には国産のマニュアルは非常に勝手が違い使い辛いものです。必ずといってやることはライトをつけようとしてワイパーが動かしてしまうことですが、今日はそれに加えて、ギアチェンジの ために右手をドアにぶつけることです。やはり1つの車にしか乗っていないと慣れというものがかなり働いてしまうもので、どちらの手を使ってギアを変えるか一瞬、迷ってしまいます。まあ、この問題はとりあえず公道に出る頃には解消されましたが、走っていてやはり違和感があります。それは勝手の違いだけではありません。以前、乗った時以上に加速が悪いことです。赤信号でふと、荷台を確認すると大量の落ち葉が積まれていました。そして、毎時30q以上出してしまうと落ち葉のいくらかが散ってしまいます。あえなく出戻るのでした。次は母の車を略奪して、乗り込みます。致命的なのは、この欠点のために私はトラックを最初に選んだのですが、エンプティ寸前であることです。ガスステーションに行くのは面倒なことです。ついでにオートマであることです。この際、右ハンドルであることは諦めるとしてもオートマというものは乗りづらく気分の悪いものです。せめてもの救いはトラックのように国産でウィンカーの勝手も違うということはない点でしょうか。とにかく、こうして要らない体力の消耗を経て図書館へ行き、ついでと云われて買い物をこなし、帰ってみるともう勉強する体力も尽きていることに気づくのでした。……私はもう充分に頑張りました。もし、私が時間の使い方が悪いと非難されるならば、というのは当然ながらある程度発表やレポートは前もって予告されるものでそこから計画的に行えばこの困難は避けられたはずでしょうから、云っていただけいて結構です。事実、課題の多くは先月に告知され、それまでの期間には学園祭という非常に余裕のある時期も存在したことを認めます。しかし、その日は私的な用で、その用も無駄なものではあったのですが、浪費してしまい、その様な問題も1つの要因となりながら結果、余裕のない戦いに先々週から駆られているのです。もう、余裕がありません。ということで、今、私は明日のレポートのために努力するか否かを思案しているところなのです。ありがたくも助言してくれる人がいるかも知れませんが、考えるくらいならば本を読み進めなさいという類の助言は無用です。それに気づいていないほど盲であったならば、多分、既に読んでいるでしょうから。

02.11.24

 明日もゼミの発表があり、どうも最近家に帰って本ばかり読んでいる記憶ばかりあります。本というものの多くは純粋に面白く、その先にまつ未知の世界に好奇心をもって接することができるものです。しかし、時間的な制約を受けた状態での読書というものは何とも欲求不満にさせるもので、それが原因か余計に疲れてきます。読書離れの理由にはこうした時間的な制約をもって、あるいはそれに似た外からの強制要素をもって、読書の時間が設けられるためではないかと思ってしまいます。

02.11.23

 道を歩いて思うことは最近は舗装された道路ばかりで、都心などは街路樹や花壇のために土があるくらいで自然の土というのはそう見ることはできなくなっています。私はある程度成長してファッションなどというものにも気をつかわねばならないのかと思う年齢なのですが、といっても基本的には無頓着なのですが、それもあってか普段利用するのはランニングシューズです。ランニングシューズは軽量になるように作られていますから、その底も薄く足下の感触が伝わってきます。舗装された道路ばかりを歩いているので、そうそう変化のある感触には出会えませんが、それでもそういう感触に出会えればと思いその願いも込めての運動靴です。都心にいて、全方位を見渡すと四角い空にコンクリートの地表、緑も茶色も見られないモノトーンの景色はある種の異常にもに思えます。自然への回帰というのは最近の流行ですから、この感には多くの共感を頂けると思いますが、そうしたものがなくてもやはりおかしく思えます。何がおかしい、動物はあらゆる環境に適応する能力を持った存在であるのであるし、都市生活という環境に適応しているだけだと云われてしまえば、それまでです。また、人間には己の意思に従って自由に生きる力がある、それを妨げる無根拠の暴力は排除せられればならないと云われれば、私には反論もできません。しかし、それでも、なお私がこの状態に異常さを感じるのはこうした生活が何かしら動物の根幹にある自然の原理というものから逸脱している、あるいは動物の根底にある自然の性質にそぐわないからなのではないとふとして思ってしまうのです。足の感覚というものが薄れていくというのはどうかと思うのです。

02.11.21

 ボジョレーヌーボーが解禁となって、とりあえず、買って飲んでみました。昨年まではお酒に関する知識など皆無であった私も知らず知らずのうちにその解禁日を待ちわびていたのです。もっとも、私は特にこのボジョレーヌーボーの味を知っていたわけでもないというどころか、ろくにワインは飲まないでいたので、私がこうしてこのワインを待つのはミーハーで単に世間の騒ぐところに同調しただけに過ぎませんが。
 さて、飲んでみて、軽やかな舌触りと果実の味わいが印象的でした。ワインというものはよく分かりませんが、このワインとは私の好みのところでした。
 そういえば、今日はポケットモンスターの新バージョンも解禁となりました。説明書を読んだだけですが、何やら面白そうな機能が充実していて、楽しみです。ポケモンは既に多くのファンを抱えているので、それだけ同じゲームをしている仲間と遭遇できる機会が増えてきました。ポケモンが最も楽しい通信ゲームとは思えませんが、多くのユーザーがいるというのは通信ゲームにとっては非常に強みであります。
 詳しくは知りませんが、ポケモンといえば、任天堂の巧みな広報活動が取りざたされるとのことです。初期のポケモンも確かに面白いものでしたが、発売から即座に有名になったのではないそうです。ボジョレーヌーボーのこともやはり詳しくは知りませんが、解禁日を定めて、それを厳格に守っています。
 有名で世界の人々に愛されるこの2つの商品はいずれも宣伝というものが大きな役割を果たしているといえます。ボジョレーヌーボーもきっと解禁日を定めて大々的に宣伝をしなければ、大衆に知れ渡ることはないでしょう。ポケモンはその存在は古のものとなっていたでしょう。こういう大衆を対象とする商品の場合、やはり何にも増して重要なのがこの宣伝と云うことであるかと思います。営業戦略としての宣伝は人々の脳髄を支配して、確実な購買欲を根付かせます。存在を知らなければ、買いたいとも思わないでしょう。飽食のこの時代、ニーズというものは満たされています。今私たちが共通して欲する商品などというものがあるでしょうか。何が欲しいとも思わないのにものを買ってしまうのは、その1つの要因として、それが欲しいと思わせる宣伝活動が根底に機能しているということは頭の片隅に置く価値のある認識であるかと思います。

02.11.20

 通学、通勤者にとって、雑誌というものは非常にありがたい存在であるかと思います。余暇の使い方というのは人それぞれで、暇には雑誌を読むのが正しい在り方だと断言などはできませんが、少なくとも私の最善の方法はこの雑誌を読むと云うことです。通学中は、自分の与えられるスペースと行える行動は限られたもので、自由が保障されているなどと云うことはありません。私の観察によるとそこで人々は大概は目をつむり、俯いて時々頭を揺らしながら目的地に着くのを待っています。それはそれでよいことなのでしょうと理解することもできるのですが、私にはこれを実践することはできませんでした。余程疲れていて何をする気力もないというのならば別なのですが、どうやってこの他人の動作を真似たところで気持ちよくうたた寝などはできないからです。各駅に留まり、発車するたびに姿勢制御に頭を使い、そのたび毎に覚醒水準が元通りになってしまいます。余計に疲れてしまうこともしばしばで、特に昼からの授業の日などは目は覚めていますから、無理に眠ろうとするのは困難な作業です。そうするとやはり何か別のことをしているの必要性のようなものが生まれてきます。
 私の場合、それは雑誌を読むと云うことでした。雑誌というのは大体の場合、社会の現象を政治や経済などのカテゴリーに分けて、そのカテゴリーから満遍なく、時として偏ることもありますが、記事となって載せられていますから、特に読みたい記事があるわけではなかったとしても、読めば何かしらの興味を引くものがあるはずで、買うだけの価値はあるというものです。それに当たり前のことですが、各記事は長くとも数ページで完結しますから、電車の終着駅で特に内容が中途半端になって味気ない思いをすることも少なくなります。しかし、何よりの魅力は私の適度な知的好奇心を満たしてくれると云うことです。車内という性質上、時に五月蠅いと感じる車内放送や時に存在そのものを否定したくなる場違いな音量の会話など、容易に各人の安楽権などは侵害されてしまいます。もっとも、そのような権利は車内では保証されていないのでしょうが。そのために、たとえば難解な哲学書を読み解こうと思ったり、将来のためのビジネス英会話を修得しようなどということはよほどの集中力と体力、気力がないと実行できません。こうしたことを難なくこなせる人も中にはいますが、私の場合は全然駄目でした。雑音に惑わされて、雑念を抱き、粗雑な読書になってしまうのが関の山でした。それならば始めから学ぼう、より高みの自分を目指そうなどと云う不可能な希望は放擲してしまい純粋に自分の身の丈にあったことをしているのが、結局は楽であるし、心身の安定には有効であります。より良い自分になろうとする欲求は決して悪いものではありませんし、その手段として通勤通学時間を用いるのは理にかなっています。しかし、それを維持するのには固い決意が必要です。自分の領域を超越してしまったことを混雑した制限ある車内でやるのは大変です。自己改革は環境の良いところでやった方が効率が良いものです。環境の悪いところでは自分が楽にこなせることをするに限るでしょう。
 何もしないというのも暇であるし、高すぎることも害悪です。では、私はどうするか。といってしまうと私の程度が知れてしまいますが、売店で買った“AERA”を読んでいます。別に何でもよいのです。音楽雑誌でも少年漫画でも、とにかくその人の気質と程度にあったことをするというのが最適なことなのです。何しろ電車に揺られながら立ち尽くしているのは体力も使いますし、暇なものなのですから。

02.11.19

 睡眠をこよなく愛し、お酒や食事などよりも眠ることをとる私にとって、18日はまさに私は死の世界を生きていました。私の貧相な知識ではゼミの発表を生半可にやることはできませんので、結局、17日の日記をつけたその時間も惜しいほど本を読んで、頭をかかえていた私は夜を徹してこの発表のために尽力していました。そのために18日は朝から夜まで普段から、もっと空費せずに時間を使ってさえいられればこのような事態だけはきっと回避できたはずなのにと後悔するも、そう考えてみてもここ最近は忙しくて、できた余暇に高度な思考を展開させるだけの気力は残っていなかったなあと、振り返ってしまいました。思えば、来週の月曜日は、つまり25日は、そのゼミの発表の続きと他のゼミの発表が重なり、勤労感謝の日のあることを感謝していたりしています。週6日学校に通い、そして毎日高校生がするように語学があって、それにはある程度の量の予習をする必要があります。その中で発表をせよ、レポートを提出せよと云う大学は何とも理不尽に思えてきます。ちゃらちゃらと遊んで過ごせるパラダイスは何処へ行ったのでしょう。大学というものは学生に干渉せずにただ単位を与えるものであればそれでよいはずなのに、最近は勉強しない学生のために出席簿を作り、規則を作り、教室へ来るように生活指導をしてくれます。その意気込みには評価をします。しかし、真に勉強をしようと思うとこの制約は非常に大きなものがあります。ただでさえ卒業に必要な単位が多い状態で、私の場合、教職課程を履修している関係で実はそう思っているだけなのですが、興味もなく、しかもあまりためにならないものもあり、それだのに出席を求める教科の多いことが私の体力と時間を奪っていきます。本を読むにも通学の間、少しずつ読むしかなくて、そうするとあまりちゃんとしたものは読みたくはなくなってしまうので、簡単に読める漫画か雑誌のようなものになってしまいます。学校に行かずにすむのならばどんなにか本が読めようと思います。出席義務と必要単位の量は自由な活動の妨げになります。願わくは私に好きな本を読ませてくれるだけの余裕を与えてくれればと思います。
 もっとも、だからといってゼミの発表が嫌というわけではないのです。私はもともとその類を好む気質ですし、発表自体は面白いのです。ただ、こう煩雑な生活を送らねばならない現状では少しないものねだりをしてしまうという程度のことです。時間が欲しいと思うのはやはり社会生活を営む者にとっては大きなものなのでしょう。私も残念ながらその例にはもれていないようです。つまらないことを書いてしまいましたね。

02.11.17

 忙しいので、ただ簡潔に述べるだけに留めますが、勉強は面白いです。こうして、本を読み事典をめくるのは純粋に面白いのです。煩雑な日常生活と課題とで、その喜びに雲がかかってしまうことはしばしばですが、その中でもこの心地よさを実感することができる時もあります。こうなると時間の制約こそなければいくらでもこの知性の海に身を委ねてしまいたくなります。そうしていつもありあまる時間を浪費しておきながら、今この時間のなさを呪ってしまうのです。

02.11.15

 壊れたオモチャは明日にも捨てられるだろう
 捨てられてもオモチャは想っている
 顧みられるのをひたむきに願っているはずなのに
 決して恨んではいない
 汚れて欠けてしまっても愛着される同胞に
 ひとしきりの尊敬を抱いているのに
 決して妬んではいない
 ただ、彼の人を想っている
 いいじゃないか
 オモチャなどというものはせんずるに
 想うことが本分で
 わがままなんて云えないのだから
 でも
 願わくは愛されたいよ
 生まれたのはそのためなのだから

 昨夜、ふと思い立って枕元で筆を走らせてみたその産物です。私には文才などというものがないというのは周知の通りですが、やはり詩才などというものはそれに以上に乏しいことがこれで露呈してしまいます。それはよいとして、初の詩です。何か感想をと求めてしまうのは作者の性なのでしょうか。
 

02.11.14

 久々にガープスの、それは汎用TRPGルールの1つですが、キャラクターを作りました。というのは長らくやっていなかったガープスをやる機会に恵まれそうで、それならばちょっと気晴らしに作ってみようかと思ったからです。ガープスというのはブリーズと違い、厳密に1秒でできることが限られていて、どのような戦術を用いるかで全く戦闘の様相は大きく変化し、死と隣り合わせの戦いには緊迫感があります。人間の力の限界によって制限された、その中でどのように戦うかというちょうどガードゲームか何かをやっているかのような気持ちにさせられます。ブリーズの場合、あまりそういう風にはなりません。もちろん、ガープスのような戦術性に富んだ戦いができないことはないのですが、それよりも過激な動きと華やかな効果と軽々と人間の力の制約などには縛られないで、その戦いは戦術よりも爽快さが追及されています。別にどちらが優れている、ルールとしてはガープスの方が洗練されているのかもしれませんが、というわけではないのです。緻密な戦術に基づく死闘、あるいは屈託のない爽快さに基づく殺陣、もし、参加者が知的な快楽を求めるとしたならば前者でしょうが、後者の手放しの笑顔が悪いことはないでしょう。考えないことが悪いことであるというのはつまらない強迫観念であるでしょう。もし、そう云えないとしたならば、それは考える能力がない人が考えないということで、これでは折角、知性という最大の遊具を持っている人としては確かにつまりません。考える能力を持った上で、それを行使するかしないかはその時の気分にもよりますが、人の自由というものです。
 それはそうとガープス、やりたいですね。

02.11.13

 悪いことというものは重なるもので、最近、世界の不幸を一身に受けているこの気持ちに上乗せするかのように、またも嫌なことがありました。今回のこの嫌なことというのは私の気の持ち方がしっかりしていて、しかも節制に努めていれば避けられた事態なので、その意味では私の精神力の弱さがもたらしたことと反省すべきことなのかもしれません。
 暴飲暴食というのは控えめに云っても、よいストレスの発散方法とは云えません。しかし、最近はその他の方法で解消しようと思っても充分な時間が得られないことが多く、結局、身近でできることとして知らず知らずにこの方法を選択してしまっていました。しかも、ある時までは比較的に余裕があって、まだ酒を飲むことができたので、それほど食べずに済んだのですが、ごくごく最近は夜中にでもやっておかねばならない課題があり、飲んでしまってはこの処理にも困ってしまうので、飲めない分余計に食べてしまいます。こういう時、これは本当に私の精神が脆弱であるからなのかもしれませんが、自分の意志とは関係なしに食べてしまいます。普段、それ程食に対して執着心のないと思っていた自分が偽りであったかのように食指が動きます。麻薬の依存症というものがどれほど強力なものかは知りませんが、それと同じ様な状況に私はいるのではないかと思います。
 しかし、こうしていると、それは単に私だけなのかもしれませんが、普段、私は私であると確かに個人の確立をその内面において自覚しているはずの個人も移ろいやすくその心を変えてしまうということを、何かより強大なものに懐柔されてしまうことを思い知らされます。何か私は私である前に動物であり、ヒトであるようで、この私などというものが代替不可能な尊厳ある個人などとは思えなくなります。そもそもそのような個人が真に存在するかどうかの議論は控えるとしても、その幻想を抱いていればひとまずは希望というものがあって、前向きに考えられるものです。与えられた安住できる価値観を疑うことはヒトが人たるための最大の武器ではありますが、それとは違うことを見せつけられると苦しいものがあります。別にそこから既成の価値観を克服して新たな世界を構築しようという野心を持つ精神的な余裕もないとこの宣告は心を痛めるものに過ぎません。何も知らないエデンの園にでも、桃源郷にでも、いられればそれこそ幸せなことはなかったろうと思います。

02.11.12

 今日は少し情けないことがありましたが、もはやそうして情けなくなるしか私の存命の手段はなかったのです。私が所用で駅前まで出掛けようとしたところ、60キロ制限の道を40キロで走る車がありました。遅いです。その車の所為で3台ほどがきっとこのストレスに耐えていたことでしょう。私はその道が二車線であったことを幸いにして車線を変更して追い抜かすことに決めました。70キロぐらいは出したでしょうか。すぐに問題の流れを淀める車が見えてきました。その頃はもう日も落ちて街頭がついていたのですが、その街頭が並木に遮られて前は暗くてよく分かりませんが、白と黒のツートンカラーのように見えます。さらに近づくと車体の上部には赤っぽいものが付属されていました。気づいた時には手遅れでした。私はそのパトカーをそのまま抜くしかありませんでした。パトカーを抜くのはやはり強靱な精神力がいります。10キロオーバーしかしていませんから、普通は捕まることはありません。普通はパトカーもそれくらいで走り、その程度の速度で走っておかないと後続の人の精神は時として乱されてしまいます。しかし、法的には私に罰金と減点を申し渡すだけの理由を国家権力は有しているわけで、もしもそのパトカーの中の警察官が暇でしかも平生の精神状態をしていない状態だったら、きっと私にはそれが通告されてしまうことなのでしょう。そう考えるとパトカーを無視してそのまま突っ切ってしまえばよいものを減速して、法定速度を維持してしまいます。結局、私は中途半端で嫌になってしまいます。

02.11.11

 最近はどうしてか忙しいのです。学園祭の期間を予期せぬ事態が生じてまともに活動できなかった私にはこの忙しさはそのツケのようにも感じられます。まだ、睡眠時間を大幅に削らざるを得ないと云う状態だけは避けられてはいますが、体力と根性の低い私には現状の生活もやや苦しいものとなっています。そんな中、月例行事となりつつあるブリーズの会を開きました。こうして生活がいろいろと辛いと思いながらも、仲間と話してみるとやはり彼らの方も忙しいらしく充分な休息が取れていないとのことです。それを聞けばもう少しぐらい耐えてみても罰は当たらないと戒めねばなりません。
 シナリオが終わって、雑談を経て解散となった後、私はメンバーの2人を立川駅へと送っていきました。その1人がご飯を食べて行くことになっているというので、私はもう1人のメンバーも巻き添えにして私の気に入りのレストランへと連れて行きました。そこは“マユール”というインド料理のお店でカレーとナンがとても美味しいお店なのですが、ここは美味しいので機会があればあなたもいってみると良いでしょう、メンバーの1人の所持金は底をついていてそれを食事に誘うというのはやや酷なことだったかもしれません。当人も帰りたそうにしていたのを私ともう1人のメンバーの懇願にも似た説得によって結局食べさせてしまいました。私はそうしても食べるだけの価値はあると思っていましたから、誘ったのですが、彼はそれで満足して頂けたのか若干疑問なところがあります。しかし、こうして私が云うのも何ですが、案外交際費というのも馬鹿にはできなくて、不意に当人に出費を迫るものであります。
 最近、無駄遣いが多くなっている私なので、買うものはお酒ばかりですが、人のふり見て我が身を正せといいますか節制をしなくてはと思います。いや、そもそも彼を債務者へと追いやったのは私ですから、私の云うべきことではないということは自覚していますので、その点の追及はなさらないでください。
 でも、人として何が必要なのかを考えてみると、それは私の個人的な価値で、しかもこれから証明しようと試みるわけではないので、感覚的な話ではあるのですが、よい人と楽しい時間を過ごすことほど幸せなことはないかと思います。朋友遠方より来る亦楽しからずやであります。よりよい人とより親密な関係を築くことができれば、その他に望むものなどはあるのでしょうか。はあ、そう思うとあの人に振られたのは辛いことですけれどもね。

02.11.9

 今日は大学の教職課程の主催の講演会に出席をしました。講演ではニューヨークの日本人学校の9・11についての話など興味深い話をききました。
 さて、そこで渡された資料の1つにその学校の生徒が書いた文集の一部が紹介されていました。その文集の題材は全くの自由でありましたが、その中には9・11に関する作文がいくらか載せられていたそうです。その作文を見ると、確かに稚拙な文章表現や知識足らずの部分が見受けられるのですが、決定的に純粋で、しかも、決して低レベルな思考ではなくて、潜在的に高い思考能力を持っていると云うことが分かります。その学校は生徒の質もまた教育の質も高いと聞いていますが、それでも子供の洞察力や思考力の高さには驚かされます。思考の質においては知識の差は大人とあるといえども、子供はそれにひけをとらないということを思い知らされました。

02.11.7

 いつも、長々と書いてしまうから、何かエッセイじみたことを書いてしまうから、忙しいと続かなくなってしまうので、そういう忙しい日は簡単なことを書くに留めようと思います。
 さて、昨日は事情が事情でいつもよりは比較的飲んでいたかと思います。そうすると翌朝は起きられないもので今日も半生半死のような面もちで目覚まし時計と相談しながら、二度、三度、ベッドに身を埋めるのでした。最近、二度寝をすると何故か英語の夢をみるのですが、今日は白肌、ブロンドの美少女に怒られていて戦闘機で飛び立つというわけの分からない夢でした。まあ、それは蛇足でそんなことをしていると午後からの授業であるにもかかわらず、もうすぐに出なくては行けないという時間になってしまい、その授業で必要な語学の予習は結局なされないままにしてしまいました。予習をしなければ即座にフランス語を訳すなどという高度なことはできない私ですからきっとつまってしまうに違いありません。これは一種の危機のようなものでした。しかし、私には安心できる要素がありました。その語学の授業には友人がいて彼は予習をしてくる人なので単語の訳を写させてもらえれば、なんとがしのぐことができるのです。もちろん、普段は私は予習をしているわけですから、助力を願うことはないのですが、こうしてある時には依存できる状態があるということは安心できます。

02.11.6

 私がブリーズネットの更新はおろか、ゲート計画や日記の更新さえ無視していた背景には以下のような出来事がありました。そう、私は失恋しましたのです。一度も顔の見たことのない話もそれほどしたことのない人に、私は本気の恋を寄せていました。どうしてそうまで恋をしたのか、それはここでは省略する、知りたいという人がいれば話してもよいですが、けれども、やはり本気の恋でした。冷静に考えてみれば、その無謀でしかも独りよがりな熱情は彼女にとっても迷惑なものであったに違いありません。さて、今日の本題はそれではありません。そのことについて詳しく話すのは私の傷を大きくえぐるようなものに等しくてそうそう自ら気軽に話せる内容でもないからです。
 失意の私は昨日、翌日に学校のある日は飲まないと云う自分の課した約束を無視して、飲んでいました。やはり私は寂しい存在で誰も私のかたわらにはいないようなそんな気持ちでたびたび迫る発狂にも似た感情を理性と酒との相反する力の助力を得て抑えながら、時が私の叶わない思いを風化させて、明日の日の出の昇るのを待っていました。もちろん、この気持ちが易々と風化されることはないのですが、とにもかくにも明日を生きるためには寝ねばならないと努力をしました。結果はひどくつまらないありふれたものでした。私のか細い神経では酒を入れたくらいで寝られるはずもなく、眠れぬ時に苛立ちながら、日の出を眺めることになりました。これくらいにならなければ、私のこの感情を賭けただけのことはないとそれはそれで満足するのですが、辛いことには変わりありません。森羅万象、すべての事象が私の秩序に反するようで、私のこの身体の器が保っていられなくなるようなひどい悲しみが襲います。
 でも、私には少し救われたことがあるのです。もっとも、その救いは私にはきっと後にそれ以上の厄災をもって私を襲うのではないと確信できる出来事でした。大学からの帰りの電車で、となりに座った女子高生3人組の話に耳を傾けていた時のことです。いかにも知能の劣っていそうで、何も考えていないのではと思わせる2人の女子高生が夢中になって話をしています。そこに残された1人の思慮深そうで、柔和な女の子はその話を聞くこと聞かぬともつかない素振りで前を向いています。私は彼女たちは同じ制服を着て並んで座っているとはいえ、彼らには友好的な関係はなく単に同じ学校の人間が並んで座っただけなのかもしれませんが、一度その思慮深そうな彼女に返答を求めるシーンがあったのではそうではなさそうでした。私には、相手がどう思っているにせよ、それは本当は錯覚に過ぎないことなのかもしれないのですが、何の遠慮もなく泣きついたり、本音で話をしたりする友人がいますし、もっともそういう場合の私の話を聞く彼は迷惑そうですが、幸い電車の帰り道に無視される機会はありませんから、非常に彼女が寂しそうに見えてします。思わず怪しいおじさん、決してそのように呼ばれる年齢ではありませんが、と呼ばれる覚悟をしても話しかけてみたと思うような悲しそうな目をしている人でした。
 また、その後、私がカクテルの素材やら、酒のつまみやらを買いに行ったスーパーのレジでは、見るからに疲れていそうな中年の禿げたおじさんが一杯の酒と半額のシールの張られたお総菜を買っている姿を見て、食事を作ってもらう人もいないのかとやはり悲しくなってしまいました。
 私には寂しいことが最大の不幸だと思われます。失恋というのはやはり寂しいことですし、恋をするのもやはり自分が寂しいことが発端となっているように思えます。それはプラトンの饗宴』のエロースのように、自分の片割れを探しているかのようです。この寂しさは真実ですが、それ以上の寂しさはきっとこの世界には蔓延していることなのかもしれません。寂しさにレベルを設けて、そのような寂しさは大したことではないと云うことはできないでしょうが、この寂しさを紛らわせてしまうことはできるかもしれません。それは決して真理に目を向けたことではありません。文字通り逃げていることになります。けれども、逃げて何が悪いでしょう。逃げてでも自分を保っていられるのであれば、それで構わないではないかと思えてきます。

02.11.1

 昨日は西武球場へ行きました。そして、あの凄惨な試合を見たのでした。今年の西武は久々にリーグ優勝し、私は日本シリーズでの活躍を期待していました。初戦からその試合内容は正視に耐えるものではありませんでした。第1戦から第3線まで何度テレビの電源を落としたか分かりません。それでも、第4戦はと思い希望を胸に球場へと向かいました。その希望は残念ながら叶うことはありませんでした。
 先制の2ランを受けてからも、巨人の潜在的な打撃力は恐怖させるものでした。ヒットにもなりかねない打球が数多く飛んでいきました。一時、ランナーを置いてカブレラというチャンスがめぐってきましたが、この時、流れは確実に西武に傾いていると感じられ、私はここでカブレラは売ってくれるに違いないと信じて疑わない場面がありました。巨人の投手は牽制球を多用して、カブレラの集中力を削いでいきます。それは戦術的に見れば非常に有効な手段に見えました。もちろん、それ以上に卑怯極まりない行為で、私個人としては西武の投手にはそうはして欲しくないと願うものでした。しかし、確かに雰囲気が変わっていくのが感じられます。最後にはカブレラはきっと打てないであろうと思ってしまうほどにその場の雰囲気は変容しました。それから、一時反攻ムードが高まったのですが、その次にはその希望はもろくも粉砕され、あとはずるずるとこれまでの戦いと同じ道を辿る結果となりました。 
 野球に限らずにスポーツ観戦というものはエンターテイメントとしてはギャンブル性の高いものであると云えるでしょう。筋書きのないドラマと云われるように誰もその結果をしることはできませんし、自分の好みの展開になるとも限りません。もしそのようなことをしてしまえば、スポーツの意味がなくなってしまい、それこそ無価値なものになっています。けれども、当然の事ながら、自分の望んだ経過、結果とならなければ、それはつまらないものだと云うことになりますし、それどころかその試合が始まる前よりも不満になることさえあります。そういう意味では、スポーツなどというものはチケット代と長い時間、そして自分の気持ちを賭けるものであると云えます。賭けに勝利すれば、自分が賭けた分の幸福感が得られます。
 そこで得られるものは感情の変遷ではないでしょうか

02.10.27

 昨日は万年筆のインクを吸引するコンバーターと新しい色のボトルインクを買い、今まで使っていたカートリッジ式を改めてそのコンバーターを使うことにしました。最近はシャープペンシルやボールペンなど安価でしかも使い勝手の良い事務用品が増え書くものには不自由しなくなりましたから、何も好きこのんで扱いに気をつけなくてはいけなくて、それ自体も高ければインク自体も高い万年筆などというものを使うことはないのですが、やはりどうしてかこの万年筆というものには愛着がわきます。
 一般的にものの値段が高いとそのものはなかなか流通しなくなります。そもそも万年筆は需要が少ない商品ですから、利益を確保するためには質を向上させ価格を高価にしていくほかには仕方ありません。結局そのために高級志向の商品となってしまうわけで、この万年筆もやはりそれなりには高いものですからそうそう買い換えたり捨ててしまうことはできない高級品の1つであります。しかし、万年筆などよりもはるかに高いPCはその大きな需要と買い換えの必要性から、あれほど高価なものでありながら高級品という印象は与えません。大衆車や一般住宅も高価なものですが、それほど高級てるあるという印象はないでしょう。それはそれらの商品は需要が充分にあり、しかも、価格に見合う利得があるからです。PCの場合は果たして本当にあるかは疑問ですが。ということは、高級品というのはそうした一般のものに対して需要の枠を越えた付加価値を有している故に価格が高騰化し、需要が狭められて稀少化たものと云えるでしょう。
 そのような高級品というものはその結果として、希少性と愛用されるに相応しい質を持つことになります。別にこれは高級品だからそうであるというわけではありません。普通のものであっても、こうして愛用するに相応しいものはたくさんあります。それは実は高級品かそうでないかの区別ではなくて愛用するにたる条件を備えているかと云うことになります。ただ、ここで私があえて高級品について取りあげたのはものの世界を私なりに概観してみるとやはりそうしたものは高級品に多くあると感じるからです。
 さて、愛用するにたる条件ですが、それは簡潔に云えば、私らしくあって、そして代替するのが困難なものであることであろうと思います。昨今、デフレの世の中となりものは売れなくなったと云いますが、消費者というものはやはりある部分にはお金を使っているのだそうです。特に執着のないものに関しては薄利多売の店で買い、なにかこれと思うものに関してはそれこそ可能な限りの投資を惜しまないそうです。そのこれと思うものは自分が共感を覚え、自分を表現するのを助ける物であるのです。私の場合、この万年筆がなかったとしても生きるのには困りませんし、それこそ筆記用具に過ぎない物ですから、なければないで別のペンを使うことでしょう。けれども、わざわざ扱いも面倒でインクを買うたびに泣かされる万年筆を使うのはこうして万年筆を使うことで、私が私らしくあるのではと、万年筆は私を表現するための一助になると考えるからなのです。それはつまり個性を表そうとする行為であり、今もそうしているのかはしりませんが、女子高生がルーズソックスなるものをはくのと同じ様なことなのです。愛着するものにはそういった理由が大体は存在するかと思います。万年筆は1つのものですが、特にそういうものに限らずにある種類のものというのでも良いでしょう。私はウィスキーはある銘柄を愛飲する、私はシャツはあるメーカーのものを愛用する、私はある本を定期購読する、私は……、私は……。いろいろな手段でその個性を表現しようと試みる人々の1つの方法として愛用というのがあります。これは代替するべきものというのはありません。それは私の万年筆を持っていなければ、他のペンを使うこともあるでしょうが、基本的にはそれがよく、それを使うことが私であると感じたならば、それを代えることは少ないでしょう。万年筆の愛用家が翌日にはボールペン愛用家に変わることはないでしょう。
 あなたは何を愛用しているでしょうか。特にものなどを使わなくとも、個性を発揮できる人には無用なことでしょうが、一度、自分の身の回りの道具について考えてみるのも自分を見つける手掛かりになるかもしれません。それに、もし人の愛用品というものを見る機会があれば、そこから読みとれるその人のメッセージを汲み取ってみるのもよいかと思います。たとえば、彼はある品物の作り手の精神に共感したのかもしれません、彼女はその品物がみせる不思議な魅力を愛しているのかもしれません。

02.10.24

 今日は体調が良くなったかと思って大学へ行きました。しかし、終わって帰ってみると何かまた調子が悪くなり、今日も大人しく寝ていれば良かったかと後悔してしまいます。さて、それはそうとこのような話ばかりでは退屈なので、一昨日の話をしましょう。一昨日はある友人と放課後に池袋の映画館に行きました。私はあまり都会を歩くという習慣がないので、ほとんど歩いたことのない池袋は複雑でその友人と迷ったら最後、きっと再会は困難であったかと思います。そんな中、見た映画というのは北野武監督の『Dolls』でした。北野武というとベネチア国際映画祭のグランプリが印象にありますが、普段は対照的にコスプレしてテレビに登場することもある芸人上がりの人です。確か、私が最初に見た北野映画はWOWOWでやっていたグランプリ受賞作である『HANABI』でした。そうはいっても、その時は何か忙しかったのか北野武が銀行強盗をしようとしているシーンを見ただけでした。ドールズを見ることになり、折角だからと思い、『HANABI』もレンタルして見てみることにしました。
 北野映画に共通する点、といっても2作品しか見ていないのですが、映画が静かで象徴的な抽象描写を重ねているものであることが分かります。時間はゆっくりと流れ、映画を見ている最中に既出のシーンと現在のシーンとの関連を考える余裕が与えられています。次の展開を想像し、時に裏切られ、あるいは全く先が読めない時もあり、それも楽しませてくれます。それでいて、心は映画に引き込まれるだけの吸引力をもっていて、面白いです。
 ただ、1つだけ問題があります。私の知能はそのテーマを理解するには劣っていて、私の知識はその象徴を読解するには足りずにいます。何となく、そういうことなのだろうか、その程度の理解で、そのテーマを真に理解したとは云える自信が全然わかないところが私にとっては問題です。正直に云って幼稚な私には、経験の浅い私には実感できるようなものではありませんでした。少し背伸びをした気分でした。

02.10.23

 いつの頃からか、大体1週間くらい前のことだったかと思いますが、少し体調が優れなくなり、今日は遂に学校を休んで1日中床についていました。やはり、1日中寝ているとその夢というものがはっきり意識できるくらいに眠りは浅くなるもので、夢をみているというのは楽しいことであると思います。もっもと、起きていると体調が優れないので気分も不快になるのですが、夢はそれを帳消しにするくらい突飛で不思議な世界を私に見せてくれます。私は寝ることが非常な好きなのですが、この好みの最大の理由はこの夢をみられるという現象があるからなのかもしれません。では、最近、このPCまわりは寒いのでこの冷えた身体をベッドで暖めることにしてこれくらいで切り上げることにします。

02.10.22

 私の場合、やる気というものはどうもちょっとしたきっかけで高くなったりもしますが、急激に落ち込むこともあります。もっとも、この日記に関して云えば特筆すべき思いつきや体験というものがその日に起きなければ書かれないのが常なので、この日記が途絶えたからと云って必ずしもやる気がなくなるというわけではないのです。しかし、今回はどうもこのやる気というものが失われたようで、長らく日記を書くこともなく、休日も学校も特に感動することもなく過ごしていました。本当ならばもう少し活動的に休日を過ごしたかったというのがあります。私の学校では18日から21日までが幸運にも休日となっていて私には4日間の自由な時間が与えられていました。当初はこの機会に気の向くままに旅に出ようかとも思っていたのですが、遠出をするにも高速料金の高さに驚愕させられてあえなく断念してからはそれこそ考える力を失ったかのように家にいて適当に遊びを見つけては遊ぶという生産的な活動の一切ない生活をしてしまったのです。どうしてなのだろうかと思います。その前までは確かに私の精神はまっすぐに前を向いていて、それに邁進していたはずなのです。それが何をきっかけにしたのか突然、何事もどうでもよくなって、正確にはそうではないので、多くのことがどうでもよくなって、ただ時間が経過するのだけを怯えていた気がします。
 それはつまり、私の心が不安定でしっかりとした目標を見据えていない所為なのかもしれませんし、私の心が幼稚なだけで、真面目に物事に取り組み続けようと云う精神にかけているからかもしれません。まあ、でも最も大きな原因はそれはそれでもよいと思っている自分自身でしょうか。別にいつも全力である必要はないと思っていて、怠けているのもまたいいことだと思っている私の心がその行動を肯定しているからでしょう。私にはそれでよいのですが、どうなのでしょう。これはこれでよいものなのでしょうか。……何か今日は全然まとまっていませんね。

02.10.17

 今日はカクテルを作るために必要なシェーカー、ミキシンググラスなどを購入して、早速カクテル作りに精を出しました。今日は学校がこれから4日間の休みにはいるので、のんびりと過ごすことができました。しかし、思えば弟の塾に送るまで、お昼寝をしたのですが、そのお昼寝の内容といえば、お酒を飲んでいい気分になっているものでした。今日という1日はこの夢に象徴されているかのようです。私は弟を送っている途中、夢の中のことを思いだしながら、そういえば、私はお酒を飲んでいたのではなかったかと夢と現実の区別が曖昧となりながらも送り、その過程でシェーカーを買っていきました。残念ながら、好みのカクテルグラスがなかったので、今日は普通のグラスを使うことになりましたが、帰ってからはいずれはカクテル作りに使おうと飲まずに少しずつ買っていた十数種類のお酒とソフトドリンクを入門書片手に混ぜながら、シェーク、あるいはステア、ヒルドしてその都度飲み続け、今に至っては悩みなどは退散して幸せな気持ちでいるのです。
 アルコールの作用によって理性的な部分が麻痺して、より本能に従って判断を下せるようになると云われています。こうして私自身がこうも幸せな気分でいるのはそれぼとに普段、理性の抑圧と支配を受けて、理性が発する悩みに純朴に対処しているからであるのでしょう。因果なものだと思います。人は生きるために理性を発達させて現在の地位を確立していきましたが、この理性というものは世界においてかなり堅固な地位を確立させることに成功しましたが、他を排斥し、自らにも仇なす存在であります。しかも、人々はそうあっても理性というものを人格の標準として位置づけてこれに従って生きています。現実、これなしでは私たちは社会生活が行えず、多くの場合は死んだも同然の選ぶ他に道はありませんし、そうだと思っています。けれども、自分に害なすものをどうしてこうも自らに抱えて生きていかねばならないのでしょう。それはいくらか自虐的な要素を秘めた行為ではないのでしょうか。

02.10.16

 今日は学校に行って悲しい出来事がありました。あれは授業の合間のわずかな休み時間の出来事です。私は少し乾いた身体を癒すために自動販売機の前まで行きました。そこは人通りの激しい場所で他の場所よりかは利用者数の多く、特に授業の合間には混み合うこともしばしばあるところでした。私はそこで紙パックのお茶を買うことにして、100円を投入し、それが落ちてくるのを待ちました。……さて、ごとごとと音がするので落ちてきたのかと思いきやいっこうにその気配はありません。受けつけランプは消え、返金レパーをひねってもお金は戻ってきません。……私は呆然としながらも後ろを見ると並んで待っている人がいます。こうしている間も後ろの人のストレスは増加しているはずです。そう思った私は抗議の電話をするよりかはここは何事もなかったかのようにもう一度お金を入れて、何事もなかったかのようにお茶を購入するのが無難であろうと判断して、どうようの動作を繰り返しました。私はまた落ちてこなかったことを考えてひどく恐怖をしました。これだけ何か自動販売機の前にいながら、何ももたずにその場を立ち去るのは大変気恥ずかしいものでしたから、それだけが理由になっていました。無事、お茶を手に入れることができたものの、私の心臓は締め付けられるような思いでした。しかし、思えばこのすべての原因は私にあるわけではなく、大学に設置された自動販売機の所為なのです。私は別に堂々としていて問題はないわけですし、この不当な損益である100円を請求してもよいわけです。間違ったことはしていないので、こう萎縮することはなかったのです。
 機械というものは正確であり、不正をしないという暗黙の認識があります。後者は業者がそもそも不正をするつもりでなければ、起こりえませんし、現実的にも設置費用に対して不正発覚による不利益を考えればあり得ることはないでしょう。また、人間のように計算ミスをすることやケアレスミスことはないはずですから、私たちは機械に何の疑問も持たずに前払いをして商品を受け取るのです。キャッシュディスペンサーには疑問なく大金を投入し、自動販売機には毎日のように小銭を預けます。前提としてはこれから忠実に私たちの下僕として役目を果たしてくれるからで、基本的にこの信頼は間違ったものではありません。また、現実にはこれらに依存した生活をしているわけですから、必要不可欠なものとして否応なしに共存せざるを得ない存在ではありましょう。
 けれども、それは時に自らの決定を覆さない独善的なのです。そして、冷徹に物事を処理する機械でしかなくて、有機的なものではないのです。換言すれば、当然のことながら、個人とも人格とも呼べないのです。思うに私たちの生活はこうした非有機体とのふれあいに満ちているように思えます。改札口は融通の利かないですし、銀行の窓口にいくのも手間をかけさせるようで気が引けてきますし、何かの予約はクリック1つです。便利にはなったのでしょうが、何もかもが規則的でそのプログラムにそぐわなければはじかれてしまうだけです。合理化というのは非常に理にかなったものです。だから、合理というのですけれども、そうはいっても、そこには人間の感情が抹殺されているのです。合理主義の象徴とも云えるのはAssembly Linesと云えるでしょう。流れ作業は人々が単一の仕事を機械のようにこなしていくことで、作業効率を飛躍的に高めることができ、急激なコスト削減を行うことができます。しかし、それまでの人々の営みというものは否定され、非効率なものとされ捨てられていきます。
 今日、ユニクロは低迷したものの、マクドナルドはその勢力を保っています。質の時代への転換といわれはするものの、やはり圧倒的な効率の理論は強烈に世界を支配しています。良いものを選りすぐって買おうとするのは一部の流れに過ぎず、単なるこの効率原理の反動なのかもしれません。私には世界の流れを読み切る力はありませんし、世界が何を考えているのか分かりません。あるところで、そうした効率から離れて、自分らしくありたいと願い、自分の思想にあわせた商品を自分の観点から選んで、買おうとする人がいます。それはある階級の限られた人間にのみ許されることなのかもしれませんが、しかし、安いものだからといって無意味に買ったり、無駄なものを特に考えなしに買ったりなどしなければ、そうはいってもやはり、ある程度の階級ともなればできることです。別にそうしなくたっていいのです。何を買ったところで自分らしさを保てるというのであれば、全く問題はないのです。しかし、無分別に広告による企業の見えない手に引かれて買い物をしてしまうよりかはずっと賢い生き方ではないかと思います。合理というものは決して私たちに優しいわけではありません。それよりかは牙を剥くことの方が多いかもしれません。時に灌漑を行うために被支配者階級は誕生し、また、産業革命は人々から自立して生きる糧を奪いました。これからもし合理主義と資本主義がさらなる発展を見せた時、どんな世界になるのか、想像できるでしょうか。

02.10.15

 昨日から今日にかけて、その時間の流れは緩やかでいつもの何倍もの密度があったのではないかと思います。昨日はその前日のライブの余韻に浸りながら就寝し、いつもの休日く比べれば幾分か早い時間に起きて、といってとても1100ですが、妹を駅前まで送った後は、のんびりとした昼下がりを過ごすはずでした。昼食を食べに行こうということになって、母と弟ととで、家から数キロメートル離れたバーミアンに行き、注文に際して調子に乗ってしまい猛烈な量を食べることになってしまいました。さて、この外食は私にとって後の長い長い24時間への序章でした。
 食事がすむとついでにスーパーへと寄ることになりました。それくらいならば、普段の私にはどうということはなかったのですが、その日は1800に友人と飲みに行くという約束をしていましたので、そこでのタイムロスは大きな痛手でした。そうはいっても、車で行動を共にしていたわけですから私だけ帰ると云ってしまうわけにもいかずに、時計ばかりを眺めていました。家に帰ったのは1650頃でした。帰って、カラスの行水程度のものでも構わないから、昨日の汗を落としたいと思っていたのにも叶わずに、今度はバスに飛び乗りました。1730頃に少し早くいってゲームをやろうと云っていたので、私は一息吐くこともなくバスに乗らねばならなかったのです。幸か不幸かバスはバス停が私の視界に入った時に、信号待ちでバス停に停車していました。ノックをしてバスに乗るという奇妙な行動をとらねばならなかったのですが、遅刻せずに行けそうで助かりました。
 集合場所に着いてから特に迷うこともなく、というよりも何も考えずに居酒屋を決定して、楽しい談笑が始まりました。談笑というものは文字通り時間というものを忘れさせるもので大学生の飲み会にありがちな帰還不能者が発生しました。かくゆう私も終バスがないことは分かっていましたが、それは終電がないという人に比べれば些細な問題ですし、それは私も覚悟していました。私はその帰還不能者を私の家路に誘い、暗い道を1時間かけて帰りました。以前1人で歩いた時は悲愁というに相応しい孤独でありましたが、この日は友人が隣にいます。帰り道などどうということはありませんでした。しかし、その時にその友人と決断した事柄は後に私たちを試練へと追いやる選択でした。家に着いたら遊戯王カードゲームでもしようか。それによって帰還したのは0100でしたが、就寝したのは0430頃になってしまいました。起床時間は……と友人に打診してみると午後の授業にだけでも出ねばと云うことで、0700を指定してきました。もし、すべての授業に出るとするならば、遊戯王を終えた時間にはもう私の家を出ねばならないというので、それはあんまりですし、それこそ苦難に満ちている上に体力的にも難しいことであったので、さすがにそれはやめて午後の授業から出ることを決めたようです。彼は自主休講などしないという素晴らしい人だったので、少し気の毒になりました。
 さて、0700です。私はここで2つの使命をこなさねばならないことになりました。友人を駅まで送っていくことと妹を学校まで送っていくことです。友人を送るのはバスも少なく、時間もないという人を見捨てるのは忍びないですし、私が彼に助力できることはして差し上げたいものですが、当然快くできるのですが、妹の学校への送迎は少し嫌になります。ここは日本で、鉄道は敷かれていて、別に車で行かなくとも通えるはずなのですが、いつの頃からの悪癖を引きずって、既に送られることが当然のこととなった彼女には送迎は私たちの水や空気と同質のものとなっていました。まあ、愚痴を云うのはそれくらいにしても、睡眠時間3時間足らず、アルコール分解時間7時間余りで、全身が気怠く、異常に強力な睡魔と戦っている私にこれら2つの使命が達成できるのかが疑問でした。ふらふらします。しかし、とりあえずこの使命は無事にこなすことができました。帰還して0900です。1時間半このような状態で運転し続けたのは私の低い体力、精神力では驚くべきことでした。といっても意識は正常でしたからとりあえずは問題はないのでしょうが。まだ、私の1日は終わりません。もっとも、時間的には終わってよい時間ではないですが。私も3限の午後からの授業に出なくてはなりません。そこからは完全な睡魔との闘争でした。私は身支度をこなせるだけの最小の時間を残して睡魔の支配を受け入れましたが、無事に授業には間に合いました。さすがにライブに行って、酒飲んでなどなどで2日入っていない汗だくの身体で学校に行くのはどうにも避けねばならない事態だったので、その過程で10分以下といえども風呂に入れたのは奇跡に近かったかと思います。
 授業が終わったのは0230でしたが、もうその頃にはくたくたで、全身が鉛のような感じがしました。私はもともと睡眠を酒よりも愛する上に、しかも体を動かす機会が少なくなってしまった人なので、こうして長時間、睡眠を削って活動するというのはどうにも耐えられないのです。おそらくこれを読んだ人は甘えるなと云われるかと思いますが、とりあえず、現在の体力的な限界はこの程度な私なのです。はあ、これからはもう少し体力をつけて活動できるようにトレーニングをしなくてはと思う長い時間でした。そうはいっても、授業の後、一度家に戻ってから、駅前の図書館へ行き、本を借り、そのついでに酒を購入して帰ってくるという元気は残っていたようです。

02.10.14

 早いものでブリーズネットも1周年を迎えることができました。これもひとえにみなさまのおかげと感謝の念を申し上げると共にと共にこれからのご愛読をこころより願うしだいです。思えばこのブリーズの原型が作られたのは4年前、当時はTRPGルールとしては全く機能をなさない欠陥に満ちたルールでしたが、そこから改良を重ね、また、大胆にシステムを再構築して、現在の形にまでもっていくことができました。4年という期間はこのブリーズのルールにとってはやはり長いように感じられます。時代が変遷して、人の心が移ろいやすくなっているこの時勢にあっては今もこうして、ブリーズの仲間がこのブリーズの名の下に集まってくれるというのは非常に稀で貴重なことであると考えています。私のルールを受け入れてもらえたということなのでしょうか。人の気持ちなどは分かることなどありませんし、分かった気になって断定するのは恐いのでこうした曖昧な表現にしてしまいますが、きっと、私は受け入れられたのだろうと信じています。
 重ねて申し上げてしまいますが、このサイトをご覧になっている方々、及び、ブリーズのセッションに参加してくれるメンバー方々、ありがとうございます。これからも更なる発展のために頑張ろうと思います。

02.10.13

 今日は生まれて初めてライブハウスなるものに行き、ロックというものを聞いてきました。もともと音楽に疎い私ですから、何かことの発端がないとこういう機会には巡り会えないもので、もし友人に誘われもしなかったら、決してこの様なことにはならなかったでしょう。私はちょうど何も知らない異世界に踏み込んだという感じがありました。私は誘ってくれた友人の他に知る人もいなかったし、その誘った人はステージの上で歌っていますから、実質的には話す人などもいなく、全くの孤立してそこに佇んでいることになりましたので、異邦人とでも云うべき立場にありました。
 さて、その感想なのですが、率直に云えば感動しました。心が奪われるというようなものに近かったかと思います。ラジオから流れる薄っぺらな音などではなく、身体全体が震える音を体験したのです。
 私がそのライブハウスに入ると、入る前からして何かシステムが分からずにまごついていましたが、その雰囲気からして呑まれました。薄暗い空間の奥には静かに佇むステージ。2、3人のグループが楽しく談笑してライブの開始を待っているのです。誰かが吸う煙草の煙が部屋の照明からの直線の光に照らされながら、消えていくのです。さて、ライブが始まると散漫な観客の視線は一点に集中し、わずかな照明さえも落とされて暗闇となるのです。そして、強烈なサウンドが全身に駆けめぐるのでした。ライブを見ていると恍惚感というか、一体感というようなものが感じられ始めるのです。没個性、没人格の世界がその空間に訪れるのです。私はそこに存在しながら自分ではなくて、その空間であるような錯覚が起きてくるのです。トリを飾ったのは私を誘ってくれた友人でした。私はかねてから彼女の才能に敬愛をしていたのですが、その圧倒的な格好の良さには感涙するような思いでした。
 ああ、これがライブというものか、身体を包み込む音と雰囲気とが入り交じっているのです。ふと、我に返って、あの視線を一身に浴びるステージの中央に立つというのはどの様な気持ちなのだろう。きっと、溶けると云ってもいいような精神状態なのだろう。きっと、世界を支配するというのはそういうことなのではないだろうかと思うのです。
 ライブを終えて、打ち上げがあるそうなのですが、ライブと共に一体感のようなものが消えてしまい、理性が回復してしまいます。私はその世界の住人ではありませんでした。コミュニティというものは排他的なものであるのが常ですから、何かつてというものがなければ、よいと云っても打ち上げに参加してよいものではないでしょう。私の魔法は解けて、静かにその場から立ち去りました。気持ちはまだそこにありましたが、仕方ありません。厚顔無恥になれればとも思いますが、それが異邦人たる私のルールでした。
 ライブハウスからでるとそこは音のない夜の繁華街でした。ライブハウスのどよめきとは対照的に静寂がこの身を包みます。ほてった感情は静かに休められ、ゆるりとライブを想うのでした。

02.10.12

 今日学校へ行く時に残念なことがありました。駅から大学への道すがら、といってもほんの100メートル程度の、というと大学がばれますが、3段の階段があるのですが、私がその階段の3メートルほど離れた位置を歩いていた時、ちょうどその階段で転ぶ老人を見てしまったのです。おそらく、階段を上ろうとした時、足があがらずにステップに躓いてしまったのでしょうが、老人は腕で身体を保護していたので、特に大事に至らずにいましたが、靴が脱げてしまったようで、まごついています。こうした時に私は何か手助けをするべきなのかと思うのですが、さて、この場合、私は何をすることができるのでしょう。老人の前へ行って、優しい声をかけてみるのがよいのでしょうか、それとも起きあがるのを手伝って、靴をそろえて履きやすいようにしたらよいのでしょうか。見る限り、その老人はそのような手助けはしなくとも何とでも1人でやって行けそうで、しかも、それにも関わらずその老人の後ろにいた中年の女性が何やら世話をしようとしていましたので、結局、私はその老人を一瞥しただけで、その老人を避けて学校へと急ぎました。
 それから、ふと思ったのですが、私はその時、別に慈善精神を発揮したかったということはないのですが、何か心残りになりました。目の前に老人が倒れていて、そこに手助けの人が入ったからといって、彼女は私の感覚ではお節介なのではと思うのですが、冷たく表情を変えずに通過していってよいものかと思うのです。私にできることは何もありません。あったとしても、それは私の老人を助けたぞと云う自己満足のためにやるべきことであって、真に老人を助けるべきことではないでしょう。そこまで分かっておきながらも、何か老人を無視して過ぎていったというものは何か私が不道徳をしているようでやる瀬ないのです。いっそのことあの老人が2秒遅く躓いてくれたのならば、私は何もこう悩むことなく、老人を抱きかかえて、彼の危険を回避させることができ、私もやれることができて満足ができたでしょう。私にとって老人の躓きはどうしようもないものであるにも関わらず自らの不義理を露呈させられてしまったようなそんな嫌な気持ちにさせるのです。
 私はあの時、手を出さなかったので人情のないものになってしまいましたが、手を出したところでお節介の自己欺瞞になるでしょう。どうすればよかったのかいくら考えても答えが出せそうにありません。私はあの時、どうすればよかったのでしょうか。

02.10.10

 自傷行為というと、何やら悲嘆にでもくれて人生そのものに悲観してしまい放心の末に身体をカッターで切りつけていくような何とも悲劇的な印象というものが私の中ではあります。悲しい悲しいと続くように何かこうもの悲しい行為であるように思えます。そうはいっても、世間で云われているような顕著な形での自傷行為というものを私自身は実際にやってみたわけではないので、あるいは実際にしていたとしてもそれとは意識していないので、自傷行為という事象を扱った話などを追体験する形でしか理解していない私にはその本質を身をもって知っているわけではありません。別にその典型に本質がなくともやはりそれらしいそれを体験しなければ、実際に知りうるには足りないでしょうから。だから、これからの私の云うことは単なる空論でしかないと云えるでしょう。
 自傷行為それ自体というものは案外身近に行われていることのようです。カッターで手を切り裂き、血の出るのを目の当たりにするだけが自傷行為ではなくて、髪の毛をむしってみたり、身体をかいてみたり、もしかしたら、気合いを込める意味で頬を叩くのもそれかもしれません。とにかく、自分を傷つける行為というものはすべてこの自傷行為に当たるようです。さて、私はこの自傷行為の中で最も痛烈なものは何かと漠然と思いをめぐらせてみてそれは実は知ることではないかと考えてみるのです。知は自らを傷つけるものであるというのは何やら不可解でもしかするとすんなりと納得できないと云う人もいるかもしれませんが、実際に知識を持っていたことで幸せになったことなどあるのでしょうか。
 知というと人によっては旧約聖書に記されているエデンの園からの追放の話を思いだすことがあるでしょう。私は別段、聖書を勉強しているわけではないので、さして大したことは云えないのですが、知を得ると云うことはこの自らを傷つけるに相当するのではないかと思うのです。私たちが裸ということを知らなければ恐れることもなかったという聖書の記述は私たちに服を着なくては安心できないと云う傷を与えています。
 知っていて得をすることなどは株式市場の行く末ぐらいなもので、これを本当に知ったところで幸せになれるとも限りませんが、人間関係、社会、学問何を知ったところで幸せにはなれることはありません。友達の存在など知らなければ寂しくないし、社会に外があることを知らなければ、自分の思うように振る舞っていればよいのです。学問であっても、いつまで上りつめても終わりが見えない賽の河原のようなものです。もっと、実際的なもので云えば、酒や煙草や女(これは私が男ですからそれであって、女性の方は男)を覚えて何になりましょう。酒の喜びさえ知らなければ飲みたいのうと焦がれることもありません。煙草などどこがよいのか分かりません、何故、ああも吸っていられるのか不思議でなりませんし、女は私が語ることはできませんが、これだけは云えるのは異性の存在さえ知らなければ性に制約されることもありません。知ることは結局、自分の行動に悩みを発生させているものばかりです。
 何も考えずに、日々を享楽的に過ごすことができれば何と愉快なものかと思います。私には未来を思えばとそう節度の制約の剣を首筋に突きつけられて、結局はそれなりに頑張ってしまい思考などと云うものは捨て去ってしまえればと思います。
 自分が傷つくためにはどうして傷つくのか、あるいはどうして傷ついたのかを知らなくてはなりません。知的好奇心、探求心を持って何かを知ろうとする時、それが将来に自分を傷つけるものであるということは充分にあり得ることです。それでも知るべきなのかと知らなければならないのかとふと思ってしまいます。

02.10.8

 学校の帰りに私は運悪く4回も乗り換えることになりました。普通、私が学校へ行き来するために2回の乗り換えをするのが常なのですが、今日乗った電車はみな微妙なところで別の路線へと変わるか途中で終点になるかで電車を乗り継いで少しずつ最寄りの駅まで進むことになりました。
 さて、その帰路で乗り換えのための電車をコミックスを読みながら待っていると、前方からクシャシャシャン、クシャシャシャンと耳慣れない音が聞こえてきました。私はしばらくの間はおそらくコミックスに集中していたために、気づかなかったのですが、どうも聞こえるべきところから、しかも不思議な音が聞こえて来るというので顔を上げました。そこはプラットホームの端で目の前は線路ですから、そこから何か音が聞こえてきているものとは思わなかったので非常に嬉しくなりました。音の源は線路のまわりにある石を2人組のお兄さんがスコップで線路側に寄せていたのです。おそらくあの石は電車が通過していく際にクッションの役割をしているのでしょうから、少しずつ線路の外へと追いやられていくのが道理です。それを彼らはもとの状態に戻していたのです。さらに驚いたのはスコップの尖端部分の両端にはワイヤーが取り付けられていて、1人がスコップで石をすくうと、もう1人は線路側からそのワイヤーが束ねられたものを引いて、1人が石を持ち上げるのを助けています。阿吽の呼吸で、石をすくっては隣へ移動してと繰り返し、一定のリズムで小気味よくスコップの音が鳴り響いていました。
 なかなかこういった場面には出会えないので、案外、4回も乗り換えを繰り返して駅で待たされただけの甲斐があったかと思います。塞翁が馬と云うとおり、何が不幸で幸いかはそう分からないものです。しかし、この感動を前にしても何の感慨もいだけなかったとしたら、結局、幸いも不幸のままでしかないのでしょうが。まあ、私がこうしたことで喜んでいるのは幼稚で、どうでもいいことに安上がりな幸せを感じているだけと云われればそれまでですけれども、こうして日常から1つの発見ができるというのはなかなか悪くないことです。

02.10.7

 月曜日は長い1日です。1限から5限まで授業が敷き詰められ、しかも、その授業のいずれも手抜きができないものであったのに加えて、朝は雨が降っていました。雨は特に普段嫌いというわけではないですが、車に乗る時と急いでいる時だけは遠慮願いたいものです。0742に私は家を出ました。私が乗らねばならない電車は0754で、歩いて11分ぐらいなので、雨が降っていることを考慮しても少し早めに歩けば余裕です。しかし、その途中、携帯を忘れたことを思いだしました。特に役に立たないかもしれませんが、もし何か誰かが緊急の連絡をしてくるやもしれません。そう思うと戻らずに入られませんでした。その時刻は0745、私の体力の限界近くまで走れば間に合わなくもありませんでした。私は戻ることを決断して、それから雨の泥道を走り、息切れしながら電車に乗るのことになりました。そこでは運良く座れることになったのですが、乗り換え先では座れませんでした。ぼぅっとした頭で目前にいる馬鹿話に耳を傾けながら、つまらない話をこうも大きな声で話さないでほしいと思いながら、耐えるのでした。ようやく解放されてまもなく、1限、2限と語学で集中力をつかい、昼休みになりました。案外、昼休みになれば和めるものでした。朝方の雨が嘘のように晴れ渡り、雨の記憶がそこらの木々に残っています。風も心地よく、校舎の間だから見える空は妙に心をあらってくれているようでした。
 しかし、その一瞬の和みもつかの間で、3限、4限、5限と演習が続きます。特に3限は興味のあるところなので特に集中力が消耗されます。まあ、その先生に“お酒強かったよ”と云われて少し嬉しかったですが……。
 5限も終わる頃となると日はどっぷりと沈み、身体もふらふらとしてしまいます。大学生というものはやはり受験生ではないので、朝から晩まで勉強を、しかも、特に集中力を要するような語学や演習ばかりを5限分1日にやるというのは体力的に無理なのであろうと夏休み開けて最初の5限受けた月曜日を体験して思うのでした。人の集中力は90×5分間も持続させることはできません。それを思えば、自分が毎日180分程度とは云え、毎日、最大レベルの集中を続けていたのは驚くべきことと思います。やはり、大学生というものは堕落するために大学へ行くものなのでしょうか。

02.10.6

 今日はブリーズのTRPG会を行いました。大学生の中心のメンバーである私たちはやはり講義が始まる頃には忙しくなり、招集は困難な問題として浮かんできます。一定の間隔で開かれる会は事前に参加可能日を調べて最良の日を選択するのですが、大変です。今日も3名が欠席して、結局4名での開催となってしまいました。TRPGのグループとしてはさほど少ないわけではないのですが、普段、全員が集合することが基本の私たちには少しもの足りないものがありました。マスターをする予定だった彼の用意したシナリオもプレイヤー3人では味気ないというので、急きょ作られた別のシナリオに差し替えられてしまいました。TRPGの問題はやはり1人1人が重要な役割を担っていて、その人がいるということが大きな意味を持つものであるということを実感しました。
 さて、シナリオを終えて、ブリーズ同人ゲーム化計画(C計画)に関する議論を4人で遊びながらやることにし、その遊びをするためにメンバーの1人のうちまで、移動しました。その遊びというものは4人でやるのですから、やはり麻雀しかありません。私はおそらくみんなは麻雀に集中してしまい、計画を練ることなどできないだろうと予想しました。その予感は案の定あたり、放たれる会話はほとんどが全く別の話であるか、あるいは麻雀に関する話、牌をひいた時の奇声ぐらいになってしまいました。まあ、麻雀を始めたらそんなものでしょう。
 その麻雀の展開は久々のワンサイドゲームでした。出端から跳満と好調な滑り出し、続いて、2役でロンをくらうものの、親がまわったところで、すべて満貫級で3本場をうち立て、他を圧倒しました。ゲーム中は余裕と喜びで、これほど楽しい時間はありませんでした。あれよあれよと牌が集まり、思えばノーテンでゲームが終わることなどほとんどなかった気がします。今日はついていました、最後のあがり牌をメンバーの1人が国士無双を狙っているのに気づかずに、白の単騎待ちにしてしまったという致命的なミスをしていたのですが、途中でアンカンをする機会を得たところ、まさかの嶺上開花で跳満という幸せな驚きを味わうこともできました。そもそも、人の捨牌から相手の手を読むことの真似事もできない私はこの運なしではそう勝てるわけではないので、なにやらそう思うと悲しくもなりますが、しかし、それを思っても余りある楽しさが今日の麻雀にはありました。麻雀はやはり勝てばそれだけで楽しいです。接待麻雀などといって、わざと負けて相手を喜ばせるというものがあるほどにこの快楽はすさまじいものです。
 結局、今日の印象というものはなによりもこの麻雀の大勝ちです。もう、他のことは覚えていません。いつものボケなシナリオも、雑談の笑いも、私の終わった時の42000点余りのスコアの他にはなくなってしまいました。

02.10.4

 私は今日未明ミーハーの陥りやすい病気にかかりました。漫画の先が読みたくて仕方なくなり、眠れなくなってしまったのです。ことの発端は妹から集英社の『NANA−ナナ−』(矢沢あい)を借りたことにあるのです。学校の帰りから読んだこの漫画はすぐに私を惹きつけてしまいました。一巻を読み終えた電車の中では明日の行き帰りに読む楽しみにしようと残した続刊でしたが、寝床で二巻を読んだところさらに深みにはまり、今日が4限からのスタートだと云うことをいいことに一巻、また一巻と読み進めてしまいました。途中、寝てしまわないとと読むのを中断して眠ることに集中しようとするのですが、話の先が気になるのです。結局、四時まで『NANA』を読み続けるのでした。漫画に限らずによい本というものは、あるいは自分にあった本というものは、何にも増して人を惹きつけるようです。

02.10.2

 戦後最大級とうたわれた台風21号が、今日を私の休息の日としてくれるはずだったのに、甲斐性なしは関東に留まることもなく、すり抜けていってしまいました。こうした発言をすると実際にこの台風によって被害を被った人々からは非難されることとは思いますが、やはり、多くの学生というものは台風を休息の使徒と待ち望むはずであり、私もその1人なのです。さて、台風と云えば、枕草子に“野分のまたの日こそ、いみじうあはれにをかしけれ”と昨日とは違った台風の過ぎ去った後に残る爪痕をみて、確かに台風が住む世界に変化をもたらしたようで、趣が深いものです。木々の枝が飛び散り、木の葉が乱れ、地面の草には雫が残っています。この現象の何が清少納言の心を動かしたのか、それを今の感覚で実感することはできないのかもしれませんが、私はこの自然の力がまだこの近くでも振るわれてこうして私たちに影響を与える存在であり続けていることを再認識ができるのが何か嬉しくなります。こう思うのは人間が自然を支配しようとする傲慢の裏返しからなのかもしれませんが、やはり、実際、多くの災害の被害を最小限にとどめることができるようになっているのも事実ではあります。台風といっても、それで命を落とすことは少ないですし、何よりその猛烈な力に怯えることなく屋根の下で静かに眠ることが許されています。この文明の故に問題が生じ、災害の被害が増すことも真実ですが、それ以上に安心して休める場所を手に入れたことは最大の恩恵であるといえましょう。安らかに眠ることのできるベッドがどれだけの価値を持っているかを考えてみるというのは案外、自分の立場を知る上で大切なことなのかなあと思います。

02.10.1

 昨日はモラルの崩壊について少し触れましたが、今日のモラルの崩壊というのはどうして起こっているのでしょうか。そこに月並みな指摘ではあるのですが、西洋的な個人主義的な観念が日本に取り入れられ、西洋化の波を受けた後に、個性優先型の教育が推し進められ、その結果として、個人主義ではなく、利己主義的な観念が養成されたというものがあります。なるほど、確かに現在の教育は修身のような一元的な価値観を埋め込もうとする教科は廃止され、主体的に考える人間を育成することが目標となっています。押しつけられることもなく自由な成長が許されるのならば、案外、水が流れるように下へ下へと堕ちていくのが人間の傾向です。特に制約もないのですから、道徳観念を育む必要もなく唯我独尊の成長ができましょう。
 さて、それでは修身のようなある種の押しつけるような道徳教育がなされるべきなのでしょうか。もちろん、修身というものは道徳観念が云々というよりかは天皇、国家への忠誠を身につけさせるという目的が強いものでありますので、その部分は排斥するとしても、強制的に道徳的行動を身につけさせるのはどうでしょう。必ず挨拶させ、お礼をさせ、謝罪をさせる案外、形を見る限り、礼儀正しくて良さそうな光景です。しかし、うろ覚えなので、本来ならば例として提示するべきではないのですが、何かのおりにアメリカ軍がその内部の規律が行き届いていることをイギリス軍に示すために、同階級間での敬礼を義務づけたところ、それに対して不満がでたそうです。軍の場合、上官に対して敬礼するのも不満だというのはあるのかもしれませんが、それでも、新たに義務として敬礼をするというものには抵抗があるようです。また、道徳というものはそうした強制的に行われるものではないというのも道理でしょう。この方法では通常、私たちが考える道徳の目標は達成できそうにありません。では、どうしたら正常な道徳というものが養われるのでしょう。
 それを考える前に、モラルハザードの原因について考えるところがあります。この問題は先進国では共通の課題のようです。先進国といえば、生活は安定していて、多くの人々は生存のために東奔西走することなく余裕の生活を行うことができます。すると、人間というものは常に適応能力というものを発揮しますから、その環境で最も能率的できる体勢で生きるように最適化されていきます。たとえば、苦難な環境で生きる場合にはそこから逃避するか克服するかに最適化されるように、安楽な環境ではそこでのんびりと生活を謳歌するために最適化されるでしょう。こうした最適化の項目の中に道徳というものは不必要なものであると見なされ排斥されたと私は考えてみるのです。こうした環境では場合によってはその両親は子供の道徳心に頓着しないか、あるいは当人も道徳心を持ちあわせてはいないかもしれません。そうすると、道徳を強制されることもなく、さらに道徳が自分にとって必要なものであると認識されずに、逆に自分に仇なすものと捉えられるのです。つまり、人間は道徳を必要としないと認識しているのです。
 先程の問いに帰ってみると、道徳を必要とする心を育むことが必要なのではないかと私は回答しようと思うのです。もちろん、この論理からすると、人々は完全に道徳心を失っているというわけではないと考えられます。たとえば、身の回りに自分のために迷惑をかけまいと感じるのもある種の道徳と云えるからです。では、何が不足しているのかと云えば、さらに発展して、他人との関係において、自らが行うべきことを考え、それを必要とすることではないかと思うのです。

02.9.30

 私が学校へ行くために電車に乗っている時の出来事です。私は乗り換えの都合上、最後尾の車掌室近くにいることが常なので、行き先案内をする車掌さんの様子を伺うことができるのです。
 さて、その電車は都心に早く行くためには急行に乗り換えなければいけないのですが、その乗り換えはその電車によっては接続する駅が異なっているので、よく車掌さんの案内を聞かなくてはいけません。この日も車掌さんがその案内をしました。
 そして、しばらくするとおじいさんが車掌室までやってきて、車掌さんに乗り換え案内の確認をしに来ました。車掌さんは丁寧にそのおじいさんに説明をしました。私はその一部始終を見ていたのですが、用件がすむとそのおじいさんは無言でさっていきました。
 思えばこのおじいさん、案内を聞くのに“すみません”の断りも、説明を聞いて“ありがとう”のお礼も云わなかったのです。別に私に直接関わることでもないし、そのひと言がなくとも誰かが損益を被ると云うこともありませんし、そもそも車掌さんも業務と割り切っていて、お礼の期待などはしていないのかもしれませんが、社会に生きている限り、やはり、人にものを訪ねる時はそれなりの言葉をかけるものですし、何かよくしてもらったならば、お礼を云うのが当然のことかと思うのです。それを体現せねばならない大人がこうでは、今の若者が猛烈に非常識となるのも分からなくもありません。モラルハザードと云われていますが、結局、こうした身近なところからの崩壊が積み重なって、今があるのですよね。

02.9.29

 最近、車の話ばかりしているようなのですけれども、やはり、今日もそんな話です。私はお昼を調達しようと最寄りのスーパーへ、といっても2qぐらいは家から離れているのですが、行くために馴染みの道を走っていました。その途中、赤信号で停車していると、後ろからバイクが二台接近してきます。大人しく車の後ろについていればよいもののちょこちょことすり抜けて、こちらに来ます。私はそうしたすり抜けを防止するために左側にギリギリまで寄っているのが常で、その時も縁石と車の間は60p程度に狭められています。まあ、別に腕のよい二輪ドライバーならば、特に躊躇することもなくすり抜けていけようものですが、今日のバイクはそうではありませんでした。1台目は難なくすり抜けていったようなのですが、2台目はガツンと大きな音を立てて、私のサイドミラーにぶつけていきました。その時、私は「留まれ」と怒鳴りつけるためにウィンドウを開けようとしました。運悪く、信号は青になり、ぶつけた二輪はすいすいと走り去っていきます。一応、悪気はあるらしく、お辞儀をしてさっていきます。私はお辞儀はいらないのです。ミラーを見ると2pばかりのひびが入っています。予想するにミラー代は10000円、その取り替えの工賃は2000円程度でしょう。この車は外車で、ディーラーの所在地は東京都心で行くのは面倒で、そんな時間はそうそうありません。私は手間賃含めて30000円、彼に請求したいのです。逃げるな。金を置いていけ。あるいは地に伏して謝れ。と、憎悪に駆られながら、ナンバーをメモるのでした。そう、今日、立川郊外で青のシトロエンにぶつけた二輪。白い車体の赤いメットのあなたのことよ。今、この日記を読んでいるならば、私に連絡するがよいわ。私はもう、警察に届けてしまったから、そのうち警察から連絡が行くと思うけれども、被害者の希望が強ければ、民事だけでなく、刑事でだって争えるのよ。今ならば、私は笑って許してあげられる。でもね、名乗りでないのならね、悪いのはあなたなのだからね、私の昼下がりのひとときを台無しにした罰は下してやるから、覚えておきなさいよ。
 はあ、そういえば、昨日は悪いことをして黙っていたからこうなったのでしょうか。これはもしかして因果応報というものなのでしょうかね。

02.9.28

 今日はちょっとした得をしたのですけれども、それは懺悔をせねばならない罪のある得にあたるようにものでした。私はと英会話スクールに行くために、今日もまた駅前繁華街へと車を走らせ、よく利用する駐車場に留めました。私はレッスンの後、適当に駐車料金を軽減させるために買い物をすることにしたのですが、とりあえず、遊戯王の最新エキスパンションが発売されていたので、それで支払うべき金額を調整しようと、先ずはデパ地下にて食料品を購入します。特に今日は不足していたものが飲料ばかりであったので、それを1000円ばかり買ってお終いです。さて、私は次にトレーディングカードを買うべく、本屋さんへとエレベータで上ります。滑稽なことですが、普通の手順としては食料品を最後に買うべきなので、重いペットボトルの入ったビニール袋が腕に食い込みますが、仕方ありません。本屋に行って、週刊ワールドウェポンの最新刊と遊戯王のエキスパンションを合計2000円ほど購入しました。さて、ここでパーキングチケットを出して、通常ならば、スタンプを1個押してもらい、1時間分の駐車料金が無料になるはずなのですが、店員のお兄さんがこのように云ってきました。
「その他にレシートはお持ちでしょうか」
 私はデパ地下で得た1000円分のレシートを出そうとは思いましたが、それを出したところで、合計は3000円分の買い物です。どちらにせよ2000円でスタンプ1個なので出しても仕方がないので、
「それを加えても3000円にしかならないので、この分だけでいいです」
 店員の人は何を聞きに違えたのか、
「そうですか、しかし、それでは合算して5000円になりますので、2時間分のサービスとなります」
 と、スタンプを2個押してくれました。何をどう合算すれば5000円になるのか、私はその場ではわかりませんでした。彼が聞き違いをしたという事実もなかば理解できないまま、そのスタンプの押されたチケットを持って立ち去ります。
 エレベータ待ちの時にはたとようやく合点がいき、戻ってスタンプを訂正させようかとは思いましたが、やはり面倒をしてまで、自分の利益を損なうこと、そして、損をするのは企業とすら云えないこの場合ならば、無視してしまおうとエレベータに乗り込みました。
 思うにこの行為は詐欺罪かなあと思うのですが、まあ、これで私が訂正して、余計に駐車料金を支払ったような気分になり、デパートのイメージを潜在的に損なわせるよりかは、ラッキーと思ってまたそのようなことがないかと期待してデパートに足を運ぶようにした方が企業の利益にも合致していようと納得させて、私はさらに1時間分無料の不正利得を享受するのでした。

02.9.27

 昨日、突如、MMTCGを始めようと思いたって、今日はそれを買いに行こうと5限の授業から帰って、既に日も落ちきった19時頃、駅前繁華街まで車を走らせました。やはり、この時間に出掛けようと思うには遅く、いつも利用する駐車場は閉まっていて、デパートの多くもそろそろ閉店時です。無理してまで今日にしなくてもと後悔の念が私を襲います。しかし、それよりもMMTCGのカードを手に入れようとする欲望が先行しカードショップや量販店をさまよい歩きました。
 半ば予想していたことなのですがMMTCGなどという存在自体がレアなカードゲームは売っていないというのはやはり現実のものらしく、結局、1枚の収穫もなく投げやりに本屋へと立ち寄るのでした。
 そうすると、ちょびっツの最新刊がでていました。限定版も置いてありました。仕方ない、今日はこれを買って帰ることにするかと、値段を見ると、限定版は2500円です。何の気なしに2個買いをしていた限定版ですが、もう既に私の手の出せる金額ではありませんでした。
 何かすべてのお店が私に悪意を持っているように思えてきます。別に実際そうではないのでしょうし、また、私の要求するものがそもそも困難であったというのもあるでしょう。ちょびっツの最新刊についていたフィギュアはそれ相応の価格を出すに値するものですし、MMTCGというものはそもそも存在を知るものすら少ないのです。しかし、それでもなお、疲れた身体にむち打って、購買欲を見たそうと思ったのが裏切られるというのは何か嫌なものです。購買欲に限らずに、欲求というものが果たされないと云うのはやはり悲しいことではあります。
 ところで、MMTCGというものをご存じでしょうか。これはモンスターメーカートレーディングカードゲームといって、いわゆるトレーディングカードゲームの1つなのですが、私はそのキャラクターとイラストがとても気に入っているのです。詳しくはモンスターメーカーの公式ホームページをご覧下さい。さて、誰かやっている人がいれば一報下さい。

02.9.25

 昨日はとても嫌なことがありました。といっても、別に最近、秋の交通安全週間なのか、ところどころで私たちを監視する青いノーマルスーツを着た白い悪魔の人々にウーウーと追いかけられて、叱られたわけではないのです。それに普段ならば、同じ行為をしていたとしてもそさたる感慨を浮かべることないことでした。
 それは昨日の朝のことでした。大学の校門の前では時々、何かの広告を配布する、ビラ配りのお兄さんやらお姉さんやらが全く受け取らない大学生に向かって、半ばやる気もなく頭を下げ、広告を差し出していることがあります。普段から、そういう類の広告は受け取らないようにしている私でしたので、何時も通り、ご苦労様と思いながら通り過ぎていくはずでした。しかし、その日はいつもと勝手が違いました。
 校門前には運悪く私の他の人はいませんでした。そして、私が近づいてくるのをそのビラ配りのお兄さんは待ちかまえています。不意に目が合ってしまいました。お兄さんは満面の笑みをこちらに投げかけてきます。私は受け取らないとこころに固く決心して、その側を通り過ぎます。
 俯いていればよかったとその後で思いました。その通過する瞬間にもまた目が合ってしまったのです。さらに、その目のあった状態のままで、彼は私に丁寧な口調で云うのです。「アルバイト情報です」と。
 その瞬間は私にとってひどく長い時間にも思えました。目の前にはアルバイト情報らしき紙切れがあります。右腕にはそのアルバイト情報の紙切れをもつお兄さんの腕の熱がはっきりと伝わってきます。
 しかし、結局、私はその手を振りきって、校門の方へと急ぎました。
 いつも感じたことのない罪悪感が私を襲ってきました。私には協調性とか社会性とか適応能力などと呼ばれる能力は備わっていないので、きっとビラ配りの類の仕事はできないと思うし、やったとしても相当な屈辱感というかそういうものに囚われ続けていくのかと思います。必死の呼びかけも虚しく無視され続けるというのはどうして耐えられることでありましょうかと思います。それを分かっていながら、自分の読まずに捨てる手間とその資源の無駄を理由にして受け取らずにいるのです。このビラ配りの仕事というのはなるほど罪作りな仕事だと思います。実際的にみてもこのビラ配りという仕事にはどれだけの宣伝能力があるのか知りませんが、そのために屈辱感と罪悪感を振りまいていくのはどうにも耐え難い憤りを感じます。あのお兄さんの笑顔が妙にこびりついて離れないのです。こう、微笑みを裏切る行為というものはこういう商業的なものであったもこたえるものなのですね。

02.9.23

 昨日はブリーズの集まりではないTRPG会に参加してきました。そのサークルもまたオリジナルルールを用いてファンタジーTRPGをやるのですが、そのルールのコンセプトは徹底的なリアルさの追及にあり、シナリオも現実的なものでした。私はワスパー・ロードレインという、恐がりな弓兵の少年というキャラクターでゲームに参加しましたが、やはり、現実的なシナリオには辛いキャラクターです。ゲーム内では恐いおじさんに捕まえられ、危うく恐喝され、殺されるところでした。キャラクターの能力は決して弱くはないのですが、交渉などはみんな相手が恐いお兄さんばかりなので、怖がっていてなめられてしまいます。当然、はったりなどできないで、おどおどとその他のパーティの仲間の裾に隠れています。このキャラクターもきっとブリーズで使えば、可愛らしくみんなに愛されていくのでしょうと思うのですが、現実的な世界ではそうもいきません。特に弱いわけでもないのですが、戦力外を言い渡され、うざったいキャラクターの烙印が押されてしまいました。結局、世界の中でもっとも生きやすいキャラクターを作っていくことが、TRPGで楽に行動する最良の手段というのは分かっています。彼の設定をやめて、青年にし、度胸を据え付けてやりさえすれば、幾多の試練もたやすく乗り越えていけるでしょう。しかし、それでは何の楽しみもない弱い性格も許容して楽しめないと、TRPGの自由度に制限を加えてしまうことになるでしょうから。もっとも、このままこのキャラクターをそのサークル内で使い続ければ、きっと彼はその性格により窮地に追いやられ、仲間に見捨てられ死んでしまうのかもしれません。しかし、私は戦っていきましょう。キャラクターの自由のために。
 まあ、そうはいってもTRPGなどは信念などよりもみんなが楽しめればそれでよいのですよね。真剣なキャラクターのみで構成された真剣な戦いをもとめる世界ならば、彼はイレギュラー。死んで当然のキャラクターです。どちらが好みの世界かは各人の判断に任せるほかないでしょうけれども。

02.9.20

 最後の砦のレポートを攻略して、さて解放感に浸れるかと思えば、もう眠いのです。考えてみれば、夏休みは幸せな惰眠を貪ることができたのに、ついにはその1/3の睡眠時間に追いつめられていたのです。学期中の睡眠時間としてはさしたるほど少ないとはいえない睡眠時間でしたが、二ヶ月の安眠生活に突然の終止符を打っての強行はやはり辛いものがあります。何やらこれが原因か不摂生がたたったのか、具合も悪くなり、今日は最低限やるべきことをして寝てしまいましょう。そして、明日までの休息をと思います。

02.9.18

 無事に提出できることに喜び、レポート作成のために控えていたお酒を飲み、ほっと優雅な夜を過ごすのです。別に毎日飲まねばやっていられないと云うほどではないのですが、飲もうかなあと思うのにやるべきことがあった飲めないと云うのはなかなか苦痛なもので、そういう状況にあれば、なお一層にお酒が欲しくなるから不思議です。
 しかし、そうした抑圧された日々からもようやく、まだ、もう一本レポートが残っているので完全な解放というわけではありませんが、解放され、今日はつい最近、家にわいて出た瓶底にわずかに残ったオールドパーを割って飲み、本当はロックにしたかったのですが氷がないというつもらない問題はあったものの、夜のニュース番組を見るというのは贅沢なひとときです。ついでに昨日買ってきた、ピーフィータージン&トニックなるリキュール 酒を飲みながら、こうして日記を書くというのも気楽でよいものです。さて、あとはある事情でがめることができた響を飲もうかしらと、幸せな思考をめぐらせます。
 お酒というものはとりあえず、偽りに満ちているとはいえ、一時的に私の気持ちを幸せにしてくれます。普段の悩みもとりあえずは身をひそめてくれています。お酒のおいしさもさることながら、アルコールの魔力というものは人類が魅了されるに相応しい力をもっているということを何ともなしに考えさせられます。 

02.9.17

 今日は本当に過酷な一日でした思わぬ障害が幾度となく襲来し、貴重な時間は泡と消えていきました。特にまさに私がレポートを書き始めようとしたその時にチャットで発せられた友人のひと言は私の精神を錯乱させ、混乱の渦に突き落としてくれました。しかし、とりあえず、死ぬのはいやですから、精神汚染などにめげずに、やるべきレポートを完成させることができました。人間、努力と根性ですね。

02.9.16

 とりあえず、1本のレポートを仕上げることに成功し、息をなで下ろすのもつかの間、もう1本のレポートの期日がまさに目の前へと降りかかってきているのが現状で、最近、毎日書いていた日記も昨日ついに連続記録が止まってしまいました。この程度の日数で連続記録が更新される程度ですから、さして、継続的に物事ができる私ではないので仕方がありませんが。
 さて、その日記を休んだ日はこんな状況にもかかわらず、高校の文化祭へと足を運んだのでした。懐かしの母校の文化祭は予想通りに活気がなく、ちらほらと私服の人間が歩いていなければ、それこそ平常授業と間違われかねない寂しさではありました。しかし、それでも母校となると印象も違い、あの懐かしい感覚と望郷の思いのようなものが入り交じり、あの頃に戻りたいと嘆くのでした。
 ある先生は相変わらずで、ある先生は若返り、ある先生は何となく魅力的に感じて、とにかく、微妙な変化が私に時間を意識させるもののそこは間違えなく昔の居所で心地がよいものでした。あながち都会人が田舎の変化を嘆いている感覚もこの意識を受けられない悲しさなのであろうと変に納得してしまいました。
 非常に私的な話ですが、私は写真部の部長でした。一時は部長の他は誰もいないという危険極まりない部活で、私は体躯倉庫の半分があてがわれていた1人で使うには広すぎる暗室を私室のごとく謳歌していました。その部室は他の部活の部室の数倍はありました。何よりも、最低条件としてその広さが必要であったからです。しかし、当然ながら高校生活で1人だけの部活動などというのは楽しいはずもなく、さすがに年数万円の部費の使い道といえば、私の現像代を浮かせるために使っていたようなもので、それだけの活動、単に私の現像のためだけにある部活などというものは非常に寂しいものです。
 そんな部活でしたが、文化祭では写真展としょうして、私の個展が開かれてしまうような、そんな部活でしたが、現在は今の三年生が幾らかいるおかげで、一時は盛り返したのですが、当然、三年生ですから、引退をするわけで、体育会系のようにいつ何時に引退という厳密な時間的な区切りはつきませんが、それでも三年生は基本的にいなくなるわけです。さて、先生の話では残り部員は1、2名だとか。また、逆戻りですか。まあ、仕方ないのですけれども。
 そうするとよからぬ考えが浮かんできます。ここは伝説の筒井先輩が(ヒカルの碁)いっちょう部員集めに協力してやるかと。……しかし、実際に写真部で何をしていいのかさっぱり分かりませんけれども。
 また、私の敬愛する先生にも会いました。私は今年、このレポート地獄に強いて文化祭に強行したのにはこの先生に会うがためでもありました。それは単に会いたいという動機だけではなく、“教職課程をとる場合、教科の先生に教育実習に行くことをアピールした方がよい”という実利的な面もあったからです。しかし、そんなことはやはり動機付けに過ぎなかったと云うことを会って思い知るのです。
 また、少し話をして、勉強する意欲と将来に対する希望のようなものを取り戻すことができました。やはり、恩師と思えるような教師の存在というものは何か自分の力になるものです。

02.9.14

 昨日もそういう風に恋人たちの空間を横目に見ていると、やはり自分もそういう関係に憧れていくのです。私の中にはなにかこう表現できない空虚感のようなものがあるのです。それはちょうど、中心に空洞のあるトンネルのようなものを猛烈な風が吹き抜けていくようなそんな感じなのです。そこには誰もいなくて、ただ、ぼんやりとした不安のようなものだけがあって、誰もが私を避けているようなそうした錯覚に陥っていくのです。この現象はおそらく、実際の人間関係をどう上手くやっていたとしても、埋まらないのかもしれないというそうした何となくのふわふわした考えはあるのですが、それでも、何か恋人のようなものができることで、変わるかもしれないとも思うのです。続く……と思います。

02.9.13

 ようやく奮起して、レポートにとりかかり始めました。人間、やる気になれば、別にいままでの堕落は嘘のようで、それに集中できるものだと知りました。さて、そんなことで、基礎的な本、これは図書館で借りるというよりは買ってしまっても不都合がないくらい必要なものであったので、駅前の本屋さんへと行きました。
 立体駐車場へ車を留めます。そこは左ハンドル用のチケット発行機があるので気に入っています。しかし、留めるなり左どなりは恋人どうしらしく、車内でいちゃいちゃとしています。しかも、運転席からすぐに見える位置でしたので、余計に悲しくなります。けれども、特にそれ以上は気には留めませんでした。別に人口比におけるアベックの割合は決して低いわけではなく、こうした連中と遭遇する機会は少なくありません。これをいちいちと根に持っていたら、精神は崩壊します。さて、エレベーターに乗ります。奥の方でやはりカップルがいちゃいちゃとしています。さすがに連続で遭遇すると精神的なダメージは増加します。何も私の前でそういちゃつかなくてもよいものかと思います。つい最近までは単なる騒音発生源としての認識以外は持ち合わせてはいなかったのですが、最近はさる人々の影響で羨ましくも思います。さて、それはよいとして、買い物です。
 所用を済ませてから、書店へと行きます。何か新しいコミックスは入っているだろうかと先ず確認します。この行動が何とも幼稚な感じがしますが、仕方はありません。とりあえず、ひいきの作者の本を見つけたので、確認しておきます。別に持ち歩いたりはしません。持っていても手の汗がついて汚れてしまうだけでなく、読まない限り、その存在は邪魔なだけです。さて、今日欲しかったのは世界史の教科書でした。愚かにも、人文系の学科に進みながら、基礎知識である歴史関係の教科書、及び資料を破棄してしまった私は騙し騙しやっていくのは限界で改めて、買う必要が出てきました。後悔はしているのですが、仕方ありません。ここは買いましょう。
 そんなこんなで一通り書店を回り、以下の本を購入しました。新説世界史・山川出版社、倫理用語集・山川出版社、慰安婦と戦場の性・新潮選書、愛の妖精・ジョルジュ・サンド作・岩波文庫、遠藤浩輝短編集1・講談社。買った後に思いました。私は何を目的として本屋へ来たのか、それが分からなくなりました。確かに、目的は世界史の教科書、それで間違いはないのですが、この購入した本を見る限り、何が目的なのか自分ながら、分からなくなります。倫理の用語集、日本近代史に関する資料、フランス文学、漫画。他に買ったものに何の接点もありません。これほどにまで接点もなく購入する機会というのは案外少ないのではないだろうかとふと思ってしまいます。
 そして、帰りに見かけたもの。それは高校生のカップルでした。もう、いいです。今日はおかしな自分がカップルばかりを目撃する話でした。つまらないですね。

02.9.12

 最近、私の精神は極めて不安定になっています。その理由はいろいろあるのですが、その最大の理由はここを閲覧しているであろうなまの私を知る人間には知られたくない内容なので、控えますが、その2番目の理由は非常に簡単で、しかも、熱意のない学生によく起こりがちの症状が原因です。
 私の夏休みの残りは指折り数えるほどしかありません。しかし、私には未だするべき課題が多く残されています。確かにまだ時間には余裕があります。けれども、それは決して記憶の彼方から消し去ってもよいと思えるほどに大きな余裕ではありません。常にドキドキとした状態です。やらねばならないことは分かっているのです。調べなくてはならないことがあるというのも分かっているのです。でも、どうにもやる気が起きないのです。けれども、私の心は不安なのです。不安で不安でいると、酸素不足で息が上がってきます。そうなると、心を落ち着かせようと、そして、現実から逃避しようと、ベッドに横たわって、すやすやと安眠するのです。不思議とこの間は快適で、何もかも忘れて夢をみていられるのです。けれども、そうしてはいけないということは分かっているので、何かの拍子に目が覚めると不安になります。しかも、その頃には先程まであったであろう余裕が少しずつ目減りしているのです。昨日でしたか、子供たちに帰る時刻を知らせる鐘が鳴らされると同時に、文字通り飛び起きて、それまでの楽しい夢を、確かに楽しい夢であったと思うのですが、その内容を忘れて、恐怖の世界に突き落とされるのです。
 こういうのを悪循環というのですよね。この連鎖の鎖を解く方法も知っているのに、できないのは私の意志の弱さ故です。どうして、夏休みも末期になると、同じ現象になやまされるのか、それは14年間の研究によっても未だ解決法が見いだされない難題なのです。こうして、私がこれらの文字をひとつひとつ打っている間にも時間はなくなっていく、それは分かっているのに、このPCの横にある課題は白いまま存在を認知されるに留まっています。振り向かれることはあと2日先まではないのでしょう。
 そう、こうしている自分なのに、何か用をいいつけられると余計に苦しくなります。別にその用をこなしたところで、その時間は寝ているか、本を読んでいるか、結局、課題以外の何かをやっているのですから、関係ないのですが、何故なのでしょう。特にそういう時は感情的になり、私を子供の駆け回りのようなスピードで抜かしていったワゴン車が右へ左へと車線変更を繰り返して、結局私の進路を妨害しているのを見ると、憎悪が芽生え、ふと、最近借りた“クレイジータクシー”を思いだすのです。ワゴン車と云えども、総重量はたかがしれています。こちらは小型のマシンではあるけれども、積載しているエンジンは負けていないでしょう。……当ててやろうか。と幻想の中でだけ楽しめる虚しいシミュレーションをするのです。現実、それを実行しないのは、毛頭する気がないというのが最大の理由ですが、結局、それでも重量の差は埋められそうにはないし、相手だけ都合よくなぎ倒すなどと云うのは不可能だと云うことは分かっているからです。それに初心者マークの取れたばかりの私の運転技術もたかが知れています。それでも、ああいう交通世界の無法者には鉄槌を喰らわしたいと思います。技術がなくて恐い人というのはいいですよ。しかし、精神的に幼稚な人は控えるのがよいと思うのです。もっとも、私も充分幼稚ですけれども。

02.9.11

 一年前の話です。時間もちょうど私が今この日記をつけている頃のことでしょう。米国に同時多発テロが発生しました。おそらく、今日はそういうこともあって、それ関連の特番でも組まれているのでしょう。あの事件を振り返ってみれば、確かに不幸な出来事であると共感し、その悲しみを受け取ることができます。取り残され死を覚悟したものは無念であろうし、一躍ヒーローとなった消防士たちの勇気もまた偽りではないのでしょう。残された人の悲しみに満ちているであろうこの一年もまた真実であると思うのです。
 しかし、こうしてあの9・11の事件の報道を聞く度に、命の不平等感が私の中に芽生えていきます。今この瞬間にも死んでいく人々の多くはかの破壊された象徴であった資本主義社会に組み込まれ、その社会の恩恵に与ることなく餓死していくか、その弊害を一身に受けて病死していくかしているのであろうと思うのです。確かに被害者であるのはあの現場にいた彼らでしょう。理不尽に殺されるのはそう気分のよいものではありません。しかしもっと多くの人間がかの象徴のために死んでいるというのは事実であることは明白なのであろうと思います。
 同胞を、同盟国の仲間を悼んでの報道ならば、まあ、説明できなくもないでしょう。身内の話題の方が重要だと思うのは合理的ですし、より関係の深い人間の死を衝撃に思うのも当然です。また、毎日、死んでいく日常的な死よりも突発的に起こる衝撃的な事件の方が印象深いというのもあります。交通事故死の報道はそうそう大々的に取りあげられはしないですけれども、航空機が墜落すれば大問題です。けれども、こうして見ているとそれでは説明のできない理不尽さがあるのです。
 人の命は平等かと問われると。私は不平等だと断言するでしょう。私はそれが真実であると思っています。しかし、人の命が平等だと思う、あるいは思わなければならない人たちが、こうも不平等さを露呈させていてもよいものでしょうか。

 

 さて、そんなつまらないことを考えているとふとした事情で、私の弟(8歳)と回転寿司を食べに行くことになりました。随分、混んでいて、なかなか席に着くことができなかったのですが、その店はそういう店であると理解していた私にはさしたる苦痛はありませんでした。また、オーダーを忘却去られ待てども待てども来ない寿司を待つというのも忙しい店員の苦労を思えば、何も云えはしないし、特に恨んだりはしていません。では、何故、このような話を持ち出したかというと、予想の通り、私にはそこで幾分か許すまじき辱めを受けたからで、それからその話をしようと思います。
 それは弟が大トロサビ抜きを注文しようとしたとこに起因するのです。私はブルジョワだなあと思いつつも、勝手に注文するがいいと放任しておいていたのですが、それはよいとして、どうも、大トロは品切れで、やむなく中トロをオーダーして、それが来ました。
 「えへへ」と云いながら、心の中では「味わわせてもらおうか、回転寿司の中トロの性能とやらを」(私の弟はその年齢にしてガンダムマニアなのですが)と思っていたことでしょう。パクパクとものの数秒で、ガンダムは爆散して、いえ、中トロは消え去っていたのですが、それを見ていた隣の私より幾らか歳の更けた、二十代半ば頃の集団の1人が、「すげー。中トロかよ。しかも、あっという間に」というのです。どうも、私と同じ感想を持ったようでした。それはそれでよいのです。和やかな食事の席です。そういうこともあるでしょう。羨ましいことに彼らはビールを飲みながら、こちらを見ています。そして、加えて弟に云うのです。
 「トロ好きなのか。でも、そういうのは“お父さん”にも1つどうぞっていわなけゃいけなんだぞ」というのです。私は何か異常な怒りがこみ上げてきました。
 「ふざけるんじゃないわよ。私がお父さんだって、どうしたらそんな年齢に見えるのよ。いいわ、もし、私が老け顔ならば、それもよしとしましょう。甘んじてその表現を認めましょうよ。でもね、私はどうみてもどちらかといえば童顔よ。あんたたちの年齢がどれくらいか知らないけれど、私はあんたたちよりもずっと若いのよ。何よ、ビールなんて飲んじゃって。私はねぇ、本来ならば、そのビールも飲めない年齢なのよ。わかる。今日は車を運転しなけりゃいけないから我慢しているだけだけれどもね。ふざけるんじゃないわよ。あんたの年齢の判断基準はどこに置かれているのよ。もし、私が父親だとして、何時の子供よ。11歳?そんなわけないじゃない」
 と、心の中で叫びました。まあ、でも、その男はなかなか好感の持てる男だったので、そのまま、私の中では許すことにしました。でもね、私はそんなに老けちゃいないわよ。 

02.9.10

 大したことではないのですが、今日の夢で、何故かは知らないのですが、恋人ができてデートをしているという夢をみたのです。私が恋人がいるという夢をみるというのも非常に稀なことなのですが、それ以上に不思議であったことはその恋人がドイツ人だということでした。どうしてドイツ人であったのか、それはよくわからないのですが、確かに記憶を辿るにその彼女の顔は西洋的ではありましたが、決定的にドイツ人であるということを断定することはできませんでした。しかし、何故か私は断定的に彼女はドイツ人であると決めていたのです。
 さて、その彼女がドイツ人ということになると問題となってくるのが言語の問題です。私も彼女もお互いの国の言語を話すことはできません。ですから、共通語である英語で話す必要があるということです。実際に私はその彼女と英語で会話をしていました。そして、恥ずかしながら、自分の脳内で処理されている話であるにもかかわらず、その彼女の話す内容が聞き取れずに、正確には細部が分からずに大枠の意図は理解できているのですが、聞き返したり、もう少しはっきりと発音して欲しいとか、そういう注文をつけていることです。
 何かの英会話スクールのコマーシャルで、通っていくうちに夢が英語になるというのをふと思いだしたのですが、まさにそれなのかと思います。しかし、今から、考えれば非常に矛盾した話なのですが、私は日本の大学で怪しげな講義を、その講義は何か黒魔術の実践のような講義らしく、教科書がそれらしいオカルト本でしたが、講師は外国人でしたが、日本語で聞いていた気がします。そして、その席にはその恋人がいたのです。つまり、彼女は日本語が分かっていて、わざわざ英語で話す必要はなかったのです。
 夢に整合性を求めるのが無理というものなのかも知れませんが、夢の中身が英語になるというのはなかなか嬉しいことでありました。

02.9.9

 昨日は残り少ない夏休み期間を惜しんでセッションを行いました。マスターをしていくというのは意外に大変な作業で、少し長期キャンペーンものへの導入でもしてみようかと思うと、情報は膨大となります。普段、最小限の設定だけで、大筋の他はプレイヤーの衝動にあわせてイベントをアドリブしていき、臨機応変にとやっているとしてもやはり次のセッションのための伏線などを張り巡らせるには避けられない作業になります。それで、次回のセッションまでには相当間があくのでプレイヤー当人の記憶がどれほどまでに伏線の存在を保ってくれるかとと思うと、やや不条理な気もしてきます。
 別に愚痴を書こうと思ったのではないので、本題に入りますが、ひげというものはやはり徐々にのびていくことと睡眠不足の顔というのは刻一刻と変わっていくことを実感しました。昨日の朝、メンバーがそろう前に身支度をして、鏡の前に立ったところ、ひげは一昨日に剃ったばかりなので、特に剃らねばならないと云うほどのものではありませんでした。さて、メンバーが集まり、雑談とセッションをこなし、ゲームをやって、ゲーム作成計画について相談してと、楽しいひとときを過ごしているといつの間にか夜へとなっていました。そうなると、どこかで夕食でも食べながらとまた雑談に興じようと思うのが私たちのメンバーです。しかし、ぐずぐずとしている内にその夕食にもありつけず、終電のなくなったというものまで、現れて、結局、私が長い長い、今回はそれほどでもないですが、夜間耐久ドライブへと駆り立てられます。東京都僻地から都内某所まで走り、既に前日のシナリオ書きで睡眠不足がちの私にはゆらゆらと情景が緩やかに流れるものとなりつつ、理性と精神力で必死に状況把握をしながら、終電のなくなったメンバーの家、最寄りのファミリーレストランへと到着しました。余談ですが、そこの駐車場は思いの外狭く、空いていた場所は私の苦手なパターンの、というよりも多くの人が苦手と思うような、狭くて、微妙な位置にポールが立てられているものでした。その頃、私の精神状態は1秒3コマぐらいにしか背景を認識できなくなっていて、普段ならばきっと、嫌だとは思いながら入れられたであろうそのスペースに苦戦し、挙げ句に左側のミラーをポールにぶつけてしまいました。左ハンドルなので私から60センチメートルぐらいの位置にポールがあったのに眼中に入っていないかったのです。
 そこで、遅い夕食を3人で食べていました。そして、雑談へと進んでいきます。夕食を食べたとはいえ、ドリンクバーで4時まで話し続けた私たちはさぞ店員の迷惑となったことでしょう。そうは思いながら、対面の友人の顔が少しずつ、活気ある赤みのある顔から、蒼白な土気色に変化していく様に気づきました。そこで、自分の頬をさすると随分ひげが伸びています。寝ていなくともひげは伸びていくのに、寝ていないと土気色になっていくのは何か不健康な気がして嬉しくなります。
 終電遅れのメンバーを送った帰りの私のための生贄、つまり、私が帰り道の話し相手を強要させた私の家から近い夕食のもの1人のメンバーは結局、家には帰らずに私の家へと泊まることになったのですが、5時半ごろについたでしょうかその顔は既に逃亡生活に疲れた犯罪者のような顔に変貌していました。普段は可愛らしいのにその時は非常に年老いて見えました。
 やはり、健全な肉体を保つためには睡眠というものは必要なのだと思いました。別にこれをこの時に悟ったというのではないのです。普段から睡眠をこよなく愛する私は寝られないのは大変な苦痛でしたから。

02.8.31

 疲れに負けて、今まで、ブリーズネットはおろかその他生活に必要な基本的な活動を停止させるような出来事が私に降りかかってきたのは前回の日記をつけた翌日のことでした。シナリオを書き終えることなく、力つきた私は仕方なしに早起きをして、シナリオの続きを書いていました。それは午前七時のことでした。いつも、ブリーズネットのメンバーは私に甘えているのか、それとも不精をしているのか、最大の理由は私の家まで来るバス代を払いたくないがために、私を駅まで迎えに来させるのです。余談ですが、次回から運賃を請求してみればどうなるのか、少し興味が沸きます。さて、私はあるデパートの地下食品売り場で、ラーメンをすすりながらメンバーが来るのを待ちました。片手に連絡用携帯を握り、暇つぶしの日経を読みながら、ラーメンをすすります。その様子をあるものは“オジン”だと馬鹿にするのですが、その人はビニール袋を持ちやすいように縛る“オバン”でしたので、云われたくはありません。そのオバンというのは私のエクステンドテキスターのサスケさんなのですけれどもね。
 さて、問題はなく、集合して、今日は初めてのアーシィ編でした。みんなにルールを説明し声はほとほとかれそうでした。やはり、キャラクターとワスパーという2つのデータを作らないといけないので、余計に時間がかかりました。普段、キャラクターは固定してしまっている私たちのメンバーにはその時間は膨大なものだったかも知れません。お昼をすませ、日も傾きかけてやっとのことシナリオに突入しました。今日のシナリオはキャラクターの個性が確立していなかったこともあるのですが、あまり、活発な会話が行われませんでした。これはやはり、私が軍隊ものをやるとしてしまったからに起因するのではないであろうかと推測します。軍隊ものの性質上、キャラクターはミッションを与えられ、こなすというやや単純なものになりがちで、会話もそれほど必要なくなってしまう具合があります。これは次回への課題でもありました。
 さて、シナリオも終わり、私たちの時計は九時半を指していました。まだ、幾分か余裕があった私たちは私の家のむかいにあるファミリーレストランで、食事をとりました。酒も入らずに随分にぎやかにできるものだと感心しました。笑い声が絶えません。しかし、その楽しいひとときは後の苦しい旅立ちの布石であったのです。
 食事を終えて、家に戻ってみると問題が発生しました。実はその問題は食事の時点で気づかれていたのですが、私はその場の楽しさに負けて、その問題を黙殺していたのです。その問題とは終バスがなくなっていること、さらにある人には終電もなくなっていたということでした。私はその終電を失った人々を送ることになりました。その時はその苦労はさほどのものではないと高をくくっていました。その人たちの住居はいずれも埼玉県でした。私は東京都に住んでいるので、まあ、不可能ではない距離でした。しかし、第一の問題は私の車のガソリンの残量は5リットルを下回っていたのです。特にエコカーであったとしても、埼玉をぐるりとまわって帰ってこれるとは思えませんでした。何しろ、私はその1回の運転で200KMは走ったと思いますから。深夜は普通、ガソリンスタンドはやっていませんでした。希望を胸に私の近所のガソリンスタンドへと寄ってみましたが、当然しまっていました。仕方なしに、私はその状態のまま、車を走らせていきました。ガス欠になれば、JAFを呼んでしまおうと邪悪なことを考えていました。しかし、そのケースは避けたいと思っていたので、完全なエコドライブで凌ごうと思いました。低速発進、低速運行、夜中にもかかわらず、制限速度ギリギリの低速です。幾ら私に初心者マークがあるとはいえ、後ろの人のストレスは相当なものだったと思います。当然、追い越し禁止の道路であろうと何であろうと抜かれていくのです。まあ、仕方ないし、いつもならば、怒って後ろから嫌がらせの1つでもしようかと思うのですが、その時はむしろ同情でした。それを続けていると神の恵みか二十四時間営業のセルフサーブガスステーションを発見しました。私は初めての経験に戸惑いながらも、何とかガソリンをチャージすることに成功しました。そこからは水を得た魚ならぬ、ガソリンを得た車でした。先程までの低速走行とはうってかわって、深夜のペースにあわせた高速なものでした。あまつさえ、街道をぶっとばしているイケイケの車にスタート勝負を挑む次第です。普段では、馬鹿みたいと嘲笑する対象もその日は好敵手でした。もっとも、彼らに最後まで付き合う気はなかったので、適当にスピードが出たら抜かせてやり、手を振ります。そのあたりはまだ、理性があったようです。それでいいのかという気もしますが。挙げ句に少し朦朧としてきて、事故りそうになることもありほとほと疲れました。
 帰りは4時半でした。私は約5時間ほど運転し通しであったことになるのです。適度に休憩はとったものの、やはり、ああいうのは避けるべきだと痛感しました。

02.8.27

 今日という日は私にとって非常に辛い一日でした。別に身体が疲れたというのではないのですが、やることと、災厄の量がいままでの人生の中で最も多かったといってよいでしょう。それひとつひとつは他愛のないものもあるのですが、何よりも圧倒的な災厄の物量で押されるのは耐え難いものでした。
 今日の私のすべきことは大きなものでは2つです。1つはグループレポートの総括として最後の仕上げをすることで、もう1つは明日のTRPG会のマスターとしてシナリオを制作し、新規プレイヤーのためのルール説明の準備をすることです。それだけでも、私には大変だったのです。
 それでは、私の今日一日をトレースしてみましょう。朝、8時半に起床しました。寝ぼけ眼のままコンビニへと走り、弁当とユーグルを購入し、弁当を食べさせる。私はヨーグルトを半分だけ食べて、優雅に新聞を読み始めました。そこに、我が家の姫君の妹が起きてきて、彼女の高校まで送ることを強要されました。それはそれでよいのですが、遅刻遅刻といいながら彼女はシャワーを浴び、私には待機命令を下して優雅なものです。それは別にこれからくる苦に比べれば大したことではないのですが、朝という時間はやはり辛いものでした。私は彼女を高校へ送るのは初めてだったので、道順を覚えるために地図を見ました。その時、私のその思考が不幸の始まりでした。それは熱帯魚の水槽の濾過ポンプが壊れてフィルターが動作しないことを思いだし、送ったついでに熱帯魚屋へと行き、新しいポンプを買おうと思ったのです。その頃には妹は準備を整え、行くぞと脅しをかけてきます。私は地図で学校から熱帯魚屋のある街道までの道を確認しました。しかし、それは正確なものではなかったのです。高校への道順は複雑で、しかも、彼女は急ぐために大通りを避け、小道を抜けていくように指示します。それはそれでよいのですが、その指示が極めて遅いのです。交差点の10メートル程度手前に曲がれと指示をします。そうそう、簡単にこの距離で曲がれるものではないのが車というものです。私は自らが危険行為に及んでいると知りながらも、この暴君の指示に従っていました。
 帰り道、私は交通案内表示と記憶を頼りに熱帯魚屋へと急ぎました。街道へいけるはずでした。しかし、私はその時、既に間違った道を走っていたのです。それに気づかなかった私は地名が馴染まないことに不安と恐怖を抱きながらもこの愚かな疾走を止めることはなかったのです。気づいた時、それはもう手遅れでした。そこは既に“彩の国”で、あたりは開けていて、建物がありません。私はふとカントリーロードを口ずさみながら、文字通りの田園風景に車を走らせていました。そこは農道でした。
 私はそれから、遭難者が人里を見つけたような気分でコンビニに立ち寄り、恥ずかしいとは思いながら、店員のお姉さんに街道までの道を教わり、熱帯魚屋へと辿り着くことができました。もし、普通に行けば30分のところ、私は2時間半は走っていたのです。目的のものは買え、帰り道、朝食兼昼食を近所のファミリーレストランで食べました。そこの日替わりランチはことの他美味しかった気がします。そして、そこから出庫する時、災厄は訪れました。新たに入ろうとする車とすれ違いになったので、左側ぎりぎりのところから出ることになりました。左折しようとした時、私はある程度のショックは予期していました。というのはそこは車が出入りするための歩道との段差が緩和されていないところだったからです。しかし、私の予想は大きく裏切られることになりました。
 “ガリィ、ガリィ”、その時、横ではクファディス千翔長が“自艦損害、左舷中破”という声が聞こえました。私の心の中は“ああ、私の艦が傷つく音よ”と悲痛な叫びを挙げていました。“どうして、こういうことが考えられると教習官の人は教えてくれなかったのと”ちょうど一年前に習った教習官に無責任にも責任追及をしてしまいました。車には見えない部分ですけれども、傷が付いていました。
 それだけではなかったのです。帰って、レポートにとりかかると、長い。予想よりもはるかに処理するべき項目が多く、知らぬ間にグループの仲間に愚痴を云ってしまいました。暖かくリラックスをするように勧めてくれたので、私は熱帯魚の水槽を見ながら、休憩に入りました。そこで見たものは、松かさ病にかかりそうな熱帯魚の姿でした。暑い夜にポンプが止まったばっかりに具合が悪くなってしまったのか、それとも、兆候があったのを見逃していたのかは分かりませんが、微妙ですが、松かさ病の症状に似ていました。私は治療のために投薬を行い、水温を上げようとしました。その時、気づいてはいけないことに気づいたのです。“サーモスタット”が壊れていたのです。これは以前、熱帯魚が全滅した時にもらったセンサーでした。水温が上がらないというのは困るのでした。つい最近まで、この水温を下げる努力を重ねていた私には悲しいものがありました。不幸というものは重なるものだとつくづく思いました。
 それから、妹を時間がないのに改めて別の場所に送り、今の今まで、レポートを書いているのでした。
 さあて、シナリオを書かなくては。

02.8.20

 先日、ついに私も時代の流れに抗うことを止めて、携帯電話を購入することになりました。買ってみればなんのことはない、阿呆のように飽きもせずカチャカチャと暇を見つけては操作して遊んでいます。特に必要性を感じていなかった私ですが、“何時も誰かとつながっている”という携帯の幻想に取り憑かれて、別にそれが最大の理由ではないのですが、購入しました。まあ、それだけです。携帯など、おもちゃなのですから、それでキャンキャンと騒いでも仕方がないですから、これ以上の言及は止めることにしましょう。特に日が浅いので、これといった利便性は理解していませんので、何も語れないと云うこなのでしょうが。

02.8.13

 きっと、私を笑うものは多いのであろうが、私はそれを覚悟の上で、この恥辱に満ちた、しかししてそれでいて面白くもない話をしようと思うのです。別にそれは自虐趣味であるとか、そういうのではなくて、要は話したくて仕方がないという衝動に駆られるものですから、結局はいつもの話と大抵変わらないようなものとなることと思います。
 さて、現在時刻は0249で、正確に云えば、8月の14日のこととなります。前日に機会があって、短時間ながらも好き勝手に酒をあおることを許された私は、制約されることなしに、その本能にまかせて、飲んでいました。それは別段、おかしなことではないのです。いつ、どのように私がこのようになったかは大学生の私にとっては些か重要な問題とは思えますが、それはさして数少ない読者の興味を惹くものではないし、私自身の話したいことともそれますので割愛しますが、私はいつのまにやら、お酒が好きで、何時の日か介抱されて帰る道すがら、ゴミの入ったポリバケツを蹴り飛ばして、誰しもに失笑をかうような言動をしてみたいと思うくらいに好きなのです。このために、帰れば、ブリーズネットの恩人にして、私の友人のセリスさんとチャットをすることになったのですけれども、酔っているのにもかかわらず、隠し持ったブランデーをがばがばと飲み、普段ならば、冗談でも云えないような言葉を浴びせかけ、傍若無人な振る舞いをしてしまいました。
 まあ、それならば、普通の酔いどれとして処理できようものですが、ここから私は気づいてしまったことがあったのです。それはつまり、レンタルビデオの貸出期限が今日に迫っていたことでした。私の借りているレンタルショップは明日の開店前に、つまり14日の1000までに、返したならば、よいということになっていたのですが、開店前に起きられるような神経はしていないので、ほんの1時間前でしょうか、自転車でもってビデオを返しに駆けるのでした。案外、酔っていて慣れた自転車というものは運転できるもので、難なく普段と変わらぬ速度を維持して、進むことができました。本来ならば、自転車は軽車両扱いなので、実はこれに乗るのは犯罪なのではと、心の片隅によぎるのですが、車に乗って人をはねるよりはましであろうと、自分を納得させて走るのでした。しかし、その走行には普段と決定的に違う点があったのでした。それは、思ったことがすべて声に出てしまい、その声も思いの外大きいと云うことでした。普段から、思ったことは即座に口にしてしまう私ですが、つい、先程までの私はそれを遙かに凌駕するおかしさでした。くだらないことを口走っては、不気味な笑い声をあげ、誰もいない車道を滑走し、これならば、車で来てもよかったと犯罪めいた行動を自らに助長し、極めつけは、歩道の青信号の点滅に際して、気合いを入れたつもりなのか、周囲を意識させんほどの叫んでいるのです。結局、私の自転車は高速移動に不向きなヤマハのパスでしたので、間に合わなかったのですが、その間にあわなかった信号の交差点でたむろしていた少年たちにいかにも私がよっぱらいであると云わぬかのような目で私を見るのです。内心私は恥ずかしくて仕方がなかったのですが、レンタルビデオを返したその帰り道は彼らの前を横切るのでした。特にこの順路の他に帰る道がないわけでも、それはおろか近道ですらないというのですが、常軌を逸する私は厚顔無恥にもその道を選択するのでした。私に幾ばくかの理性が残っていたおかげで、彼らの話していた話題である安保理を中心とする日米関係に関する議論に口を挟みたくなる次第でした。
 狂ったように叫ぶ姿を見られるというものはやはり恥ずかしいものです。実際には、大したことがないと冷静になってみれば思うのですが、当時の私には非常に情けないものでした。酔う時には後の始末を考えねばならないと思いますそうはいっても、この返却の帰りにブランデーばかり飲んでいては身体に悪いとて、コンビニで“ジントニック”をかってしまった私はもはやどうしようもないのかもしれませんが……。

02.8.10

 マイブームという言葉が一時期はやっていた気がするのですが、今もまだ死語にならずに残っているかは別として、今のマイブームはガンダムなのです。そんな中で発売された“機動戦士ガンダム戦記”は発売日から3日間、私を熱中させるものでした。3日間という期限があったのは、その期間で攻略を終了してしまい、それ以上さしたる変化が見られなかったので、止めてしまったと云うことですが、それでも、このゲームは非常に楽しめるものでした。
 ガンダムの話が分からなければ、もはやどうでもよいことなのですが、こういうゲームによくありがちな、ストーリーに同調するような出来事がゲーム中に起こるというものはその話を知っている人にとってはより没入感を強める演出で、興奮することであると思います。かくいう私も、ゲーム中にノリスとシローが闘い始めたり、アイナがアブサラスUで登場するというのには、思わず興奮を隠しきれずに、笑みをこぼしていた気がします。また、このゲームの一年戦争期に登場するMSの多くが使用できる点も非常に喜ばしいことでした。
 しかし、何でもよいのですが、ガンダム系統のMSが強いのはよいのですが、その他のMSが戦う上で弱いというのは残念でした。これは性能という点では納得しているので構わないのですが、パイロットの技術、動きについても極端に鈍いのがよくなかったかと思います。本来ならば、ザコとしてゲームを引き立てる役目を与っているのですから、そうしたMSの動きが鈍くとも納得できますし、実際にガンダムに乗るようなパイロットはエース級が多いのですから、動きに差があったほうがよいのですが、こちからの砲火を避けてくれないのと戦術的でない攻め方は興ざめるものでした。勿論、ゲーム開始時にはそうした点に気づくほどの余裕はありませんでしたが。また、実際にはガンダムのパイロットですら、ガンダムの恐ろしい火力と機動性能のおかげでエースに見えただけで、パイロット自身は大した力はなかったのかもしれません。やはり、実際の戦争ともなれば、充分訓練されたパイロットが操縦することになるはずなのでしょうから、もう少し真面目に戦って欲しいという気がします。まあ、本当に真面目に戦われてしまうと、どう考えても圧倒的な戦力の差 のあるミッションを攻略できるとは思えないという難点はありますが、それでも強くて反応のよい敵と戦いたいというのが私の中ではありました。
 もっともこれはこのゲームに限ったことではありませんが。

02.8.3

 一昨日に、ブリーズ懇親会を開きました。参加者はブリーズにて、私とTRPGをする至って普通ではないメンバーでした。さて、これからする話を昨日の段階でしなかったかというと、それは非常に個人的な趣味にとらわれて時間がなくなったからで、まあ、それはまた明日にでも話せばよいでしょう。とにかく、今日は半ば過去の記憶としても消え去ろうとする懇親会の話をしようと思います。
 何故かブリーズ関係の招集、企画の統括はすべて私に一任されているようで、議論の余地なく、私が宴会の幹事をするに到りました。大学生の仲間はその肩書きに似合わずに私の日程調整を悩ませる忙しさで、宴会はその開始の前から頓挫する勢いでしたが、苦心して日程を合わせることができました。
 さて、実際の宴会の内容に到りますと、折角、以上のような苦労を経て、私が“飲み放題”の安酒を飲ませてくれる店を予約したのにもかかわらずに、みんなは全然飲んでいないのです。別に飲めと強要しようとは思わないのですが、酔わずにいて楽しいものか。他のみんなが、酔っているのにもかかわらず、平然とすました顔でいるのがどうして楽しいのかと私は思わずにいられませんでした。
 理性的束縛から解かれ、友人とおしやべりをするというのは控えめに云ったとしても楽しいはずです。こういう席で、飲まずにいて楽しいと思う人がいるとするならば、普段、議論に負けてしまう相手を捕まえて、正常な論理を展開できなくなった状態にして、その相手を論破していくぐらいでしょうか。それとも、普段、秘密主義をもってかこっている相手を捕まえて、前後不覚に陥らせて、相手の秘密を暴いていくことでしょうか。後者はなかなか楽しいものがあるかもしれませんが、どちらも相手も不愉快になりましょう。もっとも、相手が不愉快になったとしても本当に前後不覚にしてしまえば関係ないでしょうが。
 ともあれ、そういったちょっとしたつまらなさというものはありましたが、概ね、仲良く楽しい時間を共有することができました。やはり、何をするにしても、こうししたことができるならば、最高級の幸せであるといえるでしょう。
 さて、ここからは、私の体験記です。この宴会の後、私たちはゲームセンターへと足を運ぶことにしました。どうして、そうなったのか経緯はあまりよく分かりませんでしたが、知らず知らずにうちにみんながそちらの方に引き寄せられていました。酔った状態でゲームをやるというのは実は以前のコンパなどでも、先輩や友人を誘い試みたのですが、すべてこの試みが失敗したために私の中では非常に強い興味のあるものでした。ゲームを酔った状態で、しかも相手は、私が何をしても怒らないコンピュータではなく、50円と時間を消費して、私に付き合ってくれるプレイヤーです。私自身の精神状態と操作技術の変化にも興味があります。
 最初にプレイしたのは確かギルティギアダブルゼクスであったと思います。私はギルティは得意ではないので、気兼ねなく乱入できる友人に挑戦しました。当然、負けましたが、これでは普段の技術と酔った時の技術の差は理解できませんでした。この技術の差を深く理解することができたのは鉄拳4をした時でした。私は鉄拳は上手くはないですが、とりあえず、自分の戦闘スタイルを持って戦うことができる程度には技術がありましたので、下手な人には普段勝つことができる程度の実力といえるでしょう。始めは対コンピュータ戦でしたが、やっていくうちに使用キャラクターと自分との間だの思考的な隔たり、例えば、相手との読みあい、戦術方針の決定、コンボの組み立てなどの当然あるべきものが一切省かれて、私がしたいように、正確には私が感覚的に修得している技術を用いて、戦っているだけでした。だから、戦いは直線的で、突撃するだけでした。しかし、この状態は意外に私の中では面白いものでした。私とキャラクターとの間に確立していたアイデンティファイが崩れて、私=キャラクターのような感覚をもって戦っていたのです。おそらくこれは、素人が突然戦闘状態におかれたりするような極度の緊張状態にみられる現象と同じで、あらゆる思考能力が低下して、本能的な要素でもって動いているのと同一であると思われます。この状態を夢見心地で続けるのは面白かったです。それから、連邦VSジオンを協力プレイなどしたのですが、この時には半ば冷静になりつつあったので、それほど技術の差を感じることはありませんでしたが、確かに腕は落ちていました。反応が遅いのと、状況判断ができないのは大変です。この時に何故か、とても強い人と協力プレイをすることになって、非常にドキドキしました。まともに動かないと部隊の存亡に関わりますし、それが私の責任というのはなかなか嫌な気持ちです。しかし、その人は私の下手さを補うにあまりある強さがあったので、私ばかりがゲージを減らし、足を引っ張る中、めげずに最終ミッションまでクリアしてしまいました。その頃にはゲームセンターも閉店で私たちは帰ることにしました。
 やはり、12時頃にもなると電車が心配になってくるのが、常ではありましたが、みんな、無事にもどれたようです。私は幹事の特権で、地元に会場を指定してしまったので、終電の恐怖はありませんでしたが、帰りのバスは当然ながら終わっていました。私はこの時、タク
シーに乗るという甘い誘惑を受けていましたが、それ以上につまらない節約観念と歩いて家まで帰るという浪漫にかられていました。家までは5qほどの道程で、歩いて歩けない距離ではありませんが、酔いどれの私には多少、厳しいものがありましたが、結局、歩きたいというよく理解しがたい魅力に負けて、タクシー乗り場へと足が運ばれることはありませんでした。
 何故、歩きたかったのか。それはおそらく、酔って楽しかった時間から、孤独に1人歩き続けるという代償を支払いたかったのかもしれません。楽しんだ後に来る苦しさをどういうわけか当時の私は望んでいたのです。酔って、楽しんだ後はこうあるべきだという風に思ったのでしょう。しかし、その思いはほんの1qほど歩いたところで、飽きに変わりました。酔っている分に歩行速度はいつもよりも落ちますし、誰もいない時間帯だから何の変化も訪れない道を、しかも、その道は直線で街灯程度の明かりでは先まで見通すことはできませんでしたので、十間先は闇といった感じで、いつまでも続く途方もなさに孤独や恐怖を感じるよりはいつまで続くのだろうという焦燥感にとらわれていました。意外に自分の意図した感情に至れなかったのはつまらないことでした。本当は因果応報、代償を受けて、罰を受けている自分に酔う予定だったのに、そうならないというのであれば、タクシーで帰って、さっさと寝てしまった方がよかったかもしれませんでした。
 といった風な懇親会でした。ここまで読んだ人はいないとは思うのですが、もし、これを読んだ人には大変申し訳ないことをしたと思います。つまらないし、役にも立たない話でしたから。

02.8.1

昨日の話の延長のどうでも良いものです。
どうでもよいデータへ
でも、どうでもよいとはいいながら、誰かが何か云ってくれたらなあと思っているどうでもよいものです。

02.7.31

 東京電波のminoさんの日誌は面白いです。残念ながら、知識不足で理解できない話もありますが、とても楽しく読むことができます。特にガンダムの話は、私が最近、ガンダムに熱狂していることもあって、待ち望んでいます。
 さて、私はガンダムを時代設定通りにレンタルビデオでみていくという行為に及んでいるのですが、その膨大な量に驚かされます。やっと、Zガンダムの最終巻を借りて、これから見ようかと云うところで振り返ってみると既に、40巻程度のビデオを借りて見ている計算になります。ファースト、08小隊、ポケットの中の戦争、スターダストメモリー、Zガンダムと見続けていくと、流石に周り人間の話から興味を持って見始めたガンダムストーリーですが、途中で挫折させられることなく、見続けられるのはMSという男の子を魅了する兵器が登場している以上によく練られたシナリオにあるのではないかと思います。アニメに限らず、映像芸術などというものは結局、この内容で勝負するものであるはずですから、そうでなければ、長い間、ファンを惹きつけることはできないとき思うので、当然といえば当然であると云えるでしょう。
 とはいいましても、今ここで、今までみてきたガンダムの話を議論するつもりもありませんし、何よりその準備もありませんから、避けますが、これらの話を見続けている途中の感想を述べると、ガンダムにはガンダムワールドという設定条件が与えられた上でのキャラクターが鮮やかに描写されていて、世界に自然に取り込まれ、また、それ故にキャラクターが現実世界と同調することができていると感じます。そして、話のひとつひとつがくだらないと感じさせないテーマ性が盛り込まれていて、自然と物語の世界へと引き込まれることができます。こうした点がガンダムの魅力であるのではないかと思います。

02.7.23

 童心にかえることは非常に楽しいことであると思います。もっとも私自身は心それ自体が幼稚でありますので、殊更に童心にかえろうとしなくともよいという指摘は受けそうですが、私は長年の夢であったドライアイス風呂にはいることにしたのです。
 ドライアイスを湯船に放り込むと急速に気化を始め、すぐに湯船全体に広がっていきました。数十秒もすると私は全体をドライアイスの白い煙に覆われねちょうど山頂の朝のような煙が綺麗に立ちこめているのです。ドライアイスの発生させる白いあぶくがはじけて、様々な形の煙が一瞬にして、あたりに散らばっていくのもまた美しいのです。自然状態であり得ないこのドライアイスの作る光景はほんの5分ほどのことですが、ドライアイスの風呂は非現実的な感覚を私に与えました。そして、その時間が終わりに近づくと共にドライアイスが小さくなっていき、発生するあぶく少なくなり、それによって作られる白い煙のカーテンも薄くなっていきました。次第に現実へと回帰していくのです。軽くなったドライアイスが水面に浮かび、発生する煙の圧力によって不規則に移動しながら、消えていく様は確実に幻想の終局を告げていました。
 まあ、何と云っても、ドライアイスは面白いのです。折角のこの楽しみを流しに捨ててしまうくらいならば、こうしてくだらない仕方で楽しむのはよいことだとおもうのです。

02.7.22

 更新を再開して、最初のダイヤリーということになりました。近況を報告しますと、ついに、昨日、新たな水槽にアフリカン・シクリッドを入れることに成功しました。この淡水魚でありながら、それらしくない輝かしい美しさは虜になります。気性の荒いことで知られるシクリッドですが、現在のところはその本性は発揮しているわけでもなく、至って平穏かと思いきや、それはやはり環境の変化の第1日目ということで、慣れないでいただけで、今日、餌を与えてみて様子を見ていると、テリトリー争いか突きあう場面に遭遇しました。テトラにはないこの行動に興奮を覚えると共に行く先の不安を感じました。
 しかし、それからさらに様子を見ていると、実はそれほど激しい闘争を繰り返しているというわけではなく、牧歌的な様子がうかがえ、安心しました。
 さて、この話はTRPGのルールサイトのものとしては非常に不適当で、きっとこの喜びをわかる人はいないのではと思いましたが、やはり、このダイヤリーの趣旨からすれば、それはそれで構わないということですから、その問にはあえて無視をしましょう。

02.7.5

 最近、更新していないとは感じいていたものの、これほどまでに間があいているとは思いもよりませんでした。理由は試験が近づいてきて、少しずつ勉強しなくてはならないと云う危機感に呵まれ始めたことや発表やらレポートならで更新の気力が失せているからでしょう。それでは、やはり少々具合が悪いので、今日はちょっとした近況を報告しようと思います。
 現在、私の最大の注目はたぬきなのです。たぬきとはつまり、動物のたぬきですが、これが最近、私の家へやってくるという現象が起きているのです。まだ、それがたぬきそのものであるという確証はないのですが、二度目撃した私の分析によるとその特徴はたぬきなのです。いずれはカメラに収め、確固たる証拠をつかもうと思います。というのも未だ、目撃しているのは私だけという事態によって、私はオオカミ少年の嫌疑をかけられているのです。私はその良心に従って、好意で家族にこの光景を共有させようと願っているのにもかかわらず、たぬきは私が目を離した隙に消えてなくなっているのです。このままでは、私自身が化かされたような気分になり、非常に残念で仕方がないのです。
 しかし、片田舎とはいえ、家の前には街道が走るこの環境でたぬきがみられるというのは非常に微笑ましいことなのかも知れません。やはり、そうした小動物が近くにいるという環境は私たちにとって、安らぎを提供するものであるのでしょうから。もっとも、まだその小動物が私の思惑通りのものとは定まっていないわけですし、たとえ、定まったとしても、それがまさに自然のなせるところのものではなく、人為的な事故によるものであったとしたならば、それはそれで悲しいものとなってしまいますが。

02.6.10

 今日は何年ぶりか、ガチャガチャ(地方によって名称は異なるらしいが)をやってみました。ちょうど、エレベーターを待っている間で、そうでなければ素通りするところでしたが、その時は何を血迷ったのか、1回200円もするものをやってしまいました。CAPCOMvsSNK2のフィギュアのモリガンが当たりましたが、当ててみて驚くべきことはその精密さです。昔は何か粘土をこねたようなものが100円ぐらいで暴利だと思っていたのですが、今日のものは8等身で、細部に粗が見えますが、そんなことは些細なことで、全体の精巧さは技術の向上を感じさせます。

02.6.1

 最近、アクセスする時間が悪いのか、ゲート計画の掲示板に入れないでいます。ああ、きっと私の返信を持っていてくれているに違いない参加者の皆様に迷惑をかけてはならないとアクセスを何度か試みるも尽く失敗しています。明日からはもう少し早く時間をずらしてアクセスしようと思います。しかし、何はともあれ、更新が遅れていますことを心からお詫び申し上げます。
 どなたか、無料で広告が五月蠅くなくて、アクセスがスムーズな奇特なレンタル掲示板をご存じありませんか。

02.5.31

 道徳的なものや倫理的なものと云われている事柄の幾つかは現代においては見直されるべきものもあるとは思います。しかし、そうだからといって根本から礼儀やマナーを否定すると云うことは果たしてできるかどうかは大いに疑問です。
 古来より、人々は人と人との間を規律するために礼儀を発明していきました。それは例えば狩りの時に確実に獲物を捕らえることができるようにそれぞれが必要な行動をとるその仕方を発明するのと同じように、おそらく自然的に半ば発生していったのでしょう。それは時に、治者と被治者の身分の分割をより厳密化させるために使用されたかも知れません。例えば、身分の高い貴族に対してはそれ以下の人は地に伏していなくてはならなかったように、社会そのものがより確実にその体制を成立させようとする意志を働かせて、礼儀を利用していたと考えることはできます。その中では礼儀は圧倒的に人民を束縛する力であり、その体制を不服とするものに対しては完全に対抗すべき対象であったといえます。
 この意味で捉えるならば、礼儀に反する行動、非礼や無礼はこの社会に対する抵抗として捉えることができます。挨拶をしなければ、すなわち、相手との関係を拒絶して、その関係を維持する体制を拒むことになりますし、誤らないと云うのは、その行為が正当なものであり、自分は正当である、そのことによってそれを不当と見なす体制に対する抵抗と捉えることができます。公共施設での喫煙や携帯電話でさえも、つまりはそのマナーとして取り決められている体制への抵抗であると捉えることができます。
 不当で、理不尽であると思われる礼儀もあります。例えば、軍隊の絶対的な服従は基本的に上官がたとえ愚劣な命令を下したとしてもそれに従わなくてはならないそうです。そこには軍隊の統制の必要性からは合理的で、不可欠な礼儀であるといえましょう。これが今、評判の個人主義的な観点から考えれば、全くもって理不尽といえるでしょう。兵士は自己の責任において上官に従うか否かを決断し、その判断は尊重されるべきであるとするのが一般的な個人主義を適合させた場合に云えることでしょう。本来ならば、誰とも知らない上官の命令を盲目に聞かなくてはならないと云うことは全く没個していて、自らが負うべき責任を放棄せざるを得ないと考えられます。ここで個人主義と利己主義の区別されているものとして議論はしませんが、個人主義の見地から云えば、この時に反逆した結果として責任として処分を受けるということはそれに従っているのかも知れません。目の前の人間を殺すことを任務として与えられたのにもかかわらず、それを放棄した、その責任として銃殺刑に処せられるとしたならばそれを受けることで個人主義に従ったことになるのかもしれませんが。
 この体制に似た形態としてよく知られている学校機関における部活動の上下関係です。現代ではどれほど強く残っているのかはわかりませんが、私の通う大学ではそうした関係が存続しているという噂をちらほら聞きます。大概、こうした関係もまた部活動の規律の維持を目的としている場合が多いでしょう。実質的にこの目的を逸脱していたとしても根本はここにあるはずです。ある種、理不尽であると思われる“先輩”のお言いつけもこの体制を維持する意味を持っているのです。何故か先輩の分まで荷物を持って、何故か直立不動を維持しなくては行けなくて、何故かしたくもないことをさせられてなどもすべてはそのためにあるといっていいでしょう。
 もし、これらの実践として礼儀を逸脱しているのならば、その行動は社会が如何なる判断を下そうともその当人にとっては正当であるといえるでしょう。そして、その限りでは礼儀を完全に否定することができるかも知れません。
 しかし、そうした礼儀に反する行動をとる人々は本当にそうした体制の転覆を願っているのでしょうか。礼儀に反すると云うことはつまり、礼儀を前提とする体制への抵抗であると捉えることができます。軍隊や部活動の例はこの捉え方で納得がいくかもしれません。軍隊にしろ、部活にしろ、私は私であり、私の意思がある限り、盲目に従うことは耐え難いことであり、そもそもこの体制は変革されるべきであるとしてそれに抵抗を行うことは正当であると考えられますし、責任あるべき公人の判断は実際に礼儀を転覆させようとするべきと考えるか否かは別としてそのようにあらねばなりません。
 けれども、その他のこと、挨拶や謝罪、携帯電話や喫煙については人々はその秩序を崩壊させたいのでしょうか。挨拶も謝罪もしない人々は本当に関係を拒絶したいと考えているのでしょうか。時にはそういうこともあるでしょう。しかし、多くの場合、些細な原因が理由であるか、そもそもそうした習慣を忘れているか身につけていないかして、何にしろ、抵抗とは全く別の理由でこれらの礼儀を無視していると云っていいでしょう。公共施設における携帯電話や喫煙は実際にその行為を礼儀から解放させたいと考えているかもしれませんが、この礼儀の解放が行われれば、また次なる礼儀が崩壊するかもしれません。携帯電話や喫煙は心的にしろ、身体的にしろ第三者に損害を与えます。携帯電話や喫煙によるお互いのトラブルやペースメーカーの異常の危惧や副流煙の問題は今日、大きな問題となっています。この現状を加味すれば、極端に聞こえるかもしれませんが携帯電話や喫煙はそれを取り出し使うことが他人を殴りつけているのと同義であると云えるでしょう。違うと反論する人はおそらくその影響を理由に抵抗するのでしょうけれども、では毎日蓄積される害毒と一撃の打撃にどれほどの違いがありましょうか。つまり、これらの使用の禁止は人に傷害を行うことを禁止することと何ら違いはないのです。この種の礼儀に反する人に傷害を与えることを避けようとする礼儀を転覆させ、殴り合いをよしとする秩序を理想としているとも云えるでしょう。本当にそうした社会を正当な社会と見なす人がいるならば別ですが、おそらく、そうした人は稀であるのでしょうから、そうでないにも関わらず、その転覆へと世界を進めようと試みる人は全く矛盾に満ちた利己的な行動をとっているのに過ぎないのです。そこには旧世界であるとか、そうでないとか尺度はそもそも成立しない。ちょうど、1+1は鋭利であると信じて疑わないナンセンスな観念に囚われていると云えるでしょう。

02.5.29

  昨日のことですが、私は大学の帰りにぐるぐると鳴る食欲を満たすために松屋に寄りました。松屋というのは説明は不用であると思いますが、一応までに松屋はいわゆるファーストフードの一種ですが、定食屋のようでもあり、食券を購入して、食事を行うスタイルのお店です。
 私が松屋へ行ったのは大体、午後4時頃で殆ど人は入っておらず、私を含めて3人でした。ちょうど発券機に立った時、私は前の人のおつりがそのまま残されていることに気づきました。別に私はここでねこばばしようとは思いませんでしたので、店員の1人にこの事を告げて、おつりを渡しました。ここまでならば、私の気に留めるべき出来事ではありませんでした。その後、店員の推測に従って、とはいうものの、客は私が来た時点では2人でしたから、その前の人が落とし主であるということはそこにいる人間ならば私以外誰でも分かることですが、割り出したその落とし主に金を渡した時です。彼は残念ながら化粧室に行っていたために、私が拾い主であったということは知りませんでしたから、私自身にその謝意を述べろとまでは云いませんが、仲介となって返却を助けた店員に対しては感謝をする必要があると思うのです。明確に彼に善意を行ったことが分かるのですから。客が2人だけなのですから、その店員に拾い主である私のことを聞いて、私に謝意を述べてきても全く、負担になるはずもないはずです。それなのにも関わらず、私への謝意はおろか、店員に対しても無愛想に振る舞いちょっと唸っただけで、おつりを財布にしまうだけで済ませてしまいました。
 私は残念ながら、その時に善意と思い発券機からおつりを取り出して、届け出たことを後悔しました。別にそのおつりが欲しかったわけではありません。その理由をおそらく、意地悪な人や損得で物事を考える人は私が感謝をされることで自分が優越感に浸ろうとあるいは善行をする行為によって自己の快感や満足を充足させるためにやったからであろうと推測して、さらに加えて私に私の行為は謝意を表明されるために行われたものであろうと尋ねるでしょう。
 その問は私の内心を捉えていると云えるでしょう。確かに私はかのおつりが舞い戻ってくるという事柄に対して、その事柄に善意で関わった私や店員に彼が感謝をし、さらにそれをその場で表明することを望んでいました。しかし、別に私個人の損得でそう願ったのではありませんでした。この望みを支える私の考えはここで彼が謝意を述べることがこの社会として必要とされることであり、また、他者と自己の関係で不可欠な行為であるということが云えると考えるからです。つまり、この社会においてこの謝意が行われないことは致命的な崩壊を進行させる行為に他ならないと云うことです。通常、私たちは自己と他者との関係の中で生活しています。全くの孤立して生活している人間は稀ですし、現に私のこの駄文が読まれていることによって、私とあなたとの関係が成立していると云えます。さて、この状況の中で、他者と自己は相互的なものです。私が挨拶をすれば他者も挨拶をすることは当然のことです。拒否をするには正当な理由が必要でしょう。例えば、私と他者は全く見知らぬ者同士で反応に困ったであるとか、私が大きな不徳をして拒否するであるとか、そもそも私の声が小さくて聞き取れていなかったかであるとか、そうした理由が必要です。そうでない限り、相互の関係を規律を維持するためにも必要です。挨拶でも無視されては心持ち悪くなるでしょうが、これが過剰になれば、殴っても蹴っても、殺したとしても他者と自己の関係を無視しているのだから、許されることになります。強姦であっても、他者と自己の関係のあるべき姿を理解していれば、あるいはそうでなくとも、同意していれば、そうでもなければ、従っていれば相当な理由でもない限り起こりえないでしょう。こうした関係が崩壊した場合、もはや、自己と他者の関係を規律する方法は闘争と法律の他はなくなってしまいます。つまり、相手を圧殺するか、絶対的なルールを持ち出して戦うか、どちらにせよ住みづらい世界となるのは間違いないでしょう。
 私が彼に求めた謝意がなければ、私は次回はねこばばするかもしれません。それは彼に厚意を示しても、全く意に介さずに私を無視してしまうからです。彼にとっては私は存在しないし、存在しない私が、つまり、どうでもよい私が彼に憤慨させられるだけならば、それを回避する方法をとっても良いべきではないかと考えるやもしれません。そうすれば、彼は結果として不利益を被るわけであるし、そうしたことが蓄積されれば、不利益は蔓延してしまうでしょう。そうした社会へと進行する発端を彼は率先しているのです。
 礼儀やマナーと云うのは小学校で教えられる社会生活を行う上で根本的な戒めです。こうしたものを窮屈に感じるという人はいるでしょうが、それならば、そうした礼儀を放棄することの通用する集団で生活をすればよいのです。しかし、普通、非礼な人間は人とは見なされないでしょうし、事実、私は見なさないかも知れません。
 そこまで云うとある人は云うかも知れません。礼儀やマナーなどに囚われて生きることはそもそも旧社会的であり、現在ではそれは変遷していると。それについては今日は長くなってきたので、また次の機会にでも言及することにしましょう。  

02.5.26

 今日のお昼のニュースで、松本智津夫被告の弁護側の反証が始まり、検察側の求刑が来年になるという見越しだと聞きました。このことでふと思いだしたのは以前、雑居ビルのエレベータに独りで乗った時に無造作に置かれた紙袋でした。また、松本サリン事件や9・11のテロリズムなどの影響もあってかこうした紙袋1つも敏感になってしまう自分に気づくとそれだけ、これらの事件が人々の内面に与えた影響は大きいと云うことが実感できます。もっとも、私だけが紙袋に恐怖するというのならば、私の実感は全く普遍性を持たない臆病の産物と云うことになるでしょうが、おそらくはこれらの事件を知る人には多少なりともそういったものがあるといってもよいと思います。
 現在、集団的自衛権であるとか有事法制であるとかが非常に大きな問題となっているわけですが、このことが示すことは戦争の形態の変化でしょう。20世紀の戦争の方法は開戦宣言から講和条約の締結までの戦時という区別を行い、時として戦争は人のそれまでの生活を変化させる方向で登場するような一種の台風のようなものであったと云えます。国際社会の中ではこうして戦時とされれば、敵国の兵士を殺傷しても許される闘争状態へと移行したと考えられたのです。
 しかし、今日ではそうした過程を経ることなくいつ戦争が始まるか知れない、平時と戦時の区別をするのも困難な時代へと移行しようとしているのです。知らない間に戦争状態へと移行していて、知らない間に終わっているという事態もないわけではないのです。実際に米国の報復攻撃はその一例として捉えられ得るでしょう。
 さて、冒頭の紙袋の話ですが、可能性としてはその紙袋が爆発してもおかしくはないと云うことになります。もっとも、そういう可能性は戦争の仕方の違いによって変わると云うことではありませんが、人々が戦争の発生に頓着しなくなる可能性はありはしないでしょうか。誰かが殺人を犯したというニュースを何の感慨もなく聞き流すようになり、次第に自爆テロのニュースが何の感慨もなくなります。そして、終いにはどこかで戦闘が行われていることにすら何の感情の変化も起こさない事態になるということは酷く極端な事態ではあるから、実現しうるとは思えませんが、原理としてはそうなりうるのです。つまり、戦争に慣れてしまうということなるのです。おそらく、人というものは平和を希求しながらも根元的には動物であり、動物であれば、自己の生存欲求を満たすためには戦いを行うというのは自然なことではあります。ですから、生物的には非常に道理にかなっていることなのでしょう。けれども、人は、大概は西洋人の発想ですが、人は文明の使徒であり、故に野蛮と区別されると自覚しています。そうした自覚を持つ限り、こうしたいつでも戦争が生じているような状態を容認することはその自覚に対する義務を放棄していて、たんなる、自己欺瞞に過ぎなくなってしまうでしょう。
 私が思うには人は理性的であると自覚する限りにおいてはその自覚に見合う行動をとるべきであるし、そうしたくないのならば、そうした自覚を捨て去らねばならないでしょう。最もいけないことはこうした戦争の現実に目を背けながら、なおも、平和を愛する者であると考えることだと思うのです。

02.5.16

 最近、何かの申込書などには必ずと云って良いほど、“携帯電話・PHS”といった項目が見ることができます。この項目が大学の書類関係でさえも見ることができることに私は些か憤りを感じています。実際問題としてはその本人に短時間で、それでいて相当確実に連絡をつけることができるので、時代の要求からすれば当然のことと云えると思います。従来では手紙か自宅へ電話するぐらいがその方法としてあげられますが、今日ではその間に要する時間が致命的になったり、あるいは相手の行動に大いに制約を受ける手段であることが多いから、それらの問題を持たない手段というのは魅力的であると云えましょう。
 さて、私個人としては携帯電話は嫌いなのです。意外に私は嫌いなことを嫌いだと断言するのは好かないのですが、それでも、そうとしか云えないのです。何故嫌いかと云えば、世間で大抵問題が議論されるような携帯電話の性質であることが原因となっているのです。つまり、携帯電話は大抵は所有者の都合など構わずに掛かってきますし、所有者は大抵は公衆道徳的に問題のある人間であるように思えることです。後者の理由はいかにも坊主憎けりゃ袈裟まで憎いというようなもので、袈裟には何の悪い点もないわけで、携帯電話を嫌う正当な事由にはならないように思えます。
 この大きな礼儀の蹂躙は前者の性質があって始めて起こり得るのです。代表的なのが電車内での着信です。私はこれはこれで許し難いと思うのですが、さらに迷惑を提供してくれる大声のおしゃべりや大音量の音楽、醜悪な姿をさらす化粧などに比べれば、必死に声をしぼめて仕事上の情報を交換する姿を見れば、何か寛容になってもよいと思うのです。けれども、私が忌むべきこの前者の性質が最も発揮される場面はある種の相互的な授業や議論などの最中のそれです。これらの場面はその性質として閉ざされた空間で成立して、その上なお、その閉鎖性がそれを維持していると云えるでしょう。つまり、これらは他からの侵入を求めていないし、歓迎するわけではないのです。携帯電話はその輪を打ち崩してしまいます。勿論、それが所有者に対してだけに影響するのであれば然したる問題ではないでしょう。しかし、これらの場面では所有者は場面において必要とされていて、そこに参加することで、その場面は成立し得るものであるのです。これを一方的に踏みにじり、場面の成立を不可能にしてしまう権利が相手にあるのでしょうか。例えば、これは予約して順番を待っている列に無遠慮に割り込みをする行為と基本的には性質は同じといえるでしょう。
 人が社会形成を行う際には必ず秩序とそれを維持するための規範が生じます。携帯電話はその規範の崩壊を助勢するものとしての性質がその根本にあると云えます。私はそのような反社会的な使用が横行している状況でその根源たるものを持ちたいとは思わないのです。
 もっとも、この機器をなんら規範を侵すことなく適切に用いることができている人もいますでしょうし、そうした人たちがいる限り、携帯電話は袈裟であるのでしょう。そして、今まで述べてきた私の考えは単なる感情論であって、理性的なものではないと結論づけられるでしょう。事実、私もそのことを自覚して、ここまで述べたことは感情にまかせられたものであると思うのです。けれども、一つだけ云えることはブッシュ氏が嫌いになればアメリカは嫌いになるし、少年犯罪が起これば少年はみんな恐く見える、そういう一面的な見方は偏見であり、真実ではないと知ってはいながら、実際には結局、一面的なその見方を支持する感情が優越することがしばしばあります。私の場合もそれなのかも知れません。

02.5.08

 五月病を患いそうになる事故に遭遇しました。いえ、突如ですます調に文調を変えたのには特にその方が私らしくていいかとそと考えてみただけで、それ以上の意味はありません。
 さて、その五月病の原因となるべき事故というのは約10日ほど前に私の熱帯魚のすべてがほんの半日、私が大学に行っている間に全滅するという非常に私にとって耐え忍びにくい事態に遭遇することになったからです。突如、私の熱帯魚という話になりましたが、私の趣味の1つに熱帯魚の飼育というのがあります。これはほんの半年前から始めた日の浅い趣味ではありますが、それだけに熱帯魚を販売店の注意と説明書に従い育てていました。それは大げさな表現かも知れませんが、初めての我が子を育て始めるようなものにも似た感情というものがあったのかも知れません。もっとも、その事故以前にも私の熱帯魚の幾らかは私の不勉強の厄災を被り、命を落とすものもありましたが、しかし、それでもその多くを幾らか成長させ、大きくすることに成功したのです。
 その日は今から考えてみれば、確かに異常な前兆というものが水槽の中にはあったかもしれません。大学に行く前に餌を与え、温度計を確認する。普段と何ら変わらない行動でしたが、水槽に触れた時、少し水が温かいような気がしまた。温度計は27℃を指していました。私は当時オートヒーターという水温を一定の温度(26℃±1℃)に保つものを用いていましたが、性能の範囲内の誤差であるとして、問題視せずに大学へと出掛けました。そして、帰宅して、水槽をのぞいた時にはそこには凄惨な風景があるだけでした。水槽の水は温度計が示し得ない高温になり、それはちょうど風呂と同じ様な温度となっていて、決して魚の住める環境ではなくなり、すべての魚は白くなり、あるものは水槽の底にあるものは水槽の上に。その様子から私が連想したものはかの有名なユダヤ人虐殺の様子を示した黒白写真でした。そこには昨日までの活気的な雰囲気などとは対極のものでした。
 私は独り俯いて、たんたんと死体の埋葬をしていました。ペットボトルを加工した入れ物に一匹一匹を網ですくい上げては入れる。それを繰り返していました。その時には死体が発する異常な魚臭さが強く印象に残っています。そのペットボトルの棺から梅の木の側に掘られた穴に彼らを流し入れました。ペットボトルの凹凸面を魚の胴体がすれてことことと音を立てていきながらその墓穴へと落ちていきました。その音とともに手応えが伝わってきました。
 しかし、失意の私は先週になって何か彼らの死の原因を追及できたらばと販売店にその原因と思われるヒーターを持ち込みました。私はふと脳裏に米国の裁判の判例を思い浮かべて、より深く、その失意に囚われてしまいましたが、販売店の対応は私のこの失意をぬぐいさり得るものでした。
 販売店はメーカーに原因追及の件について要求することを快諾して、さらに販売店の負担でそのヒーターとは別のより安全性が高いと云われているものを無償で私に提供してくれました。その時、渡されたヒーターも今後私が使うとも限らずに全くの無駄になるかも知れないし、私の云っていることは販売店の側にとっては証明されていない無根拠のことであるし、販売店は本来負う必要もない状況に対処しているのです。何よりも店員が私のこの事態に対して親身であったし同情的であったことは非常に私の心に平安を与えるものでした。
 さらに今日は私は改めて、新たな熱帯魚を育て始めるために販売店を訪れました。私が今日選んだ魚の代金を販売店は不要だと云い、私に幾らかの魚を提供してくれました。もし、これを単に経済原理的な先行投資として見なせば、メーカーからの保証の前提があるとすれば、容易に合点のいくことですが、私はそうした数字上のことを考える必要はないと思っています。
 つまり、私の絶望をうち払ったのは販売員の心意気であると私は思うのです。

02.4.23

 最近は特に忙しくなった。何を狂ったか、68単位の履修を強行してしまい、今年一年相当気を張らないと、途中で燃焼しつくしてしまいそうな状況である。単位の算出の仕方は大学や学部の違いがあるから、実感しずらい数値かも知れないが、要は一週間に20コマ、一日平均3.6コマということだから、半ば受験生にでも戻ったような気分であるかもしれない。改善が可能な限り、単位を削っていったつもりではあったけれども、結局これだけは履修せざるを得ないと判断した結果として、このようになってしまった。まあ、それはそれで仕方がないのだから、取り敢えずやれるところまで頑張ろうと思う。
 さて、こうした最近の私の楽しみは遊戯王の最新エキスパンション“ファラオニックガーディアン”を開封することである。トレーディングカードはこの開封の瞬間こそ楽しみが集約しているのではないと漠然と思っているのだけれども、それはよいとして、このような楽しみを満喫している。しかし、この楽しみはなかなか愉快な結果となっているので、これは報告をせねばと思い、ここに記そうと思う。前回のエキスパンションでは引いたレアは3枚で“雷電娘々”だけであった。このこと自体は“雷電娘々”がレアという分類であるから驚きはしたもののこのような場合もあるのだと納得ができたが、今回はさらに上を行く結果となった。今回引いたレアは現時点で4枚でその内、3枚は“首領・ザルーグ”というスーパーレアであった。結構能力も高いこのカードがレアを引くたびにその顔を見せるのは驚きと呆れの混合した奇妙な気分である。しかし、これでは私はこのカードを好きでシングル買いをしているみたいではないかと“雷電娘々”と“首領・ザルーグ”を見るたびに思うのである。そういえば、カードゲームのコミックなどでは時々聞かれる言葉であるが、“カードはそれを使うべき人間の元に自ずと導かれる”という何かトレーディングカードの神秘性をほのめかすものがあるが、この“雷電娘々”と“首領・ザルーグ”とを私の使うべきカードなのだろうか無根拠に思ってしまうのは全くおかしなことなのであろうか。

02.4.9

 今日のテレビで“サバイバー”だとかいうものが始まった。内容は見るからに以前深夜に日本語訳をつけて放送された海外の番組と同一で参加者やスタッフが日本人であること以外は何ら変更点もないようである。その番組の内容は2つに分けられたチームがそれぞれ無人島でサバイバル生活を行う傍らで、チーム対抗でゲームを行いその勝利者に利益を与え、敗者にはチームの人員を欠落させるペナルティを与えている。チームの欠落者を決定する方法はチーム内の投票で行われる。いずれ双方のチームが少なくなっていけば、統合されるか何かして1つのチームとなり、今度はチーム内で陶片追放の対象とならないゲームが行われる個人戦に変わっていくのであろうと思われる。そして、最後に残された1名が賞金を獲得することができるという仕組みになっている。この企画はテレビのものとしては非常に優秀であると思う。チーム内は基本的には無人島生活と放送局側が用意するゲームへと勝利するために連帯心と仲間意識を芽生える傍らで、その個々にはチームから強制退去を宣告する権利を持つチームの仲間に疑心感を抱かせるという仕組みは視聴者が要求する時として残酷なドラマを効果的に引き出すシステムに仕上がっていると云える。もしかすると視聴者は無人島という隔離した空間で生きる参加者たちをゲームに挑もうとしている挑戦者と云うよりはむしろ極限状況に置かれた人間が起こすさまざまな人間らしさを客観的に観察する実験対象といった具合に認識するかも知れない。事実、私の感覚ではそういった部分がある。私はこの企画の最初の印象は、これは深夜のテレビを見た時のことであるが、酷くえげつなく、非人間的なものではないかと思う反面、その企画の人間がさまざまな思惑でその生活を送る様には興味が沸いて来るという具合であった。ということは私も紛れもないえげつない視聴者の1人であることには間違いないであろうが、私にはこれを喜んで見るという人間の神経が幾ばくか狂っているようにも感じられる。普通、人は仲間を裏切るような真似はしてはいけないし、それを義務づけるというのはもってのほかだと思う。勿論、これはゲームだから実際に追放された人間は賞金を得られる機会を失うに過ぎないのだから実質大した裏切りではないしゲームの中で許される権限の1つであると考えても申し分ない。けれども、チームに不和を与えるこのシステムは残酷であるし、何よりも多数決の恐ろしさを如実に語っている。常に自分が敗者となる要因を作りかねない環境で生活をし続ける恐怖というものは参加者には強いストレスが常にかかっているものと想像される。何よりも、人間関係に本当に器用な人間が最も強力な優勝候補になり得る、普通の強者が勝者になり得ない微妙なシステムはまさに人間の社会生活の縮図のようになっていると云え、社会の負の部分を露出させる力を持っているのではなかろうか。
 この企画はとても興味深い、けれどもそれ以上に恐ろしいものであると私は思うのである。

02.3.17

 雑誌などでよく見かける何かについての評論というものは時に人に愛されもするけれども、それ以上に憎まれもする。大概、こうした評論は雑誌の質にもよるけれども、その分野について相応の知識がある人間がある程度の客観性を帯びた資料を元にして書いているのであろう。勿論、彼らも人間であるから、ひどく的外れであったり、反感を買うような議論を行うこともある。時には全くの主観で書かれた読むに耐えないものも時には見かけることであろう。ただ、こうした判断というものは時には読む人間の能力によってはなされないこともあろうし、ある程度の知性を有していないと理解できていないことが理由となってそう判断することもあろう。だから、全くそうであると断定的にそうした判断を下すことは本来ならば、困難な作業でもあるかも知れないが、実際多くの人間が理解に苦しみ、気分を害する論評というものもあるであろう。その最も典型的なものは論理的でなく、独善的なものであろうと私は思う。
 現在、インターネットで閲覧できるホームページには私人が運営するものが星の数ほど存在している。そのページの幾らかには何かについての論評などを載せているところもあるであろう。こうしたものの幾らかは実に明快で納得させられるものもあるのは事実である。しかし、それ以上に全く、論評と云うにも相応しくない遠吠えのようなものがそうした論評以上に存在していると思うのである。ただ、私は比較的堅い人間であるから、その文章の言葉遣いだけを見て読むに耐えないものと即断する場合もあるけれども、そうしたある種の偏見を考慮したとしても多いと思うのである。もっとも私自身のこのダイヤリーもその1つに属しているのであろうから、たいそう自虐的であると云われかねないがそれはこの際、無視しようと思う。
 さて、例えば、無根拠な批判や無配慮な暴言のような時に人間性を疑う表現が見受けられる。勿論、インターネット自体が匿名性の高い媒体であるために、あえてそうした狂気を演出しているのかも知れないが、どちらにせよ私には読むに耐えないものであった。私が思うにこうした類の人間がその文章や思想を公開する意義というものは本来必要のないものではないかと思う。一昔前までは情報は一部の人間が発信するものに過ぎなかった。勿論、この時代への回帰を願うわけではない。現在では問題は取り敢えず、倫理的な抑制をもって慎まれるものとなったけれども、イエロージャーナリズムだとかそういった危険性がそこには常に存在するからである。しかし、そうした倫理的制約を受けない、あるいは本来的には受けるべきであるがそれを無視する個人が新たにそれとは別の問題を作り出そうとしている。ただ、その問題は私たちが無視することで容易に解決できるとるに足らないものであるかもしれない。それに私たちが品性という観点からこうした陰湿な人間性を目の当たりにすることによって、多様な人類社会の一面を学び知る機会が与えられているとすれば、その機能は果たされるかも知れない。

02.3.04

 約3日間、私のインターネットへのアクセスが不可能になってしまった。自分のPCに不都合があるというのは何とも気に病まれる事態であるから、何とか復旧を試みようとするも手がかりもつかめずに、翻弄してしまった。意外にインターネット関連のアプリケーションが一切使えなくなってしまうというのは辛いもので、目と耳を失い口もきけないヘレン・ケラーのような三重苦を味わうようなものであった。もっとも、私の場合は情報網に関する器官を麻痺させられただけであるから、実際の三重苦よりは遙かに苦しみは少なく、何よりも言葉を知らないことで思考ができないといった最大級の不幸を受けたわけではないから喩えに使うにはあまりに失礼にも思えるけれども。
 さて、けれども、この機にインターネットの有り難みというのも少しは感じ取ることができたかもしれない。私はこの時、同時にタブレットが使えなくなるというアクシデントを併発していた。タブレット自体は問題ないのだが、それと共に付属するマウスをメインのものとして使っていたから、マウスが使えないと云うのはキーボードが使えないのと同様に大変面倒な状況であった。インターネットがあれば、このタブレットのドライバをインストールし直すことは非常に容易であった。私がものをよくなくすことを知る人もいるかと思う。本来ならば、配布されたCD−ROMからインストールし直せばいいのだけれども、既にそのCD−ROMの行方は知れないので、何ら対処の使用のない状況にあった。インターネットはこういう私にドライバを提供してくれる非常にありがたいものであった。普段、どれほど、どうでもよいものと思っていたけれども、これほどの役に立つとは未だ嘗て思いも寄らなかった。

02.2.24

 この前、風邪をひいた。一時はその熱と過敏になった神経による苦痛と熱から来る精神の朦朧とで、自分自身が何とも云えない、苦しみの底にいる気がして、それ以上に何も信頼できなくなって、人と自分との関係がひどく希薄に思えて、無性に悲しくなっていた。実際、風邪をひくとまわりの人間の温情が身にしみるようになると云うけれども、結局、そういったことを考えてみれば、確かにそういう気分にもなるかもしれないが、逆にそういうことを意識させられるがために、孤独感が募ってくる。何とも私が普段の孤独を体面的な人間関係で緩和しているに過ぎないように思えてきてならない。この感覚は実際、人間の内面を他人が客観的に証明させることが困難なことを考えれば、当然であるのかもしれない。内面の心理変化を理論的な体系に則って、分析してみたとしても、こと自分の関係する事柄ではいかようにでも主観が介入するであろうから、本当に知りたい人の内面など到底理解できようはずもない。
 また、無性に生が不必要なものにも思えてくる。こうした孤独を感じていると、例えばその共同体で生存している理由が不明瞭になってくる。私自身の生存価値が他人によって規定されうるかを恐怖するというわけではないけれども、何ら本質的な接触が得られないと思われる孤独の中では生存はその価値を見いだすことができなくなっていく。将来、私が何らかの偉業を成し遂げるとしても、その名前が広く知れ渡り、その共同体で永遠性を獲得し得たとしても、それが私の生存の価値を裏付けるものとは思えないからである。というのも、そうした業が実際の将来の私に与える影響が価値ではないのであるし、そうすると生死は単純な相対的属性の違いに過ぎなくなるのであり、殊更に生に固執する必要性は見いだせなくなる。
 さて、そうはいうけれども私は別に自殺幇助を広く、募集しているわけではない。それに死にたいというわけてもない。ただ、私は私の生存に何らかの価値を見いだす方法というものはないものかと思うのである。別に生存に価値を規定しようと試みること自体が無意味だあると考えたとしても、何ら根拠のない自己決定的な価値であったとしても、それを見いだすことができるならば、問題は解決をすると考えても構わないけれども、そうしたことで、生存の問題に自己決着を下すのは些か私に抵抗がある。だけれども、孤独であると思う私にはその生存の価値の方法の規定が難しいとも思うのである。私はこの規定の方法に対して、独善的なアプローチを行うことで解決をさせることは容易であると感じている。しかし、その容易な過程を果たして誰もが実践的に通過できるとは私には全く思えないのである。

02.2.13

 最近、暇でしょうがなく思っているのに、何もやる気がしない。これほど、罪なことはあろうかと思っている。人間やはり、こういう生活をしているのが最も罪であり、これは下手をすると犯罪よりも大きな罪なのではないかと思う。気づいたら、前回と内容が同一であるし……。
 さて、それはよいとして、何故人は車に乗るとあれ程車間を詰めてくるのだろう。ひとつ急ブレーキでも踏んでやろうかと思う。ついでに私はそういうドライバーが後ろにつくと、暇があるならばスピードを極端に落とす。法定で定める速度になど達しようこともなく、相手には極度の神経衰弱を与えようと試みる。さらに強引な追い越しを試みようものならば、一気に加速する。もっとも、これは非常に危険だし、私の技術では到底オートマチック車に加速で敵うこともないから、殆ど失敗する。だから、ささやかな抵抗として、交差点の青、ギリギリで通過して、後続を止めさせようとする。ただ、これも後続は車間を詰めるような人だから、黄色や時には赤も構わないから、大抵失敗する。私は思う。大通りで善良そうなドライバーから違反切符を切るくらいならばそういう交通事故予備軍の人々に救済の手をさしのべてくれれば、どうしていざ自分が切られたとしても腹を立てようか。まあ、私はまだそういう経験をしたことがないので、そういうことはよく分からないけれど。
 結局、私は初心者だし、本当は私が何時、危険な行動を起こしそうになった時もそれを事故に結びつけないように離れておくれよと、つまり、いいたいことはそういうことなのかな。

02.1.1

 新年、明けましておめでとうございます。今年もどうかブリーズネットを宜しくお願いします。
 さて、久しくダイヤリーに何かを書くということから離れてしまったようでその価値を低いものへとしてしまいましたが、何と云っても自堕落が幾ばくかの忙しさに負けると何とも云えない末路を辿る典型のようにも思えます。
 何一つ、私の身に変化のないまま過ぎていく現実に悲痛の思いで過ごした一年に何か変革をもたらそうと嘆く年になれることを私は私に期待します。あなたは何を今年に求めますか。
 それでは、あなたの一年に幸あらんことを。

01.12.13

 最近、ゲート計画が忙しく、なかなかこちらがなおざりになってしまい嘆かわしいと思った人はいるのかは分からないが、まあ、更新しようと思う。ゲート計画はマスターたる私に酷く負担のかかるものであったかと思う。だからといってそれを止めようであると云うわけではない。しかし、通常のTRPGを行っている時もマスターの負担というものは大きい。すべての下準備をして、キャラクターの行動を制御させるのは控えめに云っても簡単な作業とは云えない。あるものは暴走して、シナリオの守備範囲外を突き進む。万全の準備を整えるには膨大な時間を費やし、それでも不測の事態、つまり、ここでは不測の行動であるが、が生じ得る。それはまるで演劇で舞台の外に飛び出すか、舞台装置を打ち壊すような勢いである。マスターはそうされないように必死で裏でセットを抑えているのである。マスターという立場は支配者の名の通り、すべてのゲームを統括してまさにキャラクターを自分の手元で泳がせる楽しさがある。多少陰険になれば、苦悩する様を眺めるのもマスターの特権である。
 さて、ゲート計画では、私の中には大筋はあるが、彼らがその筋書き通り進むであろうとは思えない。キャラクターはマスターの予想しない行動に打って出る。もっともこれはTRPGの性ではあるが、大方のシナリオは相当な創造力と創造力のマスターでない限りは何とか本線に復帰させようとしてしまうであろうが、ゲート計画には私にゆっくりと思考する権利を与えてくれている。だから私はこの大筋を大きく書き換えさせられる行動を幾らか体験させてもらえる。このことが私にもたらした最大の幸福は私の受け取ったキャラクターシートで大方、そのキャラクターの行動パターンは予想できるが、それは実践では無に等しいものであったことである。ゲート計画ではほぼ完全な自由シナリオができることでキャラクターの豊かな個性が見られ、予想を超えるのはまさにそこに人が動かしているが故であり、それこそ最大のTRPGの楽しみではないかと思う。

01.12.02

 今更になって順序を変えて何になろうとは思うし、そもそもこのスペースを一体誰がまじまじと読むであろうかと考えると、それぼと意味ある行動とは云えないが、それでもやはりページ全体の統一感を考えたならば、やはり変えねばなるまいと思う。
 さて、最近になってスマッシュブラザーズをやる為だけにゲームキューブを買ってしまい、馬鹿みたいに時間を空費している。特に人間堕落する方向には軽々と進むらしいが、私は進むと云うよりもむしろ落ちるように堕落の深みにはまっていくように思える。ここで私に対して、既に地の底まで落ちている身分にどうしてこれ以上落ちようかと指摘されれば、それはあながち間違いでもないであろうが、兎にも角にも、私は非常に熱心にゲームに打ち込んでいる。

01.11.26

 あらゆることに無気力になれるというのは人の特権であろうか。何もかもがつまらなく感じ、無意味に時間が過ぎることに無性に恐怖感を覚える傍らで、前に進もうという気力起こらない。そういうのを倦怠期というのであろう。次第にそれが慢性化していくうちに人は堕落していく。あらゆる堕落の形で、これほど虚しい堕落はないであろうが、この堕落を引き起こす原因は大方はその人自身にあるのであろうが、そこに人を導いていくのは社会であり、この世界全体の闘争精神の欠如なのであろう。何かに向かって戦いを挑む必要などはなく、社会の与える安全と享楽とに満足して、最も苦痛の生じない道を選んで歩いていく。まさに、この道を人に歩ませる原因は社会そのものにある。しかし、これはある種の成果であるとも云える。人がそうして堕落を享受することを許容し得るほどに社会は巨大な力を持ち、そういった人をも養う余力を持っている。真に余裕がなければ、そういった人が、堕落する為の正当な理由があったとしても、堕落と生存は両立しないであろう。
 さて、そうした堕落した存在は社会に対してどの様な意味を持つのであろうか。私はそれは社会の発するある必然的なメッセージであるかと思う。最近、少年法の改正が声高に叫ばれ、実際に改正が行われたようだが、そもそもの少年法の理念としては少年に罪はなく、少年を犯罪に導くいた社会にこそ責任があるということで、犯罪を犯した少年を裁くことはしないというものであった。これは所謂、子供の悪戯に対して、「子供だから仕方がない」といった原理のものではない。物のない時代にその影響を最も大きく受けたのはまさに経済的な力を持たない、持っていたとしても極めて微弱な少年であり、その結果、生存の為に犯罪を犯すのである。では、現在の堕落する者はどういうものなのであろうか。それはやはり、少年のような不足を埋める行為と本質的に同様である。つまり、現実に盛んに云われているように、精神的な空白を大きく持つ堕落する者はそれによって生きる術をまさに堕落することによって解決している。つまり、不足を補うのではなく、現在ある気力を如何に無駄遣いしないように生きるかが、堕落する者にとっては大きな問題であろう。彼らは努力をしても多くは報われないと云う現実を理解して、そういった世界の中で最も順応して生きる為の処世術として動かないという手段を使っているだけに過ぎない。実際には努力は必ず報われるというのは嘘である。仮に全く嘘でなかったとしてもそれはほんの一握りの可能性でしかない。繁栄の影にはその繁栄についていけない人は存在し、それを背にしているのが繁栄する社会である。まさに発展の代償が常につきまとっている。そして、その代償は社会の病巣としてつきることなく、社会につきまとうのであろう。

01.11.16

 私は今日、ソーダ水なるものを飲んでみた。ソーダ水とはつまり、水を炭酸飲料にしたものなのだが、これは私の率直な感想から云うと、美味しくない。何かむせるような炭酸の苦みが舌につきまとう絵ようで気持ちが悪い。私が買ったその水がたまたまそういうもので、私の口に合わなかっただけなのかもしれないが、どちらにせよ、このような冒険をするのは止めようと思う。でも、もったいないからこの水は炭酸を飛ばしてから飲むことにしよう。炭酸が抜ければ、抜けるほど、私も耐えられるものになっていてはくれるらしいから。

01.11.12

 雨上がりの午後は何とも清々しい。帰りの電車から見える風景は心地の良い。雨上がりの帰り道を傘をステッキ代わりにこつこつとやりながら進む林道の合間から聞こえる鳥の囀りは自然の象徴にも思えてくる。きらきらと光る木の葉は生命の伊吹を感じさせる。こうした中を歩いていると、自分が何とも小さな存在に思えて仕方がない。社会は弱肉強食の黒づんだ陰謀に心血を注いでいる。自然に比べればそんなものの大きさはたかがしれしている。それなのに、さらにそんなものに取り巻かれ、それに一喜一憂する自分の愚かさは考えると、私などないも同じである。そういえば、アフガニスタンの過去の美しさが今と比較させられ、取り立てて報道されている。それでも、荒んだのは人の浮き世で、自然はその偉大さを変わらず湛えているらしい。杜甫の「国破れて山河あり、城春にして草木深し……」であろうか。少し気が早いか。いや、それでも結局は、人のつくるものなどというものははかないのかな。

01.11.9

 子供が現在の世界情勢についてどう思うかという観点で行われた報道があったかと思う。子供たちは口々に「何故戦争をするのかわからない」「みんなで仲良くすればいいのに」といった何とも基本的な回答を行っている。彼らは非常に純真である。これらの回答はおそらく、殆どの人間が真に望んでいることであると思う。けれども、多くの人は対面や経済的な情勢ばかりを考えていて、最も考えるべき、単純な思考を失っているように思える。そういえば、アメリカの大統領はスピーチでよく“God”という言葉を用いる。この“God”はキリスト教の神を示すのかは私には分からないが、取り敢えず、神という超自然的な存在を表すには違いないのであろう。アメリカ人はキリスト教が多いらしい。そうするとやはり、キリスト教なのであろうか。いや、私が何を云いたいのかと云えば、キリスト教であるならば、ほおをぶたれても、もう片方のほおを差し出すくらいの度量はあるはずなのだが、ということである。多分、ぶった相手を原型が残らなくなるまで戦おうなどという発想は起こらないはずなのです。結局感情的になっているのは何時の世でも大人であって、子供は大人しく傍観せざるを得ないだろうか。

01.11.5

 “何故、人を殺してはいけないのか”という問いに答えが出せるであろうか。道徳というものは何かしらの根拠を持ち合わせているわけではない。その発展は人が社会生活に必要な秩序を維持する為にあるのであるから、確固たる証明がなされるはずはない。実際に、人を殺すと神が裁きの雷を下すこともなく、物を盗んだとしても、その物が妖怪に変化して自分自身を喰い滅ぼすと云うこともない。もし、これらの行いを自分一人を中心に考えるとしたならば、人を殺しても構わないし、物を盗んでも構わないのであろう。
 さて、では“何故、人を殺してはいけないのか”。そもそも、これは人間の道徳の根幹に近く位置する原則である。しかし、それを証明することは困難である。けれども、私たちはこれの証明されてもいない、曖昧な原則を遵守するのは何故であろうか。それはひとえに利益の ためであると私は考えるのである。人間は控えめに云っても欲のない動物とは云えない。むしろその逆で、他の動物以上にいろいろとものを欲求する。その第一の欲求というのが過剰な生命存続欲求である。野生の世界において、動植物の生存欲求は確かにその大きな欲求の一つであるが、彼らの最も重要な課題は種の存続であって個体の維持ではない。大抵は個体は種を存続させる ための道具としての役割以上には持たず、その生には執着しない。しかし、人間はその生に執着する。この時に、人間はその生を脅かすであろう脅威を少しでも取り除く ために自分の“殺人権”を放棄することによって、他の人間にもそれを強要するのである。一つの権利の売却によって、より有益な権利の獲得を目指すのである。 
 つまり、この契約によって、人間は“私を殺させない”権利を互いに承認したに過ぎず、その前提を放棄するならば、人を殺しても全く問題はないと云えよう。例えばこの前提従うならば、何人も虐殺している殺人鬼がいたとして、その者を殺そうとしている警察官、彼にはその気はなくとも、いずれ裁判によって死刑が宣告される殺人鬼にとっては同義であろう、を殺したとしても殺人鬼はその正当性を主張することができるのであろう。「私は私を殺ろそうとする者に対してまで、彼を殺させない権利を認めない」というのであろう。最も、当人は既に自らを殺させない権利を放棄していると云える。というのはこの権利は相互に承認されることによって生まれる権利であって、その一方に存在する“人を殺さない”義務を放棄している時点で、自らの権利も剥奪されているのである。しかし、権利を放棄した時点でその義務からも解放されるから、彼は正当な行動をしたといえる。 ただし、この時には殺人鬼を守る権利は既に失せているのであるから、彼を殺すのもまた正当であるといえよう。
 さて、こういった事態に対して強権を働かせるのが、人間の政治力といってよい。人間は他の動物に比べれば、牙も羽根もなく脆弱である。そのために動物が力を互いに生殖の ための決闘に用いている間に人間は合理的にその力を互いを守るために用いるのである。その中で生まれた道徳は人間の大きな知恵であるといえよう。故に人を殺すことは自由である。しかし、その後で皆の強権の前にひれ伏すことを拒絶する権利を対価に納める必要があることで、人間はその自由を放棄していて、最もそれが利口なやり方であるから、人を殺さない方がいいのである。

01.11.1

 現代社会にはマニュアルというものが横行している。私たちの身の回りの生活を見渡してもマニュアルは至る所に存在している。例えば、電化製品などには必ず付属されているし、私の目の前のパソコンを操作する ためには辞書にも似た厚さのマニュアルが付いてきて、さらにマニュアル本なのものまで購入する必要もある場合もある。マニュアルというものは非常に機能的な道具ある。知識のないものでも、そのマニュアルに沿って行動すれば大概は過ちから回避され、あたかも知識があるかのように振る舞うことができる。特に緊急事態に対応する ためのマニュアル等は日頃の行動は全く性質を異にしていて、それでいて私たちに正確に正しい行動をとる必然性があるような場合に備えるものとして効果的であると云える。時々、マニュアルの想定しない事態が生じてその対応の不備を言及される場合もあるが、それについては改めてマニュアルに加えれば、以降の同様の叱責を大方回避することができる。その積み重ねでマニュアルはより完成されたものへと近づいていく。
 さらに、その機能として何れの人が用いた場合も同様の行動がとれることである。これは大きな意味があるといえる。当然ながら、緊急事態には人の秩序は崩壊する。この時にマニュアル通りの行動を多くの人間がとるならば、その秩序はマニュアルがない場合よりは維持されるであろう。避難を行う場合、避難訓練の通りに行うことができれば、多分大丈夫なのであろう。無論、私自身がそういった事態を経験してしないこととマニュアルに想定されていない不測の事態の場合はマニュアルの力が及ばないとは思う。
 さて、マニュアルはそれだけの利便性があることは理解できるがはたして、その用いられる範囲は無限定でよいのであろうか。最近はマニュアル主義とでも云おうか、特にファーストフード店のような安価な労働力を利用する場所で、徹底したマニュアル指導というものが行われる。特に接客業で見られる対応マニュアルには違和感を感じる人もいるであろう。「いらっしゃいませ」「何々はいかがでしょうか」「ごいっしょに何々はいかがですか」同じ系列の店に行けば、その接客にあたる人間が始めに何を云って、どういった相づちをして、最後に何を云うか見当がついてしまう。確かにマニュアルは接客業に従事するものには最低限は必要であろう。例えば、ナイフのセットの仕方や料理の運び方、あるいはワインのつぎ方といったものはその技術として必要であろうが、しかしその一字一句同じセリフを繰り返す必要はあるのであろうか。そこには覚えて実践するべき立ち振る舞いという範囲を超えてプログラム化された非人格の強制にも思えてこないであろうか。そこにはコンピュータのプログラムと同様にAならばB、Cの時Dといった厳格なマニュアルに基づいて行動が行われ、人格や個性を必要としていない。
 そういったプログラム駆動的な行動はなるほど合理的で、効率的な側面を持っている。ファーストフードのような時間を商品価値に添付するような場合はのんびりと個性的な接客を受けるよりは打てば響く注文取りをするほうが商品価値を高めるのであろうが、時にロボットでも相手にしているような錯覚を受けはしないだろうか。目の前にいる彼はその人間的な仕草とは裏腹に同じことしか喋らずにいることが、彼の全人格的背景を無視してコンピュータのような道具と同一視しはしないであろうか。
 最近、定職に就かずにフリーターといったもの職業にすると気取る若者が増えているらしいが、彼らの多くは既に自覚した上で、その教化もそういったものであるとして消化するのであろうが、彼らの多くの受け皿となるような大規模経営型安価労働力需要企業には幾らかの弊害があるといえなくはないということを自覚する必要はあるのであろう。

01.10.30

 昨日の続きにもなるが、このダイアリーは、別に私の思うところを述べるだけで、それ以上に意味を持っていない。私自身が何か云ったとしてもサロンでの戯れ言のようなものだ。しかし、どうにもこういったことばかりいっていると何か基本的には確かにそうではあるけれども私が真面目な部類の人間であると誤解されかねないので、何か突飛な話をしよう。私はガイナックス作品といえば、まず一等に『不思議の海のナディア』を挙げる。エヴァンゲリオンはどうでもよい。何といってもナディアはいい。今日もナディアのDVDBOXを買って意気揚々としながら、楽しんでいる。しかも、明日にはレポートの提出を控えているこの身にもかかわらず、何ともいい加減な人であろう。といった程度には公言しておいた方がいいであろう。

01.10.29

 更新が随分送れたが、最近は何か忙しいようでなかなかゆっくりと文章を書こうという気になれなかった。ふと思い返してみれば、毎日、つまらないことを長々と述べているだけで、diaryというには些か不都合に思える。エッセイに改名しろというもっともな意見を頂いたが、全くその通りにも思える。粗末であることは確かだが、ダイアリー程の親しみさえ沸かない文章である。まあ、私としては個人的な空間であるから、気の向くままやるだけだけれども。

01.10.25

 私は人間社会というものと生物の生存と類似したものと考えることがある。というのは人間社会は生物の世界と同様に弱肉強食の世界であると感じるからである。古来より、人間社会には権力といったものがついてまわる。人類の歴史は強いものの支配と弱いものの隷従という構成しか見られないように思える。もっとも、この解釈は私の極めて乏しい史学知識によるものであるから、ある種の偏見の域を脱していないとは云えるが、ご承知願いたい。さて、こうして歴史は流れ、現代まで至るのだが、その基本構造は全く変化がないといってよい。何かしらの強者と弱者というのは現代もその地位を不動のものにしている。それはまさに食物連鎖の原理を彷彿とさせる。
 さて、では考察の単位を一つの企業に限定するとどうであろうか。生物は種を保存するために自己を最も適合した形に変化させる。私は企業のリストラや子会社、孫会社の切り捨ての報道を聞く度に企業も世界の情勢に合わせて、規模を縮小していらない部分を切り捨てる様はこれと同じ理論で成り立っているのであろう。つまり、弱者であるものは捨てられる生物の一器官と同じで、そこに権利などというものは存在しないのである。もし、私が突然誰かに刃物で斬りつけられたとする。この時、私は咄嗟に自分の腕で、その身を守ろうとするであろう。腕という器官は人間にとっては非常に重要な器官で、今も私の ために必死に動いてくれて、私の助けとなってくれている。しかし、人体の生存にかかわる重要器官にその脅威が迫っているのならば、この従順な腕の生存を考えることなく、防御の指令を与えるのである。この時に腕に抗命の余地は残されていない。これと同様に人間はポリス的動物であるとよく云われる。しかし、リストラの例に見られるように結局はボス猿を頂点とするヒエラルキー以外に生存の形態はないのではないか。
 一昔前に優生論というものがまことしやかに叫ばれていた時代があった。この思想こそ人間社会を最も動物的な野生社会と同一視した効率的な思想であった。勿論、効率的であったといっても私が優生論者でないことはご理解いただけるであろう。この優生論は最近では倫理というオブラートに包まれてその存在価値を抹消されたが、現代の資本原理をみるならば、結局はこの論理と同じではないであろうか。勿論、企業と人間を同一視して考えることは出来ないから、資本原理がもたらす、弱小企業の倒産はその範疇ではないのであろうが、その結果がもたらす世界には優生論の被害者と呼ぶにあたいし得る運命を背負うものが多いのではないであろうか。

01.10.24

 鏡というものを見ていると不思議な気持ちになる。勿論、それは別に私がナルシストであるとかそういう意味からではない。単に鏡のみせる空間が正確に現実の空間の対称的な世界を演出する効果に魅力を感じるのだ。幼心に、私は本当に鏡の向こうには現実の世界とは別の世界が存在していることを信じて疑わずに、鏡の中で私の前に現れた人間も、私と姿形を似せてはいるが、私とは全く別個の人格を持った異世界の民だと思っていた。そして、鏡に触れてもその先に行けないのは彼が私と同じように手を押し当てているからで、何もが鏡の世界に進むことができないのは全く同じタイミングで、同じものが現実と鏡の世界の境界でぶつかるからだと納得していた。だから、ふとして『ソフィーの世界』で、鏡の前の自分が瞬きをしてみせた様に彼もまた私と同じ動きをするというふうに考えて鏡を見つめていることもあったかと思う。
 実際に鏡が化学反応によってでき、その科学的な根拠を知ったとしても、その神秘性を薄めることにはならなかった。私は鏡にはやはり、理性を超越した異空間を感じる。太白が水鏡に映った月をつかまえようとして溺れたといわれるように鏡には人を引き込む魔力を感じる。私がこうして部屋の窓の外を見ていると反射して映る彼は何を考えているのであろうと不意に考えていることもしばしばあるのではなかろうかと。

01.10.23

 テロリズムは効果的な戦争方法である。最初に明言をしておくが、私は別にテロリズムに関して肯定の意を表すつもりは毛頭ない。むしろ、その残忍な行為に対しては強い憤りを憶えている。ここで、語る事柄は私が単に客観的に手段としてのテロリズムを捉えた時の考えをまとめているに過ぎない。
 冒頭の通り、私はテロリズムは最も合理的な戦争方法であると考えている。というのは、先ずテロリズムにお金がかからないからだ。それに加えて、テロリズムを行うに際して最先端技術を要求されないこともその利点の一つであろう。テロリズムに必要なものは小型の爆弾であったり、ナイフであったり、人の命と最低限の教育である。こういったものはテロリズムを起こそうという意欲のある人間ならば直ぐに調達が可能である。もし、これが最先端のスーパーコンピュータであったり、戦闘機であったりしたならば、並々ならない予算と技術を要求され普通、国家規模の財力を所持しない限り不可能である。さて、ここでテロリズムに必要なものとして人の命と述べたが、例えばそれに対して“人の命は地球よりも重い”といった人道主義の立場をとるならば、テロリズムの費用として加算されることはできないであろうが、ここでは人の命も補充可能な駒的な役割のみを抽出して考える。実際にテロリストが本気ならば、人命を重視させることはないであろうし、戦争となればすべての人間が無傷で帰還することはまずあり得ないであろうからだ。
 次に、テロリストが何処に潜んでいるか分からないという性質である。テロリストは名乗りを上げて旗を掲げているわけでもなく、それらしく武装して迷彩服に身を包んでいる訳ではない。一般人と変わりない格好でテロリズムとは無縁であることを装うことが可能なのである。その ために、テロリストは守備にも攻撃にも有利な位置を占めることができる。攻撃においては一般に紛れて何か攻撃を行うことは簡単だからである。
 そして、その性質こそ、テロリズムの最大の攻撃能力を秘めているのである。それはテロリズムが心理的圧力をかける点にある。人間は古来から目に見えないものを恐れる傾向がある。闇を恐れて恐怖のモンスターを想像するようにテロリズムにもそれと同じ様な効果が見られる。テロリズムは何時、自分の身に降りかかる災厄になりうるか予想がつかない点が恐ろしい。さらに、敵味方の識別が困難という点もその状況に拍車をかけている。何時自分の隣人が牙を剥けるか……ということは流石にないでしょうが、電車などの公共施設を利用する時、隣の人に恐怖を感じる時代が来るかもしれない。そういった恐怖を植え付ける心理攻撃がテロリズムの最大の武器であるといっても過言ではないであろう。呪殺という殺人方法がある。もっともこれが確固たる科学的な根拠に基づかれて確立された方法ではないから、実際にどれ程効果があるものであるか疑わしいが、この呪いという力はある種別の方法でその対象に圧力をかけていることは確かである。つまり、対象は自分が呪われたと感じることで、些細なことでそれが呪いの影響だと感じ、全く姿形のないものを恐れ、その精神的なストレスによって衰弱を誘う効果である。テロリズムも呪いと同様の効果を持っている。一連の炭疽菌疑惑によって出所の分からない白い粉はすべて恐怖の対象となり、様々な方面でテロ対策が叫ばれるようになっている。この状況こそテロリズムの恐怖を受けた世界であり、テロリズムの成功の証明であるといえよう。
 余談であるかもしれないが、この力を最大限は発揮させる力は報道の力である。どういった情報にしろテロリズムの所業は全世界の人間の目の当たりとなる。この影響で全世界に恐怖を伝染させることができるのである。
 こういった背景から、テロリズムほど、効率的に相手にダメージを与える攻撃はないと云える。さて、本来ならば、他の戦争の形態と比較検討するべきなのであろうが長く駄文を連ねるのも見苦しいので、というよりも疲れてきたので、ここで取り敢えず終止する。最後に私はテロリズムは憎むべきものであるという立場には変わりないということだけを強調しておく。

01.10.22

 日本の多くの学生というのは酷く不思議な性質を帯びている。ここで、日本と限定するのは私が、他国の学生との比較を試みるわけではなく、単にそれ以上の知識を持ち得ないからだ。さて、思うに日本の学生は信念というものがない。単純に教育制度の整備と資金的な余裕から、誰もが望めば大学に進学することがてきるという風潮が本来は決して大学とは縁のないであろう人間をある種の社会的強制によって駆動させている結果と云ってしまえば、それまでなのであろうが、それ以上に学生に特殊な感情を添付させる要因があるのではないかと考える。現在、日本の経済状態を考えるならば、学生が何の信念もなく、学業を疎かにしている状況が許容されるべき状況ではない。しかし、私の受験時代に口々に叫ばれる“大学に行ってから遊べばいいであろう”という文句に象徴されるような性質が実際に大学という空間に存在するというのも事実として認めざるを得ない状況である。
 さて、それは良いとして、実は私はこういった問題以上に恐く思えるのは単純な堕落よりも、そこからの変わり身である。就職という新たなる試練に向けて、高学年になるにつれて、現実性を取り戻した行動をとるようになるのである。何故、この行動を恐れるのかと云えば、私にはそれが純粋な就職意欲からの自律精神の芽生えには思えずに、何かしきたりを踏襲するような印象を受けるからである。自身の意思以上に「〜せねばならない」「するのが適当だ」といった雰囲気が何か感じられるのである。つまり、暗黙に敷かれた道筋に意思とは関係なしに支配されているように感じるのである。
 現在、私たちの生活には私たちに行動を起こさせる道具がたくさん存在する。例えば、新聞があるから読むというようなものである。勿論、これらは本来、使う ために存在するのであるから、何か情報が欲しいから、新聞を読むといように、新聞の存在は行動の理由ではないはずであるが、このように時に物が理由を提供する場合はないであろうか。そして、その理由は暇つぶしからではなく、生活の主体的な行動としての位置を占めてはいないであろうか。
 私には、現実に生きる人間がこういった自分の意思とは関係なしに事物の意思に従って生きているように思えるこの世の中が一番人間が危惧するべきものに思える。もし、人間が意思を失って、反応に従って生きるようになれば、それは人間としてのアイデンティティも持つのか疑問視されるかもしれない。
 私は本当にこの駄文を書きたくて書いているのか、それともツールによって書かされているのか、という判断に迷うところである。

01.10.20

 民主主義という言葉を最近はよく耳にする。それは、ある国が自由と民主主義のために立ち上がろうと声高に叫んでいるからであろう。私は、疑問でならないのは、彼らは何故、自由と民主主義に対する人類への挑戦としているのか、その根拠が見当たらないのだ。そのどちらも脅かされてはいないように思える。もし、あるとすれば、世界を戦争へ駆り立てる事由としているといったものにしか狭小の知識の私には考えられない。大義名分の確立というのが目的なのであろうか。そういえば、大義名分といえば、人類の戦争において、何かとこの大義名分を作りたがっている。何か精神のよりどころとしてこの大義名分は必要とされている。しかし、よくよく考えれは、大義名分を捻出する必要があるという時点で、それが正義の名の下に行われているわけではなく、単に欲望に忠実に戦いを利益としてとらえているに過ぎない。私は真に正義の名の下に行われた戦いというものを数え上げることすら出来ないのだが、実際にそういう戦争はあったのだろうか。

01.10.19

 人の精神の根幹には果たして常に発展を続け、自己の生活を豊かにしたいという欲求は存在するのかをふと疑問に思う。昨今の技術革新の波は凄まじく、ほんの一昔前まではインターネットいとうまさにこのツールも決して一般なものではなく、通信手段はせいぜい電話ぐらいなものであった。こういった時代の変遷が良いものであるかどうかに対して触れるわけではないけれど、それを眺めていると人類の欲求は酷く、前に進みたくある傾向にあることを痛感するようになる。しかし、本当に人はこういった技術の変化による生活の向上を望んでいるのであろうか。私には、この発展が人の意志を越えた超越的な存在の所業に思えてならない。確かに、技術を欲するのは人間の性かもしれないが、別になければないで、要求はしないであろう。何か、存在するから要求するだけに思える。この存在が私には大きな力の源に思える。この存在を作り出しているのは当然、人間であるが、それを作り出す人間自身は存在を作ることで、利益を上げることが目的で、作っているだけで、進むことは目的ではないと思う。進めているのは利益であって意志ではない。これは何とも不思議な感覚で、旧約聖書のバベルの塔の成立の理由とは全く反対の理由で、人類が進みつつある。こうした不思議な前進がもたらすものは一体どの様な世界なのか恐いように思える。前進の副産物で存在する欲望は実際は本当は望んでいない欲望を欲望だと思って邁進するのではないであろうか。そして、この欲望には人間の欲望とは本来離れたねじ曲げられた欲望に発展して、純粋な欲望以上の威力で、人間に襲いかかるのではないであろうか。
 ……今日は特に酷い駄文だな。

01.10.17

 今日はThe other ruleを更新した。やはり、できたてと云うだけあって、更新の頻度は高い。もっとも、これは完成度の低さを如実に物語っている証拠ではあるが。それはさておき、このThe other ruleでは、普段は起こらないような特殊な状況に対するルールである。ルールというものは何もかも原則ばかりでは済まないと云うことを何か実感した思いである。よく云われる“Every rule has its exceptions”という言葉をふと思い出してしまう。これは全くの私感なのだが、例外という存在は何か秩序ある人の世界には絶対的に存在しなくてはいけないようなものに思える。別に世界が例外を求めているわけではないのであろうが、例外、きっとそれは混沌を引き起こす要素なのであろうが、というものが存在しない限り秩序が維持できないのではないであろうか。いや、秩序を求めながら、その姿勢を貫こうとする傍らで、心が混沌を求めているのではないであろうか。私にはこの命題を証明する知恵も時間もないし、誰の同意を得られたわけではないけれど、そう感じさせられるのは私だけであろうか。

01.10.16

 今日は掲示板を探してきて、貼ってみた。何かこれで一つコンテンツが充実したかと思うと大した苦労をしているわけではないけれど、達成感というものがある。掲示板というものは私の介入しない間に第三者が自由に私のページにアプローチをすることが出来るという画期的なものであるが、その性質上、悪用が可能である点は何とも社会の弊害であろうか。私はここに来てくれた皆さんを信じて決して公序良俗に背いたことをしないことを願うだけである。
 ついでにThe other ruleも作成したが、それはまた今度にでも何か述べよう。

01.10.15

 某国のグローバルスタンダードの強要を背景に始まったテロ国家VSテロリストの戦争を前にして、私は大学の帰りの電車の中で乳母車の幼児をあやす女性の姿が見える。おそらく、彼女は母親であろうか、幼児は楽しそうに声を上げ、微笑みを讃えている。この風景を見て、ある人は子供を騒がせる駄目な人だと、母親を責めるかもしれない。また、これが逆の状況になると、つまり、母親は喜ぶ権利を幼児から取り上げて、確固たる公共マナーを遵守することを強制するという光景を見るならばどうであろう。世界的な基準が出来たとしてその基準がいつも当人の ためになるとは云えるのであろうか。この場合、彼にとっては母親から何れかが与えられるであろう二つの権利を選ぶことはできないが、たとえ、得られたとしてもどちらも必要な要素であることは云うまでもないであろう。前者を非難した人間が後者の光景に苦虫を咬む可能性がないとは否定できない世の中で、果たして厳然たる基準は必要であろうか。いや、その基準を敷くこと自体が可能なのであろうか。勿論、そこから得られる利益の果実は甘いのであろうが、それを拒絶する人間にまで、偽善でするない悪意の笑みを浮かべて強制することは意義ある行為といえるのであろうか。

01.10.14

 ついに長年の悲願であったホームページ開設を果たし、気分もひとしおと云うところで、早くもTRPGのルールとしては明らかに欠落した部分を発見し、早急に対処を進める。何とも発行から数時間の間に変更されるページというのも何か悪く思える。先の不安を象徴する出来事のように思う。